■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
トレセン学園の裏庭に差し掛かったところで、その影を見つけた。
木々の隙間、陽の当たらないベンチで、小さく肩を震わせているウマ娘。ライスシャワーだ。
彼女の周囲には、湿り気を帯びた孤独が漂っていた。俺は足を止め、静かに彼女の隣に腰を下ろす。驚いて顔を上げた彼女の瞳は、溢れんばかりの涙で濡れていた。
「……ライス、どうした。今日の模擬レース、不参加だったようだが」
問いかけると、彼女はさらに身を縮めた。
「ごめんなさい、お兄……っ、トレーナーさん。ライス、怖くて。みんなの視線が、ライスを責めてるみたいで……無断で、お休みしちゃったの」
震える声。彼女を支配しているのは、才能の欠如ではなく、自らの存在に対する根源的な恐怖だ。俺は彼女を責めない。だが、甘やかしもしない。
「なぜ、そこまでしてレースにこだわるんだ? 走ることは君を苦しめるだけかもしれないのに」
俺の問いに、彼女は視線を彷徨わせたあと、ぽつりぽつりと話し始めた。それは、一冊の古い絵本の記憶だった。
「『青い薔薇の絵本』……。青いことで、みんなに気味悪がられた薔薇さんが……『お兄様』っていう男の人に出会って、引き取られて。とっても、とっても丁寧に育ててもらうお話」
彼女の語る物語は、どこか現実味を欠いていた。結末は覚えておらず、学園の図書館を探してもそんな本は存在しないという。だが、ライスシャワーという一人の少女にとって、それは唯一の救いであり、指針だった。
「ライスも、その薔薇さんみたいに、綺麗に咲いてみんなを笑顔にしたいの。ライスが頑張ることで……ライスは、ライスでいたいから」
「……そうか」
「あ、あのね……もし、トレーナーさんが、ライスの『お兄様』になってくれたら……なんて。えへへ、変なこと言ってごめんなさい!」
顔を真っ赤にして俯く彼女。その照れ隠しの裏にある切実な渇望を、俺は受け止める。
俺は思案した。今の俺にはメジロラモーヌという、至高の愛を掲げる担当がいる。しかし、この怯える蕾を放置するのは嫌だった。
それに彼女は、愛と競り合える可能性があるのかもしれない。
「ライス。一つ、可能性を提示しよう」
俺の言葉に、彼女が顔を上げる。
「俺が君を担当することは、制度上は可能だ。だが、それには二つの大きな壁がある。一つは、先に契約したメジロラモーヌに話を通し、彼女に認められること。彼女は一切の妥協を許さない。君が彼女に並び立ち、競り続けようとする『愛』……つまり、絶対に成し遂げたいという気概を示せなければ、彼女は君を認めないだろう」
俺は一拍置いて、さらに現実的な話を続ける。
「もう一つはリソースの問題だ。二人を見るということは、俺が君たちに割ける時間は物理的に減る。不足分を補うのは、君自身の主体性だ。自分で情報を集め、考え、行動する。俺に依存せず、自分の足で立つ覚悟が必要だ」
厳しい言葉だと自覚している。だが、友情トレーニング理論に基づけば、ラモーヌという最強のライバルが身近にいることは、ライスにとって計り知れない成長の機会になる。
「メリットは大きいが、道は極めて険しい……さて、ライスシャワー。君に問おう」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「このまま今日という日に竦み続け、誰にも見られぬまま蕾で終わるか。それとも、茨の道を進み、いつか誰も見たことのない『青い薔薇』として咲き誇るか。……選ぶのは、君だ」
沈黙が流れる。風が彼女の勝負服を揺らした。やがて、ライスは震える手で、自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
「……ライス、咲きたい。お姉様みたいに……強く、綺麗に。だから、頑張る。ライス、頑張るから!」
その瞳には、先ほどまでの怯えではない、微かな、だが消えない灯火が宿っていた。俺は無言でポケットから、あらかじめ用意していた一枚の紙を取り出し、彼女に差し出した。
「……これは?」
「ライスシャワー専用の、暫定トレーニング表だ。君と再びあった時に渡そうと思って用意していた。ある程度、このメニューをこなして、デビュー戦でラモーヌに挑むと良い
彼女は驚いたように目を見開き、それから大事そうにその紙を抱きしめた。
「はい……! ありがとう、お兄様!」
その呼び声を否定せず、俺は静かに立ち上がった。完璧な資料を持つ女王と、存在しない絵本を追う少女。
この対極にある二つの「愛」をどう噛み合わせ、勝利へと導くか。俺の心臓は、冷静な思考とは裏腹に、確かな熱を帯び始めていた。
数日後。
カチリ、と手元にあるストップウォッチを止める。放課後の喧騒が遠のいたグラウンドの隅、そこには先ほどまで「青い薔薇の絵本」を抱えて震えていたはずの少女が、泥に汚れながらも前を見据えて立っていた。
「……ライス、息を整えろ。今のラップタイム、とても良い」
俺の声に、ライスシャワーは小さく、だが力強く頷いた。その背中はまだ華奢で、メジロラモーヌのような圧倒的な覇気はない。だが、その瞳に宿った火は、俺の心を僅かに揺さぶった。
かつて、あるウマ娘支援会社が提唱した『友情トレーニング理論』。
それは、強大なライバルと切磋琢磨し、互いの闘争心をガソリンにして限界を突破させるという、合理的かつ残酷な理論だ。
ウマ娘という生命体は、誕生した瞬間から「運命」という名のレールを敷かれている。彼女たちの走る速度も、敗北の痛みも、あるいは散り際さえも、高次元の意思や因子によって定められているのかもしれない。だが、俺たちトレーナーという不純物がその運命に介入したとき、数式は狂い、決定事項は「可能性」へと書き換えられる。
「……結局、戦いこそが彼女たちの本質なのかもしれないな」
俺は手元のメモを握りしめた。
メジロラモーヌという「完成された女王」の隣に、ライスシャワーという「震える蕾」を並べる。
それは、リソースの分散という点では非効率極まりない。だが、もしこの理論が正しければ、ラモーヌの放つ苛烈な光が、ライスの影をより深く、より鋭く研ぎ澄ませ、同時にラモーヌも飛躍的に性能を高めることだろう。
「ライス、聞こえるか。お前が目指すのは、ただの勝利じゃない」
俺は彼女の元へ歩み寄り、その泥に汚れた頬を見つめた。
「誰もが君を『不幸の象徴』と呼び、運命が君を『脇役』だと定めていたとしても……俺はそれを認めない。これは逆襲だ。持たざる者が、全てを持つ女王の喉元に食らいつくための、静かなる宣戦布告だ」
ライスは、その言葉を咀嚼するように、ぎゅっと拳を握りしめた。
「逆……襲……。ライス、ラモーヌお姉様に追いつけるかな……?」
「追いつくのではない。お前の青い薔薇で、彼女の紅い薔薇を覆い尽くすんだ。運命が『負け』を記しているのなら、そのページを俺たちの手で破り捨ててやる」
俺の言葉は、慈愛に満ちているわけではない。むしろ、彼女をさらなる修羅の道へと誘う悪魔の囁きに近いだろう。だが、彼女は笑った。
弱々しく、しかし自分の力で立ち上がろうとする、意思ある者の顔で。
「……うん。ライス、頑張る。お兄様の隣で、ライスだけの『愛』を見つけるから」
彼女をメジロラモーヌの前に立たせることは、崖から突き落とすようなものだ。しかし、その落下の中で翼を広げた者だけが、三女神の書いた台本を書き換えることができる。
『友情トレーニング理論』――それは綺麗事ではない。
強者の光弱者がその身を焼かれながら吸収し、異形の美しさへと昇華させる錬金術だ。そして太陽に近すぎて蝋翼が落ちることもあり得る。
「行こう、ライス。女王への謁見……いや、宣戦布告の時間だ」
俺は翻り、歩き出す。背後からついてくる、小さくも確かな足音。
メジロラモーヌ、君の愛した「完璧な資料」に、一つだけ欠けていたものがある。それは、運命に抗う「弱者の逆襲」という名の、最も不確定で最も熱い愛だ。
俺は祈る。
この少女が咲き誇るその瞬間に運命という神話が、一つの意志によって崩れ去ることを。
同時にメジロラモーヌが新たな可能性に至ることを。
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