■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
メジロ家の広大な敷地に足を踏み入れると、隣に並ぶライスシャワーの肩が目に見えて震え始めた。
歴史の重みが物理的な質量となって押し寄せてくるような、圧倒的な威圧感。だが、その源泉は屋敷の巨大さではなく、その奥底に鎮座する一人の女であることを、俺の細胞が警鐘のように鳴らし続けていた。
アトリエとして使われている一室。
キャンバスに向かうメジロラモーヌは、振り返ることさえせず、背中で語っていた。その静謐な佇まいそのものが、完成された芸術作品のようだ。
「その子が、例の?」
冷徹な、しかし甘美な響きを持つ声が室内に満ちる。
俺はライスを庇うように一歩前に出た。
「ああ」
「素養がある。けど未熟ね」
「ああ」
彼女の眼差しは、物理的な肉体を通り越し、ライスの魂に刻まれた「運命」の深淵までも見透かしているようだった。ラモーヌは筆を置くと、ようやくこちらを向いた。その瞳には、新参者への慈悲など微塵もなく、ただ冷厳な評価だけがある。
「でも良いわ。育て上げてみなさい。私が愛するレースの一翼を担えるように。その子の担当を認めるわ。……下がって良いわよ」
あまりにも呆気ない承認だった。
興味を失ったかのように再び背を向ける彼女の傲慢さに、俺は沈黙を保つ。だが、隣で震えていたはずのライスが、強張った体を引きずるようにして、ラモーヌの真正面へと歩み出た。
「メジロ家っていうのは……無礼なのが売りなのかな?」
絞り出すような声。
ライスの足は、今にも崩れそうなほど震えている。しかし、その瞳には「逆襲」の火が灯っていた。
「ラモーヌさんは、綺麗で、強くて……。きっと、ウィニングライブも貴方を見るためのお客さんで、いっぱいなんだよね。……だから。ライスが勝って、ライスのファンが見やすいようにしてあげる」
それは、あまりにも無謀で、しかしこれ以上ないほど純粋な宣戦布告だった。絶望的な実力差を前にして、逃げずに吠えた。
メジロラモーヌの口元が、ゆっくりと、愉悦に歪むのを俺は見逃さなかった。
「ふふっ、いいわ。私が蒔いた種だもの、刈り取ってあげる」
ライスを別室に預け、俺はメジロ家のドリンクルームでラモーヌと対峙していた。重厚なソファに深く腰掛けた彼女は、もはや練習メニューを手渡した時の冷淡な姿ではない。
立ち上る独占欲のオーラが、部屋の酸素を奪っていく。
「いいの? これで」
「良いわ。レースは一人では成立しない。全員が本気で競うからこそ、愛を示す世界が生まれる」
「……そうか。なら、俺は好きにやらせてもらうよ」
あくまでビジネスライクに、冷静な現実主義者として返答したつもりだった。だが、次の瞬間、視界が劇的に反転した。
「ッ……!」
強靭な指先が俺の腕を掴み、抵抗する間もなくソファへと引き倒される。
目の前には、至近距離でこちらを見下ろすメジロラモーヌ。その瞳はギラリと猛禽類のように輝き、ドロドロとした熱い欲望が渦巻いていた。
「もちろん、私のために頑張るのは見過ごすわ。だけど……それが本気になった瞬間、私は何をするかわからない。その可能性を忘れないで」
耳元で囁かれる吐息が、首筋を粟立たせる。理性が、本能が、生存本能が「逃げろ」と叫んでいる。
これこそがメジロラモーヌという女の真髄だ。
強い敵を求め、自らを脅かす可能性を愛でる一方で、その可能性を育てる「俺」という存在を、彼女は欠片も手放すつもりがない。
「……恐ろしい人だ。強い敵も欲しい、それを育てるのは許容する。だけど、育てた相手に俺がのめり込む瞬間に、俺の首が飛ぶのか」
「だからこそ、示す必要があるわ。貴方は……私のものだと言う事を」
逃げ場はなかった。
ラモーヌが、俺の首筋に鋭い牙を立てた。
ウマ娘の圧倒的な膂力。皮膚が裂け、灼熱のような痛みが脳を突き抜ける。呻き声を上げることすら許されないほど、彼女の愛は重く、そして暴力的だった。
顔を上げた彼女の唇は、俺の鮮血で紅く濡れていた。まるで、獲物を仕留めたばかりの獣が、誇らしげに口紅を引いたかのような、異様なまでの艶めかしさ。
「貴方は……私のものよ」
紅潮した顔で微笑む彼女に、俺は戦慄を覚えずにはいられなかった。恐怖。間違いなく、俺は彼女に恐怖している。いつ食い殺されてもおかしくない猛獣を、俺は担当しているのだ。だが、その一方で、この絶望的なまでの独占欲に包まれることに、歪んだ悦びを感じている自分もいた。
首筋を伝う血の温かさを感じながら、俺は悟った。ライスシャワーという「可能性」を育てる一方で、俺はこの狂おしいまでの「女王の愛」という毒に、一歩ずつ蝕まれていくのを感じた。
「……ああ、わかっているよ、ラモーヌ」
俺は、自分自身の破滅の予感を、静かな納得と共に飲み込んだ。この女の隣に立つということは、愛という名の処刑台に上り続けることと同義なのだから。
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