ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
ファン感謝祭のスペシャルレース。
シンボリルドルフ、8着。
俺は静かに息を吐いた。観客席がざわめく。
「え、まさか……」
「会長が、こんな……」
ファンの動揺した声が重なり、トレセン学園の生徒たちも信じられないという顔で掲示板を見つめていた。
シンボリルドルフはゴールラインを過ぎたところで膝を突いた。凛々しい紫の瞳が苦痛に歪み、焦げ茶の長い髪が乱れて肩に落ちる。
汗で額に張り付いた三日月のような白いメッシュと、小刻みに震える彼女の肩を、俺はコースサイドの柵越しにただ静かに観察していた。
……ここまでは、想定内だ。
生徒会長として学園を背負いながら、トップレーサーであり続ける。自らの考えだけを基準に全てを背負うワンマンな両立は、どれほど天才であろうと必ず歪みを生む。だが、その失敗と挫折こそが、彼女が次の地平へ進むために必要なピースだった。
俺は騒ぐ人波を静かにかき分け、ターフへと足を踏み入れた。顔を上げた彼女の紫の瞳に、痛みと、悔しさと、わずかな動揺が混じっているのを見届ける。
「よく走ったね、シンボリルドルフ。お疲れ様」
そう告げて差し伸べた手に、彼女はまだ何も言えずにいたが、それでよかった。敗北という名の「今」を共に受け止めるのが、俺の役目だ。
ファン感謝祭が終わり、照明の落ちた夜のレース場。
冷たい風だけが吹き抜ける観客席の最前列で、彼女は手すりを握りしめて立ち尽くしていた。
「ここは冷える。体を壊すよ」
声をかけても応えはない。震える肩から静かに雫が地面へ落ちていた。
「……すまない。一人にしてくれと言ったはずだが」
紫の瞳が俺を射抜く。その視線には、敗北の悔しさ以上に、自分の「正解」が否定されたことへの困惑が滲んでいた。
「あいにく、俺の辞書に『独りきり』というデータはなくてね。特に、担当ウマ娘が人生最大の壁にぶつかっている時は」
俺は静かに彼女の隣へ歩み寄った。
「……君といると、たまに哲学の講義を受けている気分になるな」
彼女は小さく掠れた声で自嘲気味に呟いた。
「『一人』と『独り』は違う、とでも言いたいのかい?」
「いいや、単なる言葉の定義の話さ。人が一人で立てるのは物理的な事実に過ぎないが、『独り』と感じるのは世界から孤立していると思い込む心の錯覚だ。……シンボリルドルフ、今回の敗北を君はどう定義する?」
「……調整のミスだ。私の読みが甘かった。次はより完璧な計画を立てる」
「いいや、違う」
俺はあえて、冷徹に言葉を置いた。
「君が負けたのは、君が『皇帝』ではなく、『独裁者』として走ったからだ」
彼女の肩がびくりと震えた。
「独裁者……だと?」
「そうだ。周囲の声を聞かず、自分の正しさだけを規範とする。それでは君が望む『誰もが笑える世界』なんて作れやしない。君一人の限界が、そのまま世界の限界になってしまうからだ」
彼女は言葉を失い、深くうなだれた。
「……皇帝失格だ。理想のために我武者羅に慢心してきた。私の夢に周囲を巻き込み、無理を強いて……『強い皇帝たる私を信じよ』と嘯いた末路が、この凡走だ。失望されただろう。誰も、皇帝ではない私になどついてこない」
縋るような視線が俺を射抜く。紫の瞳は暗い絶望に染まっていた。
「トレーナー君。私は……どうすればいい? 教えてくれ。目の前には暗闇しかないんだ」
「普通ならば」
俺は一歩、彼女に近づく。
「ここで君に言うべき言葉は、『それでもついてきてくれる者がいる』という慰めなのだろう。現にエアグルーヴも、生徒会の仲間も、君の無事を心配して控室で待っている」
「……エアグルーヴが?」
「ああ。『会長に温かいスープでも作って差し上げろ』と、泣きそうな顔で俺に缶スープを押し付けてきたよ。彼女なりに君を助けたいんだ。……ほら」
俺は上着のポケットから、まだほんのり温かいコーンスープの缶を取り出し、彼女の手に握らせた。思いがけない日常の温もりに、彼女は呆気にとられたように缶を見つめた。
「……まったく。あいつはいつも不器用だな」
ぽつりと漏らした彼女の口元が、ほんの少しだけ緩む。シリアスな静寂の中に、一瞬だけ訪れた小さな笑い。
「だが」と、俺は言葉を続ける。
「今この瞬間の君にとって、その優しさは免罪符にしかならない。……シンボリルドルフ。君は間違えた。それは覆せない事実だ」
「ああ。私の自己陶酔的な欺瞞で、皆を騙した」
「その通りだ。目の前は暗黒か?」
「何も見えない」
「未来は閉ざされ、過去は君を背中から刺したか?」
「何一つ、残っていない」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめて、微笑んだ。
「ならばもう、失う恐怖はないはずだ。これ以上、悪くなることは決してない。積み上げた虚像が消え、君はあらゆるものから自由になったんだ」
「これが……自由? そんなものに、何の意味がある」
「意味はない。だからこそ、これから新しく意味を積み上げることはできる。何もないからこそ、あらゆる束縛を越えて
君は突き進める。望むままに、走り続けろ」
過去も未来も、今はどうでもいい。ただ今、この瞬間に俺たちがここにいるという事実だけがあればいい。
俺は彼女に向けて、右手を差し出した。
「俺が君の篝火になろう。言っただろう? 責任は二人で背負うと。完璧な皇帝じゃなくていい。俺の手を借りて、また泥臭く立ち上がればいいんだ」
「……そうか。君は確かに、そう言ってくれていたな」
シンボリルドルフは手の中の缶スープをそっとポケットに収めると、涙を流したまま、俺の手を強く握り返してきた。その掌は驚くほど熱く、微かに震えていた。
「予測した上で忠告をくれ、その上で私に選ばせてくれた。そして……失敗した私と共に歩むと言ってくれるのだな。……君の献身に、心から感謝する」
暗闇の中で、小さな火が灯った。
それはまだ頼りないものだったが、皇帝という過剰な重荷を削ぎ落とした一人のウマ娘が、再び一歩を踏み出すには十分すぎるほどの光だった。
「さあ、帰ろう。生徒会室で、みんなが君の帰りを待っている。……まずはそのスープを飲んで体を温めてからな」
「ふっ……そうだな。冷めてしまっては、エアグルーヴの好意を無駄にしてしまう」
夜風が吹き抜けるターフの上で、彼女は三日月のようなメッシュを揺らし、小さく、けれど確かに前を向いて歩き出した。
これは、彼女が新しく始める物語だ。そして俺は、その隣をどこまでも共に歩んでいく。
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