【1】布石
夜明け前。
空気は冷えていた。
だが、それは安らぎではない。
「配置は完了しています」
ヴォルフラムの報告に、アルベリクは静かに頷いた。
「兵は?」
「動揺はあるが統制は保っている」
「十分です」
彼は地図ではなく、実際の地形へ目を向ける。
ザルツ南方――緩やかな丘陵と乾いた草地。
一見すれば何の変哲もない土地。
だが、その地下には――
「燃料は?」
「仕込み終わっている」
ヴォルフラムが低く答える。
アルベリクは短く息を吐いた。
「では始めましょう」
【2】進軍
サイードは隊列を整えながら進んでいた。
「昨日の動き、どう見る?」
ザフラが横に並ぶ。
「王国側は慎重だ」
「臆病じゃなくて?」
「違う」
彼は首を振る。
「無駄な損失を避けている」
ザフラは口笛を吹く。
「つまらない敵ね」
「そうでもない」
サイードは遠くを見る。
城壁の向こう。
見えない何か。
「嫌な静けさだ」
【3】民の顔
トビアスは水袋を抱えて走っていた。
「補給!補給だ!」
彼の周囲には兵士だけでなく、徴発された農民や職人たちもいる。
誰もが怯えていた。
「なあ……」
年老いた男が声をかける。
「本当に勝てるのか?」
トビアスは一瞬、言葉に詰まった。
だが――
「勝ちますよ」
笑った。
「だって負けたら死ぬんですから」
それは冗談のつもりだった。
誰も笑わなかった。
【4】火種
正午前。
帝国軍は丘陵地帯へ差し掛かる。
「止まれ」
サイードが手を上げる。
風が変わった。
「……匂いが違う」
ザフラが鼻をひくつかせる。
「草じゃない」
「油だ」
サイードの声が低くなる。
その瞬間――
「矢だ!!」
空を裂く音。
王国側の矢が一斉に降り注ぐ。
「散開!」
帝国軍は即座に広がる。
だが、それは――
遅かった。
【5】灰燼
火が走った。
地面を這うように。
油が仕込まれていた草地に、火が引火する。
一瞬で炎の壁が立ち上がる。
「燃えてる!?」
「囲まれてるぞ!」
馬が暴れる。
兵が叫ぶ。
ザフラは歯を剥いた。
「やってくれるじゃない」
サイードは冷静だった。
「風向きは南」
つまり――
「退路は北に限定される」
「誘導されてるわね」
「その通りだ」
彼は即座に判断する。
「北へ突破する」
【6】読み合い
城壁上。
炎は見える。
黒煙が上がる。
「うまくいったな」
ヴォルフラムが言う。
「半分です」
アルベリクは首を振る。
「本命はこれからです」
彼は北側の狭隘地形を見つめる。
「彼らは必ずここを通る」
「なぜ言い切れる」
「合理的だからです」
アルベリクの目は冷たい。
「合理的な指揮官は、最も損害の少ない道を選ぶ」
そして――
「そこに罠を置く」
【7】狭間
トビアスは丘の裏で息を切らしていた。
「なんで俺がこんな前に……」
彼の役割は伝令だ。
だが今は、前線とほぼ同じ位置にいる。
「来るぞ!」
誰かが叫ぶ。
煙の中から、帝国兵が現れる。
「うわ……」
トビアスは後ずさる。
その中に――
一人、異様に速い影。
ザフラだった。
【8】交錯
ザフラは走る。
煙を裂き、炎を背に。
「出口ね!」
前方に王国軍の陣。
だが、それは――
密ではない。
「薄い?」
違和感。
その瞬間。
「撃て!」
矢。
至近距離からの一斉射撃。
「チッ!」
ザフラは地面に滑り込む。
矢が頭上をかすめる。
そして視界の端に――
トビアス。
目が合った。
ほんの一瞬。
恐怖と驚きが交差する。
【9】衝突
サイードは突破を指揮していた。
「前進を止めるな!」
だが、王国軍は退かない。
いや――
「退きながら戦っている」
彼は気づいた。
これは防御ではない。
「削っているのか」
突破させる代わりに、損害を与える。
「……やるな」
サイードの口元が僅かに歪む。
【10】代償
戦いは短時間で終わった。
帝国軍は突破に成功した。
だが――
「損害は?」
「三割以上」
ザフラが報告する。
「こちらの勝ちとは言えないわね」
サイードは頷く。
「だが、負けでもない」
彼は振り返る。
燃え続ける草原。
「……面白い」
その目に、初めて明確な興味が宿った。
【11】確信
夕刻。
アルベリクは報告を受けていた。
「想定通りです」
「敵は抜けた」
ヴォルフラムが言う。
「ええ」
アルベリクは頷く。
「だが問題ありません」
「なぜだ」
彼は静かに答える。
「彼らは理解したからです」
「何を」
「こちらが“戦える相手”だと」
風が吹く。
今度は北から。
「これで――」
アルベリクは言った。
「本当の戦争が始まります」