■■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。   作:あばなたらたやた

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七話:皇帝⑦

 ファン感謝祭のスペシャルレース。

 シンボリルドルフ、8着。

 俺は静かに息を吐いた。観客席がざわめく。

 

「え、まさか……」

「会長が、こんな……」

 

 ファンの声が、次々と重なる。トレセン学園の生徒たちも、信じられないという顔でゴール板を見つめていた。

 

 誰もが言葉を失っている。シンボリルドルフは、ゴールラインを過ぎたところで膝を突いた。凛々しい紫の瞳が苦痛に歪み、焦げ茶の長い髪が乱れて肩に落ちる。

 三日月のような白いメッシュが、汗で額に張り付いていた。彼女の肩が、小刻みに震えているのが見えた。

 

 ……ここまでは、想定内だ。

 

 生徒会長として、学園を背負いながらトップレーサーであり続ける。完全なるワンマン経営と競技者の両立は、どれほど才能があろうと必ず歪みを生む。

 

 シンボリルドルフは己の正しさを規範とし、自らの判断だけで全てを背負った。

 その結果が、今の敗北だ。彼女は自らの考えのみを基準に選び、走り、負けた。

 それでいい。それを経験するのが大切だ。

 俺はゆっくりとスタンドを降り、コースサイドへと向かった。騒ぐ人波を静かにかき分けながら、ただ一つのことを考えていた。

 

 トレーナーとは、頑張るウマ娘の背後から声をかけるだけの存在ではない。

共に笑い、共に泣き、共に歩む者だ。ルドルフの足が止まったのなら、その険しい道を共に歩けるようにするのが俺の役目だ。彼女が顔を上げた。

 

 紫の瞳が、こちらを捉える。痛みと悔しさと、わずかな動揺が混じっていた。俺は微笑み、いつもの落ち着いた声で彼女に告げた。

 

「よく走ったね、シンボリルドルフ。お疲れ様」

 

 その言葉に、彼女の唇がわずかに動いた。まだ何も言えない様子だったが、それで構わない。

 

 今はただ、彼女の傍にいる。

 敗北という名の、彼女の「今」を受け止めてやるために。勝利とは何か。

 それはまだ、彼女自身が見つけなければならないものだ。

 俺はただ、その過程を共に歩く者として、ここにいる。

 静かに、俺はルドルフの元へと歩みを進めた。

 

 ファン感謝祭が終わった。

 照明の落ちた夜のレース場。

 観客の喧騒はとうに消え、ただ冷たい夜風だけが吹き抜けている。

 その最前列、手すりを握りしめて立ち尽くす影があった。

 

「ここは冷える。体を壊すよ」

 

 俺の呼びかけに、彼女は応えない。震える肩から、静かに雫が地面へ落ちた。

かつてないほどに、彼女は打ちのめされていた。

 

 シンボリルドルフ。

 無敗を誇り、生徒会長として学園の頂点に君臨する「皇帝」。その彼女が、今日、初めてターフの上で後塵を拝した。

 

「……すまない。一人にしてくれと言ったはずだが」

 

 紫の瞳が、ドアの傍に立つ俺を射抜く。その視線には、敗北の悔しさよりも、自分の「正解」が否定されたことへの困惑が滲んでいた。

 

「あいにく、俺の辞書に『独りきり』というデータはなくてね。特に、担当ウマ娘が人生最大の壁にぶつかっている時は」

 

 俺は静かに彼女の隣へ歩み寄った。

 彼女はすべてを一人で決めてきた。練習メニューの構築、生徒会の運営、そしてレースの展開。その才能があまりに突出していたがゆえに、彼女は「自らの判断」こそが、全ウマ娘を幸せにする最短ルートだと信じて疑わなかった。だが、それは危うい均衡だ。どれほどの天才でも、一人の視点には必ず死角が生まれる。

 

「シンボリルドルフ。今回の敗北、君はどう定義する?」

「……調整のミスだ。私の読みが甘かった。次は、より完璧な計画を立てる」

「いいや、違う」

 

 俺はあえて、突き放すように言葉を置いた。

 

「君が負けたのは、君が『皇帝』ではなく、『独裁者』として走ったからだ」

 

 彼女の肩が、びくりと震えた。

 

「独裁者……だと?」

「そうだ。周囲の声を聞かず、自分の正しさだけを規範とする。それでは、君が望む『誰もが笑える世界』なんて作れやしない。君一人の限界が、そのまま世界の限界になってしまうからだ」

 

 俺はこの敗北を待っていた。すべては等価値だが、この失敗だけは彼女の「成長」に不可欠なピースだった。挫折を知らぬまま頂点に居続ければ、いつか彼女は独り善がりの正義で自壊していただろう。

 

「自分を罰してほしい気分かな?」

「……自らの無能を自覚し、立ち直るべきだと、頭では理解している」

 

 掠れた声で、彼女は自嘲するように笑った。

 

「皇帝失格だ。理想のために我武者羅に慢心してきた。私の夢に周囲を巻き込み、振り回して、無理を強いてきた。『強い皇帝たる私を信じよ、さすれば幸福を得られん』……そう嘯いた末路が、この凡走だ」

「ああ。かもしれないな」

 

 俺は否定も肯定もせず、フラットに答えた。彼女は言葉を吐き出す。溜まった澱をすべて曝け出すように。

 

「結果を出してきた。だが道半ばで立ち止まっては意味がない。私の理想は未来にしかないのに、私は止まってしまった。……失望されただろう。誰も、皇帝ではない私になどついてこない」

縋るような視線が俺を射抜く。紫の瞳は、いまや暗い絶望の色に染まっていた。

「トレーナー君。私は、私はどうすればいい? 教えてくれ。目の前には暗闇しかないんだ」

「普通ならば」

 

 俺は一歩、彼女に近づく。

 

「ここで君に言うべき言葉は、『それでもついてきてくれる者がいる』という慰めなのだろう」

 

 エアグルーヴをはじめ、彼女を信じる者はまだ大勢いる。現実はまだ終わっていない。だが、今この瞬間の彼女にとって、その事実は救いにならない。

 

現実ではなく、彼女が今、すべてを失ったと感じていることが真実だからだ。その絶望ごと受け止めるのが俺の役目だ。

 

「シンボリルドルフ。君は間違えた。それは覆せない事実だ」

「ああ。私の自己陶酔的な欺瞞で、皆を騙した」

「その通りだ。目の前は暗黒か?」

「何も見えない」

「未来は閉ざされ、過去は君を背中から刺したか?」

「何一つ、残っていない」

 

 俺は、彼女の目を真っ直ぐに見つめて、笑った。

 

「ならばもう、失う恐怖はないはずだ。これ以上、悪くなることは決してない。積み上げた虚像が消え、君はあらゆるものから自由になったんだ」

「これが……自由?」

 

 彼女は呆然と呟く。

「そんなものに、何の意味がある」と。

 

「意味はない。だからこそ、これから新しく意味を積み上げることはできる。何もないからこそ、あらゆる束縛を越えて君は突き進める。望むままに、走り続けろ」

 

 未来も過去も、今は関係ない。ただ、この瞬間、俺がここにいる。

 俺は彼女に向けて、右手を差し出した。

 

「俺が君の篝火になろう。言っただろう? 責任は二人で背負うと」

「……そうか。君は確かに、そう言っていたな」

 

 シンボリルドルフは涙を流したまま、俺の手を強く握り返した。その掌は驚くほど熱く、微かに震えていた。

 

「予測した上で忠告をくれていた、その上で私に選ばせてくれた。そして……失敗した私と共に歩むと言ってくれるのだな。……君の献身に、感謝する」

 

 暗闇の中で、小さな火が灯った。

 それはまだ頼りないものだったが、皇帝という重荷を捨てた一人のウマ娘が、再び一歩を踏み出すには十分な光だった。

 

「これは、君が始めた物語だ」

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