■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
水族館の内部は薄暗かった。
天井から落ちる青い光。
水槽から反射する揺らめき。
壁や床に映る波紋のような影が、ゆっくりと形を変え続けている。館内には静かなBGMが流れ、遠くから子どもたちのはしゃぐ声が微かに聞こえてきた。
まるで別世界だった。
日常から切り離された海の中。
そんな感覚を覚える。
大水槽へ向かう前に、俺たちは小型展示エリアへ足を運ぶ。小さな水槽が並んでいる。一見すると地味だ。
巨大なサメやエイが泳ぐわけでもない。派手なショーがあるわけでもない。だが説明文を読むと面白く、知らない世界が広がっている。ほんの数十センチの水槽の中に、それぞれ違う生態系と生き方が存在しているのだ。
「おや」
俺は最初の水槽を覗き込む。
中には小さなタコがいた。岩陰に隠れるようにじっとしている。周囲の岩と似た色になっていて、注意して見なければ見逃してしまいそうだった。
説明文を見る。
『狭い隙間を好み、自分の身体が通るならどんな場所にも入り込める』
「なるほど」
「面白いですね」
カフェも隣で説明を読む。しばらく考えてから言った。
「安心できる場所を探しているのでしょうか」
「かもしれない」
俺はタコを見る。広い水槽の中でも、わざわざ岩陰に身を寄せている。落ち着く場所というのは、生き物にとって重要なのだろう。
「人も似ています」
カフェは水槽を見つめる。
「自由を求めると言いながら、本当に欲しいのは安全な居場所だったりします」
俺は少し笑う。
「確かに。広い海があるのにわざわざ狭い場所へ入るんだからな」
カフェが頷く。
「自由と安心は別物です。そして大抵の人は両方欲しがります。好きなことをしたい。でも不安にはなりたくない。誰かに縛られたくない。でも一人にはなりたくない」
そう言って小さく肩をすくめた。
「難しいですね」
「欲張りなんだろうな」
「きっとそうです」
難儀ですね。
そう呟くカフェは少し楽しそうだった。まるで人間という生き物そのものを観察しているような顔だった。
次の水槽。
小さなクラゲが漂っていた。力を入れて泳いでいるようには見えない。ただ流れに身を任せている。青い照明に照らされた透明な身体は幻想的で、見ているだけで時間の感覚が曖昧になる。
『海流によって数百キロ移動することもある』
「すごいな」
思わず声が出た。
「自分で行き先を決めてない。なのに遠くまで行く」
カフェも説明文を読んでいる。
「人生みたいです」
「人生?」
「はい」
クラゲを見つめながら言う。
「自分で決めているつもりでも、本当は環境や出会いに流されていることがあります」
なるほど。
カフェらしい発想だった。
俺はクラゲを見る。透明な身体。揺れる触手。どこか儚い。けれど弱々しいだけではない。
流れに乗りながら、確かに生きている。
「学生時代の友人とか」
カフェが続ける。
「偶然入った学校とか、たまたま選んだ仕事とか。振り返ると、人生を変えたものは意外と偶然だったりします」
「確かにな」
俺も思い返す。
もし違う選択をしていたら。
もし違う出会いをしていたら。
今ここにはいなかったかもしれない。
「でも」
俺は言う。
「流された結果でも、自分が納得してるなら別にいいと思う」
カフェがこちらを見る。
「自分で選んだかどうかより?」
「いや」
俺は首を振った。
「流されることを選ぶのも選択だから」
「なるほど」
「逆らうだけが意思じゃない。流れに乗るって決めることもある」
カフェが少し考える。そして小さく微笑んだ。
「なるほど」
「それはトレーナーさんらしいです」
「そうか?」
「はい。無理に抗うより、まず受け入れることを大切にしていますから」
言われてみればそうかもしれない。
俺は苦笑した。
次の展示。
チンアナゴ。
砂から顔だけ出している。なんとも間抜けな姿だった細長い身体をゆらゆら揺らしながら、周囲を警戒している。
『危険を感じると一瞬で砂の中へ隠れる』
俺とカフェは同時に水槽を見る。そして同時に吹き出した。
「……」
「……」
理由は言わなくても分かった。誰かに似ていた。
「ライスさんですね」
「ライスだな」
満場一致だった。
カフェが珍しく笑っている。
「警戒心がある、と」
「しかし、攻撃性は少なく優しいです」
「危険を感じると隠れます」
「完璧だ」
俺も笑う。
ライスが聞いたら怒るだろう。だが否定もできない気がする。むしろ本人も少し納得してしまいそうだ。
「あと」
カフェが付け加える。
「集団でいるところも似ています」
「確かに」
「一人だと不安そうだしな」
「誰かがいると安心します」
ライスらしい。想像しただけで微笑ましかった。するとカフェが少し真面目な顔になった。
「でも」
「ん?」
「隠れることは悪いことじゃありません」
水槽を見る。
「傷つかないために必要なことです」
「そうだな」
「問題は」
カフェが続ける。
「出てこられなくなることです」
その言葉に本当に少しだけ、ライスの姿が重なった。
傷つくことを恐れる少女。
誰かのために自分を押し込める少女。けれど最近は違う。
少しずつ。本当に少しずつだが、自分の意思で前へ出ようとしている。
怖くても。不安でも。一歩だけ踏み出そうとしている。
その変化を俺は知っていた。
「大丈夫だよ」
俺は言った。
「ライスは出てくる」
カフェは俺を見る。
俺も笑う。
「時間はかかるだろうけど」
「そうですね」
カフェも微笑んだ。
「私もそう思います」
「きっと何度も隠れるでしょう。でも、そのたびにまた出てきます」
穏やかな声だった。その言葉に俺も頷く。成長というのは、怖くなくなることじゃない。
怖くても前へ進めるようになることだ。
ライスはきっとそうなれる。
そんな気がした。
そのまま俺たちは小さな水槽を一つずつ見て回る。
魚を見る。
説明文を読む。
考える。
話す。
色鮮やかな熱帯魚、岩場に張り付く小さな魚、夜行性の生き物、擬態の得意な生き物。
それぞれに特徴があり、それぞれに生きるための工夫があった。
生き物の話をしているはずなのに。
気付けば人間の話になっている。人生の話になっている。不思議だった。だが嫌ではない。むしろ心地良かった。
水槽を眺めながら言葉を交わしているだけなのに、普段より自然に本音が出てくる気がする。
静かな空間だからだろうか。
それとも海の生き物たちが、どこか人間を映す鏡のように見えるからだろうか。
深海魚より深い話をしている気がする。そんなことを考えながら俺たちは次の水槽へ歩き出した。
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