灰冠と香路の年代記   作:MOZIO

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第十三章 火刑台の言葉

紙は、人間より早く燃える。

 

薄い羊皮紙なら、炎へ触れた瞬間に端が丸まり、文字は黒く縮れ、数十息のうちに灰となる。

 

人間の身体は、もっと時間がかかる。

 

衣服が燃え、髪が焼け、皮膚が裂け、脂が落ちる。

 

火刑を命じる者が薪へ油をかけるのは、処刑される者への慈悲からだと説明されていた。

 

短く苦しませるため。

 

だが火刑台の周囲に集まる群衆は、長く燃えるほど多くを語った。

 

異端の末路。

 

教会の力。

 

神の裁き。

 

罪の匂い。

 

人間の身体は、権力が民衆へ見せるための文書でもあった。

 

しかし灰暦八百七十二年の秋、神聖エーレン帝国で聖職者たちが焼こうとしたのは、一人の説教師だけではなかった。

 

人々が自分の言葉で読める聖典。

 

印刷機。

 

説教。

 

歌。

 

疑問。

 

そして、神の言葉を誰が所有するのかという問いだった。

 

人間は焼ける。

 

本も焼ける。

 

だが一度、三百部に刷られた言葉は、一つの火刑台では燃やし尽くせない。

 

---

 

## 一

 

ヴァルデン市の印刷工房では、夜明け前から鉄と木が軋んでいた。

 

圧搾機の長い柄を引く。

 

紙を置く。

 

版へ墨を塗る。

 

圧力をかける。

 

戻す。

 

紙を剥がす。

 

一枚。

 

また一枚。

 

単純な作業。

 

だが、同じ文章を何百枚も作れるという事実は、王や司教にとって新しい種類の軍隊だった。

 

兵士は給金と食糧を必要とする。

 

印刷された言葉は、一度市場へ出れば、自分で歩く。

 

エルザ・クルーガーは、刷り上がった紙を灯火へかざした。

 

三十八歳。

 

印刷職人だった夫を疫病で失い、工房と借金を引き継いだ。

 

女性が印刷工房の親方となることを、職人組合は正式には認めていない。

 

そのため帳簿上の主人は、十六歳の息子ルーカス。

 

実際に活字を組み、職人を雇い、紙商人と値段を争うのはエルザだった。

 

「ここ」

 

彼女は紙の一行を指した。

 

「《あなたたちは真実を知り、真実はあなたたちを自由にする》」

 

ヨハン・アイゼンが近づく。

 

四十一歳。

 

元修道士。

 

神学博士。

 

痩せた顔。

 

濃い茶色の修道服は、教会を離れたあとも着続けている。

 

「何か」

 

「《自由にする》でよいのですか」

 

「原語はそうです」

 

「農民は、年貢から自由になると読みます」

 

「それは文脈が」

 

「読む者全員が文脈を知っていると?」

 

ヨハンは紙を見る。

 

彼自身が訳した聖典。

 

ラテン語でも、古代東方語でもない。

 

エーレン帝国の街や村で話される言葉。

 

ただし帝国内には、南北で異なる方言がある。

 

ヨハンが選んだのは中央地方の言葉だった。

 

南部人からは北方語に近すぎると批判され、北部人からは皇都の言葉に媚びたと批判された。

 

神の言葉を民衆へ。

 

美しい理想。

 

実際には、どの民衆の言葉を選ぶかで争いが始まる。

 

「注釈を入れます」

 

ヨハンが言った。

 

「《罪からの自由を意味し、法と契約の無条件な破棄を意味しない》」

 

エルザは笑った。

 

「聖典より注釈の方が長くなります」

 

「誤解されるよりは」

 

「人は注釈を読みません」

 

「では、どうするべきです」

 

「刷らない」

 

ヨハンが彼女を見る。

 

「本気ですか」

 

「いいえ」

 

エルザは新しい紙を圧搾台へ置いた。

 

「私は印刷屋です。誤解される本でも、売れるなら刷ります」

 

「それだけ?」

 

「夫はラテン語祈祷書を刷って死にました。借金だけ残した。神の言葉が何語でも、紙商人は銀貨を求めます」

 

冷たい言葉。

 

だがエルザは夜通し工房に立ち、違法と知りながら民衆語聖典を刷っている。

 

利益だけなら、教会許可のある暦や商人帳簿の方が安全だった。

 

「何部です」

 

ヨハンが尋ねる。

 

「正規版三百。小型版百二十」

 

「小型版?」

 

「旅人用」

 

「頼んでいません」

 

「隠しやすい」

 

「エルザ」

 

「捕まるなら、売れる形にしてから」

 

奥で、息子ルーカスが欠伸をした。

 

「母さん」

 

「手を止めない」

 

「外に兵です」

 

全員が動きを止めた。

 

通り。

 

馬蹄。

 

鎧。

 

祈祷鐘ではない。

 

武器の金属音。

 

ルーカスが裏窓から見る。

 

「司教軍」

 

「何人」

 

「二十……もっと」

 

エルザは刷り上がった紙を見た。

 

三百部のうち、完成は二百四十七。

 

乾燥中。

 

活字版。

 

原稿。

 

すべてを隠す時間はない。

 

「小型版を地下へ」

 

ヨハンが言う。

 

「あなたは裏口から」

 

エルザが返す。

 

「逃げません」

 

「逃げなければ燃やされます」

 

「逃げれば、あなた方が異端を匿った罪で」

 

「残っても同じです」

 

「なら逃げてください」

 

「私が逃げれば、兵は工房を壊して探す」

 

「逃げなくても壊す」

 

「エルザ」

 

ヨハンは彼女を見る。

 

「印刷機を守ってください」

 

扉が叩かれる。

 

一度。

 

「ヴァルデン司教座の命令である!」

 

二度。

 

「異端容疑者ヨハン・アイゼンを引き渡せ!」

 

ルーカスが活字棒を握った。

 

武器にはならない。

 

だが少年の手は震えている。

 

ヨハンが棒を下ろさせる。

 

「あなたが私を守って死ねば、聖典を読める者が一人減ります」

 

「先生を渡したら」

 

「読める者が残る」

 

「火刑です」

 

「まだ裁判が」

 

扉の外から書状が読み上げられる。

 

《聖座ルミナ特使、枢機卿マルクス・ヴァレリウスの権限により》

 

《異端説教師ヨハン・アイゼンを逮捕し、悔悛なき場合は火刑に処す》

 

《処刑は、逮捕翌日の正午》

 

裁判ではない。

 

判決。

 

時間が早すぎる。

 

通常、異端審問には数週間。

 

証言。

 

撤回の機会。

 

教会裁判。

 

「翌日?」

 

エルザが呟く。

 

「急いでいます」

 

ヨハンの顔が変わった。

 

「私を殺すことより、何かが起きる前に殺したい」

 

「何が」

 

「帝国議会」

 

皇帝コンラート五世は、ヨハンへ帝国議会で釈明する安全通行証を与えるか検討中だった。

 

その決定前に処刑すれば、議会は意味を失う。

 

扉へ斧。

 

木が割れる。

 

ヨハンは自分で閂を外した。

 

「先生!」

 

ルーカスが叫ぶ。

 

扉が開く。

 

司教兵。

 

槍。

 

弩。

 

先頭にヴァルデン司教座の騎士。

 

「ヨハン・アイゼン」

 

「私です」

 

「武器を」

 

「持っていません」

 

兵が工房へ入り、紙を踏む。

 

一人が聖典を拾う。

 

民衆語。

 

読める。

 

兵士は一瞬、文字を見る。

 

隊長が奪った。

 

「禁書だ」

 

「まだ禁書指定は出ていません」

 

ヨハンが言う。

 

「枢機卿命令だ」

 

隊長が書状を見せる。

 

羊皮紙。

 

聖座の赤蝋印。

 

署名。

 

本物に見える。

 

紙を灯火へかざしたとき、ヨハンは薄い透かしを見た。

 

灰色の冠。

 

オルシャ共同宣言で知らされた印。

 

「その紙を、どこで」

 

「黙れ」

 

兵が腕を取る。

 

「書状を保存してください」

 

ヨハンはエルザへ言った。

 

「触れません」

 

隊長が答える。

 

「見ました」

 

それで十分ではない。

 

記録にはならない。

 

だがエルザは印を覚えた。

 

灰色の冠。

 

「印刷物をすべて押収!」

 

兵士が命じられる。

 

エルザは圧搾機の横へ立った。

 

「これは私の財産です」

 

「異端の道具だ」

 

「聖典以外の印刷物も」

 

「工房ごと封鎖」

 

「借金は司教座が払う?」

 

隊長が彼女を見る。

 

「神への冒涜を銀で量るか」

 

「紙屋は神へ請求書を出しません」

 

兵が笑いかけ、隊長の顔を見て止めた。

 

ヨハンは連行された。

 

通りには、夜明け前にもかかわらず人々が集まっている。

 

噂は兵より速い。

 

説教師が捕まった。

 

明日、焼かれる。

 

一人の女が膝をつき、ヨハンの衣へ触れた。

 

兵が押し返す。

 

「先生!」

 

「暴力を使わないでください!」

 

ヨハンは群衆へ叫んだ。

 

「本を守りなさい! 人を殺して守ってはいけない!」

 

言葉は聞かれた。

 

だが、どの部分が残るかは聞いた者が選ぶ。

 

本を守れ。

 

人を殺すな。

 

翌日には、一つ目だけを覚えている者が増えていた。

 

---

 

## 二

 

神聖エーレン帝国皇帝コンラート五世は、ヨハンの火刑命令を昼食中に知った。

 

皇都エーレンブルク。

 

帝国宮殿。

 

食卓には黒パン、鹿肉、葡萄酒。

 

皇帝は鹿肉へ手をつけなかった。

 

五十二歳。

 

選帝侯たちの妥協で帝冠を得て十九年。

 

帝国は王国のように一枚岩ではない。

 

百を超える諸侯領。

 

司教領。

 

自由都市。

 

修道院領。

 

騎士領。

 

皇帝の命令が届く場所と、届いたふりだけされる場所。

 

「処刑は明日?」

 

コンラートが尋ねた。

 

宰相アウグストが頷く。

 

「ヴァルデン司教座からの正式通知です」

 

「私の安全通行証審議は」

 

「三日後の帝国議会」

 

「その前に殺す?」

 

「聖座特使は、異端問題は帝国法より教会法が優先すると」

 

「帝国内で人を焼くのに、皇帝へ知らせない?」

 

同席するマインツ大司教セヴェリンが言った。

 

「教会裁判権は古来の権利です」

 

「裁判をしたのか」

 

「予備審問は」

 

「いつ」

 

「三年前から、著作を」

 

「本人を呼んでいない」

 

「著作が証言です」

 

「なら本を焼け」

 

「書いた者を残せば、また書く」

 

皇帝の表情が硬くなる。

 

「大司教は火刑へ賛成か」

 

セヴェリンはすぐ答えなかった。

 

彼は改革派を嫌っている。

 

教会税への批判。

 

司教の財産。

 

聖職売買。

 

ヨハンの説教は自分たちを傷つける。

 

だが、急ぎすぎる処刑は殉教者を作る。

 

「撤回の機会は与えるべきです」

 

「明日までに?」

 

「枢機卿の判断は、性急かもしれません」

 

「性急で済むか」

 

別の諸侯。

 

銀森選帝侯ハインリヒ。

 

改革派保護者として知られる。

 

実際には神学より、教会領の課税権へ関心がある。

 

「皇帝陛下、ヴァルデンへ兵を」

 

「火刑を止めるため?」

 

「帝国法を守るため」

 

「教会財産を守るときも同じ熱心さを?」

 

大司教が皮肉。

 

ハインリヒは笑う。

 

「教会が帝国法を守れば」

 

「異端を保護する目的は、教会領没収か」

 

「異端かどうかを帝国議会で聞く」

 

「民衆が神学を決める?」

 

「司教が税率を決めるよりは」

 

議論。

 

コンラートは机を叩かなかった。

 

怒鳴れば全員が黙る。

 

黙るだけ。

 

従わない。

 

「命令書を」

 

写し。

 

聖座印。

 

枢機卿マルクスの署名。

 

紙。

 

「透かしがあります」

 

若い宮廷書記が言った。

 

灯りへ。

 

灰色の冠。

 

室内の空気が変わる。

 

オルシャ共同宣言。

 

三港攻撃。

 

ナフル水利債券。

 

各国へ広がる印。

 

「偽造か」

 

ハインリヒが尋ねる。

 

「印と署名は本物に見えます」

 

宰相。

 

「紙だけ灰冠経路?」

 

コンラートが言う。

 

「紙は聖座書記局から」

 

大司教が答える。

 

「この透かしの紙を使うのか」

 

「一部高級紙はセレスタ商会から購入」

 

灰冠が直接書状を作ったとは限らない。

 

聖座が灰冠関連商会から紙を買った。

 

その紙に、枢機卿が自分の意思で署名した。

 

陰謀は、偽造より複雑。

 

「枢機卿へ、処刑停止命令」

 

コンラートが言った。

 

大司教が反発。

 

「皇帝に異端裁判を止める権限は」

 

「処刑地は帝国領。人命保全のため、帝国議会まで執行停止」

 

「拒まれれば」

 

「ヴァルデン市へ帝国保護令」

 

「兵を送る?」

 

「使者を先に」

 

「間に合いません」

 

皇都からヴァルデン。

 

早馬で一日半。

 

明日正午。

 

「三人」

 

コンラートが命じる。

 

「別経路。停止令を三部」

 

「同じ命令を?」

 

「一人が殺されても残る」

 

記録の複製。

 

各地で学ばれた方法。

 

「帝国議会を明日へ繰り上げる」

 

「諸侯が到着していません」

 

「いる者で始める」

 

「正統性が」

 

「火刑は待たない」

 

皇帝は立った。

 

「それと、ヴァルデン市の全軍へ布告。ヨハン・アイゼンを帝国保護下に置く」

 

「聖座への宣戦と受け取られます」

 

大司教。

 

「人を一人、議会まで生かすことが?」

 

「問題は一人ではありません」

 

「知っている」

 

コンラートは窓を見る。

 

皇都の教会塔。

 

鐘。

 

「だから、焼かせない」

 

---

 

## 三

 

ヨハンが収容されたのは、ヴァルデン司教館地下の告解牢だった。

 

石壁。

 

椅子。

 

机。

 

鎖はない。

 

異端者を動物のように扱わないという、教会の慈悲を示すため。

 

扉には兵が四人。

 

窓は手の幅。

 

翌日の火刑柱は、牢の窓から見えた。

 

広場の中央。

 

職人が薪を積んでいる。

 

ヨハンは祈らなかった。

 

祈ろうとした。

 

言葉が出なかった。

 

自分が死ぬことより、群衆が何をするかが怖い。

 

火刑台で穏やかに死ねば、信仰の証人となる。

 

逃げれば、臆病者と呼ばれる。

 

撤回すれば、改革運動が傷つく。

 

撤回しなければ、暴動が起きる。

 

どれを選んでも、他人が意味を決める。

 

扉が開く。

 

枢機卿マルクス・ヴァレリウス。

 

六十歳。

 

痩せた長身。

 

聖座の赤い法衣。

 

護衛なし。

 

「ヨハン・アイゼン」

 

「枢機卿猊下」

 

「撤回文を持ってきた」

 

紙。

 

《民衆語による聖典の無許可翻訳を誤りと認める》

 

《教会の解釈権へ服する》

 

《著作の回収へ協力する》

 

署名すれば、死刑停止。

 

おそらく終身修道院。

 

「翻訳そのものが誤り?」

 

ヨハンが尋ねる。

 

「無許可が」

 

「文面は翻訳を」

 

「修正できる」

 

「どこまで」

 

「教会の監督下で再翻訳」

 

「誰が監督」

 

「神学委員会」

 

「民衆語を話せない司教が?」

 

枢機卿は顔をしかめた。

 

「お前は、常に言葉尻を」

 

「言葉の問題です」

 

「言葉が人を殺している」

 

マルクスは別の紙を置いた。

 

農村報告。

 

聖ミヒャエル修道院襲撃。

 

農民三百。

 

年貢帳簿を焼却。

 

修道士二名死亡。

 

領主代官一名殺害。

 

襲撃者がヨハンの説教を唱えた。

 

《真実は自由にする》

 

《神の前に万人は同じ》

 

「私は殺せと言っていない」

 

「彼らは、お前の言葉を使った」

 

「聖典の言葉です」

 

「だから教会が解釈する!」

 

枢機卿の声が石室へ響く。

 

「百年前、南部で七燭派と聖冠派が同じ聖句を使い、村を焼いた。北方では世界樹信仰の改宗者が、古い神殿を壊した。言葉は剣より長く残る」

 

「教会の解釈なら人を殺さない?」

 

「少なくとも一つだ」

 

「一つの誤りが帝国全体を支配します」

 

「千の解釈が千の軍を作るよりましだ」

 

ヨハンは枢機卿を見る。

 

単純な悪人ではない。

 

彼は秩序を恐れている。

 

過去の宗教戦争を知っている。

 

「猊下は、私を殺せば止まると」

 

「お前の本が三百部になる前なら」

 

「もう刷られています」

 

マルクスの顔が動く。

 

「何部」

 

「知りません」

 

嘘。

 

二百四十七。

 

小型版百二十。

 

「工房を捜索している」

 

「活字は組み直せる」

 

「印刷機を壊す」

 

「別の都市にあります」

 

「印刷職人を処罰する」

 

「さらに刷られます」

 

「脅しか」

 

「事実です」

 

枢機卿は椅子へ座った。

 

「お前は、自分を殉教者にしたいのか」

 

「したくありません」

 

「なら署名しろ」

 

「私が間違っていると思えば」

 

「死にたいのか」

 

「生きたい」

 

ヨハンの声が弱くなる。

 

正直。

 

「死にたくありません」

 

「なら」

 

「嘘を書いて生きれば、私の言葉を信じた者へ何を」

 

「人間は皆、誤る」

 

「だから撤回ではなく、議論を」

 

「群衆は議論を待たない」

 

「明日の火刑も」

 

枢機卿は黙った。

 

「命令書の紙に、灰冠の透かしがあります」

 

ヨハンが言った。

 

「知っている」

 

「知っていて署名を?」

 

「聖座は紙商人を信仰で選ばない」

 

「誰が処刑を急がせた」

 

「私だ」

 

「灰冠ではなく?」

 

「私だ!」

 

枢機卿は机を叩いた。

 

「責任を陰謀へ逃がすな。私はお前の著作を読み、農民の死体を見て、明日と決めた」

 

ヨハンは言葉を失う。

 

灰冠の操り人形ではない。

 

自分の意思。

 

だから難しい。

 

「しかし」

 

マルクスが続ける。

 

「昨日、ある男が来た」

 

「誰です」

 

「聖座財務局の証書を持つ者。処刑費用、兵士の追加給金、群衆柵の資材を負担すると」

 

「名は」

 

「聖光慈善会」

 

「灰冠関連?」

 

「調査させた。事務所は空だった」

 

「命令は猊下。実行を早めたのは」

 

「誰かが利用している」

 

「それでも明日?」

 

枢機卿は撤回文を見る。

 

「署名すれば、延期できる」

 

「署名しなければ」

 

「私が命じた以上、執行する」

 

「灰冠が望むと知っていて?」

 

「灰冠が望むから、異端を放置するのか」

 

正しさと陰謀。

 

敵が望むことでも、必要なら行うべきか。

 

「猊下」

 

ヨハンが言った。

 

「私を生かすことは、私を正しいと認めることではありません」

 

「お前を殺さないだけで、支持者は勝利と叫ぶ」

 

「殺せば殉教と叫ぶ」

 

「では、どうすれば」

 

初めて枢機卿が尋ねた。

 

ヨハンにも答えがない。

 

「帝国議会で話させてください」

 

「政治家が神学を裁く」

 

「司教だけよりは」

 

「また権力を分ける?」

 

「一人より」

 

マルクスは立った。

 

撤回文を残す。

 

「夜明けまでだ」

 

「署名しなければ」

 

「正午」

 

扉が閉まる。

 

ヨハンは紙を見る。

 

生きる道。

 

嘘。

 

あるいは、言葉を修正するだけ。

 

《無許可翻訳は誤り》

 

許可を得ればよい。

 

自分の信念を完全には否定しない。

 

そう解釈できる。

 

人間は、生きるためなら文章の隙間を見つける。

 

彼は筆を取った。

 

署名欄。

 

手が止まる。

 

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## 四

 

エルザは、司教兵が工房を封鎖したあと、隣家の地下から戻った。

 

ヴァルデン市の古い家々には、壁の中に隠し通路がある。

 

戦争、火災、徴税官、夫から逃げるため。

 

用途は家ごとに違う。

 

小型版の聖典百二十部は、すでに三つの樽へ分けてあった。

 

表面は塩漬け魚。

 

中に油布。

 

ルーカスと職人二人が運び出す。

 

「どこへ」

 

息子が尋ねる。

 

「銀森選帝侯領へ向かう荷車」

 

「検問があります」

 

「葡萄酒商の証書」

 

「偽造?」

 

「本物。代わりに印刷費を半額」

 

改革を守る諸侯。

 

信仰。

 

政治。

 

利益。

 

すべて。

 

裏庭へ荷車を回したとき、一人の男が待っていた。

 

マルティン・ブレヒト。

 

農民説教者。

 

三十歳ほど。

 

元修道院下働き。

 

文字は少し読める。

 

ヨハンの説教を村々へ広めている。

 

「先生は」

 

「司教牢」

 

「今夜、救い出す」

 

「どうやって」

 

「仲間がいる」

 

「何人」

 

「二百」

 

「武器は」

 

マルティンは答えなかった。

 

荷車の布をめくる。

 

木箱。

 

印刷用紙ではない。

 

エルザが開く。

 

槍穂。

 

短剣。

 

小型弩。

 

新しい。

 

刻印が削られている。

 

「どこから」

 

「寄付だ」

 

「誰の」

 

「自由な信徒」

 

「名は」

 

「必要か」

 

「必要です」

 

灰冠。

 

エルザは箱の内側を見る。

 

紙札。

 

《農具補修用鉄材》

 

商会印。

 

黒帳系列の小商会。

 

本物かもしれない。

 

名義を使われただけかもしれない。

 

「これは救出ではない」

 

エルザが言う。

 

「牢を破る」

 

「兵を殺す」

 

「必要なら」

 

「ヨハンは望まない」

 

「先生は優しすぎる」

 

「あなたは先生の言葉を広めているのでしょう」

 

「神の言葉を」

 

「《剣を取る者は剣で滅びる》は」

 

「支配者が従えば、我々も」

 

「先に相手へ?」

 

「いつも我々が先に殴られている!」

 

マルティンの声。

 

父は領主の兵に殺された。

 

妹は修道院税のため売られた。

 

本人は代官に鞭打たれた。

 

怒る理由がある。

 

「修道院襲撃で人が死んだ」

 

エルザが言う。

 

「代官が農民を斬った」

 

「修道士も」

 

「鐘を鳴らし、領主兵を呼ぼうとした」

 

「だから殺した?」

 

「事故だ」

 

「いつも事故になります」

 

マルティンは彼女を睨む。

 

「印刷屋は、紙の上で自由を売る。村では、領主が種を奪う」

 

「だから本を刷った」

 

「本で水車は返らない」

 

「槍で冬の種は増えない」

 

「穀倉を開けられる」

 

「来年は」

 

「来年まで奴隷でいろと?」

 

言葉がない。

 

エルザはマルティンの怒りを否定できない。

 

「今夜は動かないで」

 

「明日、先生が焼かれる」

 

「皇帝の停止令が来るかもしれない」

 

「皇帝?」

 

マルティンが笑う。

 

「諸侯が選んだ男に、我々の神を決めさせる?」

 

「司教よりは」

 

「両方いらない」

 

そこまで。

 

ヨハンは教会改革を求める。

 

マルティンは身分秩序そのものを否定し始めている。

 

同じ聖典。

 

違う結論。

 

「武器箱を置いていきなさい」

 

エルザが言った。

 

「なぜ」

 

「どこから来たか調べる」

 

「司教へ渡す?」

 

「公開する」

 

「公開している間に火刑」

 

「襲えば、火刑を正当化する」

 

マルティンは箱を閉めた。

 

「先生を救えなかったら」

 

「私の責任にしてよい」

 

「印刷屋一人の責任で、何が戻る」

 

「何も」

 

責任を名乗るだけでは戻らない。

 

それでもエルザは言った。

 

「今夜は動かないで」

 

マルティンは答えず、闇へ消えた。

 

槍穂の箱も。

 

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## 五

 

皇帝の三人の使者は、別々の道を走った。

 

北街道。

 

河川道。

 

修道院道。

 

北街道の使者は、日暮れ前に橋で襲われた。

 

盗賊ではない。

 

馬だけを狙い、文書鞄を奪おうとした。

 

護衛二人。

 

敵六人。

 

使者は矢を受け、川へ落ちた。

 

命令書は流れた。

 

河川道の使者は、渡し船が沈んだ。

 

船底へ穴。

 

泳げた護衛が一人、命令書を油布で守った。

 

だが馬を失い、徒歩。

 

修道院道の使者は、道案内の修道士に誤った山道へ導かれた。

 

気づいたときには夜。

 

三通。

 

すべて止められかける。

 

灰冠が経路を知っている。

 

皇帝宮廷の内部。

 

あるいは使者出発後の鐘信号。

 

それでも一通は進んだ。

 

川から上がった護衛。

 

名はハインツ・ベルナー。

 

二十二歳。

 

正式な使者ではない。

 

文字も十分に読めない。

 

封印の意味は知っている。

 

馬を求め、農家へ。

 

主人は拒む。

 

唯一の馬。

 

秋の収穫。

 

「皇帝命令です」

 

「馬を取れば冬に死ぬ」

 

「人が焼かれます」

 

「知らない男だ」

 

正しい。

 

農家にとって、ヨハン一人より馬。

 

ハインツは銀貨を持っていない。

 

自分の剣を外した。

 

「これを」

 

「剣で畑を耕せるか」

 

「売れます」

 

「誰に」

 

時間。

 

「戻す」

 

「死んだら」

 

「皇帝が払う」

 

「皇帝が私を知るか」

 

知らない。

 

ハインツは自分の指輪を出した。

 

母の形見。

 

鉄。

 

価値は低い。

 

農夫は使者の濡れた服を見る。

 

震え。

 

矢傷。

 

「息子を連れていけ」

 

「何を」

 

「馬は息子が一番速く走らせる」

 

十五歳の少年。

 

フリッツ。

 

「父さん」

 

「馬を戻せ」

 

「この人は」

 

「戻らなくてもよい」

 

少年がハインツを馬へ乗せる。

 

二人乗り。

 

夜道。

 

皇帝の命令は、一人の農夫が馬を貸さなければ届かない。

 

国家は、最後には名も知らない者の判断へ乗って進む。

 

---

 

## 六

 

火刑の日、ヴァルデン市には一万人以上が集まった。

 

市民だけではない。

 

周辺村。

 

修道士。

 

学生。

 

商人。

 

農民。

 

領主兵。

 

司教軍。

 

銀森選帝侯の使者。

 

ヨハンの支持者。

 

処刑を見に来た者。

 

暴動を期待する者。

 

パンと酒を売る者。

 

スリ。

 

広場中央。

 

火刑柱。

 

乾いた薪。

 

油。

 

司教軍が二重の柵。

 

外側に都市民兵。

 

内側に教会騎士。

 

屋根にも弩兵。

 

危険な配置。

 

群衆を制御するため。

 

同時に、誰か一人が撃てば逃げ場がない。

 

エルザは黒い頭巾をかぶり、ルーカスと群衆にいた。

 

息子の上着の下には、小型版聖典が十冊。

 

「なぜ持ってきた」

 

エルザが尋ねる。

 

「先生が焼かれたら配る」

 

「焼かれなくても」

 

「配る」

 

言葉を止められない。

 

マルティンの姿は見えない。

 

それが怖い。

 

大聖堂鐘。

 

一度。

 

ヨハンが連れてこられる。

 

鎖なし。

 

両側に兵。

 

群衆から声。

 

「先生!」

 

「異端者!」

 

「神の証人!」

 

「悪魔!」

 

同じ人間へ、違う名。

 

ヨハンは火刑柱を見た。

 

顔が白い。

 

恐怖を隠せない。

 

その方が人間らしいと、後世の伝記は書くかもしれない。

 

実際には足が震え、二度つまずいた。

 

枢機卿マルクスが壇上へ。

 

撤回文。

 

空白の署名欄。

 

「最後に問う」

 

声を張る。

 

「ヨハン・アイゼン。教会の教えへ服し、無許可翻訳と異端的説教を撤回するか」

 

ヨハンは群衆を見る。

 

エルザ。

 

見つけられない。

 

マルティン。

 

見つけられない。

 

自分の言葉を信じた人々。

 

「私は」

 

声が小さい。

 

群衆が静まらない。

 

「私は、誤り得る人間です!」

 

一部から怒号。

 

「聖典の翻訳にも誤りがあるかもしれない!」

 

支持者が戸惑う。

 

「なら撤回を!」

 

枢機卿。

 

「だから公開の場で議論を求めます!」

 

ヨハンの声が強くなる。

 

「一人の司教にも、一人の説教師にも、神の言葉すべてを所有する権利はない!」

 

歓声。

 

「撤回ではない」

 

マルクスが言う。

 

「いいえ」

 

「悔悛なし」

 

「議論を求めることが罪なら」

 

枢機卿は目を閉じた。

 

ほんの一瞬。

 

「執行を」

 

そのとき広場外から馬。

 

一頭。

 

二人乗り。

 

「皇帝命令!」

 

少年の声。

 

人々が振り返る。

 

馬が群衆へ入れない。

 

ハインツは飛び降りる。

 

矢傷。

 

血。

 

「道を!」

 

帝国印を掲げる。

 

群衆が少し割れる。

 

司教兵が止める。

 

「封印を確認する!」

 

「処刑停止令!」

 

枢機卿の顔が変わる。

 

「こちらへ!」

 

ハインツが壇上へ進む。

 

あと二十歩。

 

屋根。

 

弩の音。

 

矢が飛ぶ。

 

ハインツの胸ではない。

 

隣の少年フリッツ。

 

農夫の息子。

 

馬を返すため同行した。

 

肩へ。

 

落ちる。

 

群衆が悲鳴。

 

誰が射た。

 

司教軍の屋根位置。

 

だが弩兵は撃っていないと叫ぶ。

 

「狙撃!」

 

帝国護衛が屋根へ。

 

同時に群衆の別側から石。

 

教会騎士へ。

 

盾。

 

押し返す。

 

マルティンの声。

 

「先生を救え!」

 

農民たちが布の下から槍穂を出す。

 

「待て!」

 

エルザが叫ぶ。

 

遅い。

 

柵へ。

 

司教兵が槍を構える。

 

「止まれ!」

 

一人の農民が倒れる。

 

誰の矢か。

 

次に教会騎士。

 

喉へ短弩。

 

両側に死者。

 

「火を!」

 

誰かが叫んだ。

 

火刑執行人ではない。

 

灰色の外套を一瞬見た者がいる。

 

火壺が薪へ。

 

炎。

 

正式な点火前。

 

ヨハンは柱へ縛られている。

 

「止めろ!」

 

枢機卿マルクスが叫ぶ。

 

自分が命じた火刑。

 

だが皇帝命令が届いた。

 

確認前。

 

群衆暴動。

 

このまま焼けば灰冠の望み。

 

「水!」

 

兵が動かない。

 

命令系統が崩れている。

 

「消せ!」

 

マルクスは自分の赤い外套を脱ぎ、火へ投げた。

 

枢機卿の法衣。

 

炎を覆う。

 

兵士も布。

 

水桶。

 

ヨハンの足元。

 

煙。

 

火は衣へ移る前。

 

ルーカスが柵の隙間へ入り、柱の縄へ。

 

「戻れ!」

 

エルザ。

 

少年は小刀で縄を切る。

 

教会兵が掴もうとする。

 

別の兵が止める。

 

「枢機卿は消せと!」

 

命令。

 

味方同士。

 

ハインツは壇上へ到着。

 

停止令。

 

封印。

 

枢機卿へ。

 

「帝国議会まで執行停止」

 

マルクスが読む。

 

「皇帝に権限は」

 

大司祭が言う。

 

「いま権限を議論するのか!」

 

枢機卿が怒鳴る。

 

広場では戦闘。

 

農民。

 

都市民兵。

 

教会兵。

 

マルティンが柵を越える。

 

「先生!」

 

ヨハンは縄が半分切れた状態。

 

「武器を捨てろ!」

 

「救いに来た!」

 

「私のために殺すな!」

 

「先生は分かっていない!」

 

マルティンの目。

 

怒り。

 

涙。

 

「我々は、ずっと殺されている!」

 

教会騎士が背後から。

 

マルティンが槍を振る。

 

騎士の腹。

 

血。

 

ヨハンの顔が崩れる。

 

自分の目の前。

 

自分の支持者。

 

「やめろ!」

 

声は群衆へ消える。

 

屋根から二本目の矢。

 

今度は枢機卿マルクスへ。

 

ルーカスが気づく。

 

「伏せて!」

 

枢機卿を押す。

 

矢は少年の脇腹へ。

 

ルーカスが倒れる。

 

エルザの声。

 

「ルーカス!」

 

彼女は柵へ。

 

兵を押す。

 

息子。

 

血。

 

「医師!」

 

枢機卿が叫ぶ。

 

自分を庇った異端印刷屋の息子。

 

矢尻。

 

灰色の羽根。

 

司教軍のものではない。

 

帝国軍でもない。

 

「塔!」

 

帝国護衛が屋根へ上がる。

 

狙撃手は逃げる。

 

灰色外套。

 

下に修道士服。

 

捕らえられる前に鐘塔から飛ぶ。

 

屋根へ。

 

別の建物。

 

群衆へ。

 

ヴァルデンの路地を知っている。

 

消える。

 

火刑台の炎は消えた。

 

だが広場の四か所で火災。

 

物売りの天幕。

 

教会兵舎。

 

印刷物の押収荷車。

 

聖典が燃える。

 

風。

 

紙が舞う。

 

火のついた頁が空へ上がる。

 

一枚が、倒れた農民の血の上へ。

 

《幸いなるかな、平和を作る者たち》

 

文字。

 

血。

 

炎。

 

誰かが拾う。

 

---

 

## 七

 

広場の戦闘を止めたのは、皇帝軍ではなかった。

 

教会でも。

 

改革派でも。

 

火だった。

 

天幕から隣家へ燃え移る。

 

木造の上階。

 

市民は敵味方を問う余裕を失った。

 

「水桶!」

 

「井戸へ!」

 

「屋根を壊せ!」

 

司教兵が農民と同じ桶を持つ。

 

改革派学生が教会倉庫から水を運ぶ。

 

マルティンの仲間も。

 

都市を守る必要。

 

共通の敵。

 

火。

 

ヨハンは帝国護衛の外套をかけられ、火刑台の下へ座っていた。

 

足に軽い火傷。

 

煙。

 

咳。

 

自由ではない。

 

帝国保護拘束。

 

枢機卿マルクスと向かい合う。

 

「生きています」

 

ヨハンが言う。

 

「見れば分かる」

 

「猊下が消した」

 

「皇帝命令が」

 

「確認前に」

 

マルクスは答えない。

 

火刑を命じた本人が、火を消した。

 

矛盾。

 

「撤回は」

 

枢機卿が尋ねる。

 

「していません」

 

「知っている」

 

「それでも」

 

「火刑の執行条件が壊れた」

 

「条件?」

 

「群衆暴動。皇帝停止令。狙撃。手続きが」

 

ヨハンは枢機卿を見る。

 

「私を助けたと言いたくない?」

 

「お前を助けたのではない」

 

「では」

 

「私の命令を、他人に奪わせなかった」

 

権力。

 

同時に責任。

 

マルクスは灰冠に火刑を利用されたくなかった。

 

「それでも感謝します」

 

「するな」

 

医師がルーカスを運ぶ。

 

エルザが隣。

 

少年は意識あり。

 

矢は脇腹。

 

内臓へ入ったか不明。

 

「母さん」

 

「話すな」

 

「本は」

 

「黙れ」

 

「配ってない」

 

「それでいい」

 

エルザは泣いていない。

 

顔が固い。

 

ヨハンが立とうとする。

 

兵が止める。

 

「ルーカス」

 

少年が目を開ける。

 

「先生」

 

「すみません」

 

「何が」

 

「私のために」

 

「枢機卿を押した」

 

「はい」

 

「先生じゃない」

 

ルーカスは少し笑う。

 

痛み。

 

「誰でもよかった」

 

人が狙われた。

 

押した。

 

信仰ではない。

 

判断。

 

ヨハンは言葉を失う。

 

伝記は、この場面を美しく変えるかもしれない。

 

少年が改革のため命を捧げた。

 

実際には、誰でもよかった。

 

それが、より重かった。

 

---

 

## 八

 

ヴァルデン市の死者は、最初の集計で四十三名。

 

翌日には五十一。

 

負傷者三百以上。

 

内訳。

 

改革派農民。

 

教会騎士。

 

都市民兵。

 

見物人。

 

商人。

 

子供二名。

 

火刑執行人も、群衆に踏まれて死んだ。

 

彼は点火していない。

 

灰色の男が火壺を投げた。

 

それでも火刑台の近くにいたため殺された。

 

罪と死因は一致しない。

 

マルティン・ブレヒトは逃亡。

 

仲間の一部は捕らえられた。

 

武器箱。

 

削られた刻印。

 

商会記録。

 

灰冠経路。

 

だが武器を使ったのは、怒っていた農民自身。

 

灰冠が槍を渡さなければ暴動は起きなかったか。

 

別の棒や鎌を持ったか。

 

分からない。

 

ヨハンは帝国軍の監視下で、ヴァルデン城へ移された。

 

枢機卿マルクスも、皇帝命令違反の調査対象として市を出られない。

 

異端審問官と改革説教師が、同じ城の別室へ拘束。

 

エルザは施療院。

 

ルーカスの手術。

 

矢尻は肋骨へ当たり、腹膜を掠めた。

 

生きる可能性はある。

 

熱が出れば危険。

 

「印刷工房は」

 

エルザが尋ねる。

 

職人が答える。

 

「半分焼けました」

 

「圧搾機は」

 

「壊された」

 

「活字」

 

「溶けてはいない。散っています」

 

一文字ずつ。

 

床。

 

泥。

 

血。

 

拾えば再び組める。

 

「小型版は」

 

職人が周囲を見る。

 

「出ました」

 

銀森領へ。

 

百二十部。

 

「止める?」

 

「なぜ」

 

「先生は、暴力を」

 

「本のせいと?」

 

職人は答えない。

 

「本も原因です」

 

エルザは言った。

 

驚かれる。

 

「武器だけではない。言葉も」

 

「では刷らない?」

 

ルーカスの寝息。

 

「刷る」

 

「矛盾です」

 

「知っている」

 

エルザは息子の手を握る。

 

「次版に注釈を増やす」

 

「読まれません」

 

自分がヨハンへ言った言葉。

 

「それでも入れる」

 

完全に誤解を防げない。

 

だから何もしないのではなく、誤解されにくくする。

 

遅い。

 

不十分。

 

「暴力否定の序文を」

 

「ヨハン先生の?」

 

「私が書く」

 

「印刷屋が神学を」

 

「印刷する責任は印刷屋にもある」

 

作者だけではない。

 

紙商人。

 

版組み。

 

運び手。

 

読者。

 

言葉を広げる者全員。

 

「題は」

 

職人が尋ねる。

 

エルザは考えた。

 

《この本は、あなたの怒りを正しいとは証明しない》

 

「売れません」

 

「小さく刷る」

 

---

 

## 九

 

エーレンブルク帝国議会は、ヴァルデン暴動の三日後に始まった。

 

諸侯。

 

司教。

 

自由都市。

 

騎士。

 

大学代表。

 

傍聴席。

 

ヨハンは負傷した足で立つ。

 

枢機卿マルクスも。

 

二人の間に皇帝コンラート。

 

火刑を命じた者。

 

焼かれるはずだった者。

 

止めた者。

 

「最初に確認する」

 

皇帝が言った。

 

「本議会は、ヨハン・アイゼンの教義を正しいと認めるためではない」

 

改革派が不満。

 

「同時に、聖座の火刑命令を正当と認めるためでもない」

 

教会側が不満。

 

「ヴァルデンで誰が何をしたか。帝国法と教会法の境界。民衆語聖典。農民暴動。灰冠会議の関与。分けて審議する」

 

「分けられません」

 

マルクスが言う。

 

「信仰と暴動は」

 

「だから混ぜて、ヨハン一人へ全責任を?」

 

コンラート。

 

「著作の責任は」

 

「本人へ。武器を渡した者は別。農民を殺した兵は別。火をつけた者は別」

 

「責任を細かく分ければ、誰も全体へ責任を」

 

「一人へ集めれば、残りが逃げる」

 

皇帝は死者名簿を示す。

 

「ヴァルデンの死者五十一。全員をヨハンの著作で説明するのか」

 

「できません」

 

枢機卿は認めた。

 

「なら始める」

 

ヨハンの尋問。

 

「民衆語聖典を認めるか」

 

「はい」

 

「教会の解釈権を否定するか」

 

「独占を否定します」

 

「農民が聖典を根拠に年貢拒否を」

 

「聖典だけで法契約は無効になりません」

 

傍聴席の農民代表から怒号。

 

「先生!」

 

ヨハンが彼らを見る。

 

「領主の不正は批判します。しかし、神の前の平等が、すべての役割と契約を一夜で消すとは書いていない」

 

「裏切り者!」

 

マルティン派。

 

「貴族に買われた!」

 

ヨハンの顔が傷つく。

 

自分の支持者。

 

「暴力を否定します」

 

「兵の暴力は?」

 

「同じです」

 

「領主が先に」

 

「先に殴られた者が、誰でも殴ってよい理由にはならない」

 

理想。

 

村では難しい。

 

「では、どう抵抗する」

 

農民代表が尋ねる。

 

ヨハンは答えに詰まる。

 

請願。

 

議会。

 

裁判。

 

それらが農民へ開かれていない。

 

「帝国議会へ農民代表を」

 

銀森選帝侯ハインリヒが言った。

 

諸侯がざわめく。

 

「身分秩序を壊す!」

 

「だから暴動になる」

 

ハインリヒの政治的狙い。

 

司教領を弱める。

 

農民の味方でも、完全にはない。

 

「農民身分会議を試験的に」

 

自由都市代表が提案。

 

「税と賦役の訴えに限定」

 

大司教セヴェリンが反対。

 

「神学問題へ口を出させない」

 

「自分の畑については」

 

議論が別方向へ。

 

ヨハン一人の裁判から、帝国制度。

 

言葉が扉を開く。

 

同時に混乱。

 

「聖典翻訳について」

 

皇帝が戻す。

 

「全面禁止は不可能」

 

印刷機がある。

 

押収しても別の都市。

 

「許可制を」

 

教会側。

 

「許可者は」

 

改革側。

 

「共同翻訳委員会」

 

大学代表。

 

聖職者。

 

言語学者。

 

都市印刷組合。

 

諸侯代表。

 

「農民は」

 

「読者代表を」

 

笑い。

 

農民は神学を理解しないという嘲り。

 

傍聴席からエルザの声。

 

「読む者を入れずに、読める言葉を決めるのですか」

 

彼女は息子を施療院へ残し、議会へ来ていた。

 

正式代表ではない。

 

印刷工房親方としても認められていない。

 

「女性は発言権が」

 

職人組合長が言う。

 

「私の工房を男の息子名義にしたのは、あなた方です」

 

議場がざわめく。

 

皇帝が尋ねる。

 

「名を」

 

「エルザ・クルーガー。ヴァルデン印刷工房」

 

「発言を許す」

 

「陛下!」

 

「本を刷った者だ。関係者だ」

 

エルザは議場中央へ。

 

「翻訳委員会へ、印刷職人と読者を入れてください」

 

「印刷技術の助言なら」

 

大学神学者。

 

「内容にも」

 

「神学教育がない」

 

「だから、教育のない者がどこで誤解するか分かります」

 

「誤解する側が」

 

「あなた方は、民衆がどの言葉で怒るか知りません」

 

ヨハンを見る。

 

《自由》。

 

《平等》。

 

《真実》。

 

神学では違う意味。

 

村では別。

 

「私たちは、誤解をなくせません」

 

エルザが言う。

 

「でも、誤解されることを前提に刷れます」

 

「どうやって」

 

「注釈。語句解説。異なる訳を並べる。どこが争点か書く」

 

「聖典へ疑いを」

 

「翻訳へ疑いを」

 

枢機卿マルクスが初めて興味を示す。

 

「異なる訳を並べれば、さらに混乱する」

 

「一つだけ見せれば、それが唯一と思う」

 

ヨハンも考える。

 

自分の訳を神の言葉そのもののように扱わせたくない。

 

だが改革運動は、明確な言葉を求める。

 

曖昧さは広がりにくい。

 

真実は一つ。

 

翻訳は複数。

 

その区別。

 

「共同委員会を作る」

 

皇帝が決めた。

 

「民衆語聖典の全面禁止を停止。ただし、無注釈版の新規印刷は審査まで保留」

 

改革派が不満。

 

教会側も。

 

「ヨハン・アイゼンは」

 

枢機卿が問う。

 

「帝国保護下で委員会へ参加。異端判決は保留」

 

「聖座は認めない」

 

「教皇本人の判断を求める」

 

「時間がかかる」

 

「かける」

 

コンラートは言った。

 

「今回は遅くする」

 

---

 

## 十

 

帝国議会の決定は、どの勢力にも勝利として利用された。

 

改革派諸侯は布告した。

 

《皇帝は民衆語聖典を認めた》

 

教会側は説教した。

 

《異端翻訳は審査下に置かれた》

 

自由都市は印刷許可料を設定。

 

大学は翻訳委員会の席を争う。

 

職人組合は、印刷工房の登録制度を求めた。

 

農民は、自分たちの代表が将来の会議へ入るという部分だけを広めた。

 

誰も、決定全体を同じようには読まない。

 

マルティン・ブレヒトは逃亡先の山村で、議会決定を破った。

 

「先生は裏切った」

 

仲間へ言う。

 

「皇帝と司教の委員会に入った」

 

「火刑を止めた皇帝です」

 

若者が言う。

 

「止めたのは群衆だ」

 

「枢機卿も火を消した」

 

「権力者同士の芝居だ」

 

灰冠の連絡者が、彼らへ近づく。

 

今度は武器ではない。

 

紙。

 

《十二箇条》

 

年貢廃止。

 

教会税廃止。

 

森林共同利用。

 

領主裁判廃止。

 

農奴解放。

 

マルティンの言葉に近い。

 

だが本人が書いていない条文も。

 

特に最後。

 

《抵抗する領主と聖職者の財産は、神の民の共同財産とする》

 

略奪を正当化できる。

 

「誰が書いた」

 

マルティンが尋ねる。

 

「各村の要求をまとめた」

 

灰色の書記。

 

「名は」

 

「民の声に名はない」

 

マルティンは紙を見る。

 

自分が言いたかったこと。

 

自分以上に整っている。

 

印刷すれば広がる。

 

「ヨハンの工房は」

 

「別の印刷所を用意した」

 

「どこ」

 

「安全な場所」

 

「誰の金」

 

「自由を望む商人」

 

同じ。

 

それでもマルティンは紙を受け取った。

 

怒りに、形が与えられる。

 

灰冠は怒りを作らない。

 

すでにある怒りへ、武器、文章、期限を与える。

 

---

 

## 十一

 

聖座ルミナでは、教皇グレゴリウス九世が枢機卿マルクスの報告を読んだ。

 

火刑命令。

 

皇帝停止令。

 

ヴァルデン暴動。

 

灰冠の紙。

 

狙撃。

 

議会決定。

 

「お前は、なぜ処刑を急いだ」

 

教皇が尋ねる。

 

マルクスは遠隔ではない。

 

ヴァルデンから呼び戻され、聖座へ戻った。

 

「暴動が広がる前に」

 

「広がった」

 

「はい」

 

「火を消した?」

 

「皇帝命令が」

 

「それだけか」

 

枢機卿は黙る。

 

「死なせれば誤りだったと思った?」

 

「分かりません」

 

「正直だ」

 

老教皇は窓の外を見る。

 

ルミナ大聖堂。

 

巡礼者。

 

「ヨハンの教義を、私はすべて認めない」

 

「はい」

 

「だが聖典を民衆語へ訳すこと自体を、異端とはできない」

 

マルクスが顔を上げる。

 

「教皇猊下」

 

「東方七燭派も南方啓句派も、それぞれの言葉で読む」

 

「教会統一が」

 

「統一は、読めない言葉で保つものか」

 

「異なる解釈が」

 

「出る」

 

「戦争に」

 

「なるかもしれない」

 

教皇は死者名簿を持つ。

 

オルシャ。

 

三港。

 

ヴァルデン。

 

宗派別ではない名簿。

 

「だから翻訳委員会へ使節を送る」

 

「皇帝の委員会へ?」

 

「聖座代表として」

 

「譲歩と」

 

「言わせろ」

 

「灰冠は、教会分裂を」

 

「我々が硬直すれば、助ける」

 

マルクスは苦い顔。

 

「私を罷免しますか」

 

「特使職は停止」

 

「枢機卿位は」

 

「維持」

 

「甘いと」

 

「お前を処刑すれば、教会強硬派の殉教者になる」

 

同じ理屈。

 

「報告を書け」

 

「何を」

 

「自分がなぜ署名し、なぜ火を消したか」

 

「矛盾しています」

 

「だから書く」

 

「後世に」

 

「まず我々が読む」

 

枢機卿は頭を下げた。

 

---

 

## 十二

 

ヨハンは、銀森選帝侯領の修道院へ移された。

 

囚人ではない。

 

自由でもない。

 

翻訳委員会の準備。

 

護衛。

 

監視。

 

訪問者制限。

 

夜。

 

机に聖典。

 

自分の訳。

 

火刑台で燃えた頁。

 

血の染み。

 

兵士が拾い、渡した。

 

《平和を作る者》。

 

「あなたの言葉ではありません」

 

エルザが言う。

 

訪問。

 

ルーカスは生きた。

 

熱も下がった。

 

まだ施療院。

 

「聖典の言葉です」

 

ヨハン。

 

「なら、あなたの責任ではない?」

 

「違います」

 

「どこまで」

 

「分かりません」

 

二人は黙る。

 

「次版の序文を」

 

エルザが紙を出す。

 

《この本は、あなたの怒りを正しいとは証明しない》

 

ヨハンが読む。

 

「強すぎます」

 

「読まれます」

 

「怒りそのものを否定しているように」

 

「では直してください」

 

ヨハンは筆を取る。

 

《この本は、不正に耐えよと命じるためのものではない》

 

次。

 

《同時に、あなたが不正を受けたことは、無関係な者を傷つける許可にはならない》

 

長い。

 

「序文だけで一頁」

 

エルザが言う。

 

「注釈も」

 

「紙代が」

 

「小型版では省略しない」

 

「売値が上がります」

 

「寄付を」

 

「誰から」

 

二人の目が合う。

 

灰冠。

 

商人。

 

諸侯。

 

金には意図がある。

 

「小口で」

 

エルザが言う。

 

「読者から一枚ずつ」

 

「足りない」

 

「足りる分だけ刷る」

 

「広がりが遅い」

 

「遅くします」

 

世界中で同じ答え。

 

ヨハンは少し笑う。

 

「印刷屋が、印刷を遅くする」

 

「火刑よりは速い」

 

---

 

## 十三

 

ルーカスが工房へ戻ったのは、二月後だった。

 

歩ける。

 

重い物は持てない。

 

脇腹に傷。

 

ヴァルデン工房は、屋根を直し、圧搾機を作り直した。

 

活字は完全には戻らない。

 

床から拾った文字。

 

川へ流れた文字。

 

溶けた文字。

 

不足分を新しく鋳る。

 

最初に刷ったのは聖典ではない。

 

ヴァルデン暴動死者名簿。

 

五十三名。

 

後から二人が傷で死亡。

 

改革派。

 

教会兵。

 

民兵。

 

見物人。

 

火刑執行人。

 

名前不明三名。

 

同じ大きさ。

 

次に、皇帝停止令。

 

枢機卿火刑命令。

 

両方。

 

並べて。

 

どちらかだけではなく。

 

「火刑命令も刷るのですか」

 

職人が尋ねる。

 

「なぜ処刑が始まったか残す」

 

「枢機卿の名誉が」

 

「本人が報告を書いています」

 

次。

 

武器箱の契約書。

 

商会印。

 

灰冠透かし。

 

分からない部分は分からないと。

 

最後に、民衆語聖典の改訂試刷。

 

一頁目。

 

原文。

 

訳文。

 

異なる訳。

 

注釈。

 

印刷は遅い。

 

紙も多い。

 

高い。

 

読みにくい。

 

以前の簡潔な版の方が広がるだろう。

 

実際、すでに旧版が帝国各地へ。

 

百二十部ではない。

 

写本。

 

再版。

 

海賊版。

 

誤植。

 

故意の改変。

 

ヨハンが書いていない注釈。

 

マルティンの十二箇条と一緒に綴じられた版。

 

教会批判だけ抜き出した版。

 

領主が農民服従の聖句だけ集めた版。

 

言葉は作者を離れている。

 

---

 

## 十四

 

神聖エーレン帝国内では、秋の終わりまでに三つの同盟が生まれた。

 

改革を保護する諸侯と自由都市による《自由読誦同盟》。

 

教会財産と伝統教義を守る司教領の《聖印連盟》。

 

年貢軽減、農奴解放、森林共同利用を求める農村の《十二箇条盟約》。

 

三つは互いに重なる。

 

自由読誦同盟の諸侯は聖典改革を支持するが、農奴解放には反対。

 

農村盟約はヨハンを尊敬するが、彼の非暴力と法的手続きを弱腰と批判。

 

聖印連盟の中にも、民衆語聖典そのものは認める司教がいる。

 

単純な二陣営ではない。

 

だからこそ危険。

 

同盟は、同じ敵を持つときだけまとまる。

 

灰冠会議は、それぞれへ別の情報を流した。

 

自由読誦同盟へ。

 

《聖印連盟が印刷都市への一斉攻撃を準備》

 

聖印連盟へ。

 

《改革諸侯が教会領没収日を決定》

 

農村盟約へ。

 

《皇帝と諸侯が共同で武装農民を冬前に処刑》

 

すべて一部は本当。

 

会議は行われている。

 

兵も集まっている。

 

処刑案もある。

 

日付と規模だけが変えられる。

 

「冬前に動くべきだ」

 

各陣営の強硬派が言う。

 

冬になる前。

 

道が凍る前。

 

敵が先に動く前。

 

灰冠が与える期限。

 

皇帝コンラートは、全同盟へ武装停止と春の帝国大議会を命じた。

 

自由読誦同盟は条件付きで受け入れ。

 

聖印連盟は教会領防衛を理由に兵を維持。

 

農村盟約は皇帝が領主側だと拒否。

 

帝国軍を動かせば、どこかの側へ見える。

 

動かさなければ、弱い。

 

「一人の皇帝で、三つの帝国を統治する」

 

宰相アウグストが言った。

 

コンラートはアウレリア三帝の報告を読んでいた。

 

「向こうは三人で一つ」

 

「交換しますか」

 

「三人もいらない」

 

皇帝は笑った。

 

疲れた笑い。

 

「農民代表を春議会へ」

 

「諸侯が反対」

 

「試験的に」

 

「選出方法は」

 

「各地域」

 

「領主が選ばせる」

 

「村で」

 

「富農が」

 

「抽選」

 

「字が読めない者が」

 

「書記をつける」

 

「費用は」

 

「また費用か」

 

制度。

 

例外。

 

維持費。

 

「灰冠が代表を買います」

 

宰相が言う。

 

「買われない者だけで国を作れるか」

 

「できません」

 

「なら買収を記録し、罷免できるように」

 

皇帝は決める。

 

完全ではない。

 

それでも扉を開く。

 

---

 

## 十五

 

冬の最初の雪が降った夜、マルティン・ブレヒトの十二箇条盟約は、修道院穀倉を一つ占拠した。

 

血は流さないと決めていた。

 

修道士を外へ。

 

穀物を村へ分配。

 

帳簿を公開。

 

最初は秩序。

 

一人一袋。

 

次に、遠い村から人が来る。

 

足りない。

 

修道士が隠し倉庫を持つという噂。

 

地下を探す。

 

何もない。

 

「嘘をついている」

 

誰かが言う。

 

修道院長を縛る。

 

殴る。

 

マルティンが止める。

 

「殺すな!」

 

「妹が飢えた!」

 

「この男が税を!」

 

修道院長。

 

個人。

 

制度。

 

区別されない。

 

灰色の書記が群衆へ紛れ、叫ぶ。

 

「銀を隠している!」

 

民衆が礼拝堂へ。

 

聖器。

 

金銀。

 

奪う。

 

マルティンは、自分の盟約が略奪へ変わるのを見る。

 

「これは共同財産だ!」

 

男が言う。

 

十二箇条の最後。

 

灰冠が加えた条文。

 

マルティン自身も配った。

 

「教会の物は村へ」

 

自分が言った。

 

結果。

 

修道士一人が逃げようとして、階段から落ちて死ぬ。

 

殺人か事故か。

 

また。

 

マルティンは死体を見る。

 

ヨハンの言葉。

 

《無関係な者を傷つける許可にはならない》

 

「先生は、正しかった?」

 

若い仲間が尋ねる。

 

マルティンは答えない。

 

正しい言葉が、正しい行動を保証しない。

 

---

 

## 十六

 

灰色の船室で、マルケル・セヴェロスはエーレン帝国の報告を読んだ。

 

《火刑執行、失敗》

 

《ヨハン・アイゼン生存》

 

《ヴァルデン暴動、成功》

 

《帝国・聖座権限対立、顕在化》

 

《民衆語聖典の全面禁止、失敗》

 

《翻訳委員会設立》

 

《農民代表制度、準備》

 

《改革諸侯同盟、成立》

 

《司教領連盟、成立》

 

《農村盟約、成立》

 

若い会計官が尋ねる。

 

「ヨハンを殺せませんでした」

 

「必要ない」

 

「殉教者にする予定では」

 

「生きた教祖は、死んだ教祖より多く間違える」

 

「彼は暴力を否定」

 

「支持者が聞かない」

 

「枢機卿も失脚」

 

「強硬派は別の枢機卿を立てる」

 

「皇帝は制度を開きました」

 

「費用が増える」

 

いつもの計算。

 

だがマルケルは、改訂聖典の試刷を手にしていた。

 

原文。

 

複数訳。

 

注釈。

 

読者向けの問い。

 

《この訳が唯一であると考えてはならない》

 

「これは」

 

若い会計官が言う。

 

「売れません」

 

「だろう」

 

「なら脅威ではない」

 

マルケルは頁をめくる。

 

「売れない本が、長く残ることもある」

 

「なぜ」

 

「簡単な答えを与えないからだ」

 

「人は簡単な答えを求めます」

 

「だから我々が利益を得る」

 

老人は本を閉じる。

 

「だが、簡単な答えを疑う者が増えれば」

 

「灰冠が」

 

「遅くなる」

 

彼が初めて、遅さを損失としてではなく恐れのように語った。

 

「次の計画を」

 

若い男。

 

マルケルは北方地図を見る。

 

神聖エーレン。

 

聖座ルミナ。

 

改革諸侯。

 

農村盟約。

 

冬。

 

軍を大規模に動かしにくい。

 

代わりに、破門。

 

財産凍結。

 

書簡。

 

説教。

 

「教皇を選ばせる」

 

「グレゴリウス九世は生きています」

 

「老いている」

 

「次期教皇選挙?」

 

「候補を今から分ける」

 

「改革へ寛容な者と、強硬派」

 

「両方へ資金を」

 

「また両側」

 

「信仰は金だけで動かない」

 

「では」

 

「だから、恐怖を添える」

 

---

 

## 十七

 

ヴァルデン工房の新しい圧搾機が動いた。

 

冬。

 

雪。

 

火刑台のあった広場には、市場が戻っている。

 

焼け跡の石だけ色が違う。

 

ルーカスが柄を引く。

 

傷が痛む。

 

以前ほど力がない。

 

職人が補助。

 

二人で。

 

最初の改訂版。

 

紙を剥がす。

 

文字。

 

《はじめに》

 

《この書物を読む者へ》

 

《あなたが文字を読めることは、あなたが正しいことを意味しない》

 

《文字を読めない者が、誤っていることも意味しない》

 

《同じ言葉を読み、異なる意味を得る者がいる》

 

《その違いを剣で終わらせてはならない》

 

ルーカスが読む。

 

「長い」

 

エルザが言う。

 

「先生より短い」

 

「印刷屋の文章としては長い」

 

「売れる?」

 

「前版の半分」

 

「借金は」

 

「増える」

 

「灰冠の寄付は」

 

「断る」

 

「銀森選帝侯は」

 

「受ける。ただし名前を奥付に」

 

「政治利用される」

 

「隠すより」

 

母子は同じ作業。

 

紙。

 

墨。

 

圧力。

 

一枚。

 

また一枚。

 

外では、旧版を掲げた農民が行進。

 

教会鐘。

 

帝国軍。

 

冬の静けさ。

 

戦争は始まっていない。

 

だが武器は納屋へ。

 

穀物は砦へ。

 

説教は鋭く。

 

破門状の草案。

 

諸侯の密約。

 

農民の十二箇条。

 

すべて春を待つ。

 

「先生は、この本で戦争を止められると思う?」

 

ルーカスが尋ねた。

 

エルザは新しい紙を重ねる。

 

「思わない」

 

「では、なぜ刷る」

 

「戦争が始まったあと、何を間違えたか読めるように」

 

「遅い」

 

「そうね」

 

彼女は圧搾機の柄を引いた。

 

「でも、何も残さないよりは」

 

---

 

神聖エーレン帝国の冬は長い。

 

雪が街道を閉ざし、軍を止め、農民を家へ戻す。

 

外から見れば、平和。

 

だが家の中で、聖典が読まれる。

 

父が読む。

 

子が聞く。

 

隣人が別の解釈をする。

 

司祭が誤りだと言う。

 

領主が禁止する。

 

印刷屋が次の版を刷る。

 

思想は、冬でも進む。

 

ヨハン・アイゼンは生きていた。

 

枢機卿マルクスも。

 

皇帝コンラートも。

 

マルティン・ブレヒトも。

 

誰も殉教者にはならなかった。

 

だから全員が、次の選択を誤る可能性を残した。

 

後世の歴史家は、ヴァルデン火刑未遂を《宗教戦争の始まり》と書く。

 

別の学者は、戦争を三年遅らせた議会の始まりと評価する。

 

どちらも正しい。

 

火刑台では五十三人が死んだ。

 

帝国全体の戦争は、その日は始まらなかった。

 

何を救い、何を失ったか。

 

数え方によって、勝敗は変わる。

 

灰暦八百七十二年、冬の第一月。

 

民衆語聖典の改訂版第一号が、ヴァルデン工房から出た。

 

表紙には、王冠も聖印もなかった。

 

小さな印刷機の絵。

 

その下に一行。

 

《言葉は、誰の所有物でもない》

 

同じ夜、聖印連盟の司教たちは改革諸侯への破門要求へ署名した。

 

自由読誦同盟は教会税の供出停止を決めた。

 

十二箇条盟約の農民たちは、春までに五万人を集めると誓った。

 

皇帝コンラートは、三者を同じ帝国議会へ呼ぶ召集状を書いた。

 

そして灰冠会議は、その召集状が届く前に、三者それぞれへ偽の議事録を送った。

 

《相手は、会議の場であなたを拘束する》

 

春まで、あと三月。

 

言葉は燃えなかった。

 

その代わり、人々の胸の中で、ゆっくりと熱を持ち始めていた。

書き溜めていた分のストックがほぼ尽きてきましたので… 更新頻度についてアンケートをさせていただきたいと思います。 以降の更新頻度はどの程度がよいでしょうか?

  • 死ぬ気でがんばれ
  • 可能な範囲でがんばれ
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