いつも地面を叩きつけるように降りしきっている冷たい雨が、今日だけはシトシトと優しく世界を濡らしていた。薄い灰色に色素を奪われた森に、自然とできたデコボコの緩い上り坂を私は進んでいた。使い古した外套のフードを突き破っている、両方の側頭部から斜めに生えた忌まわしい角はすっかり雨水を滴らせている。
(なんだか、あの日を思い出すな……)
この世界では人間が突然魔族になってしまう『呪い』と呼ばれる現象があった。私の場合はもう二十年くらい前の話になる。突然角が生えて体中に赤い文様が浮かんだ私を、優しかった両親も村の人みんなも殺そうと追い立ててきた。殺されなかったのは運が良かったからではない。ただ一人だけ、私の味方がいてくれたからだ。泣きじゃくる私の手をその温かい手で引きながら、雨の降る森の中を力強く進んでいくその背中は、当時同じ背丈だったのにとても大きく見えたのを今でも覚えていた。
感傷に浸っているうちに森の道は終わりを迎え、草原に出た私の視界は一気に広がった。周囲を見渡して、目的の相手を探す。幸いにも彼の姿はすぐに見つかって、つい頬が緩む。この二十年で本当に私より大きくなったその背中に近づいていくに連れて、心臓は優しく鼓動を速めた。
「お身体に触りますよ、魔王様、数日中には勇者との決戦なのですから」
声を掛けると、彼はゆったりとこちらを振り返った。私の物と違い、穴の空いていないフードの下から赤い文様に似せた入れ墨を施した見慣れた顔が覗く。私の顔を見た彼が薄く微笑むと、私の口角はさらに持ち上がりそうになった。
「ルア」
彼が私の名前を呼ぶ。その雰囲気だけでなんとなく、彼が続けようとしている言葉が何なのか察した。
「今日は、戻りたい」
案の定、その言葉が紡がれた。私達、二人きりの時だけの、仮面も呪いも重荷も全部捨てられる、解放の呪文だ。ある意味、世界を救う言葉でもある。今この瞬間だけは、この世界から魔王とその幹部は消えて、代わりに残るのは幼馴染みの男女だけなのだから。
「……いいよ、テル」
私は笑顔を深めた。
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「テルと二人きりだとさ、いつも思い出すんだよね。二人で『呪い』を解くために冒険したのをさ」
テルと並んで草原に腰を下ろし、私はこれまた数年前になってしまった記憶を思い出す。『呪い』さえ解ければ、私は人間に戻れる。そう信じて、私達は二人だけの冒険を続けた。
「そうだね。そして『呪い』の根源を突き止めて、ルアが思い切りぶっ壊した。積年の恨みが籠ってたね、あれは」
「そりゃあね。でも、これでようやく戻れるんだー、って思ったらさ。全然そんなことはなくて」
『呪い』の根源を絶っても、私の体は元に戻らなかった。言葉にしてしまったせいか、その時の気持ちがつい湧き上がってきて、私は自然と両手で抱えた膝をさらに強く抱き締め体を丸めた。手の甲に落ちた雨粒は、その時何度も流した涙にそっくりだった。
その様子を見せてしまったからか、テルは申し訳なさそうに言った。
「……ごめん。あの時は気の利いた事一つも言えなくて」
そんなテルを見た私は首を振った。
「ん-ん。全然。だってテルはそれからも一緒にいてくれたじゃん。それで十分だったよ」
テルの為に作ってでもと思ったが、彼への感謝が自然と私を笑顔にしてくれた。おかげで彼も優しく微笑んでくれて、安心してくれたようだった。
「思った風にはならなかったけどさ、それでも根源を壊してから、もう人間が魔族になることはなくなった訳だし、つまり私達は世界を救ったんだよ。今度戦う勇者たちよりも勇者だよ」
「そんな勇者が、今や魔王とその幹部だからね」
「ホントだよ、酷過ぎない?」
冒険を終えた私達が次にした事は、私と同じように魔族になってしまった人達を助ける事だった。そうして世界中を周って仲間を集めていき、ようやく全員を集められたと思った時には、世間から私達は魔王とその幹部と呼ばれるようになっていた。そんな私達を人間が放っておくわけもなかった。
「でも、これでもう終わりだよ。噂は流してくれたんだろ?」
「……うん。魔王が死んだら他の魔族も全部滅びるってやつでしょ? きっと向こうは信じ込んでるよ」
「みんなの避難は?」
「完了済み。みんな今頃向こうで楽しくやってるんじゃないかな」
私は背後に広がる森の先に聳え立つ高い山脈を見上げた。それは人間はおろか、魔族ですら越えられないと言われていた霊峰だった。しかし私達は最近ようやくあれを越えるルートを発見し、他の仲間達は既に山脈を越えて向こう側へと移住していった。これでこちら側の人間は、そう簡単に仲間達を追うことはできないだろう。
即ちこちら側にはもう、魔族は私しか残っていなかった。
「ルア、今からでも遅くない。君だけでも――」
「それはもう言わない約束したよね? テル」
隣に座るテルの言葉を強く遮った。言葉を噤んだ彼は俯いてしまう。そんな彼を見て、私は彼の外套を掴んで肩に額を乗せた。こうすれば、私の角が彼を傷つけたりしないのだ。
「私の居場所はここだから。テルがずっと一緒にいてくれたみたいに、私も離れないから」
私がそう言うと、少しばかりの沈黙を挟んで、テルは一言、「ありがとう」と呟いた。目頭が途端に熱くなるのを感じた。だってずるいじゃないか。彼は自分だけ約束を破って言いたいことを言おうとしたのだ。必死に堰き止めていた心のダムを彼は壊したのだ。私は顔を上げた。
「……テルが先に破ったから、私も約束破る。テルは死ぬ必要ないじゃん。だってテルは……魔族になってないんだから。向こうに証明する方法なんて、いくらでもあるのに!」
今日までずっと一緒にいて、結局テルが私と同じになる事はなかった。彼は人間のまま、魔王として討伐されようとしていた。理不尽だ。こんなにも優しい人がどうして死ななければならないんだ。
「死なないでよテル。一緒に、逃げようよ」
私は必死に懇願する。しかし、テルは辛そうに、けれど微笑んで首を振った。
「魔族がいなくなったと、人間を信じ込ませるにはこれが一番なんだ。ごめん」
また、テルの言葉が心を叩く。嗚咽が漏れ始めて、冷たい雨と温かい涙が私の頬で溶け合った。
すると、彼は私の頭に手を乗せて、優しく撫でてくれた。私はテルの服を強く掴んだ。
「あなたが死ぬなら、私も一緒。絶対に一人にしないから。一人にもならないから」
「……ルア、伝えたいことがあるんだ」
テルは私の肩に優しく手を添えて、私を少しだけ引き離す。私は顔を上げると、彼と真っ直ぐ目が合った。彼は少しだけ顔を赤くしていた。
「ルア、愛してる」
テルの言葉が心を満たしていく。嬉しさとか悲しさとかが全部涙になって、目からとめどなく溢れた。勝手に体は動いて、彼を強く抱き締めていた。魔族の力では絶対に痛いだろうが、知った事か。あと数日しか生きられないこんな瀬戸際で、ようやく言って欲しかった言葉を言ってきた罰だ。
「遅すぎだよ、馬鹿ぁ!」
「ごめん、ルアが生きる道を選んだら、言わないつもりだったんだ。ルアはきっと僕より長生きになったから、君に呪いを残したくなかった」
本当に馬鹿だテルは。言わなくったってここまで私に尽くしてくれたのだから、とっくの昔から気持ちは伝わっているというのに。
テルを抱き締めたまま、ひとしきり泣いた後、私は縋る様に聞いた。
「テル、私も天国に行けるかな……。テルと離れたくないよ」
テルはこの世界の、本当の英雄だ。死んでもきっと天国へ行けるはずだ。でも私はどうなのだろう。魔族なった私はどうなるのだろう。死んでも彼と離れたくない。そんな気持ちがこんな質問をさせていた。
「当たり前じゃないか。ルアは世界を救ったパーティの一人だ。向こうでも幸せになろう。だから、向こうで迷わないように教えてほしい。ルアの気持ちも」
テルはまた私の両肩に手を添えて、私と向き合った。出会ってから大人びて、私の為に入れ墨まで入れて、それでも変わらない彼の優しい顔に、私は気持ちの全てを乗せて、伝えた。
「テル、愛してる」
私がそう言うと、どちらからともなく、ただ自然と、私とテルの唇が重なった。何度も、何度も。冷たい雨がより強く、はっきりと、テルの熱を私にくれた。
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数日後、魔王とその幹部が討たれたという知らせが人間達に報じられた。討伐した勇者は言った。「二人の死体は消えてしまった」と。