■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
俺とメジロアルダンは静寂が支配する夜のトレセン学園。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った並木道を歩いていた。
メジロアルダン。
透き通るような水色のロングヘアが、月光を浴びて淡くきらめいている。気品あふれる深窓の令嬢そのものの佇まいは、ガラスのように繊細な脚を持つという彼女の儚さを、より一層際立たせていた。
「夜風が心地よいですね、トレーナーさん。こうして放課後にお喋りをしながら歩くなんて、幼い頃の私には想像もつかないことでした」
アルダンは胸元にそっと手を当て、微幅な、しかし心からの笑みを浮かべる。
彼女は優秀でありながら謙虚、誰もが認める非の打ち所のない人格者だと話を聞いている。
「私はお姉様を通してこの世界が良い方向――光や進歩、善という美しい概念を目指して進むべきだという正しさを知りました」
「それで、どうなったのかな」
「意地悪な人。ええ、同時に、そう上手くはいかない現実の矛盾や限界も、両親が授けてくれた優れた知性で受け入れてきました」
「なるほど。ご両親もそう言ってくれて喜ぶだろう」
「そうなんですかね。現実的な範囲で妥協し、最善を目指す。極めて常識的な節度でした」
「常識的な節度、か」
だが、今の彼女の瞳には、かつての冷徹な現実主義とは違う、形容しがたい熱が宿っている。俺は歩調を合わせながら、その横顔をじっと観察した。
「アルダン、最近の走りは一段と鋭さを増しているな。お前の中にあった『限界』の枠が、少しずつ壊れていくようだ」
俺の言葉に、アルダンは足を止めた。見上げる夜空には、冷たく、しかし絶対的な存在感を放つ三日月が浮かんでいる。
彼女の視線はその月へ、いや、その月によく似た『白い一房のメッシュ』を持つ、ある一人のウマ娘へと向けられていた。
「……お姉様を、メジロラモーヌを見てしまったから、でしょうね」
彼女の声は、いつもの穏やかさの中に、熱病のような心酔を孕んで響いた。
「私はずっと、世界を正しく理解しているつもりでした。どれだけ努力しようが上には上がいる。走れない者には走れない理由がある。この世の不条理も闇も、すべて現実として受け入れ、その中で最善を尽くすことこそが、私の進むべき道なのだと。……でも、それはただの妥協だった。諦めだと気づきました」
アルダンは青い瞳を激しく揺らし、自らの両腕を抱きしめるように力を込めた。豊かな胸が、高鳴る鼓動に合わせて小さく上下する。
「お姉様は、そんな現実のルールなど最初から一瞥もされていませんでした。体が弱く、走ることはできない。それがどうした知らぬ存ぜぬわからぬと、全員が本気で勝利を目指すレースを全力で愛し、ただ走り、勝つ。そこに幸福も不幸も、優も劣も関係ない。ただ理論上にしか存在しないはずの精神論を、あの圧倒的な輝きで体現してみせるような、世界の法則そのものを、その身一つで書き換えてしまうような、美しい光」
メジロラモーヌ。
彼女はレースしか愛せない破綻者だ。コミュニケーションが取れる取れない、価値観基準というより、もっと元来の性質的な、本能や魂の問題で、破綻している。
彼女に愛されるということは、有形無形を問わず何かを競争され、貪り尽くされるということ。その愛には限りがなく、時に殺意や破壊すら孕む。常識的な人間なら、恐怖して逃げ出すような絶対的な審判者。だが、目の前のアルダンは、完全にその光に目を焼かれていた。
「限界があるからと諦めることが、どれほど愚かだったか。お姉様の輝きの前では、私の持っていた節度など、ただの逃げ道に過ぎなかったのです。あの方のようになりたい。あの方の見る、すべてが本気でぶつかり合う光の世界へ辿り着きたい」
アルダンは自らの足に触れる。
「たとえこの脚が本当にガラスのように砕け散ろうとも、お姉様に認められるためなら、私はどんな現実の枠だって踏み越えてみせます」
一言で言うなら、狂信。
かつて現実を受け入れていた聡明な少女は、メジロラモーヌという絶対的な嵐に魅了され、その光の奴隷となることを自ら選んだのだ。
「善悪や正しい生き方に絶対的な価値はない。なら、その狂気的な憧れに身を焦がすこともまた、君が自ら選んだ意味ある価値なんだろう」
俺は目線を動かし、彼女の細く、しかし確固たる意志を宿した脚を見る。
常識を捨て、限界を捨て、ただ一人の姉という光を追い求めるウマ娘。その破綻していく美しさは、確かにゾッとするほどに魅力的だった。
「他の人の言葉をどう捉えるかは自由だ。しかしアルダン、君が光に身を焼かれると言うなら、俺はその旅路の最後まで見届けるつもりよ。
「……はい、ふふ。浮気はいけませんよ。でも貴方がいてくだされば、お姉様は永遠に愛せるでしょう」
月光に照らされた水色の髪が、夜の闇に妖しく溶けていく。
俺はメジロアルダンを学生寮まで送り届ける。そして言った。
「……そろそろ出てきたらどうだ、ラモーヌ」
アルダンの姿が夜の闇に完全に消えたのを見届けてから、俺は誰もいないはずの並木道の影に向かって声をかけた。
密やかな足音が、静寂を優しく踏み潰す。
街灯の光に照らされて現れたのは、頭頂部から左へと美しく流れる白いメッシュのシニヨン。そして、右目下の泣きぼくろを妖艶に歪めたメジロラモーヌだった。
彼女は最初からそこにいて、妹の、あの熱病のような告白をすべて隠れて見ていたのだ。
「あら、気づいていたのね。私の完璧な隠密を暴くなんて、本当に目線のよく動くトレーナーだこと」
挑発的な微笑を浮かべるラモーヌだったが、その瞳の奥には、レースに向かう時とはまた違う、冷徹な理性が宿っていた。
彼女は腕を組み、アルダンが去っていった暗闇をじっと見つめる。
「――アルダンには、自覚してほしいわ」
ぽつり、と。
鈴の音のような声が、夜の冷気に固く響いた。普段の威圧的な態度とは裏腹に、その言葉には妹に対する、歪で、しかし絶対的なまでの『厳しさ』が含まれている。
「私は破綻者よ。レースという名の破壊と渇望しか愛せない、ただの化物。だから、私がどれほど自らの愛の理屈を掲げてターフに君臨していようとも、それは万人には倣えないもの。……彼女はまず、その事実を前提として、自らを強く戒める必要があるわ」
ラモーヌはフッと息を漏らし、右目の下の泣きぼくろを指先でなぞった。その仕草は小悪魔的でありながら、語られる内容はあまりにも冷酷な世界の真実だった。
「重ねて言うけれど、自覚してほしいの。……一つの理屈が罷り通るという状態はね、過ちを犯した者や、どちらでもない有象無象を容赦なく切り捨てる概念よ。アルダンは私を通して『光』を求めているけれど、その光がどれほど残酷な選別を行うか分かっていないわ」
彼女の言う「正しい理屈(光)」とは、誰もが納得する美しい世界のこと。だが、メジロラモーヌという存在が体現する光は、あまりにも強烈すぎて、ついて来られない者をすべて焼き尽くし、置き去りにする。
アルダンはその光に目を焼かれ、審判者の奴隷になろうとしている。だが、その本質を理解していない。
「理解する必要があるのよ。……闇を知らぬ化物こそ、自らをも壊すし、周囲のすべての意味をも破壊する、望まぬ世界を作り出すの。あの子は純粋で、聡明すぎた。その上でそれを私の虜になって盲目になってしまった。だからこそ、自分の目指す光の裏にある深淵に気づいていない」
ラモーヌの言葉を、俺は静かに咀嚼する。
善悪や成功、失敗に絶対的な価値はない。だからこそ、アルダンが壊れる覚悟で光を目指すのも、ラモーヌがそれを拒絶するのも、どちらも等価値だ。だが、この姉妹のすれ違いは、少しばかり回りくどくて見ていられない。
俺はコートのポケットに手を突っ込み、ラモーヌの瞳をまっすぐに見据えた。
「そこまで考えているならさ……自分で直接コミュニケーションを取って、本人に示してあげればいいんじゃないか?」
「……ふぅん?」
「君はいつも遠回しだ。自分の渇望を体現するのは良いだろう。それについて来られない者を冷たく突き放す。それには好きにしても良い」
だけど、だけどね。
「アルダンは君を見ている。君が直接その『闇』を、光の残酷さを突きつけてやれば、彼女は自分だけの答えを考えるきっかけになるだろう。ウマ娘には自ら選び、責任を持って行動してほしい。姉妹である君が言葉を惜しむ理由はないだろう」
ラモーヌは一瞬、意外そうに目を見開いた。
やがて、彼女の唇に、フツフツと湧き上がるような挑発的な笑みが戻ってくる。左耳の耳飾りが、月光を反射して怪しく揺れた。
「ふふ……本当に、おこがましいトレーナーね。私に説教をするつもり? いいえ、それともこれは……私に対する、あなたなりの『競争』かしら」
彼女の一歩が、俺との距離を詰める。妖艶な香水の香りが、俺の意識を支配するように漂った。
「面白いわ。あの子が盲目のまま自ら壊れるか、それとも闇を知ってなお私に牙を剥くか……私が直接、試してあげる。でも、忘れないでね、トレーナー。その結果あの子がどうなろうと、それを選ばせたのは、私を焚きつけたあなた自身の責任よ?」
「ああ、望むところだ。自らに意味を与え、責任を持つのが、俺のやり方だからな」
ラモーヌは満足そうに微笑むと、今度こそ音もなく、夜の闇へと消え去っていった。
一人残された並木道で、俺は静かに息を吐き出す。
光の奴隷になろうとする妹と、それを冷徹に見下ろす破綻者の姉。
この二人が本気でぶつかり合い、自らの『勝利の形』を見つけるその瞬間まで、俺の観察と誘導は終わらない。
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