眠い
職場体験当日。
朝の陽光が差し込む街路を、リリィと轟焦凍は並んで歩いていた。
ワンダーは少し後ろを静かに付き従い、リリィの小さな手を守るようにしている。
最初は無言だった。
しかし、事務所までの道中で、轟がぽつり、ぽつりと口を開いた。
「……父さんは、俺を『最高の個性を持つ後継者』としてしか見ていない。俺の母親は……俺を守るために耐えてくれていたけど耐えきれなくなり、精神を病んだ。俺は……あいつを、ずっと嫌っていた」
轟の声は淡々としていたが、その奥に深い影があった。
リリィは銀色の髪を風に揺らしながら、静かに耳を傾けていた。
轟の言葉は、彼女の胸に重く響いた。
親から与えられる痛み、期待、拒絶──自分と重なる部分が多すぎた。
やがて、リリィも小さな声で自分の過去を話し始めた。
「……私も、親から虐待を受けていたよ。四歳の誕生日だった。お父さんは蹴って、お母さんは笑いながら『死なない程度に』って言って……痛くて、苦しくて、死にそうになった時に……個性が目覚めたの」
リリィの赤い瞳が、わずかに揺れた。
「ワンダーが現れて……お父さんとお母さんは、災いに巻かれて死んだ。家は燃えて、私は……血だらけのまま一人になった。それからワンダーが、私の親代わりになってくれた」
轟は足を止めた。
「……」
彼の表情が、初めて大きく歪んだ。
エンデヴァーの冷たい教育、母親への暴力──それさえも、リリィの話の前ではまだ「マシ」に思えてしまうほど、壮絶だった。
リリィは静かに続けた。
「だから……轟君の気持ち、少しわかるよ。親に期待されて、傷つけられて……でも、私はワンダーがいてくれたから、生きてこれた。轟君も……いつか、きっと自分の炎を好きになれる日が来ると思う」
轟は何も言えなかった。
ただ、唇を固く結び、リリィの小さな横顔をじっと見つめていた。
二人はそれ以上、過去の話をしなかった。重い沈黙が流れる中、ただ黙って歩き続けた。やがて、大きな建物が見えてきた。
エンデヴァー事務所
轟が低い声で呟いた。
「……着いた」
リリィは深呼吸をして、ワンダーのコートの裾をぎゅっと握った。
「うん……行こう、轟君」
No.2ヒーローの事務所の扉が、二人の前に静かに開かれた。
エンデヴァー事務所に到着したリリィと轟は、受付で簡単な手続きを済ませた。
受付の女性はリリィの幼い姿を見て少し驚いた様子だったが、事前に連絡を受けていたため、すぐに案内してくれた。
広いエレベーターで最上階へ上がり、大きな扉の前に着くと、受付の女性が一礼して去っていった。
扉が開くと、そこに立っていたのは火炎ヒーロー・エンデヴァー本人だった。
炎の髭を蓄え、厳つい体躯にヒーローコスチュームを纏った男は、まず轟に視線を向けた。
「……よく来た、焦凍」
声は低く、感情がほとんど感じられない。轟は無言で軽く頭を下げただけだった。
エンデヴァーは次に、リリィへと冷たい視線を移した。
その目は、まるで獲物を値踏みするような鋭さだった。
「お前がリリィ・ワンダーか。体育祭の映像は見た。個性はとても強力だ。……期待している」
言葉の内容は褒めているように聞こえたが、眼差しは氷のように冷たかった。
リリィは小さく体を震わせながらも、しっかりとお辞儀をした。
「……よろしくお願いします、エンデヴァーさん」
エンデヴァーはそれ以上何も言わず、すぐに動き出した。
「今日は保須市だ。ヒーロー殺しが発生している。現場に向かう」
そして保須市に到着した三人は、すぐにパトロールを開始した。エンデヴァーの圧倒的な強さは、さすがNo.2ヒーローだった。
ヴィランが現れると、ほぼ同時に炎の奔流が放たれ、瞬く間に制圧される。
リリィと轟の仕事は、主に捕まえたヴィランの拘束と警察への引き渡し、周辺住民の避難誘導だった。
リリィはワンダーに守られながら、懸命に動いた。
小さな体で必死にロープを運んだり、怯える子供を落ち着かせたりする姿に、現場の警察官たちも驚きの目を向けていた。
しかし、そんな平穏な職場体験は長く続かなかった。
リリィのケータイが震えた。
緑谷からのメッセージだった。
【位置情報】だけの一斉送信のメール。
リリィは数秒だけ迷った。
轟と目が合った。
「……行こう、轟君」
轟は無言で頷いた。
二人はエンデヴァーに最低限の情報を伝え位置情報の場所へ向かった。
リリィと轟は、緑谷から送られてきた位置情報に従い、息を切らして駆けつけた。
そこに広がっていた光景は、想像を絶する惨状だった。
地面に倒れている緑谷出久と、飯田天哉と負傷したプロヒーロー。
そしてその中心に、異様な男が立っていた。長い舌を垂らし、血に濡れた刀を手に、異様な殺気を放つ男──
ヒーロー殺し
ヒーロー殺しはゆっくりと顔を上げ、三人に向かって不気味な笑みを浮かべた。
「……新たな獲物か。良い血の匂いだ」
その瞬間、轟焦凍が即座に動いた。
「下がっていろ!」
右半身から猛烈な冷気が爆発し、路地全体を覆うほどの巨大な氷の壁を生成した。
同時に左半身の炎で周囲を照らし、負傷した緑谷とプロヒーローを氷の滑り台のようにこちら側へ安全に滑らせた。
「リリィ、緑谷を頼む!」
轟の声は鋭かった。
リリィは慌てて緑谷に駆け寄り、小さな手で彼の体を支えた。
緑谷は大きな声でヒーロー殺しの個性について考察を述べる。血を舐めることにより動きを封じる個性らしい。
「……分かった、緑谷」
「私……私も頑張る」
しかし、リリィ自身も体が震えていた。
ヒーロー殺しの放つ圧倒的な殺意と、路地に充満する血の臭いが、幼い頃の虐待の記憶を鮮明に呼び起こしていた。
父親の靴底が腹にめり込む感覚、母親の冷たい笑い声、燃え盛る家の中の炎──。
(怖い……動けない……もし個性が暴走したら……轟君や緑谷くんを傷つけてしまう……)
リリィの足は地面に縫い付けられたように動かず、銀色の髪が恐怖で震えていた。
ヒーロー殺しがゆっくりと舌を伸ばし、刀を構えて近づいてくる。
その時──リリィの胸の奥で、校長室での自分の言葉が強く響いた。
『それでも私は、ヒーローになります!』
「……私は、もう逃げない」
リリィはぎゅっと拳を握りしめ、恐怖に抗うように一歩を踏み出した。
その瞳に、強い黄金の光が宿っていた。
ワンダーのシルエットが大きく揺らぎ、無数の災いの紋様が浮かび上がる。
『ワンダー・オブ・U』
ヒーロー殺しが無造作に刀を振り上げ、リリィに向かって斬りかかってきた瞬間、小さな災いが彼を襲った。
足元が突然崩れ、刀の軌道がわずかに逸れる。
視界に砂ぼこりが飛び込み、集中を乱す。
以前のような「殺害」を目的とした凶悪な災いではなく、捕縛と制圧を目的とした、制御された妨害へと変化していた。
ヒーロー殺しが初めて眉をひそめた。
「なんだこれは、こいつの個性か……」
リリィの覚悟が、個性の本質そのものを少しずつ変え始めていた。
そこへ、緑谷出久が息を荒げながら立ち上がった。
「リリィちゃん……! 轟くん……! 一緒に……倒そう!」
三人による共闘が始まった。
轟は右半身で広範囲の氷を展開し、ヒーロー殺しの動きを制限。
左半身の炎で牽制しながら、的確に攻撃を加えていく。
緑谷は「ワン・フォー・オール・フルカウル」を制御しながら、スマッシュを放ち、ヒーロー殺しの死角を突いた。
そしてリリィは──
ワンダーに守られながらも、自ら前に出て、ヒーロー殺しに向かって歩み寄った。
彼女の周囲で、小さな災いが次々と発生する。
ヒーロー殺しの足が滑り、刀がわずかに遅れる。
自分の血が目に入り、視界を乱す。
路地のゴミ箱が倒れ、動きを妨げる。
「この……小娘……!」
ヒーロー殺しの攻撃は鋭かったが、リリィの災いは執拗に彼を苛み続けた。
以前の無差別な破壊ではなく、明確に「敵を制圧する」ための災いとして。
しかし、ヒーロー殺しの戦闘経験と異常な集中力は凄まじかった。
三人の連携を何度もかいくぐり、逆に反撃を加えてくる。
千日手のような激しい攻防が続いた。
「飯田……!」
そこへ、ステインの個性が解けた飯田がエンジンを全開にし参戦した。
「今だ!」
飯田の強烈なキックがヒーロー殺しの側面を捉え、リリィが集中を極限まで高めて最大の災いを呼び寄せる。
轟の巨大な氷の槍が動きを封じ、緑谷のフルパワースマッシュが決まった。
ヒーロー殺しはついに膝をつき、倒れた。
「……勝った……!」
「あぁギリギリの戦いだった」
「とりあえず捕縛をロープかなんかないか」
「探してみよう」
無事にゴミ箱からロープを見つけヒーロー殺しを捕縛する事に成功し裏路地から出ていく一行、裏路地を出てすぐさま現れたヒーローグラントリノが緑谷に蹴りを入れた。
「ごめんなさい、グラントリノさん」
話を聞くに緑谷の職場体験先の方だそうだ。
「こっちか?」
「あぁエンデヴァーさんが言ってた場所はここだ」
その後続々と集まってくるヒーロー達、どうやらエンデヴァーが増援として呼んでくれていたらしい。
「おい……コイツって」
「ヒーロー殺し!? すぐに警察に連絡を──」
ヒーロー殺しをプロヒーロー達に引き渡し一段落した所で飯田が話しかけてきた。
「僕のせいで傷をつけてしまった。本当にすまなかった! 怒りで何も見えなくなってしまっていた」
「僕も気づけなくてごめん、友達なのに」
「ッ──」
「しっかりしろよ、委員長だろ」
「そうだよ飯田くん。謝らないで」
「──うん!」
緑谷が安堵の息を吐いたその瞬間──
「伏せろ!」
上空から負傷した飛行型ヴィランが急降下してきた。
緑谷が反応する間もなく、そのヴィランに捕まり、夜空へと連れ去られていく。
「デクくん!!」
リリィは咄嗟に個性を発動しようとしたが、自分の個性は自分自身にしか適応しないため、ヴィランに影響を与えられず、その場に取り残された。
しかし、次の瞬間──
拘束されていたはずのヒーロー殺しが、信じられない速さで疾走し、飛行ヴィランに追いついた。
「愚かな……」
ヒーロー殺しは一瞬で飛行ヴィランの脳にナイフを突き刺し、緑谷共々ヴィランを地面に落とした。
ヴィランは即死した。
ヒーロー殺しはゆっくりと振り返り、ヒーロー達に向かってとてつもない殺意を放った。
「……自分を殺していいのは、本物のヒーローだけだ」
その圧倒的な殺気に、リリィも轟も飯田もプロヒーロー達でさえ体が動かなくなった。
ヒーロー殺しがゆっくりと歩を進めてくる。
しかし──数歩進んだところで、ヒーロー殺しの体がピクリとも動かなくなった。
「……気絶している……?」
プロヒーローが呆然と呟いた。
ヒーロー殺しはすでに限界を超えており、ただ気力を振り絞って最後の行動を取っていただけだった。
皆はようやく動きを取り戻し、ヒーロー殺しを完全に拘束した。
保須市の夜の事件は、こうして収束した。
夜中の方がなんか筆が進む