■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。   作:あばなたらたやた

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22話:水族館

 

 水族館の内部は薄暗かった。

 天井から落ちる青い光。

 水槽から反射する揺らめき。

 壁や床に映る波紋のような影が、ゆっくりと形を変え続けている。館内には静かなBGMが流れ、遠くから子どもたちのはしゃぐ声が微かに聞こえてきた。

 まるで別世界だった。

 日常から切り離された海の中。

 そんな感覚を覚える。

 大水槽へ向かう前に、俺たちは小型展示エリアへ足を運ぶ。小さな水槽が並んでいる。一見すると地味だ。

 

 巨大なサメやエイが泳ぐわけでもない。派手なショーがあるわけでもない。だが説明文を読むと面白く、知らない世界が広がっている。ほんの数十センチの水槽の中に、それぞれ違う生態系と生き方が存在しているのだ。

 

「おや」

 

 俺は最初の水槽を覗き込む。

 中には小さなタコがいた。岩陰に隠れるようにじっとしている。周囲の岩と似た色になっていて、注意して見なければ見逃してしまいそうだった。

 

 説明文を見る。

 

『狭い隙間を好み、自分の身体が通るならどんな場所にも入り込める』

 

「なるほど」

「面白いですね」

 

 カフェも隣で説明を読む。しばらく考えてから言った。

 

「安心できる場所を探しているのでしょうか」

「かもしれない」

 

 俺はタコを見る。広い水槽の中でも、わざわざ岩陰に身を寄せている。落ち着く場所というのは、生き物にとって重要なのだろう。

 

「人も似ています」

 

 カフェは水槽を見つめる。

 

「自由を求めると言いながら、本当に欲しいのは安全な居場所だったりします」

 

 俺は少し笑う。

 

「確かに。広い海があるのにわざわざ狭い場所へ入るんだからな」

 

 カフェが頷く。

 

「自由と安心は別物です。そして大抵の人は両方欲しがります。好きなことをしたい。でも不安にはなりたくない。誰かに縛られたくない。でも一人にはなりたくない」

 

 そう言って小さく肩をすくめた。

 

「難しいですね」

「欲張りなんだろうな」

「きっとそうです」

 

 難儀ですね。

 そう呟くカフェは少し楽しそうだった。まるで人間という生き物そのものを観察しているような顔だった。

 

 次の水槽。

 小さなクラゲが漂っていた。力を入れて泳いでいるようには見えない。ただ流れに身を任せている。青い照明に照らされた透明な身体は幻想的で、見ているだけで時間の感覚が曖昧になる。

 

『海流によって数百キロ移動することもある』

 

「すごいな」

 

 思わず声が出た。

 

「自分で行き先を決めてない。なのに遠くまで行く」

 

 カフェも説明文を読んでいる。

 

「人生みたいです」

「人生?」

「はい」

 

 クラゲを見つめながら言う。

 

「自分で決めているつもりでも、本当は環境や出会いに流されていることがあります」

 

 なるほど。

 カフェらしい発想だった。

 俺はクラゲを見る。透明な身体。揺れる触手。どこか儚い。けれど弱々しいだけではない。

 流れに乗りながら、確かに生きている。

 

「学生時代の友人とか」

 

 カフェが続ける。

 

「偶然入った学校とか、たまたま選んだ仕事とか。振り返ると、人生を変えたものは意外と偶然だったりします」

「確かにな」

 

 俺も思い返す。

 もし違う選択をしていたら。

 もし違う出会いをしていたら。

 今ここにはいなかったかもしれない。

 

「でも」

 

 俺は言う。

 

「流された結果でも、自分が納得してるなら別にいいと思う」

 

 カフェがこちらを見る。

 

「自分で選んだかどうかより?」

「いや」

 

 俺は首を振った。

 

「流されることを選ぶのも選択だから」

「なるほど」

「逆らうだけが意思じゃない。流れに乗るって決めることもある」

 

 カフェが少し考える。そして小さく微笑んだ。

 

「なるほど」

「それはトレーナーさんらしいです」

「そうか?」

「はい。無理に抗うより、まず受け入れることを大切にしていますから」

 

 言われてみればそうかもしれない。

 俺は苦笑した。

 

 次の展示。

 

 チンアナゴ。

 砂から顔だけ出している。なんとも間抜けな姿だった細長い身体をゆらゆら揺らしながら、周囲を警戒している。

 

『危険を感じると一瞬で砂の中へ隠れる』

 

 俺とカフェは同時に水槽を見る。そして同時に吹き出した。

 

「……」

「……」

 

 理由は言わなくても分かった。誰かに似ていた。

 

「ライスさんですね」

「ライスだな」

 

 満場一致だった。

 カフェが珍しく笑っている。

 

「警戒心がある、と」

「しかし、攻撃性は少なく優しいです」

「危険を感じると隠れます」

「完璧だ」

 

 俺も笑う。

 ライスが聞いたら怒るだろう。だが否定もできない気がする。むしろ本人も少し納得してしまいそうだ。

 

「あと」

 

 カフェが付け加える。

 

「集団でいるところも似ています」

「確かに」

「一人だと不安そうだしな」

「誰かがいると安心します」

 

 ライスらしい。想像しただけで微笑ましかった。するとカフェが少し真面目な顔になった。

 

「でも」

「ん?」

「隠れることは悪いことじゃありません」

 

 水槽を見る。

 

「傷つかないために必要なことです」

「そうだな」

「問題は」

 

 カフェが続ける。

 

「出てこられなくなることです」

 

 その言葉に本当に少しだけ、ライスの姿が重なった。

 傷つくことを恐れる少女。

 誰かのために自分を押し込める少女。けれど最近は違う。

 少しずつ。本当に少しずつだが、自分の意思で前へ出ようとしている。

 怖くても。不安でも。一歩だけ踏み出そうとしている。

 その変化を俺は知っていた。

 

「大丈夫だよ」

 

 俺は言った。

 

「ライスは出てくる」

 

 カフェは俺を見る。

 俺も笑う。

 

「時間はかかるだろうけど」

「そうですね」

 

 カフェも微笑んだ。

 

「私もそう思います」

「きっと何度も隠れるでしょう。でも、そのたびにまた出てきます」

 

 穏やかな声だった。その言葉に俺も頷く。成長というのは、怖くなくなることじゃない。

 怖くても前へ進めるようになることだ。

 ライスはきっとそうなれる。

 そんな気がした。

 

 そのまま俺たちは小さな水槽を一つずつ見て回る。

 魚を見る。

 説明文を読む。

 考える。

 話す。

 色鮮やかな熱帯魚、岩場に張り付く小さな魚、夜行性の生き物、擬態の得意な生き物。

 それぞれに特徴があり、それぞれに生きるための工夫があった。

 生き物の話をしているはずなのに。

 気付けば人間の話になっている。人生の話になっている。不思議だった。だが嫌ではない。むしろ心地良かった。

 

 水槽を眺めながら言葉を交わしているだけなのに、普段より自然に本音が出てくる気がする。

 

 静かな空間だからだろうか。

 

 それとも海の生き物たちが、どこか人間を映す鏡のように見えるからだろうか。

 深海魚より深い話をしている気がする。そんなことを考えながら俺たちは次の水槽へ歩き出した。

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