■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
一話:不条理の逆襲劇
世界は往々にして不条理だ。
整えられた論理や道徳など、一瞬の「不運」という濁流の前では容易く押し流される。
トレセン学園へと続く舗装路。
俺の行く手を阻む赤信号は、もはや故障を疑うレベルを通り越し、明確な「意志」すら感じさせていた。
何度も何度も何度も『赤信号』により停止させられる。
一歩踏み出そうとすれば、非情な真紅が視界を塗りつぶす。計算上、学園への遅刻はもはや確定事項だ。
「……ごめんなさい、ライスのせいで遅刻させちゃった」
「ん? 君はライスシャワーか」
隣で消え入りそうな声が響く。ライスシャワー。その華奢な肩は、目に見えない巨大な「不幸」という重圧に押し潰されそうなほど震えていた。
彼女の左目が、前髪の隙間から怯えたように俺を窺っている。
「赤信号で立ち往生とはお互いに不運だ」
「ライスは不幸を呼び寄せるから。だからずっと赤信号になっちゃった」
なんだそれは。
科学的ではない。現実的ではない内容ではあるが、彼女が真実だと思っているのならそれは真実だ。
彼女が歩んできた歳月が、その言葉に呪いのような説得力を与えているのだろう。周囲を巻き込み、傷つけてしまうという恐怖。
それは彼女の魂を蝕む猛毒だ。
「それは珍しいね。不幸体質というものか。それはさぞ大変だろう、ストレスも多そうだ」
俺は淡々と、しかし突き放すのではなく事実として受け止める。感情に流されず、彼女の現状を一つの「環境」として認識する。そして、あえて自信に満ちた笑みを口元に浮かべた。
「大丈夫、俺は気にしていない。遅刻という結果は出たが、それ自体に意味はない。価値を与えるのはこれからの俺だ」
俺は懐から、一分の隙もなく整えられた名刺を取り出した。それを彼女の細い指先へと差し出す。
「俺は不幸に負けない。だが他の人はそうでもないだろう。だから困った時は連絡してきて欲しい。俺なら、君の隣にいても壊れない」
「ライスに関わると、不幸になるのに……助けてくれるの?」
彼女の瞳に驚愕が走る。拒絶され、疎まれることに慣れきった彼女にとって、正面から自分を受け止めようとする存在は異物だったに違いない。
俺は一歩踏み出し、彼女の逃げ場を塞ぐように、力強く断言した。
「当然だ。ウマ娘を守るのはトレーナーの責務だからね。不幸という超常現象に負け続け、何度泥を啜ったとしても……」
言葉に熱を込める。
それは傲慢なまでの生存本能。
折れない意志という名の、精神的な暴力だ。
「勝つのは俺だ」
その言葉が、ライスシャワーの胸の奥に眠る「何か」に触れたのが分かった。
絶望に塗りつぶされていた彼女の瞳の奥、深い紫の中に、小さな、本当に小さな火が灯る。それは「期待」というにはあまりに儚く、けれど確かに暗闇を拒絶する光だった。
彼女は名刺を、宝物か、あるいは命を繋ぐ命綱のように、両手でぎゅっと胸に抱きしめた。
「勝つのは……お兄さま……?」
「ああ。俺がそう決めた。今回の不幸も勝利に至るための必要なピースに過ぎない。これまでも、これからも、不幸は幸福を彩る供物だ」
俺はそう告げ、彼女と別れて校門へと歩を進める。背後でライスシャワーが、何度も何度も俺の背中と名刺を交互に見つめている視線を感じた。
彼女が今日、初めて「自分がいても不幸にならなかった瞬間」を夢見たのだとしたら、この遅刻には十分すぎるほどの価値がある。
職員室の重い扉を開ける。規則を重んじる学園において、遅刻は明確な「負け」の記録だ。
「遅刻はした。だがライスシャワーというウマ娘と出会い、縁が結べた。それだけで遅刻の不幸は幸福になった」
俺の胸中に敗北感など微塵もない。
「さて、遅れた分を取り戻す以上の仕事をするとしようか」
冷徹な現実主義者の皮を被りながら、俺は腹の底で静かに笑う。
運命が俺を止めるというのなら、何度でもその足を前に出してやる。勝利とは結果ではない。輝く明日に向かって心の歩みを止めないという選択そのものだと信じている。
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