アウレリア東方帝国の首都コンスタリオンには、七つの丘と十三の門、四百を超える聖堂があるといわれていた。
人口については、数える者によって数字が違った。
宮廷官僚は五十万と記した。
徴税官は三十二万と報告した。
穀物長官は四十万の口を養っていると主張した。
異国の商人は、世界中の人間がこの都へ集まっていると大げさに語った。
実際のところ、誰にも分からなかった。
皇帝の臣民。
地方から逃げ込んだ農民。
商人。
船乗り。
職人。
奴隷。
巡礼者。
傭兵。
異端者。
犯罪者。
そして、記録に名前を持たない無数の者たち。
コンスタリオンは、数え切れない人間を巨大な城壁の内側へ飲み込み、毎日、途方もない量の水と薪と小麦を消費していた。
その都では、皇帝の名よりもパンの価格を知らない者の方が少なかった。
灰暦八百七十二年、春。
一斤のパンは、十日前の二倍になっていた。
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## 一
皇女テオドラ・ラスカリナは、夜明け前の大宮殿を歩いていた。
紫色の大理石を敷いた回廊には、まだ灯火が残っている。
宮廷では、皇帝の眠りを妨げないよう、夜明けの鐘を弱く鳴らす決まりだった。
だがこの三日間、老皇帝は眠っているのか、意識を失っているのか、医師にも判断できなかった。
皇帝アレクシオス六世。
アウレリア東方帝国の第百十三代皇帝。
テオドラの父。
七十年近い生涯のうち、四十一年を帝位にあった。
彼の治世には、東方国境で三度の大戦があり、二度の宮廷反乱があり、疫病があり、大地震があり、銀貨の改鋳があり、異端論争があった。
帝国は領土を失った。
都市も失った。
それでも双門海峡とコンスタリオンは守られた。
だから宮廷年代記には、父は「帝国を保った賢帝」と記されるだろう。
農民にとっては、税を増やした皇帝。
兵士にとっては、給金を遅らせた皇帝。
商人にとっては、関税を三度変更した皇帝。
教会にとっては、異端派を弾圧しながら、必要なときには赦免した皇帝。
歴史に記される一人の皇帝は、生きている間、無数の異なる人間だった。
寝室の前には、皇帝親衛隊が並んでいた。
黄金の鷲を胸甲に刻んだ兵士たち。
隊長がテオドラへ礼をする。
「容体は」
「変わりません」
「医師は」
「中におります」
テオドラは扉へ手をかけた。
隊長が一瞬ためらう。
「皇女殿下」
「何です」
「皇子殿下方が、深夜にお見えになりました」
「どちらが」
「お二人とも」
テオドラには弟が二人いた。
長弟ミハイル。
次弟コンスタンティノス。
どちらも皇帝位を欲している。
どちらも、欲していないふりをする程度には政治を知っていた。
「父上と話したのですか」
「医師は許可しませんでした」
「弟たちは今どこに」
「ミハイル皇子は青宮へ。コンスタンティノス皇子は総主教庁へ向かったとのことです」
一人は軍人貴族の館へ。
一人は教会へ。
父の息が止まる前から、それぞれの支持者を集めている。
テオドラは扉を開けた。
寝室には薬草と蝋燭、汗、老人の身体から発する甘い腐敗臭がこもっていた。
父は巨大な寝台の中央に横たわっていた。
かつて広かった肩は細くなり、肌は羊皮紙のように乾いている。
白い髭。
落ちくぼんだ目。
胸がゆっくり上下していた。
宮廷医師が四人。
七燭派教会の司祭が二人。
皇帝付きの宦官長が一人。
全員が父ではなく、父の呼吸を見ていた。
呼吸が止まった瞬間、帝国の法と権力が動き始める。
「下がってください」
テオドラは言った。
医師の一人が口を開く。
「殿下、皇帝陛下の容体は――」
「聞こえませんでしたか」
宦官長が医師たちへ目配せした。
全員が退室する。
司祭だけが残ろうとした。
「最期の祈りを――」
「最期だと決まったのですか」
司祭は黙り、礼をして出ていった。
扉が閉まる。
テオドラは寝台の横へ座った。
父の手を取る。
冷たい。
幼い頃、この手は巨大に見えた。
父は公務に追われ、子供たちと過ごすことが少なかった。
それでもテオドラが八歳のとき、帝都で暴動が起き、宮殿の外から群衆の叫びが聞こえた夜、父は彼女の部屋へ来た。
怖いか、と尋ねた。
テオドラは怖くないと答えた。
父は笑った。
皇帝になる者は怖くない人間ではない。
怖くても、怖がっている姿を最後まで見せない人間だ。
そう言った。
当時、父は娘が皇帝になるとは考えていなかったはずだ。
帝国法では、女性の即位は禁止されていない。
だが宮廷も教会も軍も、男の皇帝を望む。
女性が帝位についた例はある。
いずれも内戦と陰謀にまみれ、年代記では欲深い女、残酷な母、男を惑わす毒婦として描かれた。
同じことを男の皇帝が行えば、果断、冷徹、政治的必要と記される。
「父上」
テオドラは呼びかけた。
瞼が動いた。
「テオ……ドラか」
声は息より弱かった。
「はい」
「朝か」
「もうすぐです」
皇帝の目がわずかに開いた。
焦点が合わない。
「パンは」
テオドラは一瞬、意味が分からなかった。
「何ですか」
「都のパンは……あるか」
父が最後に意識を取り戻した二日前、穀物長官から報告を受けていた。
オルシャ港の火災。
ナフル産小麦の輸入停止。
黒海北岸から来る穀物船の遅延。
市場価格の上昇。
配給所の混乱。
父は病床にありながら、最初にパンのことを尋ねた。
「あります」
テオドラは答えた。
「倉庫には三か月分の備蓄があります」
嘘だった。
帳簿上は三か月。
実際には一か月半。
しかも一部はすでに軍と商人への支払い担保となっている。
「嘘をつくな」
皇帝は目を閉じたまま言った。
テオドラの指が動いた。
「聞いておられたのですか」
「都の匂いで……分かる」
「匂い?」
「パンが減ると、都は静かになる」
皇帝は何度か浅く息をした。
「飢えた者は……最初に口数が減る。次に、声が大きくなる」
「対策を取ります」
「誰から奪う」
「奪いません」
「帝国が……何かを与えるとき、必ず誰かから奪っている」
父の言葉は途切れ途切れだった。
それでも意味は明瞭だった。
「軍から減らせば、国境が崩れる。農村から取れば、来年が消える。商人から取れば、船が来なくなる。教会から取れば……神が怒ると皆が言う」
皇帝はわずかに笑った。
「神が本当に怒るかは知らん。だが司教は必ず怒る」
テオドラも笑いそうになった。
喉が詰まり、笑えなかった。
「ミハイルとコンスタンティノスが来ました」
彼女は言った。
「知っている」
「どちらを後継者に」
皇帝の呼吸が止まったように見えた。
テオドラは身を寄せる。
やがて、かすかな声。
「帝国は……人間ではない」
「父上」
「誰か一人が……継ぐものではない」
「それでは内戦になります」
「なるだろう」
あまりにも静かな答えだった。
テオドラの中に怒りが湧いた。
「分かっていて、後継者を定めないのですか」
「定めれば……定めなかった方が反乱する」
「少なくとも正統性は生まれます」
「正統性は……勝った者が後で作る」
父は目を開いた。
今度は、はっきりとテオドラを見た。
「お前がやれ」
「何を」
「帝国を……残せ」
「私に皇位を求めろと?」
「皇位など……椅子だ」
「その椅子のために何万人も死にます」
「だから、お前が座れ」
テオドラは息を止めた。
「弟たちではなく?」
「ミハイルは軍を愛しすぎる。コンスタンティノスは神を愛している自分を愛しすぎる」
「私は」
「お前は帝国を愛していない」
テオドラは父を見た。
その言葉は侮辱にも、称賛にも聞こえた。
「だから……残せる」
皇帝は言った。
「愛する者は、変えることができない」
「私は帝国を愛しています」
「なら……愛するな」
父の指が、彼女の手から滑った。
胸が一度、大きく上下した。
そのあと、動かなかった。
テオドラはしばらく呼ばなかった。
医師も。
司祭も。
誰も。
父の手を握り、夜明け前の静けさの中に座っていた。
皇帝が死んだ。
父が死んだ。
二つの事実は同じ瞬間に起きた。
だが、テオドラの中では別々だった。
父の死を悲しむ時間はない。
皇帝の死を隠す時間を決めなければならない。
彼女は手を離し、立ち上がった。
扉を開ける。
外で待っていた宦官長と親衛隊長が顔を上げた。
テオドラは言った。
「皇帝陛下は眠っておられる」
宦官長の目が揺れた。
「殿下」
「正午まで、誰も入れるな」
「しかし医師が」
「医師は皇帝陛下の命により、感染症の疑いがあるとして隔離された」
「そのような命令は」
テオドラは宦官長を見た。
「今、受けた」
男は理解した。
皇帝の死を隠す。
数時間だけ。
その数時間で、親衛隊、城門、宝物庫、文書局、穀物倉庫を押さえる。
弟たちより先に。
「親衛隊長」
「はい」
「大宮殿の門を閉じなさい。理由は皇帝陛下の療養。出入りは私の印章がある者だけ」
「皇子殿下方は」
「入れるな」
「命令に従わない場合は」
「武器を取り上げて客室へ案内しなさい」
親衛隊長の顔が強張る。
「皇族を拘束するのですか」
「客として迎えると言ったのです」
「抵抗なさった場合は」
「客として扱えないでしょう」
テオドラは回廊を歩き始めた。
「宦官長。宮廷書記局長、財務長官、穀物長官、海軍提督、コンスタリオン総主教を紫会議室へ」
「軍人貴族の代表は」
「呼ばない」
「東部軍管区司令官ニケフォロス・ドゥーカス将軍が、すでに帝都へ向かっているとの報告があります」
テオドラの足が止まった。
「誰が呼んだ」
「ミハイル皇子ではないかと」
ニケフォロス。
東部国境を守る将軍。
兵士からの信頼が厚く、軍人貴族から皇帝候補として期待されている。
父へ忠誠を誓っていた。
テオドラ個人にも敬意を示していた。
だが、敬意と服従は違う。
「どこまで来ている」
「帝都まで三日ほど」
「軍を伴っているのですか」
「親衛騎兵五百。それ以外は国境へ残したと」
五百。
帝都を征服するには少ない。
宮廷を奪うには十分。
「迎えを出します」
テオドラは言った。
「誰を」
「私の印章を持たせた者を。将軍へ伝えなさい。皇帝陛下は重篤。帝都へ入る兵は五十騎まで。残りは城壁外へ宿営せよ」
「従わなければ」
「そのとき、彼が何者として来たのか分かります」
回廊の窓から、夜明けの光が差し込んだ。
帝都の屋根が紫色に染まる。
皇帝が死んだ朝も、太陽はいつもと同じように昇った。
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## 二
パン職人アンドロニコス・パレオスは、父の手を小麦粉の中に埋めた。
冷たくなった手だった。
工房の作業台には、捏ねかけの生地が残っている。
父は夜明け前、窯へ薪を入れたあとで倒れた。
胸を押さえ、何か言おうとして、床へ崩れた。
医師を呼ぶ金はなかった。
近所の施療師が来たときには、すでに息をしていなかった。
「疲れだろう」
施療師は言った。
「最近、寝ていなかったから」
寝ていなかったのではない。
眠れなかったのだ。
国営穀物倉庫から届く小麦が減り、代わりに混ぜ物の多い粉が来るようになった。
それでも役所から指定された数のパンを焼かなければならない。
重さが足りなければ罰金。
数が足りなければ営業停止。
市場で小麦を買えば、国の指定価格では赤字になる。
父は粉の量を何度も計り直し、水を増やし、豆粉を混ぜた。
パンは膨らまない。
客は怒る。
役人も怒る。
父は、もっと怒った。
自分に。
「パン屋がパンを作れないなら、何のために生きている」
昨夜、父はそう言った。
その答えを聞く前に死んだ。
アンドロニコスは父の指から小麦粉を払った。
母は数年前に亡くなっている。
姉は郊外の染色工へ嫁いだ。
工房を継ぐのは自分だった。
二十歳。
一人で国営配給所へ納める二百斤のパンを焼かなければならない。
父の葬儀代も必要だった。
だが手元にある粉では、百二十斤分しか作れない。
作業場の入口で、妹のエレニが泣いていた。
十四歳。
「兄さん」
「水を沸かしてくれ」
「お父さんは」
「教会へ運ぶ」
「今日、パンを焼くの」
「焼く」
エレニは父の遺体を見た。
「休んではいけないの」
「休めば役人が来る」
「お父さんが死んだと言えば」
「役人はパンを食べないのか」
妹は泣きながら水桶へ向かった。
アンドロニコスは生地を捏ねた。
父の死体が横にある。
それでも手を止められない。
パンは生きている者のために必要だ。
そのため、死者は後回しになる。
工房の外では、配給所へ並ぶ人々の声が聞こえ始めていた。
この地区のパン屋は三軒。
一軒は昨日、粉が尽きて閉じた。
もう一軒は夜中に窓を破られ、主人が怪我をした。
今日、開くのはパレオス家だけだった。
皆が知っている。
扉を開ければ百人以上が押し寄せる。
パンは足りない。
必ず争いになる。
窯へ生地を入れていると、役人が来た。
赤い縁取りの黒衣。
穀物局の下級監督官。
後ろに兵士二人。
「パレオス」
役人は帳板を開いた。
「本日の納入数は二百斤」
「粉が届いていません」
「昨日、百五十袋を配給した」
「百二十斤分しかありませんでした」
「帳簿には百五十斤」
「袋に石粉が混じっていました」
役人の顔が険しくなる。
「国営倉庫の粉を侮辱するのか」
「見れば分かります」
アンドロニコスは粉袋を開いた。
底に灰色の粒が溜まっている。
役人は一瞥した。
「水を増やせ」
「重くするだけです。焼けば中が空洞になる」
「指定重量を満たせばよい」
「人が食べるものです」
「人は重さで受け取る」
「役所はそうでしょう」
兵士が一歩前へ出た。
役人は手で止める。
「父親はどうした」
「死にました」
「いつ」
「今朝」
役人は作業台の遺体を見た。
わずかに顔をしかめる。
「それは気の毒だ」
声には本当に同情があった。
だが帳板を閉じなかった。
「納入義務は工房にある。主人が死んでも消えない」
「分かっています」
「正午までに二百斤」
「できません」
「不足一斤につき銀貨一枚の罰金」
「払えません」
「なら工房と窯を接収する」
アンドロニコスは両手を作業台についた。
小麦粉が舞う。
「役人殿」
「何だ」
「百二十斤の粉から、二百斤のパンを作る方法を教えてください」
「水を入れろと言った」
「では、あなたが食べてください」
兵士の一人が剣柄へ手を伸ばした。
役人の顔から同情が消えた。
「言葉に気をつけろ。都が危機にあるとき、皆が犠牲を払っている」
「父は払いました」
「お前だけではない」
「だから、誰も文句を言うなと?」
役人はしばらく黙った。
彼も疲れていた。
目の下に隈がある。
役所では、パン屋と市民から毎日怒鳴られているのだろう。
自分で小麦を減らしたわけではない。
それでも命令を伝える者は、命令そのものの顔になる。
「正午に来る」
役人は言った。
「百八十斤あれば、不足分は報告しない」
譲歩だった。
規則違反でもある。
「百二十しか作れません」
「工夫しろ」
「石を食わせろと」
「生き残りたいなら、皆が何かを飲み込む」
役人は兵士とともに去った。
アンドロニコスは父の顔を見た。
「どうしろっていうんだ」
父は答えない。
妹が水を運んできた。
「兄さん」
「少しずつ入れろ」
「石粉も?」
アンドロニコスは拳を握った。
「石は除く」
「でも百八十にならない」
「分かっている」
「窯を取られるの」
「取らせない」
どうやって。
答えはなかった。
工房の裏手に、小さな袋が一つ隠してある。
父が冬のために蓄えていた上等な小麦粉。
家族だけなら二週間は食べられる。
それを使えば、百六十斤までは作れる。
残り二十。
妹の食糧。
父の葬儀。
工房の存続。
並ぶ人々。
何を優先しても、別の誰かを裏切る。
アンドロニコスは裏の袋を持ってきた。
エレニが目を見開く。
「それ、お父さんが使うなって」
「父さんは死んだ」
言ってから、自分の声に傷ついた。
妹は泣いた。
「言い方があるでしょう」
「ごめん」
謝っても、言葉は戻らない。
二人は粉を混ぜた。
パンを焼いた。
正午前、工房の扉を開ける。
通りを埋めるほどの人がいた。
百人。
二百人。
誰もが銅貨か配給札を握っている。
「一人一斤!」
アンドロニコスは叫んだ。
「家族の人数に関係なく、一人一斤だ!」
「子供が四人いる!」
「病人がいるんだ!」
「昨日も買えなかった!」
声が重なる。
「一列に並んでくれ!」
誰も聞かない。
父が生きていた頃は、近所の者が列を作るよう手伝ってくれた。
今日は彼らも客だった。
押し合いが始まる。
エレニが配給札を受け取り、アンドロニコスがパンを渡す。
焼き上がった数は百六十四。
一つずつ減っていく。
列はほとんど短くならない。
五十。
百。
残り二十。
前にいた老人がパンを受け取る。
次は子供を抱いた女。
その後ろに港湾労働者。
残り十。
人々が棚を見る。
足りないことに気づく。
押す力が強くなる。
「まだあるだろう!」
「奥へ隠している!」
「昨日の分を出せ!」
「これで全部だ!」
アンドロニコスは叫んだ。
残り五。
兵士の妻が一つ受け取る。
残り四。
靴職人の弟子。
残り三。
七燭派の老司祭。
残り二。
工房前に、幼い姉弟がいた。
姉は十歳ほど。
弟は五歳。
配給札は一枚。
「一枚で一つだ」
アンドロニコスは言った。
姉が弟を見る。
「この子に」
パンを一つ渡す。
残り一。
姉の目がパンを追った。
自分の分はない。
アンドロニコスは最後の一つを手に取った。
後ろから無数の手が伸びる。
誰へ渡す。
姉か。
次に並ぶ妊婦か。
杖をついた老人か。
三日前から食べていないと叫ぶ男か。
「終わりだ!」
アンドロニコスは最後のパンを姉へ押しつけた。
戸を閉めようとする。
外から腕が入った。
「待て!」
「まだある!」
「子供だけ特別か!」
戸が押し返される。
エレニが悲鳴を上げた。
アンドロニコスは体をぶつけて閉じようとした。
木の蝶番が軋む。
誰かが石を投げた。
窓が割れた。
群衆の一部が裏口へ回る。
「倉庫を見ろ!」
「粉を隠している!」
隠していない。
もうない。
だが、空腹の人間に証明する方法はない。
「エレニ、二階へ行け!」
「兄さんは」
「行け!」
裏口が破られた。
男たちが入ってくる。
作業台。
空の粉袋。
父の遺体。
先頭の男が立ち止まった。
「死んでいる」
その一言で、後ろの者も動きを止めた。
父の死体が、パン屋の言葉より真実を伝えた。
隠していない。
この家も同じように失っている。
一瞬、群衆の怒りが萎んだ。
そのとき、通りで角笛が鳴った。
帝都守備隊。
兵士たちが盾を並べて突入してくる。
「散れ!」
人々が逃げ始める。
遅れた者が殴られる。
アンドロニコスは両手を上げた。
「待ってくれ! ここは工房だ!」
兵士は聞かなかった。
盾で胸を打たれ、床へ倒れる。
父の遺体の横。
視界が揺れる。
エレニの叫び。
誰かが兵士へ鍋を投げた。
剣が抜かれる音。
アンドロニコスは起き上がり、妹を探した。
通りから、さらに大きな声が聞こえた。
「皇帝が死んだ!」
誰かが叫んでいた。
「皇帝陛下が崩御された!」
兵士たちの動きが止まった。
噂か。
事実か。
誰にも分からない。
だが、群衆は反応した。
「嘘だ!」
「皇女が隠している!」
「ミハイル皇子が即位する!」
「総主教がコンスタンティノスを選んだ!」
「軍が都へ来るぞ!」
一つの知らせが、瞬時に十の物語へ変わる。
人々はパン屋を忘れた。
通りへ流れ出す。
皇帝が死んだ。
次の皇帝が決まっていない。
パンがない。
軍が来る。
宮殿が穀物を隠している。
これらの事実と噂が混ざり合い、巨大な恐怖となって帝都を走り始めた。
アンドロニコスは父の遺体へ覆いをかけた。
妹を抱き寄せる。
「兄さん」
「大丈夫だ」
「何が」
答えられなかった。
窓の外で、人々が宮殿の方角へ走っていた。
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## 三
ニケフォロス・ドゥーカスは、帝都から三日の街道上で皇帝崩御の報を受けた。
使者は馬から落ちるように降りた。
紫の縁取りを持つ皇帝直属の伝令服。
だが携えていたのは皇帝印ではなく、皇女テオドラの印章だった。
「皇帝陛下は」
ニケフォロスが尋ねる。
使者は周囲を見た。
将軍の親衛騎兵五百。
誰もが耳を澄ませている。
「崩御されました」
静かな言葉だった。
それでも、兵士の列を風のように走った。
何人かが聖印を切る。
年老いた騎兵が涙を拭った。
皇帝の顔を見たことのない兵士もいる。
それでも、彼らは皇帝の名で給金を受け取り、皇帝の名で敵を殺し、皇帝の名で死ぬよう命じられてきた。
その名が消えた。
次に誰の名を叫ぶべきか、まだ決まっていない。
「いつ」
「本日夜明け前」
「発表は」
「正午」
「なぜ遅らせた」
「皇女殿下が宮殿と穀物倉庫の安全確保を優先されました」
ニケフォロスは使者を見た。
「皇子たちは」
「ミハイル皇子は青宮にて支持者を集めています。コンスタンティノス皇子は総主教庁におります」
「皇女は」
「大宮殿」
当然だった。
最初に宮殿を押さえた者が、皇帝の遺体と王冠、国璽、宝物庫、官僚機構を持つ。
だが軍を持つ者が最後に勝つ。
ミハイル皇子が自分を呼んだ。
正確には、ミハイルの側近から書状が届いた。
帝都の秩序維持のため、忠実な将軍として来てほしい。
誰に忠実なのかは書いていなかった。
ニケフォロスは皇帝へ忠誠を誓っていた。
皇女へではない。
皇子へでもない。
帝国へ。
だが帝国は命令を出さない。
命令を出すのは、人間だ。
「皇女殿下からの命令です」
使者は書簡を差し出した。
ニケフォロスは読む。
帝都へ入る兵は五十。
残りは城壁外へ。
五十。
罠を恐れるなら少なすぎる。
誠意を示すなら多すぎる。
テオドラらしい数字だった。
「将軍」
副官のレオンが近づく。
「従うのですか」
「従わない理由は」
「ミハイル皇子からは全軍で入城するよう」
「正式な命令か」
「皇子の書状です」
「皇帝ではない」
「皇女殿下も皇帝ではありません」
「だから、どちらにも従う義務はない」
レオンは困惑した。
「では」
「五十騎で入る」
「皇女側につくのですか」
「帝都へ入るだけだ」
「兵を残せば、城門を閉ざされます」
「そのときは攻めるのか」
レオンは答えなかった。
ニケフォロスは左脚を伸ばした。
古傷が痛む。
二十年前、東部国境の戦いで槍を受けた。
雪の中で三日間、退却する兵をまとめた。
あのとき皇帝アレクシオスは、宮廷の反対を押し切って救援軍を送った。
軍を見捨てない皇帝だった。
同時に、戦後の財政難で兵士の給金を一年遅らせた皇帝でもある。
人間は一つの行為だけで評価できない。
皇帝も。
皇子も。
皇女も。
将軍も。
「皇帝陛下の遺言は」
ニケフォロスは使者へ尋ねた。
「公表されていません」
「存在するのか」
「分かりません」
「皇女が隠している可能性は」
使者の顔が固くなる。
「私は伝令です」
「正しい答えだ」
ニケフォロスは書簡を折り畳んだ。
「皇女殿下へ伝えろ。命令に従い、五十騎で入城する。残りは聖ロマノス門外へ宿営させる」
使者が礼をする。
「もう一つ」
ニケフォロスは呼び止めた。
「帝都の穀物備蓄は」
使者は一瞬、答えに迷った。
「公式には三か月分」
「実際は」
「将軍。私は――」
「帝都の門を開けるか閉じるかを決めるのは、王冠ではなくパンだ。答えろ」
「一か月半と聞いています」
兵士たちには聞こえない声だった。
ニケフォロスは空を見上げた。
春の晴天。
穏やかな風。
この空の下で、帝都は飢え始めている。
五十万の都市が一か月半で食べる穀物。
それを補う船は来ない。
オルシャで穀物船が燃えた。
ナフルからの航路が止まった。
黒海北岸では、ヴェリグラード諸公国とサルグァ草原汗国の情勢が不安定。
陸路では運べない。
皇位継承争いをしている時間はない。
だが皇位が決まらなければ、誰も備蓄を開ける責任を取らない。
「進むぞ」
ニケフォロスは命じた。
「将軍」
レオンが馬を寄せる。
「誰を支持するのです」
ニケフォロスは前方の街道を見た。
地平線の先に、世界最大の城壁がある。
その内側で三人の皇族が王冠を見ている。
「帝国を残す者だ」
「誰です」
「それを見に行く」
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## 四
紫会議室は、皇帝だけが正式な国家会議を開く場所だった。
壁は紫斑岩。
天井には、七つの燭台を掲げる古代皇帝のモザイク画。
中央には円卓があり、その一段高い位置に皇帝の椅子がある。
テオドラは皇帝の椅子に座らなかった。
円卓の一席へ座った。
父の死はすでに公表されている。
市内各所の鐘が鳴り、聖堂では追悼祈祷が始まった。
同時に、暴動も始まった。
宮殿前広場には数千人が集まり、皇帝の姿を求めている。
死を信じない者。
次の皇帝を知りたい者。
パンを求める者。
ミハイルを支持する者。
コンスタンティノスを支持する者。
皇女テオドラに即位を求める者も、ごく少数ながらいた。
会議室には、財務長官、穀物長官、海軍提督、宦官長、宮廷書記局長、コンスタリオン総主教が座っていた。
空席が三つ。
ミハイル。
コンスタンティノス。
ニケフォロス。
弟たちは招集に応じていない。
ニケフォロスはまだ到着していない。
「穀物倉庫を開きます」
テオドラは言った。
穀物長官が青ざめる。
「殿下」
「市場価格の半額で配給する。一世帯一日一斤。配給札を発行し、教会と職人組合に配布を委託します」
「備蓄が尽きます」
「何日で」
「現在の量なら四十七日」
「配給を制限すれば」
「六十二日」
「六十二日以内に穀物船を確保する」
海軍提督が咳払いした。
「ナフル航路は危険です。オルシャ周辺では私掠船が出ています」
「黒海からは」
「ヴェリグラード商人が価格を三倍へ引き上げました」
「払います」
財務長官が首を振る。
「金がありません」
「宝物庫は」
「軍への未払い給金と、セレスタ商人への債務があります」
「皇帝冠の宝石を売れ」
総主教が身を乗り出した。
「帝冠は神聖なものです」
「宝石を食べられますか」
「皇帝権威の象徴を傷つければ、帝国の正統性が揺らぎます」
「民衆が飢えて宮殿を焼けば、もっと大きく揺らぐでしょう」
財務長官が羊皮紙を広げた。
「問題は、宝物庫の品を売るだけではありません」
「何です」
「帝国が保有する一部の宝石、絹、港湾関税権は、すでに担保に入っています」
テオドラは長官を見た。
「誰への」
「複数の商会です」
「名を」
「セレスタ海洋都市同盟のヴェルディ銀行。黒帳商会。カディーラのサファ商館。そして……帝国内の紫帳組合」
会議室の空気が変わった。
「紫帳組合とは何です」
テオドラが尋ねる。
財務長官は答えなかった。
宮廷書記局長が視線を伏せる。
宦官長も。
知らないのはテオドラだけではない。
海軍提督と総主教も困惑している。
「説明してください」
テオドラの声が低くなる。
財務長官が口を開いた。
「皇帝直属の非公開財政組織です」
「父上の?」
「歴代皇帝の、と申し上げるべきです」
「何をしている」
「公式予算に記録できない支出を管理します。外交工作。敵国への賄賂。傭兵雇用。反乱勢力への秘密援助。皇族の身代金。教会への非公式献金」
総主教が机を叩く。
「教会への何だと」
「総主教猊下の就任前の話です」
「記録を見せろ」
「公開権限がありません」
テオドラは財務長官を見た。
「今、権限を与えます」
「皇帝の署名が必要です」
「皇帝は死んだ」
「だからこそ、次の皇帝が決まるまで開示できません」
「その組織が帝国の財産を担保にしたのですか」
「はい」
「誰の命令で」
「帳簿を見なければ」
「帳簿はどこに」
長官は沈黙した。
テオドラは理解した。
「あなたは知っている」
「殿下」
「どこです」
「紫宮地下の財務室」
紫宮。
歴代皇帝が私的な執務に使った旧宮殿。
現在は儀礼用の倉庫となっている。
大宮殿と地下道でつながっている。
「鍵は」
「皇帝陛下が」
「父の所持品にはなかった」
「では、紫帳組合の管理者が」
「名は」
財務長官の額に汗が浮かぶ。
「知りません」
「嘘ですね」
「本当に知りません。管理者は《紫守》と呼ばれ、皇帝と数名の書記だけが正体を知る決まりです」
宮廷書記局長が顔を伏せたまま言った。
「先月、紫帳組合から文書が届きました」
「なぜ黙っていた」
「皇帝陛下の封印がありました」
「内容は」
「オルシャにおける港湾権再編に備え、帝国海軍の介入費用を確保せよ、と」
「オルシャ事件の前ですか」
「はい」
「何日前」
「四十三日前」
会議室が静まり返った。
オルシャの鍵守一族が殺される前。
穀物船が燃える前。
帝国の秘密財政組織は、聖地への海軍介入費用を準備していた。
予測。
あるいは計画。
マリアムが見つけた契約書の存在を、テオドラは知らない。
だが別の道から、同じ影へ近づいていた。
「文書を」
テオドラは言った。
書記局長が羊皮紙を差し出す。
皇帝印。
父の署名。
本物に見える。
だが父は四十三日前、すでに病床にあった。
署名できない状態ではなかった。
それでも、オルシャで事件が起きることをなぜ知っていた。
「父上が命じたと?」
テオドラは尋ねた。
誰も答えない。
総主教が聖印を切った。
「皇帝陛下が聖地奪還を望まれていた可能性はあります」
「それなら公に艦隊を準備すればよい」
海軍提督が言った。
「秘密にする理由はありません」
「南方諸国を刺激しないためでは」
「火災が起きる前に、火災後の介入費用を準備するのは外交ではない」
テオドラは文書の署名を見た。
父の筆跡。
だが、最後の一画がわずかに上へ跳ねている。
父は晩年、右手の震えを隠すため、署名の最後を下へ押さえる癖があった。
この署名は、十年以上前の筆跡に近い。
「偽造です」
テオドラは言った。
書記局長が顔を上げる。
「印章も本物です」
「印章が本物なら、印章を持つ者が偽造した」
「皇帝印へ触れられる者は限られます」
「だから調べやすい」
財務長官が不安そうに言う。
「殿下。いま宮廷内部の捜査を始めれば、皇子方は自分たちへの弾圧と受け取ります」
「実際、関わっている可能性がある」
「内戦になります」
「何もしなくてもなる」
テオドラは立ち上がった。
「紫宮地下を封鎖します。親衛隊を送る」
宦官長が言う。
「地下道には複数の入口があります」
「すべて閉じる」
「紫帳組合の管理者が帳簿を焼くかもしれません」
「だから急ぐ」
そのとき、会議室の外で騒ぎが起きた。
扉が開く。
親衛隊長が入った。
「皇女殿下。ニケフォロス将軍が到着しました」
「五十騎ですか」
「はい」
「通しなさい」
「それと、ミハイル皇子が青宮兵二千を率いて大宮殿へ向かっています」
財務長官が立ち上がる。
「二千!」
「コンスタンティノス皇子も総主教庁の護衛と信徒を集めています」
総主教の顔色が変わる。
「私の命令ではない」
「分かっています」
テオドラは円卓の上の地図を見た。
大宮殿。
青宮。
総主教庁。
紫宮。
穀物倉庫。
都市の権力は五つに分かれようとしている。
「宮殿門を守れ」
親衛隊長へ命じる。
「矢は放つな。ミハイルが門を破るまで剣を抜くな」
「破った場合は」
テオドラは一瞬、目を閉じた。
弟。
幼い頃、池へ落ちた彼女を助けた弟。
父に叱られると、互いに罪を押しつけ合った弟。
その弟が兵を率いて来る。
「皇族ではなく、反乱者として扱いなさい」
親衛隊長が礼をして去る。
総主教が言った。
「殿下は何をなさるつもりです」
「穀物倉庫を開く」
「今、この状況で?」
「この状況だからです」
「兵が必要です」
「市民がパンを受け取れば、皇子のために死ぬ者は減る」
政治的な計算だった。
同時に、必要な政策でもある。
善意と権力は、同じ行為の中で区別できないことがある。
テオドラは自分が民を救いたいのか、支持を買いたいのか分からなかった。
おそらく両方だった。
父の言葉を思い出す。
帝国を愛するな。
愛すれば、正しいと思う形のまま保存したくなる。
だが帝国を残すには、変えなければならない。
「穀物長官」
「はい」
「倉庫を開きなさい」
「命令書には誰の名を」
皇帝は死んだ。
新皇帝はいない。
皇女の命令に法的な根拠は弱い。
テオドラは父の印章を机へ置いた。
「アウレリア帝国摂政、テオドラ・ラスカリナ」
「摂政は任命されていません」
財務長官が言った。
「今、任命しました」
「誰が」
「皇帝の長女が、帝国存続の必要により」
「法にありません」
「法に、皇帝が死んだ日に三人の後継者が軍を集め、秘密組織が国庫を担保にし、市民が飢える場合の条文はありますか」
誰も答えなかった。
「ないなら、今日作ります」
---
## 五
ニケフォロスが紫会議室へ入ったとき、テオドラは摂政宣言へ署名していた。
将軍は兜を脇に抱え、古い胸甲を着ていた。
左脚を引きずっている。
四十七歳。
戦場で老けた男の顔。
宮廷の者とは違う疲労が刻まれている。
彼は皇帝の椅子が空であることを確認し、テオドラへ礼をした。
「皇帝陛下のご崩御に、哀悼を」
「ありがとうございます」
「遺言は」
「ありません」
「本当に?」
「父上は、帝国を残せとだけ」
「誰に」
「私に」
会議室の者たちが息を潜めた。
ニケフォロスはテオドラを見つめる。
「皇位を継げと?」
「帝国を残せと」
「同じ意味に使えます」
「使いたい者には」
将軍の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「あなたらしい答えです」
「将軍は誰の命令で来たのですか」
「帝国の危機を知り、自分の判断で」
「ミハイルからの書状は」
「受け取りました」
「なら、彼の招きで来た」
「招きと命令は違います」
「彼を支持しますか」
「まだ決めていません」
「私も候補ですか」
「殿下は摂政を名乗られた」
ニケフォロスは署名中の文書を見る。
「皇帝ではなく」
「王冠より先に、倉庫を開ける必要があります」
「賢明です」
穀物長官が驚いた顔をした。
「将軍は配給に賛成ですか」
「飢えた都を兵で抑えるには、パンを配るより十倍の金と百倍の血が必要だ」
ニケフォロスは地図へ近づいた。
「ただし六十二日後、船が来なければ同じ問題が戻る」
「その前に確保します」
「どこから」
「黒海北岸」
「サルグァ汗国の継承争いで河川路が不安定です」
「アルサクから」
「峠は雪解けで使えない」
「ナフル」
「オルシャを通れば燃やされる」
「別の港を使う」
「南方海軍が止めます」
テオドラは将軍を見た。
「反対だけなら、軍人でなくてもできます」
ニケフォロスは動じなかった。
「私なら、セレスタの船を雇う」
「金がない」
「港湾関税を担保に」
財務長官が顔を曇らせる。
「すでに一部が担保です」
「誰に」
「紫帳組合」
ニケフォロスの表情が変わった。
ごくわずか。
だがテオドラは見逃さなかった。
「知っているのですか」
「名前だけ」
「どこで」
「東部戦線への秘密補給で」
「誰が命令した」
「皇帝陛下の印章がありました」
「いつ」
「三年前」
「管理者は」
「会ったことはない」
「使者は」
「顔を隠した宦官でした」
宦官長が不快そうに言う。
「宮廷宦官は何百人もおります」
「だから顔を隠す必要がない。顔を隠したのは、宦官ではなかったのかもしれない」
ニケフォロスはテオドラへ視線を戻した。
「紫帳がどうしたのです」
「オルシャ事件の四十三日前、帝国海軍の介入費用を準備していた」
将軍は沈黙した。
「偶然だと思いますか」
「戦争を予測する者はいます」
「穀物価格上昇の先物契約もあった」
「誰が」
「まだ分かりません」
ニケフォロスは円卓へ手をついた。
「紫宮地下を押さえるべきです」
「親衛隊を向かわせます」
「遅い」
「なぜ」
「ミハイル皇子の青宮兵が紫宮に近い」
テオドラは地図を見た。
青宮から大宮殿へ向かう最短路。
紫宮の脇を通る。
「目的が宮殿ではなく、紫帳だと?」
「可能性があります」
「彼が管理者ですか」
「分かりません」
「なら、先に取る」
テオドラは親衛隊へ命令を出そうとした。
ニケフォロスが止める。
「私が行きます」
「五十騎で?」
「宮殿兵を二百貸してください」
「あなたが帳簿を持ち去る可能性は」
会議室が凍る。
将軍はしばらく彼女を見た。
「あります」
率直な答えだった。
「私がミハイル側なら、帳簿を彼へ渡す。自分が皇帝を望むなら、自分のために使う。殿下を支持するなら、ここへ持ち帰る」
「どれを選ぶのです」
「帳簿を見てから考える」
総主教が怒る。
「そのような者に兵を預けるのですか」
ニケフォロスは総主教を見た。
「正直な人間をお望みなら、私より適任でしょう」
「無礼な」
「神の館へ兵を集めた弟君について、猊下は何もご存じないそうですが」
総主教が立ち上がる。
テオドラが手を上げた。
「二百貸します」
全員が彼女を見る。
「殿下」
「将軍に紫宮を押さえさせる」
「信用なさるのですか」
テオドラは答えた。
「信用していません。だから、私の書記官と親衛隊長代理を同行させます」
ニケフォロスが頷く。
「妥当です」
「帳簿を見つけたら封を切るな」
「約束できません」
「命令です」
「あなたは摂政を自称したばかりだ」
「では、私が皇帝になるまで待ちますか」
二人の視線がぶつかった。
先に笑ったのはニケフォロスだった。
「封は切りません」
「信じます」
「信用していないのでしょう」
「信用しないことと、信じると決めることは別です」
将軍は礼をした。
「それも、あなたらしい」
紫宮へ向かう直前、伝令が飛び込んできた。
「ミハイル皇子の兵が大宮殿前へ到着!」
遠くから、角笛が聞こえた。
続いて群衆の叫び。
テオドラは窓へ向かった。
宮殿前広場に、青い旗が並んでいる。
ミハイルの紋章。
双頭の鷲に剣。
兵士二千。
その後ろには、皇子を支持する市民や軍人家族がいる。
「姉上!」
広場から拡声役の声が響いた。
「皇帝陛下の遺体と国璽を、正統な皇子ミハイル殿下へ引き渡されたい!」
正統。
誰が決めた。
長男であること。
男であること。
軍の支持があること。
それぞれは強い理由であり、絶対ではない。
テオドラは親衛隊長へ言った。
「門を開けます」
「殿下!」
「外門だけ。中庭へ入れる」
「二千人を?」
「ミハイル本人と護衛十人。残りは外」
「従わなければ」
「倉庫を開けると市民へ告げなさい」
親衛隊長が理解するまで、一瞬かかった。
広場にいる市民は皇子を支持している。
だが多くは、パンが欲しいだけだ。
宮殿が配給を始めれば、群衆は皇子の演説より倉庫へ向かう。
「卑怯だと呼ばれます」
ニケフォロスが言った。
「パンを配ることが?」
「政治的に使うことが」
「ミハイルは空腹を支持へ使っている」
「だから同じことを?」
「違います」
テオドラは窓の下に集まる民衆を見た。
「私は本当にパンを渡す」
---
## 六
帝国中央穀物倉庫の門が開いたとき、群衆は一度、静かになった。
信じられなかったのだ。
これまで役所は、備蓄は少ない、配給札がない、命令がない、明日来い、と言い続けていた。
巨大な木製門が開き、内側から小麦袋が見えた。
その光景だけで、人々の表情が変わった。
歓声より先に、安堵が広がる。
次に恐怖。
自分の番まで残るのか。
人々は一斉に前へ押した。
「並べ!」
兵士が叫ぶ。
誰も聞かない。
教会の司祭、職人組合の代表、地区長たちが配給札を確認する。
だが数千人が押し寄せている。
アンドロニコスも群衆の中にいた。
妹の手を握っている。
父の遺体は工房に残したまま。
本来なら、父を教会へ運ぶべきだった。
だが今、小麦を受け取らなければ工房が終わる。
死者と生者。
また生者を選んだ。
「パン屋だ!」
アンドロニコスは配給役へ叫んだ。
「パレオス工房! 国営配給所への納入契約がある!」
役人は帳簿をめくる。
「主人は」
「死んだ。私が継いだ」
「営業継承の許可は」
「今日死んだんだ!」
「許可がなければ業務用の粉は渡せない」
アンドロニコスは役人の衣を掴みそうになった。
妹が腕を引く。
「兄さん」
周囲には同じような者がいる。
パン屋。
麺職人。
修道院の炊き出し係。
宿屋。
皆が多くを求める。
家庭配給は一世帯一斤。
商売用なら、さらに必要。
役人が迷っていると、別の男が近づいた。
王宮書記官の服。
「パレオス工房か」
「そうです」
「今朝、守備隊の騒乱があった場所だな」
「はい」
「死人は」
「父が。それと、怪我人が何人か」
書記官は帳板へ何かを書いた。
「粉二袋」
配給役が驚く。
「規定では」
「摂政令だ。稼働可能なパン工房を優先する」
「摂政?」
アンドロニコスが聞く。
「皇女テオドラ殿下が、帝国摂政を宣言された」
周囲がざわめく。
「女が皇帝になるのか」
誰かが言った。
「摂政だ」
「同じようなものだ」
「ミハイル皇子は」
「門前にいる」
「戦争になるぞ」
書記官が怒鳴る。
「戦争の話はあとだ! 袋を運べ!」
アンドロニコスは妹と一袋ずつ抱えた。
重い。
本物の小麦。
石粉の混じっていない匂い。
泣きそうになった。
この袋があれば、数日はパンを焼ける。
父が生きているうちに開いていれば。
その思いが胸を刺す。
倉庫から出ようとしたとき、広場の一角で叫び声が上がった。
ミハイル皇子の兵と宮殿親衛隊が向き合っている。
皇子本人が馬上にいた。
三十歳。
父に似た黒髪。
金飾りの鎧。
「姉上は皇帝陛下の死を隠した!」
拡声役が叫ぶ。
「帝国法を無視し、摂政を僭称した!」
群衆の一部が応じる。
「ミハイル皇子万歳!」
別の一部が叫ぶ。
「パンを配ったのは皇女だ!」
「皇子は何をくれる!」
「軍を解散しろ!」
支持ではない。
取引だった。
人々は王冠の正統性を、パンと安全で量っている。
ミハイルの顔に怒りが浮かんだ。
彼は剣を抜いた。
親衛隊も構える。
アンドロニコスは妹を背後へ押した。
また始まる。
パン屋の前と同じ。
一人が武器を抜き、相手が恐れ、恐怖が先に手を動かす。
「殿下!」
馬で駆けてきた将校がミハイルへ何かを伝えた。
皇子の表情が変わる。
「紫宮だ!」
彼は叫んだ。
青宮兵の一部が隊列を変えた。
大宮殿ではなく、東の紫宮へ向かう。
アンドロニコスには意味が分からない。
だが、宮殿の高窓に立つテオドラには分かった。
ニケフォロスとミハイル。
どちらが先に紫帳を得るか。
それが皇位継承だけでなく、オルシャの陰謀を左右する。
---
## 七
紫宮は、二百年前に建てられた小さな宮殿だった。
小さいといっても、地方領主の城より広い。
現在は使われておらず、儀礼用衣装、古文書、歴代皇帝の肖像、壊れた家具が保管されている。
ニケフォロスが到着したとき、正門は開いていた。
「誰かが先に入った」
親衛隊長代理が言った。
「ミハイルの兵ではない」
ニケフォロスは地面を見る。
蹄跡がない。
足跡も少ない。
五人か、多くて十人。
「裏口から出る可能性がある。兵を回せ」
二百の宮殿兵が散る。
ニケフォロスは五十人を連れ、正面から入った。
内部は暗い。
窓に厚い布がかけられ、埃の匂いがする。
廊下には歴代皇帝の肖像画。
勝者だけが並ぶ。
敗れた皇帝の絵は剥がされ、壁に薄い跡だけが残っている。
「地下入口は」
同行した書記官が地図を開く。
「旧礼拝堂の奥です」
一行は進んだ。
途中、最初の死体を見つけた。
紫宮の老警備兵。
喉を切られている。
血はまだ温かい。
「急げ」
旧礼拝堂へ着く。
祭壇が動かされ、地下への階段が開いていた。
灯りが下に続いている。
誰かがいる。
ニケフォロスは剣を抜いた。
「十人、続け。残りは入口を守れ」
階段を下りる。
地下通路。
湿った石壁。
足音が響く。
前方から、紙が燃える匂いがした。
走る。
財務室の扉が開いている。
中で火が上がっていた。
棚の帳簿へ油が撒かれ、炎が広がっている。
黒い外套の人影が三人。
一人が松明を持つ。
「止まれ!」
ニケフォロスが叫ぶ。
人影が振り返る。
顔は仮面で隠されている。
一人が短弓を撃った。
矢が宮殿兵の喉へ刺さる。
ニケフォロスは盾を持っていない。
柱の陰へ身を投げる。
兵士たちが突入する。
狭い室内で剣がぶつかる。
仮面の男たちは訓練されていた。
一人が兵士の腹を裂き、別の者が炎の中へ帳簿を投げ続ける。
「火を消せ!」
ニケフォロスは机を蹴り倒し、燃えていない帳簿を床へ落とした。
外套を脱ぎ、炎を叩く。
仮面の男が背後から斬りかかる。
ニケフォロスは振り返り、剣で受けた。
左脚が痛む。
踏ん張りが利かない。
相手はそれに気づき、足を狙う。
将軍は退かず、肩で体当たりした。
壁へ押しつけ、短剣を肋骨の下へ刺す。
男が崩れる。
仮面が外れた。
若い男。
剃髪している。
宦官に見せるためか。
だが喉仏がある。
予想どおり偽装だった。
残る二人のうち、一人が奥の通路へ逃げた。
もう一人は兵士に囲まれ、自分の喉を切った。
「追え!」
兵士が奥へ走る。
ニケフォロスは火を消す。
帳簿の半分は燃えた。
残ったものも端が焦げ、水と血で汚れている。
同行した書記官が拾い上げた。
「封印があります」
紫色の蝋。
紋章なし。
表紙に一語。
《紫帳》
ニケフォロスは開こうとした。
テオドラの命令を思い出す。
封を切るな。
だが封は火で半分溶けている。
少し触れれば開く。
中には、帝国の秘密がある。
ミハイル。
コンスタンティノス。
テオドラ。
父帝。
オルシャ。
誰が何に関わっている。
自分の東部軍への秘密補給。
それも帳簿にある。
知られたくない支払いもある。
三年前、国境の村を守るため、正式な許可なく敵部族へ金を払った。
その金は紫帳から出た。
帝国を救うためだった。
だが帳簿だけ見れば、敵への資金提供と記されているかもしれない。
皇帝候補を失脚させるには十分。
「将軍」
書記官が彼を見ている。
テオドラの目として。
ニケフォロスは帳簿から手を離した。
「封箱へ入れろ」
「確認しないのですか」
「命令だ」
「皇女殿下の?」
「私の」
奥から兵士が戻ってきた。
「逃亡者は地下水路へ。見失いました」
「出口は」
「海側へ通じている可能性があります」
ミハイルの兵が紫宮前へ到着した音がした。
角笛。
扉を叩く音。
「将軍!」
地上の兵士が叫ぶ。
「青宮兵が引き渡しを要求しています!」
ニケフォロスは残った帳簿を見た。
火。
血。
秘密。
この紙の束のために、すでに人が死んだ。
「すべて運べ」
「正面からは出られません」
「地下水路を使う」
「逃亡者と同じ道です」
「だから出口がある」
「どこへ」
ニケフォロスは答えた。
「大宮殿ではない」
書記官が警戒する。
「皇女殿下へ渡さないのですか」
「今渡せば、ミハイルが帳簿を奪うため宮殿を攻める」
「ではどこへ」
「総主教庁」
「コンスタンティノス皇子がいます!」
「だからだ。三者の誰も簡単には手を出せない」
「教会を信用するのですか」
「誰も信用していない」
ニケフォロスは帳簿を箱へ詰めた。
「だから全員が見える場所へ置く」
それは均衡を作る判断だった。
同時に、三つの勢力を一か所へ集める危険な判断でもある。
将軍は知っていた。
均衡とは平和ではない。
全員が、最初に手を動かせば損をすると理解している短い時間にすぎない。
その時間を作る。
いま必要なのは、それだった。
---
## 八
夕暮れ。
皇帝アレクシオス六世の遺体は、大宮殿の黄金広間へ安置された。
紫の衣。
黄金の冠。
手には帝国法典。
生前より皇帝らしく見えた。
死者は動かない。
失言もしない。
税を上げない。
軍を退却させない。
だから、死んだ皇帝は生きた皇帝より完全な象徴になる。
テオドラは棺の横に立っていた。
ミハイルは広間の反対側。
剣を帯びたまま。
コンスタンティノスは総主教とともに入った。
白い宗教衣。
三人の兄弟姉妹が、父の遺体を挟んで向き合う。
幼い頃、同じ食卓を囲んだ三人。
いまは、それぞれの背後に兵士、官僚、聖職者がいる。
「姉上は父上の死を隠した」
ミハイルが言った。
「宮殿の安全確保のためです」
「自分が権力を奪うためだ」
「あなたが兵を集める時間を減らすためでもありました」
「認めるのか」
「否定しても信じないでしょう」
コンスタンティノスが聖印を切る。
「父上の前です。争いはやめましょう」
ミハイルが弟を見る。
「総主教庁へ信徒を集めた者が言うのか」
「彼らは自発的に」
「自発的な群衆ほど便利な軍はない」
「兄上の兵は金で雇われています」
「国を守る兵だ」
「誰から」
テオドラが割って入った。
「父上の葬儀が終わるまで、三人とも皇帝を名乗らない」
「姉上は摂政を名乗った」
ミハイルが言う。
「帝国を動かす者が必要です」
「長男である私が」
「なら、なぜ倉庫を開けなかったのです」
「権限がなかった」
「私は作った」
「法を無視して」
「民衆は法を食べられない」
ミハイルの手が剣柄へ動く。
親衛隊も動く。
コンスタンティノスの護衛が身構える。
棺の前で、三つの軍が武器へ手をかける。
そのとき、広間の扉が開いた。
ニケフォロスが入ってきた。
泥と煤に汚れ、左腕に血がついている。
後ろに兵士たちが箱を運ぶ。
「紫帳を確保しました」
三人の表情が変わった。
ミハイルの変化が最も大きい。
驚き。
次に怒り。
テオドラはそれを見た。
「知っていたのですか」
彼女は尋ねた。
「何を」
「紫帳の場所を」
「知らなかった」
「兵を向かわせた」
「姉上の兵が先に入ったと聞いたからだ」
「なぜ急ぐ必要が」
「紫帳には帝国の秘密がある。誰か一人に持たせるべきではない」
もっともらしい。
嘘とも言い切れない。
ニケフォロスが箱を棺の前へ置いた。
「帳簿は総主教庁の地下宝物庫へ移します」
テオドラが言う。
「私の命令は大宮殿へ持ち帰ることでした」
「状況が変わりました」
「命令違反です」
「処罰は後で」
ミハイルが箱へ近づく。
「まず中を確認する」
ニケフォロスが前へ出た。
「誰も触れるな」
「将軍。誰に向かって」
「まだ皇帝ではない者へ」
広間が静まった。
ミハイルの顔が赤くなる。
「私には軍がある」
「私にもある」
「脅すのか」
「数を説明しただけです」
コンスタンティノスが言った。
「帳簿は教会が預かります。中立の立場として」
テオドラが弟を見る。
「教会が中立だったことはありますか」
「神の前では」
「地上の話をしています」
ニケフォロスは箱の上へ手を置いた。
「三者の代表を一人ずつ出す。総主教庁で同時に開封する。写本を三部作る。原本は封印」
「軍の代表も必要だ」
ミハイルが言う。
「将軍がいる」
テオドラは答えた。
「彼は姉上の兵を率いて紫宮へ入った」
「私は誰のものでもない」
ニケフォロスが言う。
「それが最も危険だ」
ミハイルが吐き捨てた。
「同意します」
テオドラは言った。
将軍が彼女を見る。
「だが、いまは必要です」
コンスタンティノスが父の棺へ目を向けた。
「葬儀は三日後。開封はその後に」
「遅い」
テオドラは言った。
「オルシャ事件への関与があるなら、証拠が消される」
「父上の喪に服す時間すら取れないのですか」
「陰謀を企てた者は喪に服してくれない」
三人は互いを見た。
誰も相手を信用していない。
だが、誰か一人が帳簿を持つことも許せない。
結果として、共同開封に同意するしかない。
「明朝」
テオドラが言った。
「総主教庁で開封する」
「葬儀前だぞ」
ミハイルが反発する。
「父上の署名が偽造された可能性がある」
「何だと」
「オルシャ事件前の命令書です」
彼女は偽造と思われる書面を弟たちへ見せた。
ミハイルが読む。
コンスタンティノスも。
二人とも表情を隠そうとする。
テオドラは観察した。
ミハイルは《オルシャ》という文字より、《紫帳》の記号へ反応した。
コンスタンティノスは《聖地管理権再編》の部分で目を止めた。
それぞれ何かを知っている。
どこまでかは分からない。
「明朝です」
テオドラは繰り返した。
「異論がある者は」
広間の外から、群衆の声が聞こえた。
「パンを!」
「配給を続けろ!」
「皇帝を決めろ!」
「戦争をするな!」
異なる要求が一つの轟音になっている。
テオドラは窓へ歩いた。
広場では、配給を受けた人々が家へ戻り始めていた。
袋を抱える者。
パンを掲げる者。
受け取れずに残る者。
その中に、父を失った若いパン職人がいることを、彼女は知らない。
アンドロニコスも、窓に立つ皇女が父を失ったばかりだとは知らない。
二人の父は同じ朝に死んだ。
一人は黄金の広間へ安置される。
一人は小麦粉にまみれた工房に残される。
死の重さは同じではない。
少なくとも、この世界では。
だが、二人の子が背負う喪失まで違うと、誰が量れるだろう。
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## 九
夜。
アンドロニコスは父を埋葬するため、工房から教会へ運んだ。
棺を買う金はなく、近所の大工が古い板で作ってくれた。
運ぶのを手伝ったのは、朝に工房へ押し入った男たちだった。
先頭にいた港湾労働者が、目を合わせずに言った。
「悪かった」
アンドロニコスは何についてか尋ねなかった。
押し入ったこと。
父の遺体の前で怒鳴ったこと。
パンを奪おうとしたこと。
空腹だったこと。
謝る側にも、受け入れる側にも、どこから始めればよいか分からない。
「手伝ってくれればいい」
彼は答えた。
教会へ向かう道で、皇帝の葬列準備とすれ違った。
黄金の布。
香炉。
兵士。
聖歌隊。
皇帝の遺体はまだ宮殿にある。
これは装飾品を運ぶ列だった。
父の棺を担ぐ者たちは道の端へ寄せられた。
皇帝の棺が通る道を整えるため。
港湾労働者が吐き捨てる。
「死んでも道を取るのか」
アンドロニコスは何も言わなかった。
皇帝を憎んでいたわけではない。
顔も知らない。
皇帝が死んだためにパンが増えたわけでも、減ったわけでもない。
テオドラという皇女が倉庫を開いた。
それは覚えている。
明日から、工房でパンを焼く。
人々へ配る。
役人へ納める。
父を埋葬した翌日も窯へ火を入れる。
それが生活だった。
教会の墓地に着く。
司祭が短い祈りを唱えた。
長い祈りには追加の献金が必要だった。
棺を穴へ下ろす。
エレニが泣く。
アンドロニコスは土を一握り、棺へ落とした。
「父さん」
何か言おうとした。
感謝。
謝罪。
怒り。
どれも正しくない。
「明日も焼くよ」
それだけを言った。
父なら理解すると思った。
帰り道、帝都の夜空に紫宮の火が見えた。
すでに消えかかっている。
人々は、皇位争いの火だと噂した。
異端者が燃やしたとも。
皇女が秘密文書を焼いたとも。
ミハイル皇子が父帝の遺言を奪ったとも。
真実を知る者は少ない。
だが真実を知らなくても、噂は人を動かす。
アンドロニコスは妹と手をつないだ。
「兄さん」
「何だ」
「誰が皇帝になるの」
「知らない」
「皇女様?」
「さあ」
「女でもなれるの」
「パンを出せるなら、男でも女でもいい」
妹が少し笑った。
アンドロニコスも笑った。
その程度の希望しか持てなかった。
だが、希望は大きさではなく、翌日まで持つかどうかが重要だった。
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## 十
深夜、総主教庁の地下宝物庫へ紫帳が運び込まれた。
三重の扉。
七つの鍵。
総主教の印。
皇女の印。
ミハイル皇子の印。
コンスタンティノス皇子の印。
ニケフォロス将軍の軍印。
一つの箱へ、五つの権力が封をした。
誰か一人では開けられない。
それでもニケフォロスは安心しなかった。
紫宮から逃げた仮面の男。
地下水路の出口。
帳簿を焼こうとした者。
まだ帝都のどこかにいる。
総主教庁を出ると、テオドラが待っていた。
護衛は二人だけ。
「将軍」
「殿下」
「なぜ総主教庁へ」
「説明したとおりです」
「帳簿を一人に持たせないため」
「はい」
「自分も含めて?」
ニケフォロスは彼女を見た。
「特に自分を含めて」
「自制心を信用していないのですか」
「権力を持った人間が自分を信用するのは危険です」
「皇帝に向いていますね」
「皮肉ですか」
「半分は」
二人は石段を下りた。
帝都は眠っていない。
遠くで暴動の声。
別の場所では祈り。
倉庫では夜通し配給準備。
宮殿では皇子たちが兵を配置している。
「父上は、私に帝国を残せと言いました」
テオドラが言った。
ニケフォロスは黙って聞く。
「皇位を継げとは言わなかった」
「同じ意味かもしれません」
「あなたもそう言いました」
「ほかの意味もあります」
「例えば」
「誰かを皇帝にし、自分は制度を残す」
「弟のどちらかを?」
「あるいは、皇帝を弱くして帝国を残す」
テオドラが足を止めた。
「皇帝を弱く」
「強い皇帝が常に帝国を強くするとは限らない。愚かな皇帝が強すぎれば、帝国全体が愚かになる」
「軍人が言うとは意外です」
「軍も同じです。一人の将軍がすべてを決めれば、彼が間違えた日に全軍が死ぬ」
「では、何が必要です」
「間違いを止める者」
テオドラは夜の帝都を見た。
父の時代、皇帝を止められる者は少なかった。
そのため決断は速かった。
同時に、誤りも帝国全体へ広がった。
彼女が皇帝になれば、同じ誘惑が来る。
自分なら正しく使える。
自分は父や弟とは違う。
そう信じる誘惑。
「将軍」
「はい」
「私が皇帝になったら、止められますか」
「必要なら」
「殺してでも?」
ニケフォロスはすぐには答えなかった。
「帝国を残すためなら」
「忠誠心があるのかないのか分かりませんね」
「忠誠とは、命令をすべて聞くことではない」
「父上も似たことを言いました」
「私は皇帝陛下から学びました」
二人は再び歩いた。
総主教庁の塔に、七つの灯火が見える。
明朝、帳簿を開く。
そこには、オルシャ事件の背後にいる者の名があるかもしれない。
父帝の名があるかもしれない。
弟たち。
総主教。
将軍。
テオドラ自身の知らないところで、彼女の名が使われている可能性もある。
真実は、正義をもたらすとは限らない。
国家を壊すこともある。
「帳簿に父上の命令があったら」
テオドラは尋ねた。
「どうします」
「本物なら、公表すべきです」
「皇帝の名誉が傷つく」
「死者の名誉と、生きている者の命。どちらを守ります」
「簡単に言いますね」
「簡単ではありません」
ニケフォロスの声は低かった。
「だから、誰かが選ばなければならない」
テオドラは父の棺を思った。
明日になれば、父は皇帝として讃えられる。
偉大な治世。
帝国の守護者。
正統信仰の盾。
その裏で、父が聖地の陰謀に関わっていたなら。
隠せば帝国の権威は守られる。
公表すれば真実は守られる。
どちらが帝国を残すのか。
分からない。
「私は王冠が欲しいのかもしれません」
テオドラは言った。
自分でも、なぜ将軍へ話したのか分からなかった。
「必要だからではなく」
ニケフォロスは驚かなかった。
「欲しくない者は、皇帝になるべきではないと考える者もいます」
「なぜ」
「欲望のない者は、何も守れないから」
「欲望のある者は、すべてを自分のものにする」
「だから、止める者が必要です」
テオドラは少し笑った。
「都合のいい答えです」
「政治とは、都合の悪い現実へ、少しましな答えを置く仕事でしょう」
夜風が吹く。
パンを焼く匂いがした。
倉庫から配られた粉を使い、帝都中の窯が動き始めている。
明日の朝、市民はパンを手にする。
少なくとも一日。
その次の日も配れるかもしれない。
六十二日後は分からない。
だが国家とは、永遠を約束するものではない。
明日を作り、その明日の中で次の日を作るものなのかもしれない。
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同じ夜。
総主教庁の地下水路では、一人の男が石格子の前に立っていた。
紫宮から逃げた仮面の男。
右肩に傷を負い、血が衣を濡らしている。
彼は懐から小さな紙片を取り出した。
焼却前に帳簿から切り取った一頁。
そこには、複数の支払い記録があった。
《オルシャ鍵守一族排除費》
《ナフル穀物船焼却費》
《聖冠派巡礼団扇動費》
《七燭派民兵への武器供与》
《啓句派市場警備兵買収》
そして、支払承認者の欄。
名前ではなく、記号。
《紫帳》
その下に、もう一つ。
《灰の鍵》
男は紙片を蝋布へ包み、小さな金属筒へ入れた。
水路の格子の向こうに、待っている者がいた。
顔は見えない。
「帳簿は」
格子の向こうから声がした。
「半分焼いた。残りは将軍が確保した」
「失敗だ」
「この頁がある」
男は筒を差し出した。
向こうの手が受け取る。
「皇帝は死んだ」
「予定どおりだ」
「殺したのか」
「病人が死ぬことまで、我々の手柄にするな」
「次は」
格子の向こうの人物は答えた。
「三人に帳簿を読ませる」
「我々の名が出る」
「だからよい」
男は理解できなかった。
「争わせるのか」
「真実は、嘘より人を争わせることがある」
「帳簿が偽物だと?」
「本物だ」
「なら」
「本物だからこそ、誰も受け入れられない」
格子の向こうの人物は去った。
足音が遠ざかる。
傷ついた男は一人、水路に残された。
明朝、アウレリア帝国の三人の後継者は紫帳を開く。
彼らは陰謀の証拠を探す。
そして見つけるだろう。
自分たちが知りたくなかった事実を。
父帝が秘密の支払いを許可していたこと。
軍が敵へ金を流していたこと。
教会が宗派扇動へ資金を出していたこと。
皇子たちの側近が穀物価格へ賭けていたこと。
皇女の名で、彼女の知らない命令が出されていたこと。
すべてが本物だった。
だが、すべてが同じ目的で行われたわけではない。
必要な賄賂。
秘密外交。
腐敗。
横領。
戦争準備。
善意。
裏切り。
それらを一冊の帳簿へ並べれば、区別は消える。
数字には動機が書かれていない。
読む者が動機を補う。
そして人は、自分の恐れている物語を選ぶ。
帝国の夜空に、七燭派の祈りの鐘が鳴った。
皇帝の死を悼む鐘。
新しい時代を告げる鐘。
遠いオルシャで十三度鳴った鐘とは違う。
だが、その響きは同じ道を進んでいた。
信仰。
穀物。
銀貨。
王冠。
それらを結ぶ見えない糸が、蒼環海を越えて締まり始めている。
灰暦八百七十二年、春。
アウレリア東方帝国は、一人の皇帝を失った。
その日のうちに、皇女は摂政を名乗り、皇子は軍を集め、将軍は秘密帳簿を奪い、パン職人は父を埋葬した。
後世の年代記は、この日を「紫の空位」と記す。
だが帝都の民衆は、もっと単純な名で覚えた。
**パンがなくなり、皇帝が死んだ日。**
そして翌朝、紫帳が開かれる。
その頁に記された最初の名が、帝国を三つに裂くことになる。