聖座ルミナの教皇宮殿には、三つの椅子がある。
一つは、金の椅子。
外国使節を迎える謁見の間に置かれ、背には一灯教の光輪と、聖冠派を示す十二枚の白羽が彫られている。
教皇が王侯と話すときに座る椅子だった。
一つは、木の椅子。
食堂の長机の端に置かれ、装飾はほとんどない。
教皇も修道士の一人であることを示すため、毎日の食事ではそこへ座る。
最後の一つは、白い石の椅子。
ルミナ大聖堂の奥、聖灯礼拝堂に置かれている。
金箔も宝石もない。
背もたれは低く、座面は硬い。
初代教皇が、迫害を逃れた地下墓地で使った裁判官の石座だと伝えられていた。
新しい教皇は選出後、最初にその白い椅子へ座る。
王でもなく。
財産を持つ司教でもなく。
ただ一人の人間として、信徒の罪と自分の罪を同じ高さで見るため。
そう教会は説明している。
だが、教皇が死ぬと、白い椅子には黒布がかけられる。
次の教皇が決まるまで、誰も座れない。
白い椅子が空である間、聖座ルミナには誰の命令が最も正しいのか、完全に答えられる者がいなくなる。
その空白を、信仰と呼ぶ者がいる。
法と呼ぶ者がいる。
好機と呼ぶ者もいる。
灰冠会議は、最後の呼び方をした。
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## 一
教皇グレゴリウス九世は、死ぬ三日前まで政務を続けた。
七十八歳。
在位二十三年。
若い頃は法学者。
中年には外交官。
晩年は、何かを決めるたび、その決定で誰が死ぬかを先に尋ねるようになった。
それを慎重と評価する者もいた。
老いたと批判する者もいた。
寝室の窓は開けられていた。
春の風。
ルミナ市の鐘。
遠くから巡礼者の歌。
病床の周囲には医師、司祭、書記。
枢機卿マルクス・ヴァレリウスは、一人だけ残るよう命じられた。
「ヴァルデンでは」
教皇が言った。
声が細い。
「お前は火を消したそうだな」
「皇帝の停止令が届きました」
「質問へ答えよ」
マルクスは黙った。
「はい」
「自分で命じた火を?」
「はい」
「なぜ」
「私の命令ではない火がつけられたからです」
「権限を奪われたくなかった」
「それもあります」
「ヨハンを生かしたかった?」
枢機卿は窓を見る。
「分かりません」
教皇がわずかに笑った。
「教皇になる資格がある」
マルクスの顔が硬くなる。
「猊下」
「分からないと言える者は少ない」
「私は候補ではありません」
「自分で決めることではない」
「ヴァルデンの死者が」
「お前へ投票する枢機卿は、死者ではない」
「なおさら」
グレゴリウスは咳き込んだ。
医師を呼ぼうとする。
手で止める。
「白い椅子の下を見よ」
「何が」
「鍵がある」
「どの鍵」
「半分だけ」
教皇は枕の下から、小さな銀片を出した。
鍵の歯が途中まで。
切断された鍵。
表には白い冠。
裏には灰色の小冠。
「これは」
「教皇庁財務局では《慈悲庫第零鍵》と呼ぶ」
「聞いたことがありません」
「聞かせなかった」
「何を隠したのです」
教皇は目を閉じた。
「灰冠会議を、聖座は敵だと布告している」
「はい」
「嘘ではない」
「では」
「だが最初に作った者の一人も、聖座だ」
マルクスは言葉を失った。
「いつ」
「四十七年前」
「猊下の前任者が?」
「三代前。教皇インノケンティウス十一世」
「目的は」
「戦争を止めるため」
教皇はゆっくり息をする。
「オルシャの巡礼路をめぐり、七つの王国が軍を集めた。小麦が止まり、聖地で疫病が出た。王たちは兵を退く代わりに、損失の補償を求めた」
「灰冠が融資を」
「当時は《灰冠平和庫》と呼ばれた」
「平和庫」
「戦争を始めない国へ金を貸し、兵を退いた領主へ補償し、巡礼路を共同警備する」
「それがなぜ」
「金を出す者が増えた。銀行。商会。王家。司教。軍需商人」
「平和へ貸すより、戦争へ貸す方が利益になる」
「そうだ」
グレゴリウスはマルクスを見る。
「我々は、狼を飼ったのではない」
「では」
「犬を飼い、餌の味を変えた」
言葉は穏やか。
意味は重い。
「白い椅子の下に、原契約の聖座写本がある」
「なぜ今まで公開を」
「教会も、その金で孤児院を建てた。飢饉を救った。異端戦争を止めた」
「同時に戦争を」
「はい」
「猊下は、いつ知った」
「十二年前」
「十二年、隠した?」
「止めようとした」
「結果は」
「見てのとおりだ」
マルクスは銀の半鍵を握る。
「もう半分は」
「オルシャの鍵守家」
マリアム。
生き残った娘。
「鍵守家は殺されました」
「だから白い椅子の鍵は開かない」
「破れば」
「契約違反になる」
「契約を守るため、真実を隠す?」
教皇は答えなかった。
「猊下」
「破ってよい」
「ではなぜ鍵を」
「破る前に、何を破るか見ろ」
グレゴリウスの目は、病人のものではなくなっていた。
一瞬だけ、二十三年間教会を統治した人間の目。
「白い椅子を守るな」
「何を」
「椅子に座るまでに、何を捨てるか見よ」
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## 二
オルシャ大聖堂の十三番鐘には、舌がなかった。
そもそも鐘ではない。
大鐘楼の最下層。
石壁の内側。
通常の鐘十二個を吊るす梁の下に、巨大な青銅の重りがある。
外から見れば、巻き上げ機の釣合い重り。
鐘守たちは《十三番》と呼んでいたが、音を出すものではない。
マリアムは父の言葉を思い出した。
《十三番目の鐘は、鳴るためだけに作られたのではない》
違う。
《鐘は、鳴るためだけに作られたのではない》
青銅重りの表面には、長年の煤と油。
ファハドが布で拭く。
刻線。
三つの宗派記号。
聖冠。
七燭。
緑の月。
その下に、見慣れない印。
四本の矢。
紫の帳。
白い石椅子。
灰色の鍵。
「同じです」
マリアムが言った。
銀筒の契約文にあった暗号。
《白冠》
《紫帳》
《緑月》
《四本の矢》
《灰の鍵》
「人名ではない」
ファハド。
「組織?」
「役職かもしれません」
ギヨーム・ド・サン=ロシュ侯が周囲を見張る。
鐘楼入口には彼の兵。
聖剣騎士団のアルノーは、調査への参加を拒否された。
拒否したのはマリアム。
鍵守家の地下施設。
宗派軍を入れない。
アルノーは大聖堂前で抗議している。
「開け方は」
ヨナが尋ねた。
十五歳。
水売りだった少年。
現在は、鍵守評議会の証人名簿に名を持つ。
大人たちは彼を守ろうとする。
同時に、目撃証言が必要なときだけ呼ぶ。
その矛盾を、ヨナは知っている。
「十二の鐘を順番に」
マリアム。
「十三度鳴った夜は」
「誰かが仕掛けた」
ファハド。
鐘楼の綱。
十二個。
十三回の音。
最後は、どの鐘だったか。
記録では、大鐘が二度鳴った。
「同じ順で」
ギヨームが言う。
「また暴動が起きる」
「夜に」
「夜の鐘は、さらに」
大聖堂の鐘は都市の命令。
火災。
襲撃。
宗教儀式。
勝手に鳴らせない。
「音を出さずに動かす」
ヨナが言った。
全員が見る。
「どうやって」
「舌を布で固定する」
水売りの少年。
鐘の専門家ではない。
だが街で音を知っている。
「鐘守が祭礼前にやります。試しに動かすとき」
古い鐘守ハキムを呼ぶ。
七十歳。
鍵守一家を知っていた。
「できる」
十二の鐘の舌を麻布で包む。
綱を引く。
音は鈍い。
石塔へ振動だけ。
一。
二。
三。
順番。
青銅重りの刻線がわずかに動く。
歯車。
壁内部。
「もう一度」
マリアム。
十三回目。
大鐘を二度。
重りが半回転。
裏側。
鍵穴。
一つではない。
二つ。
片方は灰色の鍵形。
もう片方は白い椅子。
「二つの鍵」
ファハド。
「一つは」
マリアムは父の遺品を取り出した。
銀筒の底。
分解。
細い金属片。
鍵の半分。
裏に灰色の小冠。
「父は持っていた」
「もう一つは聖座」
ギヨーム。
「教皇が」
「あるいは盗まれている」
マリアムは半鍵を差す。
片側だけ。
回らない。
「白い鍵が必要」
ヨナが青銅重りの下へしゃがむ。
「鍵穴ではなく、押す場所かもしれません」
「なぜ」
「二つの形が違う」
灰鍵は普通の鍵穴。
白椅子側は浅い。
銀片を当てる印。
「同時に」
マリアムが言う。
「聖座と鍵守家が、同じ場所へ来る必要があった?」
「原契約を開くときだけ」
ファハド。
「誰か一人では開けない」
各国が作り始めた制度。
最初からここにあった。
そして壊された。
「白い鍵なしで開ける方法を」
ギヨーム。
「壁を壊す」
「中身も」
「反対側から」
ヨナは床を見る。
巻き上げ綱。
重りの下へ続く縦穴。
「降りられる」
「危険です」
マリアム。
「僕は軽い」
「それを理由に子供を」
「証人が必要なときは大人扱いするのに?」
ヨナの声は静か。
マリアムは返せない。
「私も降ります」
「二人」
ファハド。
「私が先に」
「重い」
ヨナ。
「落ちたら重さは関係ない」
ファハドは縄を結ぶ。
下。
暗い。
十三番鐘は、入口ではなかった。
蓋だった。
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## 三
聖座ルミナでは、教皇がまだ生きているうちから次の教皇選挙が始まっていた。
口に出さないだけで。
教皇庁に属する枢機卿は三十一人。
病気で来られない者二人。
外国にいる者三人。
選挙へ参加できるのは二十六人と見込まれていた。
必要な票は三分の二。
十八。
候補は三人。
第一。
レオーネ・オルシーニ枢機卿。
五十八歳。
聖剣騎士団の総保護者。
オルシャへの軍事介入と、エーレン帝国改革派への強硬策を主張する。
聖戦派。
第二。
ピエトロ・サヴェッリ枢機卿。
四十九歳。
大学出身。
教会財務の公開、民衆語聖典の限定承認、司教選任制度の改革を唱える。
改革派。
第三。
ベネディクトゥス・コルヴィ枢機卿。
六十六歳。
教皇庁財務長官。
教義では中間。
行政と金庫の鍵を握り、誰が教皇になっても必要とされる。
彼自身が座る可能性も高い。
マルクス・ヴァレリウスを候補と考える者は少なかった。
ヴァルデン火刑未遂。
強硬派には、処刑を完遂しなかった裏切り者。
改革派には、火刑を命じた迫害者。
どちらからも嫌われている。
妥協候補とは、支持が広い者ではない。
敵が多すぎて、誰の完全な道具にもならない者が選ばれることもある。
「オルシーニ枢機卿は、北門でパンを配っています」
マルクスの書記が報告した。
「どの資金で」
「白冠巡礼者救済会」
「聞いたことがない」
「設立は三日前」
「教皇が病床へ入った日」
「はい」
「サヴェッリは」
「南門で診療所。資金は《聖光学問基金》」
「コルヴィは」
「市の穀物商と契約し、教皇庁配給を増加」
「金は」
「慈悲庫から」
マルクスの手が止まる。
「第何庫」
「通常慈悲庫です」
「零庫では」
書記が首を傾げる。
「そのような名称は」
「忘れろ」
マルクスは半鍵を衣の内側へ。
教皇が生きている。
それでも候補者は、パンを配る。
ルミナ市には北方難民が流れ込んでいた。
ノルハイム。
エーレン帝国の宗教争いから逃れた者。
オルシャの巡礼路停止で帰れない者。
人口が通常の一・五倍。
穀物価格。
二倍。
救済は必要。
同時に、パンを配る枢機卿の名が広がる。
「救済会の実所有者を」
「時間が」
「教皇は死ぬまで待ってくれるか」
書記は答えない。
「調べろ」
「どこまで」
「三候補すべて」
「マルクス猊下の資金も?」
自分も。
「はい」
「どなたへ報告を」
「公開帳簿へ」
書記が驚く。
「選挙前に?」
「候補ではない」
「候補にされれば」
「なおさら」
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## 四
十三番鐘の下には、空洞があった。
ファハドが先に降りる。
縄。
壁。
古い石。
下へ十人分。
足場。
「床があります」
声が響く。
マリアム。
ヨナ。
ギヨームは上に残る。
三人が降りた。
小部屋。
幅は六歩。
天井が低い。
中央に石箱。
壁には五つの印。
白椅子。
紫帳。
緑月。
四矢。
灰鍵。
その下に六つ目。
空の円。
「これは」
ヨナ。
「印がない」
マリアムは壁文字を読む。
古代オルシャ語。
刻印民文字。
聖冠典礼語。
七燭古語。
啓句派法語。
五つ。
内容は同じ。
《王でも司祭でも商人でもない者のため、席を一つ空けよ》
「誰の席」
ファハド。
「道を歩く者」
マリアムが別の行を読む。
《巡礼者、隊商、水売り、墓守、病者、亡命者》
ヨナが自分を指すような言葉を見る。
権力を持たない者。
原契約には、彼らのための席があった。
「誰が代表した」
「鍵守家」
マリアム。
「だから殺された?」
「拒否権を持っていた可能性」
石箱。
蓋には二つの鍵穴。
上と同じ。
だが側面に細い隙間。
ヨナが灯りを近づける。
「紙があります」
隙間へ油布。
誰かが後から挟んだ。
細い鉄で引く。
紙片。
父の字。
《白座の鍵が失われた場合、六番目の席を使え》
「六番目」
空の円。
「鍵穴がない」
ファハド。
ヨナは壁の空円へ手を当てる。
少し沈む。
石板。
「押せます」
重い。
三人で。
動く。
背後の壁から音。
石箱の底が持ち上がる。
二つの鍵ではなく。
鍵を持たない者の席。
非常時。
権力者同士が協力しないとき。
権力を持たない者が開く。
「父は知っていた」
マリアム。
「なぜ最初から」
「誰も信じるな。ただし、一人では戦うな」
彼は六番目の席を残した。
石箱が開く。
中。
鉛筒三本。
革帳簿。
白い布。
最上部に契約書。
題。
《白座及び灰冠平和庫設立原契約》
マリアムの指が震えた。
「見つけた」
その瞬間。
上から金属音。
縄が切られた。
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## 五
教皇グレゴリウス九世が死んだのは、夜明け前だった。
最期の言葉を聞いた者は、三人いる。
医師。
告解司祭。
枢機卿マルクス。
三人の証言は一致しなかった。
医師は、教皇が《椅子を開けよ》と言ったと記録した。
司祭は、《教会を開けよ》と聞いた。
マルクスは、《帳簿を開けよ》だったと主張した。
病人の声。
似た言葉。
後世の伝記は、自分が望む言葉を選ぶ。
教皇の死を確認すると、宮廷侍従長が銀槌で額を三度軽く叩いた。
古い儀式。
名を呼ぶ。
「グレゴリウス」
返事なし。
「グレゴリウス」
返事なし。
三度目。
教皇の指輪を外す。
印璽を割る。
鐘。
ルミナ市すべての鐘が鳴る。
教皇崩御。
白い椅子へ黒布。
枢機卿たちは、死の知らせを聞くと祈った。
その後、自分の票を数えた。
誰も、それを不敬とは言わない。
教会を空位のままにしないため。
正しい理由。
同時に野心。
「教皇の遺品を封印」
財務長官ベネディクトゥス・コルヴィが命じる。
マルクスが止めた。
「白い椅子を先に確認します」
「選挙前に誰も触れられない」
「故教皇の命令です」
「証書は」
「口頭」
「証人は」
「医師と司祭」
二人は別の言葉を聞いた。
コルヴィの目。
「教皇位を望むのですか」
「望んでいません」
「なら、選挙法へ従ってください」
「白い椅子の下に、教会財政に関わる文書があります」
「財務長官である私が知らない?」
「零庫を」
初めて出す。
コルヴィの表情が一瞬止まる。
わずか。
「何のことです」
「知らない?」
「はい」
嘘か。
驚きか。
マルクスは半鍵を見せなかった。
「黒布をかける前に」
「すでに儀式が」
聖灯礼拝堂。
白い椅子は黒布。
周囲を衛兵。
選挙終了まで封鎖。
「破ります」
マルクス。
「教会法違反」
「故教皇の命令」
「確証なし」
枢機卿たちが集まる。
レオーネ・オルシーニ。
ピエトロ・サヴェッリ。
「何の騒ぎです」
ピエトロ。
マルクスは全員の前で言った。
「灰冠会議の原契約が、白い椅子の下にある可能性」
沈黙。
レオーネが笑う。
「異端者の妄言ですか」
「教皇本人から」
「死者へ責任を」
「半鍵も」
出す。
銀片。
白冠。
灰冠。
コルヴィの顔が今度こそ変わる。
「どこで」
「故教皇から」
ピエトロが近づく。
「もう半分は」
「オルシャ鍵守家」
「殺された」
「生存者が一人」
「では開かない」
レオーネ。
「椅子を破る気か」
「中身を確認する」
「教皇選挙前に、聖座の秘密を公に?」
「秘密のまま選ぶ方が」
ピエトロが賛成しかける。
コルヴィが言った。
「もし灰冠との契約が存在し、聖座の信用が傷つけば、明日から穀物が買えません」
「事実でも隠す?」
マルクス。
「市民を飢えさせる真実は、いつ公開する」
「いつなら」
「次の教皇が決める」
「次の教皇が、その金で選ばれたら?」
誰も答えない。
選挙と帳簿。
切り離せない。
「礼拝堂を共同封印」
ピエトロが提案。
「三候補陣営から一人ずつ。選挙初日の前に確認」
「候補に数えるな」
マルクス。
「候補でない者を入れる方がよい」
レオーネ。
皮肉。
「ではマルクスも」
四人。
鍵。
黒布。
白い椅子は、その夜まで開けない。
決定。
遅らせる。
その間に、誰かが中身を動かせるかもしれない。
共同衛兵。
四陣営から。
誰も一人では入れない。
それでも完全ではない。
---
## 六
十三番鐘地下の縄を切った者は、入口を石で塞いだ。
上からギヨームの声。
「マリアム!」
石。
剣。
争い。
誰かが鐘楼へ侵入。
「別の出口」
ファハドが灯りを壁へ。
地下施設は、箱を置くだけではない。
水路。
古代の避難路。
「空気が動いています」
ヨナ。
火が一方向へ揺れる。
石箱の後ろ。
壁。
五つの印。
空円。
再び押す。
横の石が開く。
狭い通路。
「契約を」
マリアムは鉛筒と帳簿を包む。
全部は重い。
「一つ置く」
ファハド。
「持っていけば奪われる」
三本。
同じ写し?
開ける時間なし。
「一本を石箱へ戻す」
「見つかる」
「空にすれば、全部持ったと分かる」
ヨナが言う。
「一つ残せば?」
「本物か偽物か迷う」
少年の発想。
「帳簿は」
「分ける」
マリアム。
革帳簿を三つの束へ。
乱暴。
原本。
傷つけたくない。
だが守るため。
ファハド。
マリアム。
ヨナ。
一つずつ。
「別々に逃げる?」
「通路が分かれれば」
進む。
背後で石箱の蓋が開く音。
侵入者が地下へ。
「急いで」
通路。
地下水。
古い墓。
壁に死者名。
鍵守家以前の墓守たち。
六番目の席を守った者。
前方。
足音。
こちらからも。
挟まれた。
暗闇から男。
白い傷。
耳から口元。
ヨナの身体が固まる。
あの夜。
鍵守家襲撃。
「お前」
男は剣を持っていない。
短弩。
「契約を渡せ」
ファハドが前へ。
「ガスパール・ルーヴァン」
名を呼ぶ。
男の目が動く。
「知っているか」
「聖剣騎士団元副隊長。十年前に死亡扱い」
「よく調べた」
「死者が多すぎる」
ガスパール。
元聖剣騎士。
聖冠派。
西方訛り。
ヨナが見た者。
「ユヌスを殺した?」
ヨナが尋ねた。
ガスパールは少年を見る。
「殺していない」
「いた」
「いた」
「扉の前に」
「はい」
「助けなかった」
男は黙る。
「誰が殺した」
「名を言えば、契約を渡すか」
「渡さない」
「なら」
「それでも言え」
ヨナの声が震える。
逃げたい。
だが立つ。
「カマール・アル=サフィ」
啓句派の元警備兵。
「今は」
「死んだ」
「誰に」
「灰冠に」
「口を閉じるため?」
「使い終わった」
「お前は」
「まだ使われている」
ガスパールの顔。
「私は、白い椅子に契約を届ける」
「灰冠へではなく?」
マリアム。
「灰冠を止めるためだ」
「家族を殺した者が?」
「殺せと命じたのは武装派だ」
「あなたは参加した」
「統制された襲撃で、鍵守を拘束する計画だった」
「火は」
「予定外」
「死者は」
「予定外」
どこでも。
予定外。
「それで責任が消える?」
「消えない」
ガスパールは短弩を下ろさない。
「白い椅子が空いた」
「教皇が」
「死んだ」
情報が早い。
オルシャへ、通常なら数日以上。
灰冠駅伝。
「次の教皇が選ばれる前に、原契約が必要」
「誰へ渡す」
「マルクス・ヴァレリウス」
ファハドが眉を寄せる。
「火刑を命じた枢機卿」
「灰冠が選びたくない男だ」
「だから信用?」
「敵の敵では足りない」
マリアム。
「知っている」
「では、なぜ」
「グレゴリウスが彼を選んだ」
「証拠は」
ガスパールが胸から銀片。
白い半鍵。
教皇のものと同型。
ただし裏に細い傷。
複製。
「本物ではない」
マリアム。
「だから地下を開けられなかった」
「盗んだ?」
「教皇庁財務局から写した」
「誰の命令」
「《黒雪》」
北方計画責任者。
「あなたは黒雪の部下?」
「元は」
「今は」
「裏切った」
「なぜ信じる」
「信じなくてよい」
同じ言葉。
「契約を三つに分けたな」
ガスパールは気づく。
「一つ奪っても足りない」
ヨナ。
男が少年を見る。
「賢い」
「ユヌスもそうだった」
ガスパールの顔が揺れる。
一瞬。
ヨナは見た。
「あなたは後悔している」
「後悔で死者は」
「戻らない」
「そうだ」
「なら話せ」
「何を」
「全部」
後方から侵入者の足音。
ガスパールが弩を向ける方向を変える。
「今は生き延びろ」
「命令するな」
ヨナ。
「では頼む」
最初の追手。
灰色服ではない。
聖剣騎士団の外套。
アルノーの部下か。
あるいは盗品。
ガスパールが射る。
肩。
殺さない。
「西通路へ!」
五人は走る。
敵だった者を含めて。
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## 七
教皇選挙は、グレゴリウス九世の死から五日後に始まった。
枢機卿二十六人。
大聖堂隣の選挙宮へ入る。
扉を外から封鎖。
食事は小窓。
外部との書簡禁止。
理想。
実際には、侍従、医師、料理人、告解司祭を通じ情報が入る。
金も。
脅しも。
最初の投票。
レオーネ・オルシーニ、十票。
ピエトロ・サヴェッリ、七票。
ベネディクトゥス・コルヴィ、五票。
マルクス・ヴァレリウス、二票。
その他二。
誰も十八へ届かない。
投票用紙を焼く。
黒煙。
広場の群衆が見る。
教皇未決。
二日目。
オルシーニ十一。
サヴェッリ八。
コルヴィ三。
マルクス四。
コルヴィの票が減り、マルクスへ。
財務派の一部が、候補を変え始める。
「なぜ私へ」
マルクスが尋ねる。
老枢機卿が答えた。
「あなたは、自分の派閥を持たない」
「それが理由?」
「誰も借りを返せと来ない」
「ヴァルデンの死者が来ます」
「死者は票を求めない」
同じ冷たい言葉。
「私は選ばれても受けません」
「選出前の辞退は票を増やします」
「なぜ」
「謙虚に見える」
選挙は、人の言葉を別の意味へ変える。
第三投票前。
白い椅子の確認。
四陣営代表。
礼拝堂。
黒布。
衛兵交代記録。
異常なし。
布を外す。
白い石。
マルクスが座面下の溝へ半鍵を入れる。
もう半分なし。
回らない。
「破る」
ピエトロ。
レオーネが反対。
「選挙前に聖遺物を」
「原契約が」
「存在する証拠は、病人の言葉と銀片」
コルヴィ。
「椅子を壊し、何もなければ」
「修復する」
ピエトロ。
「初代教皇の椅子を?」
「初代教皇は、真実より石を守れと?」
議論。
マルクスは椅子の背を見る。
小さな穴。
鍵ではない。
指を入れる。
石粉。
新しい。
「すでに開けられた」
全員。
座面下の板。
外から見えない細い切断。
持ち上げる。
空洞。
中身なし。
灰色の蝋片。
誰かが共同封印前に。
あるいは何年も前。
「コルヴィ」
レオーネが財務長官を見る。
「知らない」
「慈悲庫はあなたの」
「零庫は知らない!」
「灰色の蝋を」
ピエトロ。
コルヴィは怒り。
「私を選挙前に排除する気か!」
「事実を」
「マルクスが鍵を持ち、空だと騒いでいる」
疑いがマルクスへ。
「私が盗んだと」
「可能性」
「なぜ半鍵だけ残す」
「本物らしく見せるため」
誰も信じられない。
白い椅子の下は空。
それでも選挙を続けなければならない。
空の上へ、新教皇が座る。
「選挙を停止」
ピエトロ。
「教会を空位に?」
レオーネ。
「調査まで」
「何日」
「分からない」
「エーレン改革派が兵を。オルシャが。北方難民が」
「だから急いで、灰冠の選んだ教皇を?」
「灰冠を恐れて教会法を止めるな!」
正しい。
危険。
マルクスは空洞の灰蝋を拾う。
「選挙は続ける」
ピエトロが彼を見る。
「ただし、候補者資金を公開する」
レオーネが拒む。
「選挙の秘密を」
「票ではない。パン、診療所、使節、債務」
「外部へ漏らす?」
「選挙人全員へ」
「灰冠が内部にいれば」
「すでにいる」
誰かの顔。
全員。
---
## 八
オルシャ地下通路の出口は、刻印民墓地にあった。
古い墓石の裏。
マリアムたちが出たとき、夜。
ギヨームの兵は大聖堂側で戦闘。
鐘楼へ入った者は六人。
三人死亡。
二人捕縛。
一人逃亡。
捕らえた者は聖剣騎士団の制服。
本人は傭兵。
制服を渡したのは、騎士団の倉庫係。
倉庫係は行方不明。
また。
「ガスパールを拘束します」
ギヨーム。
墓地。
男へ剣。
「当然だ」
ガスパールは抵抗しない。
「原契約を奪おうとした」
「白座へ届けるため」
「殺人襲撃へ参加」
「はい」
ヨナが言う。
「公開で話させてください」
ギヨームは少年を見る。
「裁判へ」
「その前に殺される」
「守る」
「誰が」
問い。
鍵守家も守られなかった。
「複数の場所へ証言を」
マリアム。
「今ここで書く」
ガスパール。
「書記を」
「一人ではなく」
刻印民書記。
聖冠派。
七燭派。
啓句派。
灰衣修道会。
四人。
同時に。
ガスパールの証言。
灰冠会議武装派。
オルシャ計画。
鍵守家拘束命令。
火災。
殺害。
参加者。
知る範囲。
《黒雪》。
《白座管理官》。
《会計王》。
「白座管理官は」
ファハド。
「教皇庁財務長官ではない」
「では」
「慈悲庫副長官セラフィーノ・ヴェッキ」
「名簿には」
「十年前に死去」
また死者。
「生きている?」
「黒雪を名乗る者の一人」
「一人?」
「役職だ」
黒雪。
北方計画責任者。
人が変わる。
「現在は」
「聖座ルミナ」
「教皇選挙を」
「買う」
「誰を」
「誰でもよい」
ガスパール。
「条件へ署名する者なら」
「何の条件」
「オルシャ緊急統治権。北方難民救済債権。エーレン異端討伐税。三つ」
教皇が署名すれば、灰冠は宗教と難民と聖地を同時に金融化。
「原契約があれば」
「聖座の単独署名は無効にできる」
「だから必要」
「はい」
マリアムは鉛筒を開ける。
最初の契約。
五つの機関。
白座。
紫帳。
緑月。
四矢。
灰鍵。
六番目の空席。
条項。
《聖地の統治変更、宗派軍の派遣、巡礼税の担保化は、五印及び六席中四つ以上の同意を必要とする》
《鍵守家または六席代表が異議を申し立てた場合、四十日間すべての執行を停止する》
「四十日」
マリアム。
世界中で作られた期限。
元はここ。
「灰冠は、この停止権を消すため鍵守家を」
ギヨーム。
「そして原契約を白い椅子から盗んだ」
ファハド。
「オルシャ写本まで取ろうと」
「いま、異議を申し立てられる?」
ヨナ。
全員が見る。
鍵守家。
生存者マリアム。
六席代表。
巡礼者、水売り、亡命者。
ヨナ。
「形式は」
書記。
「鍵守印と六席証人」
「六席は誰が選ぶ」
「原契約では、オルシャ市場の六共同体」
現在。
聖冠派。
七燭派。
啓句派。
刻印民。
港湾労働者。
巡礼宿。
「集める」
マリアム。
「異議申立てを」
「教皇選挙前に届かない」
ギヨーム。
「選挙は数日から数週」
「最速船」
ファハド。
「ナフル海軍の快速船を使う」
「誰が運ぶ」
沈黙。
マリアムが言う。
「私が」
ギヨームが反対。
「オルシャを離れる?」
「私の印が必要」
「写しで」
「白座が原本を失っているなら、本人が」
「危険です」
「ここも」
ヨナ。
「僕も行く」
「駄目」
マリアム。
「六席証人です」
「選ばれていない」
「水売り共同体が選ぶ」
「まだ」
「選ばせる」
少年は一歩も引かない。
「ユヌスのことも話す」
「聖座で?」
「ガスパールの証言を」
ガスパール本人は拘束。
連れていくか。
危険。
しかし証人。
「彼も」
ヨナ。
「逃げられます」
ファハド。
「鎖を」
「灰冠は殺しに来る」
「だから複数船」
マリアム。
また。
一隻。
囮。
写本。
別々。
「時間が」
ギヨーム。
「分かっています」
マリアムは契約を見る。
四十七年前。
平和を守るため。
いま戦争を止める最後の法。
「明朝、出ます」
---
## 九
選挙宮では、候補者資金の公開が始まった。
最初にピエトロ・サヴェッリ。
診療所。
薬。
医師。
資金の三割は大学基金。
二割は自由都市。
残り半分は《聖光学問基金》。
実所有者不明。
「灰冠関連の可能性」
マルクス。
「はい」
ピエトロは認める。
「知らなかった?」
「基金理事に教皇庁官僚が」
「名は」
「セラフィーノ・ヴェッキ」
ガスパールが語った名。
だが選挙宮では、まだ知らない。
「死者です」
コルヴィ。
「十年前に」
「基金書類は昨月署名」
「同名」
「筆跡鑑定を」
レオーネ・オルシーニ。
パン配給。
白冠巡礼者救済会。
資金の六割。
匿名。
「匿名寄進は合法」
レオーネ。
「教皇選挙直前でも」
「飢えた者へ、寄進者名を確認してから食わせろと?」
「票を買っている」
ピエトロ。
「民衆は投票しない」
「枢機卿は民衆の歓声を聞く」
「改革派も診療所を」
互い。
「救済会の理事」
マルクス。
「教皇庁騎士団、巡礼商会、聖光慈善団」
「実所有者」
「知らない」
「調べなかった」
「パンを急いだ」
灰冠の強み。
急ぐ善意。
ベネディクトゥス・コルヴィ。
教皇庁配給。
慈悲庫。
通常帳簿。
一見透明。
だが慈悲庫借入先。
セレスタ六銀行。
白冠基金。
北方救済債券。
「担保は」
マルクス。
「巡礼税」
「何年」
「十五」
「オルシャ巡礼路が閉鎖中」
「再開後」
「再開しなければ」
「聖座港湾税」
「誰が承認」
「故教皇」
「署名を」
文書。
グレゴリウス九世の印。
本物。
病床入りの二日前。
「猊下は」
コルヴィ。
「市民を飢えさせないため署名された」
「原契約を知りながら?」
マルクス。
「何の」
「白い椅子の」
「私は知らない!」
コルヴィの声。
本気。
「慈悲庫副長官は」
「セラフィーノ・ヴェッキ」
全員が止まる。
「死んだはず」
ピエトロ。
「名義上の職名です」
コルヴィ。
「何を」
「副長官個人名ではなく、秘密基金管理者の代号」
「知っていた?」
「帳簿上だけ」
「会ったことは」
「ない」
「命令は」
「封書」
「誰が運ぶ」
「侍従」
「名は」
複数。
「コルヴィ」
レオーネ。
「お前は灰冠の金庫を」
「教皇庁を動かした!」
財務長官が立つ。
「孤児院、病院、巡礼護衛、難民、教会修復! お前たちは説教と剣を振り、支払いは私へ持ってくる!」
議場が静まる。
「灰冠だと知っていたのか」
マルクス。
「疑っていた」
「それでも」
「ほかに金を出す者がいたか!」
問い。
誰も簡単には。
「教会は寄進で」
レオーネ。
「寄進は減っている! 王たちは戦費。都市は自分の貧民。司教は領地修復。信仰だけで小麦は買えない!」
「だから巡礼税を担保に」
「はい!」
コルヴィは認めた。
「私は教会を売ったのかもしれない。だが、昨日までパンを配った!」
「明日の税を」
「今日の死者を減らすため!」
ナフル。
ヴェリグラード。
どこでも。
未来を担保に今日を救う。
「候補を辞退します」
コルヴィが言った。
驚き。
「なぜ」
「私が教皇になれば、すべての債務が私の利益に見える」
「すでに」
「だから辞退する」
票。
五から三へ減っていた。
それでも影響。
「誰へ投票を」
「誰にも命じない」
「財務派が割れる」
「割れろ」
コルヴィは座る。
「一人へ集めた結果が、私だ」
---
## 十
ルミナ市北門で、パン配給所が燃えた。
火災は夜。
白冠巡礼者救済会の倉庫。
穀物五千袋。
炎。
市民と難民が集まる。
「改革派が焼いた!」
誰か。
「聖戦派が隠した!」
別。
「灰冠の証拠を消した!」
三つ目。
倉庫扉は外から閉じられていた。
中に労働者。
十七人。
九人死亡。
穀物は完全には燃えない。
水と灰で濡れる。
食べられる部分も。
群衆が倉庫へ。
兵が止める。
「毒だ!」
「嘘だ!」
柵。
石。
北方難民。
市民。
巡礼者。
教皇選挙中。
噂。
《オルシーニが選出された》
《異端者への配給停止》
まだ選ばれていない。
だが鐘が一度鳴った。
誰かが選挙鐘の綱へ。
群衆は結果と誤解。
聖戦派の旗。
改革派印刷所が襲われる。
次に別の鐘。
《サヴェッリ選出》。
矛盾。
人は自分が恐れる方を信じる。
教皇宮衛兵が出る。
選挙宮の枢機卿たちは、外の音を聞く。
扉を開ければ選挙法違反。
閉じれば市が燃える。
「開門を」
ピエトロ。
「教皇を選ぶまで不可」
選挙監督枢機卿。
「人が死ぬ」
「規則を破れば選挙無効」
「選挙中に都市が」
レオーネ。
「衛兵がいる」
「衛兵だけで」
マルクスは白い椅子の空洞を思い出す。
規則。
緊急。
「選挙を一時停止」
「法にない」
「外へ三人の共同命令」
「候補が?」
「候補ではなく、枢機卿団として」
誰が署名。
聖戦派。
改革派。
財務派。
マルクス。
四人。
門は開けない。
小窓から命令。
《選挙結果の鐘は、白煙確認まで無効》
《すべての配給を宗派・出身を問わず継続》
《倉庫穀物は医師確認後、市監査下で配給》
《放火犯の情報へ報奨》
外へ。
遅い。
すでに死者。
それでも暴動は少し収まる。
倉庫の焼けた麦が風で舞う。
黒い灰。
白い大聖堂の前へ降る。
黒い雪。
北から来た難民が、故郷と同じだと呟く。
---
## 十一
オルシャからルミナへ向かった船は三隻だった。
一隻目。
ナフルの快速船《細月》。
マリアム。
ヨナ。
ファハド。
原契約第一写本。
二隻目。
オルシャ商船《七つの灯》。
ガスパールを鎖で拘束。
ギヨームの騎士。
証言写本。
三隻目。
刻印民商船《無名の港》。
原契約帳簿の一部。
別航路。
出港時刻をずらす。
灰冠はどれを狙うか。
三隻すべて。
《細月》は出港二日目、帆綱が切れた。
切断。
出港前。
予備綱。
修理。
一日遅れる。
《七つの灯》は夜、海賊船に追われた。
海賊旗。
船型は聖座巡礼護衛船。
ガスパールが甲板へ出される。
「向こうの信号を」
ギヨームの騎士。
「私を渡せと」
「なぜ分かる」
「灯りの数」
灰冠符号。
「渡せば」
「皆殺しです」
ガスパール。
「自分を重要と」
「重要ではない。話した内容が重要」
「なら殺すだけ」
「はい」
戦闘。
《七つの灯》は逃げ切れず、浅瀬へ。
乗組員は帳簿写本を小舟へ。
ガスパールも。
本船は焼く。
追手へ渡さない。
乗組員三人死亡。
一人行方不明。
《無名の港》は消息不明。
三日。
四日。
港へ来ない。
マリアムは船室で原契約を読む。
「緑月は」
ヨナ。
「南方諸国の共同慈善庫」
「ナフル?」
「ナフル、アルサク、カディーラの商人と法官」
「四本の矢はサルグァ」
「最初は草原街道護衛基金」
「紫帳」
「アウレリア帝国」
「白座」
「聖座」
「灰鍵」
「オルシャ」
「全部、平和のため?」
「最初は」
ヨナは海を見る。
「人は、善いものを悪くする?」
「悪いものから善いものも作る」
「どちらが多い」
マリアムは答えない。
「六番目の席は」
「権力を持たない者」
「僕が?」
「あなた一人ではない」
「分かってる」
少年。
少し不満。
少し安堵。
「聖座で、何を言う」
「鍵守家として異議を」
「僕は」
「見たことを」
「ユヌスを助けなかったことも?」
「あなたの罪では」
「僕は逃げた」
「子供だった」
「いまは証人」
マリアムはヨナを見る。
「証人であることは、自分を罪人にすることではない」
「ガスパールは」
「罪を認める」
「それで許される?」
「許しません」
「では話す意味は」
「次を止める」
ヨナは黙る。
世界中で同じ。
死者は戻らない。
次。
「それだけ?」
「それしかできないこともある」
---
## 十二
選挙七日目。
投票。
オルシーニ十二。
サヴェッリ九。
マルクス五。
二十六票。
コルヴィ派は三つへ分裂。
選挙は膠着。
市内の食糧は減る。
候補者の救済会資金は凍結。
透明化の代償。
穀物商は、次の教皇が債務を承認するまで売らない。
「マルクス」
ピエトロが回廊で声をかける。
二人だけ。
「私の票を、あなたへ移す」
「なぜ」
「オルシーニを止める」
「私も火刑を命じた」
「火を消した」
「命じたことは消えない」
「だから」
ピエトロ。
「自分が正しいと思い切れない教皇が必要です」
「それでは統治できない」
「疑いながら決める」
「あなたがすれば」
「改革派だけの教皇になる」
「私は誰の」
「誰からも嫌われる教皇」
マルクスは笑わなかった。
「褒めていますか」
「はい」
「受けません」
「選ばれたら」
「辞退」
「教会がさらに割れる」
「私へ責任を」
「もう逃げています」
厳しい。
「ヴァルデンで、あなたは自分が命じた火を見た」
ピエトロ。
「私は本の中でしか火刑を知らない」
「だから適任では」
「教皇は神学者だけでは足りない」
「迫害者が必要?」
「迫害したことを忘れない者」
マルクスは窓の外。
黒い灰。
白い石へ。
「原契約が見つからなければ」
「それでも選挙は」
「聖座の罪を知らずに座る」
「知っている部分だけで」
「足りない」
「完全を待てば、白い椅子は永遠に空です」
遅さにも限界。
「一つ条件」
マルクス。
「何を」
「選ばれる前に、全候補が誓約する」
「内容」
「オルシャへの聖戦及び緊急統治を四十日停止。教皇庁債務を公開。灰冠関連資金を共同監査」
「オルシーニは拒む」
「なら、誰が戦争を急いでいるか分かる」
「選挙を政治取引へ」
「すでに」
ピエトロは手を差し出さなかった。
枢機卿同士。
契約ではなく。
「誓約文を作ります」
---
## 十三
レオーネ・オルシーニは誓約を拒否した。
「教皇になる前に、教皇権を縛る」
議場。
「教皇も法へ」
ピエトロ。
「教会法は教皇が解釈する」
「自分を選ぶ者との約束も破れる?」
「神の命令があれば」
「誰が聞く」
「教皇」
円。
「オルシャでは信徒が殺されている」
レオーネ。
「三宗派すべて」
マルクス。
「だから聖冠派軍を?」
「聖地秩序を」
「原契約では単独介入を禁じた可能性」
「原契約は見つかっていない」
「盗まれた」
「存在しないものを盗まれたと」
「白い椅子の空洞」
「古い聖遺物かもしれない」
レオーネは強い。
彼も本気で、聖地の混乱を終わらせたい。
「四十日で何人死ぬ」
「軍が入れば」
「いまも死んでいる!」
「なら共同調査団を」
「遅い」
「速い軍で何度失敗した」
三港。
凍河。
ヴァルデン。
「灰冠を恐れて剣を捨てるか」
「剣を握る手を調べる」
「兵は待たない」
「神は急げと?」
レオーネの顔が冷える。
「異端者ヨハンの言葉に染まったか」
「彼を焼こうとしたのは私です」
マルクス。
「だから、誰より自分の確信を恐れます」
議場。
沈黙。
「私は誓約する」
ピエトロ。
「私も」
コルヴィ。
候補辞退後。
「財務公開を」
「自分の罪を軽くするため」
レオーネ。
「それもある」
コルヴィは認める。
一人。
二人。
枢機卿が署名。
最終的に十八人。
必要票と同じ数。
レオーネ派八人は拒否。
選挙前の誓約。
法的拘束力は不明。
政治的には大きい。
「選ばれて破れば」
若い枢機卿。
「公開する」
ピエトロ。
「教皇を告発?」
「はい」
聖座の歴史で異例。
教皇選挙人が、次の教皇を監視する誓約。
---
## 十四
ルミナ港へ《細月》が到着したのは、選挙十一日目だった。
港湾鎖。
検査。
教皇空位中、外国船の入港は厳しい。
「オルシャ鍵守家」
マリアムが名乗る。
役人が信じない。
「鍵守家は全滅」
「生きています」
「証明は」
灰鍵印。
オルシャ共同宣言。
ナフル使節証。
「選挙宮は封鎖」
「異議申立てです」
「誰へ」
「白い椅子へ」
役人が困る。
制度にない。
「財務長官へ」
「選挙中」
「侍従長」
「病気」
「枢機卿団へ」
「外部文書禁止」
「では、教会法上の異議を誰が受ける」
「新教皇」
「新教皇が選ばれる前に必要」
「待ってください」
待て。
世界中で。
「四十日停止権は、提出時から」
マリアム。
「受理されなくても」
原契約の条文。
「写しを市へ公開します」
役人の顔が変わる。
「選挙中に?」
「受け取らないなら」
「混乱します」
「秘密より」
港役人は上司を呼ぶ。
上司。
さらに上。
半日。
その間、噂が広がる。
オルシャ鍵守が来た。
教皇の罪を持つ。
新教皇を止める。
聖戦派が港へ。
改革派も。
灰冠の暗殺者も。
ファハドは周囲を見る。
「船を離れます」
「どこへ」
「別々に」
マリアム。
原契約写本を三つ。
港の聖冠教会。
刻印民商会。
灰衣修道院。
同時。
「本人は」
ヨナ。
「僕たちが市へ」
「危険」
「船も」
「マリアムは公式使節として残る」
ファハド。
「私は写本を修道院へ」
「僕は」
「刻印民商会」
ヨナ。
自分で。
「一人では」
「港の水売り組合が」
ルミナにも水売り。
六番目の席。
権力を持たない者。
「紹介状を」
マリアム。
三人が分かれる。
到着したその夜、《細月》船室へ火。
誰もいない。
原本も。
灰冠は遅れた。
だが港の役人二名が死亡。
火を消そうとして。
また死者。
---
## 十五
オルシャ原契約の写しは、選挙宮へ入る前に市内へ広がった。
刻印民商会が十二部複写。
灰衣修道院が説教壇で朗読。
聖冠教会は最初、公開を拒否。
若い司祭が扉へ貼った。
内容。
聖座ルミナが灰冠平和庫の創設者。
紫帳。
緑月。
四矢。
灰鍵。
六席。
聖地介入の四十日停止。
巡礼税担保化の制限。
市民は、すべてを理解しない。
残る言葉。
《聖座が灰冠を作った》
《教皇は戦争商人》
《オルシャへの聖戦は違法》
《鍵守の娘が次の教皇を止めに来た》
誇張。
同時に核心。
選挙宮の小窓へ、原契約が差し入れられる。
外部文書禁止。
だが教会法異議申立て。
監督枢機卿が受ける。
二十六人の前で封を開く。
マリアムの署名。
六席証人としてヨナ・ベン=エズラ。
オルシャ六共同体の印。
完全ではない。
巡礼宿代表が不在。
五共同体。
条文上は六席代表一名と鍵守印で足りる。
「真正性は」
レオーネ。
「鑑定が必要」
「写本が市中へ」
ピエトロ。
「だから真実?」
「隠せない」
原契約。
古い紙。
印。
インノケンティウス十一世。
アウレリア皇帝。
南方法官。
トグリル大汗以前の四氏族長。
オルシャ鍵守。
商人。
「白座印」
マルクスが半鍵を当てる。
契約下部。
金属箔の凹みと一致。
本物。
少なくとも同じ制度。
「教皇庁写本は盗まれた」
コルヴィ。
「オルシャ写本が」
「これを公開すれば」
レオーネ。
「教会の敵が利用する」
「すでに外へ」
「なら偽造と」
「本物です」
マルクス。
「確定していない!」
「白座印が」
「印も盗める」
「あなたは何を守っている」
「信徒だ!」
レオーネの声。
「教皇が戦争金融へ関わったと知れば、エーレン改革派は教会税を拒む! オルシャで聖冠派は孤立! 北方宣教は崩れる!」
「事実なら」
ピエトロ。
「真実で信仰が崩れるなら、信仰ではないというのか?」
レオーネ。
「民衆へ、その言葉を言えるか! 病院も孤児院も灰冠の金で建てた。すべて閉じろと?」
コルヴィが低く言う。
「閉じられない」
「なら」
「公開し、債務を組み直す」
「市場が逃げる」
「逃げる」
「人が飢える」
「だから同時に小口寄進と王侯へ」
「間に合わない」
同じ議論。
原契約は罪を明らかにする。
解決は与えない。
「四十日停止は」
監督枢機卿。
「異議が真正なら発動」
「教皇空位中も?」
「条文では《白座の占有を問わず》」
「では聖戦宣言不可」
「緊急統治権も」
「巡礼税担保も」
灰冠の計画。
止まる。
四十日。
「選挙は」
「続けられる」
「候補は停止条項へ従う」
レオーネの顔。
彼の政策。
選ばれても四十日動けない。
「陰謀だ」
「原契約は四十七年前」
マルクス。
「鍵守家が、選挙へ介入」
「権利です」
ピエトロ。
「異教徒を含む六席が、教皇を縛る?」
「聖地共同統治に限る」
「それでも」
「我々が署名した制度」
「死者が」
「聖座が」
教会は自分の過去へ縛られる。
---
## 十六
ガスパールを乗せた小舟がルミナ港へ着いたのは、その翌日だった。
本船を焼き、漁船を乗り継いだ。
鎖。
疲労。
傷。
ギヨームの騎士は三人から一人へ。
証言写本は濡れている。
読める。
港で拘束。
聖剣騎士団が身柄を要求。
元副隊長。
背教。
殺人。
教皇庁衛兵も。
オルシャ使節団は共同拘束を主張。
「一つの牢へ入れれば死にます」
ヨナ。
マリアムと再会。
「三か所へ?」
役人が困る。
「人間を分けられない」
「監視を分ける」
聖座衛兵。
オルシャ兵。
灰衣修道士。
刻印民書記。
四者。
牢の鍵も四つ。
扉一つ。
鍵四つ。
一つ欠ければ開かない。
食事小窓。
医師。
公開証言。
ルミナ市裁判所前。
選挙中に異例。
だが原契約異議の証人。
ガスパールは群衆の前へ。
石。
罵声。
「殺人者!」
「聖座の裏切り者!」
「真実を話せ!」
彼はヨナを見る。
少年は前列。
「鍵守家襲撃に参加したか」
裁判官。
「はい」
「目的」
「原契約異議権を失わせるため、家族を拘束し、鍵と写本を回収」
「殺害命令は」
「武装派指揮官セラフィーノ・ヴェッキ」
「黒雪?」
「当時の役職名は《白座管理官》」
群衆。
教皇庁。
「聖座の命令?」
「公式ではない」
「誰が資金を」
「慈悲庫第零口座」
「教皇は」
「グレゴリウス九世は、計画を知らない」
「断言できる?」
「私の知る範囲」
「三代前の教皇は灰冠を」
「平和庫を作った」
「同じ組織?」
「分裂した」
「いつ」
「八年前」
アウレリア記録とも一致。
「マルケル・セヴェロスは」
「調停派と武装派、両方へ名を使われた。本人がどちらかは不明」
「黒雪は」
「役職。現任者は聖座にいる」
「名を」
「セラフィーノ・ヴェッキを名乗る者」
「顔」
「複数」
「選挙へ介入?」
「はい」
「誰を教皇に」
「署名する者」
「オルシーニ?」
「接触あり」
聖戦派から怒号。
「サヴェッリ?」
「接触あり」
改革派も。
「コルヴィ?」
「長年」
財務派。
「マルクス?」
ガスパールは少し間。
「接触を試み、拒否された」
マルクス支持者が歓声。
「彼を正義にするな」
ガスパールが言った。
群衆が静まる。
「彼はヴァルデンで火刑を命じた」
マルクス本人は選挙宮で証言記録を読むことになる。
「全員に接触した。誰も純粋ではない」
「お前も」
ヨナが言った。
ガスパールは少年を見る。
「はい」
「ユヌスを助けなかった」
「はい」
「なぜ」
「計画が崩れると思った」
「人より計画を」
「はい」
「今は」
「計画を壊すため話す」
「自分を助けるためでは」
「それもある」
正直。
「許してほしい?」
ガスパールは長く黙る。
「いいえ」
「なぜ」
「許しを求めれば、お前に何かをさせる」
ヨナは唇を噛む。
怒り。
涙。
「僕は許さない」
「はい」
「でも話せ」
「話す」
許さないまま。
証言を使う。
復讐と協力の間。
六番目の席。
---
## 十七
選挙十三日目。
ピエトロ・サヴェッリは正式に候補を辞退した。
「改革を進めるには教皇位が必要では」
支持者。
「私が選ばれれば、改革派の勝利になる」
「それが」
「聖戦派はすべて拒む」
「マルクスなら」
「両方から拒まれる」
また。
「誰へ票を」
「自由」
実際には、個別にマルクスを推した。
投票。
オルシーニ十二。
マルクス十三。
ピエトロ一。
まだ十八。
レオーネ派は固い。
マルクスは立つ。
「私への投票をやめてください」
「辞退宣言?」
監督枢機卿。
「はい」
「選出前辞退は法的効力なし」
「なぜ」
「枢機卿は自由に名を書ける」
「選ばれた後に拒否」
「教会空位が続く」
「私は」
レオーネが笑う。
「恐れているのか」
「はい」
議場が静まる。
「教皇位を?」
「自分が正しいと信じる瞬間を」
「そのような者へ教会を任せられない」
「同意します」
「では私へ」
「あなたは恐れていない」
二人。
「私は神を恐れる」
レオーネ。
「自分が神の声を聞き間違えることは」
「異端者の問いだ」
「私が火刑台で学んだ問いです」
マルクスは原契約を持つ。
「白い椅子は空でした」
「だから」
「最初から空だったのかもしれない」
枢機卿たち。
「教皇が座る前に、椅子が彼を正しくするのではない。座る人間は、間違ったままです」
「当たり前だ」
老枢機卿。
「では、なぜ皆、選ばれた瞬間に神の意志と呼ぶ」
誰も。
「私は、教皇になっても間違います」
「弱さを宣言?」
「事実を」
「信徒が不安に」
「嘘で安心させる?」
レオーネの支持者の一人。
年老いた枢機卿が目を伏せる。
「マルクス」
ピエトロ。
「受けるのか」
「選ばれたら」
長い沈黙。
「条件付きで」
議場がざわめく。
「教皇位へ条件を」
「誓約十八名。原契約。財務公開。三つを就任宣誓へ」
「教皇権を自ら」
「縛ります」
「後代も?」
「少なくとも私を」
「次の教皇が破る」
「そのとき、記録が残る」
完璧でない。
それでも。
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## 十八
十四日目、第一投票。
マルクス十六。
オルシーニ十。
二票足りない。
投票用紙を燃やす。
黒煙。
外の群衆は落胆。
同日午後。
第二投票。
マルクス十七。
オルシーニ九。
一票。
誰が移ったか分からない。
秘密投票。
だが全員、互いを疑う。
夜。
食事が減る。
選挙が長引くと、伝統により献立は簡素化される。
パン。
水。
祈り。
枢機卿も空腹。
外の市民ほどではない。
それでも。
十五日目。
投票前、レオーネ・オルシーニが発言を求めた。
「私は候補を辞退しない」
支持者に安堵。
「だが、原契約の四十日停止へ従う」
驚き。
「なぜ」
「聖戦派が灰冠に操られていると、歴史へ書かせない」
動機。
名誉。
それでも結果。
「財務公開は」
「軍事機密を除き」
「誰が除外を」
「共同委員会」
「誓約へ署名を」
レオーネは紙へ。
完全ではない。
「私へ投票する者は、自由に」
その言葉。
票がどう動く。
投票。
紙を折る。
聖杯へ。
一枚ずつ読み上げ。
「マルクス」
「レオーネ」
「マルクス」
十四。
十五。
十六。
十七。
最後から二枚目。
「レオーネ」
十七対九になるはず。
最後。
監督枢機卿が紙を開く。
長く見る。
「マルクス・ヴァレリウス」
十八。
必要数。
選出。
誰が最後の票か。
分からない。
レオーネ自身かもしれない。
ピエトロ。
コルヴィ。
強硬派。
秘密。
「受諾しますか」
儀式の問い。
マルクスは白い椅子の空洞を思う。
ヴァルデンの火。
ヨハン。
死者五十三。
オルシャの家族。
北門の焼けたパン。
故教皇。
「受諾します」
声は大きくない。
「教皇名を」
名前。
新しい人間になる儀式。
過去を捨てるためではない。
背負い方を変えるため。
「ルキウス」
光を意味する古い名。
「ルキウス十世」
白煙。
大聖堂煙突。
群衆。
歓声。
泣く者。
怒る者。
新教皇。
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## 十九
教皇ルキウス十世は、白い椅子へ座る前に、黒布を自分で外した。
礼拝堂。
枢機卿。
司教。
使節。
マリアムも。
オルシャ鍵守として。
ヨナは六席証人。
ファハド。
ガスパールは牢。
白い椅子の座面下。
空洞。
新教皇は立ったまま。
侍従が促す。
「猊下」
「原契約を」
マリアムが前へ。
鉛筒から取り出す。
教皇へ渡す。
「これは聖座のものではありません」
彼女が言う。
周囲がざわめく。
「共同契約です」
「はい」
ルキウスは受け取る。
「白座印の責任を認めます」
「歴代教皇の?」
「教会の」
「猊下一人の責任では」
「だから一人で謝罪して終わらせません」
彼は白い椅子へ座らない。
先に就任誓約。
「第一」
「オルシャ原契約に基づく四十日停止を承認する」
「聖地への単独軍事介入、緊急統治権の設定、巡礼税の担保化を停止」
レオーネの顔。
従う。
「第二」
「教皇庁慈悲庫及び零庫に関する帳簿を、三者監査へ」
「聖座代表、信徒都市代表、オルシャ六席代表」
教会外が入る。
反発。
「第三」
「灰冠平和庫の設立及び変質における聖座の役割を公開する」
さらに。
「第四」
「ヴァルデン火刑命令について、私自身の責任を教会法廷へ付す」
枢機卿が騒ぐ。
「教皇を裁く法廷は」
ピエトロ。
「作る」
「教皇無謬の」
「私は裁判手続きを誤ったかを問う。神学の無謬を盾に、行政責任を消さない」
異例。
「第五」
「教皇選挙に用いられた救済資金を公開し、候補者側の利益を返還する」
「パンを返す?」
コルヴィ。
「金を」
「足りない」
「教皇領財産を」
「教会が」
「売れる銀器から」
また。
象徴。
実用。
「これらを誓う」
ルキウスは原契約へ手を置く。
「白い椅子が私を正しくするとは考えない」
「私が白い椅子を所有するとも」
「私は、空席を一時預かる」
その後、座る。
白い石。
硬い。
空洞。
原契約は膝の上。
群衆から見えない。
だが礼拝堂の者は見る。
マリアム。
ヨナ。
二人。
鍵守家と水売り。
王でも司祭でもない席。
新教皇が最初に見るのは、枢機卿ではなかった。
ヨナ。
「名は」
「ヨナ・ベン=エズラ」
「六席証人として、異議を確認するか」
少年は緊張。
「確認します」
「何を求める」
教会法上の言葉を期待される。
ヨナは考える。
「殺した人を、宗派の名前で隠さないこと」
礼拝堂が静まる。
「聖冠派が殺した。七燭派が。啓句派が。そう書かず、名前を」
ユヌス。
ガスパール。
カマール。
自分。
「分かりました」
教皇。
「それと」
ヨナ。
周囲が止めようとする。
ルキウスが手で許す。
「ガスパールを殺さないでください」
マリアムが少年を見る。
「許したのか」
教皇。
「許してません」
「ではなぜ」
「話させるため」
ルキウスは頷く。
「生かします」
「約束?」
教皇は答える前に考えた。
牢。
暗殺。
自分の力。
完全には守れない。
「聖座の拘束下では、死刑を命じない」
限定。
「共同監視を続ける」
「それで」
ヨナ。
完全な約束より。
守れる範囲。
---
## 二十
原契約の公開は、聖座ルミナを救わなかった。
翌日、穀物商三社が取引停止。
聖座債券の価格下落。
巡礼宿組合が返済保証を要求。
孤児院二つが、資金凍結で食糧不足。
病院の薬商人が現金払いを求める。
真実は、請求書を消さない。
教皇ルキウス十世は、最初の一週間を説教ではなく会計で過ごした。
金杯。
銀燭台。
儀式用宝石。
売却一覧。
聖職者が反発。
「聖遺物を」
「聖遺物は売らない」
「奉納銀器は」
「溶かす」
「信徒の祈りが」
「祈りを溶かすのではない」
「象徴が」
「子供のパンも象徴です」
小口寄進。
一人銀貨一枚まで匿名可。
それ以上は名を公開。
灰冠の大口資金を避ける。
集まるか。
市民は疑う。
「教会が戦争を売った」
それでも一部は寄進。
ヴァルデンのエルザ工房からも、小さな銀貨。
添え書き。
《火刑台の薪代として使わないこと》
教皇は読んだ。
保管せず、公開帳簿へ。
ヨハン・アイゼンからは金ではなく、民衆語聖典の一冊。
序文。
《同じ言葉を読み、異なる意味を得る者がいる》
ルキウスは白い椅子で読む。
以前なら異端審問の証拠。
いまは、自分の責任を測る文書。
レオーネ・オルシーニは聖剣騎士団へ命令。
オルシャ派遣準備を停止。
ただし騎士団の解散はしない。
「四十日後」
彼は言う。
「必要なら行く」
マリアムは答える。
「四十日で必要でない形を作ります」
敵対。
同時に時間を共有。
ピエトロ・サヴェッリは、財務公開委員長。
コルヴィは財務長官を辞任し、証人として残る。
逃げない。
あるいは、自分の制度を守りたい。
どちらも。
---
## 二十一
慈悲庫第零帳簿の所在は、まだ分からなかった。
白い椅子から盗まれた聖座写本。
選挙資金。
セラフィーノ・ヴェッキ。
黒雪。
灰冠の聖座責任者。
ガスパールの証言から、候補地が三つ。
教皇庁地下金庫。
北門救済会。
旧地下墓地。
共同捜索。
教皇衛兵。
オルシャ六席代表。
市監査人。
灰衣修道士。
最初の二つは空。
北門倉庫の焼け跡。
地下に隠し部屋。
帳簿はない。
代わりに、選挙票の予測表。
枢機卿二十六人。
借金。
親族。
愛人。
病気。
神学傾向。
買収可能額。
脅迫材料。
マルクス。
《買収困難》
《罪責感を利用》
ピエトロ。
《改革基金経由》
レオーネ。
《聖地危機を利用》
コルヴィ。
《既存債務で拘束》
人間を数字へ。
「私の欄は」
新教皇。
「罪責感を利用」
ピエトロ。
「成功した?」
ルキウス。
誰も答えない。
彼が教皇を受けたのは、罪責感。
灰冠の予測どおりかもしれない。
「敵の予測に入った選択は、敵の命令になるか」
マリアム。
「いいえ」
教皇。
「なら、自分で決めたと?」
「完全には」
「それでも、決定は必要」
テオドラたちと同じ。
「黒雪は」
ファハド。
帳簿末尾。
《選挙失敗時》
《白座空位の長期化》
《市内食糧危機》
《枢機卿団分裂》
《新教皇選出後は、債務危機による署名獲得へ移行》
誰が選ばれても次。
「いまも計画中」
マリアム。
「私に債務へ署名させる」
ルキウス。
「断れば、市民が」
コルヴィ。
「受ければ灰冠が」
ピエトロ。
「第三の道」
ヨナ。
大人が見る。
「皆から少しずつ」
小口寄進。
すでに。
「足りない」
コルヴィ。
「足りる分だけ」
エルザと同じ。
遅い。
「足りない分で、誰を見捨てる」
教皇は少年へではなく、自分へ問う。
答えはこれから。
---
## 二十二
旧地下墓地で、黒雪の部屋が見つかった。
空。
机。
燃やされた紙。
壁に地図。
オルシャ。
ヴァルネリア。
アウレリア。
ナフル。
エーレン。
サルグァ。
ヴェリグラード。
ノルハイム。
各地に線。
中央はルミナ。
白い椅子。
机の上に、一枚だけ残された紙。
《白座計画》
《原契約聖座写本、回収済》
《オルシャ写本、回収失敗》
《聖戦派単独選出、失敗》
《改革派単独選出、失敗》
《妥協教皇選出、成功》
「成功?」
レオーネ。
「ルキウス選出を望んだ?」
ピエトロ。
「どの教皇でも、債務を」
コルヴィ。
続き。
《公開誓約、発生》
《四十日停止、発動》
《短期利益、減少》
《聖座信用危機、拡大》
《公開資金調達の成否を観察》
《失敗時、慈悲庫救済案を再提示》
灰冠は、待つ。
新制度が失敗するのを。
「成功させなければ」
マリアム。
「何を」
「公開資金調達」
「それで灰冠が消える?」
「消えない」
「なら」
「一つの道を閉じる」
世界中。
一つずつ。
「黒雪本人は」
ファハドが壁。
新しい風。
地下通路。
聖座外へ。
逃亡。
机の引き出し。
小さな黒い煤袋。
ノルハイムの泥炭。
黒い雪。
印。
「北方難民に紛れた」
ヨナ。
「あるいは、そう思わせる」
ファハド。
紙の最後。
《次期集合地――セレスタ》
蒼環海の商都。
ルチアーノ・ヴェルディ。
銀行。
灰冠の発祥と分裂。
すべての帳簿が集まる場所。
「会計王も」
マリアム。
「セレスタへ?」
「罠」
ファハド。
「それでも行く必要」
教皇ルキウスは地図を見る。
白い椅子から、海へ伸びる線。
「聖座使節を」
「誰を」
レオーネ。
「私が」
マリアム。
「あなたはオルシャへ戻るべき」
「灰鍵代表として」
「危険」
「どこも」
ヨナが言う。
「僕も」
マリアムが振り返る。
「あなたは」
「六席」
少年。
「誰か一人では、また秘密になります」
教皇が少し笑う。
「私は行けない」
「白い椅子が」
ピエトロ。
「動かせません」
「なら、椅子ではなく契約を」
ルキウス。
「私はここで帳簿を開く。あなた方はセレスタで」
別々の場所。
同じ網。
---
## 二十三
教皇就任から四十日停止の第一日。
ルミナ大聖堂前で、灰冠平和庫原契約が全文朗読された。
長い。
法語。
民衆は途中で帰る。
商人は担保条項だけ聞く。
巡礼者は聖地条項。
難民は六席。
司教は白座権限。
それぞれ。
最後。
《王でも司祭でも商人でもない者のため、席を一つ空けよ》
ヨナが読む。
声が震える。
広場。
数万人。
「その席は、誰のものか」
続き。
「道を歩く者。水を運ぶ者。病者を埋める者。国を失った者。文字を持たない者」
ノルハイム難民が聞く。
水売り。
刻印民。
孤児。
「彼らの同意なく、彼らの道、税、身体を担保としてはならない」
四十七年前。
守られなかった条文。
人々は歓声を上げない。
意味を考える。
一人の商人が言う。
「では、税を決めるたび全員へ聞くのか」
別。
「誰が代表する」
「偽物が」
「遅すぎる」
問題。
すぐ。
制度は宣言だけでは動かない。
「六席評議会を」
教皇。
聖座ルミナにも作る。
巡礼者。
都市貧民。
難民。
刻印民。
水運労働者。
施療院。
誰が選ぶ。
何人。
買収。
任期。
費用。
また。
「白い椅子の横に」
ルキウスは言った。
礼拝堂ではなく、広場。
小さな木椅子六つ。
暫定。
豪華でない。
「教皇より高くするな!」
聖職者。
「同じ高さ」
「権威が」
「意見を聞く席です」
「決定権は」
「一部」
また反発。
白い椅子一つを守る教会が、六つの木椅子を恐れる。
---
## 二十四
その夜、ルミナ市に雨が降った。
黒い灰が石畳から流れる。
白い大聖堂の階段は、灰色になった。
新教皇ルキウス十世は、白い椅子に一人で座っていた。
冠なし。
原契約。
ヴァルデン死者名簿。
オルシャ鍵守家死者名簿。
北門倉庫死者。
選挙資金帳簿。
机ではなく膝。
マルクス・ヴァレリウスという人間は、教皇名を得ても消えない。
火刑を命じた。
火を消した。
教皇になりたくないと言った。
受けた。
灰冠に予測されていた。
それでも自分で選んだと信じたい。
扉。
ヨナ。
「入ってよいと言われました」
「誰に」
「六席の木椅子へ座る人を決める会議が、長いので」
逃げてきた。
「座りますか」
白い椅子の横。
まだ木椅子はない。
床。
少年は床へ。
教皇も白い椅子から下りた。
同じ床。
「猊下」
「何です」
「椅子に座らなくていいんですか」
「硬い」
ヨナが笑った。
「白いのに」
「石です」
「白いものは、きれいとは限らない」
少年が階段の灰を思う。
「黒い雪が降った」
「はい」
「洗えば白くなる?」
「表面は」
「下は」
教皇は答えない。
白い椅子の下。
空洞。
灰冠の契約。
盗まれた写本。
「猊下は、灰冠を倒せますか」
ヨナ。
「分かりません」
「教皇なのに」
「教皇だから分からないと言えないと思っていました」
「いま言った」
「はい」
「では、何を」
「帳簿を開く。借金を減らす。戦争を止める。失敗したら記録する」
「アルベリクみたい」
「誰です」
「会ったことない」
遠い国の若い参謀。
死者を書く男。
話が書簡で広がっている。
「皆、同じことを始めている」
ヨナ。
「なぜ」
「灰冠が同じことをしたから」
秘密。
借金。
偽命令。
各国が似た対策。
「それなら勝てる?」
「敵も学びます」
「では」
「先に正しくなる競争ではない」
「何の」
教皇は雨音を聞く。
「間違いを隠さない競争です」
少年は考える。
「負けたくないです」
「私も」
---
白い椅子は、その夜も礼拝堂にあった。
新教皇が座った。
それで教会の罪が消えたわけではない。
原契約を公開した。
それで灰冠会議が滅びたわけでもない。
四十日の停止。
短い時間。
その間に聖座は、自分の財政を立て直し、オルシャの共同統治を守り、エーレン帝国の宗教戦争を止め、北方難民を養わなければならない。
不可能に近い。
だが不可能だから、一人の教皇へすべてを渡してはならない。
白い椅子の横へ、六つの木椅子が置かれた。
形も高さも違う。
職人が急いで作ったため。
一つは脚が短く、少し揺れた。
最初の六席会議で、難民代表の女が言った。
「直してください」
聖職者は、象徴なのだからよいと答えた。
女は言った。
「座るのは象徴ではなく人間です」
脚へ木片が差し込まれた。
小さな修正。
教会法ではない。
神学でもない。
だが、制度はそのように始まる。
---
同じ頃。
蒼環海中央。
セレスタ海洋都市同盟。
ルチアーノ・ヴェルディは、自分の銀行最上階から港を見ていた。
各国の船。
オルシャ。
ナフル。
アウレリア。
ヴァルネリア。
アルビオン。
北方。
すべての旗。
机には、灰冠会議の招集状。
《会計王マルケル・セヴェロス臨席》
《白座計画の失敗を受け、組織再編を議す》
《公開制度への適応》
ルチアーノは招集状を燃やさなかった。
写しを三部。
一部は銀行金庫。
一部は妻の実家。
一部は、オルシャから来るはずの鍵守使節へ。
彼は灰冠会議の一員だった。
同時に、灰冠を内側から変えようとしていた。
あるいは、自分だけ生き残ろうとしている。
本人にも区別できない。
窓の外。
港へ一隻の船。
旗なし。
灰色の帆。
船首に立つ老人。
白い髪。
左手の小指がない。
マルケル・セヴェロス。
死者が、ついに都市へ姿を現した。
王冠たちの夏に始まった戦争は、白い椅子を空にし、再び満たした。
次に空けられるのは、銀行の椅子だった。
金を貸す者。
戦争を止める者。
戦争を売る者。
同じ机へ座る。
そして初めて、灰冠会議そのものが、自分の帳簿を開くことになる。
書き溜めていた分のストックがほぼ尽きてきましたので… 更新頻度についてアンケートをさせていただきたいと思います。 以降の更新頻度はどの程度がよいでしょうか?
-
死ぬ気でがんばれ
-
可能な範囲でがんばれ
-
そんなに急ぐこたーないぞ