ナフル川は、国境を知らない。
山岳地帯の雪解け水を集め、赤い岩の峡谷を抜け、砂漠を裂き、泥の平野へ広がる。
上流では細く速い。
中流では石を削る。
下流では何本もの水路へ分かれ、小麦、豆、葦、果樹園を育てる。
最後には蒼環海へ注ぐ。
川は王の名を知らない。
神学論争も知らない。
税率も、軍令も、交易契約も知らない。
人間がどれほど争っても、水は低い場所へ流れる。
だから人間は、水より高い場所から命令を出そうとする。
堰を築く。
門を閉じる。
水路を掘る。
帳簿へ数字を書く。
この村へ三割。
あの村へ一割。
軍営へ二割。
王都へ。
港へ。
外国輸出用の小麦畑へ。
川は平等に流れる。
人間は平等に分けられない。
---
## 一
ナディア・ビント・ユーヌスは、三百七十二の村名を前にしていた。
水利庁南部支局。
泥煉瓦の壁。
窓は細い。
昼の熱を防ぐため、外光はほとんど入らない。
室内には、三つの大地図。
ナフル川本流。
東灌漑区。
西灌漑区。
水路は青い線。
堰は黒。
村は赤い点。
救済対象は緑。
制限対象は黄。
給水停止予定は灰。
地図の半分が灰色だった。
「もう一度、読み上げます」
若い書記サミールが言った。
声がかすれている。
朝から同じ作業。
「第一級優先。飲料水および最低限の種子用水を保証。百二十一村」
「続けて」
「第二級優先。飲料水を保証。農業用水は平年の三割。百五十六村」
「第三級」
サミールは一瞬、紙を見たまま黙った。
「飲料水のみ、週二回配水。農業用水停止。九十五村」
九十五。
人口合計、八万七千人。
家畜十二万頭以上。
小麦畑。
豆畑。
果樹園。
今年の収穫を失う。
来年の種も減る。
「第三級のうち、代替井戸がある村は」
「二十七」
「枯れた井戸は」
「十九」
「残る四十九は」
「給水車を送る必要があります」
「何台」
「毎日、最低百四十台」
「支局保有は」
「三十二」
「軍から借りられるのは」
「昨日の返答では十六」
「合計四十八」
「はい」
必要百四十。
用意できる四十八。
数字は正直だった。
だから残酷だった。
「給水車を三日に一度へ」
ナディアが言った。
サミールが顔を上げる。
「飲料水が」
「村ごとに貯水壺を準備させる」
「壺を買えない家が」
「共同貯水所」
「日中の蒸発が」
「覆いを」
「布が不足」
「葦」
「家畜飼料に使っています」
一つを選べば別が減る。
水だけではない。
壺。
布。
葦。
荷車。
牛。
人。
「計算します」
サミールが言った。
「三日に一度なら、百四十四台相当を四十八台で回せます」
「街道が使えれば」
「はい」
「盗賊と軍の徴発がなければ」
「はい」
「車輪が壊れなければ」
「はい」
帳簿の上では届く。
現実には届かない。
「給水車ごとに村側の責任者を決めてください」
ナディアは言った。
「誰が受け取ったか。量。到着時刻。欠損。すべて記録」
「記録すれば水が増えますか」
サミールの声には疲労があった。
反抗ではない。
絶望。
ナディアは彼を責めなかった。
「増えません」
「では」
「消えた水が、どこへ行ったか分かります」
「分かっても戻らない」
「次の車を止められます」
「止められた村は」
「別の村へ行きます」
サミールは視線を落とした。
誰かの盗みを見つける。
その罰として、次の水を止める。
盗んだのが村長でも、渇くのは子供。
「第三級の一覧を、今日中に各村へ送ります」
ナディアが言った。
「村人が支局へ押しかけます」
「でしょうね」
「兵を呼びますか」
「呼びません」
「暴動になれば」
「水を求めて来た人へ槍を向ければ、暴動になります」
「では警備は」
「扉を開けます」
サミールが彼女を見る。
「全員と話すのですか」
「代表だけ」
「九十五村」
「日程を分ける」
「時間がありません」
「水もありません」
ナディアは地図へ手を置いた。
「だから、秘密にしない」
救われる村。
見捨てられる村。
先に知らされる。
怒りは来る。
だが、知らされないまま水門が閉じられるよりは。
「アブドゥル・ラーマンの村は」
サミールが尋ねた。
ナディアの手が止まる。
水利組合長。
老人。
父の古い友人。
南灌漑区の村カスル・アイン。
「第一級です」
「隣のアル=ハディド村は第三級」
「はい」
「水路は同じです」
「上流で分岐します」
「カスル・アインを第一級へすれば、アル=ハディドは」
「さらに減る」
「アブドゥル・ラーマンが殿下の知人だからと」
サミールは言い終える前に口を閉じた。
殿下ではない。
ナディアは王族ではない。
だが水利庁官僚として、村人からは支配者に近く見える。
「続きを」
「失礼しました」
「言ってください」
「縁故だと疑われます」
「疑われるでしょう」
「実際は」
「カスル・アインには、南部最大の共同井戸と種子倉庫がある。周辺五村へ種を供給できる」
「アル=ハディドには」
「軍用街道の石橋」
「なら軍事優先で第二級では」
「橋は水を飲みません」
「兵は」
「軍営用水は本流から別に取る」
「軍が村の井戸を使えば」
「命令で禁止」
サミールが苦い顔をする。
命令で兵士の喉は乾かない。
「一覧に理由を書きます」
ナディアが言った。
「各村ごと?」
「短く」
「百九十五以上」
「三百七十二すべて」
「救う村にも?」
「はい」
救われる理由。
見捨てられる理由。
どちらも記録する。
「私の署名で出してください」
責任者。
水を分けた者の名。
隠さない。
---
## 二
ナフル王都サハラームでは、スルタン・バイバルス三世が反乱計画を読んでいた。
計画書の表紙には、反乱という言葉はない。
《王国救済軍再編案》
総指揮候補。
カリム・イブン=サリーム将軍。
バイバルスの幼なじみ。
若い頃、同じ軍学校。
同じ戦場。
一度、バイバルスの命を救った。
一度、バイバルスがカリムの弟を救えなかった。
友情と負債が、長く残っている。
計画書の内容。
王都の穀物輸出停止。
外国商人の倉庫接収。
水利庁の軍管理。
王族会議の解散。
スルタンの退位ではない。
《非常時の休養》
代わって救済軍評議会が統治。
カリムが議長。
「反乱ではないと?」
バイバルスが尋ねた。
前に立つ情報官。
「本人は、陛下を守るためと」
「皆そう言う」
軍務卿。
副提督。
王のため。
国のため。
人間は王を倒す前に、王を守ると宣言する。
「支持者は」
「首都守備軍の四割。穀物局の一部。南部騎兵軍団。宗教法官七名」
「水利庁は」
「中央庁幹部二名」
「ナディアは」
「関与なし」
「確認は」
「彼女の書簡と帳簿を監視」
バイバルスの目が細くなる。
「誰の命令で」
情報官は答えに詰まる。
「反乱調査の一環です」
「私の許可なく官僚の私信を?」
「緊急権限で」
「誰の緊急権限だ」
「情報局長」
「情報局長は、救済軍案へ署名している」
部屋の空気が冷える。
情報局そのものが割れている。
いま報告している男も、どちら側か分からない。
「退出しろ」
情報官が去る。
扉が閉まる。
室内に残るのは、バイバルスと宰相ハリール。
老いた文官。
若い頃から王家へ仕えた。
「陛下」
「カリムを呼ぶ」
「王宮へ?」
「一人で」
「来ません」
「来させる」
「拘束を」
「しない」
「反乱計画です」
「本人の口から聞く」
「その間に兵が」
「拘束すれば今夜動く」
「呼び出しても」
「来れば、まだ話す気がある」
「来なければ」
「反乱だ」
宰相は計画書をめくる。
「水利庁の軍管理」
「カリムは、水を兵站としか見ない」
「水がなければ軍も民も」
「だから軍が優先すると考える」
「陛下は」
「違うと考えたい」
「実際は」
バイバルスは窓の外を見る。
王都の噴水は止められている。
宮殿庭園も。
水不足を示すため。
だが王宮地下には貯水槽。
一般市民より安全。
「軍へ水を与えなければ、反乱が起きる」
「与えれば村が渇く」
「輸出を止めれば、アウレリアとオルシャが飢える」
「続ければ国内が」
すべてを救えない。
王の仕事。
決める。
責任。
「灰冠会議の提案は」
宰相が別の文書を出す。
《ナフル水利再建債券》
利率。
返済期間。
担保。
将来の灌漑税。
港湾小麦輸出税。
水門管理権の一部。
出資者。
セレスタ銀行連合。
黒帳商会。
複数の慈善基金。
灰冠関連名義も。
「資金で、上流貯水池と給水車を増やせる」
宰相が言う。
「いつ完成」
「第一期一年」
「今年の水は」
「給水車二百台を即時購入」
「どこから」
「アウレリア、セレスタ」
「戦争中の海路で」
「護衛込み」
「護衛費も借金」
「はい」
「担保は水門」
「管理権の一部です」
「十五年」
「はい」
バイバルスは笑わなかった。
ヴァルネリアの軍港。
オルシャの港。
同じ。
今度は水。
「断る」
「代案は」
「王家財宝を売る」
「足りません」
「寺院寄進を借りる」
「宗教反発」
「穀物輸出税を前倒し」
「輸出量が減る」
「では何がある」
宰相は答えない。
灰冠の提案は、必要だから強い。
悪い条件。
だが、ほかに金がない。
「債券を完全には断れません」
ハリールが言った。
「言ったばかりだ」
「陛下は断ると。私は不可能と」
「なら受けろと?」
「条件を変える」
「相手が受けるか」
「複数へ分ける。水門管理権は渡さない。税収担保も上限を。帳簿公開」
「利率が上がる」
「自由の値段です」
バイバルスは文書を見る。
自由。
借金。
飢え。
「カリムは、これを口実にする」
「外国商人へ水を売るスルタンと」
「実際、売ることになる」
「だから公開して売る」
宰相が言う。
「隠して売るよりは」
世界中が同じ答えへ。
遅く。
公開。
監視。
だがナフルの喉は、議論を待たない。
---
## 三
カスル・アイン村では、アブドゥル・ラーマンが井戸の水面を見ていた。
去年より腕二本分低い。
共同井戸は深い。
古代王朝の石組み。
百人で掘ったと伝えられる。
実際には、何世代もかけて深くした。
水面の下降は、村の老人には年月の減少に見えた。
「第一級です」
水利庁の使者が言った。
「飲料水と種子用水を保証」
村人から安堵。
すぐ隣で、アル=ハディド村の代表が紙を破った。
「我々は第三級だ!」
「決定理由は書かれています」
使者が言う。
「理由で喉が潤うか!」
「週二回の給水車を」
「三日に一度だ!」
「変更されました」
「百四十台必要なのに四十八台。届くと思うか!」
情報が早い。
支局内の数字が村へ漏れている。
漏れたのか。
公開されたのか。
区別はない。
「カスル・アインはなぜ第一級だ!」
アル=ハディド代表がアブドゥル・ラーマンへ向く。
「ナディアと知り合いだからか!」
村人がざわめく。
老人は使者の紙を受け取る。
理由。
《共同井戸、種子倉庫、周辺配給拠点として維持》
「書いてある」
「お前たちの種を守るため、我々の畑を殺す?」
「種は周辺へ」
「来年、我々へ本当に渡すか!」
「渡す」
「お前が死んだら?」
アブドゥル・ラーマンは答えに詰まる。
自分の約束。
制度ではない。
「水利庁の封印で記録を」
使者が言う。
「水利庁が来年まで残れば」
灰冠。
反乱。
軍。
何も確実ではない。
アル=ハディドの若者が叫ぶ。
「水路を開ける!」
「やめろ」
アブドゥル・ラーマンが止める。
「上流門は閉じられた」
「壊す」
「兵が来る」
「水なしで死ぬか、兵に殺されるか」
「水路を壊せば、カスル・アインも」
「だから分けろ!」
「分ければ両方足りない」
老人の言葉。
水利庁と同じ。
数字。
村人は怒る。
「お前は役人になったのか!」
アブドゥル・ラーマンは、ナディアへ配水記録を送った。
村を救う案へ協力した。
その結果、隣村が第三級。
自分も水を分けた者の一人。
「共同井戸を開く」
老人は言った。
カスル・アイン村人が驚く。
「他村へ?」
「飲料水だけ」
「我々の井戸が枯れる!」
「一日一人壺一つ」
「何人来る」
「アル=ハディドから、まず子供と老人」
「水利庁の割当を超えます」
使者が言う。
「村の井戸は村のものだ」
「第一級指定は種子用水を維持する条件で」
「種を守って人が死ぬのか」
「人を救って種が死ねば来年」
「分かっている!」
老人が怒鳴る。
静かになる。
彼も分かっている。
今日の水。
来年の種。
どちらも命。
「井戸を開く」
もう一度。
「ただし記録する。誰が何壺。カスル・アインの分も減らす」
「村人が反対します」
「いま反対している」
若者たち。
家族。
井戸。
「多数決を」
誰かが言う。
老人は首を振る。
「水を持つ側だけで決めれば、持たない側は必ず負ける」
「では誰が」
「私が決める」
権力。
責任。
一人の老人。
ナディアを批判しながら、同じことをする。
「間違っていたら」
アル=ハディド代表が尋ねる。
「私の名を覚えろ」
「水は戻らない」
「戻らない」
「それで終わりか」
「終わらない」
老人は井戸を見る。
「来年まで生きて、私を責めろ」
---
## 四
カリム将軍は、王宮へ来た。
一人ではなかった。
護衛百。
王宮外へ待機。
本人だけが入る。
「反乱者が、よく来た」
バイバルスが言った。
謁見室。
玉座は使わない。
若い頃に二人で地図を広げた軍議室。
昔と同じ机。
違うのは、片方がスルタンになったこと。
カリムは髭に白いもの。
右脚を引きずる。
北方戦争の傷。
「反乱ではない」
「書類にそう書いてある」
「陛下を退位させない」
「休養させる?」
「一時的に」
「私の許可なく」
「陛下は決められない」
「何を」
「水。穀物。輸出。軍。全部、会議と監査」
「それが統治だ」
「遅い」
「早く決めると?」
「穀物輸出停止。軍用水優先。外国倉庫接収。灰冠債務拒否」
「明快だ」
「必要だ」
「その結果、オルシャとアウレリアは」
「我が民ではない」
「彼らが飢えれば、兵が南へ」
「国境で止める」
「軍へ水を与え、村を枯らし、その村人を徴兵する?」
「国が残れば再建できる」
「村人が残らなければ」
カリムが机へ拳。
「陛下は外国人の腹を気にしすぎる!」
「ナフルの小麦で、外国の銀を得ている」
「今年は売るな」
「来年、種と鉄と船具を何で買う」
「王家財宝」
「一年分もない」
「寺院」
「内乱になる」
「すでに内乱寸前だ!」
二人の声。
昔の軍議。
同じように争った。
当時は最後に上官が決めた。
いま上官はいない。
「お前の計画に、灰冠の資金が入っている」
バイバルスが言った。
カリムの顔が変わる。
「何を」
「救済軍の給金。南部騎兵団へ、黒帳経由の銀」
「寄付だ」
「誰から」
「国内商人」
「名義は《緑月兵士遺族会》」
「遺族会は昔から」
「オルシャの保険金受取口座と同じ」
カリムは沈黙。
「知らなかった?」
「軍人遺族へ金を」
「だから受け取った」
「遺族を飢えさせろと?」
「私も同じ債券を受けようとしている」
将軍がスルタンを見る。
「では陛下も」
「違いは公開することだけかもしれない」
「それで清くなる?」
「ならない」
「では何が」
「誰が金を出し、何を担保にするか、民が知る」
「民が理解するか」
「理解できないから隠す?」
「水利債券の条項を農民が読むのか」
「読める者が読む。朗読する。反対できる」
「反対して水が増える?」
同じ問い。
「増えない」
「なら軍が決める」
「軍も水を増やせない」
「奪える」
「誰から」
「商人。外国倉庫。大地主」
「次に村から」
「必要なら」
「それが反乱の答えか」
「国を救う」
カリムの目は本気だった。
権力欲だけではない。
軍人として、崩壊を恐れている。
「お前の弟を救えなかった」
バイバルスが言った。
突然。
カリムの顔が硬くなる。
「いま話すことか」
「あのとき、私は後衛を捨てて本隊を救った」
弟は後衛。
死んだ。
「正しい判断だった」
カリムが言う。
「お前はそう言った」
「今も」
「だから、村を捨てるのか」
「軍を残せば国を救える」
「弟を捨てた私の判断を、国の制度にする?」
カリムが立ち上がる。
「陛下は、私の弟を盾にするのか!」
「違う!」
バイバルスも。
「私は、あの判断を毎晩思い出す! お前は正しかったと言う。私は分からない!」
「将軍は分からなくても決める!」
「王もだ!」
二人の間に、若い日の戦場。
砂。
敗走。
弟。
「だから、私一人で決めない」
バイバルスが言った。
「臆病だ」
「そうかもしれない」
「民は強い王を求める」
「強い将軍も」
「私は冠を望まない」
「水門を握れば、冠より強い」
カリムは息を整える。
「陛下。三日ください」
「何のため」
「南部軍を王都へ入れない。代わりに、穀物輸出を七日停止。軍用水を確保。水利債券を拒否」
「三つ全部は」
「拒めば」
「反乱する?」
「軍を止められない」
「自分の軍を?」
「兵は家族が渇いている」
脅迫。
同時に真実。
「七日停止」
バイバルスが言う。
「穀物輸出を?」
「半量」
「全部」
「半量。国内市場へ残り半量」
「軍用水」
「現在割当を維持。追加なし」
「債券」
「三日間、署名しない。条件を公開交渉」
カリムが首を振る。
「足りない」
「私も足りない」
「陛下」
「お前を拘束しない。お前も兵を動かすな」
「三日」
「三日」
灰冠が好む期限。
それでも、戦争を避けるための三日にもできる。
「裏切れば」
カリムが言う。
「お互いに?」
「はい」
「昔から変わらないな」
「昔は、上官がいた」
「今は」
「川だけだ」
二人は合意書へ署名した。
スルタン。
将軍。
互いに信用しない。
だから書く。
---
## 五
水利庁南部支局の扉は、夜明け前から叩かれていた。
村代表。
九十五村。
一日では入れない。
ナディアは一村二名と決めた。
それでも百九十人。
支局の中庭。
日除け布。
水壺。
配る水も制限。
怒りを聞く場で、水を配りすぎれば別の村の分が減る。
最初はアル=ハディド村。
代表二名。
一人は若い農民サーレフ。
もう一人は老婆ファーティマ。
「第三級を取り消せ」
サーレフが言った。
「できません」
「話を聞く前に?」
「数字は変わっていません」
「では、なぜ呼んだ」
「理由を説明し、代案を聞くため」
「第一級にしろ」
「それは代案ではありません」
「我々にとっては」
ファーティマが口を開く。
「水利官殿」
「ナディアでよいです」
「私は六十年、同じ畑を耕した」
「はい」
「今年、水がない。畑は死ぬ」
「はい」
「息子二人は軍。孫は五人」
「記録にあります」
「記録で孫へ水を?」
「できません」
「では、何を聞きたい」
ナディアは地図を広げる。
「アル=ハディドの東に、旧井戸があります」
「塩水だ」
「深く掘れば淡水層へ届く可能性」
「誰が掘る」
「水利庁から技師二名。村から労働百人」
「道具は」
「支給」
「いつ」
「十日後」
「十日、水なしで?」
「カスル・アイン井戸を共同利用」
二人の顔が変わる。
「アブドゥル・ラーマンが?」
「開放を決めました」
「水利庁命令?」
「村の決定です」
「見返りは」
「来年の種子を共同管理」
「我々の土地を取る?」
「違います」
「書面に」
「作ります」
ファーティマがナディアを見る。
「我々は第三級のまま?」
「はい」
「でも水は」
「最低限」
「一覧は変えない?」
「変えません」
「なぜ」
「井戸が掘れる保証はないから」
正直。
希望を確約しない。
老婆は怒らなかった。
疲れた顔。
「孫の一人を、技師の手伝いへ」
「名を」
「ヤシン」
「記録します」
次の村。
次。
次。
怒鳴る者。
泣く者。
賄賂を置く者。
脅す者。
膝をつく者。
「娘を差し上げます」
一人の村長が言った。
ナディアの顔が硬くなる。
「連れて帰ってください」
「では銀を」
「帰って」
「村が死ぬ!」
「だから娘を売る?」
「生きれば」
「その娘は」
村長が泣く。
自分でも分かっている。
「賄賂の申し出も記録します」
ナディアが言う。
男が顔を上げる。
「罪に?」
「処罰は求めません」
「ではなぜ」
「次に、あなたが水を買ったと誰かが言わないため」
記録は罰ではない。
保護にもなる。
だが男の恥も残る。
「娘の名は書かない」
ナディアは付け加えた。
男は深く頭を下げた。
---
夕方。
アブドゥル・ラーマンが支局へ来た。
老人の衣は井戸水で濡れている。
「開けたそうですね」
ナディアが言う。
「飲料水だけ」
「第一級条件に違反します」
「知っている」
「種子倉庫が危険です」
「人が先だ」
「来年、周辺五村が」
「分かっている」
「なら」
「お前も分かっているだろう」
二人。
父娘のような関係。
実際には違う。
「私が第一級へしたため、あなたが隣村へ水を」
「そうだ」
「なら、私の計画は」
「間違いではない」
「でも条件を壊した」
「正しい計画が、人を殺すこともある」
「では何を」
「修正する」
「水は増えません」
「井戸を掘ると聞いた」
「成功する保証は」
「ない」
「種子を減らし、井戸も出なければ」
「皆で飢える」
「それを選んだ?」
「一人で決めた」
老人が苦く笑う。
「お前を責めていたのに、同じことをした」
「村人は」
「半分が怒っている」
「罷免を」
「求めている」
「辞める?」
「井戸を掘り終えるまでは」
「権力へしがみつくと言われます」
「言わせろ」
ナディアは老人を見る。
「あなたの名を計画へ入れます」
「何の」
「共同井戸開放の責任者」
「英雄のように?」
「違反者としても」
老人が笑う。
「それでよい」
---
## 六
灰冠会議の水利債券交渉は、王都中央市場の公開壇で行われた。
異例。
通常、国家融資は宮殿の密室。
今回は市場。
傍聴。
書記。
宗教法官。
商人。
水利技師。
軍代表。
農村代表。
灰冠側の代理人は、黒帳商会の南方代理人イスハーク・ベン=ダウド。
刻印民。
四十代。
丁寧な声。
灰色の外套は着ていない。
「私は灰冠会議の構成員ではありません」
最初に言った。
「債券販売の仲介人です」
「違いは」
市場から声。
「帳簿で証明します」
黒帳商会自身も疑われている。
だから帳簿を持参。
融資元。
セレスタ銀行六行。
アウレリア商会二つ。
聖座慈善基金。
ナフル国内商人。
灰冠関連と確認済みの資金は全体の二割。
「二割を除け」
バイバルスが言った。
壇上。
王冠なし。
軍衣。
「除けば給水車は百二十台から八十台へ」
「それでよい」
「一部村へ届きません」
「灰冠の水門管理権は渡さない」
イスハークが書類を開く。
「管理権条項は削除できます」
市場がざわめく。
簡単に。
「代わりに利率を一・五倍」
宰相が顔をしかめる。
「高すぎる」
「担保が減るためです」
「港湾小麦税の上限を」
「年間収入の三割」
「一割」
「二割五分」
「一割五分」
交渉。
数字。
市場の民衆には退屈。
だが自分たちの未来。
「十五年」
バイバルスが言う。
「二十年」
「十二年」
「十八年」
「十五年」
「利率を」
「現行の一・二倍」
「一・四」
「一・二五」
「一・三」
「一・二五、支払遅延時のみ一・三」
イスハークが考える。
「受けます」
早い。
「なぜ」
バイバルスが尋ねる。
「公開市場では、信用が利益になります」
「灰冠の利益にも」
「はい」
正直。
「我々がこの債券を売れば、灰冠関連資金も利子を得る」
「二割除外と」
「名義を変えて入る可能性」
「完全には防げません」
「では」
「毎月、実所有者一覧を公開。違反が見つかれば、その債券を無利子国債へ転換」
「投資家が嫌がる」
「だから実体を隠さない者だけ残る」
イスハークが少し笑う。
「陛下は、借りる側でありながら条件が厳しい」
「水門を取られるよりは」
軍代表が手を上げる。
カリムの副官。
「給水車の配分は誰が決める」
「水利庁」
「軍管理では」
「しない」
「軍営が優先されなければ国境が」
「軍用水は別枠」
「足りない」
「民間水を奪わない」
「兵が渇けば」
「井戸を掘れ」
「時間が」
「だから給水車八十台のうち十五台を軍へ」
「三十」
「二十」
「二十五」
ナディアの代理人が立つ。
「軍へ二十。残り六十を第三級村へ」
「王都は」
都市代表。
「王都配水は既存車で」
「故障が多い」
「修理費を別債券へ」
市場から笑い。
借金が借金を生む。
イスハークは笑わない。
「可能です」
「冗談だ!」
誰かが叫ぶ。
「商人は冗談も利子にする!」
騒ぎ。
バイバルスが手を上げる。
「給水車債券は一回限り。追加借款は三者同意」
「三者?」
「王室、水利庁、公開傍聴団から選ばれた監査評議会」
「民衆が国家債務へ」
宗教法官が反発。
「返すのは民だ」
バイバルスが言う。
「なら見る権利がある」
カリム派から不満。
商人から不満。
王族から不満。
だから、ある程度公平なのかもしれない。
債券は承認された。
全員が満足しない形で。
---
## 七
公開交渉の夜、王都南門で火が上がった。
軍用給水車の集積所。
新規購入前。
既存車四十八台のうち、二十台が置かれている。
火矢。
油。
一台。
二台。
三台。
乾いた木。
火が速い。
守備兵が消火。
同時に、南部騎兵軍団が王都へ進軍しているとの報告。
三日の停戦合意。
まだ一日目。
「カリムが破った?」
宰相が言う。
バイバルスは軍装を着る。
「本人へ使者」
「時間が」
「兵は門を閉じる」
「閉じれば反乱軍と」
「閉じなければ王宮へ」
情報が錯綜。
南門守備隊から。
進軍騎兵は二千。
旗は救済軍。
しかし先頭にカリムはいない。
副将ファリド。
カリムの部下。
「命令書は」
「カリム将軍印」
「本物か」
「不明」
灰冠。
偽造。
あるいは本物。
バイバルスは南門へ。
王が門へ立つ。
群衆。
火。
軍。
「門を閉じろ!」
鉄門。
南部騎兵が外へ到着。
ファリド副将が叫ぶ。
「王都の水を外国商人へ売ったスルタンを拘束する!」
「カリムの命令か!」
バイバルスが城壁上から問う。
「救済軍評議会の命令!」
「将軍本人は」
「総意だ!」
カリムを飛び越えた。
将軍が兵を完全には支配していない。
あるいは、裏から命じた。
「三日合意を破るのか」
「陛下が灰冠債券へ署名した!」
「公開条件で」
「売国に公開も秘密もない!」
騎兵から歓声。
城壁上の王都守備兵も、同意する者がいる。
家族。
水。
外国債務。
「給水車を燃やしたのは」
「灰冠の仕業だ!」
「お前たちの火矢が」
「我々が来る前だ!」
本当かもしれない。
火災は進軍より早い。
誰かが給水車を燃やし、救済軍へ罪を着せる。
同時に進軍を促す。
灰冠の典型。
「カリム将軍本人を呼べ!」
「将軍は拘束された!」
城壁上がざわめく。
「誰に」
「スルタンの刺客に!」
バイバルスの顔が変わる。
「命じていない!」
「誰が信じる!」
カリムが行方不明。
王都情報局。
軍内強硬派。
灰冠。
誰が。
「南門を開けろ!」
ファリドが命じる。
「王都を救う!」
「開けない!」
「なら攻める!」
弓兵。
城壁。
内戦。
その瞬間、騎兵隊の後方から一騎。
白い布。
馬が倒れそう。
乗り手。
カリム。
血。
肩に矢。
「止めろ!」
将軍が叫ぶ。
自軍へ。
「攻撃するな!」
ファリドが振り返る。
「将軍!」
「誰が進軍を命じた!」
「将軍印の命令書!」
「私は出していない!」
偽造。
カリムは馬から落ちる。
兵が支える。
「陛下!」
城壁へ。
「私の幕舎が襲われた! 情報局の兵だ!」
バイバルスは門を開けるか迷う。
カリム本人。
負傷。
罠。
「小門だけ」
宰相が言う。
「将軍一人」
「兵が反発」
「だから」
小門。
カリムと医師二名。
ファリドは外に残る。
「将軍を人質に!」
兵が叫ぶ。
カリムが振り返る。
「命令だ! 弓を下ろせ!」
兵が従う。
完全ではない。
それでも。
城内。
医師。
矢を抜く。
命に別状なし。
「誰が」
バイバルスが尋ねる。
「情報局長」
「やはり」
「救済軍案へ署名した男だ」
「お前の仲間」
「灰冠の金を受けていた」
「証拠は」
カリムが血まみれの帳面を出す。
情報局長の秘密口座。
進軍命令の準備。
給水車火災。
王都守備兵買収。
「私を殺し、殉教者にするつもりだった」
「お前の名で反乱」
「成功すれば、将軍は死んでいる方が扱いやすい」
軍務卿暗殺と同じ。
和解しかけた者を殺し、支持者を戦争へ。
「三日合意は」
バイバルスが尋ねる。
カリムは苦しそうに笑う。
「まだ二日ある」
「続ける?」
「兵を門外へ置いたまま?」
「戻せば、私が売ったと思われる」
「入れれば王都が」
「共同宿営地を」
宰相が言う。
「門外の河原。王都守備と南部軍を同数。水は別配給。武器は陣地内」
「監視し合う」
「はい」
カリムが頷く。
「ファリドを入れない」
「なぜ」
「進軍した」
「偽命令で」
「それでも、確認せず動いた」
「処罰は」
「軍法会議」
「即時では」
「即時処刑すれば、兵が立つ」
遅くする。
また。
---
## 八
給水車火災で、十二台が全焼した。
四台が修理不能。
残る四台は車輪損傷。
実働三十二台から十六台へ。
債券で購入する八十台は、最短でも二十日後。
第三級村への給水計画は初日から崩れた。
ナディアは、新しい一覧を作らなければならない。
「給水頻度を五日に一度」
サミールが言う。
「死者が出ます」
「三日に一度は不可能」
「軍の二十台を回す」
「王都から許可が」
「求める」
「カリム派が反対」
「求める」
「それでも十六台足りない」
「民間荷車へ水槽を」
「漏れます」
「内側に瀝青」
「西港火災で瀝青価格が」
世界がつながる。
ヴァルネリアの港火災。
船具不足。
瀝青価格。
ナフルの給水車改造費。
遠い戦争が、水を運ぶ樽へ影響する。
「陶器の大壺」
ナディアが言う。
「重い」
「荷車一台に四つ」
「輸送量が半分」
「漏れるより」
「陶工街の生産は」
「王都へ照会」
サミールは筆を動かす。
「救済村をさらに減らしますか」
ナディアは地図を見る。
灰色の点。
増やす。
どの村。
「第二級から三村を第三級へ」
「どこ」
喉が詰まる。
「東灌漑区のハラーム、ビルケト、サファ」
「人口合計一万二千」
「井戸がある」
「二つは塩化が進んでいます」
「それでも」
「カスル・アインを第二級へ下げれば」
サミールが言う。
「第一級を一つ減らせる」
アブドゥル・ラーマンの村。
共同井戸を開けた。
種子用水が減っている。
第一級条件を守れない。
「第二級へ」
ナディアは決めた。
「理由は」
「共同井戸の周辺開放により、種子用水保証が不可能」
「彼を罰するように見えます」
「実際、結果として減る」
「隣村へ水を渡したため」
「はい」
「それでよいのですか」
ナディアは答えられない。
善意へ罰。
だが第一級の水を維持できない。
別の村を救うため。
「一覧に、共同井戸開放を評価すると書きます」
「評価しながら格下げ?」
「事実です」
サミールが苦い顔。
「人は理解しません」
「私も理解できません」
それでも署名。
---
## 九
新しい指定書がカスル・アインへ届いたとき、村人はアブドゥル・ラーマンを責めた。
「井戸を開けたからだ!」
「隣村を助けて、我々が」
「種子用水がなくなる!」
老人は逃げなかった。
村の広場。
「私が決めた」
「辞めろ!」
「辞める」
皆が一瞬静かになる。
「今日で水利組合長を辞める」
「井戸は」
「共同開放を続けるか、次の組合長が決めろ」
「お前が始めた!」
「だから責任を」
「辞めるのが責任か!」
若者が怒鳴る。
正しい。
役職を捨てれば、結果から逃げるとも見える。
「井戸掘りの現場には残る」
「権限なしで?」
「労働者として」
「次の組合長は誰が」
「選べ」
「今この時に?」
「水は待たない」
村人が口々。
誰もなりたくない。
決めれば恨まれる。
「アル=ハディドから選ぶ」
アブドゥル・ラーマンが言う。
カスル・アイン側が反発。
「他村に我々の井戸を!」
「共同で使うなら、共同で決める」
「人数が」
「両村同数の委員」
「偶数では決まらない」
「決まらなければ水門を動かさない」
「遅い!」
「だから争え」
老人は笑わない。
「私一人が決めた結果を見たろう」
新しい共同水利委員会。
カスル・アイン五名。
アル=ハディド五名。
決定には七名。
面倒。
遅い。
だが相手の水を自分だけで決められない。
「お前も委員に」
村人が言う。
「なら辞めた意味が」
「経験がいる」
「権力へしがみつくな!」
別の者。
矛盾。
残れ。
辞めろ。
「顧問として。票なし」
老人が提案。
完全には消えない。
完全には決めない。
「それでよい」
ファーティマ老婆が言った。
アル=ハディド代表。
「井戸掘りは、明日から」
「今日からだ」
アブドゥル・ラーマンが答える。
---
## 十
灰冠水利債券の第一回入札には、予想以上の金が集まった。
理由。
高利率ではない。
公開監査。
違反時の無利子転換。
投資家の一部は、それを安全と見た。
灰冠関連を避けたい商人。
自分の名を清い資金として示したい銀行。
宗教基金。
小口投資。
王都職人組合。
農村水利組合まで。
一方、匿名資金は排除。
不足すると思われた。
逆に、公開されることで参加者が増えた。
「灰冠の金なしでも、給水車七十六台分」
宰相が報告した。
「八十には届かない」
バイバルスが言う。
「四台は王家厩舎の馬車を改造」
「王家用を?」
「庭園用給水車も」
「宮殿庭園は枯れます」
「すでに止めた」
「樹木が」
「民が先」
象徴。
同時に実用。
王宮の古い果樹が枯れる。
歴代王。
それでも。
「カリム将軍は」
「南門外の共同宿営地。軍法会議準備」
「反乱計画について」
「自ら公開尋問を受けると」
「本気か」
「兵の前で」
「私も出る」
「危険です」
「お互い同じだ」
公開尋問。
反乱者と王。
どちらも自分の秘密を出す。
---
## 十一
南門外の河原で、カリム将軍の軍法会議が開かれた。
軍法会議と呼びながら、裁判官は軍人だけではない。
宗教法官。
王室判事。
兵士代表。
農村代表。
水利庁。
公開。
罪状。
王国救済軍計画。
無許可の政治介入。
外国資金の受領。
反乱準備。
カリムは否定しなかった。
「計画を作った」
「スルタンを休養させる意図は」
「はい」
「強制的に」
「必要なら」
「反乱では」
「法上は」
法官が言う。
「反乱です」
「では反乱だ」
兵士がざわめく。
将軍が認めた。
「なぜ実行しなかった」
「三日合意」
「スルタンへの忠誠?」
「王国への利益」
「違いは」
「ある」
カリムはバイバルスを見る。
「陛下が誤れば止める」
「誰が、誤りと」
「私が」
軍務卿と同じ。
「それが反乱です」
法官。
「理解している」
「悔いているか」
カリムは長く黙る。
「計画を作ったことは、悔いていない」
騒ぎ。
「灰冠資金を知らず受けたこと。兵を十分統制できなかったこと。ファリドが偽命令で動ける状態にしたことは、私の責任」
「処罰を」
「受ける」
「将軍職剥奪」
兵士が怒号。
「国境が!」
「カリム将軍を!」
バイバルスが手を上げる。
「判決は、私が決めない」
軍法会議。
「王が決めろ!」
兵士。
「王の友人だから甘くすると思うだろう」
「厳しくするかもしれない」
「だから決めない」
裁判官が協議。
即日ではない。
三日。
証拠確認。
また三日。
灰冠の期限とは違う。
殺すためでなく、考えるため。
その間、カリムは指揮権停止。
南部軍は三人の共同指揮。
王室軍人。
南部軍代表。
水利兵站官。
水利兵站官は、ナディアが指名した女性技師ライラ。
軍人が反発。
「女が軍へ」
「水を運ぶ者です」
ナディアの書簡。
《兵士が飲む水を決める者は、すでに軍を指揮している》
ライラは剣を持たない。
給水表。
井戸地図。
兵士は不満。
だが喉が渇けば、彼女の命令を聞く。
---
## 十二
三日後。
カリムへの判決。
将軍職停止六十日。
救済軍評議会解散。
外国資金受領について、私財没収の一部。
反乱計画については、正式実行前であり、スルタンとの合意を守ろうとした点を考慮し、死刑なし。
軍内から甘いとの声。
宮廷から危険との声。
カリム本人は笑った。
「六十日後、戻れる?」
裁判長。
「再任審査」
「兵が必要なら」
「必要だけで法を曲げない」
「戦争中でも?」
「そのための六十日です」
判決が遅い。
罰も中間。
誰も満足しない。
だが内戦は起きなかった。
ファリド副将は、偽命令を確認せず進軍した罪で降格。
情報局長は逃亡。
灰冠会議の連絡船で北へ向かったとの報告。
追跡。
---
## 十三
二十日後、最初の新型給水車が南部支局へ届いた。
八十台ではない。
十二台。
残りは海上。
遅延。
海賊。
港検査。
一台は車輪が規格外。
二台は水槽に漏れ。
実働九台。
帳簿では十二。
現実では九。
ナディアは受領書へ、九台と書いた。
商会代理人が反発。
「十二台納品しました」
「動くのは九」
「修理可能」
「修理後に三を記録」
「契約違反になります」
「あなたが」
「輸送中の損傷です」
「保険は」
「別契約」
「誰と」
代理人が黙る。
海燕共同事業体の関連保険。
灰冠。
「三台分を支払わない」
「訴訟を」
「公開法廷で」
「給水車を止めます」
「止めれば、債券違反として全契約を無利子転換」
代理人の顔が変わる。
公開条項。
初めて機能。
「修理します」
「いつ」
「三日」
「一日」
「不可能」
「二日」
「部品が」
「水利工房を使う」
「費用は」
「あなた」
交渉。
水。
小さな勝利。
---
給水車は、最初にアル=ハディド村へ向かった。
政治的配慮ではない。
最も危険。
暴動寸前。
同時に象徴。
アブドゥル・ラーマンの共同井戸開放で耐えている。
車輪。
砂。
道。
村人が待つ。
一台あたり大壺四つ。
水。
誰が先。
子供。
老人。
病人。
委員会が名簿を作る。
ファーティマ老婆が壺を持つ。
最初の一杯を、自分ではなく隣の少女へ。
美しい場面。
年代記はそう書くかもしれない。
実際には、その直後、男二人が順番をめぐって殴り合った。
壺が割れた。
水が地面へ。
人々が泥へ手を入れる。
兵が止める。
誰かが泣く。
救済は、整った物語にならない。
ナディアは現場へ来ていた。
殴り合った男へ処罰を求めなかった。
次回配水の最後へ回す。
罰。
家族も待つ。
「重すぎる」
ファーティマが言う。
「何が」
「男の子供も最後になる」
「本人だけ」
「壺は家族で使う」
正しい。
「では共同作業一日」
「水路掘り?」
「はい」
「罰が村の利益になる」
ナディアは記録へ修正。
法は現場で変わる。
---
## 十四
旧井戸の掘削は、十二日目に水へ当たった。
最初は泥。
次に塩。
さらに掘る。
淡水。
少量。
歓声。
井戸一本で村全体は救えない。
だが給水車の回数を減らせる。
種子用水には足りない。
飲料水。
それだけ。
アブドゥル・ラーマンは井戸縁に座った。
手は血まみれ。
票を持たない顧問。
実際には皆が意見を求める。
「組合長へ戻れ」
村人が言う。
「戻らない」
「なぜ」
「一度辞めた」
「水が出た」
「私が出したのではない」
「お前が決めた」
「ナディアが技師を。皆が掘った」
「誰か一人の名が必要だ」
老人は笑う。
「必要ない」
だが歴史は一人を選ぶ。
アブドゥル・ラーマンの井戸。
そう呼ばれるかもしれない。
彼は反対した。
「《二村井戸》と」
「長い」
「覚えろ」
---
## 十五
ナフルの穀物輸出は、七日間、半量へ減らされた。
オルシャ。
アウレリア。
価格上昇。
アウレリア三帝は抗議。
同時に、ナフル国内事情を知り、全量要求を取り下げた。
代わりに、アウレリアから井戸掘削技師と水車部品を送る提案。
小麦との交換。
借金ではない。
物々交換。
灰冠金融網を通さない。
輸送保険は必要。
セレスタの公開保険組合。
新しい仕組み。
ルチアーノの改革派が提案。
戦争が市場を作る。
同時に、公開市場も作られる。
完全な善ではない。
利益は出る。
だが誰が得るか見える。
ナフルは、オルシャへも小麦を送った。
量は少ない。
マリアムから返礼。
港門技師。
古代水路図の写し。
聖地の鍵守と、砂漠の水利官僚。
まだ会ったことはない。
書簡だけ。
《水門を一人へ預けない制度について、経験を共有したい》
ナディアは読んだ。
自分の支局でも、水門管理を一人から複数委員へ変える案を作り始めている。
だが緊急時。
遅い。
どこでも同じ問題。
---
## 十六
灰冠会議は、ナフル計画を失敗とは記さなかった。
マルケル・セヴェロスの船室。
報告。
《水利債券》
《水門管理権取得、失敗》
《港湾税担保、限定》
《公開監査条項、導入》
《資金流入、予測以上》
《灰冠関連匿名資金、排除》
《ナフル内乱、回避》
《軍・王権対立、継続》
《農村間水争い、制度化》
若い会計官が尋ねる。
「利益は減りました」
「はい」
「公開債券が成功すれば、我々の秘密融資が」
「だから買う」
「公開債券を?」
「一部」
「実所有者一覧で見つかります」
「見つかる名で買う」
「灰冠と知られます」
「灰冠ではない商会として」
「名義変更は違反」
「違反しない。新しい組織を作る」
「公開制度に適応する?」
マルケルは頷く。
「制度は敵ではない。市場だ」
「彼らが監視を増やせば」
「監視する者へ給金が必要になる」
「我々が貸す?」
「あるいは、監査人を育てる学校へ寄付する」
若い会計官が戸惑う。
「敵を強くするのですか」
「強くなった制度ほど、維持費がかかる」
「すべてを利益へ」
「利益へできないものもある」
老人は、ナフルの井戸報告を見る。
《二村井戸》
公開帳簿。
共同委員会。
「村人が自分で掘った井戸は」
若い男が言う。
「貸付なしです」
「そうだ」
「利益にならない」
「だから危険だ」
マルケルは小さく呟いた。
金を通さず、人間が協力する。
灰冠会議が最も入りにくい場所。
「次は」
会計官が尋ねる。
老人は地図を見る。
アウレリア。
ナフル。
オルシャ。
サルグァ。
ヴァルネリア。
それぞれが秘密を開き、共同制度を作り始めている。
遅い。
不完全。
だが網がつながれば、灰冠の帳簿も見える。
「彼らを互いに疑わせる」
「すでに疑っています」
「疑いながら協力している」
「では」
「協力の費用を上げる」
「どうやって」
「宗教だ」
水。
穀物。
金。
次は信仰。
神聖エーレン帝国。
民衆語で聖典を読む改革運動。
聖座の調査使節。
教会財産。
諸侯。
農民。
ヨハンという説教師。
「真実を公開すれば、皆が同じ真実を受け入れると思っている」
マルケルは言った。
「実際は?」
「同じ言葉を読んで、違う神を見つける」
---
## 十七
夏の終わり。
ナフル川の水位は、さらに指二本分下がった。
雨は来ない。
給水車は六十八台まで増えた。
八十には届かない。
旧井戸は三本成功。
五本失敗。
二本で作業事故。
死者七名。
カスル・アインの種子倉庫は、予定の八割を維持。
アル=ハディドの畑は、ほぼ全滅。
飲料水は確保。
誰が救われたか。
誰が見捨てられたか。
簡単には言えない。
ナディアは最終報告へ署名した。
《救済計画第一期》
《飲料水不足による推定死者、当初予測より六割減》
《農作物損失、平年比四十五パーセント》
《家畜損失、三十一パーセント》
《第三級村からの移住者、二万一千》
《水争いによる死者、百三十二》
《水利兵による殺害、十八》
《給水盗難、記録済み七十六件》
《不明、推定多数》
数字。
その下に、村名。
死者名。
分からない者。
《給水車到着前に死亡した少女、推定七歳、サファ村》
《旧井戸崩落、男性三名、うち一名名不明》
《水路争い、カスル・アイン側二名、アル=ハディド側一名》
同じ記録。
勝利報告ではない。
失敗報告だけでもない。
「あなたは多くを救った」
サミールが言った。
最初より顔が痩せている。
「多くを失いました」
「当初予測より」
「予測は人間ではありません」
「でも」
「数字を否定しているのではありません」
ナディアは報告書を閉じる。
「数字がなければ、もっと死んだ」
「なら」
「正しかった部分と、間違った部分がある」
「どこが」
「まだ分かりません」
「水位は待ちません」
「だから次を作る」
疲労。
終わらない。
「辞めたいですか」
サミールが尋ねた。
ナディアは考えた。
毎日。
「はい」
「辞める?」
「いいえ」
アブドゥル・ラーマンと逆。
彼は辞め、顧問として残った。
彼女は役職に残る。
どちらが責任か。
分からない。
---
## 十八
王都では、バイバルスとカリムが再び同じ机を囲んだ。
将軍職停止中。
軍衣なし。
杖。
肩の傷。
「水利債券は動いている」
カリムが言う。
「はい」
「灰冠の金も入った可能性」
「ある」
「では負けた」
「給水車は来た」
「利子も」
「払う」
「十五年」
「短くできるかもしれない」
「できなければ」
「次の王が払う」
「陛下も先王と同じだ」
秘密債務を未来へ。
「違いは公開だけ?」
バイバルスが尋ねる。
「そうかもしれない」
「公開で民が納得する?」
「しない」
「では」
「少なくとも、次の王は知らなかったと言えない」
カリムは笑う。
「嫌な遺産だ」
「冠も同じだ」
「私を再任する気は」
「審査が決める」
「陛下ではなく」
「はい」
「不便な王になった」
「お前のせいだ」
アドリアンとシャルル。
別の国で、同じ言葉。
「国境軍は、私を求めている」
「知っている」
「反乱防止にも」
「だからこそ簡単に戻せない」
「私を恐れている?」
「はい」
バイバルスは正直に言った。
「友人としても、将軍としても」
カリムは黙る。
「お前も私を恐れろ」
「昔から」
二人は水を飲む。
王宮の杯。
量は制限。
同じ壺から。
「次の雨まで」
カリムが言う。
「国は持つか」
「持たせる」
「強い言葉」
「王だから」
「一人で決めない王が?」
「決めないことも決める」
「詭弁だ」
「知っている」
---
## 十九
ナフル川沿いの夜。
新しい共同井戸のそばで、二つの村の子供が水を汲んでいた。
最初は別々の列。
カスル・アイン。
アル=ハディド。
壺の形も印も違う。
委員会は、一人二壺と決めた。
監視役。
記録板。
水位線。
子供の一人が、壺を落とした。
割れる。
泣く。
規則では、その日の分は再配給しない。
不正防止。
別の子供が、自分の壺から半分を注いだ。
「規則違反だ」
監視役が言う。
子供は答えた。
「僕の水だ」
「一人二壺」
「二壺もらった」
「他人へ渡すのは」
規則に書いていない。
委員会が集まる。
議論。
遅い。
子供たちは待たない。
半分を渡す。
水は一人から一人へ。
利子なし。
契約なし。
担保なし。
記録だけ。
監視役は板へ書いた。
《個人配水後の譲渡、一件》
罰は空欄。
翌日、委員会は個人配水後の譲渡を認めた。
ただし売買は禁止。
すぐに別の問題。
水とパンの交換は売買か。
病人へ多く渡すのは。
家族人数が違う。
議論は続く。
共同制度は完成しない。
人間が生きている限り、例外が増える。
それでも井戸は使われた。
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ナフル川は、その夜も低い場所へ流れた。
王の命令を知らず。
将軍の反乱を知らず。
灰冠の利率を知らず。
ナディアの署名も。
アブドゥル・ラーマンの辞任も。
子供が半分の水を渡したことも知らない。
川はただ流れる。
だが、人間がどのように分けたかは残る。
土へ。
畑へ。
墓へ。
帳簿へ。
記憶へ。
後世の年代記は、灰暦八百七十二年のナフル渇水を《大乾き》と呼ぶ。
スルタン・バイバルスの公開債券。
カリム将軍の未遂反乱。
ナディアの三段階配水計画。
二村井戸。
それらを改革の始まりと評価する者もいる。
別の学者は、国家が村を数値で見捨てる制度を完成させた年と批判した。
どちらも正しい。
水を分けるとは、命を分けることだった。
誰かを救った手は、別の誰かから水を取っている。
だからナディアは、報告書の最後へ一行を加えた。
《本計画によって救われた人数を、実施者の功績として数えてはならない》
《同時に、本計画によって失われた全員を、天候の責任としてはならない》
その一行は、財務官から削除を求められた。
責任の所在が曖昧になる。
ナディアは拒否した。
責任は曖昧ではない。
複数にある。
天候。
王。
将軍。
水利庁。
村長。
商人。
灰冠。
自分。
全員。
誰か一人へ押しつければ、残りはまた同じことをする。
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夏の終わり。
最初の雲が南の地平へ現れた。
雨雲ではない。
砂嵐。
黄色い壁。
川の上流からではなく、西方砂漠から来る。
村人は空を見る。
雨を期待していた者は、黙る。
砂嵐は水路を埋める。
井戸へ砂を入れる。
給水街道を止める。
さらに悪い知らせ。
だが砂嵐の向こうを、一人の騎手が走っていた。
神聖エーレン帝国から来た使者。
灰衣修道会の印。
鞍袋に、一冊の民衆語聖典。
そして一枚の処刑命令。
改革説教師ヨハン・アイゼンを、異端として火刑に処す。
署名は聖座ルミナの使節。
だが命令書の紙には、薄い灰色の冠の透かしがあった。
マルケル・セヴェロスが次に選んだもの。
水ではなく、言葉。
人間は水を分ければ争う。
神の言葉を分ければ、さらに深く争う。
砂嵐がナフルの空を覆う頃、北方では最初の民衆語聖典が印刷所から運び出されていた。
一冊の本。
一本の火刑柱。
そして、同じ神を信じる者同士の戦争。
王冠たちの夏は、信仰の秋へ向かっていた。
書き溜めていた分のストックがほぼ尽きてきましたので… 更新頻度についてアンケートをさせていただきたいと思います。 以降の更新頻度はどの程度がよいでしょうか?
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死ぬ気でがんばれ
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可能な範囲でがんばれ
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そんなに急ぐこたーないぞ