静寂が森を支配していた。
つい数刻前まで響いていた剣戟の音も、兵士たちの怒号も、今は遠い幻のようだ。
「シルヴィア姉さま……? 嘘ですわ、起きてくださいまし。ほら、あそこに村の灯りが見えますわ。温かいスープを飲んで、ふかふかのベッドで眠りましょう……?」
ミーアは、物言わぬシルヴィアの身体を抱きしめ、必死に語りかけた。
頬を撫でた彼女の手は、もう動かない。ブロンドの髪は泥と乾いた返り血に汚れ、その肌は夜の冷気にさらされて、急速に体温を失っていく。
「嫌……。嫌ですわ! 置いていかないでくださいまし!」
込み上げる涙が視界を塞ぐ。
燃え上がる白月宮殿から、あの日、自分を連れ出してくれた。
絶望の淵にいた自分を、たった一人、見捨てずにいてくれた。
この一ヶ月の逃亡生活で、ただの「護衛」だった彼女は、いつしかミーアにとって「最愛の姉」になっていた。
けれど、奇跡は起きなかった。
どれほど叫んでも、祈っても、シルヴィアの瞳に光が戻ることはない。
「……おい、立て。ミーア・ルーナ・ティアムーン。連行する」
背後から、無造作に肩を掴まれた。
革命軍の兵士たちが、冷酷な目で自分を見下ろしている。
「待ってください……待ってくださいまし! せめて、彼女を……シルヴィアを、ちゃんと埋葬させてください! 彼女は、わたくしのために……命を懸けて戦ったのですわ!」
泥にまみれ、兵士の足に縋り付いて懇願する。
しかし、返ってきたのは冷たい嘲笑と、腹部をえぐるような蹴りだった。
「黙れ。逆賊に墓など必要ない。野ざらしにして鳥の餌にでもしておけ」
「あ、あぁ……っ……!」
呼吸が止まるほどの衝撃。
引きずられていくミーアの視界の端で、シルヴィアの亡骸が遠ざかっていく。
冷たい地面に、ただ一人、打ち捨てられたまま。
(ごめんなさい、シルヴィア……。わたくし、あなたのことすら……守ってあげられませんわ……)
絶望が、ミーアの心を完全に打ち砕いた。
一ヶ月前、帝都を逃げ出した時には、まだ「生きたい」という執着があった。けれど今、彼女の胸に残っているのは、焼き付くような無力感だけ。
護るべき民を裏切り、自分を護ってくれた姉さえも失った。
自分は、生きている価値などない愚かな女。
ガタゴトと揺れる囚人馬車の窓から、ミーアは虚ろな目で遠ざかる森を見つめていた。
血のついた自分の掌を見つめ、声も出さずに泣き続ける。
やがて運ばれた先は、冷たく湿った地下牢。
そこで彼女を待っていたのは、太陽の光さえ届かない三年の月日、そして――運命の断頭台。
「あなたは……生きて……」
最期に遺されたあの言葉さえ、今のミーアには重すぎる呪いのようだった。
これが、やり直す前の世界。
後に「帝国の叡智」と呼ばれることになる少女が、まだ何も持たず、すべてを失った場所。
血塗られた日記帳を握りしめ、彼女は静かに、断頭台へと続く階段を上り始めるのだった。
(……ああ。もし、もしもやり直せるなら。次は、次は必ず……あなたを、わたくしが守ってみせますわ……)
暗転する意識の果てで、ミーアは最後に、あの優しい姉の微笑みを思い浮かべた。