灰冠と香路の年代記   作:MOZIO

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第三十六章 三人の皇帝

 その夏、世界には三人の皇帝がいた。

 

 一人は、神に選ばれたと信じていた。

 

 一人は、神に見捨てられたと知っていた。

 

 そして最後の一人は、神など必要ないと考えていた。

 

 三人はまだ互いの顔を見たことがない。

 

 だが彼らの命令によって動き始めた兵士たちは、遠からず同じ街道を歩き、同じ川の水を飲み、同じ野に血を流すことになる。

 

 灰暦八百七十二年、夏。

 

 蒼環海を囲む諸国では、麦が黄金色に実り始めていた。

 

 平和な年であれば、それは収穫の季節が近いことを意味した。

 

 だが、この年の麦穂は、槍の穂先に似ていた。

 

     *

 

 神聖エーレン帝国の帝都マインツに、雨は三週間降っていなかった。

 

 石畳は白く乾き、馬車が通るたびに細かな土埃が舞い上がった。大聖堂の鐘楼も、諸侯の館も、職人街の傾いた屋根も、薄い灰色の膜をかぶっている。

 

 朝のうちはまだ川から涼しい風が流れ込んだが、太陽が城壁の上へ昇るころには、それも熱気に押し戻された。

 

 皇帝宮殿の窓はすべて開け放たれていた。

 

 それでも空気は動かなかった。

 

 赤い大理石を敷き詰めた謁見の間には、蜜蝋の燭台と人間の汗が混じった、甘く重い臭いがこもっている。

 

 神聖エーレン帝国皇帝マティアス四世は、玉座に座ったまま、右手の親指で指輪を回していた。

 

 青い宝石を埋め込んだ皇帝印である。

 

 若いころには、指にぴたりとはまっていた。

 

 今は肉の落ちた関節の上で、わずかに緩い。

 

 回すたび、金属の冷たさが皮膚をこすった。

 

「もう一度申してみよ」

 

 マティアスは言った。

 

 声そのものは低く、平静だった。

 

 しかし、玉座の前に立つ宮廷書記官は、皇帝が怒りを押し殺していることを知っていた。書記官だけではない。左右に並ぶ選帝侯、司教、宮廷貴族の全員が知っていた。

 

 誰も視線を上げなかった。

 

 書記官は手にした羊皮紙を見下ろした。

 

「西部六領邦の諸侯は、帝国軍召集令への回答を留保しております」

 

「留保とは何だ」

 

「帝国法および黄金勅書に基づき、召集の正当性を審議する必要がある、と」

 

「審議」

 

 皇帝の口元がかすかに歪んだ。

 

「東部国境では村が焼かれ、街道では商隊が襲われている。アウレリアの密使は我が諸侯へ金を配り、改革派の説教師どもは帝国そのものを悪魔の家と呼んでいる。それでも、あの者たちは審議をするというのか」

 

「陛下」

 

 右手の列から、白髪の男が一歩進み出た。

 

 ライン選帝侯コンラートであった。

 

 痩せた顔には深い皺が刻まれている。高齢ではあったが、その立ち姿には剣のような硬さが残っていた。

 

「諸侯は、陛下の敵ではございません」

 

 マティアスは指輪を回す手を止めた。

 

「余もそう信じたい」

 

「彼らが懸念しているのは、召集そのものではなく、その目的です。国境防衛のための軍であるならば、諸侯は兵を出しましょう。しかし、その兵が帝国内の宗教改革派を討つために用いられるのであれば――」

 

「異端を討つことは帝国を守ることではないのか」

 

「その異端を信じる領民が、すでに数十万おります」

 

 謁見の間の空気が、さらに重くなった。

 

 誰かが小さく息を呑んだ。

 

 皇帝の背後には、金糸で織られた巨大な鷲の旗が垂れていた。双頭の鷲。その二つの頭は東と西を見張り、中央の胸には聖なる冠を戴いている。

 

 かつてマティアスは、その旗を見るたびに自らの使命を感じた。

 

 帝国は諸民族を包む屋根であり、皇帝はその梁である。

 

 梁が折れれば、屋根は落ちる。

 

 だからこそ皇帝は折れてはならない。

 

 そう教えられてきた。

 

 だが近ごろ、マティアスは別の考えに取りつかれていた。

 

 もしかすると、この帝国は一つの建物ではないのではないか。

 

 異なる時代に、異なる職人が、異なる石を積み上げた迷宮なのではないか。

 

 皇帝とは、それを支える梁ではない。

 

 崩れかけた壁の間に立たされ、どちらが先に倒れるかを見届ける囚人にすぎないのではないか。

 

「数十万」

 

 マティアスは呟いた。

 

「信徒の数が増えれば、誤りが真実になると申すか」

 

「いいえ」

 

 コンラートは答えた。

 

「しかし、誤りを剣で正そうとすれば、帝国の畑を耕す者も、税を払う者も、兵として戦う者も失います」

 

「では説教を続けさせよと?」

 

「話し合わせるべきです」

 

「余は三年前にも話し合わせた」

 

 マティアスの声に、初めて露骨な苛立ちが混じった。

 

「聖職者と改革派を同じ卓につかせた。何が起こった。互いに聖典を引用し、互いを地獄へ送り、最後には椅子を投げ合ったではないか」

 

 列の端で、若い司教が顔を伏せた。

 

 その会議で椅子を投げた一人が、彼の叔父だった。

 

 マティアスはそれに気づいたが、気づかぬふりをした。

 

 昔ならば、わざと名を呼んで辱めただろう。

 

 今は、そのために使う気力さえ惜しかった。

 

 睡眠が浅くなっていた。

 

 夜ごと目を覚まし、暗闇の中で自分の心臓の音を聞く。鼓動が一つ抜けるたび、死が寝台の傍らまで来たように感じる。

 

 侍医は老齢によるものだと言った。

 

 だが、マティアスには分かっていた。

 

 自分が恐れているのは、死そのものではない。

 

 自分の死後に開かれる扉だった。

 

 皇太子は病弱で、子がない。

 

 弟のレオポルト大公は軍人たちに人気があるが、妥協という言葉を知らない。北部諸侯が推すエルンスト公は改革派に理解を示し、帝国よりも諸侯会議を重んじる。

 

 マティアスが死ねば、選帝侯たちは新たな皇帝を選ぶ。

 

 ただし一人とは限らなかった。

 

 黄金と軍勢が票を二つに割れば、帝国には二人の皇帝が生まれる。

 

 そして二人の皇帝が生まれたとき、帝国から皇帝はいなくなる。

 

「陛下」

 

 今度は宮廷宰相が口を開いた。

 

「東方より、もう一通の書状が届いております」

 

「アウレリアか」

 

「はい」

 

 宰相が差し出した羊皮紙には、紫の蝋が垂らされ、双頭の鷲とは異なる、翼を閉じた金の鷲が刻まれていた。

 

 マティアスは書状を受け取らなかった。

 

「読め」

 

「アウレリア東方帝国皇帝、神の恩寵により紫衣をまとう者、古き帝都の守護者、アレクシオス九世陛下より――」

 

「称号はよい」

 

 宰相は一瞬、言葉を止めた。

 

「アレクシオス帝は、東部国境における帝国軍の増強について説明を求めております。また、エーレン帝国がオルシャ聖地諸侯領へ軍を派遣する場合、アウレリア帝国の権益を侵害するものと見なす、と」

 

 謁見の間に低いざわめきが広がった。

 

「こちらの国境が焼かれているというのに、なぜ余が説明をせねばならぬ」

 

 マティアスは玉座の肘掛けを握った。

 

 乾いた指の骨が白く浮いた。

 

「若造め」

 

 アレクシオス九世は、前年に即位したばかりの二十四歳だった。

 

 マティアスの長男が生きていれば、同じほどの年齢になっていた。

 

 その事実が、若い東方皇帝への嫌悪を強くしていることを、マティアス自身は認めようとしなかった。

 

「陛下」

 

 コンラートが再び言った。

 

「アウレリアは、我らが内乱に陥ることを望んでおります」

 

「分かっている」

 

「ならば、挑発に乗るべきではありません」

 

「分かっていると言った」

 

 マティアスの声が響いた。

 

 窓の外から鳩が飛び立ち、羽音が遠ざかった。

 

 皇帝はしばらく黙っていた。

 

 大理石の床に落ちた陽光の中を、埃がゆっくり漂っている。

 

 あまりにもゆっくりとしていた。

 

 世界の外側にある時間だけが流れ、自分たちのいるこの部屋だけが取り残されたように見えた。

 

「諸侯会議を招集せよ」

 

 やがてマティアスは言った。

 

「十五日後。場所はマインツ」

 

 宰相が目を見開いた。

 

「すべての選帝侯を、でしょうか」

 

「すべてだ。聖職諸侯も、世俗諸侯も呼べ。ヴァルネリア王国、アルビオン海王国、聖座ルミナにも使節を送る」

 

「議題は」

 

 マティアスは、ようやく皇帝印の指輪を抜いた。

 

 長く着け続けていたため、指には白い跡が残った。

 

「帝国の戦争だ」

 

 彼は指輪を見つめた。

 

「どの戦争を始めるのかではない」

 

 老皇帝の声は静かだった。

 

「すでに始まっている戦争の名を決める」

 

     *

 

 蒼環海の東端では、海の色が違っていた。

 

 西方の港では青く見える水が、アウレリア帝国の首都コンスタリオンでは、深い緑色に光る。

 

 黒海から流れ込む暗い水と、南から来る明るい潮が、皇都の前で渦を巻いて混じり合うためだと船乗りたちは言う。

 

 その二つの海をつなぐ狭い水道の両岸に、コンスタリオンは広がっていた。

 

 七つの丘。

 

 三重の城壁。

 

 数百の教会。

 

 無数の市場と浴場と宮殿。

 

 古い時代、この街を造った皇帝は、世界の中心を定めるため地面に槍を突き立てたという。

 

 だがアレクシオス九世は、自分が世界の中心に立っているとは思えなかった。

 

 むしろ、あらゆる世界の縁がこの街に集まり、互いを押し潰そうとしているように感じていた。

 

 皇宮の露台からは、金角湾を埋める船団が見えた。

 

 穀物船、絹を積んだ商船、ヴェリグラードから来た毛皮商人の舟、セレスタ同盟の細長い快速船、そして帝国海軍の大型軍船。

 

 帆柱が夏空を刺し、その間を海鳥が飛び交っている。

 

 港から聞こえてくる掛け声は、ギリシア語、エーレン語、アルサク語、セレスタ語が入り交じり、一つの巨大な獣の唸り声のようだった。

 

 アレクシオスは欄干に両手を置いた。

 

 白い大理石は、すでに太陽に焼かれて温かい。

 

「陛下。お顔の色が優れません」

 

 背後から声をかけたのは、皇太后テオドラだった。

 

 アレクシオスは振り返らなかった。

 

「眠れなかっただけです」

 

「即位されてから、毎朝そうおっしゃいます」

 

「毎夜、眠れないからです」

 

 皇太后の衣擦れが近づいた。

 

 テオドラは四十代の半ばであったが、遠目には三十代にも見えた。黒髪にはまだ白いものがなく、背筋は真っ直ぐに伸びている。

 

 皇帝の母というより、自ら帝冠を戴くべき女だと囁く者もいた。

 

 アレクシオスも、幼いころから何度となくそう思った。

 

 母は決して迷わない。

 

 少なくとも、迷っている姿を他人に見せない。

 

 息子である自分にさえ。

 

「西方皇帝への書状は送りました」

 

 アレクシオスが言った。

 

「マティアスは怒るでしょう」

 

「怒らせるために送ったのです」

 

 テオドラは息子の隣に立った。

 

 彼女の影が欄干の上に伸びた。

 

「老いた獅子は、歯が残っていることを確かめるため、必要もないのに噛みつきます。噛みつかせなさい。どこまで顎が動くか分かります」

 

「その獅子に噛まれるのは、国境の農民です」

 

「皇帝が農民一人一人の痛みを感じていては、国は治められません」

 

 その言葉は、刃物のように鋭くはなかった。

 

 むしろ、長く使われた秤のように冷静だった。

 

 だからこそアレクシオスには堪えた。

 

「父上も、そう考えていたのでしょうか」

 

 テオドラの顔から、わずかに表情が消えた。

 

「先帝は、必要なことをなさいました」

 

「国境の反乱を鎮めるため、三つの村を焼いたことも?」

 

「反乱軍に食料を与えた村です」

 

「女子供もいた」

 

「女子供のいない村などありません」

 

 アレクシオスは母を見た。

 

 テオドラの横顔は、聖堂に置かれた聖人像のように整っていた。

 

 しかし、何を考えているのかは読み取れない。

 

「私は父上とは違います」

 

「ええ」

 

 母は即座に答えた。

 

「それが、私の最大の懸念です」

 

 港から鐘が鳴った。

 

 出航を告げる鐘だった。

 

 大型船の帆がゆっくりと膨らみ、岸壁から離れていく。櫂が水面に差し込まれ、濃い緑の水が白く泡立った。

 

 アレクシオスは、その船がどこへ向かうのか知らなかった。

 

 穀物を積んで南へ向かうのか。

 

 兵を乗せて北へ向かうのか。

 

 商人と兵士は、遠くから見ればほとんど同じだった。

 

 同じ船に乗り、同じ風を待ち、同じ海で死ぬ。

 

「評議会が待っております」

 

 テオドラは言った。

 

「将軍たちは、北部軍への増援を求めています。財務官は金がないと言うでしょう。教会は異端派の処罰を求めます。そして商人たちは、戦争を避けろと言いながら武器を売ります」

 

「分かっています」

 

「分かるだけでは足りません」

 

 母の声が、わずかに低くなった。

 

「陛下は選ばねばなりません」

 

 アレクシオスは欄干から手を離した。

 

 掌に薄く汗がにじんでいた。

 

 父の急死から、まだ九か月しか経っていない。

 

 狩猟中の落馬。

 

 宮廷はそう発表した。

 

 だが、父の遺体を見たアレクシオスは、首の後ろに小さな黒い痕があったことを覚えている。

 

 侍医は枝で傷ついた跡だと言った。

 

 母もそう言った。

 

 翌朝、その侍医は屋敷で首を吊った。

 

 以来アレクシオスは、父の死について誰にも尋ねていない。

 

 知らないことが、自分の身を守ることもある。

 

 だが、知らないふりを続けていると、自分の中のどこかが少しずつ腐っていく。

 

 皇帝になってから、彼はその腐敗の臭いを常に感じていた。

 

「母上」

 

「何でしょう」

 

「父上は、本当に落馬で亡くなったのですか」

 

 港の音が遠のいた。

 

 実際には何も静かになっていない。

 

 荷車は軋み、船員は叫び、鐘は鳴り続けている。

 

 それでもアレクシオスには、二人の間からすべての音が消えたように思えた。

 

 テオドラは息子を見つめた。

 

 その瞳の中に、一瞬だけ、疲労の影が浮かんだ。

 

「陛下」

 

 母は答えなかった。

 

「評議会へ参りましょう」

 

 それだけを言い、露台を離れた。

 

 アレクシオスは追わなかった。

 

 聞くべきではなかったのかもしれない。

 

 あるいは、もっと早く聞くべきだったのかもしれない。

 

 どちらにせよ、返事がなかったこと自体が、一つの返事だった。

 

 彼は再び港を見下ろした。

 

 軍港では、帝国海軍の兵士が矢束を運び込んでいる。

 

 矢羽根の白が、甲板の上に積もる雪のように見えた。

 

 この真夏に。

 

「皇帝とは、選ぶ者だ」

 

 アレクシオスは小さく呟いた。

 

 母の言葉を繰り返しただけだった。

 

 だが口に出してみると、それは真実ではないように感じた。

 

 皇帝とは選ぶ者ではない。

 

 選んだ結果によって、誰が死ぬかを知らされない者だ。

 

 評議会の間では、すでに将軍たちが地図を広げて待っていた。

 

 北にはヴェリグラード諸公国。

 

 西には神聖エーレン帝国。

 

 南にはオルシャ聖地諸侯領と、アルサク・スルタン国。

 

 そして東の果て、地図の羊皮紙が途切れるあたりに、褐色の線で広大な草原が描かれている。

 

 その中央に記された名を見たとき、アレクシオスは足を止めた。

 

 サルグァ草原汗国。

 

 地図上では、何もない土地に見える。

 

 都市も、城壁も、港も少ない。

 

 しかし何もないからこそ、軍はどこへでも進める。

 

「陛下」

 

 北部軍司令官が立ち上がった。

 

「草原より報告が入りました」

 

「国境襲撃か」

 

「いいえ」

 

 将軍の顔は青ざめていた。

 

「大汗バヤンが、七部族すべてを服属させました」

 

 評議会の者たちは黙った。

 

 アレクシオスは地図の上に置かれた、小さな黒い駒を見つめた。

 

「それだけではありません」

 

 将軍は続けた。

 

「バヤンは先月、天幕の都サライにて新たな称号を名乗りました」

 

「何と」

 

 将軍は一度、唇を湿らせた。

 

「天と大地の皇帝」

 

     *

 

 サライには城壁がなかった。

 

 必要がなかった。

 

 サルグァの民にとって、城壁とは敵から身を守るものではなく、自らを一つの場所に閉じ込める檻だった。

 

 都と呼ばれてはいたが、サライの大半は天幕でできている。

 

 白い羊毛の天幕。

 

 黒い山羊毛の天幕。

 

 部族長の紋章を掲げた巨大な天幕。

 

 鍛冶師、革職人、馬商人、奴隷商人の小さな天幕。

 

 それらが草原を埋め、遠くから眺めれば、地上に降りた雲の群れのように見えた。

 

 風が吹くたび、馬の臭いと乳酒の酸味、焚き火の煙が混じって流れた。

 

 真昼の太陽は、草原を容赦なく焼いていた。

 

 影は天幕の真下に縮み、地面に落ちた汗は、染みを作る前に乾いた。

 

 大汗バヤンは、天幕の外で一頭の馬を見ていた。

 

 栗毛の若駒である。

 

 細い脚を震わせながら、母馬の乳を求めて鼻先を動かしている。

 

 生まれてから半刻も経っていなかった。

 

「立て」

 

 バヤンは言った。

 

 若駒に言葉が通じるはずはない。

 

 それでも彼は言った。

 

「立たねば食われるぞ」

 

 若駒は前脚を折り、何度も地面に膝をついた。

 

 母馬が鼻を鳴らす。

 

 周囲には護衛の騎兵と、七部族の長たちが並んでいた。

 

 誰も口を開かなかった。

 

 大汗が若駒を見ている間、待つほかない。

 

 バヤンは四十二歳だった。

 

 草原の男としては、すでに若くない。

 

 左の頬には、耳元から口角まで達する古い刀傷がある。そのため笑っていなくとも、左側だけが笑っているように見えた。

 

 彼は豪華な衣を好まなかった。

 

 今日も灰色の長衣に革の帯を締め、足には擦り切れた乗馬靴を履いている。

 

 ただし、腰に差した湾刀だけは違った。

 

 刀の鞘には金が巻かれ、七つの青い石が埋め込まれている。

 

 服属した七部族を示す石だった。

 

「大汗」

 

 最も年長の部族長が呼びかけた。

 

「西方の使者を、いつまで待たせるおつもりです」

 

「待つことを覚えさせている」

 

「すでに朝から三刻です」

 

「ならば、少しは賢くなっただろう」

 

 部族長たちの間から、控えめな笑いが漏れた。

 

 若駒が、再び立とうとした。

 

 前脚が伸びる。

 

 後脚が地面を蹴る。

 

 一度大きく傾いたが、今度は倒れなかった。

 

 四本の脚を震わせ、危うい均衡を保っている。

 

 バヤンは満足げに頷いた。

 

「生きる気がある」

 

 彼は踵を返した。

 

「使者に会う」

 

 大天幕の内部には、草原の夏とは別の熱気がこもっていた。

 

 何十人もの男たちが集まり、中央の炉では香木が焚かれている。

 

 西方から来た使者は、汗に濡れた礼服を着て立っていた。

 

 神聖エーレン帝国の紋章を胸に縫い付けている。

 

 その隣には通訳と、二人の従者がいた。

 

 使者はバヤンが入ると深く頭を下げた。

 

 膝はつかなかった。

 

「天と大地の皇帝、七つの民の主、偉大なるバヤン陛下に、神聖エーレン帝国皇帝マティアス四世陛下より――」

 

「長い」

 

 バヤンは毛皮を重ねた座に腰を下ろした。

 

「用件を言え」

 

 使者は顔を上げた。

 

「両国の友好と、国境の安定について協議するため参りました」

 

「友好」

 

 バヤンは左の口角を上げた。

 

 刀傷のため、その笑みは相手を嘲っているように見えた。

 

「お前たち西の民は、戦う準備をするときに友好と言う」

 

「誤解でございます」

 

「では、なぜ国境に兵を集めている」

 

「帝国内の治安維持のためです」

 

「馬は国境線を知らぬ」

 

 バヤンは言った。

 

「兵も同じだ」

 

 使者の喉が動いた。

 

 大天幕の奥には、諸部族の長たちが座っている。

 

 彼らは西方語を理解できないふりをしていたが、多くは意味を知っていた。

 

 商人と戦争が、言葉を運んでくる。

 

「陛下」

 

 使者は慎重に言葉を選んだ。

 

「マティアス帝は、サルグァとの争いを望んでおりません」

 

「望むかどうかは関係ない」

 

 バヤンは傍らの器から乳酒を飲んだ。

 

「老皇帝は死ぬ」

 

 使者の表情が硬くなった。

 

「陛下に対する無礼は――」

 

「無礼ではない。人は死ぬ」

 

 バヤンは自分の胸を指で叩いた。

 

「私も死ぬ。お前も死ぬ。マティアスも死ぬ。ただし、あの男は先に死ぬ」

 

 使者は否定しなかった。

 

 否定できなかったのだろう。

 

「老皇帝が死ねば、息子も弟も諸侯も、皆が冠を欲しがる」

 

 バヤンは続けた。

 

「一つしかない椅子を、十人で奪い合う。その間に国境は空く」

 

「帝国の継承制度を誤解しておられます」

 

「制度とは、強い者が弱い者に守らせる約束だ」

 

 バヤンは平然と言った。

 

「強い者が死ねば、約束も死ぬ」

 

 使者は答えなかった。

 

 天幕の外で、馬が甲高く鳴いた。

 

 先ほどの若駒かもしれない。

 

「お前の皇帝に伝えろ」

 

 バヤンは言った。

 

「私は西へ行く」

 

 部族長たちの目が、一斉に大汗へ向いた。

 

 彼らにも、正式に告げられていなかった。

 

「略奪が目的でしょうか」

 

 使者は訊いた。

 

 声がわずかに震えていた。

 

「西の穀物も、銀も、女も、我らは欲しておりません」

 

「では何を」

 

「道だ」

 

 バヤンは答えた。

 

「東から西へ続く、広い道が欲しい。商人が税を払い、使者が安全に通り、我が馬が海まで走れる道だ」

 

「その道には、諸王国と諸公国がございます」

 

「だから道を造る」

 

 バヤンは笑った。

 

「何もない場所に道を造るのは、誰にでもできる」

 

 使者の顔から汗が流れ、顎先から落ちた。

 

「それは、征服の宣言と受け取られます」

 

「好きに受け取れ」

 

「神聖エーレン帝国だけでなく、アウレリアも、ヴェリグラード諸公国も敵に回します」

 

「敵が三つなら、三つ倒す」

 

「西方諸国すべてが結束する可能性もあります」

 

 その言葉を聞いたとき、部族長たちの一部が不安げに互いを見た。

 

 バヤンはそれを見逃さなかった。

 

 七つの部族は服属した。

 

 だが、服属と忠誠は違う。

 

 彼らはバヤンが勝つ限り従う。

 

 一度でも大敗すれば、七つの青い石は七本の刃となり、彼の背中へ突き立つだろう。

 

 恐れていないわけではなかった。

 

 大汗となるまでに、バヤンは三人の兄を殺し、二人の叔父を追放し、一人の息子を失った。

 

 殺した者の顔は、眠りの浅い夜に現れる。

 

 息子の顔だけは現れなかった。

 

 死んだとき、まだ三歳だった。

 

 熱病で赤くなった顔を、彼は正確には思い出せない。

 

 そのことが、兄を殺した記憶よりも彼を苦しめた。

 

 人は失ったものを忘れる。

 

 忘れたくないものから先に忘れていく。

 

 だからバヤンは進み続けた。

 

 止まれば、忘れたものの形を考えてしまう。

 

 戦い、従わせ、領土を広げている間だけは、自分が何かを残していると思えた。

 

「西方諸国が結束する」

 

 バヤンは使者の言葉を繰り返した。

 

「それはよい」

 

「よい、と?」

 

「一つずつ探す手間が省ける」

 

 大汗は立ち上がった。

 

 謁見の終わりを意味した。

 

「マティアス帝に伝えろ。夏の終わりまでに、東へ向かうすべての城門を開けよ。市場を開き、通行税を定め、我が使者を受け入れよ」

 

「拒否された場合は」

 

 バヤンは天幕の入口へ目を向けた。

 

 風に揺れる布の隙間から、眩しい草原が見える。

 

 若駒が母馬の傍らに立っていた。

 

 まだ脚は震えている。

 

 それでも、もう倒れてはいなかった。

 

「門は、開くためにある」

 

 バヤンは言った。

 

「中から開かぬなら、外から開ける」

 

     *

 

 同じ日の夕刻。

 

 神聖エーレン帝国の宮殿では、マティアス四世が一人で食卓についていた。

 

 銀皿には鱒の香草焼きと、冷やした果実が並んでいる。

 

 だが皇帝は、ほとんど手をつけなかった。

 

 広間の窓から西日が差し込み、長い卓の上を赤く染めていた。

 

 かつては、この食卓に家族がいた。

 

 皇后。

 

 二人の息子。

 

 三人の娘。

 

 笑い声を上げることを禁じられた宮廷の食事であっても、幼い子供は匙を落とし、パンを取り合い、家庭教師に叱られた。

 

 今、皇后は地下礼拝堂の石棺に眠っている。

 

 長男は遠征中に病死した。

 

 次男である皇太子は南部の離宮で療養し、この夏を越せるかも分からない。

 

 娘たちはすべて他国へ嫁いだ。

 

 帝国を守るために結ばせた婚姻だった。

 

 その結果、皇帝の食卓から家族が消えた。

 

 マティアスは鱒の身にフォークを入れた。

 

 白い肉が崩れ、骨が露出した。

 

 その骨を見た瞬間、なぜか自分の指を思い出した。

 

 老いとは、肉の内側に隠れていた骨が、少しずつ姿を現すことなのかもしれない。

 

「陛下」

 

 侍従長が入口に立っていた。

 

「何だ」

 

「東方へ送った密偵より、急報がございます」

 

 マティアスはフォークを置いた。

 

「申せ」

 

「サルグァの大汗バヤンが、七部族の統一を宣言しました」

 

「それは昼に聞いた」

 

「新たな称号についても?」

 

 皇帝は侍従長を見た。

 

「称号?」

 

「天と大地の皇帝、と」

 

 マティアスはしばらく無言だった。

 

 やがて、低い笑い声を漏らした。

 

 侍従長は驚いたように目を上げた。

 

「皇帝か」

 

 マティアスは笑い続けた。

 

「何がおかしいのか、自分でも分からぬ」

 

 笑いはすぐに咳へ変わった。

 

 彼は口元を布で押さえた。

 

 白い布に、小さな赤い点がついた。

 

 侍従長が一歩踏み出したが、マティアスは手で制した。

 

「侍医を」

 

「呼ぶな」

 

「しかし」

 

「余の血を量ったところで、帝国の寿命は延びぬ」

 

 皇帝は椅子の背にもたれた。

 

 西方に一人。

 

 東方に一人。

 

 そして草原に一人。

 

 三人の皇帝。

 

 古い聖典では、世界に皇帝は一人しか存在し得ないとされている。

 

 天に神が一人であるように、地上の秩序を担う皇帝も一人であるべきだと。

 

 だが現実の世界では、神の名を唱える皇帝が二人いた。

 

 そして今、神の名さえ唱えぬ三人目が現れた。

 

「面白いではないか」

 

 マティアスは呟いた。

 

「陛下?」

 

「三人の皇帝がいて、平和が一つもない」

 

 窓の外で、夕日が帝都の屋根を赤く焼いている。

 

 その向こうには、西部諸侯の領地がある。

 

 さらに西にはヴァルネリア王国とアルビオン海王国。

 

 南には聖座とセレスタ同盟。

 

 東にはアウレリア。

 

 そのさらに先には、バヤンの草原が広がっている。

 

 マティアスは、世界を一枚の地図として思い浮かべた。

 

 国境線。

 

 街道。

 

 河川。

 

 峠。

 

 港。

 

 それらは静かに描かれている。

 

 だが地図の上で一本の線を引くたび、現実の世界では兵士が歩く。

 

 駄馬が潰れる。

 

 畑が踏み荒らされる。

 

 井戸に死体が投げ込まれる。

 

 地図には臭いがない。

 

 泣き声もない。

 

 それゆえ、皇帝たちは地図を好む。

 

「諸侯会議を十日後に繰り上げよ」

 

 マティアスは命じた。

 

「十五日後ではなかったのですか」

 

「夏は待たぬ」

 

 皇帝は皇帝印の指輪を再びはめた。

 

 指には緩かった。

 

 それでも外すことはできなかった。

 

「東部軍を増強する。ヴァルネリアへは援軍を求めよ。アルビオンには船を。セレスタには金を求める」

 

「聖座には、何を」

 

 マティアスは答えるまでに、少し時間を置いた。

 

「祈りを求めよ」

 

「祈り、でございますか」

 

「どうせ兵も金も出さぬ」

 

 老皇帝は冷たく笑った。

 

「ならば、最も安く与えられるものを求めてやればよい」

 

     *

 

 コンスタリオンでは、アレクシオス九世が軍議を終えたところだった。

 

 北部軍へ三千。

 

 黒海艦隊へ二十隻。

 

 国境要塞へ半年分の穀物。

 

 数字を読み上げるたび、それが人間の数であることを意識しないよう努めた。

 

 三千人には、三千人の母親がいる。

 

 二十隻には、千を超える漕ぎ手が乗る。

 

 半年分の穀物を要塞へ送れば、それを食べられなくなる村がある。

 

 一つ一つを考えていては、命令書に署名できない。

 

 母の言うとおりだった。

 

 それでも最後の命令書を前にしたとき、アレクシオスの手は止まった。

 

 内容は、北部国境付近の三村を移転させ、軍用地とするものだった。

 

 住民には補償金を与える。

 

 移転期限は二十日。

 

 拒否する者は反逆者と見なす。

 

 父が焼いた村のことを思い出した。

 

「署名を」

 

 皇太后テオドラが促した。

 

「二十日では短すぎます」

 

「草原の騎兵は、我々の都合を待ちません」

 

「収穫前です。移転させれば、今年の麦は失われる」

 

「麦と国境のどちらが重要です」

 

「その国境の内側で暮らすための麦です」

 

「陛下」

 

 テオドラの声には、怒りではなく失望があった。

 

 怒鳴られるよりも、その方がアレクシオスを傷つけた。

 

「皇帝は、すべてを救うことはできません」

 

「分かっています」

 

「いいえ。陛下はまだ、分かることと受け入れることを混同しておられる」

 

 アレクシオスは母を見返した。

 

 言い返したかった。

 

 しかし、言葉が出なかった。

 

 母は正しい。

 

 正しいからこそ憎かった。

 

 彼は羽根ペンを取り、署名した。

 

 アレクシオス。

 

 九世。

 

 皇帝。

 

 三つの言葉を書くだけで、三つの村が消える。

 

 蝋燭の火で紫の蝋を溶かし、皇帝印を押した。

 

 印章を持ち上げると、金の鷲が鮮明に浮かび上がった。

 

 それは翼を広げてはいなかった。

 

 翼を閉じ、何かを抱え込むような姿をしている。

 

 国を守る鷲。

 

 あるいは、国を爪の中に閉じ込める鷲。

 

「これでよいのでしょう」

 

 アレクシオスは言った。

 

「必要なご決断です」

 

 テオドラは答えた。

 

「よい決断ではなく?」

 

「皇帝に許されるのは、必要か不要かです」

 

 母は命令書を侍従へ渡した。

 

「善悪を選びたいのであれば、修道士になるべきでした」

 

 アレクシオスは椅子から立った。

 

 胸の奥に怒りがあった。

 

 母に対する怒り。

 

 父に対する怒り。

 

 皇帝という地位に対する怒り。

 

 だが最も強かったのは、結局署名した自分自身への怒りだった。

 

「失礼します」

 

「どちらへ」

 

「祈りに」

 

 アレクシオスは答えた。

 

「修道士にはなれませんでしたから、せめて真似事をします」

 

     *

 

 サライの夜は冷えた。

 

 昼間の熱が嘘のように消え、草原の風が天幕を鳴らした。

 

 空には、無数の星があった。

 

 西方の都市では、煙と灯火に隠されて見えない星々まで、ここでは地平線から地平線まで埋め尽くしている。

 

 バヤンは一人で丘に登っていた。

 

 護衛は麓に残した。

 

 大汗を一人にすることを彼らは嫌がったが、命令には逆らえない。

 

 丘の頂には、石を積んだ小さな墓があった。

 

 名前は刻まれていない。

 

 石に名を刻む習慣が、サルグァの民にはなかった。

 

 死者の名は、生者が覚えていればよい。

 

 バヤンは墓の前に座り、小さな木馬を置いた。

 

 粗末な玩具だった。

 

 片方の脚が欠けている。

 

「また西へ行く」

 

 彼は墓に向かって言った。

 

 返事はない。

 

「今度は海まで行く」

 

 風が草を揺らした。

 

 墓の中にいるのは、三歳で死んだ息子だった。

 

 顔は思い出せない。

 

 だが、小さな手の感触だけは覚えている。

 

 指を握られたとき、驚くほど力が強かった。

 

 この子は騎手になる。

 

 そう思った。

 

 結局、一度も馬に乗らなかった。

 

「お前に見せたかった」

 

 バヤンは星空を見上げた。

 

「西の海は、草原よりも広いらしい」

 

 彼は神を信じていなかった。

 

 正確には、神々が存在するかどうかに関心がなかった。

 

 祈った者も死ぬ。

 

 祈らなかった者も死ぬ。

 

 勝敗を決めるのは、馬の数、矢の数、水場の位置、指揮官の判断だった。

 

 だが息子の墓の前では、ときおり神がいてほしいと思った。

 

 存在しないと確信しているものに、存在してほしいと願う。

 

 その矛盾を、バヤンは誰にも話したことがない。

 

「天と大地の皇帝」

 

 彼は自ら名乗った称号を口にした。

 

 部族長たちは喜んだ。

 

 祭司たちは、天が認めた称号だと言った。

 

 西方の使者は恐れた。

 

 だがバヤン自身には、その言葉がひどく空虚に聞こえた。

 

 七つの部族を従えても、死んだ子供一人を立たせることはできない。

 

 世界を征服しても、過ぎた三年を取り戻せはしない。

 

「それでも行く」

 

 バヤンは立ち上がった。

 

「止まれば、お前を忘れる」

 

 木馬を墓に残し、丘を下りた。

 

 麓では、すでに伝令たちが馬を用意している。

 

 命令は七部族へ伝えられる。

 

 騎兵十二万。

 

 予備馬三十万頭。

 

 羊の群れ。

 

 鍛冶師。

 

 矢職人。

 

 革職人。

 

 そして、草原を越えて軍を養うための商人たち。

 

 戦争は兵士だけでは動かない。

 

 兵士が進む道の後ろには、鉄と肉と金を運ぶ、もう一つの巨大な軍がある。

 

「大汗」

 

 若い伝令が跪いた。

 

「出立の日をお定めください」

 

 バヤンは東の空を見た。

 

 地平線が、かすかに白み始めていた。

 

「三日後だ」

 

「三日」

 

「遅いか」

 

「いいえ」

 

 伝令は頭を下げた。

 

「十分でございます」

 

「違う」

 

 バヤンは馬の手綱を受け取った。

 

「十分かどうかは、戦いが終わってから決まる」

 

     *

 

 三日後。

 

 マインツでは、神聖エーレン帝国皇帝マティアス四世の召集状が、諸侯の館へ向けて送り出された。

 

 コンスタリオンでは、アウレリア東方帝国皇帝アレクシオス九世の軍令が、黒海艦隊と北部国境軍へ届けられた。

 

 サライでは、天と大地の皇帝バヤンの旗が掲げられ、十二万の騎兵が西を向いた。

 

 三人の皇帝が、三つの印章を押した。

 

 一つは青い宝石の指輪。

 

 一つは紫の蝋に刻まれた金の鷲。

 

 一つは、獣の血で染められた七つの部族の印。

 

 命令を記した羊皮紙は軽い。

 

 風に飛ばされるほど軽い。

 

 だが、そこに書かれた数行の言葉を運ぶために、何万頭もの馬が走り、何万本もの槍が磨かれ、何十万石もの麦が倉から運び出された。

 

 夏の空には、まだ雲一つなかった。

 

 農民たちは畑で鎌を研ぎ、商人たちは香辛料の値を計算し、船乗りたちは風向きを読んでいた。

 

 誰も、自分たちの暮らす世界がすでに傾き始めたことを知らなかった。

 

 三人の皇帝もまた、知らなかった。

 

 彼らはそれぞれ、自分が世界を動かしたと思っていた。

 

 実際には、世界の方が彼らを動かしていた。

 

 西へ。

 

 東へ。

 

 そして、まだ名のない戦場へ。

 

 灰暦八百七十二年の夏。

 

 三つの帝冠の影が、蒼環海の上で初めて重なった。

書き溜めていた分のストックがほぼ尽きてきましたので… 更新頻度についてアンケートをさせていただきたいと思います。 以降の更新頻度はどの程度がよいでしょうか?

  • 死ぬ気でがんばれ
  • 可能な範囲でがんばれ
  • そんなに急ぐこたーないぞ
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