その夏、世界には三人の皇帝がいた。
一人は、神に選ばれたと信じていた。
一人は、神に見捨てられたと知っていた。
そして最後の一人は、神など必要ないと考えていた。
三人はまだ互いの顔を見たことがない。
だが彼らの命令によって動き始めた兵士たちは、遠からず同じ街道を歩き、同じ川の水を飲み、同じ野に血を流すことになる。
灰暦八百七十二年、夏。
蒼環海を囲む諸国では、麦が黄金色に実り始めていた。
平和な年であれば、それは収穫の季節が近いことを意味した。
だが、この年の麦穂は、槍の穂先に似ていた。
*
神聖エーレン帝国の帝都マインツに、雨は三週間降っていなかった。
石畳は白く乾き、馬車が通るたびに細かな土埃が舞い上がった。大聖堂の鐘楼も、諸侯の館も、職人街の傾いた屋根も、薄い灰色の膜をかぶっている。
朝のうちはまだ川から涼しい風が流れ込んだが、太陽が城壁の上へ昇るころには、それも熱気に押し戻された。
皇帝宮殿の窓はすべて開け放たれていた。
それでも空気は動かなかった。
赤い大理石を敷き詰めた謁見の間には、蜜蝋の燭台と人間の汗が混じった、甘く重い臭いがこもっている。
神聖エーレン帝国皇帝マティアス四世は、玉座に座ったまま、右手の親指で指輪を回していた。
青い宝石を埋め込んだ皇帝印である。
若いころには、指にぴたりとはまっていた。
今は肉の落ちた関節の上で、わずかに緩い。
回すたび、金属の冷たさが皮膚をこすった。
「もう一度申してみよ」
マティアスは言った。
声そのものは低く、平静だった。
しかし、玉座の前に立つ宮廷書記官は、皇帝が怒りを押し殺していることを知っていた。書記官だけではない。左右に並ぶ選帝侯、司教、宮廷貴族の全員が知っていた。
誰も視線を上げなかった。
書記官は手にした羊皮紙を見下ろした。
「西部六領邦の諸侯は、帝国軍召集令への回答を留保しております」
「留保とは何だ」
「帝国法および黄金勅書に基づき、召集の正当性を審議する必要がある、と」
「審議」
皇帝の口元がかすかに歪んだ。
「東部国境では村が焼かれ、街道では商隊が襲われている。アウレリアの密使は我が諸侯へ金を配り、改革派の説教師どもは帝国そのものを悪魔の家と呼んでいる。それでも、あの者たちは審議をするというのか」
「陛下」
右手の列から、白髪の男が一歩進み出た。
ライン選帝侯コンラートであった。
痩せた顔には深い皺が刻まれている。高齢ではあったが、その立ち姿には剣のような硬さが残っていた。
「諸侯は、陛下の敵ではございません」
マティアスは指輪を回す手を止めた。
「余もそう信じたい」
「彼らが懸念しているのは、召集そのものではなく、その目的です。国境防衛のための軍であるならば、諸侯は兵を出しましょう。しかし、その兵が帝国内の宗教改革派を討つために用いられるのであれば――」
「異端を討つことは帝国を守ることではないのか」
「その異端を信じる領民が、すでに数十万おります」
謁見の間の空気が、さらに重くなった。
誰かが小さく息を呑んだ。
皇帝の背後には、金糸で織られた巨大な鷲の旗が垂れていた。双頭の鷲。その二つの頭は東と西を見張り、中央の胸には聖なる冠を戴いている。
かつてマティアスは、その旗を見るたびに自らの使命を感じた。
帝国は諸民族を包む屋根であり、皇帝はその梁である。
梁が折れれば、屋根は落ちる。
だからこそ皇帝は折れてはならない。
そう教えられてきた。
だが近ごろ、マティアスは別の考えに取りつかれていた。
もしかすると、この帝国は一つの建物ではないのではないか。
異なる時代に、異なる職人が、異なる石を積み上げた迷宮なのではないか。
皇帝とは、それを支える梁ではない。
崩れかけた壁の間に立たされ、どちらが先に倒れるかを見届ける囚人にすぎないのではないか。
「数十万」
マティアスは呟いた。
「信徒の数が増えれば、誤りが真実になると申すか」
「いいえ」
コンラートは答えた。
「しかし、誤りを剣で正そうとすれば、帝国の畑を耕す者も、税を払う者も、兵として戦う者も失います」
「では説教を続けさせよと?」
「話し合わせるべきです」
「余は三年前にも話し合わせた」
マティアスの声に、初めて露骨な苛立ちが混じった。
「聖職者と改革派を同じ卓につかせた。何が起こった。互いに聖典を引用し、互いを地獄へ送り、最後には椅子を投げ合ったではないか」
列の端で、若い司教が顔を伏せた。
その会議で椅子を投げた一人が、彼の叔父だった。
マティアスはそれに気づいたが、気づかぬふりをした。
昔ならば、わざと名を呼んで辱めただろう。
今は、そのために使う気力さえ惜しかった。
睡眠が浅くなっていた。
夜ごと目を覚まし、暗闇の中で自分の心臓の音を聞く。鼓動が一つ抜けるたび、死が寝台の傍らまで来たように感じる。
侍医は老齢によるものだと言った。
だが、マティアスには分かっていた。
自分が恐れているのは、死そのものではない。
自分の死後に開かれる扉だった。
皇太子は病弱で、子がない。
弟のレオポルト大公は軍人たちに人気があるが、妥協という言葉を知らない。北部諸侯が推すエルンスト公は改革派に理解を示し、帝国よりも諸侯会議を重んじる。
マティアスが死ねば、選帝侯たちは新たな皇帝を選ぶ。
ただし一人とは限らなかった。
黄金と軍勢が票を二つに割れば、帝国には二人の皇帝が生まれる。
そして二人の皇帝が生まれたとき、帝国から皇帝はいなくなる。
「陛下」
今度は宮廷宰相が口を開いた。
「東方より、もう一通の書状が届いております」
「アウレリアか」
「はい」
宰相が差し出した羊皮紙には、紫の蝋が垂らされ、双頭の鷲とは異なる、翼を閉じた金の鷲が刻まれていた。
マティアスは書状を受け取らなかった。
「読め」
「アウレリア東方帝国皇帝、神の恩寵により紫衣をまとう者、古き帝都の守護者、アレクシオス九世陛下より――」
「称号はよい」
宰相は一瞬、言葉を止めた。
「アレクシオス帝は、東部国境における帝国軍の増強について説明を求めております。また、エーレン帝国がオルシャ聖地諸侯領へ軍を派遣する場合、アウレリア帝国の権益を侵害するものと見なす、と」
謁見の間に低いざわめきが広がった。
「こちらの国境が焼かれているというのに、なぜ余が説明をせねばならぬ」
マティアスは玉座の肘掛けを握った。
乾いた指の骨が白く浮いた。
「若造め」
アレクシオス九世は、前年に即位したばかりの二十四歳だった。
マティアスの長男が生きていれば、同じほどの年齢になっていた。
その事実が、若い東方皇帝への嫌悪を強くしていることを、マティアス自身は認めようとしなかった。
「陛下」
コンラートが再び言った。
「アウレリアは、我らが内乱に陥ることを望んでおります」
「分かっている」
「ならば、挑発に乗るべきではありません」
「分かっていると言った」
マティアスの声が響いた。
窓の外から鳩が飛び立ち、羽音が遠ざかった。
皇帝はしばらく黙っていた。
大理石の床に落ちた陽光の中を、埃がゆっくり漂っている。
あまりにもゆっくりとしていた。
世界の外側にある時間だけが流れ、自分たちのいるこの部屋だけが取り残されたように見えた。
「諸侯会議を招集せよ」
やがてマティアスは言った。
「十五日後。場所はマインツ」
宰相が目を見開いた。
「すべての選帝侯を、でしょうか」
「すべてだ。聖職諸侯も、世俗諸侯も呼べ。ヴァルネリア王国、アルビオン海王国、聖座ルミナにも使節を送る」
「議題は」
マティアスは、ようやく皇帝印の指輪を抜いた。
長く着け続けていたため、指には白い跡が残った。
「帝国の戦争だ」
彼は指輪を見つめた。
「どの戦争を始めるのかではない」
老皇帝の声は静かだった。
「すでに始まっている戦争の名を決める」
*
蒼環海の東端では、海の色が違っていた。
西方の港では青く見える水が、アウレリア帝国の首都コンスタリオンでは、深い緑色に光る。
黒海から流れ込む暗い水と、南から来る明るい潮が、皇都の前で渦を巻いて混じり合うためだと船乗りたちは言う。
その二つの海をつなぐ狭い水道の両岸に、コンスタリオンは広がっていた。
七つの丘。
三重の城壁。
数百の教会。
無数の市場と浴場と宮殿。
古い時代、この街を造った皇帝は、世界の中心を定めるため地面に槍を突き立てたという。
だがアレクシオス九世は、自分が世界の中心に立っているとは思えなかった。
むしろ、あらゆる世界の縁がこの街に集まり、互いを押し潰そうとしているように感じていた。
皇宮の露台からは、金角湾を埋める船団が見えた。
穀物船、絹を積んだ商船、ヴェリグラードから来た毛皮商人の舟、セレスタ同盟の細長い快速船、そして帝国海軍の大型軍船。
帆柱が夏空を刺し、その間を海鳥が飛び交っている。
港から聞こえてくる掛け声は、ギリシア語、エーレン語、アルサク語、セレスタ語が入り交じり、一つの巨大な獣の唸り声のようだった。
アレクシオスは欄干に両手を置いた。
白い大理石は、すでに太陽に焼かれて温かい。
「陛下。お顔の色が優れません」
背後から声をかけたのは、皇太后テオドラだった。
アレクシオスは振り返らなかった。
「眠れなかっただけです」
「即位されてから、毎朝そうおっしゃいます」
「毎夜、眠れないからです」
皇太后の衣擦れが近づいた。
テオドラは四十代の半ばであったが、遠目には三十代にも見えた。黒髪にはまだ白いものがなく、背筋は真っ直ぐに伸びている。
皇帝の母というより、自ら帝冠を戴くべき女だと囁く者もいた。
アレクシオスも、幼いころから何度となくそう思った。
母は決して迷わない。
少なくとも、迷っている姿を他人に見せない。
息子である自分にさえ。
「西方皇帝への書状は送りました」
アレクシオスが言った。
「マティアスは怒るでしょう」
「怒らせるために送ったのです」
テオドラは息子の隣に立った。
彼女の影が欄干の上に伸びた。
「老いた獅子は、歯が残っていることを確かめるため、必要もないのに噛みつきます。噛みつかせなさい。どこまで顎が動くか分かります」
「その獅子に噛まれるのは、国境の農民です」
「皇帝が農民一人一人の痛みを感じていては、国は治められません」
その言葉は、刃物のように鋭くはなかった。
むしろ、長く使われた秤のように冷静だった。
だからこそアレクシオスには堪えた。
「父上も、そう考えていたのでしょうか」
テオドラの顔から、わずかに表情が消えた。
「先帝は、必要なことをなさいました」
「国境の反乱を鎮めるため、三つの村を焼いたことも?」
「反乱軍に食料を与えた村です」
「女子供もいた」
「女子供のいない村などありません」
アレクシオスは母を見た。
テオドラの横顔は、聖堂に置かれた聖人像のように整っていた。
しかし、何を考えているのかは読み取れない。
「私は父上とは違います」
「ええ」
母は即座に答えた。
「それが、私の最大の懸念です」
港から鐘が鳴った。
出航を告げる鐘だった。
大型船の帆がゆっくりと膨らみ、岸壁から離れていく。櫂が水面に差し込まれ、濃い緑の水が白く泡立った。
アレクシオスは、その船がどこへ向かうのか知らなかった。
穀物を積んで南へ向かうのか。
兵を乗せて北へ向かうのか。
商人と兵士は、遠くから見ればほとんど同じだった。
同じ船に乗り、同じ風を待ち、同じ海で死ぬ。
「評議会が待っております」
テオドラは言った。
「将軍たちは、北部軍への増援を求めています。財務官は金がないと言うでしょう。教会は異端派の処罰を求めます。そして商人たちは、戦争を避けろと言いながら武器を売ります」
「分かっています」
「分かるだけでは足りません」
母の声が、わずかに低くなった。
「陛下は選ばねばなりません」
アレクシオスは欄干から手を離した。
掌に薄く汗がにじんでいた。
父の急死から、まだ九か月しか経っていない。
狩猟中の落馬。
宮廷はそう発表した。
だが、父の遺体を見たアレクシオスは、首の後ろに小さな黒い痕があったことを覚えている。
侍医は枝で傷ついた跡だと言った。
母もそう言った。
翌朝、その侍医は屋敷で首を吊った。
以来アレクシオスは、父の死について誰にも尋ねていない。
知らないことが、自分の身を守ることもある。
だが、知らないふりを続けていると、自分の中のどこかが少しずつ腐っていく。
皇帝になってから、彼はその腐敗の臭いを常に感じていた。
「母上」
「何でしょう」
「父上は、本当に落馬で亡くなったのですか」
港の音が遠のいた。
実際には何も静かになっていない。
荷車は軋み、船員は叫び、鐘は鳴り続けている。
それでもアレクシオスには、二人の間からすべての音が消えたように思えた。
テオドラは息子を見つめた。
その瞳の中に、一瞬だけ、疲労の影が浮かんだ。
「陛下」
母は答えなかった。
「評議会へ参りましょう」
それだけを言い、露台を離れた。
アレクシオスは追わなかった。
聞くべきではなかったのかもしれない。
あるいは、もっと早く聞くべきだったのかもしれない。
どちらにせよ、返事がなかったこと自体が、一つの返事だった。
彼は再び港を見下ろした。
軍港では、帝国海軍の兵士が矢束を運び込んでいる。
矢羽根の白が、甲板の上に積もる雪のように見えた。
この真夏に。
「皇帝とは、選ぶ者だ」
アレクシオスは小さく呟いた。
母の言葉を繰り返しただけだった。
だが口に出してみると、それは真実ではないように感じた。
皇帝とは選ぶ者ではない。
選んだ結果によって、誰が死ぬかを知らされない者だ。
評議会の間では、すでに将軍たちが地図を広げて待っていた。
北にはヴェリグラード諸公国。
西には神聖エーレン帝国。
南にはオルシャ聖地諸侯領と、アルサク・スルタン国。
そして東の果て、地図の羊皮紙が途切れるあたりに、褐色の線で広大な草原が描かれている。
その中央に記された名を見たとき、アレクシオスは足を止めた。
サルグァ草原汗国。
地図上では、何もない土地に見える。
都市も、城壁も、港も少ない。
しかし何もないからこそ、軍はどこへでも進める。
「陛下」
北部軍司令官が立ち上がった。
「草原より報告が入りました」
「国境襲撃か」
「いいえ」
将軍の顔は青ざめていた。
「大汗バヤンが、七部族すべてを服属させました」
評議会の者たちは黙った。
アレクシオスは地図の上に置かれた、小さな黒い駒を見つめた。
「それだけではありません」
将軍は続けた。
「バヤンは先月、天幕の都サライにて新たな称号を名乗りました」
「何と」
将軍は一度、唇を湿らせた。
「天と大地の皇帝」
*
サライには城壁がなかった。
必要がなかった。
サルグァの民にとって、城壁とは敵から身を守るものではなく、自らを一つの場所に閉じ込める檻だった。
都と呼ばれてはいたが、サライの大半は天幕でできている。
白い羊毛の天幕。
黒い山羊毛の天幕。
部族長の紋章を掲げた巨大な天幕。
鍛冶師、革職人、馬商人、奴隷商人の小さな天幕。
それらが草原を埋め、遠くから眺めれば、地上に降りた雲の群れのように見えた。
風が吹くたび、馬の臭いと乳酒の酸味、焚き火の煙が混じって流れた。
真昼の太陽は、草原を容赦なく焼いていた。
影は天幕の真下に縮み、地面に落ちた汗は、染みを作る前に乾いた。
大汗バヤンは、天幕の外で一頭の馬を見ていた。
栗毛の若駒である。
細い脚を震わせながら、母馬の乳を求めて鼻先を動かしている。
生まれてから半刻も経っていなかった。
「立て」
バヤンは言った。
若駒に言葉が通じるはずはない。
それでも彼は言った。
「立たねば食われるぞ」
若駒は前脚を折り、何度も地面に膝をついた。
母馬が鼻を鳴らす。
周囲には護衛の騎兵と、七部族の長たちが並んでいた。
誰も口を開かなかった。
大汗が若駒を見ている間、待つほかない。
バヤンは四十二歳だった。
草原の男としては、すでに若くない。
左の頬には、耳元から口角まで達する古い刀傷がある。そのため笑っていなくとも、左側だけが笑っているように見えた。
彼は豪華な衣を好まなかった。
今日も灰色の長衣に革の帯を締め、足には擦り切れた乗馬靴を履いている。
ただし、腰に差した湾刀だけは違った。
刀の鞘には金が巻かれ、七つの青い石が埋め込まれている。
服属した七部族を示す石だった。
「大汗」
最も年長の部族長が呼びかけた。
「西方の使者を、いつまで待たせるおつもりです」
「待つことを覚えさせている」
「すでに朝から三刻です」
「ならば、少しは賢くなっただろう」
部族長たちの間から、控えめな笑いが漏れた。
若駒が、再び立とうとした。
前脚が伸びる。
後脚が地面を蹴る。
一度大きく傾いたが、今度は倒れなかった。
四本の脚を震わせ、危うい均衡を保っている。
バヤンは満足げに頷いた。
「生きる気がある」
彼は踵を返した。
「使者に会う」
大天幕の内部には、草原の夏とは別の熱気がこもっていた。
何十人もの男たちが集まり、中央の炉では香木が焚かれている。
西方から来た使者は、汗に濡れた礼服を着て立っていた。
神聖エーレン帝国の紋章を胸に縫い付けている。
その隣には通訳と、二人の従者がいた。
使者はバヤンが入ると深く頭を下げた。
膝はつかなかった。
「天と大地の皇帝、七つの民の主、偉大なるバヤン陛下に、神聖エーレン帝国皇帝マティアス四世陛下より――」
「長い」
バヤンは毛皮を重ねた座に腰を下ろした。
「用件を言え」
使者は顔を上げた。
「両国の友好と、国境の安定について協議するため参りました」
「友好」
バヤンは左の口角を上げた。
刀傷のため、その笑みは相手を嘲っているように見えた。
「お前たち西の民は、戦う準備をするときに友好と言う」
「誤解でございます」
「では、なぜ国境に兵を集めている」
「帝国内の治安維持のためです」
「馬は国境線を知らぬ」
バヤンは言った。
「兵も同じだ」
使者の喉が動いた。
大天幕の奥には、諸部族の長たちが座っている。
彼らは西方語を理解できないふりをしていたが、多くは意味を知っていた。
商人と戦争が、言葉を運んでくる。
「陛下」
使者は慎重に言葉を選んだ。
「マティアス帝は、サルグァとの争いを望んでおりません」
「望むかどうかは関係ない」
バヤンは傍らの器から乳酒を飲んだ。
「老皇帝は死ぬ」
使者の表情が硬くなった。
「陛下に対する無礼は――」
「無礼ではない。人は死ぬ」
バヤンは自分の胸を指で叩いた。
「私も死ぬ。お前も死ぬ。マティアスも死ぬ。ただし、あの男は先に死ぬ」
使者は否定しなかった。
否定できなかったのだろう。
「老皇帝が死ねば、息子も弟も諸侯も、皆が冠を欲しがる」
バヤンは続けた。
「一つしかない椅子を、十人で奪い合う。その間に国境は空く」
「帝国の継承制度を誤解しておられます」
「制度とは、強い者が弱い者に守らせる約束だ」
バヤンは平然と言った。
「強い者が死ねば、約束も死ぬ」
使者は答えなかった。
天幕の外で、馬が甲高く鳴いた。
先ほどの若駒かもしれない。
「お前の皇帝に伝えろ」
バヤンは言った。
「私は西へ行く」
部族長たちの目が、一斉に大汗へ向いた。
彼らにも、正式に告げられていなかった。
「略奪が目的でしょうか」
使者は訊いた。
声がわずかに震えていた。
「西の穀物も、銀も、女も、我らは欲しておりません」
「では何を」
「道だ」
バヤンは答えた。
「東から西へ続く、広い道が欲しい。商人が税を払い、使者が安全に通り、我が馬が海まで走れる道だ」
「その道には、諸王国と諸公国がございます」
「だから道を造る」
バヤンは笑った。
「何もない場所に道を造るのは、誰にでもできる」
使者の顔から汗が流れ、顎先から落ちた。
「それは、征服の宣言と受け取られます」
「好きに受け取れ」
「神聖エーレン帝国だけでなく、アウレリアも、ヴェリグラード諸公国も敵に回します」
「敵が三つなら、三つ倒す」
「西方諸国すべてが結束する可能性もあります」
その言葉を聞いたとき、部族長たちの一部が不安げに互いを見た。
バヤンはそれを見逃さなかった。
七つの部族は服属した。
だが、服属と忠誠は違う。
彼らはバヤンが勝つ限り従う。
一度でも大敗すれば、七つの青い石は七本の刃となり、彼の背中へ突き立つだろう。
恐れていないわけではなかった。
大汗となるまでに、バヤンは三人の兄を殺し、二人の叔父を追放し、一人の息子を失った。
殺した者の顔は、眠りの浅い夜に現れる。
息子の顔だけは現れなかった。
死んだとき、まだ三歳だった。
熱病で赤くなった顔を、彼は正確には思い出せない。
そのことが、兄を殺した記憶よりも彼を苦しめた。
人は失ったものを忘れる。
忘れたくないものから先に忘れていく。
だからバヤンは進み続けた。
止まれば、忘れたものの形を考えてしまう。
戦い、従わせ、領土を広げている間だけは、自分が何かを残していると思えた。
「西方諸国が結束する」
バヤンは使者の言葉を繰り返した。
「それはよい」
「よい、と?」
「一つずつ探す手間が省ける」
大汗は立ち上がった。
謁見の終わりを意味した。
「マティアス帝に伝えろ。夏の終わりまでに、東へ向かうすべての城門を開けよ。市場を開き、通行税を定め、我が使者を受け入れよ」
「拒否された場合は」
バヤンは天幕の入口へ目を向けた。
風に揺れる布の隙間から、眩しい草原が見える。
若駒が母馬の傍らに立っていた。
まだ脚は震えている。
それでも、もう倒れてはいなかった。
「門は、開くためにある」
バヤンは言った。
「中から開かぬなら、外から開ける」
*
同じ日の夕刻。
神聖エーレン帝国の宮殿では、マティアス四世が一人で食卓についていた。
銀皿には鱒の香草焼きと、冷やした果実が並んでいる。
だが皇帝は、ほとんど手をつけなかった。
広間の窓から西日が差し込み、長い卓の上を赤く染めていた。
かつては、この食卓に家族がいた。
皇后。
二人の息子。
三人の娘。
笑い声を上げることを禁じられた宮廷の食事であっても、幼い子供は匙を落とし、パンを取り合い、家庭教師に叱られた。
今、皇后は地下礼拝堂の石棺に眠っている。
長男は遠征中に病死した。
次男である皇太子は南部の離宮で療養し、この夏を越せるかも分からない。
娘たちはすべて他国へ嫁いだ。
帝国を守るために結ばせた婚姻だった。
その結果、皇帝の食卓から家族が消えた。
マティアスは鱒の身にフォークを入れた。
白い肉が崩れ、骨が露出した。
その骨を見た瞬間、なぜか自分の指を思い出した。
老いとは、肉の内側に隠れていた骨が、少しずつ姿を現すことなのかもしれない。
「陛下」
侍従長が入口に立っていた。
「何だ」
「東方へ送った密偵より、急報がございます」
マティアスはフォークを置いた。
「申せ」
「サルグァの大汗バヤンが、七部族の統一を宣言しました」
「それは昼に聞いた」
「新たな称号についても?」
皇帝は侍従長を見た。
「称号?」
「天と大地の皇帝、と」
マティアスはしばらく無言だった。
やがて、低い笑い声を漏らした。
侍従長は驚いたように目を上げた。
「皇帝か」
マティアスは笑い続けた。
「何がおかしいのか、自分でも分からぬ」
笑いはすぐに咳へ変わった。
彼は口元を布で押さえた。
白い布に、小さな赤い点がついた。
侍従長が一歩踏み出したが、マティアスは手で制した。
「侍医を」
「呼ぶな」
「しかし」
「余の血を量ったところで、帝国の寿命は延びぬ」
皇帝は椅子の背にもたれた。
西方に一人。
東方に一人。
そして草原に一人。
三人の皇帝。
古い聖典では、世界に皇帝は一人しか存在し得ないとされている。
天に神が一人であるように、地上の秩序を担う皇帝も一人であるべきだと。
だが現実の世界では、神の名を唱える皇帝が二人いた。
そして今、神の名さえ唱えぬ三人目が現れた。
「面白いではないか」
マティアスは呟いた。
「陛下?」
「三人の皇帝がいて、平和が一つもない」
窓の外で、夕日が帝都の屋根を赤く焼いている。
その向こうには、西部諸侯の領地がある。
さらに西にはヴァルネリア王国とアルビオン海王国。
南には聖座とセレスタ同盟。
東にはアウレリア。
そのさらに先には、バヤンの草原が広がっている。
マティアスは、世界を一枚の地図として思い浮かべた。
国境線。
街道。
河川。
峠。
港。
それらは静かに描かれている。
だが地図の上で一本の線を引くたび、現実の世界では兵士が歩く。
駄馬が潰れる。
畑が踏み荒らされる。
井戸に死体が投げ込まれる。
地図には臭いがない。
泣き声もない。
それゆえ、皇帝たちは地図を好む。
「諸侯会議を十日後に繰り上げよ」
マティアスは命じた。
「十五日後ではなかったのですか」
「夏は待たぬ」
皇帝は皇帝印の指輪を再びはめた。
指には緩かった。
それでも外すことはできなかった。
「東部軍を増強する。ヴァルネリアへは援軍を求めよ。アルビオンには船を。セレスタには金を求める」
「聖座には、何を」
マティアスは答えるまでに、少し時間を置いた。
「祈りを求めよ」
「祈り、でございますか」
「どうせ兵も金も出さぬ」
老皇帝は冷たく笑った。
「ならば、最も安く与えられるものを求めてやればよい」
*
コンスタリオンでは、アレクシオス九世が軍議を終えたところだった。
北部軍へ三千。
黒海艦隊へ二十隻。
国境要塞へ半年分の穀物。
数字を読み上げるたび、それが人間の数であることを意識しないよう努めた。
三千人には、三千人の母親がいる。
二十隻には、千を超える漕ぎ手が乗る。
半年分の穀物を要塞へ送れば、それを食べられなくなる村がある。
一つ一つを考えていては、命令書に署名できない。
母の言うとおりだった。
それでも最後の命令書を前にしたとき、アレクシオスの手は止まった。
内容は、北部国境付近の三村を移転させ、軍用地とするものだった。
住民には補償金を与える。
移転期限は二十日。
拒否する者は反逆者と見なす。
父が焼いた村のことを思い出した。
「署名を」
皇太后テオドラが促した。
「二十日では短すぎます」
「草原の騎兵は、我々の都合を待ちません」
「収穫前です。移転させれば、今年の麦は失われる」
「麦と国境のどちらが重要です」
「その国境の内側で暮らすための麦です」
「陛下」
テオドラの声には、怒りではなく失望があった。
怒鳴られるよりも、その方がアレクシオスを傷つけた。
「皇帝は、すべてを救うことはできません」
「分かっています」
「いいえ。陛下はまだ、分かることと受け入れることを混同しておられる」
アレクシオスは母を見返した。
言い返したかった。
しかし、言葉が出なかった。
母は正しい。
正しいからこそ憎かった。
彼は羽根ペンを取り、署名した。
アレクシオス。
九世。
皇帝。
三つの言葉を書くだけで、三つの村が消える。
蝋燭の火で紫の蝋を溶かし、皇帝印を押した。
印章を持ち上げると、金の鷲が鮮明に浮かび上がった。
それは翼を広げてはいなかった。
翼を閉じ、何かを抱え込むような姿をしている。
国を守る鷲。
あるいは、国を爪の中に閉じ込める鷲。
「これでよいのでしょう」
アレクシオスは言った。
「必要なご決断です」
テオドラは答えた。
「よい決断ではなく?」
「皇帝に許されるのは、必要か不要かです」
母は命令書を侍従へ渡した。
「善悪を選びたいのであれば、修道士になるべきでした」
アレクシオスは椅子から立った。
胸の奥に怒りがあった。
母に対する怒り。
父に対する怒り。
皇帝という地位に対する怒り。
だが最も強かったのは、結局署名した自分自身への怒りだった。
「失礼します」
「どちらへ」
「祈りに」
アレクシオスは答えた。
「修道士にはなれませんでしたから、せめて真似事をします」
*
サライの夜は冷えた。
昼間の熱が嘘のように消え、草原の風が天幕を鳴らした。
空には、無数の星があった。
西方の都市では、煙と灯火に隠されて見えない星々まで、ここでは地平線から地平線まで埋め尽くしている。
バヤンは一人で丘に登っていた。
護衛は麓に残した。
大汗を一人にすることを彼らは嫌がったが、命令には逆らえない。
丘の頂には、石を積んだ小さな墓があった。
名前は刻まれていない。
石に名を刻む習慣が、サルグァの民にはなかった。
死者の名は、生者が覚えていればよい。
バヤンは墓の前に座り、小さな木馬を置いた。
粗末な玩具だった。
片方の脚が欠けている。
「また西へ行く」
彼は墓に向かって言った。
返事はない。
「今度は海まで行く」
風が草を揺らした。
墓の中にいるのは、三歳で死んだ息子だった。
顔は思い出せない。
だが、小さな手の感触だけは覚えている。
指を握られたとき、驚くほど力が強かった。
この子は騎手になる。
そう思った。
結局、一度も馬に乗らなかった。
「お前に見せたかった」
バヤンは星空を見上げた。
「西の海は、草原よりも広いらしい」
彼は神を信じていなかった。
正確には、神々が存在するかどうかに関心がなかった。
祈った者も死ぬ。
祈らなかった者も死ぬ。
勝敗を決めるのは、馬の数、矢の数、水場の位置、指揮官の判断だった。
だが息子の墓の前では、ときおり神がいてほしいと思った。
存在しないと確信しているものに、存在してほしいと願う。
その矛盾を、バヤンは誰にも話したことがない。
「天と大地の皇帝」
彼は自ら名乗った称号を口にした。
部族長たちは喜んだ。
祭司たちは、天が認めた称号だと言った。
西方の使者は恐れた。
だがバヤン自身には、その言葉がひどく空虚に聞こえた。
七つの部族を従えても、死んだ子供一人を立たせることはできない。
世界を征服しても、過ぎた三年を取り戻せはしない。
「それでも行く」
バヤンは立ち上がった。
「止まれば、お前を忘れる」
木馬を墓に残し、丘を下りた。
麓では、すでに伝令たちが馬を用意している。
命令は七部族へ伝えられる。
騎兵十二万。
予備馬三十万頭。
羊の群れ。
鍛冶師。
矢職人。
革職人。
そして、草原を越えて軍を養うための商人たち。
戦争は兵士だけでは動かない。
兵士が進む道の後ろには、鉄と肉と金を運ぶ、もう一つの巨大な軍がある。
「大汗」
若い伝令が跪いた。
「出立の日をお定めください」
バヤンは東の空を見た。
地平線が、かすかに白み始めていた。
「三日後だ」
「三日」
「遅いか」
「いいえ」
伝令は頭を下げた。
「十分でございます」
「違う」
バヤンは馬の手綱を受け取った。
「十分かどうかは、戦いが終わってから決まる」
*
三日後。
マインツでは、神聖エーレン帝国皇帝マティアス四世の召集状が、諸侯の館へ向けて送り出された。
コンスタリオンでは、アウレリア東方帝国皇帝アレクシオス九世の軍令が、黒海艦隊と北部国境軍へ届けられた。
サライでは、天と大地の皇帝バヤンの旗が掲げられ、十二万の騎兵が西を向いた。
三人の皇帝が、三つの印章を押した。
一つは青い宝石の指輪。
一つは紫の蝋に刻まれた金の鷲。
一つは、獣の血で染められた七つの部族の印。
命令を記した羊皮紙は軽い。
風に飛ばされるほど軽い。
だが、そこに書かれた数行の言葉を運ぶために、何万頭もの馬が走り、何万本もの槍が磨かれ、何十万石もの麦が倉から運び出された。
夏の空には、まだ雲一つなかった。
農民たちは畑で鎌を研ぎ、商人たちは香辛料の値を計算し、船乗りたちは風向きを読んでいた。
誰も、自分たちの暮らす世界がすでに傾き始めたことを知らなかった。
三人の皇帝もまた、知らなかった。
彼らはそれぞれ、自分が世界を動かしたと思っていた。
実際には、世界の方が彼らを動かしていた。
西へ。
東へ。
そして、まだ名のない戦場へ。
灰暦八百七十二年の夏。
三つの帝冠の影が、蒼環海の上で初めて重なった。
書き溜めていた分のストックがほぼ尽きてきましたので… 更新頻度についてアンケートをさせていただきたいと思います。 以降の更新頻度はどの程度がよいでしょうか?
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死ぬ気でがんばれ
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可能な範囲でがんばれ
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そんなに急ぐこたーないぞ