灰冠と香路の年代記   作:MOZIO

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第一部 聖地の鍵が砕けるとき
第一章 灰の中の鍵


鐘が鳴った。

 

夜明けを告げる鐘ではなかった。

 

死者の魂を送る鐘でも、巡礼者を礼拝へ招く鐘でもない。

 

誰も縄を引いていないのに、オルシャ大聖堂の青銅鐘は、まだ太陽の昇らぬ空へ重い音を吐き出していた。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

石造りの家々が密集する聖都の路地に、低い響きが落ちていく。

 

眠りの浅い者は寝台から身を起こし、夜番の兵士は槍を握り直した。市場へ向かう荷車の御者は手綱を引き、城壁外の宿営地では巡礼者たちが一斉に聖印を切った。

 

西方聖冠派の者は胸から額へ指を運び、東方七燭派の者は三本の指を合わせ、南方啓句派の者は唇の奥で神の名を唱えた。

 

同じ鐘を聞きながら、誰もが異なる祈りを捧げた。

 

そして誰も、その朝が始まる前に、すでに一つの時代が終わっていたことを知らなかった。

 

 

マリアム・アル=クドスが意識を取り戻したとき、最初に感じたのは痛みではなかった。

 

煙だった。

 

焼けた木材と羊毛、油、肉の臭いが混じり合い、喉の奥に泥のようにこびりついている。

 

息を吸うたびに咳が出た。だが、胸の上には何か重いものがあり、体を起こすことができない。

 

暗闇の中で手を動かすと、指先が冷たいものに触れた。

 

石だった。

 

崩れた床石が斜めに倒れ、その隙間に彼女の体が挟まれている。倒れた梁が石に支えられ、かろうじて空間を残していた。

 

火傷した左頬が熱を持っている。

 

耳の奥で鐘が鳴っていた。

 

いや、実際に鳴っているのかもしれない。だがそれは、彼女が幼い頃から聞いてきた祈りの鐘とは違った。

 

何か巨大な獣が、地中から呻いているようだった。

 

「父さん」

 

声が掠れた。

 

返事はなかった。

 

「兄さん」

 

自分でも驚くほど弱い声だった。

 

もう一度呼ぼうとしたが、煙が喉へ入り、激しく咳き込んだ。咳をするたび、胸の上の瓦礫がわずかに動いた。

 

マリアムは目を閉じた。

 

最後に覚えているのは、家の中庭だった。

 

夜半を過ぎた頃、表門が叩かれた。

 

聖都では珍しいことではない。祭礼の前には、聖堂の鍵の受け渡しや礼拝時間の変更をめぐり、夜中に使者が訪れることもあった。

 

父が扉へ向かい、長兄のハリールがその後ろに続いた。

 

次に聞こえたのは、短い問答だった。

 

それから、鉄が肉を裂く音。

 

母の叫び。

 

弟の泣き声。

 

油壺の割れる音。

 

マリアムは父に腕を引かれ、家の奥へ押し込まれた。

 

地下へ行け、と父は言った。

 

鍵を守れ。

 

それが父の最後の言葉だった。

 

鍵。

 

その言葉を思い出した瞬間、マリアムは右手を腰へ伸ばした。

 

何もない。

 

鍵束はなかった。

 

大聖堂の東門、北側回廊、共同宝物庫、地下納骨堂。それぞれの鍵を束ねた銀の輪。アル=クドス家が六代にわたって守り続けた、聖都でもっとも重い鍵束。

 

失われている。

 

恐怖が痛みを追い越した。

 

マリアムは瓦礫の下で身を捩った。背中に尖った石が食い込み、左腕に焼けるような痛みが走った。

 

「鍵……」

 

そのとき、頬の横で微かな金属音がした。

 

石の隙間から手を伸ばす。

 

指先が何かを掴んだ。

 

鍵ではなかった。

 

細長い銀筒だった。

 

親指ほどの太さで、両端に蝋封が施されている。表面には三つの文字が刻まれていた。

 

西方文字。

 

東方文字。

 

南方文字。

 

どれも同じ意味だった。

 

《開封を禁ず》

 

マリアムは銀筒を見つめた。

 

見覚えがなかった。

 

家の地下室には、祭礼用の帳簿、古い鍵、宗派間協定の写本が保管されている。だが、このような銀筒は知らない。

 

なぜ襲撃者が持ち込んだのか。

 

なぜ焼け跡に残されたのか。

 

鐘が四度目の音を吐き出した。

 

その振動で瓦礫がずれ、遠くから人の声が聞こえた。

 

「誰かいるか!」

 

瓦礫を踏む音。

 

「生きている者はいないか!」

 

聖都守備兵の言葉だった。

 

マリアムは銀筒を衣服の内側へ押し込み、力を振り絞って叫んだ。

 

声は咳に変わった。

 

だが、足音が止まった。

 

「待て」

 

誰かが言った。

 

「下だ。女の声がした」

 

石が動かされ始めた。

 

差し込んだ朝の光は赤かった。

 

火の色ではない。

 

聖都を囲む東の山々から昇る太陽の色だった。

 

 

水売りの少年ヨナ・ベン=エズラは、鐘が鳴る前から起きていた。

 

眠っていなかった、と言った方が正しい。

 

十五歳のヨナは、オルシャ旧市街の刻印民区にある崩れかけた家の屋根裏で、膝を抱えて震えていた。

 

夜中に見たものを、頭の中から追い出せなかった。

 

昨夜、ヨナは水袋を背負って城壁近くの宿屋から帰る途中だった。

 

夜間外出を禁じる法はあったが、守備兵に小銭を渡せば見逃してもらえる。巡礼祭の時期には宿屋の客が夜遅くまで酒を飲み、水を欲しがる。昼間より夜の方が稼げる日もあった。

 

アル=クドス家の裏手を通ったとき、路地に馬が三頭つながれていた。

 

どれも大きく、手入れの行き届いた軍馬だった。

 

聖都ではあらゆる国の馬を見る。だが三頭の馬具はそれぞれ異なっていた。

 

一頭には西方騎士の十字飾り。

 

一頭には東方帝国式の房飾り。

 

一頭には南方の銀月文様。

 

その組み合わせが珍しく、ヨナは足を止めた。

 

すると家の中から叫び声がした。

 

続いて裏口が開き、黒い外套をまとった男が二人出てきた。

 

ヨナは水袋を抱えたまま物陰へ滑り込んだ。

 

二人のうち一人は西方人らしい長身だった。もう一人は顔を布で隠していた。

 

男たちは何かを言い争っていた。

 

「予定にない」

 

西方語だった。

 

ヨナは父から西方語と南方語を教わっていた。両替商だった父は、言葉を知らない者は銀貨を半分失う、とよく言っていた。

 

「生存者は残すな」

 

布を巻いた男が答えた。

 

その声にも、西方人の訛りがあった。

 

だが、衣の下から見えた鎧は東方帝国式だった。

 

三人目の男が家から現れた。

 

胸に聖冠派の銀印を下げていた。だが腰には啓句派の祈祷紐が巻かれ、手には東方七燭派の祈祷布を持っていた。

 

まるで一人で三つの宗派を演じているようだった。

 

「火を放て」

 

三人目の男が言った。

 

ヨナは息を止めた。

 

男の横顔が炎に照らされた。

 

頬に一本、耳から口元へ向かう白い傷があった。

 

知っている顔ではない。

 

だが、一度見れば忘れない顔だった。

 

男たちは馬に乗り、路地の奥へ消えた。

 

ヨナは逃げようとした。

 

そのとき、燃え始めた家の窓から誰かが落ちた。

 

幼い男の子だった。

 

ヨナと同じ刻印民区へ水を買いに来たことがある。名はたしかユーヌス。マリアムの末弟だった。

 

少年は石畳に倒れ、手を伸ばした。

 

ヨナは物陰から出かけた。

 

だが、路地の向こうで蹄の音が戻ってきた。

 

恐怖に負けた。

 

彼は走った。

 

水袋を捨て、振り返らずに逃げた。

 

いま、屋根裏で鐘の音を聞きながら、ヨナは自分の両手を見ていた。

 

何もついていない。

 

血も、煤も。

 

だからこそ、その手がひどく汚れているように思えた。

 

階下で叔母が叫んでいた。

 

「ヨナ! 鐘よ! 何かあったんだわ!」

 

返事をしなかった。

 

窓の隙間から外を見ると、刻印民区の住人たちが通りへ出ていた。

 

人々は不安そうに大聖堂の方角を見ている。

 

やがて一人の男が走ってきた。

 

「鍵守の家が焼かれた!」

 

その言葉が通りを駆け抜けた。

 

「全員殺された!」

 

別の声が続いた。

 

「聖冠派の印があったそうだ!」

 

「違う、七燭派の仕業だ!」

 

「啓句派の短剣が落ちていた!」

 

噂は、火より速かった。

 

一つの事実が三つの物語に分かれ、それぞれが人々の恐怖に適した形へ変わっていく。

 

刻印民の老人が戸を閉め始めた。

 

女たちは子供を家へ入れた。

 

若者たちは短刀や棒を取り出した。

 

ヨナの叔母が階段を上がってきた。

 

「ヨナ、何をしているの。市場へは行かないよ。今日は外に出てはいけない」

 

ヨナは口を開いた。

 

自分が見たことを話すべきだ。

 

傷のある男。

 

三つの宗派を偽装した印。

 

軍馬。

 

そう思った。

 

だが、言葉が出なかった。

 

父が殺された日のことを思い出した。

 

二年前、穀物価格が上がったときだった。

 

誰かが、刻印民の両替商が小麦を買い占めている、と言い出した。

 

事実ではなかった。

 

それでも群衆は刻印民区へ押し寄せ、父の店を壊した。

 

守備兵は近くにいた。

 

だが止めなかった。

 

後になって役人は言った。

 

混乱の中で誰が殺したのか分からない、と。

 

顔を見た。

 

名を知っている。

 

そう証言した隣人もいた。

 

だが、誰も裁かれなかった。

 

見たことを話せば守ってもらえる。

 

そんな保証は、この街のどこにもなかった。

 

ヨナは首を横に振った。

 

「何もない」

 

叔母は彼を見つめたが、それ以上は聞かなかった。

 

鐘はまだ鳴っていた。

 

 

オルシャ聖地諸侯領の西方系領主、ギヨーム・ド・サン=ロシュ侯は、寝台の上で鐘を聞いた。

 

眠りは一瞬で消えた。

 

「何事だ」

 

扉の外にいた従者が答えるより早く、廊下を走る足音が近づいた。

 

若い騎士が扉を開け、礼をすることも忘れて言った。

 

「大聖堂です。鐘が勝手に鳴っています」

 

「鐘が勝手に鳴るものか」

 

「鐘楼番が死んでいました」

 

ギヨームは寝台から降りた。

 

四十三歳の身体は、若い頃のようには動かない。右膝に残る古傷が朝の冷気で痛んだ。

 

「死因は」

 

「首を切られております」

 

ギヨームは黙って衣服を着た。

 

西方式の鎖帷子の上に、現地の白布を巻く。祖父の代からサン=ロシュ家に伝わる装いだった。

 

祖父は聖戦軍とともに海を渡り、異教徒から土地を奪った。

 

父はその土地を守るため一生を費やした。

 

ギヨームはその土地で生まれ、現地語を母語のように話し、南方の料理を食べ、暑さを避けるため昼に眠る習慣まで身につけていた。

 

それでも、西方本国から来る騎士たちは彼を同胞と呼んだ。

 

現地民は彼を征服者と呼んだ。

 

どちらも半分だけ正しかった。

 

「鍵守の家で火災が起きました」

 

若い騎士が続けた。

 

「アル=クドス家か」

 

「はい。襲撃の痕跡があります」

 

ギヨームの手が止まった。

 

「生存者は」

 

「娘が一人。マリアムという女です。ひどい火傷ですが、生きています」

 

安堵すべきなのか、警戒すべきなのか分からなかった。

 

鍵守の一族は、オルシャの均衡そのものだった。

 

大聖堂の正面扉は、西方聖冠派の所有とされている。

 

東側祭壇は七燭派。

 

地下聖廟は啓句派。

 

だが、どの宗派も相手に聖堂の鍵を預けようとはしない。そのため、何世代も前から、いずれの宗派にも属さないと見なされたアル=クドス家が鍵を管理してきた。

 

実際には彼らは啓句派だったが、代々の誓約により、宗派命令より鍵守の義務を優先した。

 

家族が殺され、鍵が失われた。

 

それは単なる殺人ではない。

 

誰が聖堂へ入り、誰が締め出されるのか。

 

その決定権が宙に浮いたということだった。

 

「聖堂広場を封鎖しろ。三宗派の兵を近づけるな」

 

ギヨームは命じた。

 

「侯爵閣下、すでに聖剣騎士団が――」

 

「近づけるなと言った」

 

「しかし騎士団は、聖堂防衛は自分たちの権利だと」

 

ギヨームは若い騎士を睨んだ。

 

「だから近づけるな。彼らが剣を抜けば、七燭派の民兵も抜く。七燭派が抜けば、啓句派の守備兵も抜く。三つの剣が抜かれたあとで、誰が最初だったかを議論しても意味はない」

 

若い騎士は顔を強張らせた。

 

「従わない場合は」

 

「馬から引きずり下ろせ」

 

「聖剣騎士団を、ですか」

 

「聞こえなかったか」

 

「聞こえました」

 

騎士は走り去った。

 

ギヨームは窓を開けた。

 

冷たい朝の空気が流れ込む。

 

丘の下に広がる聖都オルシャは、すでに目覚めていた。

 

大聖堂を中心に、三つの宗派の街区が扇のように広がっている。西の丘には聖冠派の修道院と西方騎士の館。北東には七燭派の工房と教会。南には啓句派の市場と学堂。その間を、刻印民区、アルメン人街、商人宿、巡礼者の天幕が埋めている。

 

鐘の音に反応し、各街区から人が広場へ向かっていた。

 

この街では、神は一人だと誰もが言う。

 

だが、その一人の神に仕えるため、人々は三つの入口から聖堂へ入った。

 

そして、入口の違いのために殺し合ってきた。

 

背後で扉が開いた。

 

従者が告げる。

 

「聖剣騎士団の副団長、アルノー卿が謁見を求めています」

 

「早いな」

 

「すでに完全武装です」

 

ギヨームは苦く笑った。

 

「祈るより鎧を着る方が早い男だ」

 

 

聖剣騎士団副団長アルノー・ド・ヴェルモンは、祈りより鎧を好む男だった。

 

少なくとも、ギヨームはそう考えていた。

 

アルノーは六尺を超える長身で、白地に赤い聖剣を描いた外套をまとっていた。背後には十二人の騎士が並び、全員が剣帯を締めている。

 

「大聖堂への立ち入りを許可いただきたい」

 

挨拶の直後、アルノーは言った。

 

「許可しない」

 

ギヨームは答えた。

 

「鐘楼番が殺され、鍵守の一族が襲撃された。これは聖堂への攻撃です」

 

「だからこそ、武装した宗教騎士を入れるわけにはいかない」

 

「聖堂を守るのは我々の使命です」

 

「西方聖冠派の聖堂を、だろう」

 

「大聖堂は西方教会のものです」

 

「七燭派も啓句派も同じことを言う」

 

アルノーの口元が歪んだ。

 

「異端者や異教徒の主張を、我々と同列に扱うのですか」

 

「この街では同列に扱う。それがオルシャの法だ」

 

「人の法が神の法を超えると?」

 

「人の法がなければ、神の名を叫びながら人間が互いの腹を裂く」

 

騎士たちの間に緊張が走った。

 

アルノーは声を低くした。

 

「襲撃現場から啓句派の短剣が見つかったと聞いています」

 

「聖冠派の銀印も、七燭派の祈祷布も見つかった」

 

「偽装でしょう」

 

「どれがだ」

 

「我々の印がです」

 

「他の二つも同じことを言っている」

 

アルノーは一歩近づいた。

 

「侯爵閣下。あなたはこの土地に長く住みすぎた」

 

「生まれてから一度も離れていない」

 

「だから、敵と共存できるという幻想に染まった」

 

ギヨームは椅子の肘掛けを指で叩いた。

 

「共存は幻想ではない。毎日行われている取引だ。啓句派の農民が作った小麦を、七燭派の粉挽きが挽き、聖冠派のパン屋が焼く。誰かが相手を皆殺しにすれば、翌朝には自分が飢える」

 

「魂の救済はパンより重い」

 

「飢えた民衆に言ってみろ」

 

アルノーの目に怒りが浮かんだ。

 

だが、怒鳴りはしなかった。

 

その自制を、ギヨームは危険だと感じた。

 

「騎士団は、犯人が明らかになるまで西方巡礼者を保護します」

 

「それは認める」

 

「西方街区への異教徒の立ち入りを制限する」

 

「認めない」

 

「すでに巡礼者が襲われています」

 

「誰が襲った」

 

「群衆です」

 

「どの宗派の」

 

「確認中です」

 

「なら宗派で道を閉じるな」

 

アルノーはしばらく黙っていた。

 

「侯爵閣下は、今回の襲撃が偶然だとお考えですか」

 

「思っていない」

 

「ならば戦争の準備をすべきです」

 

「戦争を始める準備ではなく、始めさせない準備をしている」

 

「始まる戦争は、準備しなかった者から食われます」

 

その言葉には、否定できない真実があった。

 

ギヨームは窓の外へ目を向けた。

 

聖堂広場へ集まる人の数は増えている。

 

兵士も増えていた。

 

聖冠派の白い外套。

 

七燭派の青い旗。

 

啓句派の緑の旗。

 

三色が混じり合わず、広場の三方に固まっている。

 

「アルノー卿」

 

ギヨームは言った。

 

「あなたが本当に聖堂を守りたいなら、今日は剣を抜くな」

 

「敵が抜いた場合は」

 

「そのときは私の兵が止める」

 

「あなたの兵には、啓句派も七燭派もいる」

 

「だからこそ使える」

 

「だからこそ信用できない」

 

アルノーは踵を返した。

 

「大聖堂が奪われたとき、今日の言葉を思い出されるといい」

 

扉が閉じた。

 

ギヨームは一人になった。

 

鐘は止まっていた。

 

だが、静けさは訪れなかった。

 

代わりに、遠くから怒号が聞こえ始めていた。

 

 

マリアムは侯爵館の一室へ運ばれた。

 

灰衣修道会の修道女が傷を洗い、焼けた皮膚に薬草を塗った。

 

「跡は残ります」

 

修道女は静かに言った。

 

「目が無事だったことを神に感謝なさい」

 

マリアムは答えなかった。

 

神に感謝する理由を見つけられなかった。

 

父も母も兄も弟も死んだ。

 

家は焼けた。

 

鍵は失われた。

 

自分だけが生き残った。

 

それが神の慈悲なら、神はあまりにも残酷な方法で慈悲を示す。

 

修道女が去ったあと、部屋にはマリアムと、侯爵の書記官が残った。

 

書記官は三十歳ほどの七燭派の男で、名をステファノスといった。

 

「確認したいことがあります」

 

「犯人の顔は見ていません」

 

マリアムは先に答えた。

 

「声は」

 

「聞きました」

 

「どの言葉でしたか」

 

「西方語です」

 

ステファノスの筆が止まった。

 

「全員が?」

 

「一人だけ。ほかは分かりません」

 

本当は、父が叫ぶ直前に南方語も聞いた。

 

だが訛りが不自然だった。

 

聖都で育った者なら気づく程度の違和感。

 

啓句派の言葉を学んだ外国人。

 

そう思った。

 

しかし今、それを話せばどうなる。

 

西方人が疑われる。

 

聖冠派街区で暴動が起こる。

 

あるいは、彼女自身が嘘をついていると責められる。

 

「大聖堂の鍵は」

 

書記官が尋ねた。

 

「ありませんでした」

 

「襲撃者が持ち去ったと?」

 

「分かりません」

 

「ご家族は鍵を隠す場所を持っていましたか」

 

マリアムは答える前に、父の言葉を思い出した。

 

地下へ行け。

 

鍵を守れ。

 

だが地下室で見つけたのは鍵ではなく銀筒だった。

 

鍵は別の場所に隠されていたのか。

 

あるいは、父は銀筒のことを鍵と呼んだのか。

 

「知りません」

 

ステファノスは彼女を見た。

 

疑っている。

 

当然だった。

 

鍵守の娘が、鍵の隠し場所を知らないはずがない。

 

実際、平時の保管場所なら知っている。父の寝室にある鉄箱だ。

 

だが鉄箱は開かれ、中は空だったという。

 

襲撃前に父が移したのかもしれない。

 

「大聖堂の扉は、予備鍵では開けられません」

 

マリアムは言った。

 

「錠そのものが古く、鍵ごとに微妙な癖があります。複製では壊れるかもしれない」

 

「それを知っている者は」

 

「家族だけです」

 

「では、あなたしか残っていない」

 

その事実が胸に落ちた。

 

重かった。

 

家族を失った悲しみの中へ、義務が入り込んでくる。

 

泣くことすら許さない重さだった。

 

書記官が次の質問をしようとしたとき、廊下が騒がしくなった。

 

兵士の声。

 

何かが倒れる音。

 

続いて、ギヨーム侯が部屋へ入ってきた。

 

「尋問は終わりだ」

 

「閣下、まだ――」

 

「広場で死者が出た」

 

ステファノスの顔色が変わった。

 

「どの宗派です」

 

「その質問をするから死者が増える」

 

ギヨームはマリアムを見た。

 

「歩けるか」

 

「少しなら」

 

「ここを移す」

 

「どこへ」

 

「安全な場所へ」

 

マリアムは笑いそうになった。

 

安全な場所。

 

聖都でその言葉ほど空虚なものはない。

 

「侯爵閣下」

 

彼女は言った。

 

「家族の遺体は」

 

ギヨームは一瞬黙った。

 

「灰衣修道会が引き取った」

 

「弟も」

 

「全員だ」

 

マリアムは目を閉じた。

 

ユーヌスの顔が浮かんだ。

 

昨日の夕方、甘い焼き菓子を盗み食いし、母に叱られていた。

 

あまりにも普通の光景だった。

 

それがもう、この世界のどこにも存在しない。

 

「犯人を見つけてください」

 

マリアムは言った。

 

「見つける」

 

「処刑してください」

 

ギヨームはすぐには答えなかった。

 

「法に従って裁く」

 

「同じことです」

 

「この街では違う」

 

マリアムは彼を見つめた。

 

「なら、この街の法は弱すぎます」

 

ギヨームの目に疲れが浮かんだ。

 

「そうかもしれない」

 

その答えに、マリアムはかえって言葉を失った。

 

 

広場で最初に死んだのは、十二歳の少女だった。

 

誰が投げた石だったのかは分からない。

 

西方巡礼者の一団と、啓句派の革職人たちが押し合いになった。

 

叫び声が上がり、誰かが石を投げた。

 

石は狙った相手に当たらず、父親の手を握っていた少女のこめかみに当たった。

 

少女は倒れた。

 

父親が悲鳴を上げた。

 

その悲鳴を、周囲の者は攻撃の合図と勘違いした。

 

短刀が抜かれた。

 

棒が振り下ろされた。

 

西方兵が盾を構えた。

 

啓句派の市場警備兵が槍を前へ出した。

 

七燭派の民兵は、自分たちが包囲されると思い込み、鐘楼側の路地を封鎖した。

 

ほんの数呼吸で、広場は三つの戦場に分かれた。

 

ギヨームの混成守備隊が到着したとき、すでに七人が倒れていた。

 

「槍を下げろ!」

 

守備隊長が叫んだ。

 

誰も従わなかった。

 

同じ命令を三つの言語で繰り返した。

 

それでも人々は、自分たちに向けられた命令ではないと思った。

 

混成守備隊の兵士たち自身が揺れた。

 

隣に立つ兵士は同じ制服を着ている。

 

だが故郷も祈り方も違う。

 

広場の向こうには、自分と同じ宗派の者がいる。

 

命令に従えば、同胞へ槍を向けることになる。

 

一人の兵士が列を離れた。

 

それを見た別の兵士も動いた。

 

隊列が崩れかけた。

 

そのとき、ギヨームが馬で広場へ入った。

 

兜はかぶっていなかった。

 

剣も抜いていない。

 

「止まれ!」

 

声は怒号にかき消された。

 

ギヨームは馬を進め、聖冠派騎士と啓句派兵の間へ割って入った。

 

槍先が彼の胸へ向けられる。

 

双方の兵が、相手を庇うために侯爵が来たと思った。

 

ギヨームは馬上で外套を脱いだ。

 

西方聖冠派の十字章が見えた。

 

群衆の一部が歓声を上げた。

 

次に彼は、その下へ巻いていた現地の白布を外した。

 

布には、オルシャ諸侯領の印章が縫い込まれていた。

 

三つの灯火を一つの輪が囲む紋章。

 

「この広場では」

 

ギヨームは叫んだ。

 

「誰も自分の神を守るために、隣人を殺す権利を持たない!」

 

「異教徒が鍵守を殺した!」

 

群衆から声が上がる。

 

「西方人の仕業だ!」

 

別の声。

 

「七燭派が聖堂を奪おうとしている!」

 

さらに別の声。

 

ギヨームは剣を抜いた。

 

一瞬、広場が静まった。

 

彼は剣を石畳へ投げた。

 

鋼が高い音を立てた。

 

「私の剣はここに置く」

 

ギヨームは言った。

 

「それでも血が欲しい者は、まず私を殺せ」

 

沈黙が広がった。

 

完全な沈黙ではない。

 

負傷者の呻き、泣き声、遠くの怒号。

 

だが、殺意が一瞬だけ迷った。

 

その一瞬で、混成守備隊長が命じた。

 

「負傷者を運べ! 全員だ! 宗派を分けるな!」

 

兵士たちが動いた。

 

槍ではなく、倒れた者へ手を伸ばした。

 

啓句派兵が西方巡礼者を持ち上げ、聖冠派騎士が七燭派の老人を背負った。

 

奇跡ではなかった。

 

憎悪が消えたわけでもない。

 

ただ、人を殺す流れが一度途切れた。

 

それだけだった。

 

だがギヨームは知っていた。

 

戦争は、多くの場合、誰かが始めるのではない。

 

止める者が間に合わなかったときに始まる。

 

 

同じ朝、蒼環海の北西、ヴァルネリア王国東部では、霜に覆われた野営地に兵士たちの息が白く浮かんでいた。

 

アルベリク・フォン・ライナーは、天幕の机に広げた地図を見ていた。

 

地図には三本の川と、七つの城塞、二十三の村が描かれている。

 

村の横には数字が記されていた。

 

人口。

 

収穫量。

 

家畜数。

 

徴発可能な荷車。

 

城塞の横には、守備兵数、井戸の深さ、備蓄日数。

 

人間の生活が、細い線と小さな数字へ変換されている。

 

天幕の外では、騎士たちが笑っていた。

 

反乱諸侯との戦いは近い。

 

若い騎士たちは、自分が最初に敵の旗を倒すことを想像している。

 

老騎士たちは、どの家の城を落とせば土地が与えられるか計算している。

 

アルベリクが計算しているのは、冬の終わりまでに何人が餓死するかだった。

 

「ライナー殿」

 

副官のハンスが入ってきた。

 

「王都から使者です」

 

「命令書か」

 

「いいえ。南方からの急報も一緒です」

 

アルベリクは顔を上げた。

 

使者は泥に汚れ、目の下に深い隈があった。王都からほとんど休まず馬を替えてきたのだろう。

 

差し出された書簡は二通。

 

一通は国王軍務局の封印。

 

もう一通はセレスタ海洋都市同盟の商業印だった。

 

アルベリクは先に国王の書簡を開いた。

 

反乱の疑いがある諸侯へ、武装解除を要求せよ。

 

拒否した場合、城塞を包囲せよ。

 

予想していた内容だった。

 

問題は末尾だった。

 

《ライナー辺境伯についても例外とせず》

 

アルベリクは文字を見つめた。

 

父の顔が浮かんだ。

 

最後に会ったのは三年前。

 

軍学校を卒業した彼へ、父は言った。

 

王に仕えるのはよい。

 

だが王国と王を同じものと思うな。

 

当時は、古い貴族の自己正当化だと考えた。

 

いまも半分はそう思っている。

 

だが、もう半分については、答えを出せなかった。

 

「二通目を」

 

自分の声が普段と変わらないことに、アルベリクはわずかに安堵した。

 

セレスタからの書簡には、南方の穀物市場とオルシャの事件について記されていた。

 

ナフル大河の水位低下。

 

穀物価格の上昇。

 

オルシャの鍵守一族襲撃。

 

聖地で宗派衝突の可能性。

 

文章は簡潔だった。

 

最後に、戦争が起きた場合の小麦価格予測が添えられている。

 

現在の一・七倍。

 

最悪の場合、三倍。

 

ハンスが尋ねた。

 

「何が起きたのです」

 

「南方で鍵守が殺された」

 

「鍵守?」

 

「聖堂の鍵を管理する一族だ」

 

ハンスは首を傾げた。

 

「それが我々に関係するのですか」

 

アルベリクは地図を見た。

 

ヴァルネリア東部。

 

小麦の備蓄は少ない。

 

去年の収穫は平年以下。

 

反乱鎮圧軍は二万。

 

馬は六千頭。

 

一日に必要な穀物量。

 

包囲が長引いた場合の消費量。

 

南方の穀物価格が上がれば、商人は国内の小麦を高値で売るため港へ運ぶ。

 

都市のパン価格が上がる。

 

農民が小麦を隠す。

 

徴発が難しくなる。

 

兵士の配給が減る。

 

脱走が増える。

 

反乱諸侯は「王が民のパンを奪っている」と宣伝する。

 

遠い聖地で殺された一家が、ヴァルネリアの内戦を左右する。

 

「関係する」

 

アルベリクは言った。

 

「我々が何人殺すことになるかに」

 

ハンスは冗談だと思ったようだったが、アルベリクの顔を見て黙った。

 

「軍務局へ返書を」

 

アルベリクは命じた。

 

「包囲開始を三週間延期するよう求める」

 

「認められないでしょう」

 

「分かっている」

 

「ではなぜ」

 

「拒否された記録を残すためだ」

 

アルベリクは黒革の手袋をはめた左手で地図を押さえた。

 

「命令に従った者は責任を免れると、人は思いたがる。だが、命令が愚かだと知りながら従った者にも責任はある」

 

「それでも従うのですか」

 

「拒否すれば、別の者が指揮する」

 

「その方が楽では」

 

アルベリクは副官を見た。

 

「無能な者に二万人を預ける方が、私には耐えがたい」

 

ハンスは苦笑した。

 

「あなたは自分を高く評価していますね」

 

「他の将軍を低く評価しているだけだ」

 

天幕の外で、兵士たちの笑い声が上がった。

 

アルベリクは再び地図へ目を落とした。

 

故郷のライナー城は、東の端に描かれていた。

 

小さな黒い四角。

 

そこに父と母、二人の兄、幼い頃から知る使用人たちがいる。

 

地図の上では、ほかの城と変わらない。

 

包囲に必要な兵力、三千。

 

予想抵抗期間、四十日。

 

周辺村落から徴発可能な穀物、二百八十樽。

 

井戸は二つ。

 

地下道の可能性あり。

 

彼自身が軍学校時代に調査し、記録した情報だった。

 

合理性とは、自分が愛するものだけを数字から除外しないことだ。

 

そう信じてきた。

 

だが、父の城に書かれた数字を見ながら、アルベリクは初めて思った。

 

数字にすることでしか直視できないものを、人は本当に理解していると言えるのだろうか。

 

 

ナフル大河の水面は低かった。

 

灌漑管理官ナディア・ビント・ユーヌスは、測量棒の印を見つめた。

 

去年より指二本分低い。

 

一昨年より手のひら一つ分低い。

 

わずかな違いに見える。

 

だが、大河から数百本の水路へ水を分けるナフル流域では、その差が数十万袋の小麦になる。

 

「上流門を閉じろ」

 

ナディアは命じた。

 

水門守が顔を上げた。

 

「完全にですか」

 

「半分」

 

「下流の村から抗議が来ます」

 

「来るでしょうね」

 

「兵を呼びますか」

 

ナディアは水面を見た。

 

朝日が揺れている。

 

ナフル大河は古くから神の慈悲と呼ばれてきた。

 

だが、慈悲は均等には流れない。

 

上流で水を取れば、下流が乾く。

 

首都へ送れば、農村が飢える。

 

農村へ残せば、首都で暴動が起こる。

 

水は常に誰かの命を選ぶ。

 

「兵は呼ばない」

 

ナディアは言った。

 

「門を閉じたあと、私が村へ行く」

 

「危険です」

 

「だから行く」

 

水門守は何か言おうとしたが、遠くから馬の蹄が聞こえた。

 

首都からの使者だった。

 

砂埃にまみれた男が馬を降り、封書を差し出した。

 

「スルタン府からです」

 

ナディアは封を切った。

 

命令は短かった。

 

オルシャで宗派衝突の恐れあり。

 

海上交易が不安定化する可能性。

 

首都備蓄を優先し、ナフル下流の穀物輸送量を増加せよ。

 

ナディアは二度読み返した。

 

「どうしました」

 

水門守が尋ねた。

 

「上流門を」

 

ナディアは言った。

 

言葉が喉に引っかかった。

 

命令に従えば、首都は守られる。

 

だが、この地域の村は乾く。

 

すでに今年の種籾を植えた畑もある。

 

水を止めれば、芽は死ぬ。

 

数か月後ではない。

 

数日のうちに。

 

「閉じるのですか」

 

「……四分の三まで」

 

水門守の顔が青ざめた。

 

「村人が黙っていません」

 

「分かっている」

 

「死者が出ます」

 

「分かっている」

 

「それでも」

 

ナディアは使者の書簡を握りしめた。

 

紙が指の中で歪んだ。

 

遠い聖地の鍵守が殺された。

 

そのために交易が止まるかもしれない。

 

交易が止まるため、首都の備蓄を増やす。

 

首都を守るため、水門を閉じる。

 

水門を閉じるため、名も知らない農民の畑が死ぬ。

 

世界は一つにつながっている。

 

商人や学者は、その言葉を繁栄の証として語る。

 

だがナディアには、それが巨大な首縄のように思えた。

 

どこかで誰かが引けば、遠く離れた人間の喉が締まる。

 

「私が村へ説明する」

 

彼女は言った。

 

「説明すれば、水が戻るのですか」

 

水門守の問いに、答えられなかった。

 

 

夕刻、オルシャの空は赤く染まった。

 

焼けたアル=クドス家の跡から、まだ細い煙が上がっている。

 

マリアムは侯爵館の地下礼拝室へ移されていた。

 

護衛は二人。

 

扉の外にも兵士がいる。

 

安全のためだと言われた。

 

同時に、監視のためでもある。

 

マリアムは一人になると、衣服の内側から銀筒を取り出した。

 

蝋封には紋章がなかった。

 

三つの言語で刻まれた《開封を禁ず》という文字。

 

禁じられている。

 

だからこそ開けなければならない。

 

家族を殺した者が残したものかもしれない。

 

父が守ろうとしたものかもしれない。

 

マリアムは燭台の火で蝋を温めた。

 

封は意外なほど簡単に外れた。

 

中から薄い羊皮紙が出てきた。

 

文字は暗号化されていなかった。

 

西方商人が使う共通書記語。

 

マリアムは読み始めた。

 

最初の数行で、指が震えた。

 

それは宗教文書ではなかった。

 

軍事命令でもない。

 

契約書だった。

 

複数の相手による資金提供契約。

 

署名は記号に置き換えられている。

 

《白冠》

 

《紫帳》

 

《緑月》

 

《四本の矢》

 

《灰の鍵》

 

目的欄には、こう記されていた。

 

《オルシャにおける三宗派の共同統治を終了させ、聖地管理権を再編する》

 

その下に手順が続いている。

 

鍵守一族の排除。

 

三宗派の証拠を現場に残す。

 

聖堂の封鎖。

 

巡礼者への襲撃。

 

報復の誘発。

 

宗派軍の介入。

 

港湾封鎖。

 

軍事介入の正当化。

 

そして最後に、もっとも理解しがたい一文があった。

 

《混乱発生後、ナフル穀物の先物価格を現在値の二倍で固定する》

 

マリアムは何度も読み返した。

 

家族は、聖地を奪うために殺された。

 

だが、それだけではない。

 

誰かが戦争によって穀物価格を上げようとしている。

 

信仰。

 

聖地。

 

鍵。

 

巡礼者の血。

 

そのすべてが、帳簿の数字として並んでいる。

 

怒りより先に、吐き気がこみ上げた。

 

外から足音が聞こえた。

 

マリアムは羊皮紙を銀筒へ戻そうとした。

 

だが、手が震えてうまく入らない。

 

扉が叩かれた。

 

「マリアム殿」

 

ギヨームの声だった。

 

「話がある」

 

彼女は銀筒を石床の隙間へ押し込んだ。

 

「どうぞ」

 

ギヨームが入ってきた。

 

顔には一日の疲労が刻まれている。

 

外套には誰かの血がついていた。

 

「広場の争いは収まりました」

 

彼は言った。

 

「死者は」

 

「十一人」

 

マリアムは目を伏せた。

 

十一人。

 

家族を含めれば、二十人近い。

 

まだ一日も経っていない。

 

「明日、三宗派の代表者会議を開く」

 

ギヨームは続けた。

 

「あなたにも出席してもらう」

 

「私が?」

 

「鍵守の唯一の生存者だ。大聖堂を開ける方法を知る者でもある」

 

「鍵はありません」

 

「だからこそだ。鍵を誰が持っているか、どの扉を封鎖すべきか、あなたの知識が必要になる」

 

マリアムは彼を見た。

 

この男を信用できるだろうか。

 

契約書にある《白冠》は聖座か、騎士団か、西方侯爵か。

 

《紫帳》はアウレリア。

 

《緑月》は南方教主国。

 

《四本の矢》は草原汗国かもしれない。

 

《灰の鍵》は何を意味する。

 

ギヨーム自身が契約に関わっていない保証はない。

 

「侯爵閣下」

 

「何だ」

 

「戦争が始まると思いますか」

 

ギヨームはしばらく黙っていた。

 

「今日までなら、始まらないと答えた」

 

「明日は」

 

「分からない」

 

「正直ですね」

 

「嘘をつく力が残っていない」

 

マリアムは石床の隙間へ目を向けた。

 

「戦争は、誰が始めるのですか」

 

ギヨームは答えた。

 

「誰か一人ではない」

 

「では、誰を止めればいいのです」

 

「全員だ」

 

あまりにも不可能な答えだった。

 

それでも、マリアムは笑わなかった。

 

ギヨームが去ったあと、彼女は再び銀筒を取り出した。

 

契約書の裏面に、先ほど気づかなかった小さな文字があった。

 

日付。

 

灰暦八百七十二年、春分より四十日前。

 

つまり、家族が殺される一か月以上前に作成された契約。

 

そして実行確認の欄には、すでに印が押されていた。

 

《第一段階、完了》

 

その横に、短い指示がある。

 

《第二段階は、鐘が十三度鳴ったとき開始する》

 

マリアムは顔を上げた。

 

今朝の鐘は何度鳴った。

 

瓦礫の下で四度までは数えた。

 

その後は救出され、意識が途切れた。

 

誰にも聞いていない。

 

外へ走ろうとしたとき、遠くで鐘が鳴った。

 

一度。

 

マリアムは立ち止まった。

 

しばらくして、もう一度。

 

夜の礼拝時刻ではない。

 

鐘楼は封鎖されているはずだった。

 

三度目。

 

廊下の兵士が騒ぎ始めた。

 

四度。

 

五度。

 

聖都のあらゆる場所で、人々が空を見上げる。

 

六度。

 

七度。

 

西方街区で扉が閉じられる。

 

八度。

 

七燭派の民兵が武器庫へ走る。

 

九度。

 

啓句派市場の商人たちが天幕を畳む。

 

十度。

 

聖剣騎士団の城塞で角笛が鳴る。

 

十一度。

 

港に停泊していたガレー船が錨を上げる。

 

十二度。

 

マリアムは銀筒を握りしめた。

 

鐘の余韻が、聖都の石壁を震わせる。

 

十三度目の鐘が鳴った。

 

その直後、港の方角から炎が上がった。

 

夜空を焼くほど大きな火だった。

 

誰かが叫んだ。

 

「穀物船が燃えている!」

 

別の声が続いた。

 

「ナフルの船だ!」

 

マリアムは窓へ駆け寄った。

 

蒼環海から届いた小麦を満載した船が、港で燃えていた。

 

炎は隣の船へ移り、帆柱を赤く包んでいく。

 

港湾倉庫の扉が開き、人影が中へ走り込む。

 

略奪が始まっていた。

 

聖都の鐘は止んだ。

 

代わりに、街のいたるところから人々の叫びが響いた。

 

神の名。

 

敵への呪い。

 

火を消せという声。

 

小麦を奪えという声。

 

子供を探す母親の声。

 

武器を取れという兵士の声。

 

マリアムは理解した。

 

鍵守一族の殺害は、始まりですらなかった。

 

誰かが、宗教を燃料にしようとしている。

 

飢えを風にしようとしている。

 

そして、オルシャという街全体を火種として、世界へ投げ込もうとしている。

 

彼女は銀筒を胸に押し当てた。

 

父の最後の言葉が蘇る。

 

鍵を守れ。

 

失われた大聖堂の鍵ではない。

 

この文書こそが、父の守ろうとした鍵だったのかもしれない。

 

戦争を始める鍵。

 

あるいは、止める鍵。

 

窓の外で、ナフルの小麦が燃えていた。

 

同じ炎を、遠く離れたヴァルネリアの作戦参謀はまだ知らない。

 

ナフル大河の水門を閉じた女も知らない。

 

アウレリアの皇女も、草原の王子も、セレスタの銀行家も知らない。

 

だが、その火の代価を支払うのは彼らだった。

 

王冠を戴く者も。

 

剣を握る者も。

 

畑を耕す者も。

 

ただパンを食べたいと願う者も。

 

誰一人、無関係ではいられない。

 

灰暦八百七十二年、春。

 

後世の年代記が「灰冠戦争」の始まりと記す夜、オルシャの港で最初の穀物船が燃え落ちた。

 

その炎の前で、一人の鍵守の娘が、世界を敵に回す決意を固めていた。

 

 

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