灰冠と香路の年代記   作:MOZIO

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第十四章 凍河の四本の矢

冬の川は、道になる。

 

夏には渡れない濁流も、気温が下がれば白い平原へ変わる。

 

馬が走る。

 

荷車が通る。

 

軍が渡る。

 

国境として引かれた水は、凍った瞬間に国境ではなくなる。

 

だから北方の王たちは、春より冬を恐れた。

 

春の川は敵を止める。

 

冬の川は敵を招く。

 

灰暦八百七十二年、冬の第二月。

 

サルグァ草原汗国とヴェリグラード諸公国の境を流れるイストラ河は、岸から岸まで凍結していた。

 

幅は場所によって五百歩。

 

中央部の氷は馬車を支えられる。

 

岸近くは葦と泥が混じり、薄い。

 

白い川面には、過去の通行跡が黒い筋となって残る。

 

商人の橇。

 

牧民の馬。

 

密輸人。

 

逃亡農民。

 

斥候。

 

そして両軍。

 

東岸には、サルグァの三千騎。

 

西岸には、ヴェリグラードの国境砦《白暁城》。

 

砦内の兵は千二百。

 

周辺諸公国から集まる援軍は、あと三日。

 

双方とも、相手が先に渡ると聞かされていた。

 

双方とも、自分は防衛していると考えていた。

 

---

 

## 一

 

サルグァ草原汗国の軍旗は、一つではなかった。

 

青い狼。

 

白い鷹。

 

赤い馬。

 

黒い鹿。

 

トグリル大汗が生きていた頃、それらの旗は大汗旗の下へ並んだ。

 

空色の布に四本の金矢。

 

四大氏族。

 

四方の騎兵。

 

一つの汗国。

 

だが大汗が死んだあと、四本の矢は誰の手にも握られていない。

 

大汗の子供は四人。

 

長子オルジェイ。

 

第二子バトゥル。

 

第三子テムル。

 

末子サラン。

 

古い草原法では、最も優れた息子が諸氏族会議によって選ばれる。

 

娘は候補にならない。

 

少なくとも、法典にはそう書かれている。

 

だがトグリルは、四人へ異なる権限を与えて死んだ。

 

オルジェイへ外交印。

 

バトゥルへ軍旗。

 

テムルへ氏族法の銀冊。

 

サランへ財務帳と駅伝網。

 

誰か一人が大汗になれば、残る三人の権限を奪う必要がある。

 

誰も即位しなければ、命令が四つに割れる。

 

そのため、暫定統治機関として《四矢評議会》が作られた。

 

一人一本。

 

四本が揃えば大汗命令と同じ。

 

二本なら限定命令。

 

一本なら自分の管轄だけ。

 

面倒な制度だった。

 

そしてサルグァの騎兵は、面倒な制度を嫌う。

 

馬は命令書を待たない。

 

敵も。

 

「今日、攻める」

 

バトゥルは言った。

 

東岸の軍議天幕。

 

背が高い。

 

広い肩。

 

冬でも毛皮外套の前を開けている。

 

戦場で兵士と同じものを食べ、最初に馬へ乗る。

 

騎兵から最も支持されている。

 

「何を」

 

オルジェイが尋ねた。

 

長子。

 

四十歳。

 

父に似た細い目。

 

剣より言葉を使う。

 

弟からは商人のようだと侮られ、外国からは四人の中で最も危険だと警戒される。

 

「白暁城を」

 

バトゥルは地図の上へ指を置いた。

 

「税吏を殺した者を渡さない。イリヤ公の使者も砦にいる」

 

「使者がいるから攻めない」

 

オルジェイ。

 

「人質になる」

 

「人質にする気はない」

 

「攻めれば同じです」

 

サランが言った。

 

二十八歳。

 

四人の中で最も若い。

 

髪を短く切り、男物の騎乗服を着る。

 

それを理由に嘲る者は、彼女が自分の借金と愛人の名を読み上げると黙った。

 

「イリヤ公が死ねば、ヴェリグラード諸公国は共同軍を出せる」

 

「もう出している」

 

バトゥルが返す。

 

「援軍六千。三日後」

 

「灰冠経路の報告では一万二千」

 

テムルが言った。

 

三十五歳。

 

毛皮帽の下から長い髭。

 

氏族法と祖先儀礼を重んじる。

 

戦争を好まない。

 

だが一度、法的に敵と決めた相手へは、バトゥルより容赦がない。

 

「実数は六千から一万二千」

 

オルジェイが言う。

 

「幅が広すぎる」

 

バトゥルが苛立つ。

 

「だから先に砦を落とす」

 

「税吏殺害の証拠は」

 

サランが尋ねた。

 

「死体」

 

「誰が殺した証拠」

 

「ヴェリグラードの矢が刺さっていた」

 

「矢尻は市場で買えます」

 

「サルグァの税吏が西岸で死んだ」

 

テムルが銀冊を開く。

 

「冬季牧草市の共同徴税権に基づき、西岸へ入る権利はある」

 

「ヴェリグラード側は、その条約を失効と」

 

オルジェイ。

 

「父上の署名がある」

 

「二十年前の条約です」

 

「条約は冬と同じだ。古くても戻る」

 

テムルは法を詩のように語る。

 

「問題は」

 

サランが別の帳面を広げた。

 

「税吏が徴収した銀が消えていることです」

 

「殺した者が奪った」

 

バトゥル。

 

「徴収予定額は銀貨八千。死体の周囲には荷車の跡が一台分」

 

「銀貨八千なら三台」

 

オルジェイが気づく。

 

「税吏は最初から全額を持っていなかった」

 

「帳簿上は持っていた」

 

サランは頁を示す。

 

徴収。

 

冬季馬市。

 

毛皮税。

 

琥珀路通行税。

 

合計。

 

「銀は、殺害の二日前に別口座へ移されています」

 

「どこへ」

 

「《北方巡礼者救済会》」

 

バトゥルが笑う。

 

「草原に巡礼者などいない」

 

「だから使いやすい」

 

「灰冠か」

 

「関連商会です」

 

天幕が静まる。

 

「なら税吏は灰冠の手先?」

 

テムル。

 

「分かりません。本人が横領したか、上官の命令か、帳簿を後から変えられたか」

 

「死体は本物だ」

 

バトゥル。

 

「はい」

 

「殺した者を討つ」

 

「誰か分からない」

 

「砦にいる」

 

「そう思わせたい者がいる」

 

また。

 

どの国でも。

 

オルジェイは地図を見る。

 

白暁城。

 

凍河。

 

援軍。

 

三千騎。

 

「イリヤ公へ会談を申し入れる」

 

「断られた」

 

バトゥル。

 

「岸上ではなく、氷上」

 

「罠だ」

 

「互いに十二人」

 

「矢が届く」

 

「両岸の弓兵を三百歩下げる」

 

「氷を割られる」

 

サランが言った。

 

「調べます」

 

「誰が」

 

「両国の氷師」

 

草原にも氷を読む者がいる。

 

冬の河川渡り。

 

遊牧民。

 

漁師。

 

「会談で何を話す」

 

テムル。

 

「税吏殺害。銀の行方。援軍停止。捕虜交換」

 

「白暁城の返還」

 

バトゥルが言う。

 

「返還?」

 

オルジェイ。

 

「百年前は我々の冬営地だ」

 

「百年前はヴェリグラードの公が東岸まで徴税していた」

 

「なら全部話すか?」

 

「話すための会談です」

 

バトゥルは机を叩く。

 

「父上なら攻めた!」

 

四人が黙る。

 

死者は反論しない。

 

だから皆が、自分に都合のよい父を使う。

 

「父上なら」

 

サランが言った。

 

「勝てる戦いだけ攻めました」

 

「勝てる」

 

「砦を落とせても、援軍が来ます」

 

「川が凍っている間に西へ」

 

「馬の飼料は十二日分」

 

「周辺から取る」

 

「雪の下から?」

 

バトゥルの顔が険しくなる。

 

軍の飼料不足。

 

兵士には秘密。

 

サランは公開した。

 

「なぜここで言う」

 

「軍議です」

 

「士官が聞いている」

 

「士官が知らずに馬を走らせる方がよい?」

 

「士気が落ちる」

 

「腹も減ります」

 

オルジェイが手を上げた。

 

「会談を申し入れる」

 

「二本の矢では」

 

テムルが言う。

 

外交印はオルジェイ。

 

軍停止はバトゥルの権限。

 

「弟」

 

オルジェイが見る。

 

バトゥルは長く黙った。

 

「日没まで」

 

「何が」

 

「会談は日没まで。答えがなければ明朝攻撃」

 

「合意に時間を」

 

「川の氷は待たない」

 

「分かった」

 

オルジェイは一本。

 

バトゥルも一本。

 

サランが財務印を置く。

 

「会談中、給金契約を凍結します」

 

「なぜ」

 

「兵へ支払う銀の一部が、同じ救済会から」

 

バトゥルの顔が変わる。

 

「我が軍の給金まで」

 

「父上の時代から」

 

テムルが銀冊を閉じた。

 

「四本目を」

 

会談命令へ自分の印を置く。

 

四本。

 

暫定大汗命令。

 

氷上会談。

 

---

 

## 二

 

白暁城の石壁は、雪より白かった。

 

ヴェリグラード諸公国の北東端。

 

もとは木砦。

 

何度も焼かれ、石へ。

 

鐘塔。

 

小さな聖堂。

 

穀物倉庫。

 

井戸。

 

氷河岸へ下りる二つの門。

 

砦司令官ダニーロ・クラヴェツは、城壁から東岸の天幕を数えていた。

 

「三千」

 

副官が言う。

 

「四千です」

 

「斥候は三千」

 

「馬が多い」

 

「替え馬」

 

「兵を馬に見せているかもしれない」

 

「逆だろう」

 

ダニーロは五十歳。

 

ヴェリグラードの小貴族。

 

顔に凍傷の痕。

 

過去三十年、国境砦を転々。

 

戦争より冬で多くの兵を失ってきた。

 

「四矢旗が揃っています」

 

副官。

 

「兄妹全員か」

 

「少なくとも旗は」

 

「旗だけかもしれない」

 

疑い。

 

情報が多いほど増える。

 

砦内には、ヴェリグラード北方同盟の使者イリヤ・ムスチスラヴィチ公がいる。

 

三十二歳。

 

青目。

 

長い金髪。

 

諸公国の中でも大きな領地を持つノヴァ湖公の弟。

 

正式な大公ではない。

 

だが外交と交易を任され、草原語を話す。

 

「氷上会談?」

 

イリヤはサルグァの書状を読んだ。

 

「受けるべきです」

 

ダニーロが言う。

 

「罠かもしれない」

 

「攻撃されるより」

 

「会談中に援軍を遅らせる」

 

「三日で来る援軍が、会談半日で遅れるか」

 

「公が死ねば」

 

「攻撃しても死にます」

 

イリヤは書状の四つの印を見る。

 

四本の矢。

 

本物。

 

「税吏殺害について」

 

「砦は関与していません」

 

「西岸で死んだ」

 

「密輸人同士の争いかも」

 

「刺さった矢は」

 

「我が国の型」

 

「兵の矢?」

 

「製造番号は削られていた」

 

ヴェリグラード軍の矢には、工房印。

 

削られている。

 

「銀八千」

 

イリヤが尋ねる。

 

「見つからない」

 

「本当に」

 

ダニーロが彼を見る。

 

「私が取ったと?」

 

「砦修理費が不足している」

 

「だからサルグァ税吏を殺す?」

 

「諸公国の中には、そうする者も」

 

「公は国境兵を何だと」

 

「飢えた人間」

 

イリヤは窓から砦内を見る。

 

兵士。

 

農民避難民。

 

家畜。

 

周辺村は東岸の軍を恐れ、砦へ逃げてきた。

 

人口が倍。

 

食糧は減る。

 

「馬市の帳簿を」

 

ダニーロが出す。

 

共同税。

 

サルグァ税吏。

 

ヴェリグラード徴税官。

 

両者の署名。

 

最後の頁。

 

《徴収銀、北方巡礼者救済会へ送金》

 

ヴェリグラード側の徴税官も署名。

 

「こちらも」

 

「三日前から行方不明」

 

「家族は」

 

「自宅で殺されていた」

 

妻。

 

息子。

 

従者。

 

全員。

 

徴税官本人はいない。

 

「逃亡か、連れ去り」

 

「灰冠」

 

ダニーロ。

 

「簡単に言うな」

 

イリヤは頁を見る。

 

「灰冠の名を出せば、誰でも自分の罪を隠せる」

 

「では我々の徴税官が」

 

「可能性は残す」

 

「公は味方を疑いすぎる」

 

「国は味方という名で盗まれます」

 

イリヤは会談受諾へ署名した。

 

「十二人」

 

「私も」

 

ダニーロ。

 

「砦司令官が出れば」

 

「氷を知る」

 

「兵が必要」

 

「副官が」

 

「あなたが死ねば士気が」

 

「公だけ死ぬ方が悪い」

 

二人は互いを見る。

 

「分かりました」

 

イリヤは言った。

 

「ただし、氷師は我々から二人。サルグァから二人。会談地点は共同確認後」

 

「弓兵は」

 

「三百歩」

 

「隠し弩を」

 

「全員、武器は短剣一本」

 

「短剣でも殺せる」

 

「素手でも」

 

完全な安全はない。

 

---

 

## 三

 

氷を調べたのは、漁師と牧民だった。

 

ヴェリグラード側の氷師ミーラ・コヴァチ。

 

四十四歳。

 

夫と二人の息子を春の増水で失い、以来、河川渡し場の管理をしている。

 

サルグァ側は老人エルデネ。

 

草原の冬道案内人。

 

二人は言葉が違う。

 

だが氷の音は同じ。

 

棒で叩く。

 

低い音。

 

厚い。

 

高い音。

 

薄い。

 

穴を開ける。

 

指の幅。

 

透明。

 

白濁。

 

気泡。

 

雪下の水。

 

「中央は安全」

 

ミーラが言う。

 

草原語の通訳。

 

「馬十二頭まで」

 

エルデネが首を振る。

 

「人二十四。馬は岸に」

 

「なぜ」

 

老人は氷へ耳を当てる。

 

「下に流れ」

 

「川なら流れる」

 

「速い」

 

会談予定地から北へ百歩。

 

氷表面は同じ。

 

だが下を流れる水が速い。

 

厚さはある。

 

荷重に耐える。

 

ただし何かで傷を入れれば割れやすい。

 

「南へずらす」

 

ミーラが提案。

 

エルデネが歩く。

 

雪を払う。

 

細い黒線。

 

人為的な切れ目。

 

氷鋸。

 

上から雪で隠されている。

 

「止まれ」

 

老人。

 

全員が動きを止める。

 

ミーラが膝をつく。

 

黒線を追う。

 

円。

 

直径五十歩。

 

氷が円形に切られている。

 

完全には貫通していない。

 

上部の三分の二。

 

重さと振動で落ちる。

 

「罠」

 

通訳が呟く。

 

「誰が」

 

氷師は答えない。

 

円の中心。

 

会談予定地点。

 

双方が十二人ずつ乗れば、割れる可能性。

 

死ななくても混乱。

 

両岸は相手を疑う。

 

戦争。

 

「足跡は」

 

ミーラが尋ねる。

 

雪が降った。

 

消えている。

 

「いつ切った」

 

「二夜以内」

 

エルデネが氷粉を触る。

 

「新しい」

 

「我々の氷鋸では」

 

ヴェリグラード兵が言う。

 

「刃幅が違う」

 

サルグァ兵も。

 

「西方商人の製品」

 

刃の跡。

 

細い。

 

均等。

 

セレスタ製の大型製氷鋸。

 

北方の湖で氷を切り、地下貯蔵するための道具。

 

商人なら持てる。

 

軍でも。

 

「誰へ報告する」

 

ミーラが尋ねる。

 

「双方へ」

 

エルデネ。

 

「同時に」

 

片方だけ先に知れば、相手を疑う。

 

氷師四人。

 

通訳二人。

 

同じ場所で報告書へ印。

 

文字を読めないエルデネは、馬蹄形の印。

 

ミーラは署名。

 

《会談地点に人為的な切氷を確認》

 

《施工者不明》

 

《会談場所を南へ二百歩移動》

 

「罠を残す?」

 

ヴェリグラード兵。

 

「消せば証拠が」

 

ミーラ。

 

「誰かが踏む」

 

「柵を」

 

両国の旗ではない。

 

白い布。

 

危険。

 

四方へ杭。

 

誰にも属さない印。

 

だが夜、誰かがそれを外す可能性。

 

監視を双方二名ずつ。

 

共同で。

 

---

 

## 四

 

氷上会談は正午に始まった。

 

空は灰色。

 

雪はない。

 

風。

 

凍った川を遮るものがない。

 

サルグァ側。

 

オルジェイ。

 

サラン。

 

テムル。

 

バトゥルは岸。

 

軍停止権限を持つが、会談へ出れば狙われると部下が止めた。

 

本人も、兄が自分を外したと感じている。

 

代わりに軍使二名。

 

氷師エルデネ。

 

通訳。

 

護衛。

 

十二。

 

ヴェリグラード側。

 

イリヤ公。

 

ダニーロ。

 

ミーラ。

 

法官。

 

書記。

 

護衛。

 

十二。

 

武器は短剣一本。

 

互いに外套の下を確認しない。

 

信用ではなく、礼儀。

 

「税吏を殺した者を」

 

テムルが最初に言う。

 

イリヤが答える。

 

「我々の徴税官も消えた」

 

「逃げた」

 

「家族は殺された」

 

「証拠を」

 

「持ってきた」

 

記録。

 

サランも。

 

銀の送金。

 

同じ救済会。

 

両国の徴税官が同じ帳簿へ署名。

 

「共同横領」

 

ダニーロ。

 

「あるいは命令」

 

サラン。

 

「誰の」

 

「父トグリル大汗の印があります」

 

オルジェイが姉を見る。

 

初めて聞く。

 

「何を」

 

サランは帳面を出した。

 

馬市税の秘密付属契約。

 

三年前。

 

《北方冬季交通安定化基金》

 

出資者。

 

灰冠関連商会。

 

担保。

 

馬市税。

 

琥珀路通行税。

 

戦時臨時渡河税。

 

署名。

 

トグリル大汗。

 

本物の印。

 

「父上が」

 

テムル。

 

「署名鑑定は」

 

「三人」

 

「なぜ黙っていた」

 

オルジェイが低く尋ねる。

 

「会談前に言えば、バトゥルが帳面を燃やす」

 

「燃やさない!」

 

岸から聞こえる距離ではない。

 

だが弟の反応は想像できる。

 

「契約内容は」

 

イリヤ。

 

サランが読む。

 

「サルグァとヴェリグラード間で武力衝突が発生し、イストラ河の軍事渡河が行われた場合、基金出資者は《冬季安全保障費》として両岸の通行税徴収権を十五年間得る」

 

ヴェリグラード側がざわめく。

 

「両岸?」

 

「ヴェリグラードの署名もあります」

 

「誰の」

 

イリヤは見たくない。

 

それでも帳面。

 

叔父。

 

大公ムスチスラフ二世。

 

北方同盟議長。

 

イリヤの兄の父。

 

「本物か」

 

ダニーロ。

 

イリヤは署名を知っている。

 

幼い頃から。

 

「似ています」

 

「印は」

 

「大公印」

 

両国の支配者が、同じ秘密契約へ。

 

戦争が起きれば債権者が川を得る。

 

「なぜ父たちは」

 

オルジェイが呟く。

 

「冬季街道整備費」

 

サラン。

 

「橋、駅、倉庫、馬市警備。灰冠の前身から借りた」

 

「実際に整備された」

 

テムル。

 

「琥珀路の収入も増えた」

 

「返済は」

 

「平時収入では足りなかった」

 

イリヤが理解する。

 

「だから戦時条項」

 

「戦争が起きれば通行料が上がる」

 

サラン。

 

「軍需輸送も」

 

「父たちは戦争を起こすつもりでは」

 

テムル。

 

「起きないと思った」

 

オルジェイ。

 

どこでも同じ。

 

秘密契約。

 

未来への担保。

 

「税吏は、この契約の回収を始めた」

 

サランが言う。

 

「戦争が起きていないのに」

 

「局地衝突を戦時と認定するため」

 

「だから殺された?」

 

「生きていれば証言する」

 

「誰が殺した」

 

「契約者側か、契約を隠したい我々側か」

 

誰も答えられない。

 

イリヤは叔父の署名を見る。

 

「大公は、これを知っている?」

 

「本人へ聞くべきです」

 

「援軍を率いて来るのは、兄アレクセイ」

 

「叔父は」

 

「病床」

 

「本当に?」

 

「何を疑う」

 

「死者は署名を否定しない」

 

トグリルは死んだ。

 

ムスチスラフは生きている。

 

なら証言できる。

 

「会談の合意を」

 

オルジェイが言う。

 

「第一、両軍は河川を渡らない」

 

「援軍も?」

 

イリヤ。

 

「西岸内の移動は止められない」

 

「砦の兵増強は攻撃準備」

 

テムル。

 

「東岸三千騎も」

 

ダニーロ。

 

「なら双方、現兵力を上限」

 

「援軍六千は」

 

「白暁城から二日地点で停止」

 

「我が軍は」

 

「現在地」

 

バトゥルが認めるか。

 

オルジェイは軍旗を持たない。

 

「四矢印が必要です」

 

サラン。

 

「日没まで」

 

イリヤ。

 

「第二、切氷罠の共同調査」

 

「第三、税吏と徴税官の殺害捜査」

 

「第四、秘密契約を両国で公開」

 

テムルが反対する。

 

「大汗の名誉が」

 

サランが見る。

 

「名誉を守って川を渡す?」

 

「氏族会議へ先に」

 

「公開前に帳面が消える」

 

「法に手順が」

 

「法を作った父が秘密契約を」

 

「だから法が不要になるのか!」

 

兄妹の対立。

 

イリヤ側も。

 

大公の署名を公開すれば、諸公国の統一が揺らぐ。

 

「同時公開」

 

イリヤが言う。

 

「両国の使者が、同じ日、同じ文面を」

 

「いつ」

 

「七日後」

 

「遅い」

 

サラン。

 

「冬道で各地へ写本を送る必要」

 

「三日」

 

「無理だ」

 

「五日」

 

「受ける」

 

オルジェイ。

 

テムルは不満。

 

だが四矢のうち、外交と財務は賛成。

 

軍は不明。

 

法は反対。

 

二本。

 

限定合意。

 

「バトゥルへ」

 

会談を終えようとしたとき。

 

東岸から角笛。

 

三度。

 

サルグァの攻撃信号。

 

全員が振り返る。

 

バトゥルの旗が上がっている。

 

赤い馬。

 

騎兵が動く。

 

「何を!」

 

オルジェイ。

 

西岸でも鐘。

 

白暁城。

 

警報。

 

弓兵が城壁へ。

 

「罠だ!」

 

ダニーロが叫ぶ。

 

「会談中に!」

 

「我々ではない!」

 

サラン。

 

東岸の騎兵。

 

数百。

 

氷へ。

 

バトゥル本人の姿は見えない。

 

旗だけ。

 

同時に西岸から、ヴェリグラード騎兵が出る。

 

白い双斧旗。

 

イリヤの兄アレクセイ公の軍旗。

 

援軍は三日後のはず。

 

すでに近くへ。

 

「兄上?」

 

イリヤが呟く。

 

双方が会談を裏切ったように見える。

 

双方とも驚いている。

 

「中央を離れろ!」

 

ミーラが叫ぶ。

 

切氷罠。

 

白旗杭。

 

ない。

 

誰かが撤去した。

 

攻撃する騎兵が、その方向へ。

 

「止めろ!」

 

オルジェイが東岸へ走る。

 

遠い。

 

角笛。

 

声は届かない。

 

会談の二十四人。

 

氷上。

 

両軍が迫る。

 

---

 

## 五

 

バトゥルは攻撃を命じていなかった。

 

東岸の丘。

 

軍旗が勝手に上がった瞬間、彼は天幕でオルジェイの会談報告を待っていた。

 

「誰が旗を!」

 

外へ。

 

旗竿。

 

赤い馬。

 

軍使ボロルが掲げた。

 

若い士官。

 

バトゥルの熱心な支持者。

 

「イリヤ公が兄上を捕らえたとの合図!」

 

「誰から」

 

「氷上斥候!」

 

「どこだ!」

 

「戻っていません!」

 

角笛は、バトゥル軍の予備信号。

 

《大汗家族拘束、救援》

 

本物。

 

誰かが使った。

 

「騎兵を止めろ!」

 

「もう三百が」

 

「停止角笛!」

 

別の音。

 

一度。

 

二度。

 

長く。

 

だが前進する騎兵には、風で聞こえにくい。

 

後方からは攻撃信号も続く。

 

二つ。

 

「角笛手を捕らえろ!」

 

灰色外套ではない。

 

サルグァ兵。

 

顔。

 

見覚えなし。

 

「どの氏族だ」

 

「白鷹の徽章」

 

オルジェイの氏族。

 

兄が裏切ったように見せる。

 

男は逃げる。

 

バトゥルが自ら馬へ。

 

弓。

 

男の馬の前へ射る。

 

転倒。

 

兵が押さえる。

 

「殺すな!」

 

毒歯。

 

確認。

 

口の奥。

 

小さな袋。

 

抜く。

 

灰冠の契約兵。

 

サルグァ語を話す。

 

白鷹兵の装備。

 

「前を止める!」

 

バトゥルは赤馬旗を自分で取った。

 

馬へ。

 

親衛騎兵。

 

氷へ。

 

---

 

## 六

 

西岸では、アレクセイ公の双斧旗を掲げた騎兵二百が、白暁城の北林から現れた。

 

だがアレクセイ本人はいない。

 

指揮官は、ヴェリグラード北方軍の若い騎士ヴァディム・ロスチン。

 

命令書。

 

《氷上会談は罠》

 

《イリヤ公救出》

 

《サルグァ軍が渡河する前に攻撃》

 

署名。

 

アレクセイ公。

 

印。

 

「本物です!」

 

ヴァディムは叫ぶ。

 

白暁城副官が門を開けた。

 

ダニーロは氷上。

 

司令官不在。

 

「公を救え!」

 

兵士は疑わない。

 

旗。

 

印。

 

敵騎兵。

 

すべて見える。

 

「待て!」

 

城内の老司祭ガヴリールが止めた。

 

「イリヤ公は会談へ自分で」

 

「捕らえられた!」

 

「見えるか」

 

氷上の小さな人影。

 

区別できない。

 

「サルグァ騎兵が動いた!」

 

「こちらも動けば」

 

「先に殺される!」

 

恐怖。

 

門から騎兵。

 

老司祭は踏まれかける。

 

「鐘を鳴らすな!」

 

副官が命じた。

 

だが鐘はもう。

 

誰が。

 

鐘守は塔で倒れている。

 

頭を殴られた。

 

代わりに灰色の修道服の男。

 

二度目の鐘。

 

射手が塔へ。

 

男は飛び降りず、鐘楼内で火をつけた。

 

鐘綱。

 

乾いた木。

 

煙。

 

証拠ごと。

 

---

 

## 七

 

東西の騎兵は、氷上で互いを見つけた。

 

サルグァ三百。

 

ヴェリグラード二百。

 

その間に会談団。

 

そして見えない切れ目。

 

オルジェイは東へ走りながら外套を振った。

 

「止まれ!」

 

草原語。

 

自軍先頭。

 

聞こえる距離。

 

だが後ろから押される。

 

馬は急に止まれない。

 

ヴェリグラード側では、イリヤが双斧旗へ向け叫ぶ。

 

「命令していない!」

 

風。

 

角笛。

 

鐘。

 

馬蹄。

 

声が消える。

 

「切氷へ入る!」

 

ミーラ。

 

円形罠。

 

雪で境界が見えない。

 

杭はない。

 

エルデネが氷棒を地面へ突き立てる。

 

「こっちだ!」

 

安全路。

 

会談団を南へ。

 

サランが振り返る。

 

サルグァ騎兵の先頭が、切れ目へ。

 

「知らせる!」

 

彼女は短剣一本。

 

旗なし。

 

外套を脱ぐ。

 

鮮やかな黄色の裏地。

 

財務使節の色。

 

振る。

 

騎兵が少し進路を変える。

 

全員ではない。

 

先頭二十騎。

 

氷の円へ。

 

最初の馬。

 

音。

 

乾いた割れ。

 

次に地面が沈む。

 

円形の氷が傾く。

 

馬。

 

騎手。

 

一斉に水へ。

 

後続が止まれない。

 

三十。

 

四十。

 

氷縁へ衝突。

 

裂け目が広がる。

 

黒い水。

 

悲鳴。

 

馬の脚。

 

人の手。

 

ヴェリグラード騎兵も反対側から罠へ近づく。

 

「南へ!」

 

ミーラが叫ぶ。

 

イリヤが自軍へ向かう。

 

「氷が切られている!」

 

先頭騎士ヴァディムが聞く。

 

減速。

 

後続。

 

一人が矢を放った。

 

誰へ。

 

サルグァ兵へ。

 

矢。

 

東側からも返る。

 

最初の実射。

 

ヴェリグラード騎士が落馬。

 

「射つな!」

 

イリヤ。

 

遅い。

 

弓。

 

数本。

 

まだ斉射ではない。

 

個人。

 

恐怖。

 

「旗を下ろせ!」

 

ヴァディムが双斧旗手へ。

 

旗手は命令書に従う。

 

「公の命令です!」

 

「私は公だ!」

 

「アレクセイ公の!」

 

兄弟。

 

どちらが上。

 

北方軍では兄。

 

外交使節としてはイリヤ。

 

命令が二つ。

 

ヴァディムが迷う。

 

その迷いの間に、氷穴から兵士の叫び。

 

「助けろ!」

 

サルグァ兵。

 

敵。

 

だが水。

 

ミーラが縄を投げる。

 

「掴め!」

 

草原語は話せない。

 

手振り。

 

兵士が掴む。

 

ヴェリグラード護衛が引く。

 

別の兵が反発。

 

「敵だ!」

 

「溺れれば捕虜にもならない!」

 

一人。

 

引き上げる。

 

濡れた毛皮。

 

凍る。

 

「衣を切れ!」

 

サランが短剣。

 

自国兵。

 

ヴェリグラード兵と一緒に。

 

二人目。

 

馬が暴れ、氷縁を壊す。

 

エルデネが馬の手綱を切る。

 

馬を沈め、人を救う。

 

兵士が泣き叫ぶ。

 

自分の馬。

 

草原民にとって家族。

 

「切れ!」

 

老人。

 

人と馬。

 

選ぶ。

 

バトゥルが東から到着した。

 

赤馬旗。

 

自ら。

 

「停止!」

 

親衛騎兵が横列。

 

後続を止める。

 

一騎が止まれず衝突。

 

落馬。

 

それでも大勢は止まる。

 

「誰が命じた!」

 

前線士官。

 

「救援信号が」

 

「私ではない!」

 

バトゥルは氷穴を見る。

 

水中。

 

自軍兵。

 

敵が救っている。

 

一瞬、理解。

 

「縄を全部出せ!」

 

「敵兵もいます」

 

「水の中に旗があるか!」

 

兵士が動く。

 

投げ縄。

 

馬具。

 

槍を横に。

 

サルグァとヴェリグラード。

 

両側から。

 

戦闘は完全には止まらない。

 

離れた場所で矢。

 

一人。

 

二人。

 

だが中心では救助。

 

指揮官が射撃停止を叫ぶ。

 

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## 八

 

氷穴から救われた者は、八十六人。

 

溺死。

 

三十二。

 

行方不明。

 

二十以上。

 

馬は百頭近く失われた。

 

矢による死者。

 

サルグァ七。

 

ヴェリグラード五。

 

救助中、氷がさらに割れ、両国の氷師一人ずつが落ちた。

 

エルデネは戻った。

 

ミーラの弟子は戻らなかった。

 

救助が終わる頃、日が傾いていた。

 

濡れた兵は、敵味方を分けず白暁城へ運ばれた。

 

東岸まで戻るより近い。

 

バトゥルは最初反対した。

 

「我が兵を敵城へ?」

 

「凍死します」

 

サラン。

 

「天幕へ運べ」

 

「氷を戻る間に」

 

「城内で人質に」

 

イリヤが言った。

 

「私が保証する」

 

「お前一人の保証で」

 

「では、あなたも城へ」

 

バトゥルが睨む。

 

罠。

 

それでも負傷兵。

 

「親衛百を連れる」

 

「城内へ百は」

 

ダニーロ。

 

「五十」

 

「二十」

 

「五十」

 

「三十」

 

「四十」

 

「受ける」

 

交渉。

 

凍死は待たない。

 

東岸から医師と乾いた衣服。

 

白暁城へ。

 

同時に、ヴェリグラード負傷者もサルグァの馬乳酒と毛皮を使う。

 

戦争の直前。

 

共同施療所。

 

砦聖堂。

 

聖冠派。

 

七燭派の小礼拝。

 

天穹信仰の火皿。

 

すべて。

 

宗教儀礼より、濡れた服を脱がす。

 

「女もいる!」

 

ヴェリグラード兵がサルグァ騎兵を見て叫ぶ。

 

若い女性騎兵。

 

胸布。

 

草原では氏族騎兵に女もいる。

 

「いま驚くことか!」

 

医師。

 

傷。

 

凍傷。

 

湯。

 

火。

 

敵兵同士が隣へ。

 

一人が目を開け、相手の制服に気づく。

 

短剣へ。

 

武器は取り上げられている。

 

「さっき俺を引いた」

 

ヴェリグラード兵が言う。

 

「俺ではない」

 

「同じ顔だ」

 

「お前たちも」

 

敵は、遠くから一つに見える。

 

近くでは違う。

 

---

 

## 九

 

捕らえられた灰冠の角笛手は、白暁城の地下へ運ばれた。

 

サルグァ側が捕らえた。

 

ヴェリグラード側にも鐘楼の共犯者。

 

一人は火災で死亡。

 

もう一人は逃亡。

 

共同尋問。

 

オルジェイ。

 

イリヤ。

 

サラン。

 

ダニーロ。

 

バトゥル。

 

テムル。

 

四矢全員。

 

バトゥルは兄へ怒っている。

 

兄は弟へ。

 

だが先に捕虜。

 

男の名はナラン。

 

サルグァ語。

 

草原生まれ。

 

白鷹氏族の遠縁。

 

「灰冠に雇われた?」

 

サランが尋ねる。

 

「違う」

 

「給金帳があります」

 

「家族への送金」

 

「どこに」

 

「北方巡礼者救済会」

 

男が笑う。

 

「子供が二人」

 

サラン。

 

「名も」

 

「言うな」

 

「知っている」

 

「家族は関係ない」

 

「なら、なぜ送金」

 

「兵士の給金だ」

 

「誰の命令」

 

「オルジェイ殿下の側近」

 

兄を見る。

 

「名は」

 

「アルスラン」

 

オルジェイの筆頭書記。

 

二十年仕えた。

 

会談命令も書いた男。

 

「どこに」

 

「東岸」

 

使者。

 

捜索。

 

アルスランは天幕で死んでいた。

 

毒。

 

遺書。

 

《長子を大汗へするため、バトゥルの暴走を止めようとした》

 

都合がよすぎる。

 

死者へ責任。

 

「本当にアルスランから?」

 

「三度会った」

 

「他に」

 

「灰色の帳面を持つ南方人」

 

「顔」

 

「口元に火傷」

 

ヨナが見た白い傷の男とは違う。

 

灰冠の連絡者は複数。

 

「目的は戦争」

 

「契約どおり角笛を」

 

「切氷も」

 

「知らない」

 

「税吏殺害」

 

「知らない」

 

「鐘楼の男は」

 

「知らない」

 

分業。

 

誰も全体を知らない。

 

「アルスランは、自分が大汗即位のため動くと?」

 

「オルジェイ殿下が即位すれば、草原は一つになると」

 

「兄上は」

 

バトゥルが見る。

 

「知らない」

 

オルジェイ。

 

「信じろと?」

 

「信じなくてもよい」

 

「側近が私の旗を使った!」

 

「あなたの旗手も確認せず」

 

「兵を責めるか!」

 

「命令系統の責任です」

 

兄弟が立つ。

 

テムルが机を叩いた。

 

「敵城で争うな!」

 

サランが冷たく言う。

 

「自軍天幕でも同じです」

 

イリヤは自分の側を見る。

 

「鐘楼の死者を」

 

遺体。

 

服。

 

修道士。

 

下に北方軍の綿入れ。

 

腕へ双斧の刺青。

 

アレクセイ公の親衛兵。

 

「兄の兵」

 

イリヤ。

 

「命令書も兄上の印」

 

ダニーロ。

 

「兄も関与?」

 

「分からない」

 

「公は味方を疑う」

 

「今は疑います」

 

角笛手と鐘楼兵。

 

両国の内部。

 

支配者の側近。

 

灰冠は外から軍を送らない。

 

中にいる者の望みを使う。

 

オルジェイを大汗にしたい書記。

 

アレクセイを北方大公にしたい騎士。

 

それぞれ、国のためと思っていた可能性。

 

「命令書を照合」

 

サラン。

 

ヴェリグラードの偽命令。

 

アレクセイの署名。

 

紙。

 

灰色冠の透かしはない。

 

地元製。

 

印は本物。

 

「印を盗んだ?」

 

イリヤ。

 

「兄の印璽官を調べる」

 

「援軍にいる」

 

「明日まで待てない」

 

「早馬を」

 

「川を渡れない」

 

「南の橋」

 

「二日」

 

「氷上を」

 

全員が氷を見る。

 

罠。

 

「共同使者」

 

オルジェイが言う。

 

「両国一人ずつ。攻撃しない印を持つ」

 

「途中で殺されれば」

 

「二組」

 

「また複製」

 

「はい」

 

---

 

## 十

 

夜、白暁城で四矢評議会が開かれた。

 

敵城内。

 

異例。

 

サルグァ兵四十。

 

城兵。

 

互いに武器。

 

四人は同じ部屋。

 

窓外に氷穴。

 

松明。

 

死体捜索。

 

「退却する」

 

オルジェイが言った。

 

バトゥルが即座に反対。

 

「いま退けば、我々が罠を仕掛けたと」

 

「残れば再衝突」

 

「白暁城を取る」

 

「会談後に?」

 

「向こうも騎兵を出した」

 

「偽命令で」

 

「我々も同じだ」

 

「だから攻める理由にならない」

 

「兵は納得しない」

 

バトゥルは窓へ。

 

救助した兵。

 

死者。

 

「仲間が氷で死んだ。敵城へ入り、何も取らず帰る?」

 

「敵も死んだ」

 

「同じ数なら終わりか」

 

「何人死ねば満足」

 

兄弟。

 

サランは帳簿を開く。

 

「飼料は十一日分へ減りました」

 

「またそれか」

 

「負傷馬を屠殺したため肉は増えました」

 

「兵の前で言うな」

 

「ここは評議会」

 

「敵の城だ」

 

「秘密にすれば、敵の方が先に知る」

 

テムルが銀冊。

 

「草原法では、会談中の攻撃は大罪」

 

「我々の攻撃ではない」

 

バトゥル。

 

「旗は我々」

 

「偽りだ」

 

「兵から見れば」

 

「法は見かけで裁くのか」

 

「結果も」

 

テムルは悩む。

 

法典に、支配者印を偽造された軍の責任はない。

 

「攻撃に出た指揮官を裁くべきです」

 

オルジェイ。

 

「偽信号を信じた」

 

バトゥル。

 

「確認を」

 

「家族拘束信号に確認を待てと?」

 

「だから信号制度を変える」

 

「次から?」

 

「次を減らすため」

 

弟が笑う。

 

「兄上は、いつも次の話をする」

 

「今日死んだ者を戻せない」

 

「だから敵の血を」

 

「戻らない」

 

「兵へ言えるか」

 

「言う」

 

オルジェイは弟を見る。

 

「大汗になりたいなら、言わなければならない」

 

部屋が静まる。

 

「何を」

 

「勝てない戦いから退くと」

 

挑発。

 

同時に問い。

 

バトゥルは拳を握る。

 

「兄上が大汗なら、退く?」

 

「はい」

 

「兵が離れる」

 

「離れるかもしれない」

 

「汗国が割れる」

 

「攻めても割れる」

 

「なら誰が」

 

「まだ決めない」

 

バトゥルは兄へ近づく。

 

「父上は、死ぬ前に誰を選んだ」

 

誰も知らない。

 

遺言なし。

 

権限を四つへ。

 

「選ばなかった」

 

サラン。

 

「臆病だった?」

 

バトゥル。

 

「我々を知っていた」

 

テムル。

 

「一人へ渡せば三人が反乱すると?」

 

オルジェイ。

 

「父上自身が秘密契約へ署名していた」

 

サランは言った。

 

「大汗も間違えた」

 

テムルが姉を睨む。

 

「死者を裁くな」

 

「死者の契約で兵が死んだ」

 

「父上は街道を作った」

 

「灰冠へ川を担保に」

 

「結果を知っていたか」

 

「知らないことは無罪?」

 

また。

 

親。

 

王。

 

秘密。

 

「契約を公開します」

 

サラン。

 

テムルが反対。

 

「氏族会議が先」

 

「五日後、同時公開の合意」

 

「法を」

 

「契約が国境を戦争へする」

 

「大汗の名誉」

 

バトゥルが意外にも言った。

 

「公開しろ」

 

テムルが兄を見る。

 

「お前が?」

 

「父上が騙されたなら、知る。売ったなら、もっと知る」

 

「兵が失望する」

 

「父上を神にしたのは法官だ」

 

テムルの顔に怒り。

 

バトゥルは続ける。

 

「俺は父上と酒を飲んだ。怒鳴られた。殴られた。間違える人間だった」

 

「大汗への侮辱」

 

「息子の記憶だ」

 

オルジェイも。

 

「公開へ賛成」

 

三本。

 

テムルの法印なしでも、財務・外交・軍の共同命令。

 

公開は可能。

 

「兄弟で法を踏むか」

 

テムル。

 

「法を変える手順を」

 

オルジェイ。

 

「五日以内に氏族会議を招集」

 

「草原中から集まらない」

 

「駅伝で代表確認」

 

「伝統では」

 

「伝統は、凍った川へ書かれていない」

 

テムルは長く黙った。

 

最後に銀冊へ一行。

 

《大汗署名契約の緊急公開は、汗国存立危機に限り四矢全員の合意を要す》

 

「全員?」

 

サラン。

 

「私の矢も」

 

「反対しているのに」

 

「法を変えるなら、法の中で」

 

「では」

 

テムルは自分の印を置いた。

 

四本。

 

父の契約を公開。

 

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## 十一

 

ヴェリグラード側でも、イリヤが兄の命令書を前にしていた。

 

アレクセイ公。

 

北方軍を率いる兄。

 

幼い頃から勇敢。

 

父の後継者。

 

イリヤより人気。

 

「本物なら」

 

ダニーロが言う。

 

「兄上は会談を罠と信じた」

 

「なぜ」

 

「誰かが情報を」

 

「印を使われただけかもしれない」

 

「命令書の文体は」

 

「兄上に似ている」

 

「なら」

 

「似せられる」

 

イリヤは認めたくないのか。

 

自分でも分からない。

 

「秘密契約を公開すれば、大公家が」

 

ダニーロ。

 

「叔父上の署名」

 

「国を売ったと」

 

「戦争が起きれば税権を渡す契約」

 

「街道整備で交易は増えた」

 

「だから善い?」

 

「当時は」

 

「今の死者は」

 

ダニーロは黙る。

 

「公は兄上と争うことになります」

 

「証拠が本物なら」

 

「大公位を狙っていると」

 

「狙っていない」

 

「誰が信じる」

 

正しい。

 

兄を調査。

 

叔父の秘密を公開。

 

自分が正統性を高める。

 

「あなたは」

 

イリヤが尋ねる。

 

「私が大公になりたいと思うか」

 

「人は、思っていない時ほど聞きません」

 

「答えを」

 

ダニーロは砦司令官。

 

政治家ではない。

 

「なりたい部分はあるでしょう」

 

イリヤの顔が固まる。

 

「失礼を」

 

「続けて」

 

「兄上より上手くやれると思っている」

 

「はい」

 

認める。

 

危険。

 

「だから、一人で調べない」

 

「誰と」

 

「自由都市代表。教会。国境兵。サルグァ調査官」

 

「外国人を大公家の調査へ?」

 

「契約は両国」

 

「裏切りと」

 

「隠せば」

 

「それも」

 

どちらでも。

 

「公開へ署名します」

 

イリヤは自分の印。

 

北方同盟全体を拘束できない。

 

だが外交使節として共同文書へ。

 

「兄上が反対すれば」

 

「議会で」

 

「兵を連れて来ます」

 

「こちらにも兵が」

 

「内戦です」

 

「だから兵を会議場から離す」

 

「従う?」

 

「分かりません」

 

イリヤは疲れた顔で笑う。

 

「分からないことばかりですね」

 

「国境勤務では普通です」

 

ダニーロ。

 

「何を基準に生きてきた」

 

「朝、門を開けるかどうか」

 

「単純だ」

 

「開ける理由は複雑です」

 

---

 

## 十二

 

翌朝、両軍は同時に五百歩下がった。

 

完全な撤退ではない。

 

河岸から距離。

 

白暁城の門は閉じたまま。

 

サルグァ天幕も残る。

 

氷上中央に、共同救護所の小屋。

 

死体捜索。

 

両国から十名ずつ。

 

武器なし。

 

氷穴へ縄。

 

一体。

 

二体。

 

凍った水から引き上げる。

 

服。

 

顔。

 

国籍。

 

名。

 

サルグァ兵の首に、ヴェリグラードの聖印。

 

戦利品か。

 

母が異国人か。

 

商人から買ったか。

 

ヴェリグラード兵の袋に、天穹信仰の青紐。

 

人間は国境より混ざっている。

 

「これは我々の」

 

サルグァ兵。

 

「徽章は」

 

「顔を知っている」

 

記録。

 

双方の書記。

 

同じ死体を別帳簿へ。

 

名前が違う。

 

一方は《ボロド》。

 

他方は《ボリス》。

 

国境市場で二つの名を使っていた。

 

「どちらを」

 

「両方」

 

サランが決める。

 

《ボロド、ヴェリグラード側ではボリスと名乗る》

 

死者一人。

 

名二つ。

 

所属も。

 

馬商人兼斥候。

 

「敵か味方か」

 

書記。

 

「死者」

 

それだけでは軍の補償が出ない。

 

「サルグァ兵籍あり。ヴェリグラード市場登録あり」

 

両国が半額ずつ家族へ。

 

「家族は」

 

「東岸に妻。西岸に母」

 

二つ。

 

補償も。

 

制度が追いつかない。

 

その場で共同決定。

 

また例外。

 

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## 十三

 

二組の共同使者のうち、一組はアレクセイ公の軍へ到着した。

 

もう一組は消えた。

 

馬だけ。

 

血。

 

文書鞄なし。

 

到着した使者。

 

サルグァ書記とヴェリグラード騎士。

 

アレクセイの野営地。

 

白暁城から二日のはずが、一日の距離。

 

兵七千。

 

灰冠報告の六千から一万二千の間。

 

「なぜ前進を」

 

使者。

 

アレクセイ公は三十六歳。

 

弟より大柄。

 

短い金髪。

 

左目に戦傷。

 

「サルグァ三千が砦を包囲」

 

「攻撃停止合意を」

 

「弟が勝手に」

 

「外交全権を」

 

「国境条約だけ」

 

「会談救出命令は」

 

偽造命令書を見せる。

 

アレクセイが読む。

 

「私の署名に似ている」

 

「印は本物」

 

印璽官を呼ぶ。

 

不在。

 

前夜から。

 

「逃げた?」

 

「家族も」

 

「命令は出していない」

 

使者たちが安堵。

 

完全ではない。

 

本人の言葉。

 

記録。

 

「叔父上の秘密契約を」

 

ヴェリグラード騎士が言う。

 

アレクセイの顔が変わる。

 

「どこで知った」

 

知っている反応。

 

「公は」

 

「知らない」

 

早い否定。

 

「契約は本物?」

 

「文書を見せろ」

 

「五日後、同時公開」

 

「公開するな」

 

「なぜ」

 

「北方同盟が割れる」

 

「公は知っていた?」

 

「全部ではない」

 

一部。

 

「父から、戦時税の担保があると」

 

「戦争が起きれば」

 

「契約者へ通行権」

 

「なぜ弟君へ」

 

「知らせる必要がなかった」

 

「民へも」

 

「外交契約だ」

 

「軍が死にました」

 

「契約が殺したのではない!」

 

アレクセイの声。

 

「灰冠が利用した」

 

「利用される秘密だった」

 

サルグァ書記が言う。

 

護衛が剣へ。

 

「草原人が」

 

「共同使者です」

 

ヴェリグラード騎士が前へ。

 

自国の公へ。

 

「イリヤ公は公開に署名」

 

「弟は私を追い落とす気か」

 

「公位は」

 

「同じだ」

 

アレクセイは天幕を歩く。

 

「援軍を止める」

 

「白暁城から二日地点へ」

 

「ここは一日」

 

「後退を」

 

「兵が」

 

「氷上死者を見ています」

 

「負けたように」

 

「戦っていません」

 

「十二人死んだ」

 

「サルグァも」

 

「だから同数で終わり?」

 

ジュリアンと老婆。

 

アルベリク。

 

どの国でも。

 

「公」

 

ヴェリグラード騎士が言う。

 

「命令書が偽造された。印璽官が消えた。前進すれば、灰冠の望み」

 

「退けば弟の望み」

 

アレクセイの恐れ。

 

灰冠より弟。

 

国家より家。

 

「イリヤ公は大公位を望まないと」

 

「本人が?」

 

「はい」

 

「信じるか」

 

騎士は答えない。

 

「三日」

 

アレクセイが言う。

 

「現在地で停止。公開前に私も文書を見る」

 

「五日後」

 

「二日で写しを」

 

「共同使者を」

 

「受ける」

 

完全撤退ではない。

 

だが前進停止。

 

一方、消えた使者の文書は灰冠へ。

 

その写しが、翌日には諸公国へ流れた。

 

内容は改変。

 

《サルグァとイリヤ公が、アレクセイ公を排除する密約》

 

署名を組み合わせる。

 

本物の合意文書。

 

偽の一条。

 

真実と嘘。

 

---

 

## 十四

 

五日後、秘密契約は両国で公開された。

 

同時。

 

完全には同時でない。

 

サルグァの草原駅伝は夜明け。

 

ヴェリグラードの教会鐘は午前。

 

数刻の差。

 

それでも。

 

サルグァ各氏族へ朗読。

 

トグリル大汗の署名。

 

冬季交通基金。

 

戦時通行税。

 

灰冠。

 

氏族長たちは怒った。

 

「死者を辱める!」

 

「四矢が父を売った!」

 

「サランが帳簿を偽造!」

 

「オルジェイは即位のため!」

 

「バトゥルはなぜ止めない!」

 

「テムルは法を裏切った!」

 

四人全員が非難される。

 

一人だけなら排除できる。

 

四人とも署名した。

 

だから制度全体が揺れる。

 

ヴェリグラードでは、大公ムスチスラフ二世の署名が読まれた。

 

病床の大公は、最初、文書を偽造と否定。

 

夕方、証言を変える。

 

《街道整備のため署名した》

 

《戦時条項は形式的で、発動しないと説明された》

 

誰に。

 

マルケル・セヴェロスの代理人。

 

二十年前。

 

死んだ財務官。

 

「私も署名した」

 

大公は公の場で言った。

 

「トグリル大汗も」

 

「だから正しい?」

 

市民代表が問う。

 

「違う」

 

老人。

 

「二人の支配者が同じ誤りをした」

 

「責任は」

 

「私に」

 

「返済は」

 

「国に」

 

「責任だけ個人、借金は民?」

 

鋭い。

 

大公は答えられない。

 

「私財を」

 

「足りません」

 

「では」

 

「契約無効を争う」

 

「敗訴すれば」

 

「通行税を」

 

群衆が怒る。

 

「我々が払う!」

 

責任の言葉。

 

代価。

 

一致しない。

 

---

 

## 十五

 

公開後、四矢評議会は大汗選出を延期した。

 

本来、冬至に氏族会議。

 

延期。

 

春。

 

理由。

 

契約調査。

 

軍信号改革。

 

国境合意。

 

本音。

 

いま誰かを選べば、ほかの三人が疑われる。

 

バトゥルの支持者は怒った。

 

「将軍こそ大汗!」

 

「外交屋が兵を止めた!」

 

「女が父の名を汚した!」

 

サランへの侮辱。

 

彼女は集会へ自ら出た。

 

「父の契約を読んだのは私です」

 

石。

 

一つ。

 

護衛が盾。

 

サランは続ける。

 

「偽造なら、私を裁けます」

 

「本物なら?」

 

「父も裁け」

 

群衆が騒ぐ。

 

「死者を?」

 

「契約を」

 

「大汗は法だ!」

 

テムルが前へ。

 

法の守り手。

 

「大汗も法に従う」

 

自分が言う。

 

氏族長が叫ぶ。

 

「なら、なぜ二十年隠された!」

 

「我々が、死者の名を法より上へ置いたからだ」

 

テムル自身の告白。

 

彼も父の名誉を守ろうとした。

 

「四矢は父へ反逆した!」

 

バトゥルが群衆へ向く。

 

兵士が彼の名を。

 

「父上が生きていれば、俺を殴るだろう」

 

笑いが少し。

 

「だが契約を読んだあと、父上も灰冠の代理人を殴る」

 

「大汗は騙された?」

 

「騙された部分も、望んで署名した部分もある」

 

「どちらだ!」

 

「両方だ!」

 

バトゥルの声。

 

「人は、強くても間違える!」

 

兵士たちが静まる。

 

彼らが最も信じる男。

 

強さだけでは足りないと。

 

「俺は白暁城を攻めたかった」

 

「今も?」

 

「今も腹では攻めたい」

 

正直。

 

「だが攻めれば、灰冠へ川を渡す」

 

「では我慢を」

 

「そうだ」

 

「臆病だ!」

 

「言え」

 

バトゥルは胸を叩く。

 

「俺の前で言え!」

 

誰もすぐには。

 

「臆病で兵を生かせるなら、一日だけ臆病になる」

 

オルジェイが横で言う。

 

「一日だけ?」

 

「明日も必要なら」

 

兄弟が少し笑う。

 

完全な和解ではない。

 

だが同じ場。

 

四本の矢。

 

---

 

## 十六

 

《凍河協定》は、白暁城の氷上ではなく、岸の共同救護小屋で署名された。

 

氷は信用できない。

 

石城も。

 

東岸天幕も。

 

どちらかの場所へ入れば、片方が優位。

 

救護小屋。

 

両国が建てた。

 

死者を運び、負傷者を温めた場所。

 

条項。

 

春の解氷まで、双方の主力軍はイストラ河から一日行程以上離れる。

 

白暁城守備隊は現状維持。

 

サルグァ騎兵は冬営地へ後退。

 

共同氷上監視隊を設置。

 

軍用信号は、単一の旗や角笛で発動しない。

 

二種類の確認符号。

 

指揮官の口頭確認。

 

緊急時でも。

 

遅い。

 

それでも。

 

税吏殺害と徴税官失踪を共同捜査。

 

北方巡礼者救済会の資産凍結。

 

秘密契約の戦時条項を両国とも無効宣言。

 

債権者が異議を申し立てる場合、公開法廷。

 

通行税徴収権は渡さない。

 

代わりに、実際に整備された街道費の元金について共同精査。

 

借金そのものをすべて拒否しない。

 

利用した道路。

 

橋。

 

駅。

 

利益。

 

払うべき部分もある。

 

「灰冠へ金を払うのか」

 

バトゥル。

 

「道路は使った」

 

サラン。

 

「戦争条項は払わない」

 

「元金だけ」

 

イリヤ。

 

「利子は」

 

「上限」

 

「誰が決める」

 

「共同監査」

 

また。

 

最後の条項。

 

氷上死者への補償。

 

それぞれ自国兵へ。

 

共同救助中に死亡した氷師二名へ、両国が同額。

 

国籍でなく役割。

 

「不明兵は」

 

書記。

 

「共同基金」

 

「財源は」

 

「凍結した救済会資産」

 

灰冠の金で、罠の死者を補償する。

 

法官が反対。

 

違法資産の没収手続き。

 

「仮差押え」

 

イリヤ。

 

「後で敗訴すれば」

 

「返す」

 

「使った後」

 

「両国が負担」

 

未来の債務。

 

避けられない。

 

記録。

 

署名。

 

オルジェイ。

 

バトゥル。

 

テムル。

 

サラン。

 

四本の矢。

 

イリヤ。

 

ダニーロ。

 

ヴェリグラード北方同盟代表。

 

アレクセイ公は署名しなかった。

 

使者を通じ、軍事停止には同意。

 

秘密契約無効には保留。

 

兄弟の対立は残る。

 

---

 

## 十七

 

サルグァ軍が東へ後退するとき、兵士たちは白暁城を何度も振り返った。

 

攻めずに帰る。

 

敗北のよう。

 

だが荷車には負傷兵。

 

生きている。

 

死体。

 

名前。

 

馬の鞍。

 

「勝ったのか」

 

若い騎兵が尋ねた。

 

バトゥルは馬上。

 

「砦は取っていない」

 

「負けた?」

 

「敵も川を渡っていない」

 

「では」

 

「知らん」

 

将軍が言う。

 

兵士が驚く。

 

「大汗なら、勝利と言うべきです」

 

「まだ大汗ではない」

 

「なったら」

 

バトゥルは考える。

 

「兵が生きて帰ったと言う」

 

「歌になりません」

 

「歌手へ任せる」

 

後方でサランが帳簿。

 

失った馬。

 

飼料。

 

治療費。

 

補償。

 

秘密契約。

 

数字。

 

オルジェイはヴェリグラードへの使者文。

 

テムルは新しい信号法。

 

兄妹は同じ隊列。

 

別々の仕事。

 

四矢評議会は遅い。

 

だが一人なら見落とすものを、四人が争いながら拾う。

 

いつまで続くか。

 

誰も知らない。

 

---

 

## 十八

 

白暁城では、イリヤが兄アレクセイからの書状を読んでいた。

 

《お前は草原人と大公家の秘密を売った》

 

《叔父上の病が悪化した》

 

《北方諸公会議へ出頭せよ》

 

《拒めば、反逆と見なす》

 

「行きますか」

 

ダニーロ。

 

「行かなければ、認めたことになる」

 

「行けば拘束」

 

「共同記録を持つ」

 

「記録が剣を止めますか」

 

「止めない」

 

「では」

 

「記録なしでは、剣だけになる」

 

イリヤは写本を七部。

 

白暁城。

 

自由都市。

 

教会。

 

サルグァ。

 

皇帝使節。

 

黒帳商会の公開支部。

 

一部は敵へも。

 

「黒帳へ?」

 

ダニーロが疑う。

 

「彼らの支店も救済会に利用されたと」

 

「信じる?」

 

「帳簿を出した部分だけ」

 

「部分的信用」

 

「人間は、そのくらいで」

 

イリヤは城壁へ。

 

凍河。

 

氷穴は雪で覆われ始めている。

 

危険杭を増やした。

 

白布。

 

両国文字。

 

《氷薄し》

 

誰でも読める絵。

 

落ちる馬。

 

人。

 

「春になれば、罠も流れる」

 

ダニーロ。

 

「証拠も」

 

「記録は残る」

 

「氷は」

 

「また冬に凍る」

 

同じ場所。

 

同じ危険。

 

違う制度で防げるか。

 

---

 

## 十九

 

灰冠会議の北方報告。

 

《凍河計画》

 

《四矢軍と北方軍の全面衝突、失敗》

 

《氷上損害、限定》

 

《秘密契約公開、発生》

 

《戦時通行税取得、失敗》

 

《北方街道債権、法的係争へ》

 

《四矢評議会、大汗選出延期》

 

《ヴェリグラード大公家内紛、顕在化》

 

《共同監査制度、成立》

 

若い会計官は、以前ほど素直に失敗を成功へ言い換えなくなっていた。

 

「損失です」

 

マルケル・セヴェロスの前で言う。

 

「はい」

 

老人。

 

「北方通行税は大きい」

 

「十五年分」

 

「回収できません」

 

「法廷で争う」

 

「公開法廷です」

 

「それでも」

 

「契約が公開されれば、他国も無効を」

 

「するだろう」

 

若い男は老人を見る。

 

「彼らはつながり始めています」

 

オルシャの鍵守評議会。

 

ヴァルネリアの三身監査。

 

アウレリア三帝。

 

ナフル公開債券。

 

エーレン翻訳委員会。

 

サルグァとヴェリグラードの共同調査。

 

制度は違う。

 

共通するのは、秘密を一人へ集めないこと。

 

「止めますか」

 

「止めようとしている」

 

「失敗が増えています」

 

「そうだ」

 

マルケルは凍河協定の写しを読む。

 

《単一信号で軍を動かさない》

 

《命令を二重確認》

 

灰冠の強み。

 

速い情報。

 

偽命令。

 

期限。

 

そこへ対策。

 

「次は、彼らが協力できない場所」

 

「宗教?」

 

「それも進めている」

 

「では」

 

老人は地図の北端を見る。

 

ノルハイム諸侯同盟。

 

長い氷。

 

漁場凍結。

 

飢え。

 

南へ移動する民。

 

世界樹信仰。

 

聖冠派宣教師。

 

鉄。

 

琥珀。

 

「難民だ」

 

「戦争ではなく?」

 

「国境を越えるのは、軍だけではない」

 

「避難民を利用する?」

 

「利用しなくても、国は恐れる」

 

「武器を」

 

「パンを渡す」

 

若い会計官が眉を寄せる。

 

「善意で?」

 

「パンを持つ者が、進路を決める」

 

マルケルは新しい帳面を開く。

 

《北氷移住計画》

 

《目的――人口移動による国境秩序再編》

 

「戦争は、人を追い出す」

 

老人が言う。

 

「飢えは、人を自分で歩かせる」

 

---

 

## 二十

 

冬の終わりへ向かう頃、イストラ河の氷に最初の亀裂が入った。

 

春ではない。

 

昼の日差しが一日だけ強くなった。

 

夜には再び凍る。

 

亀裂は細い。

 

音だけが遠くへ響く。

 

白暁城の兵とサルグァ監視隊が、同じ音を聞いた。

 

以前なら敵の工事と疑ったかもしれない。

 

今は共同記録板へ書く。

 

《正午、中央部で自然亀裂》

 

両側の署名。

 

ミーラ。

 

エルデネ。

 

二人の氷師。

 

老人エルデネは、罠の円から少し離れた場所へ木杭を立てた。

 

ヴェリグラード語。

 

サルグァ語。

 

一行ずつ。

 

《ここで、互いを敵と思った者たちが、互いを水から引いた》

 

イリヤが読んだ。

 

「誰が書いた」

 

「老人」

 

「美しすぎる」

 

ダニーロが言う。

 

「実際は、助けながら矢も射た」

 

「その通り」

 

イリヤは下へ追加させた。

 

《同じ時刻、十二名が矢で死んだ》

 

二つの記録。

 

救った。

 

殺した。

 

どちらも。

 

サランも写しへ加えた。

 

「英雄碑に向きません」

 

オルジェイ。

 

「だから残す」

 

「兵は単純な話を好む」

 

バトゥル。

 

「私も」

 

「なら、歌はあなたが」

 

サラン。

 

「俺は歌わない」

 

「声が大きいだけですから」

 

兄妹が笑う。

 

テムルだけは笑わなかった。

 

杭を見ている。

 

「法文にできる」

 

「何を」

 

「救助中の敵兵へ攻撃した者は、氏族法で処罰」

 

「今までなかった?」

 

「敵を救う想定がない」

 

「また例外」

 

「例外が法になる」

 

テムルは銀冊へ書く。

 

法は祖先から受け継ぐだけではない。

 

死者から学び、変える。

 

彼が少しずつ認め始めたこと。

 

---

 

凍河の対峙は、戦争にならなかった。

 

だが平和でもなかった。

 

サルグァ軍は東へ戻り、馬を休ませ、春の氏族会議へ備えた。

 

ヴェリグラード軍は西岸で停止し、イリヤとアレクセイの政治闘争を待った。

 

秘密契約の債権者は、セレスタの商事法廷へ訴えた。

 

灰冠会議は、別名義で北方の穀物を買い始めた。

 

白暁城には、両国の負傷兵が数名残った。

 

動かせない者。

 

一人のサルグァ騎兵は、ヴェリグラードの看護女と結婚したと、後世の民話は語る。

 

実際には結婚していない。

 

彼には東岸に妻がいた。

 

だが二人が互いの言葉を教え合った記録は残る。

 

民話は、複雑な関係を結婚へ変える。

 

歴史は、複雑な戦争を勝敗へ変える。

 

帳簿は、人間を数字へ変える。

 

だから、それぞれを照らし合わせなければならない。

 

---

 

灰暦八百七十二年、冬の最終月。

 

四矢評議会は、トグリル大汗の肖像を氏族会議場から下ろさなかった。

 

代わりに、その横へ秘密契約の全文を掲げた。

 

英雄の顔。

 

間違った署名。

 

同じ壁。

 

ヴェリグラードでも、大公ムスチスラフの病床の隣へ契約写本が置かれた。

 

本人が望んだのではない。

 

市民代表が要求した。

 

王や大汗の名誉は、傷ついた。

 

国は滅びなかった。

 

一方、凍河で死んだ兵士の家族へ、最初の補償銀が届いた。

 

全額ではない。

 

一部。

 

救済会の凍結資産。

 

手紙。

 

《あなたの息子は、氷上救助中に死亡した》

 

実際には最初の攻撃隊にいた。

 

救助もした。

 

矢も射た。

 

どの行為を家族へ伝えるか。

 

書記は迷い、両方を書いた。

 

母親は手紙を読み、怒った。

 

「息子を悪く書くな」

 

その夜、もう一度読む。

 

翌日、村の司祭へ読み上げさせる。

 

「人を助けた?」

 

「はい」

 

「敵を射た?」

 

「はい」

 

母親は泣いた。

 

どちらの息子も知っていた。

 

優しい。

 

怒りやすい。

 

英雄でも悪人でもない。

 

自分の子。

 

それでよかった。

 

---

 

四本の矢は、まだ一つの束になっていなかった。

 

だが互いへ向けられてもいなかった。

 

凍った川の上で、一度だけ、同じ穴へ縄を投げた。

 

その事実だけが、春まで彼らをつないだ。

 

春になれば、氷は溶ける。

 

河は再び国境となる。

 

渡るには船が必要。

 

橋が必要。

 

決断が必要。

 

冬より安全になるとは限らない。

 

水は人を分ける。

 

氷は人を近づける。

 

そして、ときに同じ場所へ沈める。

 

王冠たちの夏から始まった戦争は、信仰の秋を越え、凍河の冬へ至った。

 

次に動くのは、軍ではない。

 

北の海が閉ざされ、土地を失った人々だった。

 

家を背負い、子を抱き、南へ歩く者たち。

 

旗を持たない。

 

宣戦布告もしない。

 

だが十万人の足音は、騎兵一万より国境を揺らす。

 

灰冠会議が新たに売ろうとしていたものは、剣でも小麦でも水でもなかった。

 

人間の行き先だった。

書き溜めていた分のストックがほぼ尽きてきましたので… 更新頻度についてアンケートをさせていただきたいと思います。 以降の更新頻度はどの程度がよいでしょうか?

  • 死ぬ気でがんばれ
  • 可能な範囲でがんばれ
  • そんなに急ぐこたーないぞ
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