■ウマ娘は『前の貴方と歩んだこと』を覚えている。   作:あばなたらたやた

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9話:皇帝⑨  終

 精神的な苦境を乗り越えたシンボリルドルフは圧倒的だった。あらゆるレースでライバル達を粉砕していった。

 

 トレーナーとしての俺の立場も大きく向上していた。反面、トレーナーの能力としてはあまり上がっていない。

 

 ウマ娘のステータスは見れば理解できるし、長所を伸ばし、欠点を埋める方法もすぐにわかる。後は担当のウマ娘に合わせたメニューをサクッと構築して、トラブルに合わせて流動的にカスタマイズするだけだ。

 頑張れば誰でもできる程度の能力でしかない。

 

 トィンクルレースを制覇して、ウィニングライブを踊るシンボリルドルフを眺めながら、私は大きく息を吐いた。

 

「ゲームクリア、か。ゲームセットではないことは喜ばしいけど、少し淋しいな」

 

 ライブ会場で、皇帝になるための最後の階段を登りきったシンボリルドルフには、俺はもう必要ないように見えた。光り輝くステージの頂点で、シンボリルドルフが踊っている。

 

 その一挙手一投足が、観客の視線を、熱狂を、そして世界の理を支配していた。

 

 紫の瞳はかつての苦境を脱し、一点の曇りもない。彼女が足を振り上げ、指先を空へ向けるたびに、会場全体が地鳴りのような歓声に包まれる。

 

 それはもはやレースの勝者に対する称賛を超え、降臨した神性への崇拝に近かった。

 

「……あぁ。本当に、圧倒的だな」

 

 俺は関係者席の隅で、その熱狂から切り離されたような静寂の中にいた。

 周囲のトレーナーたちは、この「皇帝」の誕生を奇跡と呼び、その隣に立つ俺の手腕を魔法か何かのように持て囃した。

 

 俺の立場は、彼女の連勝街道と共に、望まずとも高みへと押し上げられていた。だが、俺自身は知っている。

 

 俺がしたことなど、極めて事務的で、無機質な作業の積み重ねに過ぎない。

 

 俺の目には、ウマ娘という生命体のステータスが、明確なデータとして映る。スピードの限界値、スタミナの減衰率、パワーの出力効率、そして精神の摩耗具合。それらを見れば、最適解は自動的に導き出される。

 

 右が足りなければ右を補い、左が突き抜けていればそこをさらに尖らせる。彼女の体調が揺らげば、それに合わせて流動的にメニューを組み替える。

 

 効率的で、合理的。だが、それは「頑張れば誰でもできる」程度の、単なる管理業務だ。

 

 そこに、世間が期待するような運命的なドラマや、血を吐くような努力の末のひらめきなんてものは、これっぽっちも介在していない。

 

 俺はポケットに手を突っ込んだ。夜風を感じながら、大きく息を吐いた。

 

「ゲームクリア、か。ゲームセットではないことは喜ばしいけど、少し淋しいな」

 

 口からこぼれた言葉は、自分でも驚くほど乾いていた。

 シンボリルドルフ。

 彼女は、かつて精神的な暗礁に乗り上げ、理想と現実の狭間で喘いでいた。その時、俺は彼女の「失敗」を隣で眺め、その後の始末を引き受け、彼女が自らの意思で再起するのを待った。だが、一度牙城を築き直した彼女は、もう俺の「後始末」を必要としていなかった。

 

 今の彼女は、自ら因子を制御し、三女神の加護すらもその背に負って、無限の可能性の中から「勝利」だけを正確に手繰り寄せ続けている。

 

 ステージの上で、三日月のような白いメッシュがライトを反射して煌めく。

その光景は、完成された絵画のように完璧で、付け加えるべき筆致は一太刀も残されていない。

 

「……俺はもう、必要ないんだな」

 

 俺の役割は、彼女を「皇帝」にすることだった。そして彼女は、見事に、いや、過剰なまでにその姿を体現してみせた。

 

 この先、彼女が歩む道には、俺が懸念すべき失敗も、俺が肩代わりすべき泥濘も存在しないだろう。

 

 彼女はこれからも勝ち続ける。誰もが幸福になれる時代を目指し、正しく、美しく、孤高に。

 

 それは素晴らしいことだ。俺が望んだ「彼女の意思による行動」の、究極の帰結なのだから。だが、心のどこかに残るこの微かな違和感はなんだろう。

 

 すべては等価値であり、無価値である。ならば寂寥感すらも一つのデータに過ぎないはずなのに。

 

 ライブが終わりに近づき、彼女が最後のポーズを決める。割れんばかりの拍手。その中心で、シンボリルドルフはふと、こちらを見た。

 

 数万の観客を飛び越え、正確に、俺という観測者の目を射抜く。

 その瞬間、彼女の唇が微かに動いたような気がした。俺に向けられた言葉は、音としては届かない。けれど、俺の中に蓄積された彼女というデータの断片が、勝手にその意味を翻訳してしまう。

 

――『まだ終わりではないぞ、トレーナー』。

 

俺は苦笑し、手元のプランナーを閉じた。彼女の能力は、確かに上限に達している。理論の上では、これ以上の上積みはない。だが、彼女という「生命」が、あるいはこの「世界」が、未知の領域を孕んでいるのだとしたら。

 

「……やれやれ。俺の仕事は、まだ終わらせてもらえそうにないな」

 

 ゲームクリアの先にある、誰も知らないボーナスステージ。あるいは、勝利の形を再定義するための、終わりのない放課後。

 

 

 スマートフォンの画面の中で、匿名の悪意が踊っている。

 

「ネットの評判は酷いな。有能なウマ娘と、たまたま選ばれただけの凡夫か」

 

 画面を閉じ、深い溜息とともにポケットにねじ込んだ。俺はまだ、このトレセン学園では新人の部類に入る。

 

 そんな若造が、学園の象徴であり「皇帝」と称えられるシンボリルドルフの担当になり、あまつさえ前人未到の偉業を達成してしまったのだ。

 

 世間が抱く違和感は、論理的に考えれば至極当然の帰結といえる。

 特にシンボリルドルフは、入学当初からすべてのウマ娘の幸福を背負うと期待されていた逸材だ。

 そんな彼女の隣に、実績も特徴もない俺が立っている。バッシングは少なくと想定に収まる範囲内の出来事だった。

 

「やぁ、トレーナー。ここが旅の終着点だ」

 

 背後からかけられた声に、俺は足を止めた。振り返ると、そこにはステイゴールドが立っていた。

彼女の纏う空気はどこか超然としていて、この世界の境界線に立っているような不思議な感覚を抱かせる。

 

 俺は苦笑いを浮かべ、白く濁る息を吐き出しながら言葉を返した。

 

「旅の終わりに異論はない。走りきった。だが、この続きを望むのは強欲すぎるか」

「自然な反応だ。だが、旅は終わり、そして始まる」

 

 彼女は遠く、並行世界の果てを見つめるような目で続けた。

 

「この世には引力があり、運命があり、オリジナルがある。だけど、その中で駆け抜けた者たちの気持ちに偽りはない」

「そうか。そうだな。そうかもしれないね」

 

 俺は空を仰いだ。すべてが等価値であり、本質的には無価値という視点からすれば、ネットの誹謗中傷も、ステイゴールドの詩的な助言も、ただの現象に過ぎない。だが、その現象の積み重ねが、俺の足を一歩前へと踏み出させる。

 

「どこへ?」

 

 ステイゴールドの問いに、俺は迷わず答えた。

 

「シンボリルドルフのもとへ。労い、支えるべきだろう。その大役と、次なる苦難に挑む彼女を」

 

 雪が降っていた。

 静まり返った学園の並木道を、俺とシンボリルドルフは二人で歩いていた。

 

 街灯の光に照らされた雪の粒が、彼女の焦げ茶色の長い髪と、三日月のような

 

 白いメッシュに落ちては消えていく。

 道すがら、先ほど見たネットの評価の話を冗談めかして切り出すと、彼女は呆れたように、だがどこか慈しむような溜息を漏らした。

 

「見ない方が適切だろう」

「ちょっとは褒められてるかな、なんて期待したんだけどな」

「ふっ。この私を相棒に持ちながら、なぜそんなに自信がないんだ?」

「それは有り難い言葉だけどさ。誰もが君のような鉄のメンタルを持っているわけじゃないんだよ、ルドルフ」

 

 俺が肩をすくめると、彼女はふと足を止め、俺を真っ直ぐに見つめた。紫の瞳が、雪の夜の闇の中で神秘的な光を宿している。

 

「……ふむ。私がなぜ、君と共に歩むか分かるかい?」

「視座が同じだから、だろう? 物事を客観的に、フラットに見ようとする姿勢が」

「それもある」

 

 彼女は首を振った。その動作に合わせて、彼女の耳が微かに揺れる。

 

「君の能力は平凡だろう。優秀というほど飛び抜けたものがなく、適切な現実を適切に処理する能力がある。それも得難い力ではあるが、君でなければならない理由にはならない」

「手厳しいな。まあ、その通りだ」

「レースについての研究や調整も適切だ。だが、私の体調を鑑みてメニューを組むことなど、相応の経験を積んだ者なら誰にでもできる」

 

 俺は頷いた。俺のやっていることは、ただの論理的な最適化だ。トラブルが起きればカスタマイズし、欠点があれば埋める。機械的な作業と言ってもいい。

 

「ああ、なら、なんで君は俺を選んだ?」

 

 シンボリルドルフは一歩、俺との距離を詰めた。

 

「君より好条件のトレーナーは他にたくさんいる。それでも、私が君を選んでよかったと思ったのは、そのすべては――」

 

 彼女の言葉に、力が宿る。

 

「君が、私の成長の機会を奪わないでくれたからだ」

「……ああ。あのファン感謝祭の時のことか」

 

 思い出すのは、彼女が己の理想を完遂しようとして、無理なスケジュールを強行しようとした時のことだ。

 俺はその先に待つ「失敗」を明確に予見していた。データは残酷に、彼女の敗北を指し示していた。

 

「そうだ。君は失敗を予想し、私に伝えた。その上で、私の自由意志を尊重してくれた。その結果は、君の予見通り酷いものだった。だからこそ……」

彼女の瞳が、微かに潤んでいく。

「君は私に選択権を委ね、失敗することを告げた。その上で、私を尊重すると選択したのは『トレーナーである自分の責任だ』と、共に罪を背負ってくれた」

 

 感情が溢れ出すのを抑えきれないように、彼女の言葉が続く。

 

「ただアドバイスをするだけでなく、私を過保護に守るだけでもなく、勝手に暴走したと見放すのでもない。すべての責任を共に背負い、私が復活するまで、ずっと隣にいてくれた」

 

 俺は何も言えなかった。俺にとってそれは、失敗とその後の始末を担当するという、俺自身の価値観に従った当然の行動だった。だが、孤独な「皇帝」として正しくあることを強いられてきた彼女にとって、それは何物にも代えがたい「救い」だったのだ。

 

「だから、私は君を……この世で一番大切な人だと思っているんだ」

 

 シンボリルドルフが、俺の胸に飛び込んできた。冷えた空気の中で、彼女の体温だけが熱を帯びて伝わってくる。回された腕に力がこもり、彼女の長い尻尾が、まるで離さないと誓うように俺の脚に絡みついた。

 

「ありがとうございます、トレーナー」

 

 その声は、学園を統べる生徒会長のものでも、レースを支配する皇帝のものでもなかった。

 

 ただ一人の、隣を歩くパートナーとしての、震えるほど純粋な感謝だった。

 俺はそっと彼女の背に手を回し雪を見上げた。

 

 シンボリルドルフの体温が、厚いコート越しにも伝わってきた。

 抱きしめられた俺の体に、彼女の意志が、震えが、そして脚に絡みつく尻尾の感触が、重い現実感を持って刻まれる。

 

「……身に余る光栄だな。この世のすべてを等価値だと嘯く俺に、そんな唯一無二の価値を与えてくれるなんて」

 

 俺は空いた手で、彼女の焦げ茶の背中を、雪を払うように優しく叩いた。

ネットの評判。世間の評価。凡夫。それらはすべて、外側から見た記号に過ぎない。

 

「有能なウマ娘と、運命に選ばれただけの凡夫」という構図は、データとして見れば極めて妥当で、客観的な正解だ。俺自身、その評価に異論を挟むつもりもなかった。だが、今この瞬間、俺の胸の中で言葉を紡いでいるのは、記録上の「皇帝」ではない。

 

かつて自らの傲慢と理想の狭間で挫折し、泥を啜り、それでも立ち上がろうともがいた一人のウマ娘だ。

 

「俺は、君を支配したかったわけじゃない。君の正しさを補強するパーツになりたかったわけでもない。ただ、君という生命が、君自身の足でどこまで行けるのかを……その過程で生まれる傷も含めて、見守りたかっただけなんだ」

 

 俺は彼女を少しだけ引き離し、その紫の瞳を真っ直ぐに見つめた。三日月のようなメッシュに、小さな雪の結晶が止まっては消えていく。

 

「失敗を予測し、それでも君にハンドルを渡す。それがどれほど無責任で、同時にどれほど残酷なことか、俺は理解しているつもりだ。だからこそ、その後の泥を啜る役目だけは、誰にも譲りたくなかった」

 

 俺の能力は、確かに平凡だ。数値を読み取り、最適解を出す。そんなものは、中央の精鋭トレーナーなら誰でも辿り着ける領域だろう。だが、効率という名の鎖で彼女を縛らず、失敗する権利すらも「自由」として差し出した。

 

 その結果として訪れた地獄を、ビジネスライクなデータとしてではなく、隣で共に呼吸する「痛み」として受け入れた。

 

 それが、この「皇帝」にとって、どれほどの救いになったのか。今の彼女の瞳を見れば、どんな精緻なデータ分析よりも明らかだった。

 

「君が俺を選んでくれたんじゃない。君が、君自身の手で、俺という存在に意味を持たせてくれたんだよ」

 

 俺が彼女の名前を呼ぶと、彼女は少しだけ力を込めて、再び俺の胸に顔を埋めた。

 生徒会長としての凛々しい仮面は、今だけはこの雪の中に脱ぎ捨てられている。

 

「……あぁ、やはり君は、どこまでも私を甘やかし、同時に私を試すのだな」

 

 彼女の潤んだ声が、冬の空気に溶けていく。ステイゴールドが言った通り、一つの旅はここで終わったのかもしれない。

 

 ゲームクリア。

 完成された皇帝の物語。だが、この雪の冷たさと、彼女の熱すぎるほどの抱擁がある限り、物語に「無価値な余白」なんてものは存在しない。

 

「次なる苦難、か。……受けて立とう。君が俺の隣にいてくれるというのなら、どんな敗北も、どんな批判も、すべては二人で分け合うための至上の糧になる」

 

 俺は彼女の肩を抱き寄せ、再び歩き出した。

 雪道に残る足跡は二つ。

 それは、どれほど強力な演算機でも導き出せない、泥臭くて、不器用で、そして何よりも美しい、俺たちの「勝利の形」の証明だった。

 

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