■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。   作:あばなたらたやた

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13話:美しい魔星

 

 夕暮れが終わりを迎え、空が群青色へ染まり始める頃だった。トレセン学園のトレーニングコースに、俺は一人で立っていた。

 目的があったわけではない。ただ、自然と足が向いたのだ。そして、その理由はすぐにわかった。

 

 視線の先にはメジロラモーヌがいた。

 彼女は一人で走っていた。いや。正確には、一人で走っているように見えなかった。

 

 風と競い。

 大地と語り。

 自らの肉体と対話しながら走っているように見えた。

 

 トレーニングという言葉では足りない。

 あれは儀式に近い。

 あるいは祈り。

 もっと言えば愛情表現だった。

 

 ラモーヌはレースを愛している。

 それは知識として知っていた。だが、こうして目の前で見ると、その言葉の意味がまるで違う。

 

 好きだから頑張る。

 勝ちたいから努力する。

 そんな一般的な話ではない。

 彼女にとってレースとは、自らの存在理由そのものなのだ。

 

 走ることが呼吸であり。

 競い合うことが生きること。

 ターフへ立つことが喜びそのもの。

 そんな領域にいる。だからこそ美しかった。身体能力だけを見れば、もっと速いウマ娘いるだろう。もっと爆発力のある走りをする者もいるだろう。だが、ラモーヌの走りには完成された芸術作品のような美しさがあった。

 

一歩ごとに無駄がない。

 力みがない。

 焦りがない。

 それでいて全力だ。

 矛盾しているようでいて成立している。それはおそらく、自分自身の全てを信頼しているからだろう。

 

 俺は黙って見続けた。

 声をかける気にはなれなかった。

 あれは邪魔してはいけない時間だ。レースを愛する者だけが辿り着ける神聖な領域。

 そこへ土足で踏み込むほど無粋ではない。だから待った。

 

 十分。

 二十分。

 三十分。

 

 気が付けばかなり長い時間が経っていた。

 それでも飽きなかった。不思議なことに、見ているだけで楽しかった。

 ああ、俺は本当にウマ娘が好きなんだな。

 

 そう思う。

 勝つために走る者。

 夢のために走る者。

 誰かのために走る者。

 自分自身を証明するために走る者。

 それぞれが違う理由を抱えている。

 それが面白い。だから見ていたい。それが俺という人間だった。やがて。ラモーヌは走るのを止めた。

 

 呼吸を整えながら汗を拭く。そして真っ直ぐこちらへ歩いてきた。

 紫色の瞳が俺を捉える。

 

「随分と長く見ていたのね」

 

 からかうような声だった。

 俺は肩を竦める。

 

「君のトレーナーだからね」

「そう」

「飾りみたいなものだけど」

 

 半分は冗談だった。

 半分は本音でもある。

 俺はラモーヌに技術を教えていない。走りを矯正したこともない。戦術を与えたこともほとんどない。トレーナーとして考えるなら失格かもしれない。だが、ラモーヌは静かに首を横へ振った。

 

「いいえ」

 

 その否定には一切の迷いがなかった。

 

「貴方は飾りではないわ」

「そうかな」

「ええ」

 

 ラモーヌは俺の目を真っ直ぐ見つめる。

 

「確かに私に対してできることは少ないでしょう」

 

 容赦がない。だが、それが彼女らしい。

 

「けれど」

 

 彼女は続ける。

 

「貴方は私が愛しているものを理解しようとしている」

 

 その言葉に少し驚いた。

 

「私自身ではなく、レースそのものを、ターフそのものを、私が求めているものを」

 

 ラモーヌは静かに微笑む。

 

「それは簡単なことではないわ」

「そうだね、難しい」

「ええ」

 

 断言だった。

 

「多くの人は勝利しか見ないもの」

 

 その言葉に俺は納得した。

 確かにそうだ。

 勝った。

 負けた。

 速かった。

 強かった。

 人は結果を見る。だがラモーヌが愛しているのは結果ではない。

 その過程だ。

 そこへ目を向けられる人間は少ない。

 

「だから評価するわ」

 

 ラモーヌは言う。

 

「貴方は十分に私のトレーナーよ」

 

 その言葉は嬉しかった。

 単純に。

 素直に。

 嬉しかった。

 

「ありがとう」

「どういたしまして」

 

 少しだけ照れ臭くなり、俺は話題を変える。

 

「それで何か伝えたいことがあったから待っていたのでしょう?」

「いや」

 

 俺は首を振る。

 

「特にない」

「そう?」

「良い走りだったから見ていただけ」

 

 ラモーヌは一瞬だけ沈黙し。

 それから小さく笑った。

 嬉しそうだった。

 

「そう。良くてよ」

 

 短い返事。だが、その一言に満足が滲んでいた。

 

 

 俺たちは並んで歩き始める。

 目的地はメジロ家。夜空には星が浮かんでいた。静かな帰り道だった。不思議と沈黙が苦にならない。

 しばらく歩いた後。

 ふとラモーヌが口を開いた。

 

「勝利とは何だと思うかしら?」

 

 唐突な問いだった。だが彼女らしい。

 俺は少し考える。

 

「難しいな」

「そうね」

「勝利そのものは輝かしいものだと思う」

 

 俺は空を見上げる。

 

「生き物は皆、勝ちたい」

「当然ね」

「負け続ければ生きることすら難しい」

 

 それはレースに限った話ではない。

 仕事も、勉強も、人間関係も、ある程度は勝たなければならない。

 

「だから勝利は必要だ」

「ええ」

「でも」

 

 俺は続ける。

 

「勝利が幸せを保証するとは思ってない」

 

 ラモーヌは黙って聞いていた。

 

「むしろ勝ったせいで不幸になることもある」

「ほう」

「望まない責任を背負わされることもある」

 

 勝利。

 栄光。

 称賛。

 誰もが欲しがるものだ。だがそれを手に入れた瞬間、次の課題が降ってくる。

 もっと上へ。

 もっと先へ。

 もっと強く。

 もっと成果を。

 終わりがない。

 

「大きな夢を追うより、そこそこの勝負で満足しておく方が賢い」

 

 俺は苦笑した。

 

「そんな理屈を語る奴もいる」

「貴方は?」

「反吐が出る」

 

 即答だった。

 ラモーヌが笑う。

 

「でしょうね」

「それは弱者の理屈だ」

 

 確かに理解はできる。

 傷付きたくない。

 失敗したくない。

 無理をしたくない。

 それは自然な感情だ。

 だが。

 

「だから挑戦しないという結論にはならない」

「ええ」

「結局、自分で選んだ道じゃないからな」

 

 逃げることが悪いわけじゃない。

 だが逃げた自分に納得できるかは別問題だ。

 ラモーヌは少しだけ考え。

 静かに言った。

 

「私は少し違うわ」

「聞かせてくれ」

「勝利や栄光は副産物よ」

 

 迷いのない声だった。

 

「大切なのはレースそのもの」

「……」

「走ることを愛すること」

 

 それだけだった。

 実にラモーヌらしい答えだった。

 

「勝利は欲しい」

 

 彼女は言う。

 

「けれど、それは結果でしかない」

「なるほど」

「私が愛しているのは、その過程」

 

 努力。

 研鑽。

 競争。

 挑戦。

 本気でぶつかり合う時間。

 ラモーヌが愛しているのはそこだった。

 俺は自然と頷いていた。

 

「俺も近いな」

「そう?」

「ああ」

 

 俺は少し考えながら言葉を探す。

 

「俺にとっての勝利は」

 

 何だろう。

 誰かを倒すことか。

 成功することか。

 違う。

 

「気付くことだ」

 

 ラモーヌがこちらを見る。

 

「気付く?」

「自分が生きてきた時間を、そのまま受け入れること」

 

 勝利からは逃げられない。

 敗北からも逃げられない。

 嬉しかったことも、苦しかったことも全部過去になる。そして消えない。どれだけ忘れようとしても、どれだけ目を逸らそうとしても、過去は自分の中に残り続ける。

 

「痛みもそうだ」

 

 俺は言う。

 

「どこまで行っても自分のものだ」

「……」

「それを否定し続ける限り、人は救われない」

 

 誰かに勝っても、何かを手に入れても、傷は疼く。過去は消えない。だから。

 

「気付くしかないんだ」

 

 自分の歩いた道に。

 自分の積み重ねた時間に。

 価値があったことに。

 

「生きてきただけで意味があったんだって」

 

 その瞬間、人は救われる。

 過去を許せる。

 愚かだった自分を笑える。

 悲しみさえ抱きしめられる。

 

「それが勝利だと思う」

 

 静寂が訪れた。

 夜風が吹く。

 星が瞬く。

 しばらくして。

 ラモーヌが小さく笑った。

 

「面白いわ」

「そうか?」

「ええ」

 

 彼女は頷く。

 

「貴方らしい答えだと思う」

「君もな」

「そうかしら」

「レースそのものを愛するなんて、君以外から聞いたことがない」

 

 ラモーヌはくすりと笑う。

 俺も笑う。

 価値観は違う。

 見ている景色も違う。

 だが、根底は同じだった。

 結果ではなく過程を愛している。自分で選ぶことを大切にしている。納得して生きることを尊んでいる。だからこそ俺たちは互いを理解できる。

 

「ありがとう、ラモーヌ」

「どういたしまして」

 

 彼女は優しく微笑んだ。

 俺も笑う。

 夜空の下。

 言葉はもう必要なかった。

 俺たちは互いの在り方を認め合いながら、静かにメジロ家への道を歩き続けた。

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