灰冠と香路の年代記   作:MOZIO

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第三章 紫の都にパンはない

アウレリア東方帝国の首都コンスタリオンには、七つの丘と十三の門、四百を超える聖堂があるといわれていた。

 

人口については、数える者によって数字が違った。

 

宮廷官僚は五十万と記した。

 

徴税官は三十二万と報告した。

 

穀物長官は四十万の口を養っていると主張した。

 

異国の商人は、世界中の人間がこの都へ集まっていると大げさに語った。

 

実際のところ、誰にも分からなかった。

 

皇帝の臣民。

 

地方から逃げ込んだ農民。

 

商人。

 

船乗り。

 

職人。

 

奴隷。

 

巡礼者。

 

傭兵。

 

異端者。

 

犯罪者。

 

そして、記録に名前を持たない無数の者たち。

 

コンスタリオンは、数え切れない人間を巨大な城壁の内側へ飲み込み、毎日、途方もない量の水と薪と小麦を消費していた。

 

その都では、皇帝の名よりもパンの価格を知らない者の方が少なかった。

 

灰暦八百七十二年、春。

 

一斤のパンは、十日前の二倍になっていた。

 

---

 

## 一

 

皇女テオドラ・ラスカリナは、夜明け前の大宮殿を歩いていた。

 

紫色の大理石を敷いた回廊には、まだ灯火が残っている。

 

宮廷では、皇帝の眠りを妨げないよう、夜明けの鐘を弱く鳴らす決まりだった。

 

だがこの三日間、老皇帝は眠っているのか、意識を失っているのか、医師にも判断できなかった。

 

皇帝アレクシオス六世。

 

アウレリア東方帝国の第百十三代皇帝。

 

テオドラの父。

 

七十年近い生涯のうち、四十一年を帝位にあった。

 

彼の治世には、東方国境で三度の大戦があり、二度の宮廷反乱があり、疫病があり、大地震があり、銀貨の改鋳があり、異端論争があった。

 

帝国は領土を失った。

 

都市も失った。

 

それでも双門海峡とコンスタリオンは守られた。

 

だから宮廷年代記には、父は「帝国を保った賢帝」と記されるだろう。

 

農民にとっては、税を増やした皇帝。

 

兵士にとっては、給金を遅らせた皇帝。

 

商人にとっては、関税を三度変更した皇帝。

 

教会にとっては、異端派を弾圧しながら、必要なときには赦免した皇帝。

 

歴史に記される一人の皇帝は、生きている間、無数の異なる人間だった。

 

寝室の前には、皇帝親衛隊が並んでいた。

 

黄金の鷲を胸甲に刻んだ兵士たち。

 

隊長がテオドラへ礼をする。

 

「容体は」

 

「変わりません」

 

「医師は」

 

「中におります」

 

テオドラは扉へ手をかけた。

 

隊長が一瞬ためらう。

 

「皇女殿下」

 

「何です」

 

「皇子殿下方が、深夜にお見えになりました」

 

「どちらが」

 

「お二人とも」

 

テオドラには弟が二人いた。

 

長弟ミハイル。

 

次弟コンスタンティノス。

 

どちらも皇帝位を欲している。

 

どちらも、欲していないふりをする程度には政治を知っていた。

 

「父上と話したのですか」

 

「医師は許可しませんでした」

 

「弟たちは今どこに」

 

「ミハイル皇子は青宮へ。コンスタンティノス皇子は総主教庁へ向かったとのことです」

 

一人は軍人貴族の館へ。

 

一人は教会へ。

 

父の息が止まる前から、それぞれの支持者を集めている。

 

テオドラは扉を開けた。

 

寝室には薬草と蝋燭、汗、老人の身体から発する甘い腐敗臭がこもっていた。

 

父は巨大な寝台の中央に横たわっていた。

 

かつて広かった肩は細くなり、肌は羊皮紙のように乾いている。

 

白い髭。

 

落ちくぼんだ目。

 

胸がゆっくり上下していた。

 

宮廷医師が四人。

 

七燭派教会の司祭が二人。

 

皇帝付きの宦官長が一人。

 

全員が父ではなく、父の呼吸を見ていた。

 

呼吸が止まった瞬間、帝国の法と権力が動き始める。

 

「下がってください」

 

テオドラは言った。

 

医師の一人が口を開く。

 

「殿下、皇帝陛下の容体は――」

 

「聞こえませんでしたか」

 

宦官長が医師たちへ目配せした。

 

全員が退室する。

 

司祭だけが残ろうとした。

 

「最期の祈りを――」

 

「最期だと決まったのですか」

 

司祭は黙り、礼をして出ていった。

 

扉が閉まる。

 

テオドラは寝台の横へ座った。

 

父の手を取る。

 

冷たい。

 

幼い頃、この手は巨大に見えた。

 

父は公務に追われ、子供たちと過ごすことが少なかった。

 

それでもテオドラが八歳のとき、帝都で暴動が起き、宮殿の外から群衆の叫びが聞こえた夜、父は彼女の部屋へ来た。

 

怖いか、と尋ねた。

 

テオドラは怖くないと答えた。

 

父は笑った。

 

皇帝になる者は怖くない人間ではない。

 

怖くても、怖がっている姿を最後まで見せない人間だ。

 

そう言った。

 

当時、父は娘が皇帝になるとは考えていなかったはずだ。

 

帝国法では、女性の即位は禁止されていない。

 

だが宮廷も教会も軍も、男の皇帝を望む。

 

女性が帝位についた例はある。

 

いずれも内戦と陰謀にまみれ、年代記では欲深い女、残酷な母、男を惑わす毒婦として描かれた。

 

同じことを男の皇帝が行えば、果断、冷徹、政治的必要と記される。

 

「父上」

 

テオドラは呼びかけた。

 

瞼が動いた。

 

「テオ……ドラか」

 

声は息より弱かった。

 

「はい」

 

「朝か」

 

「もうすぐです」

 

皇帝の目がわずかに開いた。

 

焦点が合わない。

 

「パンは」

 

テオドラは一瞬、意味が分からなかった。

 

「何ですか」

 

「都のパンは……あるか」

 

父が最後に意識を取り戻した二日前、穀物長官から報告を受けていた。

 

オルシャ港の火災。

 

ナフル産小麦の輸入停止。

 

黒海北岸から来る穀物船の遅延。

 

市場価格の上昇。

 

配給所の混乱。

 

父は病床にありながら、最初にパンのことを尋ねた。

 

「あります」

 

テオドラは答えた。

 

「倉庫には三か月分の備蓄があります」

 

嘘だった。

 

帳簿上は三か月。

 

実際には一か月半。

 

しかも一部はすでに軍と商人への支払い担保となっている。

 

「嘘をつくな」

 

皇帝は目を閉じたまま言った。

 

テオドラの指が動いた。

 

「聞いておられたのですか」

 

「都の匂いで……分かる」

 

「匂い?」

 

「パンが減ると、都は静かになる」

 

皇帝は何度か浅く息をした。

 

「飢えた者は……最初に口数が減る。次に、声が大きくなる」

 

「対策を取ります」

 

「誰から奪う」

 

「奪いません」

 

「帝国が……何かを与えるとき、必ず誰かから奪っている」

 

父の言葉は途切れ途切れだった。

 

それでも意味は明瞭だった。

 

「軍から減らせば、国境が崩れる。農村から取れば、来年が消える。商人から取れば、船が来なくなる。教会から取れば……神が怒ると皆が言う」

 

皇帝はわずかに笑った。

 

「神が本当に怒るかは知らん。だが司教は必ず怒る」

 

テオドラも笑いそうになった。

 

喉が詰まり、笑えなかった。

 

「ミハイルとコンスタンティノスが来ました」

 

彼女は言った。

 

「知っている」

 

「どちらを後継者に」

 

皇帝の呼吸が止まったように見えた。

 

テオドラは身を寄せる。

 

やがて、かすかな声。

 

「帝国は……人間ではない」

 

「父上」

 

「誰か一人が……継ぐものではない」

 

「それでは内戦になります」

 

「なるだろう」

 

あまりにも静かな答えだった。

 

テオドラの中に怒りが湧いた。

 

「分かっていて、後継者を定めないのですか」

 

「定めれば……定めなかった方が反乱する」

 

「少なくとも正統性は生まれます」

 

「正統性は……勝った者が後で作る」

 

父は目を開いた。

 

今度は、はっきりとテオドラを見た。

 

「お前がやれ」

 

「何を」

 

「帝国を……残せ」

 

「私に皇位を求めろと?」

 

「皇位など……椅子だ」

 

「その椅子のために何万人も死にます」

 

「だから、お前が座れ」

 

テオドラは息を止めた。

 

「弟たちではなく?」

 

「ミハイルは軍を愛しすぎる。コンスタンティノスは神を愛している自分を愛しすぎる」

 

「私は」

 

「お前は帝国を愛していない」

 

テオドラは父を見た。

 

その言葉は侮辱にも、称賛にも聞こえた。

 

「だから……残せる」

 

皇帝は言った。

 

「愛する者は、変えることができない」

 

「私は帝国を愛しています」

 

「なら……愛するな」

 

父の指が、彼女の手から滑った。

 

胸が一度、大きく上下した。

 

そのあと、動かなかった。

 

テオドラはしばらく呼ばなかった。

 

医師も。

 

司祭も。

 

誰も。

 

父の手を握り、夜明け前の静けさの中に座っていた。

 

皇帝が死んだ。

 

父が死んだ。

 

二つの事実は同じ瞬間に起きた。

 

だが、テオドラの中では別々だった。

 

父の死を悲しむ時間はない。

 

皇帝の死を隠す時間を決めなければならない。

 

彼女は手を離し、立ち上がった。

 

扉を開ける。

 

外で待っていた宦官長と親衛隊長が顔を上げた。

 

テオドラは言った。

 

「皇帝陛下は眠っておられる」

 

宦官長の目が揺れた。

 

「殿下」

 

「正午まで、誰も入れるな」

 

「しかし医師が」

 

「医師は皇帝陛下の命により、感染症の疑いがあるとして隔離された」

 

「そのような命令は」

 

テオドラは宦官長を見た。

 

「今、受けた」

 

男は理解した。

 

皇帝の死を隠す。

 

数時間だけ。

 

その数時間で、親衛隊、城門、宝物庫、文書局、穀物倉庫を押さえる。

 

弟たちより先に。

 

「親衛隊長」

 

「はい」

 

「大宮殿の門を閉じなさい。理由は皇帝陛下の療養。出入りは私の印章がある者だけ」

 

「皇子殿下方は」

 

「入れるな」

 

「命令に従わない場合は」

 

「武器を取り上げて客室へ案内しなさい」

 

親衛隊長の顔が強張る。

 

「皇族を拘束するのですか」

 

「客として迎えると言ったのです」

 

「抵抗なさった場合は」

 

「客として扱えないでしょう」

 

テオドラは回廊を歩き始めた。

 

「宦官長。宮廷書記局長、財務長官、穀物長官、海軍提督、コンスタリオン総主教を紫会議室へ」

 

「軍人貴族の代表は」

 

「呼ばない」

 

「東部軍管区司令官ニケフォロス・ドゥーカス将軍が、すでに帝都へ向かっているとの報告があります」

 

テオドラの足が止まった。

 

「誰が呼んだ」

 

「ミハイル皇子ではないかと」

 

ニケフォロス。

 

東部国境を守る将軍。

 

兵士からの信頼が厚く、軍人貴族から皇帝候補として期待されている。

 

父へ忠誠を誓っていた。

 

テオドラ個人にも敬意を示していた。

 

だが、敬意と服従は違う。

 

「どこまで来ている」

 

「帝都まで三日ほど」

 

「軍を伴っているのですか」

 

「親衛騎兵五百。それ以外は国境へ残したと」

 

五百。

 

帝都を征服するには少ない。

 

宮廷を奪うには十分。

 

「迎えを出します」

 

テオドラは言った。

 

「誰を」

 

「私の印章を持たせた者を。将軍へ伝えなさい。皇帝陛下は重篤。帝都へ入る兵は五十騎まで。残りは城壁外へ宿営せよ」

 

「従わなければ」

 

「そのとき、彼が何者として来たのか分かります」

 

回廊の窓から、夜明けの光が差し込んだ。

 

帝都の屋根が紫色に染まる。

 

皇帝が死んだ朝も、太陽はいつもと同じように昇った。

 

---

 

## 二

 

パン職人アンドロニコス・パレオスは、父の手を小麦粉の中に埋めた。

 

冷たくなった手だった。

 

工房の作業台には、捏ねかけの生地が残っている。

 

父は夜明け前、窯へ薪を入れたあとで倒れた。

 

胸を押さえ、何か言おうとして、床へ崩れた。

 

医師を呼ぶ金はなかった。

 

近所の施療師が来たときには、すでに息をしていなかった。

 

「疲れだろう」

 

施療師は言った。

 

「最近、寝ていなかったから」

 

寝ていなかったのではない。

 

眠れなかったのだ。

 

国営穀物倉庫から届く小麦が減り、代わりに混ぜ物の多い粉が来るようになった。

 

それでも役所から指定された数のパンを焼かなければならない。

 

重さが足りなければ罰金。

 

数が足りなければ営業停止。

 

市場で小麦を買えば、国の指定価格では赤字になる。

 

父は粉の量を何度も計り直し、水を増やし、豆粉を混ぜた。

 

パンは膨らまない。

 

客は怒る。

 

役人も怒る。

 

父は、もっと怒った。

 

自分に。

 

「パン屋がパンを作れないなら、何のために生きている」

 

昨夜、父はそう言った。

 

その答えを聞く前に死んだ。

 

アンドロニコスは父の指から小麦粉を払った。

 

母は数年前に亡くなっている。

 

姉は郊外の染色工へ嫁いだ。

 

工房を継ぐのは自分だった。

 

二十歳。

 

一人で国営配給所へ納める二百斤のパンを焼かなければならない。

 

父の葬儀代も必要だった。

 

だが手元にある粉では、百二十斤分しか作れない。

 

作業場の入口で、妹のエレニが泣いていた。

 

十四歳。

 

「兄さん」

 

「水を沸かしてくれ」

 

「お父さんは」

 

「教会へ運ぶ」

 

「今日、パンを焼くの」

 

「焼く」

 

エレニは父の遺体を見た。

 

「休んではいけないの」

 

「休めば役人が来る」

 

「お父さんが死んだと言えば」

 

「役人はパンを食べないのか」

 

妹は泣きながら水桶へ向かった。

 

アンドロニコスは生地を捏ねた。

 

父の死体が横にある。

 

それでも手を止められない。

 

パンは生きている者のために必要だ。

 

そのため、死者は後回しになる。

 

工房の外では、配給所へ並ぶ人々の声が聞こえ始めていた。

 

この地区のパン屋は三軒。

 

一軒は昨日、粉が尽きて閉じた。

 

もう一軒は夜中に窓を破られ、主人が怪我をした。

 

今日、開くのはパレオス家だけだった。

 

皆が知っている。

 

扉を開ければ百人以上が押し寄せる。

 

パンは足りない。

 

必ず争いになる。

 

窯へ生地を入れていると、役人が来た。

 

赤い縁取りの黒衣。

 

穀物局の下級監督官。

 

後ろに兵士二人。

 

「パレオス」

 

役人は帳板を開いた。

 

「本日の納入数は二百斤」

 

「粉が届いていません」

 

「昨日、百五十袋を配給した」

 

「百二十斤分しかありませんでした」

 

「帳簿には百五十斤」

 

「袋に石粉が混じっていました」

 

役人の顔が険しくなる。

 

「国営倉庫の粉を侮辱するのか」

 

「見れば分かります」

 

アンドロニコスは粉袋を開いた。

 

底に灰色の粒が溜まっている。

 

役人は一瞥した。

 

「水を増やせ」

 

「重くするだけです。焼けば中が空洞になる」

 

「指定重量を満たせばよい」

 

「人が食べるものです」

 

「人は重さで受け取る」

 

「役所はそうでしょう」

 

兵士が一歩前へ出た。

 

役人は手で止める。

 

「父親はどうした」

 

「死にました」

 

「いつ」

 

「今朝」

 

役人は作業台の遺体を見た。

 

わずかに顔をしかめる。

 

「それは気の毒だ」

 

声には本当に同情があった。

 

だが帳板を閉じなかった。

 

「納入義務は工房にある。主人が死んでも消えない」

 

「分かっています」

 

「正午までに二百斤」

 

「できません」

 

「不足一斤につき銀貨一枚の罰金」

 

「払えません」

 

「なら工房と窯を接収する」

 

アンドロニコスは両手を作業台についた。

 

小麦粉が舞う。

 

「役人殿」

 

「何だ」

 

「百二十斤の粉から、二百斤のパンを作る方法を教えてください」

 

「水を入れろと言った」

 

「では、あなたが食べてください」

 

兵士の一人が剣柄へ手を伸ばした。

 

役人の顔から同情が消えた。

 

「言葉に気をつけろ。都が危機にあるとき、皆が犠牲を払っている」

 

「父は払いました」

 

「お前だけではない」

 

「だから、誰も文句を言うなと?」

 

役人はしばらく黙った。

 

彼も疲れていた。

 

目の下に隈がある。

 

役所では、パン屋と市民から毎日怒鳴られているのだろう。

 

自分で小麦を減らしたわけではない。

 

それでも命令を伝える者は、命令そのものの顔になる。

 

「正午に来る」

 

役人は言った。

 

「百八十斤あれば、不足分は報告しない」

 

譲歩だった。

 

規則違反でもある。

 

「百二十しか作れません」

 

「工夫しろ」

 

「石を食わせろと」

 

「生き残りたいなら、皆が何かを飲み込む」

 

役人は兵士とともに去った。

 

アンドロニコスは父の顔を見た。

 

「どうしろっていうんだ」

 

父は答えない。

 

妹が水を運んできた。

 

「兄さん」

 

「少しずつ入れろ」

 

「石粉も?」

 

アンドロニコスは拳を握った。

 

「石は除く」

 

「でも百八十にならない」

 

「分かっている」

 

「窯を取られるの」

 

「取らせない」

 

どうやって。

 

答えはなかった。

 

工房の裏手に、小さな袋が一つ隠してある。

 

父が冬のために蓄えていた上等な小麦粉。

 

家族だけなら二週間は食べられる。

 

それを使えば、百六十斤までは作れる。

 

残り二十。

 

妹の食糧。

 

父の葬儀。

 

工房の存続。

 

並ぶ人々。

 

何を優先しても、別の誰かを裏切る。

 

アンドロニコスは裏の袋を持ってきた。

 

エレニが目を見開く。

 

「それ、お父さんが使うなって」

 

「父さんは死んだ」

 

言ってから、自分の声に傷ついた。

 

妹は泣いた。

 

「言い方があるでしょう」

 

「ごめん」

 

謝っても、言葉は戻らない。

 

二人は粉を混ぜた。

 

パンを焼いた。

 

正午前、工房の扉を開ける。

 

通りを埋めるほどの人がいた。

 

百人。

 

二百人。

 

誰もが銅貨か配給札を握っている。

 

「一人一斤!」

 

アンドロニコスは叫んだ。

 

「家族の人数に関係なく、一人一斤だ!」

 

「子供が四人いる!」

 

「病人がいるんだ!」

 

「昨日も買えなかった!」

 

声が重なる。

 

「一列に並んでくれ!」

 

誰も聞かない。

 

父が生きていた頃は、近所の者が列を作るよう手伝ってくれた。

 

今日は彼らも客だった。

 

押し合いが始まる。

 

エレニが配給札を受け取り、アンドロニコスがパンを渡す。

 

焼き上がった数は百六十四。

 

一つずつ減っていく。

 

列はほとんど短くならない。

 

五十。

 

百。

 

残り二十。

 

前にいた老人がパンを受け取る。

 

次は子供を抱いた女。

 

その後ろに港湾労働者。

 

残り十。

 

人々が棚を見る。

 

足りないことに気づく。

 

押す力が強くなる。

 

「まだあるだろう!」

 

「奥へ隠している!」

 

「昨日の分を出せ!」

 

「これで全部だ!」

 

アンドロニコスは叫んだ。

 

残り五。

 

兵士の妻が一つ受け取る。

 

残り四。

 

靴職人の弟子。

 

残り三。

 

七燭派の老司祭。

 

残り二。

 

工房前に、幼い姉弟がいた。

 

姉は十歳ほど。

 

弟は五歳。

 

配給札は一枚。

 

「一枚で一つだ」

 

アンドロニコスは言った。

 

姉が弟を見る。

 

「この子に」

 

パンを一つ渡す。

 

残り一。

 

姉の目がパンを追った。

 

自分の分はない。

 

アンドロニコスは最後の一つを手に取った。

 

後ろから無数の手が伸びる。

 

誰へ渡す。

 

姉か。

 

次に並ぶ妊婦か。

 

杖をついた老人か。

 

三日前から食べていないと叫ぶ男か。

 

「終わりだ!」

 

アンドロニコスは最後のパンを姉へ押しつけた。

 

戸を閉めようとする。

 

外から腕が入った。

 

「待て!」

 

「まだある!」

 

「子供だけ特別か!」

 

戸が押し返される。

 

エレニが悲鳴を上げた。

 

アンドロニコスは体をぶつけて閉じようとした。

 

木の蝶番が軋む。

 

誰かが石を投げた。

 

窓が割れた。

 

群衆の一部が裏口へ回る。

 

「倉庫を見ろ!」

 

「粉を隠している!」

 

隠していない。

 

もうない。

 

だが、空腹の人間に証明する方法はない。

 

「エレニ、二階へ行け!」

 

「兄さんは」

 

「行け!」

 

裏口が破られた。

 

男たちが入ってくる。

 

作業台。

 

空の粉袋。

 

父の遺体。

 

先頭の男が立ち止まった。

 

「死んでいる」

 

その一言で、後ろの者も動きを止めた。

 

父の死体が、パン屋の言葉より真実を伝えた。

 

隠していない。

 

この家も同じように失っている。

 

一瞬、群衆の怒りが萎んだ。

 

そのとき、通りで角笛が鳴った。

 

帝都守備隊。

 

兵士たちが盾を並べて突入してくる。

 

「散れ!」

 

人々が逃げ始める。

 

遅れた者が殴られる。

 

アンドロニコスは両手を上げた。

 

「待ってくれ! ここは工房だ!」

 

兵士は聞かなかった。

 

盾で胸を打たれ、床へ倒れる。

 

父の遺体の横。

 

視界が揺れる。

 

エレニの叫び。

 

誰かが兵士へ鍋を投げた。

 

剣が抜かれる音。

 

アンドロニコスは起き上がり、妹を探した。

 

通りから、さらに大きな声が聞こえた。

 

「皇帝が死んだ!」

 

誰かが叫んでいた。

 

「皇帝陛下が崩御された!」

 

兵士たちの動きが止まった。

 

噂か。

 

事実か。

 

誰にも分からない。

 

だが、群衆は反応した。

 

「嘘だ!」

 

「皇女が隠している!」

 

「ミハイル皇子が即位する!」

 

「総主教がコンスタンティノスを選んだ!」

 

「軍が都へ来るぞ!」

 

一つの知らせが、瞬時に十の物語へ変わる。

 

人々はパン屋を忘れた。

 

通りへ流れ出す。

 

皇帝が死んだ。

 

次の皇帝が決まっていない。

 

パンがない。

 

軍が来る。

 

宮殿が穀物を隠している。

 

これらの事実と噂が混ざり合い、巨大な恐怖となって帝都を走り始めた。

 

アンドロニコスは父の遺体へ覆いをかけた。

 

妹を抱き寄せる。

 

「兄さん」

 

「大丈夫だ」

 

「何が」

 

答えられなかった。

 

窓の外で、人々が宮殿の方角へ走っていた。

 

---

 

## 三

 

ニケフォロス・ドゥーカスは、帝都から三日の街道上で皇帝崩御の報を受けた。

 

使者は馬から落ちるように降りた。

 

紫の縁取りを持つ皇帝直属の伝令服。

 

だが携えていたのは皇帝印ではなく、皇女テオドラの印章だった。

 

「皇帝陛下は」

 

ニケフォロスが尋ねる。

 

使者は周囲を見た。

 

将軍の親衛騎兵五百。

 

誰もが耳を澄ませている。

 

「崩御されました」

 

静かな言葉だった。

 

それでも、兵士の列を風のように走った。

 

何人かが聖印を切る。

 

年老いた騎兵が涙を拭った。

 

皇帝の顔を見たことのない兵士もいる。

 

それでも、彼らは皇帝の名で給金を受け取り、皇帝の名で敵を殺し、皇帝の名で死ぬよう命じられてきた。

 

その名が消えた。

 

次に誰の名を叫ぶべきか、まだ決まっていない。

 

「いつ」

 

「本日夜明け前」

 

「発表は」

 

「正午」

 

「なぜ遅らせた」

 

「皇女殿下が宮殿と穀物倉庫の安全確保を優先されました」

 

ニケフォロスは使者を見た。

 

「皇子たちは」

 

「ミハイル皇子は青宮にて支持者を集めています。コンスタンティノス皇子は総主教庁におります」

 

「皇女は」

 

「大宮殿」

 

当然だった。

 

最初に宮殿を押さえた者が、皇帝の遺体と王冠、国璽、宝物庫、官僚機構を持つ。

 

だが軍を持つ者が最後に勝つ。

 

ミハイル皇子が自分を呼んだ。

 

正確には、ミハイルの側近から書状が届いた。

 

帝都の秩序維持のため、忠実な将軍として来てほしい。

 

誰に忠実なのかは書いていなかった。

 

ニケフォロスは皇帝へ忠誠を誓っていた。

 

皇女へではない。

 

皇子へでもない。

 

帝国へ。

 

だが帝国は命令を出さない。

 

命令を出すのは、人間だ。

 

「皇女殿下からの命令です」

 

使者は書簡を差し出した。

 

ニケフォロスは読む。

 

帝都へ入る兵は五十。

 

残りは城壁外へ。

 

五十。

 

罠を恐れるなら少なすぎる。

 

誠意を示すなら多すぎる。

 

テオドラらしい数字だった。

 

「将軍」

 

副官のレオンが近づく。

 

「従うのですか」

 

「従わない理由は」

 

「ミハイル皇子からは全軍で入城するよう」

 

「正式な命令か」

 

「皇子の書状です」

 

「皇帝ではない」

 

「皇女殿下も皇帝ではありません」

 

「だから、どちらにも従う義務はない」

 

レオンは困惑した。

 

「では」

 

「五十騎で入る」

 

「皇女側につくのですか」

 

「帝都へ入るだけだ」

 

「兵を残せば、城門を閉ざされます」

 

「そのときは攻めるのか」

 

レオンは答えなかった。

 

ニケフォロスは左脚を伸ばした。

 

古傷が痛む。

 

二十年前、東部国境の戦いで槍を受けた。

 

雪の中で三日間、退却する兵をまとめた。

 

あのとき皇帝アレクシオスは、宮廷の反対を押し切って救援軍を送った。

 

軍を見捨てない皇帝だった。

 

同時に、戦後の財政難で兵士の給金を一年遅らせた皇帝でもある。

 

人間は一つの行為だけで評価できない。

 

皇帝も。

 

皇子も。

 

皇女も。

 

将軍も。

 

「皇帝陛下の遺言は」

 

ニケフォロスは使者へ尋ねた。

 

「公表されていません」

 

「存在するのか」

 

「分かりません」

 

「皇女が隠している可能性は」

 

使者の顔が固くなる。

 

「私は伝令です」

 

「正しい答えだ」

 

ニケフォロスは書簡を折り畳んだ。

 

「皇女殿下へ伝えろ。命令に従い、五十騎で入城する。残りは聖ロマノス門外へ宿営させる」

 

使者が礼をする。

 

「もう一つ」

 

ニケフォロスは呼び止めた。

 

「帝都の穀物備蓄は」

 

使者は一瞬、答えに迷った。

 

「公式には三か月分」

 

「実際は」

 

「将軍。私は――」

 

「帝都の門を開けるか閉じるかを決めるのは、王冠ではなくパンだ。答えろ」

 

「一か月半と聞いています」

 

兵士たちには聞こえない声だった。

 

ニケフォロスは空を見上げた。

 

春の晴天。

 

穏やかな風。

 

この空の下で、帝都は飢え始めている。

 

五十万の都市が一か月半で食べる穀物。

 

それを補う船は来ない。

 

オルシャで穀物船が燃えた。

 

ナフルからの航路が止まった。

 

黒海北岸では、ヴェリグラード諸公国とサルグァ草原汗国の情勢が不安定。

 

陸路では運べない。

 

皇位継承争いをしている時間はない。

 

だが皇位が決まらなければ、誰も備蓄を開ける責任を取らない。

 

「進むぞ」

 

ニケフォロスは命じた。

 

「将軍」

 

レオンが馬を寄せる。

 

「誰を支持するのです」

 

ニケフォロスは前方の街道を見た。

 

地平線の先に、世界最大の城壁がある。

 

その内側で三人の皇族が王冠を見ている。

 

「帝国を残す者だ」

 

「誰です」

 

「それを見に行く」

 

---

 

## 四

 

紫会議室は、皇帝だけが正式な国家会議を開く場所だった。

 

壁は紫斑岩。

 

天井には、七つの燭台を掲げる古代皇帝のモザイク画。

 

中央には円卓があり、その一段高い位置に皇帝の椅子がある。

 

テオドラは皇帝の椅子に座らなかった。

 

円卓の一席へ座った。

 

父の死はすでに公表されている。

 

市内各所の鐘が鳴り、聖堂では追悼祈祷が始まった。

 

同時に、暴動も始まった。

 

宮殿前広場には数千人が集まり、皇帝の姿を求めている。

 

死を信じない者。

 

次の皇帝を知りたい者。

 

パンを求める者。

 

ミハイルを支持する者。

 

コンスタンティノスを支持する者。

 

皇女テオドラに即位を求める者も、ごく少数ながらいた。

 

会議室には、財務長官、穀物長官、海軍提督、宦官長、宮廷書記局長、コンスタリオン総主教が座っていた。

 

空席が三つ。

 

ミハイル。

 

コンスタンティノス。

 

ニケフォロス。

 

弟たちは招集に応じていない。

 

ニケフォロスはまだ到着していない。

 

「穀物倉庫を開きます」

 

テオドラは言った。

 

穀物長官が青ざめる。

 

「殿下」

 

「市場価格の半額で配給する。一世帯一日一斤。配給札を発行し、教会と職人組合に配布を委託します」

 

「備蓄が尽きます」

 

「何日で」

 

「現在の量なら四十七日」

 

「配給を制限すれば」

 

「六十二日」

 

「六十二日以内に穀物船を確保する」

 

海軍提督が咳払いした。

 

「ナフル航路は危険です。オルシャ周辺では私掠船が出ています」

 

「黒海からは」

 

「ヴェリグラード商人が価格を三倍へ引き上げました」

 

「払います」

 

財務長官が首を振る。

 

「金がありません」

 

「宝物庫は」

 

「軍への未払い給金と、セレスタ商人への債務があります」

 

「皇帝冠の宝石を売れ」

 

総主教が身を乗り出した。

 

「帝冠は神聖なものです」

 

「宝石を食べられますか」

 

「皇帝権威の象徴を傷つければ、帝国の正統性が揺らぎます」

 

「民衆が飢えて宮殿を焼けば、もっと大きく揺らぐでしょう」

 

財務長官が羊皮紙を広げた。

 

「問題は、宝物庫の品を売るだけではありません」

 

「何です」

 

「帝国が保有する一部の宝石、絹、港湾関税権は、すでに担保に入っています」

 

テオドラは長官を見た。

 

「誰への」

 

「複数の商会です」

 

「名を」

 

「セレスタ海洋都市同盟のヴェルディ銀行。黒帳商会。カディーラのサファ商館。そして……帝国内の紫帳組合」

 

会議室の空気が変わった。

 

「紫帳組合とは何です」

 

テオドラが尋ねる。

 

財務長官は答えなかった。

 

宮廷書記局長が視線を伏せる。

 

宦官長も。

 

知らないのはテオドラだけではない。

 

海軍提督と総主教も困惑している。

 

「説明してください」

 

テオドラの声が低くなる。

 

財務長官が口を開いた。

 

「皇帝直属の非公開財政組織です」

 

「父上の?」

 

「歴代皇帝の、と申し上げるべきです」

 

「何をしている」

 

「公式予算に記録できない支出を管理します。外交工作。敵国への賄賂。傭兵雇用。反乱勢力への秘密援助。皇族の身代金。教会への非公式献金」

 

総主教が机を叩く。

 

「教会への何だと」

 

「総主教猊下の就任前の話です」

 

「記録を見せろ」

 

「公開権限がありません」

 

テオドラは財務長官を見た。

 

「今、権限を与えます」

 

「皇帝の署名が必要です」

 

「皇帝は死んだ」

 

「だからこそ、次の皇帝が決まるまで開示できません」

 

「その組織が帝国の財産を担保にしたのですか」

 

「はい」

 

「誰の命令で」

 

「帳簿を見なければ」

 

「帳簿はどこに」

 

長官は沈黙した。

 

テオドラは理解した。

 

「あなたは知っている」

 

「殿下」

 

「どこです」

 

「紫宮地下の財務室」

 

紫宮。

 

歴代皇帝が私的な執務に使った旧宮殿。

 

現在は儀礼用の倉庫となっている。

 

大宮殿と地下道でつながっている。

 

「鍵は」

 

「皇帝陛下が」

 

「父の所持品にはなかった」

 

「では、紫帳組合の管理者が」

 

「名は」

 

財務長官の額に汗が浮かぶ。

 

「知りません」

 

「嘘ですね」

 

「本当に知りません。管理者は《紫守》と呼ばれ、皇帝と数名の書記だけが正体を知る決まりです」

 

宮廷書記局長が顔を伏せたまま言った。

 

「先月、紫帳組合から文書が届きました」

 

「なぜ黙っていた」

 

「皇帝陛下の封印がありました」

 

「内容は」

 

「オルシャにおける港湾権再編に備え、帝国海軍の介入費用を確保せよ、と」

 

「オルシャ事件の前ですか」

 

「はい」

 

「何日前」

 

「四十三日前」

 

会議室が静まり返った。

 

オルシャの鍵守一族が殺される前。

 

穀物船が燃える前。

 

帝国の秘密財政組織は、聖地への海軍介入費用を準備していた。

 

予測。

 

あるいは計画。

 

マリアムが見つけた契約書の存在を、テオドラは知らない。

 

だが別の道から、同じ影へ近づいていた。

 

「文書を」

 

テオドラは言った。

 

書記局長が羊皮紙を差し出す。

 

皇帝印。

 

父の署名。

 

本物に見える。

 

だが父は四十三日前、すでに病床にあった。

 

署名できない状態ではなかった。

 

それでも、オルシャで事件が起きることをなぜ知っていた。

 

「父上が命じたと?」

 

テオドラは尋ねた。

 

誰も答えない。

 

総主教が聖印を切った。

 

「皇帝陛下が聖地奪還を望まれていた可能性はあります」

 

「それなら公に艦隊を準備すればよい」

 

海軍提督が言った。

 

「秘密にする理由はありません」

 

「南方諸国を刺激しないためでは」

 

「火災が起きる前に、火災後の介入費用を準備するのは外交ではない」

 

テオドラは文書の署名を見た。

 

父の筆跡。

 

だが、最後の一画がわずかに上へ跳ねている。

 

父は晩年、右手の震えを隠すため、署名の最後を下へ押さえる癖があった。

 

この署名は、十年以上前の筆跡に近い。

 

「偽造です」

 

テオドラは言った。

 

書記局長が顔を上げる。

 

「印章も本物です」

 

「印章が本物なら、印章を持つ者が偽造した」

 

「皇帝印へ触れられる者は限られます」

 

「だから調べやすい」

 

財務長官が不安そうに言う。

 

「殿下。いま宮廷内部の捜査を始めれば、皇子方は自分たちへの弾圧と受け取ります」

 

「実際、関わっている可能性がある」

 

「内戦になります」

 

「何もしなくてもなる」

 

テオドラは立ち上がった。

 

「紫宮地下を封鎖します。親衛隊を送る」

 

宦官長が言う。

 

「地下道には複数の入口があります」

 

「すべて閉じる」

 

「紫帳組合の管理者が帳簿を焼くかもしれません」

 

「だから急ぐ」

 

そのとき、会議室の外で騒ぎが起きた。

 

扉が開く。

 

親衛隊長が入った。

 

「皇女殿下。ニケフォロス将軍が到着しました」

 

「五十騎ですか」

 

「はい」

 

「通しなさい」

 

「それと、ミハイル皇子が青宮兵二千を率いて大宮殿へ向かっています」

 

財務長官が立ち上がる。

 

「二千!」

 

「コンスタンティノス皇子も総主教庁の護衛と信徒を集めています」

 

総主教の顔色が変わる。

 

「私の命令ではない」

 

「分かっています」

 

テオドラは円卓の上の地図を見た。

 

大宮殿。

 

青宮。

 

総主教庁。

 

紫宮。

 

穀物倉庫。

 

都市の権力は五つに分かれようとしている。

 

「宮殿門を守れ」

 

親衛隊長へ命じる。

 

「矢は放つな。ミハイルが門を破るまで剣を抜くな」

 

「破った場合は」

 

テオドラは一瞬、目を閉じた。

 

弟。

 

幼い頃、池へ落ちた彼女を助けた弟。

 

父に叱られると、互いに罪を押しつけ合った弟。

 

その弟が兵を率いて来る。

 

「皇族ではなく、反乱者として扱いなさい」

 

親衛隊長が礼をして去る。

 

総主教が言った。

 

「殿下は何をなさるつもりです」

 

「穀物倉庫を開く」

 

「今、この状況で?」

 

「この状況だからです」

 

「兵が必要です」

 

「市民がパンを受け取れば、皇子のために死ぬ者は減る」

 

政治的な計算だった。

 

同時に、必要な政策でもある。

 

善意と権力は、同じ行為の中で区別できないことがある。

 

テオドラは自分が民を救いたいのか、支持を買いたいのか分からなかった。

 

おそらく両方だった。

 

父の言葉を思い出す。

 

帝国を愛するな。

 

愛すれば、正しいと思う形のまま保存したくなる。

 

だが帝国を残すには、変えなければならない。

 

「穀物長官」

 

「はい」

 

「倉庫を開きなさい」

 

「命令書には誰の名を」

 

皇帝は死んだ。

 

新皇帝はいない。

 

皇女の命令に法的な根拠は弱い。

 

テオドラは父の印章を机へ置いた。

 

「アウレリア帝国摂政、テオドラ・ラスカリナ」

 

「摂政は任命されていません」

 

財務長官が言った。

 

「今、任命しました」

 

「誰が」

 

「皇帝の長女が、帝国存続の必要により」

 

「法にありません」

 

「法に、皇帝が死んだ日に三人の後継者が軍を集め、秘密組織が国庫を担保にし、市民が飢える場合の条文はありますか」

 

誰も答えなかった。

 

「ないなら、今日作ります」

 

---

 

## 五

 

ニケフォロスが紫会議室へ入ったとき、テオドラは摂政宣言へ署名していた。

 

将軍は兜を脇に抱え、古い胸甲を着ていた。

 

左脚を引きずっている。

 

四十七歳。

 

戦場で老けた男の顔。

 

宮廷の者とは違う疲労が刻まれている。

 

彼は皇帝の椅子が空であることを確認し、テオドラへ礼をした。

 

「皇帝陛下のご崩御に、哀悼を」

 

「ありがとうございます」

 

「遺言は」

 

「ありません」

 

「本当に?」

 

「父上は、帝国を残せとだけ」

 

「誰に」

 

「私に」

 

会議室の者たちが息を潜めた。

 

ニケフォロスはテオドラを見つめる。

 

「皇位を継げと?」

 

「帝国を残せと」

 

「同じ意味に使えます」

 

「使いたい者には」

 

将軍の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

 

「あなたらしい答えです」

 

「将軍は誰の命令で来たのですか」

 

「帝国の危機を知り、自分の判断で」

 

「ミハイルからの書状は」

 

「受け取りました」

 

「なら、彼の招きで来た」

 

「招きと命令は違います」

 

「彼を支持しますか」

 

「まだ決めていません」

 

「私も候補ですか」

 

「殿下は摂政を名乗られた」

 

ニケフォロスは署名中の文書を見る。

 

「皇帝ではなく」

 

「王冠より先に、倉庫を開ける必要があります」

 

「賢明です」

 

穀物長官が驚いた顔をした。

 

「将軍は配給に賛成ですか」

 

「飢えた都を兵で抑えるには、パンを配るより十倍の金と百倍の血が必要だ」

 

ニケフォロスは地図へ近づいた。

 

「ただし六十二日後、船が来なければ同じ問題が戻る」

 

「その前に確保します」

 

「どこから」

 

「黒海北岸」

 

「サルグァ汗国の継承争いで河川路が不安定です」

 

「アルサクから」

 

「峠は雪解けで使えない」

 

「ナフル」

 

「オルシャを通れば燃やされる」

 

「別の港を使う」

 

「南方海軍が止めます」

 

テオドラは将軍を見た。

 

「反対だけなら、軍人でなくてもできます」

 

ニケフォロスは動じなかった。

 

「私なら、セレスタの船を雇う」

 

「金がない」

 

「港湾関税を担保に」

 

財務長官が顔を曇らせる。

 

「すでに一部が担保です」

 

「誰に」

 

「紫帳組合」

 

ニケフォロスの表情が変わった。

 

ごくわずか。

 

だがテオドラは見逃さなかった。

 

「知っているのですか」

 

「名前だけ」

 

「どこで」

 

「東部戦線への秘密補給で」

 

「誰が命令した」

 

「皇帝陛下の印章がありました」

 

「いつ」

 

「三年前」

 

「管理者は」

 

「会ったことはない」

 

「使者は」

 

「顔を隠した宦官でした」

 

宦官長が不快そうに言う。

 

「宮廷宦官は何百人もおります」

 

「だから顔を隠す必要がない。顔を隠したのは、宦官ではなかったのかもしれない」

 

ニケフォロスはテオドラへ視線を戻した。

 

「紫帳がどうしたのです」

 

「オルシャ事件の四十三日前、帝国海軍の介入費用を準備していた」

 

将軍は沈黙した。

 

「偶然だと思いますか」

 

「戦争を予測する者はいます」

 

「穀物価格上昇の先物契約もあった」

 

「誰が」

 

「まだ分かりません」

 

ニケフォロスは円卓へ手をついた。

 

「紫宮地下を押さえるべきです」

 

「親衛隊を向かわせます」

 

「遅い」

 

「なぜ」

 

「ミハイル皇子の青宮兵が紫宮に近い」

 

テオドラは地図を見た。

 

青宮から大宮殿へ向かう最短路。

 

紫宮の脇を通る。

 

「目的が宮殿ではなく、紫帳だと?」

 

「可能性があります」

 

「彼が管理者ですか」

 

「分かりません」

 

「なら、先に取る」

 

テオドラは親衛隊へ命令を出そうとした。

 

ニケフォロスが止める。

 

「私が行きます」

 

「五十騎で?」

 

「宮殿兵を二百貸してください」

 

「あなたが帳簿を持ち去る可能性は」

 

会議室が凍る。

 

将軍はしばらく彼女を見た。

 

「あります」

 

率直な答えだった。

 

「私がミハイル側なら、帳簿を彼へ渡す。自分が皇帝を望むなら、自分のために使う。殿下を支持するなら、ここへ持ち帰る」

 

「どれを選ぶのです」

 

「帳簿を見てから考える」

 

総主教が怒る。

 

「そのような者に兵を預けるのですか」

 

ニケフォロスは総主教を見た。

 

「正直な人間をお望みなら、私より適任でしょう」

 

「無礼な」

 

「神の館へ兵を集めた弟君について、猊下は何もご存じないそうですが」

 

総主教が立ち上がる。

 

テオドラが手を上げた。

 

「二百貸します」

 

全員が彼女を見る。

 

「殿下」

 

「将軍に紫宮を押さえさせる」

 

「信用なさるのですか」

 

テオドラは答えた。

 

「信用していません。だから、私の書記官と親衛隊長代理を同行させます」

 

ニケフォロスが頷く。

 

「妥当です」

 

「帳簿を見つけたら封を切るな」

 

「約束できません」

 

「命令です」

 

「あなたは摂政を自称したばかりだ」

 

「では、私が皇帝になるまで待ちますか」

 

二人の視線がぶつかった。

 

先に笑ったのはニケフォロスだった。

 

「封は切りません」

 

「信じます」

 

「信用していないのでしょう」

 

「信用しないことと、信じると決めることは別です」

 

将軍は礼をした。

 

「それも、あなたらしい」

 

紫宮へ向かう直前、伝令が飛び込んできた。

 

「ミハイル皇子の兵が大宮殿前へ到着!」

 

遠くから、角笛が聞こえた。

 

続いて群衆の叫び。

 

テオドラは窓へ向かった。

 

宮殿前広場に、青い旗が並んでいる。

 

ミハイルの紋章。

 

双頭の鷲に剣。

 

兵士二千。

 

その後ろには、皇子を支持する市民や軍人家族がいる。

 

「姉上!」

 

広場から拡声役の声が響いた。

 

「皇帝陛下の遺体と国璽を、正統な皇子ミハイル殿下へ引き渡されたい!」

 

正統。

 

誰が決めた。

 

長男であること。

 

男であること。

 

軍の支持があること。

 

それぞれは強い理由であり、絶対ではない。

 

テオドラは親衛隊長へ言った。

 

「門を開けます」

 

「殿下!」

 

「外門だけ。中庭へ入れる」

 

「二千人を?」

 

「ミハイル本人と護衛十人。残りは外」

 

「従わなければ」

 

「倉庫を開けると市民へ告げなさい」

 

親衛隊長が理解するまで、一瞬かかった。

 

広場にいる市民は皇子を支持している。

 

だが多くは、パンが欲しいだけだ。

 

宮殿が配給を始めれば、群衆は皇子の演説より倉庫へ向かう。

 

「卑怯だと呼ばれます」

 

ニケフォロスが言った。

 

「パンを配ることが?」

 

「政治的に使うことが」

 

「ミハイルは空腹を支持へ使っている」

 

「だから同じことを?」

 

「違います」

 

テオドラは窓の下に集まる民衆を見た。

 

「私は本当にパンを渡す」

 

---

 

## 六

 

帝国中央穀物倉庫の門が開いたとき、群衆は一度、静かになった。

 

信じられなかったのだ。

 

これまで役所は、備蓄は少ない、配給札がない、命令がない、明日来い、と言い続けていた。

 

巨大な木製門が開き、内側から小麦袋が見えた。

 

その光景だけで、人々の表情が変わった。

 

歓声より先に、安堵が広がる。

 

次に恐怖。

 

自分の番まで残るのか。

 

人々は一斉に前へ押した。

 

「並べ!」

 

兵士が叫ぶ。

 

誰も聞かない。

 

教会の司祭、職人組合の代表、地区長たちが配給札を確認する。

 

だが数千人が押し寄せている。

 

アンドロニコスも群衆の中にいた。

 

妹の手を握っている。

 

父の遺体は工房に残したまま。

 

本来なら、父を教会へ運ぶべきだった。

 

だが今、小麦を受け取らなければ工房が終わる。

 

死者と生者。

 

また生者を選んだ。

 

「パン屋だ!」

 

アンドロニコスは配給役へ叫んだ。

 

「パレオス工房! 国営配給所への納入契約がある!」

 

役人は帳簿をめくる。

 

「主人は」

 

「死んだ。私が継いだ」

 

「営業継承の許可は」

 

「今日死んだんだ!」

 

「許可がなければ業務用の粉は渡せない」

 

アンドロニコスは役人の衣を掴みそうになった。

 

妹が腕を引く。

 

「兄さん」

 

周囲には同じような者がいる。

 

パン屋。

 

麺職人。

 

修道院の炊き出し係。

 

宿屋。

 

皆が多くを求める。

 

家庭配給は一世帯一斤。

 

商売用なら、さらに必要。

 

役人が迷っていると、別の男が近づいた。

 

王宮書記官の服。

 

「パレオス工房か」

 

「そうです」

 

「今朝、守備隊の騒乱があった場所だな」

 

「はい」

 

「死人は」

 

「父が。それと、怪我人が何人か」

 

書記官は帳板へ何かを書いた。

 

「粉二袋」

 

配給役が驚く。

 

「規定では」

 

「摂政令だ。稼働可能なパン工房を優先する」

 

「摂政?」

 

アンドロニコスが聞く。

 

「皇女テオドラ殿下が、帝国摂政を宣言された」

 

周囲がざわめく。

 

「女が皇帝になるのか」

 

誰かが言った。

 

「摂政だ」

 

「同じようなものだ」

 

「ミハイル皇子は」

 

「門前にいる」

 

「戦争になるぞ」

 

書記官が怒鳴る。

 

「戦争の話はあとだ! 袋を運べ!」

 

アンドロニコスは妹と一袋ずつ抱えた。

 

重い。

 

本物の小麦。

 

石粉の混じっていない匂い。

 

泣きそうになった。

 

この袋があれば、数日はパンを焼ける。

 

父が生きているうちに開いていれば。

 

その思いが胸を刺す。

 

倉庫から出ようとしたとき、広場の一角で叫び声が上がった。

 

ミハイル皇子の兵と宮殿親衛隊が向き合っている。

 

皇子本人が馬上にいた。

 

三十歳。

 

父に似た黒髪。

 

金飾りの鎧。

 

「姉上は皇帝陛下の死を隠した!」

 

拡声役が叫ぶ。

 

「帝国法を無視し、摂政を僭称した!」

 

群衆の一部が応じる。

 

「ミハイル皇子万歳!」

 

別の一部が叫ぶ。

 

「パンを配ったのは皇女だ!」

 

「皇子は何をくれる!」

 

「軍を解散しろ!」

 

支持ではない。

 

取引だった。

 

人々は王冠の正統性を、パンと安全で量っている。

 

ミハイルの顔に怒りが浮かんだ。

 

彼は剣を抜いた。

 

親衛隊も構える。

 

アンドロニコスは妹を背後へ押した。

 

また始まる。

 

パン屋の前と同じ。

 

一人が武器を抜き、相手が恐れ、恐怖が先に手を動かす。

 

「殿下!」

 

馬で駆けてきた将校がミハイルへ何かを伝えた。

 

皇子の表情が変わる。

 

「紫宮だ!」

 

彼は叫んだ。

 

青宮兵の一部が隊列を変えた。

 

大宮殿ではなく、東の紫宮へ向かう。

 

アンドロニコスには意味が分からない。

 

だが、宮殿の高窓に立つテオドラには分かった。

 

ニケフォロスとミハイル。

 

どちらが先に紫帳を得るか。

 

それが皇位継承だけでなく、オルシャの陰謀を左右する。

 

---

 

## 七

 

紫宮は、二百年前に建てられた小さな宮殿だった。

 

小さいといっても、地方領主の城より広い。

 

現在は使われておらず、儀礼用衣装、古文書、歴代皇帝の肖像、壊れた家具が保管されている。

 

ニケフォロスが到着したとき、正門は開いていた。

 

「誰かが先に入った」

 

親衛隊長代理が言った。

 

「ミハイルの兵ではない」

 

ニケフォロスは地面を見る。

 

蹄跡がない。

 

足跡も少ない。

 

五人か、多くて十人。

 

「裏口から出る可能性がある。兵を回せ」

 

二百の宮殿兵が散る。

 

ニケフォロスは五十人を連れ、正面から入った。

 

内部は暗い。

 

窓に厚い布がかけられ、埃の匂いがする。

 

廊下には歴代皇帝の肖像画。

 

勝者だけが並ぶ。

 

敗れた皇帝の絵は剥がされ、壁に薄い跡だけが残っている。

 

「地下入口は」

 

同行した書記官が地図を開く。

 

「旧礼拝堂の奥です」

 

一行は進んだ。

 

途中、最初の死体を見つけた。

 

紫宮の老警備兵。

 

喉を切られている。

 

血はまだ温かい。

 

「急げ」

 

旧礼拝堂へ着く。

 

祭壇が動かされ、地下への階段が開いていた。

 

灯りが下に続いている。

 

誰かがいる。

 

ニケフォロスは剣を抜いた。

 

「十人、続け。残りは入口を守れ」

 

階段を下りる。

 

地下通路。

 

湿った石壁。

 

足音が響く。

 

前方から、紙が燃える匂いがした。

 

走る。

 

財務室の扉が開いている。

 

中で火が上がっていた。

 

棚の帳簿へ油が撒かれ、炎が広がっている。

 

黒い外套の人影が三人。

 

一人が松明を持つ。

 

「止まれ!」

 

ニケフォロスが叫ぶ。

 

人影が振り返る。

 

顔は仮面で隠されている。

 

一人が短弓を撃った。

 

矢が宮殿兵の喉へ刺さる。

 

ニケフォロスは盾を持っていない。

 

柱の陰へ身を投げる。

 

兵士たちが突入する。

 

狭い室内で剣がぶつかる。

 

仮面の男たちは訓練されていた。

 

一人が兵士の腹を裂き、別の者が炎の中へ帳簿を投げ続ける。

 

「火を消せ!」

 

ニケフォロスは机を蹴り倒し、燃えていない帳簿を床へ落とした。

 

外套を脱ぎ、炎を叩く。

 

仮面の男が背後から斬りかかる。

 

ニケフォロスは振り返り、剣で受けた。

 

左脚が痛む。

 

踏ん張りが利かない。

 

相手はそれに気づき、足を狙う。

 

将軍は退かず、肩で体当たりした。

 

壁へ押しつけ、短剣を肋骨の下へ刺す。

 

男が崩れる。

 

仮面が外れた。

 

若い男。

 

剃髪している。

 

宦官に見せるためか。

 

だが喉仏がある。

 

予想どおり偽装だった。

 

残る二人のうち、一人が奥の通路へ逃げた。

 

もう一人は兵士に囲まれ、自分の喉を切った。

 

「追え!」

 

兵士が奥へ走る。

 

ニケフォロスは火を消す。

 

帳簿の半分は燃えた。

 

残ったものも端が焦げ、水と血で汚れている。

 

同行した書記官が拾い上げた。

 

「封印があります」

 

紫色の蝋。

 

紋章なし。

 

表紙に一語。

 

《紫帳》

 

ニケフォロスは開こうとした。

 

テオドラの命令を思い出す。

 

封を切るな。

 

だが封は火で半分溶けている。

 

少し触れれば開く。

 

中には、帝国の秘密がある。

 

ミハイル。

 

コンスタンティノス。

 

テオドラ。

 

父帝。

 

オルシャ。

 

誰が何に関わっている。

 

自分の東部軍への秘密補給。

 

それも帳簿にある。

 

知られたくない支払いもある。

 

三年前、国境の村を守るため、正式な許可なく敵部族へ金を払った。

 

その金は紫帳から出た。

 

帝国を救うためだった。

 

だが帳簿だけ見れば、敵への資金提供と記されているかもしれない。

 

皇帝候補を失脚させるには十分。

 

「将軍」

 

書記官が彼を見ている。

 

テオドラの目として。

 

ニケフォロスは帳簿から手を離した。

 

「封箱へ入れろ」

 

「確認しないのですか」

 

「命令だ」

 

「皇女殿下の?」

 

「私の」

 

奥から兵士が戻ってきた。

 

「逃亡者は地下水路へ。見失いました」

 

「出口は」

 

「海側へ通じている可能性があります」

 

ミハイルの兵が紫宮前へ到着した音がした。

 

角笛。

 

扉を叩く音。

 

「将軍!」

 

地上の兵士が叫ぶ。

 

「青宮兵が引き渡しを要求しています!」

 

ニケフォロスは残った帳簿を見た。

 

火。

 

血。

 

秘密。

 

この紙の束のために、すでに人が死んだ。

 

「すべて運べ」

 

「正面からは出られません」

 

「地下水路を使う」

 

「逃亡者と同じ道です」

 

「だから出口がある」

 

「どこへ」

 

ニケフォロスは答えた。

 

「大宮殿ではない」

 

書記官が警戒する。

 

「皇女殿下へ渡さないのですか」

 

「今渡せば、ミハイルが帳簿を奪うため宮殿を攻める」

 

「ではどこへ」

 

「総主教庁」

 

「コンスタンティノス皇子がいます!」

 

「だからだ。三者の誰も簡単には手を出せない」

 

「教会を信用するのですか」

 

「誰も信用していない」

 

ニケフォロスは帳簿を箱へ詰めた。

 

「だから全員が見える場所へ置く」

 

それは均衡を作る判断だった。

 

同時に、三つの勢力を一か所へ集める危険な判断でもある。

 

将軍は知っていた。

 

均衡とは平和ではない。

 

全員が、最初に手を動かせば損をすると理解している短い時間にすぎない。

 

その時間を作る。

 

いま必要なのは、それだった。

 

---

 

## 八

 

夕暮れ。

 

皇帝アレクシオス六世の遺体は、大宮殿の黄金広間へ安置された。

 

紫の衣。

 

黄金の冠。

 

手には帝国法典。

 

生前より皇帝らしく見えた。

 

死者は動かない。

 

失言もしない。

 

税を上げない。

 

軍を退却させない。

 

だから、死んだ皇帝は生きた皇帝より完全な象徴になる。

 

テオドラは棺の横に立っていた。

 

ミハイルは広間の反対側。

 

剣を帯びたまま。

 

コンスタンティノスは総主教とともに入った。

 

白い宗教衣。

 

三人の兄弟姉妹が、父の遺体を挟んで向き合う。

 

幼い頃、同じ食卓を囲んだ三人。

 

いまは、それぞれの背後に兵士、官僚、聖職者がいる。

 

「姉上は父上の死を隠した」

 

ミハイルが言った。

 

「宮殿の安全確保のためです」

 

「自分が権力を奪うためだ」

 

「あなたが兵を集める時間を減らすためでもありました」

 

「認めるのか」

 

「否定しても信じないでしょう」

 

コンスタンティノスが聖印を切る。

 

「父上の前です。争いはやめましょう」

 

ミハイルが弟を見る。

 

「総主教庁へ信徒を集めた者が言うのか」

 

「彼らは自発的に」

 

「自発的な群衆ほど便利な軍はない」

 

「兄上の兵は金で雇われています」

 

「国を守る兵だ」

 

「誰から」

 

テオドラが割って入った。

 

「父上の葬儀が終わるまで、三人とも皇帝を名乗らない」

 

「姉上は摂政を名乗った」

 

ミハイルが言う。

 

「帝国を動かす者が必要です」

 

「長男である私が」

 

「なら、なぜ倉庫を開けなかったのです」

 

「権限がなかった」

 

「私は作った」

 

「法を無視して」

 

「民衆は法を食べられない」

 

ミハイルの手が剣柄へ動く。

 

親衛隊も動く。

 

コンスタンティノスの護衛が身構える。

 

棺の前で、三つの軍が武器へ手をかける。

 

そのとき、広間の扉が開いた。

 

ニケフォロスが入ってきた。

 

泥と煤に汚れ、左腕に血がついている。

 

後ろに兵士たちが箱を運ぶ。

 

「紫帳を確保しました」

 

三人の表情が変わった。

 

ミハイルの変化が最も大きい。

 

驚き。

 

次に怒り。

 

テオドラはそれを見た。

 

「知っていたのですか」

 

彼女は尋ねた。

 

「何を」

 

「紫帳の場所を」

 

「知らなかった」

 

「兵を向かわせた」

 

「姉上の兵が先に入ったと聞いたからだ」

 

「なぜ急ぐ必要が」

 

「紫帳には帝国の秘密がある。誰か一人に持たせるべきではない」

 

もっともらしい。

 

嘘とも言い切れない。

 

ニケフォロスが箱を棺の前へ置いた。

 

「帳簿は総主教庁の地下宝物庫へ移します」

 

テオドラが言う。

 

「私の命令は大宮殿へ持ち帰ることでした」

 

「状況が変わりました」

 

「命令違反です」

 

「処罰は後で」

 

ミハイルが箱へ近づく。

 

「まず中を確認する」

 

ニケフォロスが前へ出た。

 

「誰も触れるな」

 

「将軍。誰に向かって」

 

「まだ皇帝ではない者へ」

 

広間が静まった。

 

ミハイルの顔が赤くなる。

 

「私には軍がある」

 

「私にもある」

 

「脅すのか」

 

「数を説明しただけです」

 

コンスタンティノスが言った。

 

「帳簿は教会が預かります。中立の立場として」

 

テオドラが弟を見る。

 

「教会が中立だったことはありますか」

 

「神の前では」

 

「地上の話をしています」

 

ニケフォロスは箱の上へ手を置いた。

 

「三者の代表を一人ずつ出す。総主教庁で同時に開封する。写本を三部作る。原本は封印」

 

「軍の代表も必要だ」

 

ミハイルが言う。

 

「将軍がいる」

 

テオドラは答えた。

 

「彼は姉上の兵を率いて紫宮へ入った」

 

「私は誰のものでもない」

 

ニケフォロスが言う。

 

「それが最も危険だ」

 

ミハイルが吐き捨てた。

 

「同意します」

 

テオドラは言った。

 

将軍が彼女を見る。

 

「だが、いまは必要です」

 

コンスタンティノスが父の棺へ目を向けた。

 

「葬儀は三日後。開封はその後に」

 

「遅い」

 

テオドラは言った。

 

「オルシャ事件への関与があるなら、証拠が消される」

 

「父上の喪に服す時間すら取れないのですか」

 

「陰謀を企てた者は喪に服してくれない」

 

三人は互いを見た。

 

誰も相手を信用していない。

 

だが、誰か一人が帳簿を持つことも許せない。

 

結果として、共同開封に同意するしかない。

 

「明朝」

 

テオドラが言った。

 

「総主教庁で開封する」

 

「葬儀前だぞ」

 

ミハイルが反発する。

 

「父上の署名が偽造された可能性がある」

 

「何だと」

 

「オルシャ事件前の命令書です」

 

彼女は偽造と思われる書面を弟たちへ見せた。

 

ミハイルが読む。

 

コンスタンティノスも。

 

二人とも表情を隠そうとする。

 

テオドラは観察した。

 

ミハイルは《オルシャ》という文字より、《紫帳》の記号へ反応した。

 

コンスタンティノスは《聖地管理権再編》の部分で目を止めた。

 

それぞれ何かを知っている。

 

どこまでかは分からない。

 

「明朝です」

 

テオドラは繰り返した。

 

「異論がある者は」

 

広間の外から、群衆の声が聞こえた。

 

「パンを!」

 

「配給を続けろ!」

 

「皇帝を決めろ!」

 

「戦争をするな!」

 

異なる要求が一つの轟音になっている。

 

テオドラは窓へ歩いた。

 

広場では、配給を受けた人々が家へ戻り始めていた。

 

袋を抱える者。

 

パンを掲げる者。

 

受け取れずに残る者。

 

その中に、父を失った若いパン職人がいることを、彼女は知らない。

 

アンドロニコスも、窓に立つ皇女が父を失ったばかりだとは知らない。

 

二人の父は同じ朝に死んだ。

 

一人は黄金の広間へ安置される。

 

一人は小麦粉にまみれた工房に残される。

 

死の重さは同じではない。

 

少なくとも、この世界では。

 

だが、二人の子が背負う喪失まで違うと、誰が量れるだろう。

 

---

 

## 九

 

夜。

 

アンドロニコスは父を埋葬するため、工房から教会へ運んだ。

 

棺を買う金はなく、近所の大工が古い板で作ってくれた。

 

運ぶのを手伝ったのは、朝に工房へ押し入った男たちだった。

 

先頭にいた港湾労働者が、目を合わせずに言った。

 

「悪かった」

 

アンドロニコスは何についてか尋ねなかった。

 

押し入ったこと。

 

父の遺体の前で怒鳴ったこと。

 

パンを奪おうとしたこと。

 

空腹だったこと。

 

謝る側にも、受け入れる側にも、どこから始めればよいか分からない。

 

「手伝ってくれればいい」

 

彼は答えた。

 

教会へ向かう道で、皇帝の葬列準備とすれ違った。

 

黄金の布。

 

香炉。

 

兵士。

 

聖歌隊。

 

皇帝の遺体はまだ宮殿にある。

 

これは装飾品を運ぶ列だった。

 

父の棺を担ぐ者たちは道の端へ寄せられた。

 

皇帝の棺が通る道を整えるため。

 

港湾労働者が吐き捨てる。

 

「死んでも道を取るのか」

 

アンドロニコスは何も言わなかった。

 

皇帝を憎んでいたわけではない。

 

顔も知らない。

 

皇帝が死んだためにパンが増えたわけでも、減ったわけでもない。

 

テオドラという皇女が倉庫を開いた。

 

それは覚えている。

 

明日から、工房でパンを焼く。

 

人々へ配る。

 

役人へ納める。

 

父を埋葬した翌日も窯へ火を入れる。

 

それが生活だった。

 

教会の墓地に着く。

 

司祭が短い祈りを唱えた。

 

長い祈りには追加の献金が必要だった。

 

棺を穴へ下ろす。

 

エレニが泣く。

 

アンドロニコスは土を一握り、棺へ落とした。

 

「父さん」

 

何か言おうとした。

 

感謝。

 

謝罪。

 

怒り。

 

どれも正しくない。

 

「明日も焼くよ」

 

それだけを言った。

 

父なら理解すると思った。

 

帰り道、帝都の夜空に紫宮の火が見えた。

 

すでに消えかかっている。

 

人々は、皇位争いの火だと噂した。

 

異端者が燃やしたとも。

 

皇女が秘密文書を焼いたとも。

 

ミハイル皇子が父帝の遺言を奪ったとも。

 

真実を知る者は少ない。

 

だが真実を知らなくても、噂は人を動かす。

 

アンドロニコスは妹と手をつないだ。

 

「兄さん」

 

「何だ」

 

「誰が皇帝になるの」

 

「知らない」

 

「皇女様?」

 

「さあ」

 

「女でもなれるの」

 

「パンを出せるなら、男でも女でもいい」

 

妹が少し笑った。

 

アンドロニコスも笑った。

 

その程度の希望しか持てなかった。

 

だが、希望は大きさではなく、翌日まで持つかどうかが重要だった。

 

---

 

## 十

 

深夜、総主教庁の地下宝物庫へ紫帳が運び込まれた。

 

三重の扉。

 

七つの鍵。

 

総主教の印。

 

皇女の印。

 

ミハイル皇子の印。

 

コンスタンティノス皇子の印。

 

ニケフォロス将軍の軍印。

 

一つの箱へ、五つの権力が封をした。

 

誰か一人では開けられない。

 

それでもニケフォロスは安心しなかった。

 

紫宮から逃げた仮面の男。

 

地下水路の出口。

 

帳簿を焼こうとした者。

 

まだ帝都のどこかにいる。

 

総主教庁を出ると、テオドラが待っていた。

 

護衛は二人だけ。

 

「将軍」

 

「殿下」

 

「なぜ総主教庁へ」

 

「説明したとおりです」

 

「帳簿を一人に持たせないため」

 

「はい」

 

「自分も含めて?」

 

ニケフォロスは彼女を見た。

 

「特に自分を含めて」

 

「自制心を信用していないのですか」

 

「権力を持った人間が自分を信用するのは危険です」

 

「皇帝に向いていますね」

 

「皮肉ですか」

 

「半分は」

 

二人は石段を下りた。

 

帝都は眠っていない。

 

遠くで暴動の声。

 

別の場所では祈り。

 

倉庫では夜通し配給準備。

 

宮殿では皇子たちが兵を配置している。

 

「父上は、私に帝国を残せと言いました」

 

テオドラが言った。

 

ニケフォロスは黙って聞く。

 

「皇位を継げとは言わなかった」

 

「同じ意味かもしれません」

 

「あなたもそう言いました」

 

「ほかの意味もあります」

 

「例えば」

 

「誰かを皇帝にし、自分は制度を残す」

 

「弟のどちらかを?」

 

「あるいは、皇帝を弱くして帝国を残す」

 

テオドラが足を止めた。

 

「皇帝を弱く」

 

「強い皇帝が常に帝国を強くするとは限らない。愚かな皇帝が強すぎれば、帝国全体が愚かになる」

 

「軍人が言うとは意外です」

 

「軍も同じです。一人の将軍がすべてを決めれば、彼が間違えた日に全軍が死ぬ」

 

「では、何が必要です」

 

「間違いを止める者」

 

テオドラは夜の帝都を見た。

 

父の時代、皇帝を止められる者は少なかった。

 

そのため決断は速かった。

 

同時に、誤りも帝国全体へ広がった。

 

彼女が皇帝になれば、同じ誘惑が来る。

 

自分なら正しく使える。

 

自分は父や弟とは違う。

 

そう信じる誘惑。

 

「将軍」

 

「はい」

 

「私が皇帝になったら、止められますか」

 

「必要なら」

 

「殺してでも?」

 

ニケフォロスはすぐには答えなかった。

 

「帝国を残すためなら」

 

「忠誠心があるのかないのか分かりませんね」

 

「忠誠とは、命令をすべて聞くことではない」

 

「父上も似たことを言いました」

 

「私は皇帝陛下から学びました」

 

二人は再び歩いた。

 

総主教庁の塔に、七つの灯火が見える。

 

明朝、帳簿を開く。

 

そこには、オルシャ事件の背後にいる者の名があるかもしれない。

 

父帝の名があるかもしれない。

 

弟たち。

 

総主教。

 

将軍。

 

テオドラ自身の知らないところで、彼女の名が使われている可能性もある。

 

真実は、正義をもたらすとは限らない。

 

国家を壊すこともある。

 

「帳簿に父上の命令があったら」

 

テオドラは尋ねた。

 

「どうします」

 

「本物なら、公表すべきです」

 

「皇帝の名誉が傷つく」

 

「死者の名誉と、生きている者の命。どちらを守ります」

 

「簡単に言いますね」

 

「簡単ではありません」

 

ニケフォロスの声は低かった。

 

「だから、誰かが選ばなければならない」

 

テオドラは父の棺を思った。

 

明日になれば、父は皇帝として讃えられる。

 

偉大な治世。

 

帝国の守護者。

 

正統信仰の盾。

 

その裏で、父が聖地の陰謀に関わっていたなら。

 

隠せば帝国の権威は守られる。

 

公表すれば真実は守られる。

 

どちらが帝国を残すのか。

 

分からない。

 

「私は王冠が欲しいのかもしれません」

 

テオドラは言った。

 

自分でも、なぜ将軍へ話したのか分からなかった。

 

「必要だからではなく」

 

ニケフォロスは驚かなかった。

 

「欲しくない者は、皇帝になるべきではないと考える者もいます」

 

「なぜ」

 

「欲望のない者は、何も守れないから」

 

「欲望のある者は、すべてを自分のものにする」

 

「だから、止める者が必要です」

 

テオドラは少し笑った。

 

「都合のいい答えです」

 

「政治とは、都合の悪い現実へ、少しましな答えを置く仕事でしょう」

 

夜風が吹く。

 

パンを焼く匂いがした。

 

倉庫から配られた粉を使い、帝都中の窯が動き始めている。

 

明日の朝、市民はパンを手にする。

 

少なくとも一日。

 

その次の日も配れるかもしれない。

 

六十二日後は分からない。

 

だが国家とは、永遠を約束するものではない。

 

明日を作り、その明日の中で次の日を作るものなのかもしれない。

 

---

 

同じ夜。

 

総主教庁の地下水路では、一人の男が石格子の前に立っていた。

 

紫宮から逃げた仮面の男。

 

右肩に傷を負い、血が衣を濡らしている。

 

彼は懐から小さな紙片を取り出した。

 

焼却前に帳簿から切り取った一頁。

 

そこには、複数の支払い記録があった。

 

《オルシャ鍵守一族排除費》

 

《ナフル穀物船焼却費》

 

《聖冠派巡礼団扇動費》

 

《七燭派民兵への武器供与》

 

《啓句派市場警備兵買収》

 

そして、支払承認者の欄。

 

名前ではなく、記号。

 

《紫帳》

 

その下に、もう一つ。

 

《灰の鍵》

 

男は紙片を蝋布へ包み、小さな金属筒へ入れた。

 

水路の格子の向こうに、待っている者がいた。

 

顔は見えない。

 

「帳簿は」

 

格子の向こうから声がした。

 

「半分焼いた。残りは将軍が確保した」

 

「失敗だ」

 

「この頁がある」

 

男は筒を差し出した。

 

向こうの手が受け取る。

 

「皇帝は死んだ」

 

「予定どおりだ」

 

「殺したのか」

 

「病人が死ぬことまで、我々の手柄にするな」

 

「次は」

 

格子の向こうの人物は答えた。

 

「三人に帳簿を読ませる」

 

「我々の名が出る」

 

「だからよい」

 

男は理解できなかった。

 

「争わせるのか」

 

「真実は、嘘より人を争わせることがある」

 

「帳簿が偽物だと?」

 

「本物だ」

 

「なら」

 

「本物だからこそ、誰も受け入れられない」

 

格子の向こうの人物は去った。

 

足音が遠ざかる。

 

傷ついた男は一人、水路に残された。

 

明朝、アウレリア帝国の三人の後継者は紫帳を開く。

 

彼らは陰謀の証拠を探す。

 

そして見つけるだろう。

 

自分たちが知りたくなかった事実を。

 

父帝が秘密の支払いを許可していたこと。

 

軍が敵へ金を流していたこと。

 

教会が宗派扇動へ資金を出していたこと。

 

皇子たちの側近が穀物価格へ賭けていたこと。

 

皇女の名で、彼女の知らない命令が出されていたこと。

 

すべてが本物だった。

 

だが、すべてが同じ目的で行われたわけではない。

 

必要な賄賂。

 

秘密外交。

 

腐敗。

 

横領。

 

戦争準備。

 

善意。

 

裏切り。

 

それらを一冊の帳簿へ並べれば、区別は消える。

 

数字には動機が書かれていない。

 

読む者が動機を補う。

 

そして人は、自分の恐れている物語を選ぶ。

 

帝国の夜空に、七燭派の祈りの鐘が鳴った。

 

皇帝の死を悼む鐘。

 

新しい時代を告げる鐘。

 

遠いオルシャで十三度鳴った鐘とは違う。

 

だが、その響きは同じ道を進んでいた。

 

信仰。

 

穀物。

 

銀貨。

 

王冠。

 

それらを結ぶ見えない糸が、蒼環海を越えて締まり始めている。

 

灰暦八百七十二年、春。

 

アウレリア東方帝国は、一人の皇帝を失った。

 

その日のうちに、皇女は摂政を名乗り、皇子は軍を集め、将軍は秘密帳簿を奪い、パン職人は父を埋葬した。

 

後世の年代記は、この日を「紫の空位」と記す。

 

だが帝都の民衆は、もっと単純な名で覚えた。

 

**パンがなくなり、皇帝が死んだ日。**

 

そして翌朝、紫帳が開かれる。

 

その頁に記された最初の名が、帝国を三つに裂くことになる。

 

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