■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。 作:あばなたらたやた
白衣を翻し、陽炎のように揺らめきながら彼女は現れた。
アグネスタキオン。
その名は知っている。トレセン学園内でも一際異彩を放つ「狂気のマッドサイエンティスト」だ。常に独自の理論を振りかざし、ウマ娘の限界を突破するために怪しげな実験を繰り返しているという噂は、耳にタコができるほど聞いていた。
「やぁ、モルモット君。久しぶりだね」
唐突な挨拶だった。彼女はまるで旧知の仲であるかのように、親しげに、そしてどこか切なさを孕んだ声音で俺に語りかけてくる。
「初対面のはずだが」
俺が率直な事実を口にすると、タキオンは一瞬、言葉に詰まったような表情を見せた。
「……そういう反応か。残念だねぇ。それはそれとして、シンボリルドルフ会長とは随分と親密なようだね」
彼女はすぐにいつもの飄々とした態度を取り戻し、話題を切り替えた。
「ああ、担当ウマ娘だからね。親密になるのは当然だろう」
「フゥン。そうか。しかし君が会長のトレーナーになるとは……」
「何か不満なのかな」
問い返すと、彼女は瞳を細め、思考の海に潜るような仕草を見せた。
「不満というより疑問なんだ。モルモットくんの好みではないと思っていたんだよ。シンボリルドルフは万能型、君が好むのは私みたいな『特化型』のウマ娘だと」
「ふむ」
確かに、俺が現在支えているシンボリルドルフは、あらゆる面において完成された万能型のウマ娘だ。
全ステータスが満遍なく高く、どんな状況にも対応できる汎用的なスキルと、絶対的な王者の走り。
それはまさにハイスタンダードであり、安定感は抜群と言える
でも、欠けている部分はある。
「確かに彼女はバランス良く能力が秀でている。精神性も偏りこそあるが、それは誤差だ。だけどね、だからこそ彼女は脆いんだ」
「脆い? 私みたいな脚の話ではないね。精神の話かい?」
「うん、そう。一言でいえば、彼女は100%の力しか出せない。理性で走るから、本能のブーストを受けることができず200%の瞬間火力を出せない。そして今回みたいに幾つかの要素が絡んで不安定になると、ご覧の有様さ」
それは先日のレースでの敗北を指していた。アグネスタキオンは否定する。
「精神がエネルギーになることを否定はしない。むしろ肯定しよう。だけど今回の状況で、本能を解放できていたら勝てていたとは思えないけどね」
タキオンの意見に対し、俺は一歩踏み込む。
「良い視点だ。確かに。難しい内容ではある。でも、勝てた可能性は一定以上ある。闘争本能は極めて強大なエネルギーリソースだ。短期決戦用のロケットブースターと言ってもいい。シンボリルドルフが全てを捨てて、闘争心全開で駒を進めていれば、勝てる可能性がある盤面だった」
「随分と彼女を買っているんだね。あの絶不調で勝てた、と断言するとは」
「うーん、まぁ、いや、というかさぁ……」
俺は少し呆れたように、独り言をつぶやくように言った。
「シンボリルドルフが本気でやればレースでは勝てるんだよ。彼女に勝てるウマ娘なんて、この世には存在しない。でも、彼女の本質は『夢』のほうにあるからね」
「なるほど。そういう話か」
「頭が回るね」
「ようは夢のために能力を制限しないといけない状況というわけだ」
アグネスタキオンの指摘は、図星だった。夢を叶えるためにはレースで勝つ必要がある。しかし、ただ勝てばいいわけではない。
大切なレースであればあるほど、彼女は闘争本能に身を任せた野性的な走りではなく、理性で制御された「美しく、気高い勝利」を掴まなければならない。勝利と理想の両立――それは一種の自縄自縛だ。
「そういう不器用なウマ娘は、応援したくなるのさ。アグネスタキオンさんの言うところの『欠けた部分』というべきかな」
「……そうかぁ」
タキオンは静かに頷いた。その瞳には、先ほどよりも深い寂寥感が漂っている。
初対面のはずの俺に対して、彼女はなぜこれほどまでに親しく、そして脆い表情を見せるのか。
「モルモット……いや、トレーナーくん。もし君が困ったら、私を訪ねてきたまえ。力になるよ」
「ありがたい申し出だが、一体なぜ? シンボリルドルフに借りでもあるのかい?」
「いいや、別に? シンボリルドルフ会長もそうだが、私は『君』――つまりトレーナーくんの助けになりたい、と主張しているんだよ」
彼女の頬が微かに引き攣り、自嘲気味な笑みが浮かぶ。その瞳の奥には、濁った寂寥感が沈殿していた。
「昔、君と同じように誰かに救われた。その誰かはきっともう覚えていないだろうけれど、私はその人の想いを繋げて、継承していきたいんだ。私の『モルモットくん』を、次の存在へ……。彼と私が確かに存在したんだという証を、この世に残したい」
風が吹き抜け、彼女の白衣を激しく揺らした。乱れた前髪の隙間から覗く視線は、俺を射抜いているようでいて、同時に遠い過去の幻影を必死に繋ぎ止めようとしているようにも見えた。
「全く知らない誰かに重ねられて、善意の押し売りをされるのは不快かい?」
「いいや、俺はその考えを肯定する」
俺は即座に答えた。
大切な人がいなくなったとして、その人の生きた証を残したいと願う。
その人の理念が、世界の役に立ってほしいと行動する。それは、残された者が抱く最も崇高で、かつ最も痛切な祈りだ。
消えた者の名誉や価値が、形を変えて生き続けることを願うのは、人として、そしてトレーナーとして深く共感できる。
「その『誰か』も立派だし、その人からの気持ちを汲んで繋いでいきたいと行動する君に、俺は敬意を表するよ」
タキオンは一瞬、弾かれたように目を見開いた。唇が僅かに震え、何かを言いかけては飲み込む。その喉の動きが、彼女の胸中に渦巻く言葉にならない感情の質量を物語っていた。
「……お互いにライバル同士だが、助け合おう。それは馴れ合いじゃない。俺たちは気高き精神を持った決闘者だ」
「決闘者、か。ふふっ、面白いことを言う」
彼女は無理に笑おうとしたが、その表情は脆いガラス細工のように危うい。
「潔く、清々しく、最高の戦場で君たちを打ち負かす。それが俺とシンボリルドルフのやり方だ」
俺の言葉が決定打となったのか、アグネスタキオンはついに、耐えかねたようにくしゃりと顔を歪めた。
眉を寄せ、必死に目尻を下げて感情を押し殺そうとするが、溢れ出る想いを制御しきれていない。
それは泣き出しそうな子供のようでもあり、長年の呪縛から解き放たれた聖者のようでもある、言葉にできないほど複雑で、けれど痛いほどに温かな表情だった。
彼女は鼻を微かに鳴らし、溢れそうになる何かを強引に意識の奥へ追いやるように、一度だけ深く、震える呼吸を吐き出した。
「……全く、君は変わらないなぁ」
絞り出すような、ひどく掠れた呟き。
彼女はそのまま静かに背を向けた。揺れる白衣の背中が、どこか小さく、それでいて誇らしげに見える。
「君は変わり者だ、トレーナーくん。……だからこそ、君と共に歩んだ者は、皆、君に心を奪われてしまうのだろうね」
光を反射する双眸に、今の俺はどんな風に映っていたのだろうか。彼女は一度も振り返ることなく、陽炎が揺らめく向こう側へと歩み去っていった。
その言葉を最後に、彼女は一度も振り返ることなく、夕闇に溶けるように去っていった。
初めて会ったはずの、白衣を纏った風変わりなウマ娘。その背中に、俺は不思議と、懐かしい陽だまりのような温かさを感じていた。