■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
休日の朝。
スマホに届いた一通のメッセージ。差出人はマンハッタンカフェだった。
内容は簡潔。
『お時間がありましたら、水族館へ行きませんか』
それだけ。
余計な装飾もなければ、長文でもない。実にカフェらしい。俺は予定を確認する。空白だった。
特に問題はない。
『ぜひ』
そう返信した。少しだけ文面を見返してから、スマホを置く。だから。当日、水族館の前で起きた事態には少し驚いていた。
待ち合わせ場所。
休日ということもあり人通りは多い。
家族連れ。
恋人同士。
学生グループ。
様々な人々が入口へ吸い込まれていく。その中に黒髪の少女がいた。
マンハッタンカフェ。
私服姿。
普段の制服とは印象が違う。黒を基調としているのは変わらない。だが堅苦しさはなく、どちらかと言えば落ち着いた大人の雰囲気だった。
肩口で揺れる長い黒髪。
風に揺れるスカート。
整えられた装い。
普段から綺麗な人間は私服でも綺麗らしい。
なるほど。
勉強になった。
そんなことを考えていると、カフェがこちらに気付いた。
「こんにちは」
少し控えめな声。
「こんにちは」
俺も軽く頭を下げて、お互いに数秒沈黙した。
たぶんお互いに服装を見ていた。
俺も普段よりは整えている。
カジュアル。だが適当ではない。失礼にならない程度には気を使ったつもりだ。
「その……」
先に口を開いたのは俺だった。
「今日の服、似合ってるね」
言った瞬間、少し早かったかもしれないと思った。だがカフェは目を丸くしたあと、小さく視線を伏せる。
「ありがとうございます」
耳が少し赤い気がした。
「トレーナーさんも、その……素敵だと思います」
「ありがとう」
今度は俺が少し照れる番だった。
また沈黙。気まずいわけではない。ただ、お互いに次の言葉を慎重に選んでいるような時間だった。
「驚きました」
カフェがぽつりと言う。
「ん?」
「お誘いをいただけるとは思っていませんでしたので」
俺は首を傾げた。
「いや、誘ったのはカフェじゃないの?」
カフェも同じように首を傾げる。
「……私、でしょうか」
「メッセージをくれたよね?」
「はい。でも、トレーナーさんが以前、水族館のお話をされていましたので」
「ああ」
「ですので、ご一緒したいというお気持ちの表れかと判断したいのですが……」
数秒。
思考停止。
理解。
再起動。
「もしかして」
「はい」
カフェが静かに頷く。
「お互いに、相手から誘われたと思っていたようです」
俺は思わず笑ってしまった。
カフェも少しだけ口元を緩める。
「そんなことあるんだ」
「不思議ですね」
「かなり」
風が吹く。
カフェの髪が揺れる。彼女はそれを耳にかけながら、少しだけこちらを見る。
「ご迷惑でしたか?」
遠慮がちな問いだった。だからすぐに首を振る。
「全然」
「……そうですか」
ほっとしたような表情。
それを見て、こちらまで安心する。
「カフェは?」
「私も」
一拍置いて。
「ご一緒できて、嬉しいです」
小さな声だった。
聞き逃さない程度に、けれど確かに俺は少しだけ視線を逸らした。
「そっか」
「はい」
なんとなく照れくさい。たぶん向こうも同じだった。そして数秒。お互いに入口を見た。巨大な水族館。休日の人混み。既にここまで来ている。帰る理由はない。
カフェが言った。
「水族館前まで来ていますし」
「うん」
「もしよろしければ」
一度言葉を区切る。
「ご一緒していただけますか?」
妙に改まった言い方だった。だから俺も合わせる。
「ぜひお願いします」
カフェが少し笑った。
本当に少しだけ。
認識の齟齬はあった。だがそれで何かが変わるわけでもない。むしろ少しだけ距離が縮まった気さえする。
「では」
「行こうか」
「はい」
カフェが頷く。
静かに、けれどどこか嬉しそうに。そして俺たちは並んで歩き出した。肩が触れないくらいの距離を空けて、互いに少しだけ気を使いながら。
巨大な水槽の向こう側。
青く揺れる世界へ向かって。
まるで深海へ潜るみたいに。
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