ハリエット・ポッターの不思議な冒険 作:新参なめ子
次の日、ハティは晴れやかな気分で目を覚ました。
前夜の話し合いの後、ベッドに入ってからもあれこれと煩悶していたものの、いつの間にか眠りに落ちていた。普段どおりに目を覚ましたハティは、談話室でロニーと合流し、大広間へと向かった。
「ハイ、ハティ。大事な試合の朝だっていうのに、あんまり食べてないみたいだね」
「あ、おはよう、ハーミス。ヒューにアクラムも」
「おはよう、三人とも。珍しいね、三人で歩いてるなんて」
ハーミス、ヒュー、アクラムの三人が連れ立って大広間に入ってきたので、ロニーは物珍しそうに三人を見渡した。彼らは口々に「まあね」とか「階段でハーミスと出会ったんだよ。レイヴンクロー寮も塔の上だし」「チョウと約束してたんだけど、寝坊しちゃってさ」などと言いながら、既に席を取っていたハティとロニーの向かいに腰を下ろした。
午前中からクィディッチの試合があるため、大広間は土曜日の朝にしては珍しく、ざわめきに満ちていた。普段であれば生徒の数はまばらで、談話室やドミトリーで軽い朝食を済ませる者も少なくない。それが今日は、どの寮の生徒たちも席について、初戦の試合について予想を交わし合っていた。
ハティは果物を載せたポリッジを見下ろし、口元を歪めた。
「どうしたの、ハティ。食べないの?」
ロニーは厚切りのベーコンを切り分け、口いっぱいに頬張りながら小首を傾げた。
「食欲ないんだよね。朝からたくさん食べたら、箒のスピードが出ない気がして」
「何言ってんの? 朝食くらいで箒のスピードが落ちるわけないだろ? それより、試合を続けるためのエネルギーを蓄えておけよ。トーストとマーマレードジャム、それからゆで卵にハムとチーズ。とりあえず、これだけは食べとけよ」
ヒューは次々と大皿から料理を取り分け、ハティの黄金色の取り皿にうず高く積み上げていく。唸り声をあげるハティを無視して、慣れた手つきでトーストにマーマレードジャムをたっぷりと塗ると、ヒューは「ほら」とハティに差し出した。
「たくさん食べて、スリザリンの奴らのタックルに負けないように力をつけとけ」
「あのさあ、ヒュー。クィディッチはラグビーじゃないんだよ。そんなことしたらルール違反だよ」
アクラムが苦笑しながら、優雅な所作でソーセージの欠片を口に運ぶ。ハーミスもそんな二人を横目に、「どっちかというと、ブラッジャーに吹っ飛ばされる心配をした方がいいんじゃないかな?」と言った。
あまりにも不吉な言葉に、ハティは冷や汗をかいてお腹を抱え込んだ。
「今になって緊張してきた。昨日まで何ともなかったのに」
「そりゃあ、初戦だもの。昨日まで緊張しなかったっていう方が異常だよ。チャーリーはいつも試合の日にはフルイングリッシュブレックファストを食べるんだ。箒の上でもエネルギーはたくさん消費するからって。ハティもいっぱい食べた方がいいよ」
「たくさん食べて、試合中に吐きそうになったら?」
「スリザリンの奴らにゲロをぶちまけちゃえ」
ロニーの茶目っ気たっぷりな物言いに、ハティはぷっと吹き出し、けらけらと笑った。
その時、ぱっと大広間の扉が開いた。煌びやかなシャンパンゴールドのローブに白い襟巻きを身につけた少女たちが、大広間に入ってきた。彼女たちは手に黄金と真紅の旗を持ち、妖精のように優雅で軽やかな足取りでハティのもとへと歩み寄ってきた。
ハティは一瞬、妖精の一団が大広間に迷い込んだのかと思った。しかし、彼女たちが目の前で足を止めた時、その一団がグリフィンドールの魔女たちで構成されていることに気づいた。
先頭に立つひときわ美しく輝く少女を見て、アクラムが口笛を吹き、ロニーは唖然として目玉焼きを皿に落とした。
それは、フィリパ・ポップルウェルが率いる集団であった。
「はぁい、ハティ。私たち、今日からハティ・ポッターとグリフィンドールチームを応援するマスコットガールなの。マグルの学校ではチアガールって言うんですって? 今日のためにハティに会う時間を削って、ユニフォームを作ったのよ。どう? 似合っていて?」
フィルは大輪の薔薇のような笑顔を浮かべ、くるりと回ってみせた。その後ろでは、同じ衣装を着こなしたプリスが羞恥に頬を染め、溜息をついている。心なしかフィルから距離を取っているように見えるのは、気のせいだろうか。
二人の背後には、ラベンダーやパールバティ、エロイーズ、それにルームメイトのカーラ・グラント、同じ学年のエミリア・ベッキンセイル、キャンディス・カーペンターまでいる。
エミリアとキャンディスはカーラの友人なので、カーラが誘ったことは想像に難くない。しかし、上級生までマスコットガールとして参加していることには驚かされた。
「みんな、すごく……すごくかわいいけど、一体どうしたの!?」
「もちろん、あなたを応援するためよ、ハティ。今日のあなたは期待のホープだけれど、あなた一人に試合のヒロインはさせないわ。私たちも観客席で大いに輝くの。殿方の視線を独り占めよ。ヴィーラみたいにね。私たちは一緒に箒に乗って飛ぶことはできないけれど、外から応援しているわ。だから、負けないで」
「つまりね、初めての試合に臨むハティのために何かできることはないかと考えた結果、フィルは生粋のパーティーガールだから、こんなことしか思いつかなかったってわけ。あら、ロニー。あなたも着る? この衣装」
プリスがひょいと片眉を上げてロニーを見た。
ロニーもまた、単なる気遣いというよりは「お前も一緒にこの地獄に落ちないか?」と、言外に道連れを求められていることを察したらしい。
呆気に取られてぽかんと口を開けていたロニーは、はっと我に返ると、真っ赤になりながら激しく首を横に振った。
「あたしはそんな衣装で応援するのは無理。シェーマスやディーンと一緒に旗を振ってるよ!」
「そう。すごく、すごく残念よ……。できることなら、私もそっち側がよかったわ」
地を這うような声で呟くプリスとは対照的に、フィルは「じゃあ、みんな、場所取りに行きましょう」と弾んだ声をあげ、女子たちを率いて風のように大広間を去っていった。
ハティたちは呆然とフィルたちを見送っていたが、プリスが未練がましくこちらを振り返っていることには、気づかないふりをした。
「あたしはフィルのこと、羨ましいと思うけど、正直、ああはなれないなってすごく思う」
「いや、それは私も常々思ってるよ、ロニー」
引きつった顔で答えるハティの目の前で、ヒューは肉汁の溢れるソーセージにかぶりつきながら、大広間の出入口を眺めていた。
「お前らグリフィンドールって、やっぱりグリフィンドールだよな。俺らレイヴンクローには真似できねーや」
「もう何も言わないで……ヒュー……」
陽キャ集団、ここに極まれりである。
薄暗い物置部屋で育ったハティは、眩しすぎて目が潰れるかと思った。
「やっぱりだめ……吐きそう」
更衣室の片隅で、ハティは口元を押さえ、せり上がってくる酸っぱい胃液を飲み込んだ。
ヒューがあれもこれもとハティの皿にボリュームのある肉料理を盛りつけたせいで、普段よりもかなり重めの朝食をとってしまったハティは、ぷっくりと膨らんだお腹を引っ込めながらズボンに足を通した。
幸い、試合用の真紅のローブはゆったりとしていて、ハティのウエスト周りを隠してくれたが、胃の重苦しさと吐き気までは消してくれなかった。
ハティが口元を押さえ、「うえっ」と声をあげていると、アリシアが眩いブロンドの髪を結い上げながら近づいてきた。
「大丈夫? 吐きそうになってるじゃないの。そんなに緊張しなくていいのよ! これまでの練習では見事な飛行だったんだから、大丈夫よ!」
そう言ってアリシアはハティの背中をさすり、宥めるように声をかけた。しかし、ハティはジェットブラックの髪を揺らして「違うの」と言った。
「食べ過ぎた。ヒューにいっぱい食べろって、いろいろ口に押し込まれたの」
アリシアは口をぽかんと開けて呆気に取られたかと思うと、ぷっと吹き出した。
「大物ねえ! 聞いてちょうだい、アンジェリーナ。この子、緊張してるのかと思ったら、朝ごはんを食べ過ぎて気持ち悪いんですって!」
「え? なんだって?」
更衣を終えたアンジェリーナは、ぐるぐると腕を回しながら近づいてきた。
「誰かさんは一口も食べられなかったって言ってたのに、すごいな。なあ、ケイティ」
揶揄するようにアンジェリーナがにやりと笑いながらケイティを見ると、ローブを身にまとっていたケイティは真っ赤な顔で近づいてきた。
「からかわないでよ、アンジェリーナ」
「まあ、ケイティはマシな方よ。私なんか、デビュー戦の時は試合に出る寸前までトイレで吐いてたんだから」
「確かに、あの時はずっとトイレから出てこなかったよね」
アリシアの言葉に、アンジェリーナはけらけらと笑った。
ハティもつられて笑っていると、ケイティがそっと近づいてきて、ハティの手を握った。
「ハティは大丈夫? 一緒に頑張りましょうね」
「あ……うん」
自分の手を握るケイティの手が小刻みに震えていることに気づき、ハティは彼女の顔を見た。
ケイティはこわばった顔にぎこちない笑みを浮かべていた。その時になって初めて、ハティは気づいた。
そうだ。ケイティもハティと同じく、今日がデビュー戦なのだ。
ハティは、自分ばかりが不安そうにしていたことを恥ずかしく思った。ケイティの肩を抱き寄せ、「うん! 一緒に頑張ろう」と言って、その背中を軽く叩いた。
二人の新人のやり取りに気づいたアリシアが近づいてくる。
「嫌だわ。女子のチームメイトはここにもいるのよ。それに、私だってそんなに試合に出ていないの。去年は補欠だったしね。私も仲間に入れてほしいわ」
アリシアがハティとケイティを抱きしめると、アンジェリーナもその上から腕を回した。四人はひとつの輪になった。
ハティはうるさいほどに高鳴る胸を押さえ、大きく深呼吸をしてから叫んだ。
「初戦で勝利を飾ろう! そして、そのまま優勝するの!」
「なんたって、うちには期待の新人が二人もいるもんね。スリザリンの奴らなんかには負けないわよ。やるわよ、みんな!」
アンジェリーナは勝ち気に笑い、拳を突き上げた。
「お、やっと来たか。遅かったじゃないか」
控室に到着すると、既にウッドをはじめとする男子選手たちは揃っていた。
ミーティングは既に終わっており、あとは入場を待つばかりだった。ウッドの顔に焦りは見えなかったものの、どこかぴりりとした緊張感が漂っている。
ハティも自然とその空気に呑まれ、表情を硬くしていると、ジョージがへらりと笑ってハティの肩に手を回した。
「淑女は身繕いに時間がかかるって相場が決まってんだよ、ウッド」
「そうよ。むさ苦しい男どもと違って、あたしたち女子は髪のセットとか顔のチェックとか、いろいろやらなきゃいけないことが多いんだから。それに、別に遅れてないでしょ?」
アンジェリーナがジョージに続いて、ハティにウインクしてみせた。
女子だけで円陣を組み、団結を高めていたことは秘密である。
ハティが小さく笑っていると、ウッドはさほど気にした様子もなかった。
「まあ、いい。まだ入場までには時間があるし、スリザリンの野郎どもはよく遅れてくるからな。今日くらいはあいつらを焦らしてやろう」
ウッドはそう言って笑うと、毅然とチームメイトに向き直った。
「いいか、野郎ども」
「あら、女もいるのよ」
「むしろ、女の方が多いんじゃないかしら」
ハティが加わったことで、女子選手は四人、男子選手は三人という構成になっていた。グリフィンドールチームは、珍しく女性陣が優勢な顔ぶれとなっている。
すかさずアンジェリーナとアリシアが口を挟むと、ウッドは決まりが悪そうに咳払いをした。張り詰めていた空気が、二人の揶揄によって一気に緩む。
「そして、女性諸君! あー、いよいよだ!」
「待ち望んでいた開幕戦だ」
「運命の初戦! 覚悟はいいか?」
フレッドとジョージが次々と茶々を入れる。
いまひとつウッドの演説が進まないので、ハティが困惑していると、フレッドがこっそりと耳打ちしてきた。
「ウッドの奴、毎回同じスピーチをするからな。俺たち、空でも言えるぜ」
どうやら、これもウッドの演説の一部であるらしい。
ウッドはことごとく出鼻をくじかれ、不満そうに顔を顰めて双子を睥睨した。
「そこの双子はもう黙ってろ! あー、さて、俺たちはここ数年でも最高のグリフィンドールチームだ。この試合、間違いなく俺たちの勝利で終わるだろう。相手はスリザリンだ! みんな、気合いを入れていけよ!」
言外に「負けたら承知しない」と言わんばかりに、ウッドは鬼気迫る表情でメンバーを睨みつけた。
気炎を上げるウッドを前に、ハティは顔を引きつらせた。ウッドは全身で闘志を燃やしているかのような気合いの入りようだった。
あんなに軽口を叩いていたアンジェリーナとアリシアでさえ、表情を引き締め、鋭い目つきになっていた。ウッドだけでなく、他のチームメイトも試合に対して並々ならぬ思いを抱いていることがうかがえた。ハティもつられるように気を引き締めた。
オリバーはメンバーたちを見渡し、不敵な笑みを浮かべた。
「みんな、覚悟はできたようだな。さあ、時間だ! 行くぞ、みんな!」
オリバーの掛け声に、各々が雄々しい返事をし、ウッドを先頭にメンバーたちはグラウンドへと出ていった。
グラウンドに足を踏み入れた途端、割れんばかりの大歓声がハティの耳をつんざいた。
ハティは思わず唖然として、観客席を仰いだ。ホグワーツ魔法魔術学校の約千人に及ぶ生徒たちのほとんどが観客席に集まっているかのような大群衆だった。双眼鏡を手にしている生徒もちらほら見受けられ、単なる学生のスポーツクラブの試合とは思えない熱気に、ハティは息を呑んだ。
ハティは無意識に観客席に見知った顔を探した。
グリフィンドールの生徒たちが集まる席を見つけると、最前列で杖から花火を打ち上げ、シャンパンゴールドのローブを翻しながら「ゴー! ハティ!」と踊るフィルたちの姿が目に入った。
ハティは思わず唇を緩めた。体をこわばらせていた緊張が、少しずつ解けていく。
グラウンドの中央にはマダム・フーチが佇んでおり、彼女を挟むようにグリフィンドールとスリザリンの選手たちが整列した。
「さあ、皆さん。正々堂々と戦いましょう!」
マダム・フーチはフリントを鋭く見据えた。
「いいですね。くれぐれも正々堂々とした戦いをするように!」
念を押すように、マダム・フーチは繰り返した。
マーカス・フリントがラフプレーの常習者であることは周知の事実だった。釘を刺すように念を押すマダム・フーチには見向きもせず、フリントはハティに視線をやり、にやりと笑った。
「今日はマクゴナガルを盾にして逃げなかったようだな。お前を箒から叩き落としてやるから覚悟しておけ、この腰抜けが」
ぺっとフリントが芝生に唾を吐き捨てた。
グリフィンドールチームに緊張が走る。ウッドや双子は唸り声をあげ、「この卑怯者が」「ブラッジャーをお見舞いしてやるよ」とフリントを睨みつけた。アンジェリーナたちは全身をわななかせながら、「あいつの言葉に耳を貸す必要はないわよ」とハティの肩を抱いた。
しかし、ハティはフリントを毛ほども恐れていなかった。
煮えたぎるような怒りが全身を駆け巡り、体が熱くなっていた。目の前のマーカス・フリントの屈強な体つきや意地の悪い表情が、どうしてもヴァーノンと重なって見えた。
ハティは盛大に顔を顰め、フリントに舌を出した。
「箒から落ちるのはお前だ、腐ったトロールが。トロールが人間様に生意気に口を利いてんじゃねーよ。さっさと森に帰れ! クソボケェ!」
「ハティ! フリントを刺激してはだめよ!」
「離して、アリシア! 離してったら! あのクソムシをぶちのめしてやるの!」
「アリシア、ハティを抑え込んでいろ!」
ウッドが怒号し、歯を食いしばってフリントを睨みつける。
アリシアは悲鳴をあげ、慌ててハティを羽交い締めにしながら、ウッドの後ろへと押し込んだ。
スリザリンチームの面々も、憎しみと怒りのこもった罵声を口々に浴びせた。フリントは烈火のごとく怒り狂い、「ぶちのめしてやる、このクソアマが!」と拳を振り上げたが、マダム・フーチが慌てて割って入ったため、その拳はウッドにすら届かなかった。
「マーカス・フリント! グリフィンドールチームに危害を加えるつもりなら、あなたの出場は認めませんよ! そして、ハリエット・ポッター、あなたもです! わざわざ敵を刺激しない。いいですね!?」
「はい、マダム」
ハティは無表情で答えたが、フリントは最後までこちらを睨みつけていた。
ふくれっ面をしながら箒に跨ろうとしているハティに、ウッドは剣呑な顔つきで身を寄せ、耳打ちした。
「いいか、ハティ。作戦どおりにいけよ。作戦どおりに」
「はーい、キャプテン」
ハティは抑揚のない声で答えた。
ウッドは眉間に皺を寄せ、「本当に分かっているのか、こいつ……」と胡乱な目でハティを見た。
彼女をシーカーに抜擢してからの練習期間は、ウッドにとって十分とは言えなかった。だからこそ、ハティに教えたのは基本的な飛行技術やグラウンドを見渡す空間把握能力、そしてルールくらいだった。
幸いなことに、ハティは水を吸ったスポンジのように、教えたことをぐんぐんと吸収していった。それどころか、チームメイトのプレーを観察するうちに、ウッドが教えていない飛行技術まで習得してしまった。マクゴナガル教授の言うとおり、ハティは箒を操る技術に関しては天才的な才能を持っていた。
彼女の異常なまでの反骨精神を除いては。
だからこそ、ウッドが作戦会議でハティに求めたことは、ただ一つだった。
――スニッチが現れるまでは、安全圏で大人しくしていろ。
果たしてハティがそれを守るのか、ウッドには一抹の不安が残った。しかし、ウッドはハティを信じることにした。キャプテンがチームを導くうえで最も重要なのは、チームメイトを信じることだからだ。
それはウッドの人格を語るうえで美点であり、同時に弱点でもあった。
そして、この時のウッドの判断は、悪夢のような光景をもって裏切られることとなる。
「箒に乗って! 試合開始!」
マダム・フーチの銀の笛が鳴り響いた。
十五本の箒が一斉に青い空へと舞い上がる。ウッドは観客席から爆発的に上がる絶え間ない歓声や怒号に耳を傾けながら、キーパーとしての定位置についた。
開始から数秒、クアッフルを最初に手にしたのは、グリフィンドールのチェイサーであるアンジェリーナ・ジョンソンだった。
ウッドはアンジェリーナに聞こえていないことを承知しながらも、「いいぞ、アンジェリーナ!」と叫んだ。
幸先がいい。アンジェリーナは相変わらずチェイサーとして優秀で、アリシアに綺麗なパスを投げた。アリシアも難なくそれを受け取る。
このままスリザリンのゴールに投げ込めば、グリフィンドールが先制点を奪うことになる。ウッドは手に汗を握りながら、「いいぞ、アリシア……いけ!」と唸った。
恐るべきスピードで箒を走らせるアンジェリーナに向けて、アリシアはクアッフルを投げた。
その時、鷹のようなスピードでアンジェリーナに突進する影があった。
――マーカス・フリントである。
フリントはトロールのような形相でアンジェリーナに迫っていた。ウッドは苦渋に満ちた呻き声をあげた。
彼のプレーを熟知しているウッドには、怒りに駆られたフリントがそのままアンジェリーナを突き飛ばすか、箒の尾を掴んで叩き落とそうとすることが容易に想像できた。
アンジェリーナが恐怖に満ちた青白い顔で振り返る。ケイティの前任者は、ウッドの目の前でフリントの暴力的なプレーによって選手生命を絶たれたのだ。
それでもアンジェリーナは覚悟を決めたようにスピードを上げた。
ウッドは口の端でにやりと笑い、アンジェリーナに追いすがった。そして、そのままアンジェリーナの横に並んだ、その時だった。
「きゃあああああああ!」
抑揚のない悲鳴が響いた。
それは悲鳴というよりも、大根役者が脚本を棒読みしているかのような声だった。
アンジェリーナとフリントが、同時に真上を見上げた。
真紅と黄金に縁取られた小柄な少女が、恐るべきスピードで地上に向かって降下していた。グリフィンドールのシーカー、ハティ・ポッターである。
「たーすーけーてー! 箒がおかしーのー!」
ハティは抑揚のない声で叫びながら、そのままアンジェリーナとフリントに真上から突進した。
箒が誤作動を起こしているとは思えないほどの稲妻のようなスピードと精密さで、二人に迫っていく。
二人は愕然としていたが、アンジェリーナはクアッフルを放り出し、咄嗟にハティを受け止める姿勢をとった。一方のフリントは「ノーコンが! いいところで邪魔しやがる!」と舌打ちをして、アンジェリーナから離れた。
しかし、意外なことにハティはアンジェリーナの腕に飛び込むことなく、正確に向きを変えてフリントの頭上へと進路を変えた。
フリントがぽかんと口を開く。
そして、ハティはフリントに迫ったところで、箒からころりと滑り落ちた。
観客席から悲鳴と歓声が入り混じった声が響く。
柄を掴んだまま急降下したハティは、悲鳴をあげて唖然とするフリントの頭上に、強烈な踵落としを食らわせた。
悲鳴をあげて、フリントが箒から振り落とされる。
そのまま重力に逆らうことなく、恐るべきスピードでフリントの巨体は降下し、ぐしゃりと何かが潰れたような鈍い音を立てて芝生の上に落下した。
ハティも後を追うように箒から落下したが、難なくフリントの上に着地した。
「ぐえっ」
蛙が潰れたようなうめき声があがる。
一方のハティは「おっと、不時着だ」などと軽口を叩き、そのままフリントの上に重なるように倒れ込んだ。
マダム・フーチが甲高い笛の音を響かせて叫んだ。
「スリザリンチームのチェイサーが試合続行不能! タイム! 担架を! 誰か医務室に連絡して!」
地上で待機していたスリザリンチームの補欠選手が、慌ただしくグラウンドを駆け出していく。
一方、スリザリンチームは水を打ったように静まり返っていた。誰もが青ざめ、恐怖に引きつった顔をしている。彼らの視線は一様に、芝生の上でぴくりとも動かないフリントに注がれていた。
エイドリアン・ピュシーが「俺、フリントの様子を見てくるよ!」と震える声で告げ、地上に降りていく。それを皮切りに、次々とスリザリンチームの選手たちが降下していった。
ウッドも、いよいよ様子がおかしいと感じ、遠くに見えるフリントの小さな姿に目を凝らした。
グリフィンドールチームの面々も続々とフリントのもとに集まり始めたのを見て、ウッドも箒を走らせた。
地上ではマダム・フーチがハティとフリントの無事を確かめていた。
ハティは「いたたたた、足が痛いですぅ。ミスター・フリントとぶつかった時に、きっと怪我をしたんですぅ」と半泣きでマダム・フーチに訴えていた。
「わかったわ。試合は続行できそうかしら?」
「手足が折れても試合は続行します。なんたって、たった一人のシーカーですから!」
ハティの力強い言葉に、ウッドは「よく言った!」と褒めようとした。
ところが、スリザリンチームの面々が通夜のような悲壮な顔つきで「フリントォ!」「起きてよ!」とフリントの顔を覗き込んでいるのを見て、口を噤んだ。
ウッドはパーシーに「頭までクィディッチに支配されているのか?」と言われるような男だが、空気が読めないわけではない。
しかし、ここに空気の読めない女が一人いた。
マダム・フーチは息を切らしながら担架を運んできたスリザリンの選手たちと、マダム・ポンフリーを見やり、「体を動かしては駄目よ! 頭は特にね!」と言い置いて、グラウンドの入口へと走っていった。
その隙に、にっこりと微笑んだハティが立ち上がった。
手足を怪我しているとは思えないほど滑らかな動きで歩き出し、スリザリンチームへと近づいていく。
「さーて、次は誰かしら? 前に出なさいよ。あんたたちのキャプテンみたいに、潰れたトマトみたいに箒から叩き落としてやるわ」
「ま、まさか、お前、わざと!?」
「やだあ、何を言ってるんですか、ミスター。わたしは初めての試合だし、箒に乗ったのは一か月前だから、失敗することだってたくさんあるんですぅ。フリントの頭に踵落としを食らわせて、箒から叩き落としたのは偶然ですぅ。でも、この試合にはボブの教えに従って、スリザリンチーム全員をファックするつもりで挑みました! この後の試合もよろしくお願いしますね!」
「ひっ!」
スリザリンチームがどよめく。一人が悲鳴をあげ、ハティから後ずさった。
ウッドも悲鳴をあげた。
数週間前の自分の行いが、走馬灯のように頭を駆け巡る。
スリザリンのラフプレーに負けないよう、強靭な女たれと、ボブ・ブキャナンのもとにハティを送り出した自分。
しかし、ボブ・ブキャナンがマグル出身であるがゆえに、純血主義者であるスリザリンの連中に対しては、あらゆる暴力も厭わず「クソムシども」と呼び、喧嘩上等で叩きのめしていることを思い出した。
ウッドは自覚した。
はからずも、自分はバーサーカーを爆誕させてしまったのだと。
呆然としている間にも、ハティはフリントのそばに寄り、彼に息があることを確認すると、ぺっと唾を吐き捨てた。
「クソムシ風情が、まだ生きてやがる」
そして、フリントの頬を容赦なく平手打ちした。
スリザリンチームに動揺が走る。キーパーのマイルズ・ブレッチリーが慌ててハティを押しのけた。
「な、何をするんだ! フリントは重病人なんだぞ!」
「もちろん、重病人だから目を覚まさせてあげるのよ。痛みを自覚できる方が、最高に生きてるって感じがするじゃない」
「頭を揺らしたら駄目だって、マダム・フーチが言っていたのが聞こえなかったのか!? この先、フリントがプレーできなくなったらどうするんだ! このイカレ女!」
「わたし、医学とか難しいことはわかんない。でも、フリントは意識があった方がいいと思う」
「ウッドォ! このイカレた女を早く回収しろ!」
ブレッチリーが怒号した。
ウッドもさすがに「こいつはやべぇ」と思い、申し訳なさそうな顔を作ってハティに駆け寄った。
この倫理観の欠如したチームメイトを叱ろうと口を開いた、その時だった。
「箒から落ちたというのに、よく無事でいてくれた。お前をボブのもとに送り込んだ甲斐がある。それで、手と足は大丈夫なのか? 本当に試合を続行できるのか? お前の代わりは準備していないから、頼むからスニッチを取ってくれよ、ハティ」
口から出たのは、身も蓋もない言葉であった。
「はい、キャプテン」
ハティは何の躊躇もなく答えた。
担架が運び込まれると、フリントは大柄だったため、三人がかりで担架に乗せなければならなかった。
担架から力なく垂れ下がったフリントの腕を見て、スリザリンチームの面々は歯をガチガチと鳴らした。そして、不自然なほどにハティとウッドから視線を逸らした。
ラフプレイにはラフプレイで返す。その時初めて人の痛みがわかるんだよね