■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
夕暮れが終わりを迎え、空が群青色へ染まり始める頃だった。トレセン学園のトレーニングコースに、俺は一人で立っていた。
目的があったわけではない。ただ、自然と足が向いたのだ。そして、その理由はすぐにわかった。
視線の先にはメジロラモーヌがいた。
彼女は一人で走っていた。いや。正確には、一人で走っているように見えなかった。
風と競い。
大地と語り。
自らの肉体と対話しながら走っているように見えた。
トレーニングという言葉では足りない。
あれは儀式に近い。
あるいは祈り。
もっと言えば愛情表現だった。
ラモーヌはレースを愛している。
それは知識として知っていた。だが、こうして目の前で見ると、その言葉の意味がまるで違う。
好きだから頑張る。
勝ちたいから努力する。
そんな一般的な話ではない。
彼女にとってレースとは、自らの存在理由そのものなのだ。
走ることが呼吸であり。
競い合うことが生きること。
ターフへ立つことが喜びそのもの。
そんな領域にいる。だからこそ美しかった。身体能力だけを見れば、もっと速いウマ娘いるだろう。もっと爆発力のある走りをする者もいるだろう。だが、ラモーヌの走りには完成された芸術作品のような美しさがあった。
一歩ごとに無駄がない。
力みがない。
焦りがない。
それでいて全力だ。
矛盾しているようでいて成立している。それはおそらく、自分自身の全てを信頼しているからだろう。
俺は黙って見続けた。
声をかける気にはなれなかった。
あれは邪魔してはいけない時間だ。レースを愛する者だけが辿り着ける神聖な領域。
そこへ土足で踏み込むほど無粋ではない。だから待った。
十分。
二十分。
三十分。
気が付けばかなり長い時間が経っていた。
それでも飽きなかった。不思議なことに、見ているだけで楽しかった。
ああ、俺は本当にウマ娘が好きなんだな。
そう思う。
勝つために走る者。
夢のために走る者。
誰かのために走る者。
自分自身を証明するために走る者。
それぞれが違う理由を抱えている。
それが面白い。だから見ていたい。それが俺という人間だった。やがて。ラモーヌは走るのを止めた。
呼吸を整えながら汗を拭く。そして真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
紫色の瞳が俺を捉える。
「随分と長く見ていたのね」
からかうような声だった。
俺は肩を竦める。
「君のトレーナーだからね」
「そう」
「飾りみたいなものだけど」
半分は冗談だった。
半分は本音でもある。
俺はラモーヌに技術を教えていない。走りを矯正したこともない。戦術を与えたこともほとんどない。トレーナーとして考えるなら失格かもしれない。だが、ラモーヌは静かに首を横へ振った。
「いいえ」
その否定には一切の迷いがなかった。
「貴方は飾りではないわ」
「そうかな」
「ええ」
ラモーヌは俺の目を真っ直ぐ見つめる。
「確かに私に対してできることは少ないでしょう」
容赦がない。だが、それが彼女らしい。
「けれど」
彼女は続ける。
「貴方は私が愛しているものを理解しようとしている」
その言葉に少し驚いた。
「私自身ではなく、レースそのものを、ターフそのものを、私が求めているものを」
ラモーヌは静かに微笑む。
「それは簡単なことではないわ」
「そうだね、難しい」
「ええ」
断言だった。
「多くの人は勝利しか見ないもの」
その言葉に俺は納得した。
確かにそうだ。
勝った。
負けた。
速かった。
強かった。
人は結果を見る。だがラモーヌが愛しているのは結果ではない。
その過程だ。
そこへ目を向けられる人間は少ない。
「だから評価するわ」
ラモーヌは言う。
「貴方は十分に私のトレーナーよ」
その言葉は嬉しかった。
単純に。
素直に。
嬉しかった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
少しだけ照れ臭くなり、俺は話題を変える。
「それで何か伝えたいことがあったから待っていたのでしょう?」
「いや」
俺は首を振る。
「特にない」
「そう?」
「良い走りだったから見ていただけ」
ラモーヌは一瞬だけ沈黙し。
それから小さく笑った。
嬉しそうだった。
「そう。良くてよ」
短い返事。だが、その一言に満足が滲んでいた。
◆
俺たちは並んで歩き始める。
目的地はメジロ家。夜空には星が浮かんでいた。静かな帰り道だった。不思議と沈黙が苦にならない。
しばらく歩いた後。
ふとラモーヌが口を開いた。
「勝利とは何だと思うかしら?」
唐突な問いだった。だが彼女らしい。
俺は少し考える。
「難しいな」
「そうね」
「勝利そのものは輝かしいものだと思う」
俺は空を見上げる。
「生き物は皆、勝ちたい」
「当然ね」
「負け続ければ生きることすら難しい」
それはレースに限った話ではない。
仕事も、勉強も、人間関係も、ある程度は勝たなければならない。
「だから勝利は必要だ」
「ええ」
「でも」
俺は続ける。
「勝利が幸せを保証するとは思ってない」
ラモーヌは黙って聞いていた。
「むしろ勝ったせいで不幸になることもある」
「ほう」
「望まない責任を背負わされることもある」
勝利。
栄光。
称賛。
誰もが欲しがるものだ。だがそれを手に入れた瞬間、次の課題が降ってくる。
もっと上へ。
もっと先へ。
もっと強く。
もっと成果を。
終わりがない。
「大きな夢を追うより、そこそこの勝負で満足しておく方が賢い」
俺は苦笑した。
「そんな理屈を語る奴もいる」
「貴方は?」
「反吐が出る」
即答だった。
ラモーヌが笑う。
「でしょうね」
「それは弱者の理屈だ」
確かに理解はできる。
傷付きたくない。
失敗したくない。
無理をしたくない。
それは自然な感情だ。
だが。
「だから挑戦しないという結論にはならない」
「ええ」
「結局、自分で選んだ道じゃないからな」
逃げることが悪いわけじゃない。
だが逃げた自分に納得できるかは別問題だ。
ラモーヌは少しだけ考え。
静かに言った。
「私は少し違うわ」
「聞かせてくれ」
「勝利や栄光は副産物よ」
迷いのない声だった。
「大切なのはレースそのもの」
「……」
「走ることを愛すること」
それだけだった。
実にラモーヌらしい答えだった。
「勝利は欲しい」
彼女は言う。
「けれど、それは結果でしかない」
「なるほど」
「私が愛しているのは、その過程」
努力。
研鑽。
競争。
挑戦。
本気でぶつかり合う時間。
ラモーヌが愛しているのはそこだった。
俺は自然と頷いていた。
「俺も近いな」
「そう?」
「ああ」
俺は少し考えながら言葉を探す。
「俺にとっての勝利は」
何だろう。
誰かを倒すことか。
成功することか。
違う。
「気付くことだ」
ラモーヌがこちらを見る。
「気付く?」
「自分が生きてきた時間を、そのまま受け入れること」
勝利からは逃げられない。
敗北からも逃げられない。
嬉しかったことも、苦しかったことも全部過去になる。そして消えない。どれだけ忘れようとしても、どれだけ目を逸らそうとしても、過去は自分の中に残り続ける。
「痛みもそうだ」
俺は言う。
「どこまで行っても自分のものだ」
「……」
「それを否定し続ける限り、人は救われない」
誰かに勝っても、何かを手に入れても、傷は疼く。過去は消えない。だから。
「気付くしかないんだ」
自分の歩いた道に。
自分の積み重ねた時間に。
価値があったことに。
「生きてきただけで意味があったんだって」
その瞬間、人は救われる。
過去を許せる。
愚かだった自分を笑える。
悲しみさえ抱きしめられる。
「それが勝利だと思う」
静寂が訪れた。
夜風が吹く。
星が瞬く。
しばらくして。
ラモーヌが小さく笑った。
「面白いわ」
「そうか?」
「ええ」
彼女は頷く。
「貴方らしい答えだと思う」
「君もな」
「そうかしら」
「レースそのものを愛するなんて、君以外から聞いたことがない」
ラモーヌはくすりと笑う。
俺も笑う。
価値観は違う。
見ている景色も違う。
だが、根底は同じだった。
結果ではなく過程を愛している。自分で選ぶことを大切にしている。納得して生きることを尊んでいる。だからこそ俺たちは互いを理解できる。
「ありがとう、ラモーヌ」
「どういたしまして」
彼女は優しく微笑んだ。
俺も笑う。
夜空の下。
言葉はもう必要なかった。
俺たちは互いの在り方を認め合いながら、静かにメジロ家への道を歩き続けた。
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