■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
第29話:自分を見つめる視線
阪神ジュベナイルフィリーズの激闘から一夜明けた翌日。
トレーナー室の重い空気は、昨日までのそれとは違っていた。敗北の悔しさと、それ以上に燃え残った熱。それらを抱えたウマ娘たちが、静かに俺の前に集まっていた。
マンハッタンカフェ、ドリームジャーニー、ライスシャワー。
三者三様の視線が俺に注がれる中、俺はあらかじめ用意していた束を机の上に置いた。
「レース、本当にお疲れ様。それぞれ思うところがあると思うけど、まずはこの資料とプリントを配る」
全員に手渡したのは、昨日のレースデータの詳細な分析資料。そして、俺が自作した一枚のプリントだった。
そこには、いくつかの項目が整然と並んでいる。
『自らのレースにおける主観的な感覚』
『良い部分』
『悪かった部分』
『改善、または成長ポイント』
余計な装飾を排した、きわめて実用的なフォーマットだ。ペンを回しながら、俺は丁寧な口調で説明を付け加える。
「提出の期限は一週間。明言しておくが、これは君たちを責めるためのものじゃない。反省文ではなく、あくまで『次に活かす情報』として使用するための客観的なデータだ」
プリントを手に取ったドリームジャーニーが、フチ無し眼鏡の奥の鋭い瞳を俺に向けた。
「この内容は公開するのですか?」
ジャーニー自身は、手の内を見せることを恐れるような器の小さいウマ娘ではない。これは間違いなく、隣で視線を落としているライスのための質問だった。そのさりげない配慮を、俺は内心で高く評価する。
「あと、お互いへの協力などは?」
「全て許可する」
俺は頷き、思考を巡らせながら言葉を返した。
「プリントを基にした具体的な対話は、俺との個人面談でやらせてもらう。ここにいるメンツはいわば急造チームだ。能力面はともかく、内面のデリケートな部分まで他人に明かしたくない者もいるだろうからな」
「なるほど、了解です」
ジャーニーは納得したように、小さく香水の香りを揺らして頷いた。
「よし、これでこの話は終わりだ。このままトレーナー室を使って自主学習に充ててもいいし、それぞれ別の活動に移っても構わない」
「あの……トレーナーさん」
おどおどとした、消え入りそうな声がした。ライスだ。彼女は不安げに長い耳を伏せ、上目遣いに俺を見ていた。
「トレーニングは……しなくて良いの……?」
「ああ。今日はトレーニングはしない」
俺ははっきりと、迷いのない声で告げた。
「レースは肉体、精神、そして魂を削る戦いだ。全力を尽くしたからこそ、今は相応の休養が必要になる」
「そ、そっか……うん」
ライスの細い眉が八の字に下がる。彼女の不安定な感受性は、今も「負けたのに休んでいていいのか」「もっと頑張らないと、みんなを不幸にしてしまう」という強迫観念に揺さぶられているのだろう。
だが、ここで無理に理屈を詰め込んでも意味はない。彼女が自ら納得し、選ぶための時間が必要だ。
「ライス、頑張るから……!」
自分を鼓舞するように小さな拳を握りしめ、ライスはそれだけ言うと、逃げるようにトレーナー室から出て行ってしまった。
「そうか。わかった、一緒に頑張ろう」
投げかけた俺の声は、閉まるドアの向こうに届いただろうか。見送る俺の横で、ジャーニーがすっと動いた。
「カフェさん。ライスさんのフォローをお願いします」
「はい……分かりました。そっちも、お願いしますね」
カフェは小さく頷くと、ライスの後を追うように、音もなく静かに部屋を出て行った。世界に馴染めない者の痛みを誰よりも知るカフェなら、ライスの良き理解者になってくれるはずだ。
――これで、部屋には俺とジャーニーの二人きりになった。
静寂が戻った室内。ジャーニーは音もなく俺の背後に回り込むと、流れるような動作で俺を執務椅子へと誘導した。
抵抗する間もなく、俺は椅子に深く腰掛けさせられる。
直後、耳元に、ぞぞっとするほど甘く、冷ややかな声が滑り込んできた。
「あんまり無茶をしてはいけませんよ、トレーナー?」
脳の奥を直接揺さぶるような、有無を言わせぬ響き。
俺は姿勢を正し、姿勢良く首だけを彼女の方へと向けた。
「この俺が、自分の状態を見誤っていると?」
「いいえ。そういう意味ではありません」
ジャーニーはふさふさとした耳を少し揺らし、どこか試すような、深い愛を孕んだ瞳で俺を見つめた。
「ですが、そうなる予感がするのです。貴方は確かに徹底した自己管理ができて、我々のような一癖あるウマ娘の手綱を握ることができる、極めて稀有な人だ」
「褒め言葉として受け取っておくよ。ありがとう」
「だからこそ、もっと『主張』するべきなのですよ」
彼女の指先が、俺の肩にそっと触れる。実用的な衣服越しにも、その指先に込められた確かな体温が伝わってきた。
「誘導や命令、もっと言えば支配といった方向性ですかね。貴方は他者の主体性を極限まで尊重する人だ。今回のプリントにしてもそうです。事実、ポジティブ、ネガティブ、未来、と綺麗にフレームワークが分かれていて、非常に取り組みやすい」
「自分で考えろ、と丸投げするだけではウマ娘は迷うからな。だからこそ、大きな方向性の枠組みだけを俺が決定し、その中をどう泳ぐかは彼女たちの自由にした」
「ええ。人としては、それは実に素晴らしい教師でしょう。ですが――」
ジャーニーは言葉を区切り、耳元でふっと息を吹きかけるように囁いた。
「トレーナーとしては、いささか未熟です。貴方は先生ではなく、私たちの走りを引き出す調教師なのだから。時には私たちの能力を最大化するために、自らの意志に従わせる傲慢さも必要なのですよ」
「なるほどな」
俺はドリームジャーニーの言葉を、頭の中で静かに咀嚼する。
彼女の指摘は極めて鋭く、そして合理的だ。
だが、他人の思想や常識にそのまま流されるつもりは毛頭ない。
人間の善性を信じつつ、彼女たちが『自ら選び、戦う者』であるために、俺が今できる最適なアプローチは何か。
俺は、眼鏡の奥で不敵に微笑むジャーニーの視線を真っ向から受け止め、ただ静かに、自らの内なる判断速度を加速させていった。
ドリームジャーニーの言葉は、俺の耳の奥に冷たく、重く残響していた。
――「貴方は先生ではなく、私たちの走りを引き出す調教師なのだから。時には私たちの能力を最大化するために、自らの意志に従わせる傲慢さも必要なのですよ」
なるほど、実に合理的で、同時に彼女らしい支配的な支配欲を孕んだ提言だ。
俺は椅子の背もたれに深く体重を預け、姿勢を崩さないまま、眼鏡の奥にある彼女の双眸をじっと見つめ返した。目線を動かし、彼女の呼吸、わずかな肩の上下、言葉の裏にある「真意」を観察する。
「面白い意見だ、ジャーニー。だが、俺のやり方が『未熟』に見えるのは、お前が完成された強者だからじゃないのか?」
その真意を、ドリームジャーニーは一瞬で正確に咀嚼したようだ。
眼鏡の奥の鋭い瞳が、獲物を見つけた猛獣のように細められる。
俺たちが共有している前提。それは、ジャーニーが「自分自身で問いを立て、自分自身の足で嵐の中を突き進める、すでに内面的に『完成された強者』である」という事実だ。
「……なるほど。そういう意味ですか」
ジャーニーはふっと唇の端を釣り上げ、嬉しそうに耳を揺らした。
「つまり貴方は、私のような『自立したウマ娘』を基準にして、まだ足元の覚束ないライスさんたちを見ようとしているのではないか、と。そう私に問いかけているのですね?」
「察しが良くて助かるよ」
俺は椅子の背にもたれたまま、冷静に言葉を継ぐ。
「お前はステイゴールドという偉大な憧れを追い、誤解を恐れず、己の信じた道を独力で構築できる。だからこそ、お前にとっての『指導』とは、自立した者同士が対等に行う高度な対話であり、相手の主体性を尊重する俺のやり方は、心地よい『正解』として機能する」
俺は配ったばかりのプリントを指先で軽く叩いた。
「だが、ライスや、あるいはまだ世界との折り合いを模索しているカフェにとっては違う。お前ほどの強固な自己を持たないウマ娘にとって、この自由なフレームワークは『答えの出ない暗闇に一人で放り出される』のと同じ意味を持つ。お前は、強者の視点から彼女たちのその『弱さ』を見抜き、俺のやり方を未熟だと指摘した。――違っているか?」
「ええ、寸分違わずその通りです」
ジャーニーは満足げに深く頷いた。同じ地平で、同じ解像度で対話ができているという事実に、彼女は確かな愉悦を感じているようだった。
「強者は、暗闇の中に放り出されても『さて、どちらへ進もうか』と楽しむことができます。ですが、ライスさんのようなウマ娘は、暗闇そのものに怯え、その場にうずくまってしまう。そこに『自分で考えなさい』と選択肢を与えるのは、尊重ではなく、ただの酷使(ネグレクト)です。彼女たちに必要なのは、暗闇を切り裂く絶対的な光――すなわち、トレーナーである貴方の強い『命令』なのですよ」
「合理的だし、恐らく正しい。だが、だからこそ俺の判断は揺るがない」
俺は姿勢を正し、彼女の眼鏡の奥にある瞳を真っ直ぐに見据えた。
「お前の言う通り、ライスに『自由』は重すぎる。だが、だからといって俺が絶対的な手綱を握り、俺の意志に従わせて勝たせたとして、それは『誰の勝利』だ?」
「貴方の勝利であり、同時に彼女の勝利でしょう」
「いや、違う。それは『俺という装置が、ライスという駒を使って得た結果』に過ぎない。そんな勝利で、ライスの心が本当に救われると思うか?」
俺は静かに首を振る。
「『トレーナーさんの言う通りに走ったら勝てた。でも、私はやっぱり、自分では何もできない、不幸なヒールなんだ』。自ら選ぶ痛みを経験させずに勝ちを与えれば、彼女は一生、自分の足で立つことができなくなる。いつか俺という手綱が失われた時、彼女はまた深い砂の底に隠れてしまうだろう」
ジャーニーはふさふさとした耳をぴくりと動かし、俺の言葉を咀嚼するように、静かに香水の香りを漂わせた。
「……だから、貴方はあえて、彼女たちにその重い自由を背負わせ続けると?」
「ああ。俺が手を引いて歩かせるんじゃない。彼女たちが自分の足で歩き出すまで、俺は隣でしつこく、諦め悪く、選択肢を突きつけ続ける。それが、俺の選んだ『トレーナー』としての傲慢さだ」
一瞬の静寂の後、ドリームジャーニーは、くすくすと、心底楽しそうな声を漏らした。
「ふふ……あはは。素晴らしい。やはり貴方は、私が認めた通りの頑固者だ。私と同じ意味を共有した上で、それでもなお、己の信条を曲げずに現実をねじ伏せようとするのですね」
「お前の指摘は完璧だったよ、ジャーニー。参考させてもらう。だが、現時点では俺は俺の判断を一番信用している」
「ええ、そうでなくては。己の意志で戦う者こそ、私の旅路の伴走者にふさわしい。いらぬお世話でした」
「いいや、そういう意見を言ってくれるのはありがたい。これからも気になったら言ってくれ」
「ふふ、他者の意見も取り入れつつ己の心に従い、現実をねじ伏せてきた貴方だからこそ、私もこうして隣にいるのですから」
ジャーニーは香水の甘い香りを残しながら、俺に優雅な一礼をして見せた。
「貴方のその『諦めの悪さ』が、ライスさんを救うか、あるいは彼女を潰すか――特等席で観察させてもらいますよ、トレーナーさん」
「ああ、見ていてくれ。俺たちの旅路は、まだ始まったばかりだ」
俺たちは互いに不敵な笑みを交わし、これから始まる一週間の個人面談に向けて、それぞれの思考をさらに鋭く研ぎ澄ませていった。
ジャーニーは優雅に一礼して見せた。強者としての視点、そして弱者を導くための現実的な手段――そのすべてを互いに理解し合った上で、俺たちの奇妙な信頼関係は、より深く、より強固なものへと研ぎ澄まされた気がした。
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