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担当契約が決まってからの日々は案外早く過ぎるものらしい。
今日はジープベニザクラのメイクデビューの日だ。
メイクデビューは日本各地で毎週のように開催されており、比較的自由に場所・距離を選ぶことができる。
今回、石原トレーナーが選んだ場所は小倉レース場のダート1700mだ。
「1700mですか」
ホワイトボードに貼られたコースをなぞりながら、ジープベニザクラは自分が走る距離を反芻した。
1700mとは一応ジープベニザクラが得意とするマイルの区分内ではあるが……。
「正直なところ、気持ち悪いほど微妙な距離だ」
「気持ち悪いんですかこの距離……」
選んだ石原トレーナー自身はすっきりしない表情をしており、ジープベニザクラは苦笑いする。
なぜなら、1700mはG1からPre-OPに至るまで芝では一切存在しない距離だからだ。
マイル戦としてはスタンダートな1600mとそう大差はないだろうが、正直なところ、石原トレーナーもこの距離は未知数と言っていい。
ジープベニザクラは、初戦からそんな気持ち悪い距離を走らされることになる。
「それでも俺が1700mを選んだ理由は3つ。1つは1600~2000mまで適性のあるベニザクラなら1700mは問題ないと踏んだこと」
「2つ目は、ダートにはこういった非根幹距離のレースが多い。それに慣れてもらうため」
「……あともう1つは?」
「--正直、ベニザクラなら距離なんて何でもいい気がした」
ジープベニザクラは軽くずっこけた。
ダートでステイヤーの話をしてマヌケ野郎と呼ばれたように、ウマ娘にとって適正距離は全てを差し置いて最重要だというのに。
とても芝で10年以上トレーナーをやってきたG1トレーナーだとは思えないいい加減な発言だ。
「さ、最後だけ随分雑じゃありません?」
「確かにそうだが、実際お前はどう思ってる?」
ジープベニザクラはよろけた姿勢を戻しながらあきれ顔で頷いた。
「--ええ。実際、距離なんて何だって構いませんよ。1700m、走ってやろうじゃありませんか」
ジープベニザクラが地下バ道へ向かった後、石原トレーナーは関係者用の観客席へと移動する。
期待の新人ウマ娘が出走する芝のメイクデビューであれば、それなりに関係者席や一般席にも人が詰めかけるものだが。
やはり、ダートのメイクデビューは相変わらず閑散としており、一般席は数えられるほど。
関係者席にもあまり面識のない出走ウマ娘のトレーナーしかいない。
「やはりほとんど人がいないな。いや、観客が全てじゃないぞ俺。ベニザクラが勝つかどうかだ」
石原トレーナーは頬を叩き、未だエリート気分の抜けない自身を戒める。
すると。
「あの、あなたが石原さんでしょうか?」
その声に石原トレーナーが振り向くと、40代後半くらいの夫婦と思われる2人が立っていた。
関係者席に通されているということは、この夫婦は出走ウマ娘と何らかの関係がある。
「はい、ジープベニザクラの担当をしております、石原泰介と申します」
石原トレーナーが2人にお辞儀をすると、夫婦もまた石原トレーナーに向けて深々とお辞儀をした。
「これはこれは、いつもうちのベニちゃんがお世話になっております」
「ジープベニザクラの父です。こちらは妻です」
この夫婦はジープベニザクラの両親ということになる。
わざわざ可愛い娘の晴れ舞台を見に来てくれたようだ。
「ベニザクラのご両親でしたか!はるばるようこそお越しくださいました」
石原トレーナーは両親にレース場が良く見える特等席へジープベニザクラの両親を案内する。
あまり間近でレース場を見たことがないのか、まだウマ娘が走ってもないのにジープベニザクラの両親はレース場の光景に圧倒されていた。
「まあ、こんな立派なコースでベニちゃんが走るなんて、お母さん誇らしいわ」
「あの、石原さん。うちのベニが迷惑をかけていないでしょうか……?」
レース場に感動する母をよそにジープベニザクラの父が石原トレーナーに恐る恐る尋ねる。
何事にも動じないジープベニザクラと違って、両親のほうは立派なスーツ姿の貫録ある石原トレーナーにたじろいてしまっているらしい。
「はは、聞き分けが良く、能力もあってこれからが楽しみです。少々個性的な子ですが俺は気に入っていますよ」
「ああ。素敵なトレーナーさんに巡り合えたようで良かった」
ジープベニザクラの両親はトレーナーから好評をもらっていることを聞き胸をなでおろした。
その横で石原トレーナーは腕時計をちらっと見る。
まだ発走までは少し時間がありそうだ。
「--せっかくの機会です。失礼ながら、ベニザクラについてお聞きしても?」