■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
メジロ家の重厚な図書室。静謐な空気が漂う中、俺は積み上げられた過去のレース映像と資料に目を通していた。
突如、静寂を切り裂くように扉が開き、メジロラモーヌが姿を現した。その手には、整然と綴じられた数枚の紙。彼女は優雅な足取りで俺のデスクまで歩み寄ると、それを無造作に、しかしどこか慈しむように置いた。
「これが今後三年間の練習メニューと、レースの出走予定表よ。手続きの方、よろしくね」
用件だけを告げ、彼女は翻るスカートと共に背を向ける。そのあまりに事務的で、冷徹なまでの「完成された拒絶」に、俺の心臓が警鐘を鳴らした。
先日、あんなにも熱烈な——魂を焼き尽くすような——アプローチを仕掛けてきた彼女が、今は俺という存在を単なる「事務処理の装置」として扱っている。
「メジロラモーヌ。少し待って欲しい。もう少し詳しく話したいんだ」
俺の呼びかけに、彼女は足を止めた。だが、振り返るその瞳には温度がない。
「話すことはないわ。だって、その資料は完璧だもの。……それは、とても愛を語れる人と共に、幾度もの議論と経験を重ねて練り上げたオペレーション。膨大な蓄積された愛に、今の貴方が勝てるとは思えないわ」
「……信頼できる人、か」
言葉の端々に滲む、過去の「誰か」への絶大な信頼。気難しく、至高の愛を追求し続ける彼女にここまで言わしめる人物。その存在に、胸の奥で燻るような嫉妬が火を灯す。だが、感情に任せて吠えるのは三流だ。
「君がこの資料と、その製作者に強いリスペクトを向けていることは理解した。だから、契約したばかりの俺が『もっと凄いものが作れる』と言うのは、現時点ではただの傲慢だ。君と、君と共に歩んだ先人の積み重ねに泥を塗る行為だと分かっている」
「そうね。賢明な判断よ。貴方のその冷静さは嫌いじゃないわ」
ラモーヌは退屈そうに睫毛を伏せる。その壁を、俺は力ずくで抉じ開けることに決めた。
「その上で、俺は君にトレーナーとして三つの指導を受けるよう要求する」
「……へぇ」
刹那、彼女の瞳が獣のようにギラリと輝いた。空気が凍り付く。
「その言葉は重いわよ。契約が単なる飾り、あるいは呪縛に変わるほどに。それに、私がわざわざ貴方の言葉を聞く必要なんてないはずだわ」
「逃げるのか? 愛していると嘯く、そのレースから」
挑発的な言葉を投げつける。ラモーヌの表情から余裕が消え、肌を刺すような威圧感が膨れ上がった。足が震える。だが、俺は不敵な笑みを崩さない。
「レースとは、実際にターフを走ることだけを指すのではない。肉体を鍛え上げ、精神を研ぎ澄まし、自らが完璧だと信じられる極限の状態を作り出す。そして競い、勝敗の先にあるウィニングライブを終えて初めて、そのレースを『完走』したと言えるんだ」
俺は一歩踏み出し、彼女の至近距離でその視線を真っ向から受け止めた。
「だからこそ、俺は君を指導する。たとえ俺がこの資料に従うだけの傀儡トレーナーだとしても、君に伝える権利と義務がある。トレーナーが命じる、俺を『見て』『聞いて』『話せ』」
「…………っ」
ラモーヌの目が見開かれた。その瞳の奥で、激情が渦巻く。驚き、困惑、そして形容しがたい歓喜。ドロドロとした熱い執着と、突き抜けるような爽快感が同居した、歪で美しい光。
長い沈黙が流れた。やがて彼女は、ゆっくりと端末を取り出した。
「……お互いが交流できるように連絡先を交換しましょう。毎回、アルダンを煩わせるのも、粋ではないわね」
その歩み寄りに、俺は一瞬気圧される。
「あ、ああ。そうだな。円滑に進めるためにも必要だ」
連絡先を交換し終えると、彼女はポケットから一つの小さな鍵を取り出し、テーブルに置いた。硬質な音が響く。
「今日は色々とやることがあって、貴方と話す時間は残っていないわ。だけど、時間ができたら必ず話すと約束しましょう。……その鍵は、呪縛からの解放。貴方を召使ではなく、私と共に並び立つに相応しいトレーナーだと、認めてあげる」
「……ありがとう」
「あと、その資料だけど……」
去り際、彼女は微かに微笑んだ。その笑みは、どこか遠くを見つめるような、切ない優しさを孕んでいた。
「これを作ったのは、貴方達よ。私とレースを愛した貴方達が、あらゆる視点から検証し、私が一人でも生きていけるようにと残してくれた、愛の欠片の集合体。読み込めば分かるわ。いつ、どんな時でも、貴方は私に真摯だった。ええ、今回も私の『愛』を体現しましょう。……貴方と共に」
彼女が去った後、俺は一人残された。
手に取った鍵で縛っていた枷を外す。
カチリ、という硬質な音を立てて、俺の四肢を縛っていた物理的な拘束が解け、床に落ちた。
首筋に残る冷たい感触と、足首の解放感。メジロラモーヌがテーブルに残していった銀色の鍵は、単なる解錠の道具ではなく、彼女からの「問い」そのもののように見えた。
俺は大きく息を吐き出し、乱れた呼気を整える。窓の外にはメジロ家の広大な庭園が広がり、西日に照らされた緑が燃えるような鮮やかさを放っていた。その美しさは、先ほどまで目の前にいた彼女の苛烈な美貌と重なる。
そして、彼女が残した資料を改めて読み解き始めた。
驚愕した。そこに記されていたのは、俺の思考回路、俺の癖、俺が将来的に到達するであろう理論の、いわば「完成形」だった。数年後の俺が書いたと言われても信じてしまうほどの、究極の上位互換。
「……今の俺じゃ、このプランには逆立ちしても勝てないな」
嫉妬よりも先に、感嘆が漏れた。
極めて合理的で、かつメジロラモーヌというウマ娘のポテンシャルを120%引き出す構成。ならば、俺が今やるべきことは明確だ。
「この完璧な理論を、現実の肉体へと落とし込む。彼女が一切の不安なく、全力を出せるように場を整えること。事務手続き、体調管理、メンタルケア……この資料が拾いきれない『今、隣にいる俺』にしかできない隙間を埋めるんだ。この俺が」
上位互換がいるなら、それを超える努力をする。だがそれ以上に、彼女が求めているのは「理論」ではなく、共に歩む「体温」なのだと、資料に込められた膨大な愛を読み進めるうちに確信した。
「……『俺の上位互換』。やってくれる」
手元に残された資料の束を捲る。指先に伝わる紙の質感以上に、そこに記された情報の重圧が俺の思考を侵食していった。
改めて驚嘆を通り越し、一種の戦慄さえ覚える。そこには、メジロラモーヌという唯一無二の個体を、生理学的、心理学的な側面から徹底的に解剖し、最適化された数式のようなトレーニングメニューが並んでいるのだ。
季節ごとの気温変化に伴う発汗量の予測、芝の硬度による関節への負荷計算、そして精神的な昂揚をピークに持っていくためのレース間隔――それは、かつてどこかの時間軸で、あるいは並行世界で、俺と同じ「トレーナー」という職に就いた者が、心血を注いで編み上げた愛の結晶のようなものだった。
「嫉妬か。懐かしい感覚だ」
彼女が言った「貴方達」という言葉が、重く、奇妙な納得を伴って胸に落ちる。
俺はこの資料を否定できない。
トレーナーとして、このプランが現在の彼女にとって最善であり、最短で勝利へ至る地図であることを認めざるを得ないのだ。だが、同時に疼くような「何か」が胸の奥で火を灯す。
「ああ、何度でも受け入れる必要がある。負けていることを認める。今の俺は未熟だ」
自嘲気味に呟いた。
才能や実績を他者と比較することに意味はないと自分に言い聞せてきたが、目の前に「完璧な正解」を突きつけられれば、流石に喉の奥が苦くなる。
彼女が愛しているのはこの資料の向こう側にいる、かつての、あるいは理想の「俺」なのだ。しかし、俺の足は止まらなかった。敗北は終わりではない。それはただの記録であり、次の一歩を踏み出すための座標に過ぎない。
俺は資料を丁寧に閉じると、ノートを取り出し、余白に書き込み始めた。この完璧な資料に足りないもの。それは「不確定要素」への対応だ。
レースは生き物だ。天候の急変、他者の落馬、あるいは彼女自身の心が予期せぬ方向へ揺れ動く瞬間。データが弾き出した「最適解」が、現実の泥臭い摩擦によって機能不全に陥るその一瞬。
「……俺がすべきは、この『愛の欠片』をなぞることじゃない」
彼女は言った。『見て』『聞いて』『話せ』という俺の要求に対し、その瞳に熱くドロドロとした、それでいて純粋な光を宿して。
彼女は、今の俺がどう足掻き、どう立ち向かってくるのかを、あの傲慢なまでの期待感を持って見定めている。
三女神が司るこの世界では、ウマ娘の運命は残酷なほど固定されているのかもしれない。だが、俺はその運命の隙間に手を差し込みたい。
俺は彼女のロックスミスとなる。彼女が笑える未来へ通じる扉を開く鍵を作るのだ。
「納得を産み、あらゆる結果を糧にする。それが俺だ。そうあるように生きると決めたのが俺だ。俺が選んだ道だ」
資料にあるトレーニングメニューを忠実に実行する。それは彼女への、そしてこれを作った「先達」への敬意だ。だが、その過程で彼女が何を感じ、何を零すのか。
追い込まれた筋肉の軋み、呼吸の乱れ、勝利の瞬間に見せる冷徹な瞳の奥の揺らぎ。それらを拾い集め、言語化し、彼女自身の「納得」へと昇華させること。
データには記述できない、体温を伴った「今」という時間の共有。俺は立ち上がり、窓の外を見据えた。ラモーヌは去り際、共に愛を体現しましょうと言った。
それは、今の俺という未完成な存在への、彼女なりの宣戦布告だったのかもしれない。
「待っていろ、メジロラモーヌ。お前の『完璧な愛』に、俺という不純物を混ぜて、惚れさせてやる」
上位互換がいるのなら、それを踏み台にするだけだ。彼女が全力を出せる場を整える。それは事務的な手続きだけでなく、彼女の魂がターフの上で最も美しく狂い咲くための、心の調律も含んでいる。
指先が微かに震えていたのは、恐怖からではない。
自分でも驚くほどの、静かな高揚感。
敗北を糧にし、前進する。その過程こそが俺にとっての勝利への唯一の道なのだから。
カーテンが風に揺れ、夕闇が部屋に忍び寄る。俺は再び資料を手に取った。今度は嫉妬ではなく、獲物を分析する学者のような冷徹な眼差しで。
三つの指導――『見て』『聞いて』『話せ』。
このシンプルな約束を果たす時、俺と彼女の間には、過去の誰にも成し得なかった新しい「愛」の形が生まれる。
そう、俺は確信していた。
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