pixivにも同名のものを投稿しています。
今日の目覚めを知らせる陽光は、仄暗い橙色だった。午後五時を指す時計は、夕暮れに染まっている。
「……」
ぼんやりと吐いた息が空に舞うでもなく、一直線に落ちていく。そして消えた。
昨日は休日前の夜に安心しきって、死んだように寝たのだろう。寝た時間すら覚えていない。せめてアラームでも設定しておけば良かった。体を起こして窓を開ける。もう冬は虫の息なのか、部屋に入る風が妙に生暖かく感じた。そんな季節は追い風みたいだった。そっと背中を押すようで、身体を抜けて先へ吹く。季節にさえ、追いつくことができなかった。
彼への告白から、返事は貰っていない。あれから夏は死んだ。ヒグラシと一緒に。秋は殺された。夏と冬に。冬はもうじき殺される。きっと私に。
ベッドに戻ってスマホを眺めている内に、ふと部屋の橙色が抜けていくのが分かった。焦るように起き上がった後、冷蔵庫を開くと飲みかけのボトルコーヒーだけが見つかった。数秒、ゴミ箱同然のそれを眺めて、自然とモモトークに手が伸びる。
「はいもしもし」
「今から向かってもいいですよね」
「アオバ?」
「どう――」
電話を切った。バッグを持った。何もかもそのまま、ドアを開けた。
雨が全身を包んだ。けれど、空は今にも地平線へ落ちそうなくらいの淡い紺の空だ。しかも、頭上には天井がある。そうだ、雨上がり。階段を下ってようやく気付いた。全身を包んだのは雨の匂いだった。心地良いだけの匂い。振り払って歩いた。少しして、走った。
逃げるように電車を乗り継いで、また何かを追うように走っていたら、シャーレが見えてきた。沈む陽から逃げたのかもしれない。昇る夜を追ったのかもしれない。光の輪郭が曖昧になった。夜光は眩しい。とても眩しい。
水溜り。道路が街灯に鳴って光を映している。空に星はたいして見えない。けれど、その光がずっと先まで連なっていく様子は、天の川みたいだった。ゆっくりとガラス細工の景色を踏み割って、シャーレのビルへ入った。
「いらっしゃい」
足音で気付いていたのか、ドアを開けてすぐそう声を掛けられた。仕事は終わっていないらしい。書類は高く積み上がっている。
「おじゃまします」
「何か飲む?」
優しく、私の目を見てそう言ってくれた。
「コーヒーか……お茶ならあるよ」
だから、彼の目の奥に巻く渦がよく分かった。
「じゃあ、コーヒーにします」
「分かった。ちょっと待ってて」
彼は席を立って、休憩室へ向かっていった。私はシャーレのソファーに座った。暫くして、両手にマグカップを持って机に置いてくれた。
「ありがとうございます」
コーヒーを啜る。苦い。それだけだ。
「いつからコーヒーの苦みに慣れちゃったんでしょう」
「慣れたくなかった?」
「そういう訳ではないですけど」
彼もコーヒーを啜る。間が空く。コーヒーが辺りの空気に溶けたのか、吸う息が苦くなる。
「顔をしかめるくらいに苦かった頃は良かったなぁって」
「そうだね」
「先生もそう思います?」
「たまにね」
意味の無い、過去への望郷。子供の頃は天才だった。私でも、彼でも、誰だって。私は今も子供だけれど、天才と言うには、少し捻くれすぎてしまった。はぁ。過去を見るから、私たちは。
「まぁでも、成長だよ成長。悪いことばっかじゃない。実際、コーヒーは美味しくなった!」
「そう……ですね」
美味しくなってしまった、それ以外何がある?
「先生」
自分でも分かる、矢のように鋭い声だった。
「……どうかした?」
分かっているくせに。突然押しかけた理由も全部。
「……」
でも、もう彼は逃げない。その優しさが、悲しいほどの優しさが、私は好きだった。
「逃げないんですね。いいんです。返事はいつでもって言ったのは私ですから」
「……」
少しの沈黙。ああ。どうせ。
「そろそろ返事を教えてほしいんですけど」
「……」
目を見れば。結局逃げていたのは私の方だ。どうせ。
「……ごめん。アオバ。」
もちろん分かっていた。分かっていたから。分かっていた。無謀だったんだ。
「シャーレの先生という立場上、生徒と恋愛は難しい。だから、告白には応えられない」
「はい」
聞こえたかすらも分からない、小さな相槌だ。
「返事が遅れて本当にごめん。醜い言い訳だけど、なんて答えるべきか考えてたんだ。ダメな大人だ。」
ダメな大人なんて。余計自分が惨めだ。
「いいんです。こちらこそごめんなさい。むり言って」
「きっとアオバは私なんかよりもいい人を見つけられるから」
私なんか?
「私なんか?」
歪んだ。彼の顔が。はっきりと。私はどんな顔をしているのだろう。きっと彼よりもずっと歪んだ顔だ。
「ごめん。アオバ」
「何で謝るんですか。理由をおしえてくださいよ」
「それは――」
間。
「わからないんでしょう。なぜならあなたは優しいから。だから私にこんなによくしてくれた。朝日でしたよ。せんせいは。ずっとくらかったんです。ぜんぶくらかったんです。あなたにあうまえは」
間。間。間。
「でもやさしすぎるんです。やさしすぎたんです。だから、わたしはしぬほど先生がすきになった。朝日がどんどんのぼっていって、ひるにはさんさんとかがやきます。たいようです。でもせんせいは、せんせいのことを、なにもしりません。きらいなんですか?そのひくつさはなんなんですか。ごうまんです。ごうよくです。ずるいです」
そうだろうか。傲慢だろうか。強欲だろうか。狡いだろうか。それは私じゃないのか。
「ひていしないでください。せんせいがせんせいをひていして、わたしのたいようをうばわないでください!」
心のまま叫んだ。
「アオバ、私は。」
きっと誰も見たことのない先生の顔。見られて良かったじゃないか。
「私は、大した人間じゃないから」
そうだ。彼は心からそう思っている。どうかしている。闇より暗い悲劇だ。
「アオバの暗闇を照らしたのはアオバ自身だ。だから――」
ここに居たくない。はっきりとそう思った。
「ごめんなさい!」
トイレへ駆けこんだ。彼が何か言った。聞こえなかった。
彼は、何も分かっていない。何も知っていない。分かっていたんだ。理解していた。断られることは。受け止めた、一度は。受け止めたのか?本当に?ああ、でもこれだけは。彼があまりに優しすぎた。愛を知らない神様だ。いや、愛しか知らなかったから?彼は神様なんだ。ああ。じゃあ私は。どこまでも、死んでしまえば良い。何の光も届かない、月明かりさえも届かないような、そんな場所で。……あぁ。
洗面台に立った。バッグへ手を入れる。
そうだ、花を咲かそう。おちつこう。
赤い花を。おちつこう。線を描いた。やめろ。まっすぐ書いた。落ち着け。
花が咲いた。やめろ。花が。赤い花があふれる。花が。落ち着け。
花が。もっとふかく。やめろ。花が。花をふかく。やめろ!花が。花が。花が。落ち着け!
錆の匂いに吐きそうになった。それで、現実へ連れ戻された。何も分からないまま、またぼんやりと息をした。手を洗う。強く痛む。夢のようだ。さっきの出来事も何もかも全部。今の時間、星はもっと綺麗に見えるだろうか。夜はもっと綺麗に更けたのか。もう朝なのか。分からない。
ノックの音が聞こえた。ずっと鳴っていたのだろうか?優しいノックの音だった。名前を呼ぶ声も聞こえた。スマホで時間を見る。さほど時間は立っていなかった。ドアを背にして座り込む。
「なんですか?セクハラなんですけど」
「……ごめん。暫く出てこないから、心配になって」
「優しいんですね」
精一杯の皮肉を吐いた。皮肉なのか?事実では?
「屋上にいるね。私の顔を見たくなかったらそのまま帰って。交通費は机の上にあるから」
暮れない黄昏がないような、静かに沈む声だった。
「でもそうじゃなかったら、来てほしい。もう一度話がしたい」
ずるい。行くしかないじゃないか。
「質の悪い二択問題は嫌いです」
「……ごめん」
足音が離れていった。ずっと遠くへ離れていくようで、焦燥を感じてしまった。聞こえなくなったところで、ドアを開いた。同時に感じた鈍い痛みは、まだ夢のように思える。悪夢だ。
ゆっくりと、追いつかれてしまうことを悟ったように廊下を歩いて、階段を上った。白昼夢に歩いている。夜だから、白夜夢だろうか。はは、あったじゃないか。明けない夜だ。暮れない黄昏だ。どうでもいい。
吹きさらした屋上の夜は、流石にまだ冷たかった。今度の水溜りは月明かりに鳴っている。
「何を話したいんですか」
私の声に安堵したかのように振り向いた。けれど、腕についた赤い花弁を見て、また顔を歪めた。
「アオバ――」
「何を話したいんですか」
苦しそうな声を遮った。彼は何かを堪えるような顔をして、また話し始めた。
「もう一度、考えてほしい」
「何をですか」
「……もしもう一度考えて、それでも私で良いなら、告白を受けるよ」
はは。
「立場上、難しいんじゃないですか」
「それは私がなんとかする」
先生は近づいてきた。そして私を抱き締めた。暖かい。
「ごめんね。アオバ」
暖かい。春の陽に抱かれたみたいだ。
「私が不甲斐ないばかりに」
暖かい。冷たい夜空を忘れるくらいに。
「こんな思いをさせて」
暖かい。冬を殺せるくらい。
「私で良いんですか」
「もちろん」
暖かい。でも、それだけ。
「じゃあ」
じゃあなんで。
「先生の目の奥は、そんなに曇っているんですか」
ぽつりと一滴、雨が降った。雨の匂いは錆の味と混じって、私だけを包んでいる。