愛に飢えた女の子に「無償の愛」を注いだ結果   作:鰻重特上

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あの日、白猫が私の世界をこじ開けた ー後編ー

 

 私の部屋の壁際には、明日袖を通すことになる真新しい高校のブレザーが、二着並んでハンガーに掛けられていた。

 

 一着は、私のための平均的なサイズのもの。そしてもう一着は、隣に並べるのが少し滑稽に思えるほど、まるで小学生の衣装のように小さく仕立てられたものだ。

 

 特注サイズのその制服が私の部屋にあるという事実が、この数ヶ月間の私と日景の努力の結晶であり、私たちがこれからも同じ空間を共有できるという何よりの証明だった。

 

「ふあぁ……。いよいよ明日から高校生かぁ。なんだか実感湧かないねぇ」

 

 ベッドの中心を陣取り、仰向けに寝転がっている日景が、口を大きく開けて欠伸をした。

 

 お風呂上がりの彼女の髪は、いつも以上にふわふわとしていて、真っ白な毛玉がベッドの上に落ちているようにしか見えない。頭の上のふたつの耳が、心地よさそうにパタパタと動いている。

 

 私はドレッサーの前に座り、自分の髪を乾かし終えた後、ベッドの端に腰を下ろした。

 

「実感がないのは、あなたが春休みの間もずっと私の部屋でゴロゴロしてばかりいたからでしょ。明日からは毎朝ちゃんと自分で起きるのよ。高校は中学より少し遠いんだから」

 

「えー、無理だよぉ。彼方が毎朝起こしに来てよ。合鍵持ってるじゃん」

 

「……全く。あなたはどうしてそう、自分のことも自分でやろうとしないの」

 

 呆れたようにため息をつきながらも、私の口角は微かに上がっていた。

 

 日景が私に依存してくること、私なしでは日常の些細なことすら回らなくなっていること。それが私にとってどれほど甘美な事実であるか、彼女は一生知ることはないだろう。

 

 私がベッドに座ると、日景は当然のようにすり寄ってきて、私の膝の上に自分の頭を乗せた。膝枕のような体勢になり、下から私を見上げてくる。

 

 石鹸の香りと、彼女特有の甘い匂いがふわりと立ち上った。

 

 触れてしまえば折れそうなほど細い首筋。色素の薄い柔らかな肌。翠色の大きな瞳が、部屋の明かりを反射してビー玉のようにきらきらと輝いている。

 

 私の体は順調に成長を続け、今では日景を見下ろす形になるのが当たり前になっていた。私が少し力を込めれば、彼女をこの場に縫い留めることなど造作もない。そんな物理的な優位性が、私の内側で静かに渦巻く真っ黒な感情に、じわじわと油を注ぎ続けていることにも、膝の上の白猫は気づいていない。

 

「ねえ、彼方」

 

 私の指先が、無意識のうちに彼女の白い髪を梳くように撫でていると、日景がふと真面目なトーンで口を開いた。

 

「なに?」

 

「高校に入ったらさ、きっともっと世界が広がるよ。中学の時とは比べ物にならないくらい、たくさんの人がいるんだもんね」

 

「そうね。私達の高校は一学年のクラス数も多いし、色んな人がいるでしょうね」

 

 私は無難に答えた。私にとって、世界が広がる必要などない。私の世界はこの部屋のベッドの上、私の膝で喉を鳴らすこの生き物だけで完結している。他人が何百人いようが、私にとっては背景のノイズでしかない。

 

「彼方、すっごく美人になったし、頭もいいし、しっかりしてるし、優しいから……高校に入ったら、絶対もっとモテるようになるよ」

 

 不意に投げかけられた言葉に、私の指先がピクリと止まった。

 

 日景の顔を覗き込むと、彼女は純度百パーセントの善意と、どこか誇らしげな笑みを浮かべて私を見つめ返していた。

 

「……何よ、急に。そんなことないわ」

 

「ううん、絶対そう! 中学の時だって、他所のクラスの男子から告白されてたじゃん。高校生になったら、先輩とか他校の人からも声かけられたりするんじゃないかなぁ」

 

 彼女の尻尾が、シーツを嬉しそうに叩く。

 

 パタ、パタ、パタ。

 

 その規則正しい音が、まるで導火線に火をつけていくカウントダウンのように私の耳に響いた。

 

「……私は、誰かにモテたいなんて欠片も思ってない。そういうのは煩わしいだけ」

 

「またまたー。そんなこと言って、本当は素敵な出会いとか期待してるんじゃないの?」

 

 日景は私の膝から体を起こし、ベッドの上に正座するような姿勢で私と向かい合った。その顔には、親友の未来を明るく照らそうとする、一点の曇りもない笑顔が張り付いていた。

 

「私ね、ずっと思ってたんだ。彼方は昔から、私のお世話ばっかりしてくれてたでしょ。私のせいで、彼方自身の青春とか、女の子らしい楽しみを我慢させてたんじゃないかって」

 

「そんなこと……」

 

「だからね!」

 

 私の言葉を遮り、日景は自分の薄い胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。

 

 翠色の瞳が、使命感に燃えるような強い光を放つ。

 

「高校生になったら、私は彼方のことを全力で応援する! 彼方に好きな人ができたら、恋の相談にも乗るし、デートの服だって一緒に選ぶ! もし相手の男の子が彼方を泣かせるようなことがあったら、私が引っ掻いてやるんだから!」

 

 誇らしげに胸を張る日景。

 

 私は、呼吸の仕方を忘れたように、ただ彼女の顔を凝視していた。

 

「彼方の恋愛を、私がしっかりサポートするからね! 彼方には、絶対に一番幸せになってほしいんだ!」

 

 

 …………ああ。

 

 ぷつり、と。

 

 私の中で、何かが千切れる音がした。

 

 それは、幼い頃から何千回、何万回と自分に言い聞かせてきた「親友でいられればいい」という脆いストッパーが、跡形もなく消し飛んだ音だった。

 

 中学二年生の冬に同じようなことを言われた時、私はまだそれを「いつもの鈍感さ」として飲み込む余力があった。私と同じ高校に行くために、必死で勉強を頑張る彼女の姿を見て、結局彼女の隣は私のものなのだと安心していた。

 

 だが、違った。

 

 この生き物は、根本的に何も変わっていなかったのだ。

 

 彼女が描く「久慈彼方の幸せ」という完成予想図の中に、「倉下日景」という存在は初めから組み込まれていない。彼女はただの「親友」として、私をどこかの馬の骨とも知れない他人の腕の中へ喜んで送り出そうとしている。

 

 私のこの何年にも及ぶ献身を。

 

 私のこのドロドロとした熱を。

 

 私を狂わせるほどの依存を。

 

 彼女は、綺麗で無害な「友情」という箱に押し込めたまま、笑って他人に熨斗をつけて譲り渡そうとしているのだ。

 

「……サポート、する?」

 

 私の口から滑り出た声は、自分でもぞっとするほど低く、冷え切っていた。

 

「うん! 私に任せてよ!」

 

 無邪気に頷く日景。

 

 私は、ゆっくりとベッドから立ち上がった。そして、正座している日景を見下ろす。

 

 部屋の照明が私の背後から当たり、日景の顔に濃い影を落とした。

 

「私が、誰か他の人間と手をつなぐのを」

 

「え?」

 

「私が、誰か他の人間に名前を呼ばれて、その人に向かって笑いかけるのを。私が、他の誰かとこの部屋で過ごすのを」

 

 一歩、足を踏み出す。

 

 日景との距離がゼロになる。彼女の翠色の瞳が、ほんの少しだけ戸惑いに揺れた。

 

「あなたは、横で拍手して喜ぶって言ってるの?」

 

「か、彼方……? どうしたの、急に怖い顔して……」

 

 彼女が後退ろうとした瞬間、私は動いた。

 

 ドンッ、という鈍い音が部屋に響く。

 

 私が両手で日景の華奢な肩を突き飛ばした音だった。

 

 無防備だった小さな体は、いとも簡単にバランスを崩し、日景はベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。

 

「ひゃっ……!? か、彼方!?」

 

 驚きの声を上げる日景に覆い被さるように、私は彼女の足の間に片膝をつき、彼女の体の上へとのしかかった。

 

 困惑しながらも、逃げ出そうとする彼女の両手首を、私の片手で纏めてベッドに縫い留める。もう片方の手は、彼女の首の横、シーツに深く沈み込ませた。

 

 完全にマウントを取る形。体格差と筋力の差は圧倒的で、日景の小さな力では、私の拘束を振りほどくことなど絶対に不可能だった。

 

「いっ……痛いよ、彼方! 何するの、冗談キツイって……!」

 

 日景は私の顔を見上げ、引きつった笑いを浮かべようとした。まだこれを、少し度を越したじゃれ合いだとでも思っているのだろうか。

 

 その顔を見た瞬間、私の中にあった最後の一欠片の理性が、音を立てて崩れ去った。

 

「冗談? これが冗談に見える?」

 

「……えっ」

 

 私が微塵も笑っていないことにようやく気づいたのか、日景の顔からスッと血の気が引いていくのがわかった。

 

 翠色の瞳が、怯えと混乱で激しく見開かれる。頭の上の白い耳が、完全に後ろに倒れてぺたんと平らになっていた。尻尾は足の間で丸まり、微かな震えが彼女の体全体から伝わってくる。

 

「彼方……? 怒って、るの……? 私、何か悪いこと、言った……?」

 

 震える声で尋ねてくる日景。

 

 その弱々しい姿を見ても、私の胸に罪悪感は一切湧かなかった。むしろ、私という圧倒的な力によって彼女が支配され、完全に逃げ場を失っているこの状況が、どうしようもなく私の渇きを潤していくのを感じた。

 

「応援する。サポートする。……誰にお願いされたの?」

 

 私は日景の顔に自分の顔を近づけ、吐き捨てるように囁いた。

 

 至近距離で絡み合う視線。彼女の吐く息が、私の頬に当たる。

 

「私がいつ、誰か他の人間を好きになるって言った? 私がいつ、あなたに恋愛のサポートなんて頼んだ?」

 

「だ、だって……高校生になったら、それが普通でしょ……? 彼方は可愛いし、絶対に彼氏とか……」

 

「普通なんてどうでもいい。他人のこともどうでもいい!」

 

 私が声を荒げると、日景の肩がビクッと跳ねた。

 

「あなたは、私の隣にいるくせに、どうして私のことを見ていないの。私を……私から、離れようとしないでよ」

 

 ギリリ、と奥歯を噛み締める。

 

 幼い頃、冷たくて灰色の世界で一人きりだった私。

 

 そんな私のテリトリーに土足で踏み込んできて、勝手に私の心の隙間を埋め尽くして、勝手に私を自分なしでは息もできない体に作り変えておきながら。

 

 どうして、そんなに簡単に他人へ私を明け渡そうとするのか。

 

「……ひかげ」

 

 私は彼女の手首を押さえつけていた力を緩め、代わりにその手を、彼女の真っ白な髪へと滑らせた。頬から首筋へ、ゆっくりと撫で下ろす。

 

 日景は完全に硬直したまま、私の指先の動きにされるがままになっていた。

 

「私の世界には、昔からあなたしかいないの。あなた以外の人間なんて、ただの景色と同じ。……私を置いて、どこかの誰かと笑い合うなんて、絶対に許さない」

 

「か、かなた……?」

 

「私が欲しいのは、応援でもサポートでもない。……あなたが欲しいの。あなた自身が」

 

 逃げ場など与えない。

 

 理解できないなら、力尽くでわからせるだけだ。

 

「もう、ただの幼馴染だなんて言わせない」

 

 日景の怯えた翠色の瞳が、目前に迫る私の顔を捉えて大きく見開かれた。

 

 春の夜の静寂の中、私は彼女の言葉を塞ぐように、その唇を自分のものへと押し当てた。

 

 私の冷たくて静かな世界をこじ開けた白猫は、もう二度と、私の檻から逃げ出すことは許さない。

 

 

 

「大好きだよ、日景」

 

 

 




 御読みいただきありがとうございます!

 個人的には9:1くらいで白猫の方が悪いと思ってますが、いかがですか?
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