“それ”は元々この世界に属する存在ではなく、自ら望んでこの世界にやって来たわけではなかった。強いプシオン波動に引き寄せられる性質を持つ“それ”は、狂喜・悲嘆・憎悪・願望・祈念といった様々な“渇望”の持つプシオン波動によって、形の無い世界から形を記した世界へと、一刹那だけ揺らいだ壁を越えてやって来た。
壁を越えたときの衝撃で“それ”は12に分裂し、そして“それ”を引き寄せた人間に宿った。
“それ”が存在し続けるためには、プシオンを吸収し続けなければならない。しかし“形ある世界”において“それ”は独力でプシオンを吸収することができず、プシオンを集められる“形あるもの”と一体化しなければならなかった。
本体だけの状態で何度も力を行使した結果、“それ”は形ある世界に来てから貯蔵していた大量のプシオンを失っていた。しかも超高圧のサイオンを纏った爆発をその身に受けたことで、物質次元に侵入していた部位を大きく削り取られた。“それ”が存在し続けるために不可欠な要素というわけではないが、このままでは次元物質に干渉することができなくなる。
“それ”には宿主の隠された思考や抑えられた衝動を増幅する性質があるが、“それ”自体に高度な思考力が存在するわけではない。“それ”に備わっているのは生存本能だけであり、その本能によって今の自分では意思ある生物の意識を穿ち新たな宿主とすることは困難であると悟っていた。
どこか休む場所が必要だった。
例えば、意思を無くした生物に流れる血液の中、とか。
例えば、人の形を与えられたことによってプシオンを集める意思無き人形の中、とか。
ふらふらと虚空を漂っていた“それ”は、第一高校の敷地の端に建つ倉庫の中で、休むのに打って付けな“器”を見つけた。
* * *
掌の中にサイオンを集めて握りしめるという行為は、達也が“術式解体”を行使する際に用いるイメージである。通常ならばそれを起動式や魔法式に叩きつけるが、今回は情報体の作用している実体を手掛かりに座標を特定するのではなく、情報の次元のみにおいて座標を特定することを目指していた。
握っていた手を開く。腕を伸ばすようなことはしない。情報次元に意識を集中している今は、物理的な方向性のイメージとなる動作は却って邪魔になる。
標的である孤立情報体(式神の一種らしい)に座標を重ねるようにして、達也が放ったサイオンの塊が情報の次元・イデアに出現した。物理次元では複数の物質が同時に同一座標に存在することはできないが、情報次元ではそのような制約は無い。
しかし圧縮の状態から解放された達也のサイオンは、孤立情報体に何の影響も与えずに拡散して消えた。
「くっ――」
悔しそうに声を漏らす達也の反応を見て、心配そうに彼を見守っていた深雪がその結果を悟り、的作りに協力していた八雲はいつもと変わらぬ飄々とした表情を浮かべた。そして彼らから少し離れた場所では、寺の本堂の縁側に座っていたエリが、特に反応を見せることなくじっと彼らを眺めている。
「さすがの君も苦戦しているねぇ。まぁ、できない人間はどんな努力をしてもできない類の技だからね、これは」
八雲の突き放したような言い方に、深雪がキッと殺意の籠もった視線を彼に向けた。それでも表情を変えないのはさすが、と言いたいところだが、こめかみの辺りに冷や汗らしきものが浮いているように見えた。
「3日で
取り繕うように慌ててそう言った八雲に対し、それでも深雪の眼差しが和らぐことはなかった。
パラサイトと第一高校で接触してから、今日で1週間。達也たちはその翌日から八雲に修行を願い出て、今日でちょうど7日目となった。
確かに達也は3日で情報次元に遠当てを放つことができたし、並の修行者からしたら充分素晴らしいスピードだ。しかし元々イデアに漂う標的を認識することができたという大きなアドバンテージを考えると、達也はどうしても自分に対して肯定的な評価を下すことができなかった。
もっとも、それ以上に達也が才能の壁を痛感する出来事があったのだが。
「……なぁ、エリ。何かコツみたいなものは無いのか?」
「うーん、そんなこと言われてもなぁ……。凄く感覚的なことだから、上手く言葉にできないというか……」
達也が情報次元に遠当てを放てるようになったその3日間で、エリは情報次元の標的をサイオン弾で撃ち抜けるようになっていた。しかもそれはエリだけでなく、傍でその訓練を眺めていた厚志も見様見真似で(プリティ☆ベルに変身したら、という条件付きで)できるようになっていた。
そんな成功体験が身近にあって自分だけが成功していない、となれば、達也でなくても焦りを覚えるというものだろう。
「正直エリちゃんや厚志さんの方が稀なケースだから、あまり比べない方が良いと思うよ。――それに適性の有無は結果でしか分からないところもあるし、今日できなかったことが明日突然できるようになったとしても不思議じゃない」
「しかし師匠、その“いつか”を待っていられる状況ではありません」
「確かにその通り。君の場合はどこを狙えば良いか分かるんだから、遠当てとは別の攻撃手段を編み出すのも1つの手だと思うよ」
八雲の提案に、達也は失礼だと知りつつも苦笑を漏らしてしまった。
「そんなにホイホイと新しい魔法を開発できるわけではありませんよ。行き詰まってるのは認めますが、それにしても買い被りすぎです」
「えぇっ、そうかな?」
達也の言葉に否定を返したのは、直接言われた八雲ではなく傍で聞いていたエリだった。
「達也さんって術式の開発とか改良が得意でしょ? 既存の術式が自分に合わないと思うんなら、自分の使いやすいように改良しちゃった方が、達也さんにとっては早いと思うんだよね」
「その通りです、お兄様! お兄様なら必ずや、余人には考えも及ばないような素晴らしいアイデアを実現できます!」
もはや激励を通り越して断言する勢いの深雪に、達也は苦笑を抑えるので精一杯だった。
「まぁ、今はまだどちらかに絞る必要も無いんじゃない? 術式解体での直接攻撃も、新しい術式の開発も」
「……エリは俺を過労死させる気か?」
「大丈夫だよ、達也さん! そうなる前に“再成”するから!」
実に良い笑顔でサムズアップして答えるエリに、達也は呆れ果てるように手を顔に当てて首を横に振った。
しかしそのジェスチャーとは裏腹に、達也の口元には笑みが浮かんでいた。
「…………」
そんな2人の遣り取りを、深雪がどこか羨望にも似た眼差しで見つめていた。
「――よし、それでは師匠、次の的をお願いします」
しかしそれも、達也がその台詞を口にしたときまでだった。深雪は静かに目を閉じ、そして次に目を開けたときには、直前まで目の奥に潜んでいた羨望は姿を消し、純粋に兄を心配する妹の姿となっていた。
達也のリクエストに八雲は頷き、すぐさま情報次元に孤立情報体を生成しようとして、
プルルルル――。
達也のポケットにしまっていた携帯端末が着信を知らせ、特訓に入ろうとしていた達也の動きが止まった。一瞬取ろうかどうか迷っていた彼だったが、八雲に断りを入れてからそれを取り出して画面に目を遣った。
「――――!」
それを見た達也の目が、ほんの少しだけ見開かれた。
画面には、“北山雫”と表示されていた。
* * *
「すまない、みんな。せっかくの日曜に集まってもらって」
厚志家の居間で達也がそう話し掛けたのは、エリカと幹比古の2人だった。部屋の真ん中で座布団の上に座っている2人の周りには、この家に住んでいる面々+深雪の姿もある。
「構わないわよ、達也くん。それで、吸血鬼について何か分かったの?」
達也の言葉に、エリカは“わくわく”と書いてあるような晴れやかな顔で尋ねた。ここに美月とほのかを呼ばなかった辺りから、今回の話が吸血鬼に関連することだと思ったのだろう。彼女の勘の良さに、達也の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「エリカの想像通り、今日呼んだのは吸血鬼に関連することだ。今回の一連の事件を引き起こした“黒幕”について、有力な候補者が出てきた。厚志さん達には先に話していて、吸血鬼捜索に参加していた2人にも話しておいた方が良いと判断したから呼んだんだ」
「“黒幕”ってことは……、そいつがパラサイトを呼び寄せたってことかい?」
幹比古の問い掛けに、達也は首を縦に振った。
「今回呼び寄せられたパラサイトは、USNAで実施された“余剰次元理論に基づくマイクロブラックホールの生成・消滅実験”によって次元の壁に穴が空き、そこからパラサイトはこの次元にやって来た。ここまでは良いな?」
「うん、聞いてるよ。理論については、全然意味分からないけど」
「そこで俺は、過去に同じような実験が行われていないか雫に調べてもらうよう依頼した。――特に、今から4年前を重点的に」
「4年前? なぜ?」
幹比古が尋ねると、達也は視線だけを深雪へと向けた。彼女は口を引き結んで彼の視線に頷きで応え、達也は再び2人へと視線を戻す。
「今から4年前、俺はパラサイトに憑依されていたと思われる人間を目撃している」
「――何だって!」
達也の言葉に、特に幹比古が驚きの声をあげた。それもそうだろう。彼の常識では『本物の魔性が人間に害を成して術者がそれを退治するなんて緊急事態が発生するのは、世界的に見ても100年に1回有るかどうか』なのだから、同じ国で4年という短いスパンで、しかも同じ魔性によって人間に害を成したという事実を咄嗟には受け入れられなかったのである。
達也の言う“パラサイトに憑依されていたと思われる人間”というのは、4年前、初めて厚志達と出会ったときの沖縄旅行の最中、大亜連合が攻めてきたことで避難した基地において、深雪を死の淵に追いやったあの少女のことである。
本人には深雪を襲ったことはおろか、凶器である手榴弾を所持していた記憶すら無かった。しかし魔法によって操られていた痕跡は無く、もし本人の証言が事実だとすれば、彼女が手榴弾を手に入れたときと深雪を襲ったときだけ操られていたという、非常に都合の良い洗脳魔法を掛けられていたことになる。
そのとき、それを聞いていた真田大尉(当時は中尉)はこんな感想を漏らした。
――「それこそ、その魔法自体に“意思”が無いと難しいですね」
「もちろん俺は専門家ではないから、当時パラサイトが憑依したなんて分からなかった。今も確証があるわけではないが、パラサイトに憑依されていたとしたら色々と腑に落ちる点はある」
「成程。つまり達也くんは、そいつが本当にパラサイトに憑依されていたかどうか確かめるために、同じような実験が過去に行われていないか調べてもらったわけね」
「そういうことだ。そしてその結果が、数時間前に雫から届いた」
達也の前振りを聞いた2人は、早く結果を聞かせてくれ、と言わんばかりに前のめりになっていた。そしてその周りでは、厚志達が何とも微妙な表情を浮かべていた。
そして幾つもの視線を一身に受けながら、達也は口を開いた。
「いいや、例の実験が行われたのは今回が初めてだ」
“何も起きなかった”と結論づけるのは、“何か起きた”と結論づけるよりも難しい。後者より調べる範囲も深さも段違いに大きくなり、その手間も並大抵では無くなる。なので達也は、結論までにもっと時間が掛かるものだと思っていた。雫に協力している者は、よほどの手練れなのだろう。
それを聞いたとき、エリカは明らかに残念そうに首をすくめ、幹比古はむしろ安心するように胸を撫で下ろした。
「そっかぁ……。ということは、達也くんが会ったその人はパラサイトに取り憑かれていなかったってことだね」
しかしエリカのその言葉に、達也は静かに首を横に振った。
「いや、そうじゃない。むしろ俺は、その結果によって“黒幕”の正体に思い至った」
「……どういうことだい?」
「ここから先は、私が話すよ」
達也の後を引き継いで2人の前に出たのは、厚志だった。
「4年前、プリティ☆ベルだった私とエリちゃん、そして他のみんなは、とある奴と戦っていた」
「あっ! 確か横浜事変の後に厚志さん達からプリティ☆ベルのことを聞いたときに、一緒に話してましたよね? 確か、えっと――」
「ナイアルラトホテップ、じゃなかったっけ? クトゥルフ神話に出てくる奴と同名の」
「そう。さすがだね、幹比古くん。――そいつは1人の女の子を言葉巧みに操って“魔女っ子”に仕立て上げ、そしてその力を利用して世界を滅ぼそうとした。現にその子の力はかなり強力で、実際に世界は滅亡の危機に晒されたんだ」
「それを厚志さんやエリちゃん達が解決した、ってことですよね?」
エリカの確認とも取れる問い掛けに、厚志は頷いて答えた。
「そのときに使用したのが、魔界を繋ぐ門にして門番たる神である“ヨグ=ソトース”だ。その門が開かれるとそこから“魔界”が溢れ出し、やがて世界は魔界に呑み込まれて消滅する。ヨグ=ソトースは四大魔王が開発した核兵器でも壊れない耐久力を持ち、しかも一度開くとたとえ壊れても閉じなくなる。まぁ、その辺りについてはあの子が
ここで言う“魔界”というのは、普段魔族が住んでいる世界とは微妙に定義が異なる。この場合における“魔界”とは、魔族が生まれる元とされている“様々な負の思念が渦巻いている世界”であり、魔族が死んだときはこの思念の渦に呑み込まれて融けて消える、と言われている。
「――――!」
厚志の説明を聞いていたエリカと幹比古が、ほぼ同時に何かに思い至って目を見開いた。
「2人共、気がついたみたいだね。――4年前のパラサイトはおそらく、ルラの手によってヨグ=ソトースからこの世界にやって来たものだ」
「つまりその門が開く原因を作ったナイア何とかが、世界を滅亡の危機に陥れるのと同時進行でパラサイトをこの世界に呼び寄せて、それを人間に憑依させたってことですか?」
幹比古の口から改めて説明されたそれに、前もって聞いていたはずのミルココ達が苦い表情を浮かべた。自分達が世界の危機と戦っていたその裏で別の計画が動いていた、となればその想いも如何ばかりであろうか。
「何て用意周到な奴なの……。というより、同時にそんなことができるんですか?」
「というより……、本当に今回の事件もそいつの仕業なんでしょうか? いえ、確かにこの短いスパンで同じ魔性が、しかも同じ国で人間に害を成すなんて、同一人物じゃなければ考えられないのかもしれませんが……」
エリカと幹比古の質問に、そういう反応をするのが当たり前だよなぁ、とミルココ達は2人を見守るような温かい目をしていた。最初に達也から仮説を聞かされたときも、ルラのことをよく知っていた彼女達でさえ咄嗟には信じることができなかったほどである。
しかしルラのことをよく知っていた彼女達が、それを理由に現実を読み違えるようなことはしなかった。
「確かにあいつが犯人だっていう証拠を得たわけじゃない。でもあいつが犯人だって可能性が生まれたんなら、もはやそれが事実だと仮定したうえで行動した方が良い。あいつは、それほどの奴なのよ」
「それに世界を滅亡に追いやるのと同時にできるのか、っていう疑問についてだけど……。おそらくヨグ=ソトースを顕現させるように仕向けたルラと、それを使ってパラサイトを呼び寄せたルラは“別人”なんだと思うよ」
厚志のその言葉を聞いて、エリカと幹比古が目を丸くした。
「――えっ? ちょっ、ちょっと待ってください! そのルラって奴は、もしかして何人もいるんですか?」
「元々は1人だったんだと思うけど、自分で何人もクローンを作っているんだよ。だから本当は何人いるのか、私達も把握し切れていないんだよね……」
「世界を滅亡に陥れるような奴が何人もいるって……。いったいどうなってるんだ……」
あまりにもスケールの大きな話に、エリカも幹比古も圧倒された様子である。しばらくはボーッとしたように曖昧な顔つきになっていたが、やがて落ち着きを取り戻した2人は冷静な顔つきで頭を巡らせる。
「……でも仮にそいつが犯人だとして、そいつって初代プリティ☆ベルの頃からずっと世界を滅亡の危機に陥れているんだよね?」
「うん。もう30年以上になるかな」
「そう考えると、どんなストーカーよりも悪質で変態的だよね……」
「……ってことはさ、今回の吸血鬼事件が終了したとしても、多分近い内にまた何か仕掛けてくる可能性は充分にあるよね?」
「うん、それは普通に有り得るね。――というより、実は既に何かしら仕掛けていたり、裏で仕込みの最中なのかもしれないよ。私達が気づいていないってだけで」
「ということは、今回侵入したパラサイトを片づけただけでは、根本的な解決にはならないってことか……」
幹比古の沈痛な言葉が、水面に生まれた波紋のように部屋全体へと伝達していった。部屋にいる全員が、彼の言葉でそれぞれ表情を引き締めた。
「最初にパラサイトを呼び寄せてから3年以上も沈黙していた、っていうのも不気味なんだよなぁ……。いったいルラは何を企んでいるのやら……」
「まぁ、それもこれも、全てはパラサイトそのものへの対処法を考えないことには、どうしようもないんだけどね。――というわけで、幹比古。パラサイトの封印ってできる?」
ココアの問い掛けは唐突なものだったが、幹比古は特に慌てる様子も無く顎に手を遣ってしばらく考え込み、
「……この間の襲撃での様子を考えると、万全の状態での封印は難しいけど、弱っている状態だったら僕でも封印は可能だと思う」
「だとしたら、パラサイトを直接叩くのでも憑依された人間を気絶させるのでも何でも良いから、とにかく弱らせた後に幹比古に封印してもらうっていうのが確実か」
「んで、いつにするの?」
目をギラギラさせて前のめりになるエリカに、ミルココは苦笑を浮かべながら、
「第一高校を襲撃した例のパラサイトの行方をまだ掴んでいないから、そいつの居場所が明らかになったらだね。まぁ、あまりに時間が掛かりそうだったら、とりあえず残りの11体を前倒しして取り掛かることも有り得るけど」
「それまではこっちも、色々と準備することがあるからねぇ。具体的には、パラサイト封印に協力してくれる人探しとか、……
「封印した後の……っていうのは?」
「そりゃミキ、パラサイトを狙っている奴らへの対処って意味よ。そうでしょ?」
疑問の表情を浮かべる幹比古に対し、エリカは即座に発言の真意を汲み取ってみせた。どちらかというと直情的な性格をしている彼女ではあるが、むしろこういった方面では達也の友人の中でも頭の切れる方である。
「というわけで2人共、こっちが指示を出すまで勝手に吸血鬼捜索をしないでよ?」
「分かってるって! その代わり、いざ捕まえるってなったらちゃんと呼んでよね?」
「殺さずに捕まえる、って約束してくれるのならな」
達也のその言葉に、エリカは満足そうな笑みを浮かべて力強く頷いた。
* * *
深夜の横浜中華街。
基本的に店の営業時間が過ぎて片付けが終了したら、店の電気は消灯される。なので中華街は夜遅くになるにつれて暗くなっていくのだが、店によっては一晩中営業していることもあるし、店を閉めてからプライベートの時間に突入する店主もいるので、完全な闇に包まれることは無い。
その中華街の中でも一際人気な店のオーナーであるその若い男も、営業時間を終えた後もその電気を完全に消すことはせず、まるで水のように透き通った清酒をゆっくりとグラスに注いだ。蒸留していないのに無色透明という、実に不思議で上品な印象を受けるこの酒は彼が特にお気に入りのものだった。
グラスを小さく揺らすことで、中の氷がカラカラと鳴った。それをクイッと小さく傾け、ゆっくりと味わいながら喉へと流し込む。ホッと息を吐き出して静かに微笑むその姿は、まるで流行りの映画のように様になっていた。
「何だろうな。おまえのそういうところを見てると、何だか無性に腹が立ってくるよ」
そしてその映画を鑑賞していた
そこにいたのは、営業時間を過ぎた深夜の中華料理店にはどこまでも似つかわしくない、10歳前後に見える少女だった。光の反射具合で淡いピンク色にも見えるショートボブの彼女は、知っている者が見れば、初代プリティ☆ベル・桃地美雪と瓜二つであることに気がつくだろう。
そして現在そいつは、普通にしていればとても可愛らしいその顔をニヤニヤと歪ませ、しかしそれに反して鋭い目を彼へと向けている。
「せっかくですから、あなたも一杯如何ですか?」
「悪いけど、
その少女――ルラの言葉に、彼――
表向きは人気中華料理店のオーナーである周だが、他にも幾つか顔があった。
例えば大亜連合の圧政から逃れて日本に漂着する亡命希望者を第三国へ送り出す、いわゆる“亡命ブローカー”としての顔が比較的有名だ。単なる亡命の手助けだけでなく、そこで反大亜連合活動を行う資金の提供も行っている。
またそれとは逆に、大亜連合のスパイのような役目も担っている。正確にはスパイの現地協力者であり、昨年10月の横浜事変において大亜連合軍工作部隊を手引きしたのもその一環だ。
そんな周にとって、“ルラの協力者”というのは比較的最近できた新たな顔だ。元々は周の
「パラサイト……あぁ、世間では“吸血鬼”って言うんだっけか? せっかくだし、そっちに合わせるとしようか。――吸血鬼の密入国の件では、色々と世話になったな」
「いえいえ、それが私の仕事ですので。――しかし意外ですね。ただ礼を言うだけならば、それこそ電話の1つで充分事足りるはずです。それなのに、わざわざこうして自分から出向いてくださるとは」
「ボクは優秀な働きをした者には、それ相応に振る舞うことにしているんだ。特に君は今までボクに従った奴よりも優秀だからね、気に入っているんだよ」
「ふふふ、天下のナイアルラトホテップから、そのような言葉を頂くとは……」
周はそう言って再びグラスに酒を注ぐと、窓から見える月を眺めながら口に流し込んだ。
そしてそれを呑み込むと、再びルラへと視線を向ける。
「それで、本当はどういったご用件なのですか?」
「いやいや、君に対して何々というわけじゃないんだよ。ただボクは“学者”でね、自分の手で開発した技術の実験結果は、自分の目で確かめたくなるものなんだよ。今回はそのついでで寄らせてもらったんだ。あまり気にしないでくれ」
「つまりあなたは、私を労うために来たわけではないということですか。それは残念ですね」
「残念に思うんなら、少しは残念に見えるように行動しろ」
「おや、これでも残念に思っているのですが」
「人に伝わらなかったら意味が無い」
「ふふっ、確かに」
普段から丁寧口調を崩すことなく、そしてそれによって自らの胸の内を隠し通している周だが、ルラと話しているときの彼は些か素の部分がちらちらと見え隠れしている印象があった。もっともそれ自体が、周が意図して見せているものだという可能性が充分にあるので、はたして本当の素かどうかは不明であるが。
周はグラスを揺らして氷を鳴らしながら、ちらりとルラへ視線を向けた。
ルラはソファーの手摺りに頭を乗せて仰向けに寝っ転がりながら、携帯ゲーム機のようなものを操作していた。そうして眺めていると、完全に女の子がゲームで遊んでいるようにしか見えない。
「そのモニターが、現在日本にいるパラサイトを追跡する装置ですか?」
「まぁね。自分で呼び寄せたものの居場所くらい、自分で把握できなきゃ駄目だろう? パラサイトに関してだけ言えば、この装置は
ルラは装置の画面に視線を固定したままそう言って、次の瞬間に堪えきれないようにプッと吹き出した。
「と、自信満々に言ってみたものの、残念ながら現在1体の居場所を把握できていないんだよね。どうやら意識も無いほどに弱ってしまうと、さすがにこの装置でも感知が難しいらしい。実験の機会自体が限られていたとはいえ、もう少し対策を練っておくべきだったね」
「おやおや、あなたともあろう方が珍しい。ですが、あまり悲観しているようには見えませんね」
「直前までいた場所と、その後にパラサイトが本能的に行きそうな場所を考えたら、まぁ大体予想は付くさ。――それにせっかくだし、そいつを使って
「……随分と、楽しそうですね」
クククッ、と笑うルラの姿に、周にしては珍しく思ったことを素直に口に出した。
するとルラは、いかにも悪巧みしているといった笑みを彼へと向けて、
「あぁ、かなり楽しいよ。今までは魔族や堕天使を利用してきたけど、今回は趣向を変えて“人間のみ”だからね。ゲーマーが夢中になって縛りプレイをやる訳がよく分かったよ」
ルラはそう言うと、手に持っていた装置を放り出してソファーから立ち上がった。そして厨房の方へと歩きながら「何かジュースみたいなのは無いのか?」と周に呼び掛ける。
本当に子供みたいだな、と周は心の中で思いながら「冷蔵庫の中にあるものはご自由にどうぞ」と返した。