■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
ノートへ触れた瞬間、世界が反転した。
落下感。浮遊感。
胃が持ち上がるような感覚。
視界が白く染まり――。
◇
気付けば。
俺たちは海辺に立っていた。
「……」
「……」
潮の匂いがする。波の音が聞こえる。
空は曇天。重苦しい灰色だった。
俺は周囲を見回す。
漁村。そう表現するのが一番近い。
木造の建物。
桟橋。
漁網。
海鳥の鳴き声。
だが何かがおかしい。いや。かなりおかしい。
浜辺には巨大な鯨の死骸が転がっていた。
腐敗している。肉が剥がれ、骨が露出している。
周囲にはタコやイカに似た軟体生物の死体、見たことのない海洋生物。
奇妙な触腕。
人間の顔に似た器官。
それらが無造作に散乱していた。
まるで戦場だった。
海の戦場。
死んだ海の世界。
そんな印象を受ける。
「かなり悪趣味ですね」
カフェが呟く。
珍しく眉をひそめていた。すると遠くの路地から足音が聞こえた。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
何かが近付いてくる。
そして姿を現した。
半魚人だった。
魚の頭。人間の身体。濁った瞳。鋭い歯。
濡れた鱗。そしてこちらを見る視線。
明確な敵意。
「なるほど」
俺は納得する。
「歓迎されてはいないらしい」
「そのようです」
カフェが静かに答える。そして次の瞬間。
月光が生まれた。
曇天のはずだった。
太陽も月も見えない。
だが確かに月光だった。
碧の光。
夜の静寂を切り取ったような輝き。それがカフェの手の中へ集まる。
光は形を持ち刃となる。
巨大な大剣。
月そのものを削り出したような美しい武器だった。
「久しぶりですね」
カフェが呟く。
金色の瞳が静かに細くなる。
戦う時の目だ。
「トレーナーさん」
「なんだ」
彼女が手を差し出した。
「離れないでください」
「ああ」
俺はその手を握る。
細い手。だが力強かった。
次の瞬間、半魚人が襲いかかる。
叫び声。腐臭。牙。しかし。カフェの方が速かった。
月光が閃く。
静かに本当に静かに半魚人の身体が斜めにずれた。そして崩れる。
音もなく最初から切れていたかのように。
「……強いな」
「そうでもありません」
謙遜だった。
絶対にそうでもある。だが本人は本気でそう思っているらしい。
カフェらしい。
◇
俺たちは漁村を進む。
半魚人を避け、時に斬り伏せ、進み続ける。
その途中だった。
「カフェ」
「はい」
「こういうことには慣れてるのか」
少しだけ。
彼女の横顔を見る。するとカフェは静かに笑った。
「慣れています」
その声には少しだけ寂しさがあった。
「昔からでした。こういう超常現象に巻き込まれるのは」
足を止めない。戦いながら、歩きながら、彼女は語る。
「助けられたこともあります」
月光が閃く。
半魚人が倒れる。
「殺されかけたこともあります」
また一体。
倒れる。
「社会から拒絶されたこともあります」
風が吹く。
黒髪が揺れる。
「逆に受け入れてもらったこともあります」
静かな声だった。感情を抑えているわけじゃない。受け入れているのだ。
過去を全て。
「お友達の存在を信じてもらえなかったこともありますし、気味悪がられたこともあります、
怖がられたことなんて当たり前でした」
そこで少し笑う。
「でも、全部ではありませんでした」
俺は黙って聞く。
彼女は続ける。
「理解しようとしてくれた人もいました。話を聞いてくれた人もいました。助けてくれた人もいました。だから」
月光の剣が静かに振るわれる。
敵が倒れる。そしてカフェは俺を見る。
「世界は嫌いではありません」
その言葉はどこか意外だった。
もっと悲観していると思っていた。
もっと絶望していると思っていた。
だが違う。
彼女は傷付いた。
何度も理不尽に。超常に、人に、それでも世界を嫌いにならなかった。なれなかった。そういうウマ娘だった。
「強いな」
俺は素直に言った。するとカフェは首を横に振る。
「違います」
「ん?」
「運が良かっただけです」
そして少しだけ。本当に少しだけ、照れたように笑った。
「今も」
俺はその意味を考える。だが聞く前に、遠くの海が揺れた。
巨大な影が現れる。海面が盛り上がる。何かが来る。
この超常特異現象の中心が俺たちは自然と立ち止まる。そして互いに視線を合わせた。
言葉はなかった。だが十分だった。
海が鳴いていた。いやそう聞こえただけかもしれない。
漁村。
海からやってきたそいつは、朽ちた教会に似た建物の前へ向かっていた。
教会で俺たちはその怪物と対峙していた。
老人だった。
かつては。
おそらくだが今は違う。身体の半分以上、軟体生物に侵食されている。腕は触腕。顔は崩れ。目は増殖し。口からは海水が溢れていた。
それでも老人は泣いているように見えた。苦しそうだった。悲しそうだった。そして救われたそうでもあった。
「……」
カフェも同じことを感じたのだろう。
何も言わない。ただ静かに大剣を構える。
月光が滲む。世界そのものが彼女へ応えるように。
老人が手を伸ばす。
何かを求めるように、助けを求めるように、あるいは誰かに終わらせて欲しいと願うように。
カフェが踏み込んだ。
碧色の閃光。
一瞬だった。
触腕が宙を舞う。肉が裂け、老人の身体が崩れる。最後まで悲鳴はなかった。ただ安堵だけがあった気がした。
怪物は崩れ落ちる。砂になる。潮風にさらわれる。そして世界が砕けた。
◇
気付けば、俺たちは水族館の廊下に立っていた。
青い照明。
館内放送。
遠くの子供の声。
現実だった。見慣れた世界。平和な世界。さっきまでの異界が嘘だったかのように。
「戻りましたね」
カフェが言う。
「ああ」
俺は頷く。少しだけ疲労感が残っている。夢ではないらしい。少なくとも俺の感覚ではしばらく歩く。
言葉はない。だが俺はさっきの話を思い出していた。
超常現象。
迫害。
拒絶。
受容。
出会い。
別れ。
カフェが静かに歩く。いつも通りに。けれど俺には分かる。
彼女は昔からこれを繰り返してきた。普通の人間が知らないものを見て。普通の人間が理解できないものと向き合って、そのたびに傷付いてきた。だから自然と口を開いた。
「カフェ」
「はい」
「辛くはなかったか?」
カフェが立ち止まる。ゆっくりとこちらを見る。
金色の瞳。
そこには驚きがあった。
俺が何を聞いているのか。
理解したからだろう。今の出来事ではない。
もっと昔。もっと長い時間。
彼女が歩いてきた人生そのもの。それを聞いているのだと理解したのだ。
沈黙が落ちる。
数秒。
十秒。
それからカフェは小さく息を吐いた。
「辛かったですよ」
誤魔化さない。
取り繕わない。
「怖かったですし、悲しかったですし、寂しかったです」
その声は穏やかだった。だからこそ重かった。感情を吐き出しているのではない。受け入れた者の言葉だった。
「信じてもらえないことは苦しかったです。自分がおかしいのではないかと思ったこともあります。事実、イレギュラーだった」
ふぅ、と息を吐く。
「誰とも話せなくなったこともあります」
少しだけ視線を落とす。
「消えてしまいたいと思ったことも」
ある。
そう続けなかった。だが分かった。
十分に。
俺は何も言わない。ただ聞く。今はそれでいい。
「でも」
カフェは続ける。
「全部が辛かったわけではありません」
微笑む。
本当に少しだけ。
「助けてもらいましたから。色々な人に」
その表情は優しかった。
「理解してくれなくても、否定しなかった人がいました。分からなくても、一緒にいてくれた人がいました。だから私は運が良いと、あの時に表現しました」
そこで。
カフェは少しだけ困ったように笑った。
「不思議ですね」
「何が?」
「嫌なことはたくさんあったはずなのに」
館内の青い光が瞳に映る。
「思い出すのは良いことばかりです」
俺はその横顔を見る。
強いウマ娘だと思った。
折れないウマ娘ではない。傷付かないウマ娘でもない。
傷付いて。
苦しんで。
それでもなお良いものを見ようとする人間だ。だから強い。そして。だからこそ。少し心配になる。
「カフェ」
「はい」
「無理はするなよ」
彼女が意外そうに瞬きをする。
俺は続けた。
「強い人間ほど無理をする。大丈夫だと思われる。本人も大丈夫だと思おうとする」
だが違う。
物事には限界がある。
誰にでも、何にでも。
「辛かったなら、辛かったでいい。苦しかったなら、苦しかったでいい。無理に綺麗にしなくていい」
カフェは黙って聞いていた。
俺は笑う。
「少なくとも俺はそう思う」
しばらく沈黙。そしてカフェはゆっくり視線を逸らした。
耳が少し赤い。
珍しい。
本当に珍しい反応だった。
「……はい」
小さな声。
それから。さらに小さな声。
「ありがとうございます」
俺は聞こえないふりをした。
その方がいい気がしたからだ。だから二人で歩き出す。
何事もなかったように。
お土産コーナーへ向かって。けれど。さっきより少しだけ肩の距離が近くなっていることに、俺は最後まで気付かないふりをした。
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