帝都から逃れ、名もなき森に身を潜めて一ヶ月。
かつて白月宮殿で「帝国の真珠」と讃えられたミーアの面影は、今やどこにもなかった。泥にまみれた簡素な服をまとい、痩せこけた頬を赤く腫らした少女。それでも、彼女の瞳には微かな光が灯っていた。
「……シルヴィア姉さま、あそこですわ! 木の間から、小さな村の灯りが見えますわ!」
ミーアが指差す先、夕闇の向こうに数軒の民家が寄り添うように立っていた。国境まではまだ遠い。けれど、あそこに行けば、今夜こそは温かなスープが飲めるかもしれない。そんな幼い希望を抱いて、ミーアは振り返った。
けれど、シルヴィアの反応は鈍かった。
彼女は岩に手をつき、肺を焼くような荒い呼吸を繰り返している。ディオンに刻まれた左肩の傷は黒ずみ、腐敗の臭いを放ち始めていた。熱に浮かされ、その視界はとうに霞んでいるはずだった。
「……ええ。……行きましょう、ミーア」
掠れた声で、シルヴィアが微笑む。その瞬間だった。
ヒュッ、という空気を切り裂く音と共に、一本の矢が二人の間の地面に突き刺さった。
「――見つけたぞ! 帝国の残党、皇女ミーアだ!」
森の茂みから、革鎧を纏った革命軍の兵士たちが次々と姿を現す。その数、数十。
村の灯りは、あまりにも遠かった。
「ひ、ひえぇぇぇ……! な、なんで、あと少しなのに……!」
ミーアは腰を抜かし、ガタガタと震え始めた。
絶望が、再び彼女を支配する。だが、その前に、よろよろと立ち上がる影があった。
「……下がって、ミーア。木の後ろに」
シルヴィアが剣を抜く。
その腕は震え、剣先は定まらない。それでも、彼女はミーアの前に立った。
孤児として飢えていた自分を、気まぐれに救ってくれた少女。その少女が、今は「姉さま」と自分を呼んでくれている。
――それだけで、命を捨てる理由は十分だった。
「ふん、死に損ないの女騎士が一人か。構わん、殺せ!」
兵士たちが一斉に襲いかかる。
シルヴィアの瞳に、かつての「剣聖」の鋭さが戻った。
「……はあああぁぁぁっ!!」
一閃。先頭の兵士が崩れ落ちる。
二閃、三閃。
動かないはずの左腕を無理やり使い、シルヴィアは血を撒き散らしながら踊るように剣を振るった。それは、死の間際に見せる、最後の輝き。
「やめて、シルヴィア姉さま! もういいですわ、もう……!」
ミーアの悲鳴が森に響く。
だが、シルヴィアは止まらない。一人、また一人と兵士を斬り伏せていく。
しかし、限界はあまりにも残酷に訪れた。
背後から迫った槍が、無防備なシルヴィアの脇腹を深く貫いた。
「がはっ……、あ、ぁ……」
シルヴィアの口から鮮血が溢れる。
それでも、彼女は槍を掴み、自分を刺した兵士を道連れに、その頸動脈を掻き切った。
「シルヴィア――!!」
ミーアはなりふり構わず駆け出した。兵士たちの怒号も、突きつけられる刃も、今の彼女には見えていなかった。
倒れ込むシルヴィアの身体を、ミーアは必死に抱きとめる。
温かかったはずの身体が、急速に冷たくなっていくのが分かった。
「嫌、嫌ですわ……! 行かないで、シルヴィア姉さま!」
「……。……あ……」
シルヴィアの瞳が、ゆっくりとミーアを捉える。
震える血塗れの手が、ミーアの頬を優しく撫でた。
「……あなたは……生きて……。どうか……」
それが、彼女の最後の言葉だった。
シルヴィアの腕が、力なく地面に落ちる。
その顔には、これまで一度も見せたことのない、穏やかで美しい微笑みが浮かんでいた。