第1編「砂の風、血の匂い」
【1】境界線の朝
夜明けはまだ訪れていなかった。
ザルツ辺境伯領――王国最南東端。
その空は、黒とも青ともつかぬ鈍色に沈み、地平線の彼方だけがかすかに白んでいる。
風が吹いていた。
乾いた風だった。
それはこの地では珍しくない。だが今朝の風には、明確な異物が混じっている。
塩気、砂、そして――甘く、鼻に残る刺激。
香料。
アルベリク・フォン・ライナーは城壁の上でその匂いを吸い込んだ。
「……来ているな」
呟きは風にさらわれた。
彼の隣には、老騎士ヴォルフラム・シュタインが立っている。
鎧の隙間から覗く筋肉は、歳を重ねてもなお衰えを知らない。
「南風だ」
ヴォルフラムは短く言った。
「帝国側が動くときの風だ」
アルベリクは応じない。
視線は遥か南方――見えもしない砂漠の向こうに向けられていた。
「商隊か、斥候か」
老騎士が続ける。
「どちらでも同じだ」
アルベリクはようやく口を開いた。
「いずれにせよ、戦争の一部だ」
その言葉には温度がなかった。
【2】地図の上の戦争
辺境伯城、作戦室。
石壁に囲まれた薄暗い室内には、巨大な地図が広げられている。
羊皮紙の上に描かれた線は、単なる境界ではない。
血の流れだ。
「ここだ」
アルベリクは指を置いた。
アッシェン峠。
王国と帝国を隔てる山岳地帯の中で、唯一大規模な軍が通れる道。
「もし俺が帝国側なら、ここを押さえる」
「正面から来るか?」
ヴォルフラムが問う。
「来ない」
即答だった。
「来るなら、もう来ている。
帝国はそんなに愚かじゃない」
アルベリクの指が滑る。
峠から西へ、さらに南へ。
「問題はここだ。交易路」
細く引かれた線。
それは地図上では頼りないが、現実では国家を支える大動脈だ。
「香料はここを通る」
「だから奪いたい」
「違う」
アルベリクは首を振った。
「奪うのではない。支配する」
彼は視線を上げた。
「奪えば、戦争になる。
支配すれば、戦争は終わらない」
ヴォルフラムは黙った。
それが何を意味するか、理解していたからだ。
【3】兵士たちの現実
城壁の下では、兵士たちが朝の準備をしている。
鎧の擦れる音。
鍋の中で煮える薄い粥。
誰かの咳。
カスパー・グリューネヴァルトは地面に唾を吐いた。
「クソみてぇな飯だ」
「贅沢言うなよ、隊長」
若い兵が笑う。
「昨日よりマシだ」
「昨日は腐ってただろうが」
笑いが起きる。
だが、それは長く続かない。
「……なあ」
別の兵が声を潜める。
「本当に来るのか?」
誰も答えない。
その沈黙が、答えだった。
カスパーは鼻を鳴らした。
「来るに決まってる」
「なんで分かる?」
「簡単だ」
彼は空を見上げた。
「俺たちがここにいるからだ」
【4】砂の向こう側
同時刻。
帝国領、ハリーフ州。
砂が風に舞う。
それはこの地では日常だ。
だが、その中を進む一団は日常ではない。
サイード・アル=ラシードは馬上で目を細めた。
「風向きが変わった」
隣を走るザフラが笑う。
「いい風よ。匂いがする」
「何の?」
「戦いの」
サイードは何も言わなかった。
彼の視線は北西――王国側に向けられている。
「報告」
後方から声が飛ぶ。
「王国側、動きあり。斥候三隊」
「規模」
「百から二百」
サイードは短く息を吐いた。
「少ないな」
「様子見でしょう」
ザフラが肩をすくめる。
「あるいは――誘い」
サイードは頷いた。
「どちらでもいい」
彼は手綱を引いた。
「こちらも動く」
砂煙が上がる。
戦争は、静かに始まろうとしていた。
【5】金の流れ
その頃、海の向こう。
自由都市マレンシア。
マルコ・ヴァレンティはグラスを傾けていた。
「戦争か」
彼は笑う。
「結構なことだ」
向かいには、リーゼロッテ・エーデルが座っている。
「楽しそうですね」
「実際、楽しい」
マルコは肩をすくめた。
「物資は売れる。情報は高くなる。命の値段も跳ね上がる」
リーゼロッテは微笑む。
「では、どちらに賭けます?」
「賭けないさ」
彼は即答した。
「両方に売る」
一瞬の沈黙。
そして、二人は同時に笑った。
【6】開戦前夜
ザルツ辺境。
夜。
篝火が揺れている。
アルベリクは一人、城壁の上に立っていた。
風はまだ吹いている。
南から。
「眠らないのか」
ヴォルフラムが現れる。
「眠れません」
「初陣か」
「いえ」
アルベリクは首を振った。
「初めてではありません」
「なら何だ」
しばしの沈黙。
やがて彼は言った。
「確信しているんです」
「何を」
「これは前哨戦だと」
風が強くなる。
「本隊が来る」
アルベリクの声は静かだった。
「もっと大きな戦争が始まる」
ヴォルフラムは空を見上げた。
星は見えない。
雲に覆われている。
「……雨になるな」
「いいえ」
アルベリクは答えた。
「血になります」