■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
「全員が本気で勝利を目指すレースを全力で愛したい。ただ走り、勝ちたい……。何故、これほどまでに単純なことが、誰一人として理解できないのかしら」
夜の闇が深まる並木道。
先ほどまでアルダンの気配が残っていたその場所で、メジロラモーヌは自らの内に燻る渇望を吐き出すように、冷たく、そして酷く蠱惑的に呟いた。
「誰も彼もが、納得を欲しがる。トリプルティアラの称号、メジロ家の誇り、ファンへの責任、歴史への足跡……。そんな有象無象の『意味』で私を縛り、形作ろうとする。滑稽だわ。愛の見返りを求めることほど、下俗なことはないというのに」
彼女の紫の瞳が、月光を反射して怪しく明滅する。俺はその視線の動線、そして彼女の指先が描く微かな軌跡をじっと観察していた。
「自らの想いを、ただ全力でぶつけること。それのみが純粋な愛であり、ターフに対する唯一の誠実な行為よ。そう思わない、トレーナー?」
向けられた問いは、試すような、あるいはひどく孤独な子供のようでもあった。
俺はコートのポケットから手を抜き、姿勢を正して彼女の美貌を正面から見据えた。
「――君の気持ちは、ある程度納得できるよ」
俺の言葉に、ラモーヌは微かに片眉を上げた。
「何でもかんでも、レースに意味を持たせるのは無粋の極みだ。一着という結果の向こう側に、物語や大義名分を求めたがる世間の視線は、確かに君の純粋な走りを濁らせる泥にしかならない。……だがね、ラモーヌ」
俺は一歩、彼女の絶対的な威圧感が支配する領域へと踏み込んだ。
「それが、不完全な人間であり、夢を見るウマ娘という生き物なんだ。無意味なものに意味を見出し、縋り、勝手に背負い込む。それは脆さであり、弱さだ。だが、だからこそ、彼女たちはその弱さを、前へと進むための歪な『武器』に変えて這い上がってくる」
「弱さ、ね……」
「そうさ。そうやって弱さで武装し、世界を複雑に定義づけることこそが、知性体の本質なのだから。ラモーヌ、君の主張を素直に受け入れるには、この世界はあまりにも複雑で、濁りすぎている。だが――」
俺はあえて、挑発的な笑みをその唇に浮かべた。
「その複雑で濁った世界だからこそ、君の走るターフが存在しているんだ。もし世界が君の言う通りシンプルで、純粋な実力と愛だけで満たされていたら、君が望む『全員が本気でぶつかり合うレース』なんて、最初から生まれ得ないよ」
「どういう意味かしら?」
ラモーヌの瞳に、明確な鋭さが宿る。
「シンプルな世界では、勝てない相手に挑戦する意味がないからだ。絶対に勝てない怪物がいると分かっていれば、純粋な理性が作用して誰も戦いを挑まない。挑戦者がいなくなれば、君の愛をぶつけるレースそのものが消滅する。君はその圧倒的な強さのまま、誰もいない荒野で一生燻り続けることになるのさ。複雑で、弱くて、諦めの悪い有象無象が意味を捏造して挑んでくるからこそ、君の愛は成立している」
俺の言葉が夜の静寂に溶けていく。ラモーヌはしばらくの間、俺の顔を無言で見つめていた。やがて、フツフツと湧き上がるような笑みを漏らし、右目の下の泣きぼくろを艶然となぞった。
「ふふ……一理あるわ。実に面白い理屈。良くてよ」
彼女は満足そうに、しかしどこか冷徹な声音で肯定した。
「ただ愛する。その純粋さを貫き、成し遂げようとして行動できるのは、この世界でも極端な一部の者だけ……。そしてトレーナー、あなたもその『極端な一人』なのでしょう?」
ラモーヌの左耳の耳飾りが、危険な光を放って揺れる。彼女の視線が、俺の心の奥底にある計画を暴くように細められた。
「知っているのよ? あなたが裏でライスシャワーから始まってドリームジャーニー、マンハッタンカフェを率いて、何を目論んでいるか。魔性の神であるこの私を、引きずり下ろし、打ち滅ぼすための『破神同盟』……。随分と、不遜で愛おしい用意を進めているじゃない」
彼女から漂う香水の香りが、一段と濃くなった気がした。圧殺されそうなほどのプレッシャー。
だが、俺の心音は至って静かだった。全ては等価値。神を殺すことも、神に這いつくばることも。だからこそ、俺が選び、彼女たちと決めたこの反逆には、絶対的な価値がある。
「――期待しているわ、トレーナー。私を本気にさせてみなさい」
「ああ、期待してくれ。君の愛するターフを、俺たちの泥で最高に狂わせてやるさ」
俺は不敵に笑い返し、そこでふと、先ほど闇に消えたもう一人のウマ娘の横顔を思い浮かべた。
「……ところで、アルダンはどうだい? 彼女は君の挑戦者になり得るか?」
俺の問いに、ラモーヌは一転して、冷淡に首を横に振った。
「今は無理ね。あの子が私に憧れ、狂信的な目を向けるのは、妹としては可愛いけれど……レースにおいては、それは『私のことを何も理解できていない』という証明に過ぎないわ」
ラモーヌはアルダンが去った暗闇を見つめ、残酷なまでの現実を口にする。
「光から解放されない限り、あの子は眠ったまま。私の背中に目を焼かれているうちは、私と同じ地平には立てない。……けれど」
ラモーヌの唇が、今日一番の、妖艶で、どこか狂気を孕んだ形に歪んだ。
「その盲目的な光から目覚め、絶望を知り、なおも私を喰らい尽くそうと牙を剥いた時……メジロアルダンというウマ娘は、極上の挑戦者になるわ」
「そうか。なら、俺の仕事は決まりだな」
彼女たちに絶対的な善悪や成功の形は与えない。自ら選び、自ら壊れ、自らの『勝利』を掴み取らせるだけだ。
ラモーヌはもう何も言わず、ただ満足そうに微笑むと、俺は静かに姿勢を正す。
完璧な神を引きずり下ろさんとする三人の魔王。そして、その神の光に目を焼かれながらも目覚めの時を待つ、ガラスの足の令嬢。
「抵抗するだけ無駄よ、トレーナー。今日のあなたは、私のものだから」
並木道での密談が終わった直後、俺は文字通り、メジロラモーヌによって拉致されるように高級外車へと押し込まれた。
深夜のトレセン学園から滑り出した車が到着したのは、威風堂々たる佇まいを誇るメジロ家の本邸。
歴史の重みを感じさせる門をくぐり、大理石のエントランスへと足を踏み入れた瞬間、異様な緊張感が周囲に走る。
「あら、お嬢様……? そちらの方は、確か……」
「深夜に申し訳ありません。ですが、お止め立てはご遠慮ください」
廊下ですれ違った初老の使用人が目を見張り、夜間の巡回、あるいは自主トレの最中だったのか、偶然居合わせたメジロ家のウマ娘たちが息を呑むのが分かった。
トリプルティアラの頂点の最有力候補、孤高を愛し、他者を寄せ付けないあのメジロラモーヌが、よりによってトレーナーの手首を掴み、有無を言わさぬ足取りで引き回しているのだ。当然の反応だった。
周囲の驚愕と困惑の視線が俺の背中に突き刺さるが、俺は実戦体型の姿勢を崩さず、ただ静かにラモーヌの横顔と、周囲の構造を観察していた。
――善悪や常識に絶対の価値はない。だから、この状況に慌てる必要もない。
ラモーヌは周囲の喧騒など最初から存在しないかのように一瞥もくれず、自身の部屋の重厚な扉を開け、俺を中に放り込むようにして鍵を閉めた。
カチャリ、と錠の降りる音が室内に響いた直後だった。視界が急激に回転する。ドン、と背中に走る柔らかな、しかし逃げ場のない衝撃。気がつけば、俺は彼女の広大なベッドの上に押し倒されていた。
視界を埋め尽くすのは、頭頂部から流れる美しい白メッシュの髪と、至近距離にある妖艶な紫の瞳。彼女の細い、しかしウマ娘としての圧倒的な筋力を秘めた両腕が、俺の肩をベッドへと縫い付け、完全に自由を奪っていた。
「……随分と生意気な口を利いてくれたものね、トレーナー」
見下ろしてくるラモーヌの顔に、いつもの小悪魔的な余裕はない。だが、そこに世俗的な、甘やかな恋愛の情動は微塵も存在しなかった。
あるのは、分を弁えずに吠えたペットの首輪を強く締め上げるような、あるいは一線を越えた飼い犬に立場を教え込むような、剥き出しの荒々しさと冷徹な支配欲。
「破神同盟? 私を引きずり下ろす? 面白い。でも、貴方は私のトレーナーよ。私がその気になれば、あなたという存在ごと今ここで噛み砕いてしまえることを、その身に刻んでおきなさい」
至近距離から浴びせられるウマ娘の本物のプレッシャー。肺が押し潰されそうなほどの重圧の中で、俺の目線は冷静に彼女の瞳の奥、そして呼吸の周期を捉えていた。
「いい警告だ、ラモーヌ。だが、お前がそうやって俺を威圧すればするほど、お前が俺の『挑発』を無視できなかったという証明になる」
「……っ」
「神が人の羽音を気にするわけがない。お前は俺を、俺たちの同盟を、明確に敵として認識したんだ。違うか?」
ラモーヌの喉が、くくりと鳴った。怒りか、あるいは歓喜か。彼女はギリ、と俺の肩にさらに力を込め――やがて、フッと毒気を抜かれたように、妖艶な笑みをその唇に戻した。
「ふふ……本当に、可愛げのない人」
嵐のような支配の時間が過ぎ去ると、部屋には奇妙なほど穏やかで、静謐な時間が訪れた。
部屋のスピーカーからは、微かに弦楽器の静かなクラシック音楽が流れている。
初夏の夜の熱気を完全にシャットアウトするように、クーラーの風が部屋を冷やし、肌寒いくらいの空気が満ちていた。
「寒いわね。こっちへいらっしゃい」
ラモーヌはベッドの上に寝転がると、厚手の暖かい毛布を引っ張り出し、俺をその中に招き入れた。
先ほどの荒々しさが嘘のように、自然な動作で彼女の身体が密着してくる。日々の徹底したボディメンテナンスによって磨き上げられた、圧倒的な美貌と、ウマ娘特有の高めの体温。
冷え切った部屋の中で、お互いの体温を分け合うように、ぴったりと身体を引っ付け合う。
「はい、これ」
彼女が手渡してきたのは、高級なピスタチオのアイスクリームだった。冷えた部屋で、温かい毛布に包まりながら、二人で静かにアイスを口に運ぶ。
その空気感は、まるで長年連れ添った、深く愛し合う恋人同士のそれのようだった。
「美味しいわね。……こうしていると、あのうるさい世間の雑音が、全て消えてしまったみたい」
「ああ、そうだな」
彼女の髪が俺の鎖骨のあたりを擽る。静かな音楽、冷気、毛布の温もり、そしてラモーヌの鼓動。
世界を敵に回すような『破神同盟』の緊迫感とは真逆の、奇妙に満たされた、贅沢な空白の時間だった。
アイスを食べ終えると、俺はトレーナーとしての本能、そして実戦的な観察眼に従って、彼女の身体のメンテナンスを始めた。
「少し、身体を触るぞ」
「いいわ。あなたの好きなようにして」
俺は専用の高級マッサージオイルを手に取り、彼女の指先に馴染ませていく。
まずは、ターフを駆けるウマ娘にとって重要なパーツの一つである、爪のケア。硬質でありながら、繊細な美しさを持つ彼女の爪を、一枚一枚丁寧にオイルで保護していく。
続いて、足元まであるかのような長い焦げ茶色の髪、そして透き通るような肌へと、摩擦を起こさないよう、慎重にオイルを滑らせていった。
時折、彼女の関節の可動域を確かめるように、ストレッチの補助に入る。
(……やはり、化物体型だな。無駄な脂肪が一切ない。筋肉の柔軟性、腱のバネ、全てがレースのためだけに研ぎ澄まされている。アルダンが脳を焼かれるのも無理はない)
触れるたびに伝わってくる、規格外の肉体の構造。俺はただ、彼女という「競走馬の運命」を深く理解するために、無心で指を動かしていた。だが、どれほど理性を保とうとしても、毛布の中の密着感と、オイルの滑らかな感触、そして彼女から漂う妖艶な香水の香りが混ざり合い、人間としての邪な感情が、脳の片隅にチリついた。
その僅かな呼吸の乱れ、筋肉の緊張を、ラモーヌは見逃さなかった。
「ふふ……トレーナー? 随分と、指先が熱くなっているじゃない?」
彼女は顔を微かに傾け、右目の下の泣きぼくろをピクリと動かして、揶揄うような視線を俺に投げかけた。
「あら、そんな目で私を見るなんて。手元が狂って、私の身体に不埒な痕でも残すつもりかしら? いいのよ、あなたが望むなら、もっと深く触れても」
小悪魔的な挑発。俺の理性を試すような、楽しげな声音。俺は一瞬だけ動きを止め、それから再び淡々とオイルを伸ばしながら、静かに息を吐いた。
「……お前、これが狙いか」
「何のことかしら?」
「お前が俺をここへ連れてきたのは、ただの躾じゃない。周囲のメジロの連中や使用人に見せつけるように俺を連れ込み、この部屋に閉じ込めた。そして、こうして身体を密着させ、お前の香りとオイルを俺に染み付かせている」
俺は彼女の紫の瞳をじっと見つめ返した。
「これは、独占欲だ。お前は、俺に『メジロラモーヌのトレーナー』という消えないマーキングを施しているんだ。ライスやジャーニーたちに、余計な色目を使わせないためにな。あとは挑発もある気もするが」
いつも孤高を好み、他人に興味を示さないメジロラモーヌ。
そんな彼女の好意の形が、まさかこれほどまでに独占的で、かつ直接的な「マーキング」として発揮されるとは、流石の俺も少し意外だった。
ラモーヌは俺の指摘を聞くと、一瞬だけ目を見張り――それから、今夜一番の、心底愉快そうな笑声をあげた。
「ふふ……あはは! 本当に、本当によく動く目だこと! ええ、そうよ。大正解。あなたが私以外のウマ娘に夢中になるなんて、私のプライドが許さない」
彼女は俺の首筋に、自らの細い指先を這わせ、爪を微かに立てた。
「あなたは私の飾りのトレーナーであり、同時に、私を打倒しようとする最悪の敵。そのどちらの席も、他の誰にも譲るつもりはないわ。……分かったら、もっと丁寧に私を愛しなさい、トレーナー」
「……言われなくても、完璧に仕上げてやるさ」
冷え切った部屋の中、毛布の熱はどこまでも上昇していく。完璧な女王の歪な愛を受け入れながら、俺は彼女の肉体の全てを、その指先と記憶に深く刻み込んでいった。
好きなウマ娘は?
-
サトノダイヤモンド
-
メジロラモーヌ
-
スティルインラブ
-
マンハッタンカフェ