■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
第28話:愛の行方、刃の示す先
嵐の前の静けさは、重いというよりもしんと冷え切っていた。
阪神ジュベナイルフィリーズ、出走直前の控室。俺は壁際に背を預け、ただ静かに目の前の光景を観察していた。
俺の目線は、常に動く。派手な装飾を排した実用的な時計の針が進む音と、少女たちの張り詰めた呼吸だけが、この異常な空間に満ちていた。
「破神同盟」――絶対女王メジロラモーヌを王座から引きずり下ろすべく集った異端の三翼。
俺が並々ならぬ執念で鍛え上げ、それぞれの意志でここへ立たせたウマ娘たちだ。
マンハッタンカフェ、ドリームジャーニー、ライスシャワー。
三人が並び立つ前を、ゆっくりとした足取りで横切ろうとした影があった。
メジロラモーヌ。
そこに存在するだけで周囲の空間を己の色に染め上げる圧倒的な美と、他者を容易に萎縮させる威圧的なオーラ。
俺は細身ながら鍛え上げた身体の軸をブレさせず、鋭い目つきで彼女の挙動を追う。
彼女はいつもなら路傍の石と切り捨てるはずの他者を無視せず、ふと足を止め、その涼やかな双眸で、並び立つ三人を見つめた。そして、ふわりと美しい弧を唇に描く。
「……素晴らしいわ」
その声音に含まれた微かな熱に、ライスの小さな肩がびくりと揺れた。
「え……?」
ラモーヌは、秘蔵の宝石を眺めるコレクターのような、陶酔を孕んだ瞳で彼女たちを見つめ直す。
「貴方たちは、私を倒すために集まり、そして鍛えた」
「ええ」
一歩前に踏み出したのは、ドリームジャーニーだった。不敵な笑みを湛え、女王の視線を受け止める。その胸に宿る、ステイゴールドへの憧れと執念がその小さな身体を大きく見せていた。
「その通りです。あなたという『壁』を、私たちは壊しに来ました」
ラモーヌは嬉しそうに目を細めた。侮蔑も傲慢もない、心からの歓喜。己と同じ熱量で命を燃やし、ターフという名の「愛」に向き合ってくれる存在を、彼女はずっと求めていたのだ。
そこに、ライスが、震える足を踏み出して一歩前に出た。
いつもなら「みんなを不幸にしてしまう」とおどおどして下を向いているはずの少女。だが今のライスの瞳には、確固たる決意の炎が宿っていた。
「……ラモーヌさん」
細い、けれど芯のある声が控室に響く。
「ライスは、あなたに勝ちます」
周囲のウマ娘やスタッフが息を呑む中、ラモーヌはくすりと小さく笑った。
「あら。可愛らしい宣戦布告ね」
「可愛いだけじゃ、ありません」
ライスは、血が滲むほどに強く拳を握りしめた。その瞳に宿る、どこか暗く、けれどどこまでも優しい光。
「ライスは……ヒールです。だから、あなたみたいな完璧な人を倒して……みんなが怖がらずに、自分の夢を見られる世界にします。あなたが美しすぎるから、みんな諦めちゃう。だったら、ライスがその光を遮る黒い影になります!」
その言葉を聞いた瞬間、ラモーヌの瞳に、ぞくぞくとするような愉悦が走った。
「……そう。ならば来なさい。私の愛するターフへ。貴方たちの愛が本物か、その身体で確かめてあげるわ」
彼女たちが自ら選び、戦うと決めたのなら、俺がすべきことはただ一つ。
「俺が今できることは何か」――。
俺は静かに、彼女たちの背中を見送った。
ゲートが開いた瞬間、阪神競馬場は地鳴りのような大歓声に包まれた。
俺はスタンドの喧騒から少し離れた位置で、芝の上の四人に視線を固定していた。レースが始まると同時に、スタジアムは奇妙な静寂に支配された。
メジロラモーヌは、ただ走っていた。一ミリの無駄もなく、一瞬の淀みもない。芝の荒れ具合も、風の向きも、後続の息遣いも――すべてを完璧に把握し、最適解のラップを刻み続けている。
その走りは、未来がそうなるように彼女自身が空間を『支配』しているかのようだった。
中団やや後方からその背を追うカフェとジャーニーが冷や汗を流しながら、ラモーヌの完璧な秩序を前に打開策を見出そうと、泥臭くも命を燃やしているのが見えた。
自らの意志で戦うことを選び、命を燃やす彼女たちの姿は、何よりも美しい。だが、支配されるだけの「破神同盟」ではない。
「まずは私から、泥を塗って差し上げましょう」
最初に動いたのはマンハッタンカフェだった。彼女の瞳が漆黒に濁る。世界に拒絶され続けた彼女が、自分だけの価値を信じて掴み取った常識の外側の走り。
限界の向こう側から這い出てくるような泥濘の走りが、ラモーヌの構築した完璧な未来を侵食し始める。
「完成された庭園を踏み荒らすのは、いつだって野生の暴風です!」
続いて飛び出したのはドリームジャーニー。
未完成だからこそ、何度でも挑み、何度でも破れ、そのたびに強くなれる。その執念を爆発的なピッチに乗せ、ラモーヌの完璧な『支配』に僅かな亀裂を作った。そして、その亀裂に「一つの刃」が滑り込んだ。
ライスシャワーだ。
「――っ、はあああああ!」
風を切り裂き、青い薔薇のオーラを散らしながら、ライスは驚異的な末脚でラモーヌの真横へと並びかける。
その瞬間、ラモーヌは隣を見た。己を倒すためだけに、すべてを投げ打ってここに立つ少女の瞳を見たとき、女王の顔に生涯で初めての「本気の笑顔」が咲いた。
「あなた……本当に、美しいわ……!」
極限の直線――美学の終着点
最後の直線。
死力を尽くした限界の攻防。全員が魂を燃やし尽くそうとしていた。だが、メジロラモーヌは、さらにもう一段、深い深淵へと足を踏み入れた。
彼女にとってのレースとは、勝利への飢えではなく、極限の命の交わりを完璧に『完成』させること。
ラモーヌの身体から、まばゆいばかりの光が放たれる。
最後の一歩。限界を超えたその先で、メジロラモーヌの蹄が、王者のゴールラインを真っ先に駆け抜けた。
終幕。
荒い呼吸だけが響く芝の上に、俺はゆっくりと歩み寄った。
「……負けちゃった」
ライスは膝をつき、悔し涙をポタポタと落としていた。ジャーニーは悔しそうに天を仰ぎ、カフェはふらつきながらも立ち上がっていた。
レース場から控室へ行く間に俺は立っていた。
勝敗という現実は、ただそこに厳然と存在する。だが、結果がどうあれ、彼女たちの戦いには確かに価値があった。
俺は三人の肩に、そっと手を置いた。
「最高だった、お疲れ」
丁寧で穏やかな、しかし強い意志を込めた声で、俺は語りかけた。
「負けたことは事実だ。だが、お前たちの選んだ走りは、確かにあの絶対女王に届きかけていた。お前たちが自ら選んで戦った軌跡を、俺はしかと見届けた」
悔しさに歪んでいた三人の表情だったが、反省会は後回し。
ウィニングライブへ移行する。
舞台袖にはライブ衣装を完璧に着こなしたラモーヌが、そこに立っていた。
「勝者は私。けれど、あの奇跡のような瞬間を作り上げ、私に『愛』を教えてくれたのは貴方たち。……ならば、共に立つ資格があるわ」
ラモーヌは、ライスの冷たい手をそっと包み込むように握った。その温もりに、ライスの瞳から温かい涙が溢れ出た。
「……行ってこい」
俺は静かに、彼女たちの背中を押した。
ウイニングライブ、光り輝くステージの頂点。
中央に立つ絶対女王メジロラモーヌと、その両隣でそれぞれの色を鋭く放つ、破神同盟の三人の姿があった。
俺は舞台袖の暗がりから、ただその光景を静かに見つめていた。
善悪も、勝敗も、本来は等価値で無意味なものだ。けれど、彼女たちが自らの意志で選び、戦い、そして互いを認め合って響かせる歌声は――この理不尽な現実のすべてを塗り替えるほどに、美しかった。
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