■■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
図書室という場所は、静寂が堆積して知識の地層を成している。俺はその地層を掘り返すように、『トレーニング理論』の棚から最新のスポーツ科学から古めかしい生理学の図解まで、手当たり次第に資料を広げていた。
ウマ娘。
彼女たちは単なるアスリートではない。異世界の名馬の魂と運命をその身に宿した、概念的な存在だ。
その脚力、持久力、そして時として物理法則をねじ曲げるほどの爆発力は、すべてその「運命」という枠組みに依存している。だが、その枠組みを破壊し、再構成する不確定要素がこの世界には存在する。
それが「トレーナー」だ。
俺の脳裏には、記録にはないはずの光景が幾重にも重なって浮かぶ。運命を塗り替え、世界の理を書き換える特異点としての自覚。それは傲慢な全能感ではなく、あまりに重い「責任」の感触として俺の魂に刻まれていた。資料には一行も書かれていない「ルール」が、俺の血肉の中には確かに存在しているのだ。
科学的なアプローチは、もちろん尊重する。論理的な積み上げなしに勝利を語るのは、ただの博打だ。しかし、最後の一歩を決めるのは、限界を突破し、世界の枠組みを粉砕しようとする強靭な「意志」に他ならない。
「……俺の記憶違いなのかもしれないな」
思わず独り言が漏れた。確信と困惑の狭間で、俺は深く息を吐く。
「大丈夫ですか?」
背後から、凛とした、けれどどこか理知的な響きを持つ声がかけられた。
「ああうん、平気だよ。ジャーニー」
反射的にそう返した瞬間、俺の目の前にいた少女――ドリームジャーニーが、石像のように固まった。
小柄な体躯に、理性の塊のような眼鏡。ステイゴールド一族らしい、大人しそうな外見の裏に隠された鋭利な知性。彼女は大きく目を見開き、信じられないものを見るような表情で俺を凝視していた。
「ジャーニー?」
「あ、いえ、少し予想外だったので。そのままジャーニーとお呼びください」
彼女は驚きを噛み殺すように深く呼吸をし、すぐに普段の冷静な面持ちを取り戻した。だが、その瞳には隠しきれない熱量が宿っている。
俺は構わずに問いを重ねた。彼女のような知略家なら、俺が求めている「非科学的な領域」への足がかりを知っているはずだ。
「ジャーニーって、因子や運命、超常的な概念が書かれた本を知ってる?」
「ふむ。因子や運命。そういった理論の本は知りませんが、体感した者達の話は幾つか」
「本当? ぜひ知りたいな。そのウマ娘と繋いでもらえない?」
彼女は少しだけ考え込むような素振りを見せたが、やがて優雅に頷いた。
「……ええ、構いませんよ。私と繋がりがあるウマ娘はマンハッタンカフェさんやネオユニヴァースさんなどでしょうか。ネオユニヴァースさんは会う難易度が高そうですが、マンハッタンカフェさんなら……ええ、今の貴方の問いには、喜んで協力してくださることでしょう」
「ありがとう」
俺は椅子から立ち上がり、彼女に対して真っ直ぐに頭を下げた。情報提供者としての彼女に、そして何より、今の俺の唐突な願いを真摯に受け止めてくれた一人のウマ娘に対して。
俺は常に彼女たちと対等であり、その献身には最大の敬意を払うべきだと考えている。
「助けてくれて、ありがとう」
「……頭を上げてください。貴方には多くのものをもらいましたから。それに、こうしてまた言葉を交わせるのは私としても喜ばしいことです」
「そうか、そうだな、そうかもね」
彼女の言葉にも、シンボリルドルフと同じ「既視感」が含まれていた。俺が彼女に何を与えたのか、今の俺には正確にはわからない。だが、彼女たちの瞳の奥にある信頼の重さだけは、皮膚を刺すような現実感を持って伝わってくる。
「そうだ。今、貴方が担当しているのはどなたなのですか?」
「メジロラモーヌ」
その名を出した瞬間、ジャーニーの周囲の空気が、パチリと音を立てるような緊張感に包まれた。
「ああ、例の。なるほど。なら、リベンジレースですね。前回の雪辱果たさせてもらいましょう。きっとカフェさんも参画するでしょうね」
「不穏だ」
「大丈夫です。あの魔性の姫君には偉大ではあります。しかし、そろそろ後進に道を譲ってもらうとしましょう」
彼女の声に、隠しきれない闘争心が混じる。
「ラモーヌ……。そういうハングリー精神は、あの方も喜びそうだ」
「はい、脳裏にすぐに浮かびます。自分が勝つことを疑わない傲慢で、そして見惚れてしまうような姿。悔しいですが、私達はまだ誰も、彼女に勝ててはいません」
感情を昂ぶらせ、拳を握りしめるジャーニー。彼女が抱いているのは、怨嗟ではなく、至高の存在への渇望と打倒への情熱だ。
「ですが、今回は珍しい配牌をされているようです。そして貴方との縁もできた。なら挑むべきでしょう。完璧でない我々はいつだって、限られた手札で勝負するしかありませんから」
「熱いな、ジャーニー」
俺がそう言うと、彼女はハッとしたように表情を和らげ、行き過ぎた感情を律するように頭を下げようとした。
俺はその肩に軽く手を置き、制した。
「良いんだよ、それで。大切なものに熱くなるのは、決して悪いことではないのだから。その熱が、運命を焼き切る力になる」
俺はそう言い残し、彼女に一礼して図書室を後にしようとする。背後から、彼女の静かな問いが追いかけてきた。
「トレーナーさん。……貴方が大切だと思うのは?」
俺は足を止め、振り返いて答えた。
「それぞれが大切にしているものを尊重する精神。それが俺の、譲れない一線だ」
図書室を出て、廊下の冷たい空気に触れた瞬間だった。微かに、けれど鮮烈に、鼻腔をくすぐる香りがあった。洗練された、どこか退廃的でスモーキーな香水の残り香。
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