しばらく人間ドラマの話が多かったので、怪獣らしいものを書こうと思いました。

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 お父さんの手が、痛いくらいに強くわたしの手首を掴んでいた。

 

「離れるな」

 

 雨が顔を叩いて、風が声をさらって、わたしたち家族はこの豪雨の中でどこへ向かっているのか、わたしにはわからなかった。

 お父さんたちが進んでゆくから、わたしも後に続いていた。前にお父さん、後ろにお母さんとお兄ちゃん。わたしの家族だけ確認できれば十分だ。

 

 砂利道を抜けて、防波堤沿いの段差を越えて、漁協の横の細い路地を――わたしはこの島のどこに何があるか、目をつぶっても歩けると思っていた。

 でも嵐と闇夜は、島の形を変える。

 町の灯が全部消えていた。停電したのか、それとも壊れたのか。お父さんの懐中電灯だけが頼りで、その光が雨の中を泳ぎ、見覚えのある景色をぜんぶ知らない場所に変えた。角を曲がるたびに「本当にここだっけ」と思ったけれど、言えなかった。立ち止まれる空気じゃなかった。

 

 遠くで、何かが潰れた。

 

 建物が薙ぎ倒されるときの音を、わたしはそのとき生まれて初めて聞いた。ガラスでも木でもコンクリートでもない、もっと大きな何かによって、まとめてひき潰される音。どこか遠い場所の音のはずなのに、体の真ん中まで届いた。

 お父さんの足が一瞬止まった。すぐにまた動いた。

 

「お父さん」とわたしは言った。声になっていたかどうかわからない。

 

 お母さんが何か叫んだ。お兄ちゃんが答えた。

 声は聞こえたけど言葉は聞き取れなかった。風が全部持っていった。わたしはただ走った。お父さんの手を握って、泥を蹴って、息を忘れないようにして走った。

 

 右手に港が見えた。

 船が揺れている。いつもは穏やかな停泊地なのに、船が互いにぶつかりあって、金属の悲鳴みたいな音を立てていた。

 

 地面が、また揺れた。

 

 ……これはただの嵐じゃない。でも何なのか、大人たちも知らないようだった。わたしたちはただ急いだ、どこへ向かうともわからないまま。

 

 遠くで、もう一度、何かが潰れた。

 さっきよりずっと近かった。

 

 お母さんが叫んだ気がした。振り返ろうとしたら、お父さんの手が離れた。

 転んだのか、引き剥がされたのか、わからなかった。泥の中に顔をぶつけて、口の中に砂と血の味が広がって、顔を起こしたときにはわたし一人しかいなかった。

 

「お父さん、お母さん、お兄ちゃん!……」

 

 わたしの声が、雨に消えてゆく。

 膝が泥に沈んで、手のひらが砂利を掴んで、それでも体が起き上がることを拒否した。

 雨が背中を叩き、風が耳の中で唸った。あたりは暗かった。お父さんの懐中電灯の光もなく、どっちが港でどっちが山かもわからなかった。

 もう一度叫んだ。

 

「お父さん!」

 

 今度は確かに声になったが、返事はなかった。

 遠くで何かが燃えていた。オレンジ色の光が、雨の向こうでゆらゆらと揺れていた。こんな嵐の中で何かが燃えている。

 そのとき、音が聞こえてきた。

 

 

 どおーん――……!

 

 

 一発だった。遠くて、低くて、地面を揺るがすような音。

 雷ではない。雷は空から落ちてくるけれど、今の音は地面に何か重たいものがぶつかったときの音だった。胸の中心を何か固いもので圧し潰されるみたいな感じがした。

 

 最初わたしは、大砲だと思った。

 家族で本土に旅行に行ったとき、映画館で見たことがあった。戦争映画で、軍艦が大砲を撃つシーン。あんな音だった。

 ……そうか、とわたしは思った。

 海の向こうから誰かが大砲を撃っている、だから島が騒ぎになっていたんだ。大砲なら、当たらなければいい。山の方へ逃げればいい。

 そう思いついたとき、また来た。

 

 どおーん。

 

 さっきと同じ低くて重い音だったけれど、今度は少しだけ近かった。地面が微かに揺れた。砂利の上に落ちていた小石が、ひとつ、ころんと転がった。

 わたしは立ち上がった。

 音は西から来ていた。港の方向だ。山の方へ逃げればいい。そう考えると、体が少し楽になった。わかったことが、恐怖を小さくした。

 三発目。どおーん。

 今度は地面の揺れが、はっきりとわかった。足の裏から膝まで、振動が伝わった。炎のオレンジが、ぐらりと揺れた。

 

 ……おかしい。

 大砲の音というのは、撃った瞬間に一度だけ鳴るものじゃないのか。でもこの音は、等間隔で鳴り続けている。一定のリズムで、少しずつ近づきながら。

 大砲の音と言うのは、近づいてくるのだろうか。

 

 四発目。どおーん。

 

 遠くの炎が激しく揺れた。

 大砲じゃない、とわたしは悟った。まるで巨大な足音のような……

 何の足音か、考えてはいけない気がした。考えたら、動けなくなる。

 

 どおーん。五発目は、さっきよりずっと近かった。

 

 垣間見えた稲光の刹那、遠くの炎が何かで遮られるのが見えた気がした。建物より大きい影の輪郭が、雨の中でゆっくりと動いている。

 

「おとう……」

 

 お父さんを呼ぼうとして、呼べなかった。喉の途中で声が止まった。

 叫んだら“そいつ”に聞こえてしまう。根拠なんてなかったけれど、それでも声が出なくなった。

 お兄ちゃんの名前も、お母さんの名前も、全部喉の奥に引っ込んだ。

 

 

 引き返すべきか、と思った。

 転んだのはどのあたりだったか。路地を抜けたあたりか、それとも防波堤の手前か。

 家族はわたしがいなくなったことに気づいているはずだ。気づいて、戻ってくるはずだ。だからここで待てばいい。

 五秒、待った。十秒、待った。

 どおーん。

 振動が足の裏から腰まで届いた。もう遠くない。

 

 どおーん、どおーん、どおーん!……

 

 音が背後に迫ってきたのを感じたとき、考えるより先に体が走り出していた。

 音から遠ざかるようにわたしは走った。でも近づいてくる音のリズムは変わらなかった。一定の間隔で、どおーん、どおーん、と鳴り続けている。わたしがどれだけ走っても、振動は消えてくれなかった。

 

 走りながら、お母さんのことを思った。

 今朝、お母さんはわたしのお弁当を作った。学校で運動会の予行練習があったから、いつもより早起きして、小さいうさぎりんごを入れてくれた。わたしは「もう小学三年なんだから、うさぎりんごいらない」と言った。お母さんは「じゃあ来年からやめる」と言って笑った。

 次にお兄ちゃんのことを考えた。

 お兄ちゃんが中学に上がってからあまり話さなくなったけれど、今日は学校から帰ったら「宿題手伝ってやろうか」と声をかけてきた。

 わたしは「自分でできる」と言った。お兄ちゃんは「そっか」と言ってまた自分の部屋に戻った。自分でできると言ったけど、本当は少し嬉しかった。それを言えばよかった、とわたしは走りながら思った。

 

 どおーん――……。

 少しだけ、遠くなった気がする。

 

 わたしは走り続けた。音が背中から追いかけてくるあいだは、絶対に止まらないと決めた。

 お母さんの剥いてくれたうさぎりんごのことを、また思った。来年もお弁当を作ってもらう。来年はうさぎりんごが入っていなくて、それをちょっと寂しく思う。そういう来年を迎える。

 そんなことを考えながら、わたしは闇夜を駆けていった。

 

 

 気がつくと島の東側まで来ていた。

 山の裾野に近い、古い集落の端っこだ。足音はまだ聞こえていたが、振動は弱くなっていた。

 臭いが漂っている。

 最初は嵐の臭いだと思った。潮と泥と、雨に濡れた草の臭い。

 でも違った。その奥にもっと別の臭いがあった。魚市場や磯の臭いに似ているが、何倍も濃い。深い海の底みたいな強烈な臭いだ。嗅いだことのない臭いなのに、体が本能的に嫌がった。

 風向きを見ると、臭いは南から来ているようだった。海の方だ。

 

 次の角を曲がったとき、足が止まった。

 道の真ん中に、穴があったからだ。道路が内側から爆発したみたいにめくれ上がって、縁がぎざぎざに尖っていた。

 穴の直径は、わたしの背丈の何倍もあった。深く地面にめり込んでいて、穴の縁に沿って片側だけ土が盛り上がっている。

 輪郭を見下ろしたとき、穴が指のかたちをしていることに気づいた。巨大な四本指と爪の跡。

 

 

 これは足跡だ。

 

 

 角を曲がったら、建物が原形をとどめていなかった。屋根がまるごと地面まで落ちている。隣の家も、その隣も同じだ。家をも踏みつぶす巨大な足跡が、島を横切るように一列に並んでいた。

 海岸に出たら道が消えていた。防波堤が根こそぎ崩されていて、波が道の上まで来ていた。迂回しようとしたら北の路地が瓦礫で塞がれていた。

 

 道の途中に、黒いものが落ちていた。

 光がなかったから、最初は何かわからなかった。立ち止まって、目を凝らした。

 懐中電灯。電源が切れて、レンズにひびが入っていた。

 

 ……形に見覚えがあった。

 去年の台風のあと、お父さんが「これがあれば百人力だ」と言いながら玄関の棚に置いたやつ。間違いない。今夜、家を出るときにお父さんが掴んでいたやつだ。それが泥の中に落ちていた。

 わたしはそれを拾わなかった。

 拾えなかった。拾ったら、今頭をよぎったことが本当になってしまう気がした。だからわたしは立ったまま、雨の中で消えた懐中電灯を見つめていた。

 涙は不思議と出なかった。泣くための何かが、根本のところで折れてしまったみたいだ。悲しいとか、怖いとか、そういう感情の名前がつかない何かが、胃の底から込み上げてきた。

 わたしはその場で吐いた。

 

 

 嵐の闇夜を彷徨い続けて、どのくらい経ったかわからなかった。

 小さな島の中をどこへゆくでもなく歩き続けて、路地を抜けると石段が見えた。

 神社だ。

 それは島の海辺にある小さな神社で、正月に家族でお参りに来たことがある。わたしは石段を駆け上がり、拝殿の軒下に転がり込んだ。

 ……屋根がある。雨が当たらない。

 それだけのことが今は泣きそうなくらいありがたかった。板張りの床に膝をついて、肩で息をした。ここでなら少しだけ正気でいられる気がした。

 

 外は嵐が最高潮だった。

 空と地面の区別がなくなるほどの土砂降りで、強い風がびゅうびゅうと何かを引き千切るみたいな音を立てていた。雷がすぐ近くに落ち、目の裏が白くなり、一瞬耳が死んだ。

 どおーん。

 例の音がして、地面が揺れた。瓦礫が鳴り、拝殿の屋台骨が軋んだ。その様子がそれまでとは違うことに気づいた。さっき出くわしたときは遠くから近づいてくる振動だったけれど、今のはすぐそこだ。

 それから臭いが来た。深い海の底から鼻の奥が焼けるような、あの臭い。

 

 どおーん……。

 足音が、止まった。

 

 動いていない。どこかへ行ったのか、それともすぐそこで止まっているのか、どちらなのかわたしにはわからなかった。音がないことが、音があることより恐ろしく思えた。

 もう限界だった。

 (やしろ)を飛び出して、自分でもわけのわからないことを喚きながら走り出した。

 そいつがどこにいるのか、自分がどこへ向かっているのか、自分がどうしたいのか、今のわたしは何もわかっていなかった。足音は止まったはずなのに、どおーん、どおーんという振動が今もあらゆる方向から響いているような気がして、どうすれば逃れられるのかもわからなかった。

 何もわからなくなったそのとき、ざわ、と背後の空気が変わるのを感じて立ち止まった。

 

 後ろに、いる。

 

 体が石になったような心地がした。

 逃げなければという思いと、動いたら終わりだという思いが体の中でぶつかって、どちらにも勝てなかった。

 一秒が一時間みたいに伸びるのを感じながら、わたしはおそるおそる振り返った。

 

 最初に見えたのは、足だった。

 巨大な足首が、道路をめり込ませてすぐそこに立っている。わたしの視線が、そこから頭上へと勝手に追いかけてゆく。

 足首の上には太く逞しい脚があった。大蛇みたいなとてつもなく長い尻尾がのたうっており、背中には茨みたいな鰭が並んでいる。胴体はぶくぶくと膨れ上がっていて、腕は不思議なくらい小さかった。

 塔のような首筋を目で辿ってゆくと、雨の中、雲に届くくらいの高さにそいつの顔があった。稲光が走って、ごつごつした岩のような黒い肌がてらついた。

 

 

 爛々と白く光る眼が、こちらを見下ろしていた。

 

 

 わたしは泥の中に膝をついたまま、そいつから目を離せなかった。

 目には映っている、でも頭がそれを飲み込もうとして出来なかった。逃げることも、叫ぶことも、まばたきすることさえも全部忘れていた。怖い、という感覚がどこかへ行ってしまっていて、わたしにはもう自分がどこにあるのかもわからなかった。

 ただ、こういうものがこの世界に存在している現実を、わたしは受け取り続けていた。

 

 ……どのくらいそうしていたかわからない。

 先に動きだしたのは、相手の方からだ。

 わたしの方を向いていたそいつの白い目がぎょろりと動いて、巨大な体がのっそりと別の方向へ向き直った。

 そいつが一歩踏み出すと、同時に地面が揺れてわたしの体が跳ねる。

 また一歩、そいつが足を踏み出すごとに()()()と地面が揺れ、巨大な背中が暗い空を引き裂きながら浜の方へと進んでゆく。やがて足音が水音に変わり、水音がさざ波に変わった。

 ふと思った。

 

 こいつは海からやってきた。

 だから海に帰るんだ。

 

 わたしはずっと膝をついたまま、海へと消えてゆくそいつの背中をぼんやり見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和XX年十一月 怪獣災害調査報告書

孫ノ手島 怪獣被害状況について

内閣総理大臣官房 特別調査委員会

 

一、被害概要

 

 十一月初旬、季節外れの台風に伴う悪天候の夜間、小笠原諸島 孫ノ手島において巨大生物による甚大な被害が発生した。

 島内の建造物のほぼ全域が崩壊ないし損壊し、港湾設備、漁業施設についても壊滅的な状況が確認された。

 死者および行方不明者については現在も調査継続中であるが、島民の大多数が本災害により死亡したものと推定される。

 

二、被害規模

 

 孫ノ手島の島民登録数は百七十三名であった。

 うち本土滞在中であった十一名を除く百六十二名が被災し、生存が確認された者は後述の女児一名のみである。行方不明者については捜索を継続しているが、建造物の崩壊状況および現地の損壊規模に鑑み、大多数は生存していないものと判断される。

 

 島内の建造物については、民家百十四棟のうち原形を保つものは皆無であった。全壊八十七棟、倒壊二十一棟、焼失六棟。漁協施設、診療所、小学校、寺社を含む公共施設についても全壊ないし壊滅が確認された。港湾施設は防波堤を含め完全に消失し、係留されていた漁船十九隻のうち現存するものは三隻、いずれも大破している。

 

 道路については島内全域にわたり損壊が確認され、特に中央部から港湾にかけての一帯は、直径十メートルを超える陥没痕が連続して認められた。これらは本生物の足跡と推定され、そのいくつかは地盤を三メートル以上貫通していた。陥没痕の間隔を計測した結果、歩幅はおよそ十から二十メートルと推定される。

 

 島内農地についても全域が踏み荒らされ、あるいは崩落が確認された。被害総額の算定は現在も継続中であるが、孫ノ手島の有人島としての機能は事実上、完全に失われたと判断せざるを得ない。

 

三、生存者について

 

 本災害における生存者は、現時点において一名のみ確認されている。

 島民の女児、推定八歳ないし九歳。翌朝、海岸付近において近隣漁船の乗組員により発見、保護された。

 発見時、同女児は防波堤跡の岸壁に座したまま沖合を見つめており、呼びかけに対してしばらく反応を示さなかった。身体的外傷は軽微であったが、極度の消耗とショック状態が認められたため、直ちに本土病院へ搬送された。

 同女児の家族についてはいずれも行方不明であり、生存は絶望的と判断される。

 

四、生物の同定について

 

 本生物の詳細については別紙調査報告に譲るが、目撃証言および現地調査の結果、巨大生物であることが確認された。

 島内各所に残存する足跡の形状については、四指を有する爬虫類様の踏痕であり、その輪郭および指配置の特徴は、昭和XX年に東京を襲撃し甚大な被害をもたらした巨大不明生物、通称「ゴジラ」の足跡記録と高い一致を示した。委員会は現時点において、本災害の原因生物を過去に出現したゴジラと同一、あるいは同種の生物であると推定する。

 足跡の計測値、被害範囲の規模、および目撃者の証言を総合すると、ゴジラの体高は五十メートル、体重は一万トンを超えるものと推定される。被害後、ゴジラは自ら海中へ退去したものと見られ、現在の所在は不明である。

 

五、備考

 

 保護された女児は、事情聴取において断片的な証言を行った。

 暗闇の中で足音が近づいてくるのを聞いたこと。海の底から来たような臭いがしたこと。逃げているうちに生物と正面から遭遇したこと。

 担当官が詳細を問うと、女児はしばらく黙った後、こう述べた。

 

「向こうは、わたしのことを見ていなかった」

 

 それ以上の証言は得られなかった。

 

本報告書は内閣特別調査委員会の内部資料であり、

一般への公開は当面見合わせるものとする。




ゴジラをクトゥルフとして観る見方はアニゴジとKOMから教わった。
推奨BGM:ゴジラ上陸(ゴジラ)

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