■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
小型展示エリアを抜ける。
通路の先。
壁一面が青く染まっていた。
大水槽だ。水の向こう側には巨大な海が広がっている。
魚の群れ。
大型魚。
ゆっくりと泳ぐサメ。光を反射しながら進むイワシの群れ。
その全てが一つの世界を作っていた。
「綺麗ですね」
カフェが呟く。
俺も頷く。確かに綺麗だった。小型展示とは違う。
こちらは生命の迫力そのものだ。巨大な水槽の前に立つと、自分が小さくなったような気分になる。
そして、その時だった。
「……」
「……」
俺とカフェは同時にある生き物を見る。
エイだった。
正面からこちらを向いている。
下から見る顔。黒い目。妙に人間臭い口元。絶妙に不機嫌そうな表情。
「怖いな」
思わず言った。
カフェも頷く。
「怖いですね」
エイがこちらへ近付いてくる。
ゆっくり悠然と。まるで水槽の主のように。さらに怖い顔になる。
「なんだろう」
俺は考える。
「怒ってるように見える」
「見えます」
「でも説明を見る限り普通に泳いでるだけなんだよな」
「はい」
カフェも説明文を読む。
『温厚な性格で人を襲うことはほとんどありません』
温厚……らしい。
見た目と真逆だった。俺は思わず笑った。
「人間みたいだな」
「人間?」
「怖そうだから危険とは限らない。優しそうだから安全とも限らない」
カフェが少し考える。そして頷いた。
「確かに。外見は分かりやすい情報です。だから頼りたくなる。でも本質じゃない」
エイは相変わらず怖い顔をしていた。だが実際はは温厚。
見た目と中身が一致していない。
「人は」
カフェが言う。
「見たいものを見る生き物です」
金色の瞳が水槽を映している。
「怖い顔を見ると危険だと思う。優しい顔を見ると安心する。ですが」
少し間を置く。
「実際には何も分かっていません」
その言葉は妙に重かった。
俺はエイを見る。
そして思う。
確かにそうだ。
人間やウマ娘は思い込みで世界を認識する。
だから誤解するし、だから失敗する。
そこが面白い。
「わぁ」
大きな影が頭上を通った。
サメだった。巨大な身体。鋭い歯。圧倒的な存在感。近くを泳ぐ魚たちが小さく見える。
「やっぱり格好いいな」
俺は素直に言った。サメには不思議な魅力がある。単純な強さ。それを象徴しているように見える。
カフェもサメを見上げる。
「強そうです」
「実際強いんだろう」
「でも」
カフェが言う。
「不思議です」
「何が?」
「強さに憧れる人は多いのに」
サメを見る。
「サメになりたい人はいません」
俺は少し考える。
確かに。言われてみればそうだった。
強さには憧れる。だが強さそのものにはなりたくない。
「たぶん」
俺は答える。
「強さは手段だからだ」
「手段」
「守るためだったり、進むためだったり、叶えるためだったり」
サメを見る。
「強くなりたいんじゃない。やりたいことをやるために強くなりたいんだ」
カフェが静かに頷いた。
「なるほど」
そして少しだけ笑う。
「それはライスさんにも言えそうです」
「そうだな」
ライスは強さに憧れているわけじゃない。自分の望む自分になるために強くなろうとしている。だから力に溺れず、前へ進める。
魚の群れが通り過ぎる。
何百匹もの魚が一つの意志を持つように動いている。
右へ。
左へ。
一斉に方向を変える。その光景は美しかった。
「群れですか」
カフェが呟く。
「社会みたいですね」
「そうかもな」
「皆が同じ方向を向いています。安心だからでしょうか」
俺はしばらく考える。
魚たちを見る。確かに群れは強い。安全だ。効率的だ。
だが。
「群れは大事だと思う」
俺は言った。
「でも、群れだけじゃ駄目だ」
カフェがこちらを見る。
「どうしてですか?」
「群れは方向を教えてくれる。けど」
魚の群れを見ながら続ける。
「人生を決めてくれるわけじゃない」
群れが右へ行く。だから右へ行く。
それは楽だ。安全だ。間違いも少ない。だがそれだけでは自分の人生にならない。
「最後は自分で決めるしかない」
俺は言う。
「群れにいてもいい。流されてもいい。でも、その末路に納得できるように自分で決めるべきだ」
カフェは少し黙った。そして静かに微笑む。
「トレーナーさんらしいですね」
その言葉に俺は苦笑する。
今日だけで何度目だろう。だが悪い気はしなかった。
巨大な海を眺めながら。
俺たちはしばらく言葉を交わさなかった。
青い光。
揺れる水。
魚たちの群れ。
隣にいるマンハッタンカフェ。
不思議な静けさだった。沈黙なのに心地良い。まるで深海の底にいるみたいだった。大水槽を後にした俺たちは、順路に従って歩いていた。
次はお土産コーナーらしい。
特に急ぐ理由もない。カフェは相変わらず静かだし、俺も静かな時間は嫌いじゃない。
「何か買いますか?」
「せっかくだし」
「お友達へのお土産もありますし」
「ああ」
ライスとか喜びそうだな。
チンアナゴのぬいぐるみとか。そんなことを考えながら歩いていた。
その時だった。
ぞわり。
背筋を冷たいものが走った。反射的に立ち止まる。
カフェも同時だった。
「……」
「……」
視線が合う。
言葉は要らなかった。
お互い感じている。何かがおかしい。空気が変わった。音が遠くなる。館内放送。人の話し声。足音。全てが急激に遠ざかる。
水の中へ沈んだような感覚。
「トレーナーさん」
「ああ」
俺は短く答える。
「感じるか」
「はい」
カフェの金色の瞳が細くなる。
警戒している。そして次の瞬間だった。引っ張られた。何かに腕でも肩でもない。
もっと曖昧な場所。
存在そのものを掴まれたような感覚。
「っ!」
足が前へ出る。いや出された。
俺の意思じゃない。
カフェも同じだった様子だ。黒髪が揺れる。身体が前へ流れる。
「これは」
「かなり強いですね」
妙に冷静だった。
カフェだからだろう。普通の人間やウマ娘なら悲鳴を上げている。俺も少し驚いていた。だが恐怖はない。
ただ驚いている。
本当に突然だったから。
いきなり殴られた時に似ている。
理解が追い付かない。そして気付けば見覚えのない扉の前に立っていた。
「……こんな部屋あったか?」
「記憶にはありません」
カフェが即答する。
つまり、なかったのだろう。少なくとも正常な順路には扉が開く。
独りでに。
ぎぃ、と。
古い蝶番の音が響く。そして俺たちは中へ押し込まれた。
ばたん。
扉が閉まる。
静寂。
完全な静寂だった。
「……」
「……」
数秒の沈黙。
俺は周囲を見る。小さな部屋だった。窓はない。照明だけが白く光っている。机が一つ。椅子が二つ。
それだけだ。意味が分からない。何一つ分からない。
「閉じ込められたな」
「そうですね」
カフェが扉に触れる。
開かない。鍵もない。だが開かない。
理不尽だった。極めて理不尽だった。
数秒後、カフェがこちらを見る。
「トレーナーさん」
「なんだ」
「これは超常特異現象です」
「そうだな」
「かなり上位です」
「だろうな」
そこで俺たちは顔を見合わせた。そして同時にため息を吐いた。
「水族館で発生する内容じゃない」
「その通りです」
カフェが真顔で頷く。
「一般的には迷子になる程度です」
「閉じ込められはしない、と?」
「はい」
「まして空間転移もしない」
「はい」
妙な会話だった。だが落ち着く。慌てても意味がない。
まず状況確認。それが基本である。
カフェは部屋を見回している。
その表情は真剣だ。だがほんの少しだけ安心も混じっていた。
俺には分かった。恐怖がないわけではない。だが一人じゃない。
それが大きい。そして俺も同じだった。
もしここに閉じ込められたのがライスなら、まず落ち着かせる必要があった。
ジャーニーなら現象分析が始まる。
ラモーヌなら楽しみ始める。
だがカフェは違う。超常現象を前にしても会話が成立する。
それは地味にありがたい。
「さて」
俺は椅子へ腰掛ける。
「どうする?」
「調査です」
即答だった。
「原因を探します。脱出方法もできれば両方」
俺は笑う。
「了解」
その瞬間だった。
机の上に何もなかったはずの場所に一冊のノートが現れた。
音もなく。
前触れもなく。
突然。
「……」
「……」
再び沈黙。そして、俺たちは同時に言った。
「かなり上位だな」
「かなり上位ですね」
どうやら。
この超常特異現象にはまだ続きがあるらしかった。
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