■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。   作:あばなたらたやた

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18話:ラモーヌの弱さ

 

 微かに流れるクラシックの調べと、クーラーに冷やされた室内。その静寂を破るように、とろりとしたオイルがラモーヌの白磁の肌に落ち、微かな摩擦音を立てた。

 

 俺はしなやかな実戦体型の指先を使い、彼女の太腿から脹脛にかけて、じっくりと圧をかけながらオイルを伸ばしていく。

 

 トリプルティアラを達成できるその肉体は、文字通り極限まで研ぎ澄まされていた。無駄な脂肪など一切なく、指先から伝わる筋肉の柔軟性と、鋼のように強靭な腱の質感。

 

 触れるだけで、彼女がどれほど凄絶な領域で戦ってきたかが理解できる。

 

「……ふう、」

 

 ラモーヌの口から、熱を帯びた吐息が漏れた。毛布に包まれた彼女の身体は、ウマ娘特有の高めの体温も相まって、冷えた部屋の中でそこだけが陽だまりのように温かい。

 

「本当に、丁寧で、容赦のない指先ね。私の身体のラインを、まるでレースコースの起伏でも確かめるように、そんなに細かく観察して……何を考えているのかしら?」

 

 彼女はうつ伏せのまま、首だけをこちらに巡らせた。右目下の泣きぼくろが、月光と街灯の僅かな光の中で妖しく揺れる。

 その紫の瞳には、俺という存在への絶対的な信頼と、それ故の、ひどく愉しげな悪戯心が宿っていた。

 

「何を、って……トレーナーとして、担当ウマ娘の肉体を完璧に理解しようとしているだけだ」

「あら、嘘つき」

 

 ラモーヌはフッと笑い、寝返りを打って仰向けになると、俺の手首を自身の細い指先でそっと捕らえた。

 

 彼女の濡れた焦げ黒い長い髪がベッドに広がり、その圧倒的な美貌が至近距離で俺を見上げる。

 

「筋肉の緊張を確かめるだけなら、あなたのその動く目が、私の胸元や首筋で一瞬だけ止まる理由にならないわ。……認めたらどう? トレーナー。私を単なる『走る器』としてではなく、一人の女として、不埒な目で見ていると」

 

 彼女は捕らえた俺の手を、ゆっくりと自分の鎖骨のライン、そしてその少し下へと導いていく。仕立ての良いボディメンテナンス用の衣服が、俺の掌に微かな弾力を伝えた。

 

 紛れもない、性的な挑発。

 

 お互いが、お互いを特別な存在だと認め合っているからこそ成立する、大人の駆け引きだ。俺の脳裏に、男としての邪な熱がチリりと走る。だが、俺はそこで姿勢を崩さず、むしろ冷静に彼女の瞳を見つめ返した。

 

「……いいや、認めないね」

 

 俺は彼女の指の力をなだめるように、すっと自分の手を引き抜いた。明確な、しかし優しい『拒絶』だ。

 

「お前はそうやって俺を揺さぶり、理性を決壊させて、優位に立ちたいだけだろう。だが、俺はお前の『飾り』になるつもりも、ただの奴隷になるつもりもない。お前の全てを理解するが、お前の思い通りにはならない。それが俺のスタンスだ」

 

 ラモーヌの手が空を切り、ベッドに落ちる。

彼女は一瞬だけ、つまらなそうに唇を尖らせたが――すぐに、獲物を見つけた猛獣のような、獰猛で美しい笑みをその顔に咲かせた。

 

「ふふ……本当に、おこがましくて、頑固な人。そこまで頑なに拒まれると、却ってその理性をズタズタに引き裂いて、私を乞わせたくなるわ」

「できるものなら、やってみるといい。だが今はメンテナンスの時間だ。次は肩のストレッチをするぞ。力を抜け」

「あら、手厳しいこと。……でも、嫌いじゃないわよ、あなたのそういう傲慢なところも」

 

 ラモーヌは挑発を拒絶されたことすら楽しむように、素直に両腕の力を抜いて俺に身体を預けてきた。

 

 冷え切った部屋、暖かい毛布。お互いの呼吸を、信頼を、そして言葉の裏にある情熱を確かめ合うように、俺たちの静かで熱い「遊び」は、夜が更けるまでどこまでも続いていった。

夜の静寂が、オイルの香りと共に部屋の隅々へと沈着していく。

 

 クラシックの調べもいつしか止まり、残されたのはクーラーの規則的な駆動音と、毛布の中で重なり合う二人の呼吸の音だけだった。互いの理性を試し、拒絶し合う、あの甘やかで張り詰めた「遊び」の時間は終わりを告げ、俺たちは一つのベッドの中で、自然と身体を寄せ合って横になっていた。

 

 いつもなら、ここで「退屈な夜ね」とでも言って、背を向けるのが彼女のスタイルだ。あるいは、マーキングとしての独占欲を誇示するように、傲慢に俺の腕を枕代わりにするか。だが、違った。

 

 暗闇の中、ラモーヌは突如として、俺の身体に強くしがみついてきた。

 

 衣服越しに伝わる彼女の指先は、ウマ娘としての圧倒的な膂力を秘めているはずなのに、どこか弱々しく震えている。

 

 これもまた、俺を揺さぶるための新しい官能の遊びかと思ったが、彼女の胸の鼓動があまりにも不規則に、激しく打っていることに気づき、俺は目線を動かした。

 

 見下ろした彼女の顔に、いつもの小悪魔的な微笑はなかった。

 紫の瞳は、月光を反射して酷く脆そうに潤み、その絶対女王の仮面は完全に剥がれ落ちていた。

 

「……トレーナー」

 

 囁かれた声は、冷たい夜の空気に触れて今にも消えてしまいそうだった。

 

「私ね、時々……狂ってしまいそうになるの。この世界が、あまりにも歪で、無限で、掴みどころがないから」

 

 彼女は俺の胸元に顔を埋め、まるで嵐の夜に怯える子供のように、さらに力を込めてしがみついてくる。

 

「何度も、何度も……同じ時間を、同じ季節を繰り返している感覚があるのよ。気の迷い、既視感、そんな言葉では片付けられないほど鮮明に。……別の『可能性』の記憶が、私の奥底を掠めていくの」

 

 ラモーヌは震える息を吐き出しながら、自らの内にある深淵を、初めて俺に吐露し始めた。無限の可能性と因子が内包され、あらゆる世界が繋がっているという、この世界の特異現象。その高次元のバグに、彼女の鋭敏な感性は気づいていたのだ。

 

「ある世界では、あなたと誰も引き裂けないほどの強い絆で結ばれ、共に頂点を極めた。……けれど、また別の世界では、あなたは私の前を素通りして、別のウマ娘の担当トレーナーになっていた。私のことなんて、ただの『他所の強いウマ娘』として、遠くから眺めているだけの世界もあった」

 

 彼女の指先が、俺のコートをギュッと引き絞る。

 

「勝って、負けて、それを無限に繰り返して……そのたびに世界が新しく書き換わっていく。それが怖いのよ。何度も繰り返すうちに、最初にあなたと出会った時の、この胸の震えや、あなたを特別だと思う気持ちが、いつか摩耗して消えてしまうのではないかって。……それがひどく、恐ろしいの」

 

 トリプルティアラに至る頂点のウマ娘。

 レースという名の破壊と渇望しか愛せないはずの化物が、今、俺の手の中で、ただの怯える少女として震えている。

 

「レースへの愛は、無限に湧いてくるわ。あなたを求める気持ちも、今、確かにここにある。……だけど、いつか、いつの日にか。世界がまた巡った時、私はあなたの顔を見ても何も感じなくなって、ただの『他人』としてすれ違う日が来るかもしれない。そう思うと……身体の震えが、止まらないのよ」

 

 彼女の告白を、俺は静かに、ただ等価値の事実として受け止めた。

 

 無限の並行世界。

 繰り返される因子。

 マンハッタンカフェたちが追う『特異現象』の正体は、この絶対女王の心をも蝕む残酷な真実だった。

 

 未来がどうなるかなど、俺にはわからない。過去にどんな因果があったかも、知る由はない。成功も失敗も、絆も喪失も、大局的に見れば全ては無意味な可能性の泡だ。

 だからこそ――。

 

「ラモーヌ」

 

 俺は静かに腕を回し、しがみついてくる彼女の身体を、強く、確かに抱きしめ返した。

 

 日々のボディメンテナンスで理解した彼女の肉体の輪郭、その背中のしなやかな曲線を、俺の掌でしっかりと包み込む。

 

「未来や過去のことなんて、俺にはわからない。別の世界で俺たちが他人だったとしても、そんなものは今の俺には何の関係もないことだ」

 

 俺の胸に埋められた彼女の耳が、ぴくりと跳ねる。

 

「『今』、ここにいて、お前のその狂おしいほどの震えを受け止めているのは、世界で俺だけだ。お前と寄り添い、お前の求める本気のレースを、お前の歪な願いを叶えようとして裏で『破神同盟』なんて大それたものを企てているトレーナーは、他の誰でもない、ここにいる俺だ」

 

 俺は彼女の焦げ黒色の髪を優しく撫で、その紫の瞳をまっすぐに見据えた。

 

「未来の喪失を恐れるな。過去の幻影に惑わされるな。今、俺たちがここに共にいて、お互いを選択し、この時間に意味を与えている。その事実だけに目を向けていればいい。お前が忘れても、俺が何度でもお前を『挑発』して、その目を覚まさせてやるさ」

 

 俺の言葉は、感傷的な慰めではなかった。ただ、自らが選び、責任を持つという、俺自身の絶対的なスタンスの表明だった。

 

 

 ラモーヌは俺の心音を聴くように、じっと動かずにいた。やがて、彼女は小さく、本当に静かに頷いた。

 

「……ええ。そうね。本当に……あなたって人は、どこまでも傲慢で、頼もしいトレーナーだわ」

 

 恐怖の震えは、いつしか消えていた。

 ラモーヌは、先ほどまでの弱さを振り払うように、しかし今度は決して離さないという強い意志を込めて、より一層強く、俺の身体を抱きしめてきた。高めの体温が、毛布の中で完全に溶け合っていく。

 

 無限の宇宙の片隅、冷え切った一部屋のベッドの上で、俺たちは『今』という一瞬に、絶対的な意味を刻み込みながら、静かに眠りへと落ちていった。

 

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