灰冠と香路の年代記   作:MOZIO

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第二十一章 溢れる大河

水は、少ないときには奪い合われる。

 

多いときには、押しつけ合われる。

 

渇水の年、上流の村は下流へ水を流したくないと言った。

 

洪水の年、上流の村は下流へ水を流したいと言った。

 

どちらの年も、人は同じ言葉を使う。

 

《自分たちが生きるためだ》

 

大河は返事をしない。

 

人間が引いた境界も。

 

貴族の領地も。

 

宗派も。

 

帳簿の所有権も。

 

水にとっては、すべて低い場所か、高い場所かの違いしかなかった。

 

灰暦八百七十三年、夏の終わり。

 

ナフル大河上流の山地では、三日三晩、雨が降った。

 

乾ききった土は、水を吸わなかった。

 

雨は地表を走り、谷へ集まり、細い流れを川へ変え、川を濁流へ変えた。

 

流木。

 

岩。

 

家。

 

羊。

 

人。

 

水位標は、一夜で三尺。

 

翌朝にはさらに二尺。

 

ナディア・ビント・ユーヌスは、堤防の内側へ耳を当てた。

 

土の奥。

 

低い音。

 

水が、堤体の空洞を通る音。

 

「鼠穴ではありません」

 

若い技師。

 

「分かっています」

 

「では」

 

「古い水路です」

 

「記録にない」

 

「だから危険です」

 

堤防は、表面より内部から壊れる。

 

国家も同じだった。

 

---

 

## 一

 

ナディアがいたのは、ナフル上流三角州の町アル=ハディール。

 

渇水期には、川幅が狭まり、泥の中から古代の石列が現れた。

 

洪水期には、町の屋根だけが島のように残ることがある。

 

今年、川はまだ堤防内に収まっている。

 

だが水面は、堤防の外に立つ人の目と同じ高さまで来ていた。

 

「上流から第三波」

 

伝令。

 

「いつ」

 

「半日以内」

 

「水量」

 

「第一波の一・四倍」

 

「測定地点は」

 

「カリム領北門」

 

カリム将軍領。

 

私設堤防。

 

王国最大の穀倉地帯。

 

渇水の年には、違法水路で水を取った。

 

洪水の年には、巨大な土塁で水を外へ押し出す。

 

同じ設備が、状況によって罪にも盾にもなる。

 

「将軍領の放水門は」

 

「閉鎖」

 

「命令したのは」

 

「カリム将軍本人」

 

停職中。

 

軍権停止。

 

領地内待機。

 

それでも私兵は残る。

 

「王命は」

 

「受領拒否」

 

「理由」

 

伝令は濡れた紙を出す。

 

《穀倉地帯を守るため、領内水門を閉鎖する》

 

《開門は王国食糧安全保障への反逆となる》

 

「下流は」

 

若い技師。

 

「閉じれば、こちらへ水が」

 

アル=ハディール。

 

その先に首都。

 

東岸貧民区。

 

葦原村。

 

刻印民集落。

 

「上流で閉じた水は消えません」

 

ナディア。

 

「川の東側へ」

 

「こちらです」

 

「はい」

 

「王都水利庁へ」

 

「すでに」

 

「返事は」

 

「スルタン評議会を招集中」

 

会議。

 

水は半日。

 

「待てません」

 

ナディアは地図を開く。

 

古い水路。

 

王家狩猟地。

 

カリム領。

 

下流貧民区。

 

堤防。

 

三つの選択。

 

第一。

 

カリム領の水門を強制開放。

 

穀倉地帯の一部が冠水。

 

秋の小麦を失う。

 

第二。

 

東岸の緊急放水路を開く。

 

貧民区と葦原村を沈める。

 

首都と穀倉を守る。

 

第三。

 

王家狩猟地の堤防を切る。

 

宮廷所有の馬牧場、別荘、果樹園を失う。

 

ただし容量は不足。

 

「狩猟地へ流しても、第三波全部は」

 

技師。

 

「分かっています」

 

「残りは」

 

「別の場所も」

 

「どこ」

 

ナディアは地図を指した。

 

カリム領南部。

 

将軍の私有庭園と退役兵村。

 

「将軍が許しません」

 

「だから先に話します」

 

「話す時間は」

 

「馬で二刻」

 

「第三波は半日」

 

「往復できる」

 

「交渉が一刻で終われば」

 

「終わらせます」

 

---

 

## 二

 

停職中のカリム将軍は、鎧を着ていた。

 

軍権を失っても、彼は将軍の格好をやめなかった。

 

六十二歳。

 

白髭。

 

右目は戦場で失い、黒い革布で覆う。

 

ナフル王バイバルスとともに、奴隷兵から成り上がった世代。

 

二人は若い頃、同じ鍋から粥を食べた。

 

一人はスルタン。

 

一人は将軍。

 

友情は権力差を消さない。

 

だが消えたふりをさせる。

 

カリムの城館には、退役兵とその家族が集まっていた。

 

堤防工事。

 

土嚢。

 

馬車。

 

穀物袋を高台へ。

 

「ナディア水利監察官」

 

門番。

 

「将軍は会わない」

 

「では、門前で命令を読みます」

 

「王命は受けない」

 

「王命ではありません」

 

「何です」

 

「水位です」

 

門番が顔をしかめる。

 

ナディアは水位板を見せた。

 

数字。

 

時刻。

 

第三波。

 

「将軍へ伝えてください」

 

「水門を開ければ、領民が」

 

「閉じれば下流が」

 

「将軍は知っている」

 

「なら、私と話せます」

 

一刻待たされた。

 

水は待たない。

 

ナディアは門前で退役兵の妻たちへ聞く。

 

「井戸は」

 

「濁っています」

 

「高台の水甕は」

 

「兵舎へ」

 

「子供分は」

 

「後で」

 

同じ。

 

軍が先。

 

「井戸水は煮て」

 

「薪が」

 

「濡れた」

 

「穀物殻を」

 

「将軍が禁止。家畜飼料」

 

ナディアは自分の荷から乾燥炭を渡す。

 

少量。

 

「監察官が施しを」

 

女。

 

「記録してください」

 

「返すの?」

 

「必要ありません」

 

「ならなぜ」

 

「誰へ渡したか残すため」

 

名。

 

人数。

 

水甕。

 

小さな帳簿。

 

門が開く。

 

---

 

カリムは地図の前にいた。

 

「私の水門を開けろと」

 

挨拶なし。

 

「南水門と西越流堤を」

 

「穀物の七割が沈む」

 

「三割です」

 

「表面だけ見れば」

 

「地下貯蔵庫を移せば」

 

「時間がない」

 

「だから今」

 

「お前は農業を知らん」

 

「将軍は水を」

 

「私は三十年この土地を守った」

 

「渇水で水路を隠した」

 

「兵と村を生かした」

 

「下流の村を乾かして」

 

「国は、全員を救えない」

 

「洪水でも同じことを」

 

「だから穀倉を守る」

 

「下流の貧民区を沈めて?」

 

カリムは地図を叩く。

 

「穀物がなければ、冬に十万が死ぬ」

 

「東岸は五万人」

 

「今、沈む可能性。冬の死者は確実」

 

「確実ではありません」

 

「飢饉を見たことがないのか」

 

「洪水を見ています」

 

二人。

 

数字。

 

人。

 

「王家狩猟地を切ります」

 

ナディア。

 

「足りん」

 

「将軍領南部も」

 

「退役兵村がある!」

 

「東岸にも人が」

 

「彼らは移住できる」

 

「半日で?」

 

「舟を」

 

「何艘」

 

「百」

 

「必要は三百」

 

「国が」

 

「王都の舟は宮廷避難用へ徴発されています」

 

カリムの顔。

 

「バイバルスが?」

 

「まだです。宮廷官が先に」

 

「王は知らない」

 

「将軍も、領内兵が下流舟を止めていることを知らない?」

 

沈黙。

 

「何を」

 

「カリム領の兵が、舟を領民用に差し押さえています」

 

「当然だ」

 

「王命なしで」

 

「私の領地だ」

 

「川は将軍のものではありません」

 

「堤防は私が作った!」

 

「王国の水路を塞いで」

 

「私財で!」

 

「利益も」

 

「税も払った!」

 

「隠し水路分は」

 

カリムが拳。

 

怒り。

 

ただし殴らない。

 

「お前は、私を罪人にしたいだけだ」

 

「水門を開けたいだけです」

 

「開ければ、退役兵が私を殺す」

 

「閉じれば、下流の母親が将軍を呪います」

 

「呪いは堤防を守らん」

 

「兵も水を止めません」

 

ナディアは別の図。

 

「西越流堤は、すでに内部侵食しています」

 

「調べた?」

 

「外から」

 

「領地へ入れずに」

 

「音を」

 

「音?」

 

「水の」

 

カリムは笑いかける。

 

だが笑わない。

 

彼も知っている。

 

「壊れるなら」

 

「制御して切る方がよい」

 

「どこ」

 

「退役兵村の北。家屋は高台へ移せる。穀倉中心部は半分守る」

 

「半分」

 

「東岸貧民区への流量を四割減らせる」

 

「四割だけ」

 

「王家狩猟地で二割。残りを東岸の排水路へ。ただし全域ではなく低地だけ」

 

「誰を沈めるか、細かく選ぶ」

 

「はい」

 

「神のつもりか」

 

「違います」

 

「なら」

 

「地図と水位で選びます」

 

「同じだ」

 

「神なら、全員救えたでしょう」

 

カリムは黙った。

 

外。

 

土嚢を積む兵。

 

自分の兵。

 

自分の村。

 

「二刻」

 

将軍。

 

「何が」

 

「住民避難に二刻。その後、南水門を半開」

 

「第三波が」

 

「知っている」

 

「一刻半」

 

「二刻」

 

「一刻半」

 

「老人と子供が」

 

「一刻四分の三」

 

交渉。

 

「一刻四分の三」

 

「西越流堤は」

 

「自分で切る」

 

「記録へ」

 

「書け」

 

「将軍が王命なしに?」

 

「水利監察官の共同命令」

 

ナディアが止まる。

 

「私の権限は地方監察まで」

 

「緊急時は?」

 

「他領へ命令できません」

 

「なら、私の領内命令と、お前の下流監察命令を合わせろ」

 

二つ。

 

共同。

 

「責任も」

 

「半分ずつ?」

 

「人の死は割れない」

 

カリム。

 

「名前を並べる」

 

ナディア。

 

「カリム・イブン・サリム」

 

「ナディア・ビント・ユーヌス」

 

署名。

 

---

 

## 三

 

首都ナフル=カイロの王宮では、バイバルスが洪水地図を見ていた。

 

七十一歳。

 

老いた。

 

それでも立つ。

 

座れば弱く見えると、若い頃から嫌った。

 

近年は、立っている方が膝に悪い。

 

医師は座れと言う。

 

彼は聞かない。

 

「王家狩猟地を切る?」

 

財務官。

 

「馬牧場が」

 

「馬より人」

 

バイバルス。

 

「王室種馬は軍に」

 

「何頭」

 

「八百」

 

「人は」

 

「狩猟地には三千」

 

「避難」

 

「可能」

 

「なら切れ」

 

「王室資産損失」

 

「帳簿へ」

 

「財源が」

 

「後で」

 

「また」

 

財務官が言いかけ、止める。

 

「言え」

 

「後で払う金が増えています」

 

ナフル渇水債券。

 

給水路。

 

補償。

 

洪水。

 

「分かっている」

 

「国庫は」

 

「分かっている!」

 

王の声。

 

老い。

 

疲労。

 

「東岸貧民区への放水要請」

 

水利庁長官。

 

「拒否」

 

バイバルス。

 

「首都中心部が」

 

「王宮堤防を切る」

 

全員が止まる。

 

「何を」

 

「北庭園側」

 

「王宮基礎が」

 

「高台へ」

 

「財宝庫」

 

「移せ」

 

「時間が」

 

「人を」

 

「財宝を先に運べば」

 

「人を先に」

 

命令。

 

「王族避難舟は」

 

「市民へ半分」

 

宮廷官が反対。

 

「王族が」

 

「私は残る」

 

「猊下」

 

「スルタン陛下」と混同? Here should "陛下".

 

「陛下が残れば、舟を」

 

「私の家族を」

 

王子。

 

王女。

 

孫。

 

「全員、王宮高台塔へ」

 

「危険」

 

「東岸より高い」

 

「後継者が一所へ」

 

それも危険。

 

灰冠の次の標的。

 

「分散」

 

軍人。

 

「洪水中に」

 

「高台三か所」

 

「警備が」

 

「三つに」

 

また。

 

「陛下」

 

宰相。

 

「東岸を完全に守ることは不可能です」

 

「知っている」

 

「放水しなければ、首都南堤が決壊」

 

「どこまで」

 

「低地二区と葦原村」

 

「人口」

 

「二万八千」

 

「避難可能」

 

「三分の一」

 

「残り」

 

「舟」

 

「何艘」

 

「百七十」

 

「必要」

 

「四百」

 

「軍船を」

 

「上流警戒」

 

「戻せ」

 

「流れに逆らえない」

 

「では下流の商船」

 

「閉港中」

 

「なぜ」

 

「洪水時の私財流出防止」

 

バイバルスが財務官を見る。

 

「誰が閉じた」

 

「港務長官」

 

「王命なしに?」

 

「緊急権限」

 

どの国でも。

 

「鎖を上げろ」

 

「商人が逃げる」

 

「人を運べばよい」

 

「船主が拒めば」

 

「徴発」

 

「補償は」

 

「記録」

 

財務官が苦笑する。

 

「銀は」

 

「ない」

 

王が言う。

 

正直。

 

「王室宝石を」

 

「すでに一部担保」

 

灰冠旧債権。

 

「何が残る」

 

「聖剣、王冠、儀式具」

 

「王冠を」

 

室内。

 

「陛下」

 

「金でできている」

 

「王権が」

 

「頭は残る」

 

誰も笑わない。

 

バイバルスは王冠を外す。

 

会議中も被っていた軽冠。

 

金。

 

宝石。

 

「溶かすな。担保へ」

 

「どこへ」

 

「黒帳商会公開支部」

 

「刻印民へ王冠を?」

 

偏見。

 

「金を持つ者へ」

 

「利子」

 

「上限を」

 

「交渉する時間」

 

「ない」

 

「だから後で高く」

 

ナディアたちが学んだこと。

 

期限で不利。

 

「聖座、セレスタ開帳会、刻印民商会の三者共同で」

 

「遅い」

 

「一者へ渡すより」

 

バイバルスは膝に手。

 

「同時使者を」

 

「間に合うか」

 

「王冠は今日の舟代」

 

王冠を担保に、舟。

 

王冠が国を守る。

 

象徴ではなく金属として。

 

---

 

## 四

 

東岸貧民区では、避難命令を信じる者が少なかった。

 

渇水のときも、役人は《水が来る》と言った。

 

来なかった。

 

税のときだけ来た。

 

今度は《大水が来る》。

 

人々は荷をまとめる。

 

同時に家を離れない。

 

盗難。

 

土地。

 

居住権。

 

帰ったとき、別の者が住む。

 

「避難札を」

 

役人。

 

家ごと。

 

名。

 

人数。

 

家畜。

 

「これがあれば戻れる?」

 

女。

 

「登録されます」

 

「戻れる?」

 

「水が引けば」

 

「家がなければ」

 

「補償を」

 

「銀で?」

 

役人が答えない。

 

「紙?」

 

人々が笑う。

 

苦い。

 

アブドゥル・ラーマン老人が杖を上げた。

 

ナディアが渇水時に会った村長。

 

下流村から、親族の避難支援へ来ている。

 

「紙を受け取れ」

 

「村長」

 

「紙だけでは」

 

「紙もないよりはよい」

 

「王を信じる?」

 

「信じない」

 

全員。

 

「だから自分の写しを作る」

 

壁へ炭で家名を書く。

 

避難者。

 

残る者。

 

荷。

 

役人の札を写す。

 

「水で消える」

 

「高い壁へ」

 

「壁も」

 

「石板へ」

 

刻印民の石工。

 

家ごと小片。

 

番号。

 

「誰が保管」

 

三か所。

 

寺院。

 

市場組合。

 

役所。

 

複製。

 

「船は」

 

足りない。

 

「子供、病人、老人から」

 

若者が反発。

 

「男は」

 

「泳げる」

 

「泳げない」

 

「なら先に申告」

 

恥。

 

男は泳げると言いたがる。

 

実際には川で泳いだことがない。

 

「嘘で死ぬな」

 

アブドゥル。

 

名簿。

 

泳げない。

 

病気。

 

妊婦。

 

家畜。

 

牛を舟へ載せたい者。

 

「人が先」

 

「牛がなければ冬に」

 

「子供がなければ」

 

「牛も家族」

 

正しい。

 

「一艘につき、小家畜二頭まで。牛は高台へ綱」

 

役人。

 

「流される」

 

「全部は」

 

選ぶ。

 

---

 

灰衣修道会の舟。

 

刻印民商会の平底船。

 

軍の連絡艇。

 

漁船。

 

王族用の飾り舟まで。

 

金の天蓋を外し、板を敷く。

 

東岸へ。

 

「王妃の舟?」

 

人々。

 

「今日は皆の」

 

兵。

 

船頭は不満。

 

「傷が」

 

「王冠を担保にした」

 

噂。

 

「本当に?」

 

「王が冠を売った」

 

「溶かした」

 

「逃げた」

 

噂は形を変える。

 

だが舟は本物。

 

人が乗る。

 

---

 

## 五

 

カリム領の避難は、将軍の命令で進んだ。

 

速い。

 

軍隊式。

 

家ごと。

 

列。

 

荷車。

 

高台。

 

だが退役兵は、南水門を開けると知って怒った。

 

「将軍が我々を売った!」

 

「下流の乞食のために!」

 

「この土地は血で!」

 

「水利女の命令だ!」

 

ナディアへ石。

 

肩。

 

護衛が盾。

 

カリムが城壁上へ。

 

「命令したのは私だ!」

 

群衆。

 

止まる。

 

「水門を開ければ畑が沈む!」

 

「知っている」

 

「我々の家は」

 

「北高台へ」

 

「先祖の墓は」

 

「沈む」

 

「将軍!」

 

カリムは片目で見る。

 

「閉じれば堤防が勝手に壊れる」

 

「守る!」

 

「土嚢で大河を止めるか」

 

「将軍なら」

 

「私は神ではない!」

 

ナディアと同じ。

 

兵たちが沈黙。

 

「三十年、この土地を守った」

 

カリム。

 

「そのため、違法水路も作った。下流から水を取った。お前たちを生かすためだ」

 

ナディアが見る。

 

自分から認める。

 

「今度は、水を受ける」

 

「なぜ我々だけ」

 

「王家狩猟地も切る」

 

「貧民区は」

 

「一部沈む」

 

「なら全部向こうへ!」

 

群衆。

 

人は、自分が犠牲になると平等を求める。

 

他人が犠牲になると合理性を。

 

「全部向こうへ流せば、五万人が」

 

「我々は何人だ!」

 

「二万」

 

「なら向こうが多いから?」

 

「違う」

 

カリム。

 

「将軍が先に、自分の領地を切る」

 

「将軍の館は高台」

 

誰か。

 

正しい。

 

「私の庭園と南倉庫を開放する」

 

「財宝は」

 

「残す」

 

「本当に?」

 

「見に来い」

 

城館の金庫。

 

穀物証書。

 

武具。

 

絨毯。

 

水が来る低地へ。

 

「高台へ移さない?」

 

副官が驚く。

 

「帳簿と人だけ」

 

「武具は」

 

「錆びる」

 

「敵が」

 

「今日は水だ」

 

将軍は、自分の財産を水へ。

 

すべてではない。

 

城本体は高い。

 

それでも見えるもの。

 

象徴。

 

「一刻四分の三!」

 

ナディアが叫ぶ。

 

「避難後、南水門半開!」

 

「将軍の命令だ!」

 

兵が復唱。

 

軍命令は速い。

 

人々が動く。

 

怒りながら。

 

泣きながら。

 

墓へ。

 

墓石を運べない。

 

名前を紙へ。

 

石拓。

 

墨。

 

「墓まで記録?」

 

兵。

 

「水が引いた後、戻す」

 

ナディア。

 

「流されたら」

 

「名前だけでも」

 

---

 

## 六

 

第一の決壊は、予定外の場所で起きた。

 

アル=ハディール北堤。

 

古い水路。

 

ナディアが音を聞いた空洞。

 

土が沈む。

 

最初は拳ほどの穴。

 

水。

 

細い。

 

次に腕。

 

人。

 

堤防内側の土が噴き上がる。

 

「噴砂!」

 

技師。

 

基礎が抜ける。

 

「土嚢!」

 

「押さえられません!」

 

「周囲を掘って圧を」

 

「時間が」

 

若い技師が穴へ板。

 

水圧で飛ぶ。

 

腕を折る。

 

「下がれ!」

 

ナディア。

 

堤防が二十歩崩れる。

 

茶色い壁。

 

町へ。

 

鐘。

 

避難。

 

予定より三刻早い。

 

「第三波ではない!」

 

「古い空洞」

 

誰が作った。

 

古代水路。

 

あるいは密輸。

 

あるいは違法取水。

 

「南門を閉じろ!」

 

町長。

 

閉じれば外へ逃げられない。

 

「開けたまま!」

 

ナディア。

 

「水が入る!」

 

「人が出る!」

 

門。

 

狭い。

 

荷車が詰まる。

 

「荷を捨てろ!」

 

「家財が!」

 

「人を!」

 

一台が横転。

 

樽。

 

布。

 

人。

 

水が路地へ。

 

膝。

 

腰。

 

「屋根へ!」

 

舟が足りない。

 

ナディアは寺院塔へ。

 

水位。

 

地図。

 

「西排水壁を切る」

 

技師。

 

「そこは市場」

 

「水を川へ戻す」

 

「川位が高い」

 

「戻らない?」

 

「逆流」

 

「では南の旧採石場へ」

 

「壁の向こうは墓地」

 

選ぶ。

 

墓。

 

市場。

 

家。

 

「墓地を切る」

 

ナディア。

 

「刻印民墓地です」

 

「代表を」

 

「時間が」

 

「それでも」

 

刻印民共同体の墓守。

 

老人。

 

「切れ」

 

即答。

 

「墓が」

 

「生者を」

 

「記録を」

 

「碑文を写してある」

 

昔から洪水。

 

複製。

 

墓地壁を切る。

 

水。

 

墓石。

 

泥。

 

市場の流れが少し下がる。

 

町民は、他宗派の墓地で自分たちが救われたと知る。

 

一部は感謝。

 

一部は、もともと低い土地だから当然と言う。

 

人は恩を小さくする。

 

---

 

## 七

 

第三波がカリム領へ到達したとき、南水門は半開だった。

 

濁流。

 

門板。

 

震える。

 

兵が巻き上げ機。

 

「これ以上開かない!」

 

歯車。

 

錆。

 

渇水の年、使わなかった。

 

「油を!」

 

「流された!」

 

「手で」

 

十人。

 

二十人。

 

綱。

 

門が一尺。

 

水。

 

領内水路へ。

 

畑。

 

最初の列が沈む。

 

小麦。

 

青い穂。

 

泥。

 

退役兵が泣く。

 

「全部」

 

「まだ半分」

 

ナディア。

 

水位標。

 

下流圧。

 

減らない。

 

「西越流堤を切る」

 

カリム。

 

「避難完了は」

 

「八割」

 

「残り」

 

「墓地と牛」

 

「人は」

 

「十四名不明」

 

「待てない」

 

「一刻四分の三は」

 

「過ぎた」

 

将軍。

 

「不明者を」

 

「捜索隊」

 

「堤を切れば」

 

「高台側から」

 

「将軍」

 

副官。

 

「待てば、全堤が」

 

カリムは剣を抜く。

 

土堤。

 

剣では切れない。

 

象徴。

 

「鍬!」

 

自ら最初の土を掘る。

 

将軍。

 

兵。

 

ナディアも。

 

水利監察官。

 

土。

 

泥。

 

「爆薬があれば」

 

この時代にはない。

 

火薬なし。

 

人力。

 

水の力を使う。

 

細い溝。

 

水が入る。

 

削る。

 

一尺。

 

二尺。

 

突然、堤が崩れる。

 

全員が走る。

 

水。

 

退役兵村の低地へ。

 

家。

 

庭。

 

将軍の南倉庫。

 

扉。

 

水圧。

 

開く。

 

武具。

 

絨毯。

 

穀物証書。

 

浮く。

 

紙。

 

「帳簿が!」

 

副官。

 

「写しは」

 

「城に」

 

「なら」

 

カリムは見送る。

 

自分の財産。

 

戦利品。

 

水へ。

 

兵がそれを見る。

 

将軍が安全なところから命じただけではない。

 

それでも家を失う怒りは消えない。

 

---

 

不明の十四人のうち、十二人は高台で見つかった。

 

二人。

 

老夫婦。

 

墓地。

 

息子の墓を離れなかった。

 

水。

 

救助隊。

 

舟。

 

「戻らない!」

 

老人。

 

「墓が!」

 

「碑文を写した!」

 

「石は」

 

「水が引けば」

 

「流れる!」

 

カリム自身が舟へ。

 

「将軍!」

 

「私が行く」

 

「危険」

 

「私の命令で沈めた」

 

舟。

 

濁流。

 

兵二人。

 

ナディア。

 

「監察官は」

 

「道を知る」

 

墓地。

 

老人。

 

妻。

 

墓石へ抱きつく。

 

「息子がここに」

 

カリム。

 

「息子の名は」

 

老人が叫ぶ。

 

「サリム!」

 

「何歳で」

 

「十九!」

 

「どの戦で」

 

「南境!」

 

カリムの軍。

 

「私の兵か」

 

「お前が連れて行った!」

 

将軍が止まる。

 

十九。

 

南境。

 

何千人。

 

覚えていない。

 

「記録は」

 

「戻らなかった!」

 

「名簿に」

 

「紙だ!」

 

老人。

 

「ここに骨が!」

 

水位。

 

墓石の半分。

 

「骨は流れる」

 

ナディア。

 

「名も残る」

 

「嫌だ!」

 

カリムは老人の腕を掴む。

 

殴られる。

 

「息子を返せ!」

 

「返せない!」

 

将軍が叫ぶ。

 

「だからお前まで死ぬな!」

 

老夫婦を舟へ。

 

墓石は残る。

 

水。

 

沈む。

 

老人は将軍を殴り続ける。

 

カリムは受ける。

 

舟。

 

---

 

## 八

 

王家狩猟地の堤防は、王命で切られた。

 

だが現場の管理官は拒否した。

 

「王室種馬を」

 

「避難済み」

 

「果樹園は」

 

「切れ」

 

「陛下が本当に」

 

王印。

 

二つ。

 

スルタン。

 

宰相。

 

さらに水利庁。

 

「偽造では」

 

紫宮事件の噂。

 

偽印。

 

誰も印を信じない。

 

「王の使者本人を」

 

「首都から二刻」

 

「待てません」

 

現場水利官。

 

「管理官を拘束」

 

警備兵が迷う。

 

管理官は王族の遠縁。

 

「誰が責任を」

 

「私が」

 

水利官。

 

「平民が王家資産を」

 

「人が沈む」

 

「王が後で」

 

「記録してください」

 

「死刑に」

 

「それも」

 

兵が管理官を押さえる。

 

堤防を切る。

 

水。

 

王家庭園。

 

鹿。

 

馬。

 

鳥。

 

逃げる。

 

果樹。

 

別荘。

 

壁画。

 

洪水。

 

王冠を担保にし、王家の土地を水へ。

 

噂。

 

《バイバルスは王宮を捨てた》

 

《王が逃げた》

 

《王室財宝を船へ》

 

実際は人を運ぶ舟。

 

だが金の天蓋。

 

人々は財宝と思う。

 

「王が宝を逃がす!」

 

群衆が舟へ石。

 

舟には妊婦と子供。

 

兵が盾。

 

「人だ!」

 

天蓋を外す。

 

中を見せる。

 

プライバシー。

 

安全。

 

噂を止めるため。

 

人々が見る。

 

「本当に」

 

一艘ずつ。

 

遅い。

 

それでも石は減る。

 

---

 

## 九

 

東岸緊急放水門を開くか。

 

王宮。

 

水位。

 

カリム領と狩猟地の放水で、予測より流量は三割減った。

 

だがまだ多い。

 

首都南堤は持たない。

 

「低地二区へ」

 

水利庁長官。

 

「避難率」

 

「六割」

 

「残り」

 

「一万一千」

 

「待てる時間」

 

「一刻」

 

「一刻で何人」

 

「三千」

 

「残り八千」

 

「放水しなければ」

 

「首都中心部十五万が危険」

 

数字。

 

「門を全開でなく」

 

バイバルス。

 

「三分の一」

 

「南堤へ圧が」

 

「王宮北堤をさらに切る」

 

「王宮が」

 

「切れ」

 

「財務院」

 

「帳簿を高台へ」

 

「全部は」

 

「灰冠帳簿から」

 

何を先に。

 

「水利、給金、穀物、戸籍」

 

「王家系譜は」

 

「後」

 

宮廷官が息。

 

「国家の記憶が」

 

「民の名が先」

 

バイバルス。

 

王家系譜は複製が多い。

 

貧民戸籍は一冊だけ。

 

「放水門三分の一」

 

「避難鐘」

 

「先に開ければ」

 

「鐘三度、半刻後」

 

「半刻では」

 

「一刻待てば堤が」

 

「半刻」

 

決定。

 

「放水区域へ伝令」

 

舟。

 

鐘。

 

旗。

 

夜。

 

雨。

 

人々は鐘を聞く。

 

逃げる。

 

家へ戻る者。

 

荷。

 

「半刻!」

 

兵。

 

「あと少し!」

 

「待てない!」

 

門。

 

巨大。

 

巻き上げ。

 

水が低地へ。

 

路地。

 

泥。

 

膝。

 

腰。

 

家。

 

叫び。

 

屋根。

 

舟。

 

一万一千人。

 

すべては救えない。

 

アブドゥル・ラーマンは寺院塔から縄を投げる。

 

若者。

 

女。

 

子供。

 

「村長!」

 

自分は最後。

 

水。

 

階段。

 

一人の男が家へ戻る。

 

金。

 

「戻るな!」

 

「一生分!」

 

箱。

 

水で流される。

 

アブドゥルが縄。

 

男。

 

箱を離さない。

 

「捨てろ!」

 

「無理だ!」

 

縄が切れそう。

 

「家族は」

 

「死んだ!」

 

だから箱。

 

残り。

 

老人は分かる。

 

「なら持て!」

 

二本目の縄。

 

人と箱。

 

両方。

 

助かる。

 

他の場所では、荷を捨てた者が助かる。

 

同じ答えではない。

 

---

 

## 十

 

洪水の夜、ナフル王国の軍は二つに割れかけた。

 

東軍。

 

カリム派退役兵。

 

首都近衛。

 

誰の命令を優先するか。

 

「王命は東岸放水」

 

「将軍領は独自」

 

「カリムが反乱!」

 

「領地を切った」

 

「見せかけ」

 

「王宮も切った」

 

「王が弱い」

 

「王冠を売った!」

 

兵営。

 

噂。

 

カリム将軍が自領を守るため首都を沈めた。

 

逆。

 

王がカリム領を犠牲にした。

 

両方。

 

軍務官ファリド・イブン・ハサンが兵を集める。

 

「命令書を読む!」

 

三枚。

 

ナディア・カリム共同命令。

 

王家狩猟地切開命令。

 

東岸放水命令。

 

時刻。

 

水位。

 

「将軍は」

 

「署名した」

 

「王は」

 

「自分の土地も」

 

「本物か」

 

「水利庁、宰相、王印」

 

「印は偽造できる!」

 

「だから現場結果も」

 

伝令。

 

カリム領水没。

 

王家庭園水没。

 

東岸放水。

 

全部。

 

「誰も自分だけ守っていない」

 

ファリド。

 

完全ではない。

 

カリム城本体は。

 

王宮高台は。

 

それでも。

 

「兵はどこへ」

 

「舟を運ぶ」

 

「敵は」

 

「水だ」

 

カリムと同じ。

 

軍は東岸へ。

 

武器を置き、櫂。

 

鎧を脱ぐ。

 

一人が拒む。

 

「兵が鎧を」

 

「沈む」

 

「敵襲が」

 

「洪水の中で誰が」

 

灰冠自由会議なら。

 

それでも鎧。

 

選択。

 

---

 

## 十一

 

灰冠自由会議の水利部門は、洪水を起こしてはいなかった。

 

雨を降らせることはできない。

 

だが堤防の弱点を知っていた。

 

カリム領の違法水路。

 

アル=ハディールの古い空洞。

 

王宮の避難計画。

 

東岸放水門。

 

どこを閉じれば、誰が怒るか。

 

どの命令が重なるか。

 

洪水前から、三つの働きかけ。

 

カリムへ。

 

《下流政府は将軍領を犠牲にする》

 

軍務官へ。

 

《西方戦争に備え穀物を確保せよ》

 

東岸へ。

 

《王は貧民区を沈める準備をしている》

 

すべて、一部は真実。

 

さらに、舟を買い占めた。

 

商会名義。

 

洪水後に高値で貸すため。

 

ナディアの部下が、港の舟一覧で気づく。

 

「同じ所有者」

 

《青蓮救済会》。

 

設立一月。

 

所有船八十。

 

「どこに」

 

「上流の私設船溜まり」

 

「使われていない?」

 

「貸出条件が」

 

洪水保険加入者のみ。

 

「誰が加入」

 

貴族、商人、軍。

 

貧民区なし。

 

「徴発」

 

「私有財産」

 

「緊急水利権」

 

「王命は」

 

「待てない」

 

ナディアは署名。

 

「権限を」

 

「ありません」

 

若い技師。

 

「では」

 

「共同水利命令の洪水救助条項」

 

カリムとの文書。

 

領域は将軍領と下流。

 

船溜まりは間。

 

「適用する」

 

「後で訴えられる」

 

「生きていれば」

 

船溜まり。

 

警備。

 

契約兵。

 

「王命なしに」

 

「洪水救助」

 

「保険加入者用」

 

「人を選ぶ保険は、洪水を止めません」

 

武力。

 

ナディアは兵を持たない。

 

カリムの退役兵が来る。

 

「将軍命令」

 

二つの署名。

 

警備は迷う。

 

「開けろ」

 

「所有者が」

 

「後で金を」

 

「責任は」

 

「帳簿へ」

 

門を破る。

 

舟八十。

 

東岸へ。

 

「盗賊!」

 

契約兵。

 

「名前を」

 

ナディア。

 

「何」

 

「後で裁判へ。あなたも、私も」

 

舟を出す。

 

これで救われた人数。

 

推定三千。

 

青蓮救済会の損失。

 

帳簿では。

 

裁判は後。

 

---

 

## 十二

 

洪水は、夜明け前に最高水位へ達した。

 

雨が弱まる。

 

上流第三波。

 

カリム領水門。

 

王家狩猟地。

 

東岸放水。

 

アル=ハディール決壊。

 

すべての水が、一つの大河へ戻ろうとする。

 

首都南堤。

 

ひび。

 

兵。

 

市民。

 

土嚢。

 

誰がどの派か分からない。

 

カリム領の退役兵。

 

東岸の若者。

 

王宮近衛。

 

刻印民石工。

 

聖職者。

 

「土!」

 

「袋!」

 

「綱!」

 

一人の近衛が、貧民区の男へ命令。

 

男が怒る。

 

「俺の家を沈めた王の兵が!」

 

近衛。

 

「私の兵舎も」

 

王宮北堤。

 

二人。

 

土嚢。

 

怒りは消えない。

 

手は同じ袋。

 

ナディアが堤防上。

 

水位。

 

「あと半尺」

 

技師。

 

「耐える?」

 

「分かりません」

 

「補強を」

 

「土がない」

 

「王宮庭園から」

 

「泥です」

 

「使う」

 

王宮の花壇。

 

土。

 

彫像を倒す。

 

石を基礎へ。

 

歴代王の像。

 

「不敬!」

 

宮廷官。

 

「堤防が切れれば像も」

 

「別の石を」

 

「時間」

 

像。

 

初代王。

 

倒す。

 

顔。

 

泥。

 

堤防へ。

 

人々が見る。

 

王権の象徴が土嚢の下。

 

一人が躊躇。

 

バイバルス本人が来る。

 

冠なし。

 

泥。

 

「倒せ」

 

「陛下」

 

「私の像も将来使え」

 

笑い。

 

少し。

 

「王が堤防に」

 

「役に立つなら」

 

石像が基礎を押さえる。

 

水。

 

ひび。

 

止まらない。

 

だが広がりが遅い。

 

夜明け。

 

水位が一寸下がる。

 

「下がった!」

 

誰か。

 

歓声。

 

「一寸だけ!」

 

ナディア。

 

「まだ!」

 

土嚢。

 

続ける。

 

もう一寸。

 

太陽。

 

雨雲の切れ目。

 

大河は溢れた。

 

だが首都中心部は沈まなかった。

 

東岸低地。

 

カリム領南部。

 

王家狩猟地。

 

アル=ハディール。

 

沈んだ場所が水を受けたから。

 

---

 

## 十三

 

洪水後の最初の数字。

 

死者。

 

アル=ハディール。

 

二百十一。

 

東岸低地。

 

確認三百八十七。

 

行方不明千以上。

 

カリム領。

 

四十九。

 

王家狩猟地。

 

十二。

 

下流村。

 

未集計。

 

家屋。

 

一万以上。

 

畑。

 

穀倉地帯の三割。

 

王家果樹園。

 

全滅。

 

退役兵村。

 

半数。

 

東岸。

 

二区の七割。

 

「成功ですか」

 

若い技師がナディアへ尋ねた。

 

堤防上。

 

泥。

 

「何が」

 

「首都を守った」

 

「東岸が」

 

「予測より死者が少ない」

 

「少ない?」

 

「もし全決壊なら」

 

「知っています」

 

数字。

 

「報告書には」

 

「両方」

 

「また」

 

「はい」

 

《首都中心部十五万人の浸水を回避》

 

《確認死者六百五十九、行方不明千三百以上》

 

《穀倉三割損失》

 

《東岸低地七割浸水》

 

《王室資産損失》

 

《私設救済船八十隻、緊急徴発》

 

「行方不明は死者へ?」

 

「まだ」

 

「家族は」

 

「見つかると」

 

「いつまで」

 

「四十日」

 

期限。

 

「四十日後、死者認定?」

 

「補償のため」

 

「戻れば」

 

「訂正」

 

「死者から生者へ?」

 

「はい」

 

記録は人を分類する。

 

現実は動く。

 

---

 

## 十四

 

カリム領の退役兵たちは、将軍を英雄と裏切り者の両方で呼んだ。

 

自領を切って下流を救った。

 

自分たちの畑を沈めた。

 

墓を失った。

 

将軍自身が老人を救った。

 

財産を水へ。

 

城は残った。

 

「城も切ればよかった」

 

怒る者。

 

「高台だから意味がない」

 

「意味ではなく」

 

象徴。

 

将軍の城が無傷であること。

 

公平感。

 

カリムは城門を開いた。

 

避難所。

 

兵舎。

 

私室。

 

絨毯は水損。

 

寝室は残る。

 

「将軍の部屋を、家族へ」

 

副官が反対。

 

「警備」

 

「廊下へ」

 

カリムは中庭の天幕へ。

 

英雄に見える。

 

政治的。

 

本心。

 

両方。

 

ナディアが訪れる。

 

「王都から」

 

「逮捕命令か」

 

「停職継続。洪水対応への召喚」

 

「褒賞?」

 

「調査」

 

「当然だ」

 

「違法水路も」

 

「全部出す」

 

「本当に」

 

「水が出した」

 

隠し水路。

 

決壊で露出。

 

「何年」

 

「十九」

 

「下流の損失」

 

「分からない」

 

「調べます」

 

「お前が?」

 

「共同監査」

 

「誰と」

 

「下流村、退役兵、王室、水利庁」

 

「敵ばかり」

 

「将軍も」

 

「私は被告か」

 

「証人でも」

 

「英雄には」

 

「しません」

 

カリムが笑う。

 

「安心した」

 

「怒らない?」

 

「英雄は、次も同じことを求められる」

 

「将軍は」

 

「次はないかもしれん」

 

「なぜ」

 

「バイバルスが私を許さない」

 

「王は」

 

「友人だから」

 

友情。

 

罪。

 

「友人は、処罰を難しくする」

 

「だから公開法廷」

 

ナディア。

 

「お前は、何でも公開すれば」

 

「全部ではありません」

 

「何を隠す」

 

「避難者の私財。家族。軍の即時配置」

 

「違いは」

 

「期限と理由を書く」

 

カリムは頷く。

 

「灰冠も、そう言い始める」

 

「知っています」

 

「勝てるか」

 

「分かりません」

 

「また」

 

「はい」

 

---

 

## 十五

 

青蓮救済会は、舟の緊急徴発を《国家による海賊行為》として訴えた。

 

所有者。

 

セレスタ系商人。

 

背後。

 

灰冠自由会議の舟守部門。

 

だが法廷では、灰冠の名を出すだけでは足りない。

 

契約。

 

購入。

 

保険。

 

すべて合法。

 

「八十隻を無断使用」

 

「洪水救助」

 

「保険加入者優先契約」

 

「人命差別」

 

「保険料を払った者が」

 

「緊急時の公用徴発権」

 

「水利監察官に船舶徴発権なし」

 

「共同洪水命令」

 

「カリム将軍は停職中」

 

「領内権限は」

 

「限定」

 

法。

 

ナディアは訴えられる。

 

個人。

 

「王が免責を」

 

宰相。

 

「拒否します」

 

ナディア。

 

「なぜ」

 

「権限があったことにすれば、次の監察官が何でも」

 

「では有罪に」

 

「裁判で」

 

「舟で三千を救った」

 

「だから無罪ではない」

 

「罰を受ける?」

 

「必要なら」

 

「罰金は」

 

「払えません」

 

「牢」

 

「水利庁が」

 

「困る」

 

必要な自分。

 

マルケル。

 

「それで免責に?」

 

「違う」

 

最終的に暫定判決。

 

緊急避難を認定。

 

無断侵入と財産損害は国家補償。

 

ナディア個人の刑事責任は保留。

 

共同洪水命令の法的範囲を四十日以内に審理。

 

「勝った?」

 

若い技師。

 

「保留です」

 

「舟の所有者へ金を」

 

「はい」

 

「三千人を救っても」

 

「舟は壊れた」

 

「灰冠へ払う」

 

「所有者へ」

 

「同じ」

 

「一部は」

 

「嫌です」

 

「私も」

 

払うべきもの。

 

敵の利益。

 

両方。

 

補償財源。

 

青蓮救済会の洪水保険利益へ特別税。

 

自分たちが得るはずの利益から。

 

法廷が認めるか。

 

次。

 

---

 

## 十六

 

東岸の避難者は、王宮外庭へ入れられた。

 

一時。

 

宮廷庭園。

 

泥。

 

天幕。

 

王族の像。

 

避難民の洗濯物。

 

宮廷官は嫌がる。

 

「聖域が」

 

「人が」

 

バイバルス。

 

「疫病が」

 

「井戸を分ける」

 

「治安」

 

「住民代表を」

 

六席のように。

 

東岸。

 

刻印民。

 

葦原村。

 

市場。

 

施療院。

 

舟人。

 

女性世帯主。

 

六人。

 

「王宮会議へ平民を」

 

「洪水は入った」

 

「政治まで」

 

「もう」

 

アブドゥル・ラーマンが代表に選ばれる。

 

老人。

 

杖。

 

王の前。

 

「陛下」

 

頭は下げる。

 

深くない。

 

「村長」

 

「今は避難民です」

 

「何が必要」

 

「水」

 

王が苦笑。

 

洪水の中。

 

飲み水。

 

「井戸が汚れた」

 

「煮沸」

 

「薪」

 

「王家家具を」

 

宮廷官が青ざめる。

 

「壊す?」

 

「水損品から」

 

「彫刻椅子を」

 

「燃える」

 

王は即答。

 

「次」

 

「便所」

 

宮廷がさらに。

 

「庭へ?」

 

「人が多い」

 

「穴を」

 

「王家の薔薇園へ」

 

「便所を?」

 

「疫病より」

 

バイバルスは笑う。

 

「掘れ」

 

象徴。

 

「次」

 

「帰還札」

 

「水が引けば」

 

「土地を奪われない保証」

 

「王印を」

 

「一枚では」

 

アブドゥル。

 

王が見る。

 

「何が」

 

「役所、寺院、市場組合の三印」

 

王印だけを信じない。

 

「受ける」

 

宮廷官が反対。

 

「王印の権威が」

 

「三つで強くなる」

 

王。

 

「それと」

 

老人。

 

「行方不明者の名を、死者に急いで入れない」

 

「補償が」

 

「母親が帰りを待つ」

 

「四十日」

 

「長い」

 

「二十日で中間」

 

「受ける」

 

交渉。

 

王と村長。

 

同じ高さではない。

 

だが議題は低いところから。

 

便所。

 

水。

 

札。

 

国家は、そこから戻る。

 

---

 

## 十七

 

洪水から十日後、雨は止んだ。

 

大河はまだ高い。

 

水は茶色。

 

死体。

 

家畜。

 

木。

 

舟。

 

捜索。

 

名前。

 

行方不明者名簿。

 

壁。

 

三部。

 

一人の女が、夫の名を見つける。

 

《ハサン・イブン・ムーサ――行方不明》

 

「死者では」

 

「まだ」

 

「私は見た」

 

「何を」

 

「舟が転覆」

 

「体は」

 

「ない」

 

「補償は」

 

「行方不明給付」

 

「半額」

 

「死者なら全額」

 

「死んだと書け!」

 

役人。

 

「体が」

 

「子供が腹を」

 

制度が、死を急がせる。

 

「死者認定を」

 

女。

 

「四十日」

 

「待てない!」

 

アブドゥルが間へ。

 

「暫定全額の七割を」

 

「規則は」

 

「変えろ」

 

「詐欺が」

 

「後で返す?」

 

女が怒る。

 

返せない。

 

「七割を給付。生存なら、今後の税から」

 

「生きて戻った人へ借金?」

 

「では返還なし」

 

「二重給付」

 

「命が戻った罰にするな」

 

役人。

 

記録。

 

試行。

 

《洪水行方不明者家族緊急給付》

 

死者認定を急がせないため。

 

財源。

 

王冠担保金。

 

不足。

 

「また」

 

「はい」

 

---

 

## 十八

 

カリム将軍とバイバルス王が再会したのは、洪水後十五日目だった。

 

公開洪水審査会。

 

王宮外庭。

 

民衆。

 

兵。

 

水利官。

 

避難者。

 

カリムは鎧なし。

 

退役兵の粗い服。

 

演出か。

 

水損で鎧が錆びたのも本当。

 

バイバルスは冠なし。

 

担保中。

 

二人。

 

若い頃のようには見えない。

 

「久しいな」

 

王。

 

「停職命令以来」

 

「会おうと思えば」

 

「逮捕される」

 

「今も」

 

「そうか」

 

友情。

 

法廷。

 

「違法水路を作ったか」

 

監査官。

 

「はい」

 

「王へ報告」

 

「いいえ」

 

「目的」

 

「渇水時に領民と軍を守る」

 

「下流への影響」

 

「知っていた」

 

「それでも」

 

「はい」

 

「私設堤防」

 

「作った」

 

「洪水時に下流へ」

 

「知っていた」

 

「閉鎖を命じた」

 

「最初は」

 

「なぜ変更」

 

「ナディアが来た」

 

「説得された?」

 

「堤防が壊れると分かった」

 

「下流を救うためでは」

 

カリムは考える。

 

「最初は、自領を全部失わないため」

 

正直。

 

「後に」

 

「人も」

 

「英雄行為と」

 

「違う」

 

「退役兵村を沈めた」

 

「はい」

 

「王命なし」

 

「はい」

 

「共同命令」

 

「はい」

 

「責任を」

 

「負う」

 

「どの刑を」

 

「法廷が」

 

マルケルたちと同じ。

 

「自分では」

 

「死刑は望まない」

 

群衆。

 

「土地没収も」

 

「なぜ」

 

「領民が困る」

 

「自分のためでは」

 

「それも」

 

正直。

 

バイバルスが口を開く。

 

「私が、お前を許せば」

 

「友人を救ったと言われる」

 

「処刑すれば」

 

「古い友を切って正義を演じたと」

 

「どうすれば」

 

カリムは王を見る。

 

「王が聞くな」

 

「友として」

 

「なら、生かせ」

 

「王として」

 

「裁け」

 

二つ。

 

「分けられるか」

 

「分けられない」

 

「では」

 

ナディアが言う。

 

「刑を一つにしない」

 

全員が見る。

 

「将軍の軍権は恒久停止」

 

カリムの顔。

 

最も重い。

 

「私設水路と堤防を王国共同管理へ」

 

「領地は」

 

「所有継続。ただし水利権は共有」

 

「罰金」

 

「洪水復旧へ財産の三割」

 

「三割?」

 

退役兵が怒る。

 

「将軍個人分」

 

「領地経営が」

 

「残る」

 

「違法取水による下流損失」

 

「別途調査」

 

「牢は」

 

「公開監督下で領地復旧に従事。移動制限」

 

「甘い!」

 

下流。

 

「厳しい!」

 

退役兵。

 

両方。

 

「判決ではありません」

 

ナディア。

 

「提案」

 

法廷が審議。

 

バイバルスは投票しない。

 

王が決めれば友情。

 

共同裁判官。

 

水利庁。

 

下流代表。

 

退役兵代表。

 

王室法官。

 

都市代表。

 

五者。

 

三対二。

 

採用。

 

カリムは軍権を失う。

 

将軍ではなくなる。

 

「名を」

 

記録官。

 

「カリム・イブン・サリム」

 

「肩書」

 

長い沈黙。

 

「退役軍人」

 

兵たちが泣く。

 

一部は怒る。

 

カリム自身は片目を閉じる。

 

「受ける」

 

バイバルスは何も言わない。

 

公開法廷後。

 

二人だけ。

 

王宮回廊。

 

「将軍でなくなった」

 

王。

 

「お前は王だ」

 

「冠はない」

 

「戻る」

 

「お前の軍権は」

 

「戻らない」

 

「悔しいか」

 

「はい」

 

「私も」

 

二人。

 

「酒を」

 

バイバルス。

 

「毒杯の後に?」

 

紫宮。

 

「同じ瓶、別の杯」

 

「杯を抽選するか」

 

「面倒だ」

 

「水を」

 

洪水後。

 

二人は水を飲む。

 

同じ壺。

 

別の木椀。

 

毒見なし。

 

完全な信頼ではない。

 

昔の残り。

 

---

 

## 十九

 

ナディアの裁判は、カリムより長引いた。

 

舟徴発。

 

権限逸脱。

 

墓地切開。

 

東岸放水への助言。

 

「三千を救った」

 

支持者。

 

「私財を侵した」

 

商人。

 

「墓を沈めた」

 

刻印民。

 

「同意があった」

 

「一人の墓守が全共同体を」

 

「時間が」

 

「また期限」

 

本人。

 

ナディア。

 

「私は、すべて正しかったとは言いません」

 

「では何が誤り」

 

「アル=ハディール北堤の古い水路を、渇水時に完全調査しなかった」

 

「予算が」

 

「求めた回数は一度」

 

「却下された」

 

「二度、三度と」

 

「ほかの堤防も」

 

「はい」

 

自分の責任を広く。

 

「墓地切開は」

 

「必要だったと考えます」

 

「死者への冒涜」

 

刻印民代表。

 

「はい」

 

「謝罪で」

 

「戻りません」

 

「それでも」

 

「碑文復元費を水利庁予算から」

 

「国費で自分の決定を」

 

「私財では足りません」

 

「個人負担は」

 

「給与の二割を十年」

 

若い技師が驚く。

 

「監察官」

 

「全部ではない」

 

「なぜ十年」

 

「生きて働くため」

 

死刑ではなく。

 

「舟徴発は」

 

法廷。

 

「緊急避難として適法。ただし共同洪水命令の権限規定が曖昧」

 

「ナディア個人は無罪?」

 

「刑事責任なし。行政上の越権について戒告」

 

軽いと批判。

 

重いと。

 

「水利庁長官へ昇進」

 

王が提案。

 

ナディアが拒否。

 

「なぜ」

 

「裁判直後に昇進すれば、英雄化」

 

「能力が」

 

「半年後に公開選考」

 

「水利庁は今」

 

「暫定副長官として」

 

肩書。

 

責任。

 

「権限は」

 

「共同署名」

 

「遅い」

 

「今は」

 

受ける。

 

ナディアは国家水利副長官になる。

 

英雄ではない。

 

被告経験者。

 

---

 

## 二十

 

洪水後の穀物価格は、予測より上がった。

 

穀倉三割損失。

 

輸送路。

 

水損。

 

投機。

 

灰冠自由会議は、洪水前に下流小麦を買っていた。

 

雨の予測。

 

堤防情報。

 

「天候を知っていた?」

 

開帳会。

 

「山地商人の雨報告」

 

「誰でも買えた情報」

 

「堤防図は」

 

「公開資料?」

 

「一部」

 

「古い水路は」

 

「カリムの秘密帳簿から」

 

誰かが売った。

 

将軍領書記。

 

洪水で死亡。

 

また。

 

戦争ではなく自然災害。

 

利益。

 

「洪水利益税を」

 

ナフル評議会。

 

「市場が逃げる」

 

「すでに買い占め」

 

「利益を没収すれば、次の災害で誰も備蓄しない」

 

「備蓄と投機を」

 

「どう分ける」

 

保有期間。

 

販売価格。

 

供給量。

 

「洪水前に買い、洪水後に市場へ出した者は」

 

「必要な供給」

 

「価格を三倍」

 

「上限」

 

「地下取引」

 

制度。

 

開帳会支部。

 

提案。

 

災害前情報の公開登録。

 

大口先物の即時公示。

 

災害後利益の段階課税。

 

備蓄放出量に応じ減税。

 

「複雑」

 

商人。

 

「簡単なら灰冠が」

 

ナディア。

 

「水利官が市場を」

 

「小麦価格で堤防補修費が変わる」

 

すべてつながる。

 

青蓮救済会は船舶損害補償を得る。

 

同時に、洪水保険利益税を課される。

 

差し引き。

 

利益は残る。

 

「灰冠が儲かる」

 

市民。

 

「全部取れ」

 

「次の舟を」

 

「国が持て」

 

結論。

 

王国洪水救助船団を常設。

 

百二十隻。

 

平時は商業利用。

 

災害時は公用。

 

所有。

 

国だけでは腐敗。

 

水運組合。

 

水利庁。

 

民間船主。

 

三者。

 

「また共同」

 

「はい」

 

---

 

## 二十一

 

行方不明者のうち、四十日以内に戻った者は二百三十七人。

 

上流へ流され、別村で救われた者。

 

島へ。

 

記憶を失った者。

 

家族が死者給付を受けた後。

 

「返還を」

 

財務官。

 

制度。

 

「なしと決めた」

 

アブドゥル。

 

「財政が」

 

「人が戻った罰にするな」

 

「二重」

 

「避難費用に使った」

 

「詐欺も」

 

実際、死んだと偽って給付を。

 

「故意のみ返還」

 

「証明は」

 

難しい。

 

「戻った本人の名前を、生者名簿へ」

 

死者から。

 

訂正。

 

一人の男。

 

ハサン・イブン・ムーサ。

 

妻が死者認定を求めた。

 

戻る。

 

足を負傷。

 

「あなた」

 

妻。

 

泣く。

 

抱く。

 

次に叩く。

 

「どこに!」

 

「葦島」

 

「四十日!」

 

「舟が」

 

役人。

 

「給付を」

 

妻が睨む。

 

「返さない!」

 

「返還不要です」

 

新規則。

 

「本当に?」

 

「記録を」

 

《生還》

 

死者名簿から線を引かない。

 

消さない。

 

《当初行方不明。四十日目帰還》

 

誤りを残す。

 

「名前を消して」

 

男。

 

「死んだと」

 

「訂正を残します」

 

「縁起が」

 

「制度のため」

 

本人には嫌。

 

記録の透明。

 

個人の尊厳。

 

「本人希望により、公開名簿では生還のみ。内部記録に経過」

 

妥協。

 

すべてを公開しない。

 

理由。

 

---

 

## 二十二

 

灰冠自由会議は、《大河計画》を部分成功と記録した。

 

《自然洪水、利用》

 

《カリム領と下流の対立、発生後縮小》

 

《軍分裂、未達》

 

《首都中心部浸水、未達》

 

《東岸貧民区浸水、達成》

 

《穀倉損失、達成》

 

《小麦価格上昇、達成》

 

《洪水保険利益、達成後課税》

 

《王冠担保化、達成》

 

《王室信用、損傷》

 

《水利共同制度、敵強化》

 

《カリム軍権消滅、軍事均衡変化》

 

新しい黒雪は報告を読む。

 

「王冠を担保に出した」

 

舟守。

 

「象徴的損失」

 

「同時に人気が上がった」

 

「王が自分のものを」

 

「王家狩猟地も」

 

「計画外」

 

「ナディア」

 

「はい」

 

「殺すか」

 

無貌。

 

「以前なら」

 

「今は?」

 

「彼女を殺せば、制度が名を残す」

 

「それでも穴は」

 

「代わりが育っている」

 

若い技師。

 

水運組合。

 

村長。

 

「一人を狙う効果が低下」

 

「では」

 

新しい黒雪は地図を見る。

 

ナフル王家。

 

バイバルス。

 

王冠は担保。

 

老齢。

 

後継者。

 

王子たち。

 

「個人ではなく、相続を」

 

「スルタンは後継を公表していない」

 

「だから」

 

「洪水後に王が死ねば」

 

「毒は警戒」

 

「自然死を待つ」

 

「いつ」

 

「長くない」

 

「待つだけ?」

 

「王冠の担保契約に、後継者承認条項を」

 

舟守。

 

「誰へ」

 

「三人の王子すべて」

 

また。

 

三帝。

 

四矢。

 

王冠を分ける。

 

「同じ債権を三人へ」

 

「別々の未来を売る」

 

灰冠は水から継承へ。

 

---

 

## 二十三

 

洪水から二月後。

 

王冠は王宮へ戻った。

 

黒帳商会公開支部。

 

聖座。

 

セレスタ開帳会。

 

三者共同担保。

 

舟代と救助物資。

 

返済の一部。

 

市民寄進。

 

商人税。

 

王室資産売却。

 

完全ではない。

 

残額は債務。

 

王冠の宝石二つを外した。

 

売却。

 

穴。

 

王冠は軽くなる。

 

「修復を」

 

宮廷職人。

 

バイバルス。

 

「穴を残せ」

 

「王冠として」

 

「だから」

 

公開式。

 

王は、宝石の抜けた冠を被る。

 

群衆。

 

「洪水で失った?」

 

「売った」

 

王が自分で。

 

「戻せなかった二つの石は、救助船と水甕になった」

 

象徴。

 

政治。

 

本当。

 

「王冠が欠けている」

 

子供。

 

母親が叱る。

 

王は聞く。

 

「そうだ」

 

「王は弱くなった?」

 

子供。

 

群衆。

 

「頭は同じ重さだ」

 

少し笑い。

 

「王冠は軽い」

 

バイバルス。

 

「軽い方が、長く立てる」

 

老王。

 

膝。

 

---

 

その夜、バイバルスはナディアを私室へ呼んだ。

 

「後継者を決める」

 

突然。

 

「私へ」

 

「水利庁は、誰が王でも必要だ」

 

「王子は三人」

 

「知っている」

 

「誰を」

 

「まだ」

 

「では」

 

「決め方を作る」

 

「王が選ぶのでは」

 

「私が選べば、残り二人が反乱」

 

「選ばなければ」

 

「三人が」

 

ナディアは紫宮の報告を思う。

 

三帝。

 

毒杯。

 

「共同王制は」

 

「ナフルに合わん」

 

「なぜ」

 

「軍が一つの命令を求める」

 

「水利は」

 

「複数」

 

「なら王と水利を」

 

「王権を分ける?」

 

「継承前に、軍、財務、水利、都市の権限を明文化」

 

「王が変わっても」

 

「一人で全部持たない」

 

バイバルスは笑う。

 

「お前は王冠まで水門にする」

 

「一つの門で川を止めると」

 

「壊れる」

 

「はい」

 

「私の息子たちは嫌がる」

 

「王が生きている間に」

 

「急げと?」

 

「期限を」

 

「灰冠のようだ」

 

「必要な期限も」

 

老王は窓。

 

大河。

 

水位は下がった。

 

泥。

 

「四十日」

 

「短い」

 

「八十日」

 

「長い」

 

「六十日」

 

交渉。

 

「六十日で後継規則案」

 

「誰が」

 

「王子三人、軍、財務、水利、都市、農村、刻印民、宗教法官」

 

「多い」

 

「毒杯を八杯にする制度」

 

バイバルスは笑った。

 

咳。

 

長い。

 

血はない。

 

まだ。

 

「ナディア」

 

「はい」

 

「私が六十日前に死んだら」

 

「規則案を先に公開」

 

「完成していなくても」

 

「未完成と」

 

「息子たちが」

 

「全員へ同じ時刻」

 

「また」

 

「はい」

 

王は頷く。

 

「では書け」

 

---

 

大河は、洪水の後も流れた。

 

泥を運び。

 

死者を運び。

 

新しい土を運ぶ。

 

沈んだ畑の一部では、翌年、以前より豊かな麦が育つ。

 

洪水が恵みだったと、後世の農書は書く。

 

その年に家を失った者は、その言葉を嫌った。

 

災害を長い時間で見る者と、今日の夜を生きる者では、同じ水の意味が違う。

 

カリム領の墓地から、サリムの墓石は見つからなかった。

 

老夫婦は、新しい高台へ小さな石を置いた。

 

《サリム、十九歳。南境で死す。大河に墓を奪われる》

 

カリムは自分の手で、その名を退役兵名簿へ加えた。

 

三十年前の死者。

 

遅い。

 

それでも。

 

アル=ハディールの刻印民墓地では、流された碑文を写本から復元した。

 

元の場所とは違う。

 

並びも違う。

 

誰の隣に誰を置くかで争い。

 

生前の宗派。

 

家族。

 

商売。

 

死者も制度から逃れない。

 

東岸では、避難札を持つ者が家へ戻った。

 

家がない者。

 

土地を奪われた者。

 

札を偽造された者。

 

三印が二つしかない者。

 

帰還法廷。

 

長い列。

 

アブドゥルは杖をつき、名前を読む。

 

王家の薔薇園には便所跡が残った。

 

宮廷官は埋めたが、土の色が違う。

 

王宮を訪れた使節は、その場所を避けて歩く。

 

市民は笑う。

 

王権の庭へ、一度だけ生活が入った証拠。

 

---

 

灰暦八百七十三年、秋の初め。

 

ナフル大河の水位標は、平常線へ戻った。

 

ナディアは新しい標を立てた。

 

最低水位。

 

最高水位。

 

そして二本の間に、もう一本。

 

《判断線》

 

この線を越えたら、王命を待たず共同洪水会議を開く。

 

誰が参加。

 

水利庁。

 

軍。

 

村。

 

都市。

 

船主。

 

施療院。

 

六者。

 

「また椅子が増える」

 

若い技師。

 

「水は待たない」

 

「会議は」

 

「だから線を先に」

 

期限を自然へ。

 

「灰冠も見る」

 

「はい」

 

「次は、もっと早く」

 

「こちらも」

 

二人は大河を見る。

 

水面は静か。

 

静かな川ほど、何を隠しているか分からない。

 

---

 

同じ頃。

 

ナフル王宮の三人の王子へ、それぞれ別の書簡が届いた。

 

長子へ。

 

《王は水利官に王権を売った》

 

第二子へ。

 

《軍は長子を支持しない》

 

末子へ。

 

《王冠の宝石は、あなたの継承財産から失われた》

 

三通。

 

筆跡は違う。

 

使者も違う。

 

だが添付された契約書には、同じ赤い蝋。

 

《王位継承時、洪水復興債務を承認する者へ緊急融資》

 

三人とも、自分だけへ届いたと思った。

 

三人とも、返事を書こうとした。

 

老王が六十日で作ろうとしている制度より、灰冠自由会議の手紙は一日で届く。

 

大河の水は引いた。

 

次に溢れようとしているのは、水ではなかった。

 

血を分けた三人の王子と、一つしかない王冠だった。

 

書き溜めていた分のストックがほぼ尽きてきましたので… 更新頻度についてアンケートをさせていただきたいと思います。 以降の更新頻度はどの程度がよいでしょうか?

  • 死ぬ気でがんばれ
  • 可能な範囲でがんばれ
  • そんなに急ぐこたーないぞ
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