■■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。   作:あばなたらたやた

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四話:皇帝④

 

 生徒会室は午後の柔らかな日差しがカーテンの隙間から差し込み、静かな空気を包んでいた。

 

 机の上には書類の山が積まれ、ペンの音と紙をめくる音だけが小さく響いている。

 

 俺は窓際の席に腰を下ろし、トレセン学園の年間スケジュールを確認しながら、時折視線を隣に移していた。

 

 そこにいるのはシンボリルドルフ。

 凛々しく堂々とした佇まいの美人だ。焦げ茶色の長い髪が背中まで流れ、前髪に三日月のように白いメッシュが一本、静かに揺れている。

 

 紫色の瞳はいつも真っ直ぐ前を見つめ、決してブレることがない。彼女は生徒会長として、今日も淡々と作業を進めていた。

 

 ふと、俺の胸に過去のレースの記憶が蘇った。あのレースは圧倒的だった。スタートから彼女の脚はまるで風を切り裂くように軽やかで、どんな強敵も置き去りにしてゴールラインを駆け抜けていった。危なげなく、当然のように勝利を重ね、皇帝の名声は日ごとに高まっていった。

 

 観客の歓声、フラッシュの嵐、そして他のウマ娘たちが息を飲んで見つめる視線。

 

 あの瞬間、彼女はまさに頂点に君臨する存在だった。しかし、同じトレセンで生活を共にしていても、彼女はどこか孤立しているように俺には見えた。

 

 理由は簡単だ。

 彼女が見ている世界が違い過ぎるからだ。レースで勝てる圧倒的な性能。すべてのウマ娘が笑顔でいられる幸福な世界という、崇高で大きな理想。そして、その理想が現実にはほとんど実現不可能だと冷静に認識する高い知性。それでも決して諦めず、険しい茨の道を突き進み続ける、光のような強い精神。

 

 そんな重いものを一人で背負い続けられる者が、果たしてどれだけいるだろうか。

 

 共にその道を歩み、並んで立てる者が、どれだけいるのだろうか。

 凡人はきっと、心の奥底でこう思っているはずだ。

 

『こっちを見るな。手を差し伸べるな。惨めになるだけだ』

『必要とされていない救世主なんて、ただの迷惑だ』

『貴方のような存在を煩わせてしまった自分が、たまらなく憎い』

 

 俺は小さく息を吐き、ペンを置いた。

 

 本人がそれをちゃんと認識していないのも、問題なのかもしれない。

 

 彼女は間違いなく傑物だ。レースでの実力はもちろん、政治力や人格も飛び抜けている。

 

 業界全体に貢献し、多くのウマ娘を助け、導いている。周囲には彼女を慕い、敬意を抱いて自然と手を貸す者も多い。生徒会メンバーに仕事を割り振る姿も、堂々としていて美しい。だが、そこにあるのは「同じ志を持つ仲間意識」だ。

 

 個人と個人の心が深く結ばれたものではなく、組織がより大きな世界のために協力する関係の側面が強い。

 

 本当の友情とは、少し違う気がする。友情とは、あらゆるものを超越した概念だ。

 

 自分が死ぬとしても、お前が生きるなら構わない──そんな台詞に繋がるほどの、強烈な愛に似た感情だ。

 

「会長、全てのチェック完了しました。不備はありません」

 

 エアグルーヴの落ち着いた声が、部屋の静けさを優しく破った。シンボリルドルフは穏やかに顔を上げ、微笑んだ。

 

「そうか、ありがとう。助かったよ。一つ一つ丁寧に調べるのは大変だったろう」

「いいえ、会長こそ様々な場所を回られてお疲れでしょう。肉体の疲労を残さぬよう、先に帰宅してください」

「すまない、そういうわけにはいかないんだ。大切な要件があってな」

「そうですか」

「君はもう好きにしてくれて構わない。これ以上は、それこそ疲れが溜まるだろう」

「わかりました。では失礼します。最後の要件が終わったらしっかりと休まれてください」

「ありがとう」

 

 エアグルーヴは軽く頭を下げて退出していった。部屋に再び静けさが戻る。シンボリルドルフがゆっくりと俺の方を向いた。紫の瞳がまっすぐに俺を捉える。

 

「トレーナーくん」

「何ですか? シンボリルドルフちゃん」

「ちゃん付けは始めてだ」

「そうなんですか? まぁ、シンボリルドルフをちゃん付けするのは難しいでしょうね」彼女は少し肩を落とし、大きく息を吐いた。その吐息には、わずかな疲れと迷いが混じっているように感じられた。

 

「で、何の用かな。生徒会の仕事はないと思うけど」

「勝負服が、完成したんだ」

「素晴らしい。それで、何か不満や不安点でも?」

「一般的に、両親に見せるものだと理解している。だけど、私はどうするべきなのだろうか迷っている」

「何故、迷うのですか?」

「長い話になる。私の両親についてだ」

 

 俺は黙って頷き、彼女の言葉を待った。シンボリルドルフは少し間を置いてから、静かに語り始めた。

 

 両親は世界平和のためにその人生を捧げた人たちだったという。厳しく、しかし優しく、期待を込めて全身全霊で彼女を育ててくれた。

 

 尊敬と感謝の気持ちが強くあるからこそ、自分も同じように、すべてのウマ娘が笑える世界を創りたいと願った。だからこそ、未熟な今の自分が勝負服の姿を両親に見せるべきか、どうしても迷ってしまうのだと。

 

「なるほど。そういう話か」

「そういう話だ」

「シンボリルドルフが懸念しているのか知りたいな。両親から怒られるのが嫌なのか、それとも自らの未熟を晒すのが恥ずかしいのか」

「そう、だな」

 

 シンボリルドルフは静かに目を伏せ、思考に耽った。長い睫毛が影を落とす。

 

「両親を落胆させてしまうのが怖い……のだと思う」

「落胆か。確かにそれは嫌だね。尊敬しているからこそ、期待を裏切ることが怖いと」

「ああ。二人には完璧な私を見せて、安心したり、喜んでもらいたい」

「そうだね。それはそうだ。俺の感想を告げてもいいかい?」

「言ってくれ」

 

 俺は少し姿勢を正し、穏やかに言葉を続けた。

 

「今の君が完成していると俺は思うよ。何故ならば君はいつも前に向かって歩いている。常に最新の君が全盛期であり、完璧なんだ」

「しかし私は未熟な部分が多くある」

「確かに未熟な部分もある。しかし未来にある完璧とあくまでイメージだ。現実の完璧な君はここにいる。目の前にいる君だ。そして未だに進化する、と両親に告げると良い」

「完璧から、進化?」

「ああ、完璧は成長できない。だから別次元の存在に進化する」

「言葉遊びだ」

 

 シンボリルドルフは優しく、けれど心から楽しげに笑った。その笑顔には、いつもの凛々しさに加えて、柔らかな温かみが混じっていた。

 

「だが、心惹かれる。君は言葉が上手いな」

 

 その夜、彼女は両親に勝負服の完成を報告したらしい。返信には厳しい言葉と、しっかりと謝意が込められていたと後で聞いた。

 

 厳格な両親であっても、自分の子の成長は素直に嬉しいものらしい。俺は生徒会室の椅子に深く腰を下ろし、静かに微笑んだ。

 

 彼女の背中は、今日もまっすぐに、茨の道を進み続けている。その姿を、俺はただ、そっと、しかし確かに見守っていた。

 いつか、その孤独な道に、本当の意味での「共に立つ」誰かが現れる日が来ることを、静かに願いつつ。

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