ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
一話:皇帝①
俺はたまたまその場にいただけだった。
トレーナーに力を見せる選抜レースが終わり、シンボリルドルフが「私は強さを示した。私と共に歩む者は名乗り出て欲しい」と静かに告げた。
その瞬間、トレセン学園の模擬レース場に微かな緊張が広がった。彼女の紫の瞳は凛として、焦げ茶のロングヘアに落ちかかる三日月のような白いメッシュが、太陽の下でかすかに光を反射している。
皇帝——そう呼ばれる彼女の言葉は重かった。重いというより、どこか静かで、まるで古い時計の針が一秒ずつ刻む音のようにゆっくりと胸に響いてくる。
周りのトレーナーたちは明らかに動揺していた。
シンボリルドルフは強い。あまりにも強い。それを勝たせられないと無能だと判定されるのではないか——そんな不安が、彼らの顔に薄く影を落としていた。
誰もが彼女の隣に座るのを遠慮し、空席が目立つ。
俺もその一人だったはずだ。ただ、興味本位で様子を見に来ただけ。特別な覚悟など、何も持っていなかった。
ところが、彼女の視線が、ふと俺の方に向いた。
「君も、候補の一人か」
穏やかだが、迷いのない声。俺は少し驚いた。
スカウトするトレーナー候補? 俺が? たまたま見に来ただけなのに。まるで通りすがりに古いレコード屋に入ったら、思いがけない一枚のジャズ盤が手元に残っていたような気分だった。だが、周りのベテラントレーナーたちは次々に前に出た。
「強くする決意があります」
「共に歩む覚悟を、必ず示します」
利口な頭で三年間の計画を練り、勝利のための戦略を頭の中で回しているのが伝わってくる。
シンボリルドルフは静かに頷いた。
「ありがとう。では皆には三日後、なんらかの形にして示してほしい」
彼女の声は穏やかな湖の水面のように落ち着いていた。でも、その奥に、かすかな期待と——ほんのわずかな諦念が混じっている気がした。
俺は何も言わず、ただ立ち尽くし、彼女の紫の瞳をまっすぐに見つめていた。
皇帝として完璧を求められ、誰もが遠巻きにする……本当は、食堂で自分の隣だけぽっかりと空いている空席を、少し気に病むような普通の少女なんじゃないのか?
そんな彼女が俺を候補に含めた理由が知りたくて、俺は三日間の猶予のなかで彼女を静かに観察することにした。
二日目の昼下がり。学園の食堂で、俺はその「観察」の機会を得た。
シンボリルドルフはトレーの上の食事を取り終え、静かに席を探していた。彼女が歩くだけで、周囲のウマ娘やトレーナーたちがサッと道を空け、敬意を込めて会釈をする。だが、誰も彼女と同じテーブルに座ろうとはしない。
やっぱりな……。
俺は自分のコーヒーカップを手に取り、ごく自然な足取りで彼女が座った四人掛けのテーブルへと歩み寄った。
「ここ、座ってもいいか?」
「……! ああ、構わないよ」
彼女は一瞬目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑んだ。俺は彼女の真向かいではなく、斜め前の席に腰を下ろす。
「席を一つ埋めておけば後から他の奴も座りやすいだろ。皇帝の正面は、みんな緊張するらしいからな」
俺がそう言ってコーヒーを一口すすると、シンボリルドルフは思わずといった様子で「ふっ」と小さく吹き出した。
「くすっ……なるほど。私と向かい合うのは『謁見』のように感じられてしまうか。配慮に感謝するよ。……だが、君は緊張しないのかい?」
「俺か? 俺はただ、コーヒーを飲みながら美味いトーストを食べたいだけだからな。皇帝の隣で飲むコーヒーも、なかなか味が深くて悪くない」
「ふふ、君は変わっているな。……いや、心地よい変わったやつだ」
彼女の肩の力が、ほんの少し抜けたのがわかった。
皇帝という重圧の鎧を脱ぎ捨て、ただの同世代の少女として笑う姿。その微笑みを見た瞬間、俺の中でカチリと何かが噛み合った気がした。
その直後、隣のテーブルでドタバタと音がした。
新入生のウマ娘が、慌ててつまずき、資料の入ったファイルをごっそり撒き散らしてしまったのだ。
「あわわ……すみません!」
周りの生徒たちが声をかけようか迷っている間に、シンボリルドルフは立ち上がり、すっとその場にしゃがみ込んだ。
俺もすぐに続いて腰を下ろし、散らばった用紙を拾い集める。
「怪我はないかい? ゆっくりでいい、焦る必要はないよ」
「は、はい! シンボリルドルフ先輩……! ありがとうございます!」
「礼には及ばない。……っと、これは提出期限が今日の書類だね。私が職員室へ届けるついでに出しておこうか?」
「えっ、そんな! 先輩にそんなお手数をおかけするわけには……」
恐縮する後輩に、俺は拾い集めた書類を綺麗に揃えて差し出しながら、助け船を出した。
「大丈夫だよ。この人は『ウマ娘全員が笑っていられる学園』を目指してるお節介焼きだからな。甘えておいたほうが、この人も嬉しいんだ」
「ト、トレーナーくん!? お節介とは人聞きの悪い……!」
シンボリルドルフが珍しく少し頬を赤くして抗議する。後輩のウマ娘は二人のやり取りを見て、不安そうな顔から一転、パッと表情を明るくして笑った。
「あはは! ありがとうございます、ルドルフ先輩、トレーナーさん!」
頭を下げて走っていく後輩の背中を見送りながら、シンボリルドルフは小さく溜め息をついた。だが、その瞳はどこか嬉しそうだった。
「まったく……君は私をからかっているのかい?」
「まさか。ただ、君が困っている誰かを助けるとき、すごくいい顔をすると思ってな。……でも、一人で全部抱え込むと手が足りなくなる。だから俺が横から書類を拾うくらいの手伝いは、いつでもするさ」
「……助け合い、か。君といると、私の背中にある重荷が少し軽くなるような気がするよ」
彼女は三日月のような白いメッシュを揺らし、眩しそうに俺を見つめた。そして、三日後。
シンボリルドルフの前での、トレーナーとしての決意表明の日。
ベテラントレーナーたちが「3年間の完璧な勝利計画」や「トレーニング理論」を熱弁し終えた後、俺の番が来た。
「シンボリルドルフ」
俺は彼女の紫の瞳をまっすぐに見つめ、静かに言葉を紡ぎ出した。
「俺は『ウマ娘が笑える世界』というプランを用意してきた」
静まり返る室内に、俺の声が響く。
「だが、このプランを伝える前に、はっきりさせておきたいことがある。このプランの絶対的な前提であり、基本中の基本は——君、シンボリルドルフが笑えることだ」
彼女の息がすっと止まるのがわかった。
「なぜなら、君もウマ娘だ。自分が心から笑えない人間が、どうやって他のウマ娘たちを本当の意味で笑顔にできるというんだ? そんなものは理想ではなく、ただの窮屈な管理社会だ。だからこれは『君が笑って、君が全力で頑張った結果、みんなが笑顔になれる』プランなんだ」
俺は手に持った一枚の用紙を彼女に示した。そこには緻密なトレーニングメニューではなく、ただ泥臭く、不器用な対話の予定と理想が書かれていた。
「正直に言う。このプランはまだ不完全だ。不完全と呼ぶのもおこがましいくらい、粗削りで穴だらけかもしれない。でも、それでいいと思ってる。……なぜなら、この不完全な理想世界創生プランを、これから俺と君、二人で磨き上げて、練り上げていくんだからな。不完全でありながらも、完全を目指し続ける」
敗北することも、悩むこともあるだろう。だが止まることはない。
「俺は君の相棒になりたい。皇帝として皆を導く君の横に、対等に並んで走る存在として。君が一人で背負ってきた重荷を、半分俺が肩代わりする。君が笑える世界を、俺も本気で目指す」
俺は言葉を区切り、深く息を吸い込んだ。
「だから——シンボリルドルフ。俺と一緒に、この道を征こう」
静寂が支配していた。
彼女の紫の瞳の奥に、波紋のように光が広がっていく。完璧であることを求められ、孤独に耐えてきた「皇帝」の顔が揺らぎ、そこには一人の少女としての熱い想いが灯っていた。
彼女は提出されたすべての資料を見つめた後、静かに俺の前に歩み寄ってきた。
「私は彼と歩もうと思う。同じ視座に立ち、私の理想の不完全や未熟さを見抜いた上で、共に立ち向かうと告げてくれた彼に」
ベテラントレーナーたちは一瞬目を見張ったが、やがて爽やかな笑みを浮かべ、俺たちの選択を祝福して拍手を送ってくれた。彼らもまた、彼女が本当に求めていたものに気づいたのだろう。
シンボリルドルフは俺に向き直り、凜とした姿で手を差し伸べた。
「さぁ、契約の時だ。トレーナーくん。私の名はシンボリルドルフ。皇帝として、ウマ娘に安寧をもたらす者となる。汝、我が覇道を共に歩む者か?」
俺はその手を、迷わず力強く握り返した。
「肯定する。俺達は天地開闢に至るもの。神を撃ち落とし、皇帝が敷く法を、世界の安定の玉座として支える者なり」
握りしめた手のぬくもりとともに、彼女の口元に、これまで見たこともないほど晴れやかで美しい笑みが浮かんだ。
皇帝と相棒の、永遠に続く長い道のりが、ここから始まった。
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