禪院家の屋敷は、京都の高級住宅街の外れに静かに佇んでいた。
表札すら出していないその門構えは、しかし近づくだけで圧迫感がある。長い年月をかけて染み込んだ呪力が、土壁や石畳に微かに宿っているからだろうか。御三家と呼ばれるだけのことはある。
「……行きたくないわよぉ」
隣を歩く歌姫先生が、あからさまにいやそうな顔で言った。
特に同行を頼んだわけではない。彼女の実家からの呼び出しを人生経験豊富な先達として相談したところ、渋い顔をしながらも一緒に来てくれたのだ。
本当は真衣さんと来るつもりだったのだが、本人が全力で拒否したのと、呼び出し相手が俺のみの指名だったのでこのメンツとなった。
この人が良い教師であることは、こういう時に如実に伝わる。
「ありがとうございます。頼りにしてます——とは言え、ここは彼氏である俺に任せてください」
「お世辞を言ってる場合じゃないわよ。何か言われても私は助けないから」
そう言いながらも、歌姫先生はちゃんとついてきてくれている。
俺は一つ深呼吸をして門を叩き、彼女の実家という名の伏魔殿に、招き入れられた。
応接間に通され、待つことしばし。禪院扇はやってきた。
黒紋付の和装。背筋をまっすぐに伸ばし、膝の上に手を置いて座るその姿は、絵画のように静止していた。目元には深い皺が刻まれているが、その奥の眼光は鋭い。
御三家の当主格。それにふさわしい厳格さを持つ人物だと聞いていた。俺は内心かなり緊張していた。
ところが。
「ふむ、やはり若いな」
こちらをひと通り観察して出た第一声は短いが、想像していたより威圧的ではなかった。
「貴様がうちは忍か。貴様のことは聞いている」
話しながら分かってきたのだが、どうやら扇さんは娘のことを心配して、事前に俺のことを調べ上げていたらしい。
その事実を知った途端、印象ががらりと変わった。
歌姫先生からは事前に「呪術師の古い家の人間は、特権意識が強く人格的に難がある者が多い」と聞かされていた。
確かに、禪院扇という人物からは、目的のためには手段を選ばないだろう冷徹さが感じられた。
しかしそれは、自分自身にも他者にも等しく厳しいという、一本筋の通ったストイックさから来るものだった。
——とある作品で読んだ、二代目火影の意志。あるいは大樹の陰から里を守る決意を固めたダンゾウ様。
どちらにも少し似た、しかしそれよりもわずかに温かみを帯びた冷徹な意思を、この人から感じた。
話は次第に術式の話に移り、扇さんは俺の力について訊いてきた。
俺は包み隠さず俺の生得術式:『魔眼操術』について説明した。特異な三種の瞳術を生成し操る術式の仕組み、それぞれが個別に有する能力と長所、そして縛りの重さまで。
扇さんは無言で聞き、最後にこう言った。
「面白い術式だ」
短い言葉だったが、社交辞令ではないと分かった。そして一拍おいて。
「真衣との婚約、儂は全面的に認めよう」
俺は思わず姿勢を正した。
「……ありがとうございます」
「貴様たちの子供を見てみたいものだな」
その言葉には、不思議な温度があった。堅物で通っているはずの人物の口から出たとは思えないほど、素直な響きがあった。——この人は、不器用な形でしか愛情を示せないのかもしれない。そんなことを思った。
隣で歌姫先生が小さく咳払いをしたのが聞こえた。顔が見えないが、多分喜んでいるのだろうと解釈することにした。安心してほしい、責任も取れないうちにそんなことに及ぶつもりは毛頭ない。
婚約の話が落ち着いたあたりで、扇さんの口調がわずかに変わった。
「交流会のことで、頼みがある」
東京の姉妹校との合同交流会。その場で真希さんへ伝言を届けてほしいと言われた。内容は「実家に顔を出せ」とだけ。
そして、もう一件。
「伏黒恵という人物を知っているか」
「名前だけは」
「禪院家の相伝を持つ術師だ。五条悟の秘蔵っ子で、東京校の一年に在籍している」
五条悟という名前は、歌姫先生から何度も聞かされていた。酔うたびに愚痴の種として登場する人物で、話しぶりからすると捕まっていない呪詛師のような人物像が浮かぶ。まあ、歌姫先生の酔った時の言葉はいくらか割り引く必要があるが。
「その伏黒が、五条の後ろ盾を頼りに禪院家へ介入を画策しているのではないかと、案じている者がいる。一目見てきてほしい。どういう人物か、確認してもらいたい」
「わかりました」
俺はあまり深く考えずに頷いた。真衣さんと結婚すれば、いずれ親戚になる相手だ。早めに顔を知っておくのは悪いことではない。
最後に、俺は少しだけ真衣さんのことを話した。術式の解釈を広げ、拡張術式の開発に取り組んでいること。実家を出て自立するために、昇格任務に邁進していること。
扇さんはその間、黙って聞いていた。表情は動かない。しかし何か——一人暮らしをしている年頃の娘を心配しながら、それを口に出せない。不器用な父親の横顔を、俺は確かに見た気がした。
その後、扇さんから宿泊を勧められたが、歌姫先生が全力で辞退したので帰宅することになった。
♂♀
帰り道、歌姫先生が唐突に叫び出した。
「お酒が飲みたい」
彼女の実家へのあいさつに付き合ってくれた恩もある。俺は快く同行した。
先生のおごりで入った京都の小料理屋。生ビールを一口あおった歌姫先生と、俺は今日の反省会を始めた——もっとも俺としては百点満点の結果で、鼻高々に語る内容しかないのだが、なぜか歌姫先生は俺のことを養豚場の豚でも眺めるような目で見てくる。
「古い家って大変そうですね」
俺が他人事のようにそう言って締めくくると、歌姫先生はジョッキを置いて、頭が痛そうに俺を見た。
「……あなたね」
「え、何かまずいことでも」
「もういいわよ」
先生は二杯目のビールを静かに飲んだ。
その横顔が何を思っていたのかは、俺には最後までよくわからなかった。
うーん、比較対象が悪いよ。