朝、目が覚めると彼女の一日は決まった手順から始まる。
枕元に置かれたノートを引き寄せる。ぱらぱらとページをめくる指先は軽やかで迷いがない。触れた紙の感触が、まだ薄く残る眠気を現実へと引き戻していく。
「えっと、今日は……」
声は明るい。けれどその言葉はどこか既に書かれたものをなぞるようでもあった。
ノートの表紙に書かれた名前を見るに、恐らくは自分の字である筈なのに何処か他人行儀で、昨日の自分が残したものだと理解しているのに、そこに連続性が感じられなくて少女は曖昧に笑う。
罧原サトウ。トリニティ総合学園に通う1年生。
クラスは■■、部屋番号は■■号。席は窓際の一番後ろ。
注意! 最近怪我し過ぎだから走る時は気を付けて。
そこまで読んで、彼女は小さく息を吐いた。
「うん、今日も大丈夫」
ぺし、と頬を叩く。わずかな痛みが今この瞬間の輪郭を与えるように色付いていく。腕に巻かれた包帯が少しずれていることに気付き、巻き直す。
昨日、どこで怪我をしたのか。
思い出そうとしてやめる。
ノートのページを捲るが、それらしい記述は見つからない。
「……ま、いっか!」
声の調子は軽く、揺らがない。失われたものに留まる時間を彼女は持たない。どうせまたどこかでぶつけるのだから、と。同じ未来を当たり前のように受け入れている。
ベッドから飛び降り、制服に着替える。鏡の中の自分は昨日と同じ形をしていた。
黄緑色の髪は所々少し跳ねていて、背は低く、肌のあちこちには絆創膏と包帯が巻かれていた。理由の曖昧な傷が、日々の積み重ねだけを示している気がした。
「よーし、今日もがんばるぞー!」
部屋を出る直前、ふと視線が横に流れる。
一人部屋の壁際。床の隅。机の下。そこには、整然と、あるいは無造作に積み上げられたノートの束があった。一冊や二冊ではない。両手では抱えきれないほどの量がいくつもの山を作っている。元々は本棚に納められていたのだろうが、遂には入りきらず床にまで溢れてしまったのだろう。
どのノートも表紙には丁寧な字で日付が書かれている。同じ筆跡、同じ調子で。古いものほど紙の端が少し擦れていて、新しいものはまだ硬く折り目も浅い。そのすべてが、自身の手によるものだと分かる。それでも彼女はそれらをひとつひとつ確かめることはしない。
ただ一瞬だけ視線を向けて。
「いってきます!」
何も迷わず、扉を開けた。
廊下を慌ただしく走っていたら案の定、曲がり角で誰かとぶつかった。
「わっ!?」
「きゃっ――」
どたん、と音を立てて床に転がる。
「あいたたた……ごめんなさいっ!」
慌てて起き上がると、相手の子も同じように立ち上がっていた。トリニティの制服。見覚えは……ある気がする。たぶん、ある。
「だ、大丈夫ですか?」
「うん!全然平気!」
にこっと笑ってみせる。相手の子は少し驚いた顔をしてから、何処かほっとしたように微笑んだ。
「……って、なんだ。サトウさんでしたか」
名前を呼ばれて、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
「うん!そうだよ!」
相手の子は、少しだけ言葉を選ぶみたいに視線を落として、それから思わずといった様子で苦笑いになる。
「廊下で走るのは危険だとあれほど注意しましたよね?」
「うん! でも 急いでたから!」
あれ、何に急いでたんだっけ。まぁいいや、たぶん大したことじゃない。
「はぁ、……怪我もないようですので良いでしょう。次からは気をつけてくださいね」
「はーい!」
元気よく返事をして、また走り出す。背後から小さくため息が聞こえた気がしたけどきっと気のせいだ。
陽の光が葉の間からやわらかく落ちてくる。中庭の端っこ。人通りの少ない場所。わたしはそこにしゃがみ込んでいた。草むらの中は、少しひんやりしてて落ち着く。外の音もちょっと遠くなる。なんだか秘密基地みたいでわくわくする。
草をかきわけてそっと顔だけ出して様子を見ると、白いテーブルと椅子に座った女の子に気付いた。背筋はまっすぐで、指先まできれいに揃っていて。カップを持つ動きがゆっくりで、無駄がなくて。まるでお姫様みたいだ、と思った。
「……わぁ」
思わず、声が出た。
「――どなたでしょうか?」
静かで、よく通る声。
目が合う。
その子は一瞬の驚きのあと、すぐに落ち着きを取り戻していた。
「えっと、……えへへ」
誤魔化すように笑うと、その子はわたしが出てきた草むらへ視線を滑らせた。
「……草むらから現れるというのは、なかなかに独創的ですね」
穏やかだけど少しだけ探るような視線。何か気に障ることでも言っちゃったかな?
「人が居るとは思わなかったの……邪魔してごめんなさい」
「いえ、咎める意図はありません。ただ……少々、予想外でしたので」
その子はカップを置いて、わたしを見る。
まっすぐで静かな視線。
「ええと、罧原さん……同じクラスの方、ですよね」
「うん!たぶん!」
「たぶん、ですか……。まぁ、私たちはこうして直接お話するのは初めてですから無理もありませんね」
その子は警戒を解いてくれたのか、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。
「改めて、私は桐藤ナギサと申します」
「じゃあナギサちゃんだね! わたしは罧原サトウだよ!」
言った瞬間、ぴたりと視線が止まる。
「いきなりちゃ…ちゃん付けですか……」
「うん! だめだった?」
「いえ、通常であれば訂正をお願いするところですが……貴女の場合、強制しても意味はなさそうですね」
「?」
「構いません。そのままで」
「わぁい! これからよろしくね、ナギサちゃん!」
小さく頷くナギサちゃん。
ほんの少しだけ諦めたみたいな、でも悪くないって顔をしていてついつい嬉しくなってしまう。
そのとき。
ぐぅぅぅぅ……
「あっ」
わたしのお腹が鳴った。
一瞬の沈黙。
ナギサちゃんの視線が、ほんの少しだけ下に落ちて、また戻る。
「……お腹が空いていらっしゃるのですね」
「うん!」
「そうですか」
短い思考の間。
それからナギサちゃんは、ポットに手を伸ばした。
「よろしければ、ご一緒にいかがでしょうか」
「いいの!?」
「ええ、問題ありません。本来なら友人と約束をしていたのですが、どうやら今日は来そうにもありませんので」
よく見ればもう一つトレイにティーカップが準備されていた。
「わーい!」
草むらから飛び出して反対側の椅子へわたしが座ると、ナギサちゃんによって紅茶が注がれる。ふわっといい匂いが漂ってきて、つい楽しみで足をゆらゆらと揺らしてしまう。落ち着いてくださいと窘めてくるナギサちゃんは何処か楽しそうに笑っていた。
「どうぞ」
「ありがとう、ナギサちゃん!」
一口飲む。
「おいしい!」
思わず声が出る。
ナギサちゃんが、ほんの少しだけ目を細める。
「お口に合ったようで何よりです」
「すごいね!なんかこう、ふわーってする!」
「独特な表現ですね」
イチゴのロールケーキを食べながらたくさん話した。ナギサちゃんの話は時々難しくて、途中で何話してたか分からなくなったりもするけど、ナギサちゃんは遮らずに聞いてくれて、時々短く言葉を返してくれる。そのタイミングがなんか丁度いい。
風が吹く。葉が揺れて光がきらきらする。ナギサちゃんはその中で変わらず静かに座っている。周りと同じ場所にいるのに、少しだけ違うところにいるみたいな感じ。
「ねえ、ナギサちゃん」
「はい」
「また来てもいい?」
少しだけ間。ナギサちゃんはカップを置いて、こちらを見る。その目が、ほんの少しだけやわらぐ。
「ええ、構いません」
それから、静かに続ける。
「ただし、次回からはもう少し常識の範囲内での登場の仕方をしていただけると助かります。今回のような道は葉っぱや枝だらけで危険ですので」
「えー」
「当然です」
「じゃあ、ちゃんと歩いてくる!」
「それが望ましいですね」
その声は、最初と同じように穏やかで。でも、ほんの少しだけ距離が近くなった気がした。
「また来るね、ナギサちゃん!」
「ええ。お待ちしております」
その言葉を聞いて。
胸の奥がじんわりあったかくなる。
「へへへ、じゃあねー! ナギサちゃん!」
だから、あとでちゃんと書こう。
ナギサちゃんと出会ったこと。
紅茶が美味しかったこと。
話して嬉しかったこと。
また、ここで出会い直すことを。
❖
ノートに走らせていたペンを止めては、空を見上げる。
空はいつもきれいだ。青くて、広くて、どこまでも続いているみたいで安心する。一個人の悩みなんて酷くちっぽけで考えるに値しないと思えるから。
「明日も、晴れているといいなぁ」
ぽつりと呟く。明日、今日のことをどれくらい覚えてるのかわたしには分からない。もしかしたら、この空のことも、このパンの味も、全部、なくなってるかもしれない。
「ま、いっか!」
口に残ったパンを無理やり飲み込んで、立ち上がる。
「また見ればいいし!」
なくなってもまた出会えばいい。また好きになればいい。それを何回でも繰り返せば、なくなるのも怖くはない。
放課後には保健室で新しい絆創膏を貼ってもらいながらミネちゃんに怒られたり、大好きなアイスを食べ過ぎてお腹が痛くなったり、急な雨でずぶ濡れになりながら水溜まりを踏み抜いて遊んでみたり。掛け替えのない楽しい日々をたとえ明日には忘れていても、何一つ持ち越せないのだとしても。今やりたい事を諦めたくはないよねって、そういう話。
ベッドに入ってノートを開く。今日のことを一つずつ思い出しながら書いていく。
ミネちゃんにぶつかっちゃったこと。空がきれいだったこと。パンがおいしかったこと。ナギサちゃんが優しかったこと。一つも取りこぼさないように。少しでも、明日のわたしに渡せるように。
「………」
明日のわたしは分かるかな。ナギサちゃんが素敵な人で、とても優しかったことを。
ペンを握る手に、少しだけ力が入る。
「きっとわかるよね。だって、今日のわたしがとっても楽しかったんだから」
ページの最後に、大きく花丸をつける。それから、そっとノートを閉じた。
❖
消毒液の匂いが鼻の奥に残っている。
白い部屋。白い机。白い光。どこを見てもやけに輪郭がはっきりしている待合室で自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
「罧原さん」
名前を呼ばれて、わたしは顔を上げた。
「はい!」
声はいつも通り出た。でもちょっと大きいかも。病院では静かにって、さっき注意されたばかりなのに。
目の前にはお医者さん。もふもふの毛に、やさしそうな顔。その目がちょっとだけ静かで。なにかを選ぶみたいに言葉を置こうとしていた。
「長らく待たせてしまい申し訳ありません。それでは検査の結果についてお話ししますね」
「はいっ」
頷く。元気よく。
でも、その間に胸の奥が少しだけきゅっとなる。
理由は分からない。こわいのかな。
「あなたの症状についてですが、先天性の記憶障害である可能性が高いと判断しました」
「……きおく、しょうがい?」
上手く嚙み砕けなくて、言葉をなぞる。
「はい。生まれつき、脳の機能に少し特性がある状態です」
特性。
やさしい言い方だなあ、と思う。
「具体的には、神経変性疾患と呼ばれる種類のもので、時間の経過と共に少しずつ変化していくものです」
変化。
なにが?
「罧原さんの場合、特徴的なのは――」
視線が、ほんの少しだけ下がる。
それから、また戻る。
「眠って、起きた時に、一定の記憶が失われることです」
「……あ」
思わず、声が出た。
それは、知ってる。
というか、知ってる気がする。
「昨日のことが、うまく思い出せないことはありませんか?」
「あり、ます」
たぶん、ある。
でも、それが普通じゃないっていうのは、今、初めて知った。
「すべてが消えるわけではありませんが、古い記憶から順に、思い出しづらくなる傾向にあります」
古いものから。
じゃあ今日のことはまだ、大丈夫なんだ。
昨日は、ちょっとあやしくて。
その前は、もっと、ぼやけてて。
「……じゃあ、そのうち、ぜんぶなくなっちゃうの?」
気付いたら、そう聞いていた。
お医者さんはすぐには答えなかった。
少しだけ考えてから。
「……まだはっきりとした事を言えないのが心苦しいです」
残らない。
持っていられない。
「そうなんだ」
わたしは、頷いた。
なんとなく納得した気がしたから。
「それともう一つ。罧原さんの症状は、脳からの運動を円滑に行う為に必要な神経伝達物質が不足した事により引き起こされるものです。なので体の動きに関係する神経にも影響が出る可能性があります。例えば、体がこわばる。動きが少しぎこちなくなるなど。その結果、転びやすくなったり、怪我をしやすくなったりすることがあります」
「あ、……だからよく転ぶんだ」
ぽつりと出た言葉に、お医者さんは小さく頷いた。
「そういう可能性が高いです」
「そうなんですね」
なんだか、ちょっとすっきりした。
理由が分かったからかな。
「お医者さん」
「はい」
「これって、なおるんですか?」
聞きながら、自分でも分かっていた。
お医者さんの目がほんの少しだけ伏せられた。
「現在の医療では、完全に治すことは難しいとされています。でも諦めないでください。進行を緩やかにすることや、日常生活を支える方法はいくつもあります。罧原さんの工夫や習慣で、十分に過ごしていくことは可能です。一緒に頑張っていきましょう」
「――――」
その時、わたしはいったいなんて言ったんだろう。
どうしてか、そこから先の事はノートには書かれてなかった。
連載を複数かけもちしているのにまた新しい連載を増やしやがってと思いますよね? 大丈夫です、今回はきっかり全17話で終わりますので許してください。