■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
職員室に満ちる、紙とインクと淹れられたばかりの珈琲の匂い。その静謐は、突如として破られた。
重厚な木製の扉が、乱暴と言っていいほどの勢いで跳ね上がる。現れたのは、トレセン学園の頂点に立つ生徒会長であり、「皇帝」と称されるウマ娘、シンボリルドルフだった。
いつもなら一糸乱れぬ完璧な佇まいを見せる彼女が、今は肩を大きく上下させ、焦燥に駆られた瞳で周囲を激しく見渡している。その異様な様子に、周囲のスタッフが声を上げた。
「シンボリルドルフさん!? どうしてここに」
「かなり慌ててるな。何かの緊急事態か?」
俺は思考を即座に最悪のシナリオへと切り替える。感情を排し、冷徹に状況を分析する。学園の象徴たる彼女がここまで取り乱す事態。
命に関わる事故、あるいはそれに準ずるテロや災害の可能性を想定すべきだ。俺は静かに椅子から立ち上がると、視線を彼女から外さないまま、机の引き出しから応急処置用の医療キットを引っ張り出した。
同時に、もう片方の手でスマートフォンの画面を操作し、提携している総合病院への緊急ホットラインをいつでも発信できる状態にする。最悪を想定し、先手を打つ。それが俺の流儀だ。しかし、俺を見つけた瞬間の彼女の反応は、想定のどれとも異なっていた。
視線が交わった刹那、彼女の紫の瞳に、せき止められていた感情の濁流が溢れ出す。猛烈な勢いで距離を詰めてきたかと思うと、俺は肉厚なウマ娘の腕によって、強く、壊れ物を守るように抱きしめられていた。
「トレーナーくん!」
「う、ぉ、お?」
予想外の衝撃と圧力に、さすがに一瞬、声が詰まる。ウマ娘の身体能力による抱擁は、並の人間なら骨を折りかねない。だが、しなやかに鍛えた俺の身体は、その圧力を静かに受け流した。何より、彼女の身体が微かに、けれど明確に震えているのが伝わってきた。
「よかった。私だけがおかしいのかと……! 私の知る世界とは同じだけど、それも最初に言って戻っていて。でも、君は見つからなくて……!」
彼女の口から溢れ出る言葉は、支離滅裂で、けれど狂気とは異なる切実さを孕んでいた。
俺は拘束された状態のまま、彼女の言葉の断片を脳内の天秤にかける。
・彼女の脳内には、今この現実とは異なる「もう一つの歴史」の記憶が存在している。
・その世界は現在の世界と酷似しているが、決定的な違いがある。――俺が、彼女にとってかけがえのない大切な存在であったということ。おそらくは、歴戦を共に駆け抜け、彼女を頂点へと導いた「シンボリルドルフのトレーナー」として。
高次元、別宇宙、並行世界。三女神がもたらす無限の因子の可能性を考慮すれば、世界線が交差する超常現象すら、一つの現実として受け入れるほかない。
今朝のライスシャワーの件といい、今日はどうやら、運命というやつが俺の限界を試しにきているらしい。
「ごめんね、シンボリルドルフさん。俺にはよくわからない。だけど、君が酷く不安に駆られていることは理解した。だから、まずは話そう。職員室だと目立つから、保健室でゆっくり話を聞かせてくれないか」
俺の冷静な声に、彼女はハッとしたように腕の力を緩めた。周囲の職員たちの、好奇と困惑が混ざった視線にようやく気づいたのだろう。彼女は頬を微かに染めながらも、どこか安堵したような表情で俺を見つめた。
「ああ、そうか。そうなのか。変わっていても……君は、そういう人なのだな」
「そうなのかもしれない。俺はここで演技をしたり、自分を偽ったりしているつもりはない。だから、君が知る別の世界の俺も、きっと同じ選択をしたのだろう」
静まり返った保健室。カーテンで仕切られた空間で、俺はパイプ椅子に腰掛け、ベッドの端に座る彼女の言葉に耳を傾けていた。
彼女が語ったのは、壮大で、けれど酷く愛おしい「奇跡」のような物語だった。
二人で血の滲むようなトレーニングを重ねたこと。互いの理想を信じ抜き、並み居る強豪を打ち破ってクラシック三冠を成し遂げたこと。そして、誰もが幸福になれる時代を創るために、共に「皇帝」としての道を歩み続けたこと。彼女の語る言葉には、確かな熱と、偽りのない絆の重みがあった。
「……私たちは、二人で一緒にレースに勝ち抜いて、皇帝になったよ。君の支えがなければ、私はあの玉座には辿り着けなかった」
話を終え、少し落ち着きを取り戻したシンボリルドルフが、縋るような、しかし確かな期待を込めた目で俺を見る。
「うーん、どうしようかな。これ」
俺は腕を組み、内心で小さく息を吐いた。
正直に言って、対応に極めて困る案件だ。彼女は今、別の世界線の記憶と現在の現実とのギャップに直面し、精神的に極めて不安定になっている。彼女の孤独や不安は本物であり、見捨てるわけにはいかない。
何より、それほどの信頼を寄せてくれるウマ娘を無下に扱う趣味は、俺にはない。手を差し伸べてやりたい、という思いは確かにあった。
だが、現実主義者としての俺が、脳内で冷徹に警鐘を鳴らす。
俺には、俺のやるべきことがある。
今朝出会ったばかりの、あの「不幸」を背負った少女、ライスシャワーとの約束。そして、この世界で俺がこれから選ぶべき、まだ見ぬ担当ウマ娘との未来。
俺は別の世界の「彼」ではない。経験も、積み上げてきた絆も、今の俺にはないのだ。別世界の栄光にただ乗りして、彼女の依存を受け入れることは、彼女の歩んできた“過程”に対する冒涜ではないか?
『感情は捨てなくていい。だが、名付けを間違えるな』
俺は心の中で、自分自身にそう問いかける。
彼女が求めているのは「あの時のトレーナー」だ。だが、目の前にいるのは「現在の俺」という冷徹な現実。
不安定な彼女の心を救いながらも、依存させず、この世界の現実へと着地させるには、一体どんな選択肢を提示すべきか。
試されるのは、俺の精神力。そして、彼女の限界を見極める眼力だ。
『できるか、できないか。じゃない。何が足りない? 必要な要素を見極めて、積み上げていく必要がある』
俺は思考のギアを一段上げ、深く、静かに言葉を紡ぎ始める準備をした。
その時、俺の脳内に電撃が走った。
「メジロ、ラモーヌ」
彼女は確かミスターシービーと同じようにシンボリルドルフのトレーナーだったはずだ。彼女なら友人たるシンボリルドルフのために行動してくれるかもしれない。
「シンボリルドルフさん。行こう」
「どこへ?」
「君の親友のところへ」
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