■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。   作:あばなたらたやた

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24話:水族館③

 

 ノートへ触れた瞬間、世界が反転した。

 落下感。浮遊感。

 胃が持ち上がるような感覚。

 視界が白く染まり――。

 

 

 気付けば。

 俺たちは海辺に立っていた。

 

「……」

「……」

 

 潮の匂いがする。波の音が聞こえる。

 空は曇天。重苦しい灰色だった。

 俺は周囲を見回す。

 漁村。そう表現するのが一番近い。

 木造の建物。

 桟橋。

 漁網。

 海鳥の鳴き声。

 だが何かがおかしい。いや。かなりおかしい。

 浜辺には巨大な鯨の死骸が転がっていた。

 腐敗している。肉が剥がれ、骨が露出している。

 周囲にはタコやイカに似た軟体生物の死体、見たことのない海洋生物。

 奇妙な触腕。

 人間の顔に似た器官。

 それらが無造作に散乱していた。

 まるで戦場だった。

 

 海の戦場。

 死んだ海の世界。

 そんな印象を受ける。

 

「かなり悪趣味ですね」

 

 カフェが呟く。

 珍しく眉をひそめていた。すると遠くの路地から足音が聞こえた。

 

 ぺた。

 ぺた。

 ぺた。

 

 何かが近付いてくる。

 

 そして姿を現した。

 

 半魚人だった。

 魚の頭。人間の身体。濁った瞳。鋭い歯。

濡れた鱗。そしてこちらを見る視線。

 明確な敵意。

 

「なるほど」

 

 俺は納得する。

 

「歓迎されてはいないらしい」

「そのようです」

 

 カフェが静かに答える。そして次の瞬間。

 

 月光が生まれた。

 曇天のはずだった。

 太陽も月も見えない。

 だが確かに月光だった。

 

 碧の光。

 夜の静寂を切り取ったような輝き。それがカフェの手の中へ集まる。

 光は形を持ち刃となる。

 巨大な大剣。

 月そのものを削り出したような美しい武器だった。

 

「久しぶりですね」

 

 カフェが呟く。

 金色の瞳が静かに細くなる。

 戦う時の目だ。

 

「トレーナーさん」

「なんだ」

 

 彼女が手を差し出した。

 

「離れないでください」

「ああ」

 

 俺はその手を握る。

 細い手。だが力強かった。

 

 次の瞬間、半魚人が襲いかかる。

 叫び声。腐臭。牙。しかし。カフェの方が速かった。

 月光が閃く。

 静かに本当に静かに半魚人の身体が斜めにずれた。そして崩れる。

 音もなく最初から切れていたかのように。

 

「……強いな」

「そうでもありません」

 

 謙遜だった。

 絶対にそうでもある。だが本人は本気でそう思っているらしい。

 カフェらしい。

 

 

 俺たちは漁村を進む。

 半魚人を避け、時に斬り伏せ、進み続ける。

 その途中だった。

 

「カフェ」

「はい」

「こういうことには慣れてるのか」

 

 少しだけ。

 

 彼女の横顔を見る。するとカフェは静かに笑った。

 

「慣れています」

 

 その声には少しだけ寂しさがあった。

 

「昔からでした。こういう超常現象に巻き込まれるのは」

 

 足を止めない。戦いながら、歩きながら、彼女は語る。

 

「助けられたこともあります」

 

 月光が閃く。

 半魚人が倒れる。

 

「殺されかけたこともあります」

 

 また一体。

 倒れる。

 

「社会から拒絶されたこともあります」

 

 風が吹く。

 黒髪が揺れる。

 

「逆に受け入れてもらったこともあります」

 

 静かな声だった。感情を抑えているわけじゃない。受け入れているのだ。

 過去を全て。

 

「お友達の存在を信じてもらえなかったこともありますし、気味悪がられたこともあります、

怖がられたことなんて当たり前でした」

 

 そこで少し笑う。

 

「でも、全部ではありませんでした」

 

 俺は黙って聞く。

 彼女は続ける。

 

「理解しようとしてくれた人もいました。話を聞いてくれた人もいました。助けてくれた人もいました。だから」

 

 月光の剣が静かに振るわれる。

 敵が倒れる。そしてカフェは俺を見る。

 

「世界は嫌いではありません」

 

 その言葉はどこか意外だった。

 もっと悲観していると思っていた。

 もっと絶望していると思っていた。

 だが違う。

 彼女は傷付いた。

 何度も理不尽に。超常に、人に、それでも世界を嫌いにならなかった。なれなかった。そういうウマ娘だった。

 

「強いな」

 

 俺は素直に言った。するとカフェは首を横に振る。

 

「違います」

「ん?」

「運が良かっただけです」

 

 そして少しだけ。本当に少しだけ、照れたように笑った。

 

「今も」

 

 俺はその意味を考える。だが聞く前に、遠くの海が揺れた。

 巨大な影が現れる。海面が盛り上がる。何かが来る。

 この超常特異現象の中心が俺たちは自然と立ち止まる。そして互いに視線を合わせた。

 

 言葉はなかった。だが十分だった。

 海が鳴いていた。いやそう聞こえただけかもしれない。

 

 漁村。

 海からやってきたそいつは、朽ちた教会に似た建物の前へ向かっていた。

 教会で俺たちはその怪物と対峙していた。

 

 老人だった。

 かつては。

 おそらくだが今は違う。身体の半分以上、軟体生物に侵食されている。腕は触腕。顔は崩れ。目は増殖し。口からは海水が溢れていた。

 

 それでも老人は泣いているように見えた。苦しそうだった。悲しそうだった。そして救われたそうでもあった。

 

「……」

 

 カフェも同じことを感じたのだろう。

 何も言わない。ただ静かに大剣を構える。

 月光が滲む。世界そのものが彼女へ応えるように。

 

 老人が手を伸ばす。

 何かを求めるように、助けを求めるように、あるいは誰かに終わらせて欲しいと願うように。

 

 カフェが踏み込んだ。

 

 碧色の閃光。

 一瞬だった。

 触腕が宙を舞う。肉が裂け、老人の身体が崩れる。最後まで悲鳴はなかった。ただ安堵だけがあった気がした。

 

 怪物は崩れ落ちる。砂になる。潮風にさらわれる。そして世界が砕けた。

 

 

 気付けば、俺たちは水族館の廊下に立っていた。

 

 青い照明。

 館内放送。

 遠くの子供の声。

 現実だった。見慣れた世界。平和な世界。さっきまでの異界が嘘だったかのように。

 

「戻りましたね」

 

 カフェが言う。

 

「ああ」

 

 俺は頷く。少しだけ疲労感が残っている。夢ではないらしい。少なくとも俺の感覚ではしばらく歩く。

 言葉はない。だが俺はさっきの話を思い出していた。

 

 超常現象。

 迫害。

 拒絶。

 受容。

 出会い。

 別れ。

 

 カフェが静かに歩く。いつも通りに。けれど俺には分かる。

 彼女は昔からこれを繰り返してきた。普通の人間が知らないものを見て。普通の人間が理解できないものと向き合って、そのたびに傷付いてきた。だから自然と口を開いた。

 

「カフェ」

「はい」

「辛くはなかったか?」

 

 カフェが立ち止まる。ゆっくりとこちらを見る。

 金色の瞳。

 そこには驚きがあった。

 俺が何を聞いているのか。

 理解したからだろう。今の出来事ではない。

 もっと昔。もっと長い時間。

 彼女が歩いてきた人生そのもの。それを聞いているのだと理解したのだ。

 沈黙が落ちる。

 数秒。

 十秒。

 それからカフェは小さく息を吐いた。

 

「辛かったですよ」

 

 誤魔化さない。

 取り繕わない。

 

「怖かったですし、悲しかったですし、寂しかったです」

 

 その声は穏やかだった。だからこそ重かった。感情を吐き出しているのではない。受け入れた者の言葉だった。

 

「信じてもらえないことは苦しかったです。自分がおかしいのではないかと思ったこともあります。事実、イレギュラーだった」

 

 ふぅ、と息を吐く。

 

「誰とも話せなくなったこともあります」

 

 少しだけ視線を落とす。

 

「消えてしまいたいと思ったことも」

 

 ある。

 そう続けなかった。だが分かった。

 十分に。

 俺は何も言わない。ただ聞く。今はそれでいい。

 

「でも」

 

 カフェは続ける。

 

「全部が辛かったわけではありません」

 

 微笑む。

 本当に少しだけ。

 

「助けてもらいましたから。色々な人に」

 

 その表情は優しかった。

 

「理解してくれなくても、否定しなかった人がいました。分からなくても、一緒にいてくれた人がいました。だから私は運が良いと、あの時に表現しました」

 

 そこで。

 カフェは少しだけ困ったように笑った。

 

「不思議ですね」

「何が?」

「嫌なことはたくさんあったはずなのに」

 

 館内の青い光が瞳に映る。

 

「思い出すのは良いことばかりです」

 

 俺はその横顔を見る。

 強いウマ娘だと思った。

 折れないウマ娘ではない。傷付かないウマ娘でもない。

 傷付いて。

 苦しんで。

 それでもなお良いものを見ようとする人間だ。だから強い。そして。だからこそ。少し心配になる。

 

「カフェ」

「はい」

「無理はするなよ」

 

 彼女が意外そうに瞬きをする。

 俺は続けた。

 

「強い人間ほど無理をする。大丈夫だと思われる。本人も大丈夫だと思おうとする」

 

 だが違う。

 物事には限界がある。

 誰にでも、何にでも。

 

「辛かったなら、辛かったでいい。苦しかったなら、苦しかったでいい。無理に綺麗にしなくていい」

 

 カフェは黙って聞いていた。

 俺は笑う。

 

「少なくとも俺はそう思う」

 

 しばらく沈黙。そしてカフェはゆっくり視線を逸らした。

 耳が少し赤い。

 珍しい。

 本当に珍しい反応だった。

 

「……はい」

 

 小さな声。

 それから。さらに小さな声。

 

「ありがとうございます」

 

 俺は聞こえないふりをした。

 その方がいい気がしたからだ。だから二人で歩き出す。

 何事もなかったように。

 お土産コーナーへ向かって。けれど。さっきより少しだけ肩の距離が近くなっていることに、俺は最後まで気付かないふりをした。

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