灰冠と香路の年代記   作:MOZIO

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第三十七章 十日間の平和

戦争が始まった日を、後世の歴史家たちは何度も書き直した。

 

 神聖エーレン帝国が諸侯軍を召集した日。

 

 アウレリア東方帝国が北部国境へ兵を送った日。

 

 大汗バヤンが十二万の騎兵を率いてサライを発った日。

 

 それぞれの国には、それぞれに都合のよい開戦日があった。

 

 だが、実際の戦争は一日のうちに始まるものではない。

 

 城門の蝶番に油を差す者がいる。

 

 倉庫の麦袋を数える者がいる。

 

 夫の胴着へ針を通す妻がいる。

 

 馬の蹄鉄を打ち直す鍛冶師がいる。

 

 昨日まで商人だった男が、剣を渡される。

 

 昨日まで農夫だった男が、槍の持ち方を教えられる。

 

 その一つ一つが積み重なり、誰にも止められない重さになったとき、戦争はようやく姿を現す。

 

 灰暦八百七十二年の夏。

 

 三人の皇帝が命令を下したあと、蒼環海を囲む世界には、十日間だけ平和が残されていた。

 

 誰も、それが最後の十日間だとは知らなかった。

 

     *

 

 ヴァルネリア王国北東部、ライナー辺境伯領。

 

 城壁の外に広がる麦畑は、朝露を受けて白く光っていた。

 

 風が通るたび、熟した穂が一斉に頭を垂れる。遠くから眺めれば、黄金色の海面に波が立っているように見えた。

 

 アルベリク・フォン・ライナーは、その畑の中を馬で進んでいた。

 

 供は三人だけだった。

 

 従騎士のヨナス。

 

 老練な斥候長ヘルマン。

 

 そして、帝都から派遣された王室伝令官である。

 

 伝令官の馬は汗で黒く濡れていた。

 

 男自身も疲労を隠せず、鞍上で何度も腰を浮かせている。それでも胸には、ヴァルネリア王家の百合冠を染め抜いた青い帯を掛けていた。

 

 その帯がある限り、彼の言葉は国王の言葉となる。

 

「収穫まで、あと何日だ」

 

 アルベリクは訊いた。

 

 斥候長ヘルマンが周囲の穂を見渡した。

 

「晴天が続けば、十日ほどでございます」

 

「雨が降れば」

 

「二週間。嵐なら、それ以上です」

 

 アルベリクは馬を止めた。

 

 若い麦の青臭さはすでに消え、乾いた穀物の匂いが漂っていた。故郷の匂いだった。

 

 子供のころ、この季節になると兄たちと畑を駆け回った。

 

 長兄は城と領地を継ぐ者として、幼いころから父の傍らに置かれていた。次兄は聖職者となるため修道院へ送られた。

 

 三男のアルベリクには、明確な役割がなかった。

 

 だから彼は畑へ逃げた。

 

 農民の子供たちに混じって泥まみれになり、叱られ、翌日にはまた城を抜け出した。

 

 あのころの彼にとって、麦畑は自由の象徴だった。

 

 今は違う。

 

 目の前に広がる麦の一本一本が、兵士の一食分に見える。

 

 畑の面積を眺めれば、何千人を何日養えるかを考える。

 

 農村を見れば、徴兵可能な男の数を考える。

 

 橋を見れば、荷車が一日に何台通れるかを考える。

 

 軍学校で身につけた思考は、故郷の風景から美しさを奪った。

 

 それでも、捨てることはできなかった。

 

 美しいと思うだけでは、何も守れないからだ。

 

「十日か」

 

 アルベリクは呟いた。

 

 胸元には、王室伝令官から渡された命令書が入っている。

 

 まだ封を切っていなかった。

 

 内容は分かっていた。

 

 東へ行け。

 

 神聖エーレン帝国との国境へ兵を進めろ。

 

 おそらく、そう書かれている。

 

「若殿」

 

 従騎士ヨナスが遠慮がちに呼びかけた。

 

「城へ戻られませんか。辺境伯閣下がお待ちです」

 

「父上は何と言っていた」

 

「命令書は家族の前で開け、と」

 

 アルベリクはかすかに笑った。

 

「家族の前で命令を聞けば、戦場へ向かうことが家族の総意になると思っておられる」

 

「辺境伯閣下は、そこまでお考えではないかと」

 

「父はいつでも、そこまで考えている」

 

 ライナー辺境伯は、愛情を言葉にする男ではなかった。

 

 家族を守るためならば何でもする。

 

 ただし、その家族の意志を尋ねることはない。

 

 アルベリクは父を嫌ってはいなかった。

 

 尊敬もしていた。

 

 だからこそ、自分が少しずつ父に似ていくことを恐れていた。

 

 遠くで鐘が鳴った。

 

 城の鐘ではない。

 

 村の小さな礼拝堂の鐘だった。

 

 朝の祈りを告げる音である。

 

 畑にいた農民たちが作業の手を止め、帽子を取った。

 

 アルベリクも無意識に胸元へ指を触れた。

 

 祈りの言葉は唱えなかった。

 

 神に何を願えばよいのか、分からなかった。

 

 戦争が起きないようにと願うには、すでに遅い。

 

 自分が生き延びるよう願えば、代わりに誰かが死ぬ。

 

 部下を守ってくれと願うなら、敵兵は守らなくてよいのかという疑問が残る。

 

 神がすべての祈りを聞いているとすれば、戦場は矛盾した願いで満ちているはずだった。

 

「帰ろう」

 

 アルベリクは馬首を巡らせた。

 

 そのとき、畑の向こうから一人の農婦が駆けてきた。

 

 五十歳ほどの女だった。泥のついた裾を両手で持ち上げ、息を切らしながら街道へ出てくる。

 

「若様!」

 

 アルベリクは馬を止めた。

 

 女の顔には見覚えがあった。

 

「ハンナか」

 

「覚えていてくださったのですか」

 

「子供のころ、よくパンを盗んだ」

 

「盗まれたのではございません。差し上げたのです」

 

 ハンナは笑おうとした。

 

 だが、その表情はすぐに崩れた。

 

「若様。兵を集めるという話は、本当でしょうか」

 

 伝令官が顔を背けた。

 

 アルベリクは馬上から女を見下ろした。

 

「どこで聞いた」

 

「村役人が、十五から四十までの男の数を調べています。荷車と馬の数も」

 

「準備だ」

 

「何の準備でございますか」

 

 女は答えを知っていた。

 

 それでも尋ねた。

 

 人は、恐ろしいことほど他人の口から聞こうとする。自分の中だけにあった不安が、現実であるのかを確かめるために。

 

「まだ決まっていない」

 

 アルベリクは答えた。

 

 嘘だった。

 

 あるいは、半分だけの真実だった。

 

「私の息子が二人おります」

 

 ハンナは言った。

 

「上の子は去年、結婚したばかりです。下の子は、まだ十六で」

 

「徴兵の対象は、正式な命令が届いてから決まる」

 

「若様が決めるのですか」

 

 アルベリクは答えられなかった。

 

 王命が兵の数を決める。

 

 辺境伯が各村への割り当てを決める。

 

 実際に誰を連れていくかは、村役人と徴募官が決める。

 

 だが、その兵をどこへ動かし、どの陣地へ配置し、どこで敵を迎え撃つかを決めるのは、アルベリクのような指揮官だった。

 

 徴兵された男たちの生死について、彼は無関係ではない。

 

「できる限りのことはする」

 

 口に出した瞬間、その言葉の空虚さに気づいた。

 

 できる限り。

 

 将校が好んで使う言葉だった。

 

 失敗したときに、自分を許すための言葉でもある。

 

 ハンナは頭を下げた。

 

「どうか、お願いいたします」

 

 彼女は何を頼んだのだろう。

 

 息子たちを徴兵しないことか。

 

 徴兵されたなら、生きて帰すことか。

 

 それとも、せめて死ぬとき苦しませないことか。

 

 アルベリクには訊けなかった。

 

 彼は馬を進めた。

 

 背後で、礼拝堂の鐘が鳴り続けていた。

 

 ハンナの二人の息子のうち、どちらを連れていくことになるのか。

 

 アルベリクは考えまいとした。

 

 だが城へ着くまで、その問いは胸の中から消えなかった。

 

     *

 

 ライナー城の大広間には、家族と家臣団が集められていた。

 

 辺境伯オットーは、暖炉の前に立っていた。

 

 火は入っていない。

 

 真夏の広間は蒸し暑く、壁に掛けられた古い軍旗すら、湿気を吸って重そうに垂れていた。

 

 オットーは今年で六十二になる。

 

 かつては鎧の上からでも分かるほど逞しい男だったが、今は右脚を引きずっている。十二年前の戦争で、膝に受けた槍傷が原因だった。

 

 老いたとはいえ、領主としての威圧感は失われていない。

 

 アルベリクが入ると、父は挨拶を省いた。

 

「開けろ」

 

 命令書を指して言った。

 

 母エレオノーラは長椅子に座っていた。

 

 長兄の妻と、その二人の幼い子供もいる。長兄は領内北部の城塞を視察中で、不在だった。

 

 家臣たちは壁際に並び、誰も言葉を発しなかった。

 

 アルベリクは王家の赤い蝋印を割った。

 

 羊皮紙を開く。

 

「ヴァルネリア王国国王シャルル三世の名において、ライナー辺境伯家に命ずる」

 

 自分の声が、ひどく遠くから聞こえる。

 

「神聖エーレン帝国東部における情勢悪化、ならびにサルグァ草原汗国の軍事的脅威に鑑み、王国北東軍を招集する。ライナー辺境伯領は、騎兵五百、歩兵三千、弓兵八百、工兵二百を供出し、二十日以内にエーレン帝国西部国境都市ケルンへ集結せよ」

 

 広間の隅で、誰かが小さく息を呑んだ。

 

 合計四千五百。

 

 領内の常備兵だけでは足りない。

 

 農村から最低でも二千五百を徴募する必要がある。

 

「軍の指揮は、アルベリク・フォン・ライナーに委ねる」

 

 アルベリクは読み終えた。

 

 羊皮紙を持つ手に汗がにじんでいた。

 

「兵站は」

 

 父が訊いた。

 

「三か月分を領内で用意せよとあります。その後は王国軍の補給に編入される予定です」

 

「予定か」

 

 オットーは鼻を鳴らした。

 

「予定という言葉で兵の腹は膨れぬ」

 

 家宰が一歩前へ出た。

 

「現在の備蓄では、四千五百を三か月養えば、領内の冬季備蓄が不足します」

 

「収穫がある」

 

 オットーが言った。

 

「収穫前に出立せよという命令です」

 

 アルベリクは答えた。

 

 父と息子の視線が重なった。

 

 その場にいる全員が、同じ結論へたどり着いていた。

 

 収穫を待てば、集結期限に遅れる。

 

 期限を守れば、軍は未収穫の麦を畑に残して出発する。

 

 働き手を徴兵された村では、収穫そのものができなくなる可能性もある。

 

「農民を動員して、刈り入れを早める」

 

 オットーは言った。

 

「まだ熟し切っていません」

 

「七割でも刈れ。畑に残して敵に焼かれるよりよい」

 

「敵はまだ何百里も先です」

 

「敵が来てから刈るのか」

 

 父の声が強くなった。

 

 アルベリクは命令書を畳んだ。

 

「早刈りすれば、収量が減ります。翌年の種籾にも影響が出る」

 

「戦争に負ければ翌年の畑そのものがない」

 

「戦争がどこで起こるかも決まっていません」

 

「お前はまだ、そのようなことを言っているのか」

 

 オットーが杖を床へ突いた。

 

 乾いた音が広間に響いた。

 

「王が兵を集め、皇帝が国境を固め、草原の大汗が西へ動いた。戦争は起こる。どこで起きるかなど些細な問題だ」

 

「兵にとっては些細ではありません」

 

「だからお前が行くのだ」

 

 父は即答した。

 

「どこで戦うべきかを決めるために、王はお前を指名した」

 

 その言葉には誇りがあった。

 

 父は息子が王に認められたことを喜んでいる。

 

 同時に、ライナー家が王家にとって必要な存在であることにも満足していた。

 

 アルベリクは、その感情を否定できなかった。

 

 自分の胸にも、似たものがあったからだ。

 

 恐怖。

 

 嫌悪。

 

 責任。

 

 それらの下に、隠しきれない高揚があった。

 

 四千五百の兵を任される。

 

 自分の判断が戦局を動かすかもしれない。

 

 軍学校で学び、辺境の小競り合いで試し、頭の中で幾度も組み立ててきた戦術を、より大きな戦場で使える。

 

 そんな機会を望んでいなかったと言えば、嘘になる。

 

 そして望んでいた自分を、アルベリクは軽蔑していた。

 

「徴募する村を選びます」

 

 彼は言った。

 

「収穫量、人口、街道からの距離を調べ、負担が偏らないようにします」

 

「時間がない」

 

「三日で作成します」

 

「一日だ」

 

「一日では、村ごとの事情を確認できません」

 

「事情を聞けば、すべての村に兵を出せぬ理由がある」

 

 オットーは息子を見据えた。

 

「妻がいる。子がいる。病人がいる。借金がある。収穫がある。人間には必ず事情がある。それを一つずつ聞いていたら、軍は作れぬ」

 

「だから聞かなくてよいと?」

 

「聞いたうえで、連れていけ」

 

 父の言葉は静かだった。

 

「それが領主だ」

 

 アルベリクは反論しなかった。

 

 父が残酷なのではない。

 

 むしろ、事情を理解しているからこそ、切り捨てる覚悟を持っている。

 

 その強さをアルベリクは尊敬していた。

 

 同時に、それを強さと呼んでよいのか分からなかった。

 

 母エレオノーラが立ち上がった。

 

「二人とも、もうよいでしょう」

 

 広間にいた者たちが、わずかに身体を緩めた。

 

「命令は届きました。話し合うべきことは多くあります。しかし、その前にアルベリクには伝えねばならないことがあります」

 

 母は息子の前まで歩いてきた。

 

「グスタフ将軍から使者が来ています」

 

 アルベリクの眉が動いた。

 

「グスタフ・エーレンベルク将軍が?」

 

「昨夜到着しました。王命とは別の書状を預かっているそうです」

 

「使者はどこに」

 

「礼拝堂です」

 

「なぜ礼拝堂に」

 

 母は一瞬、答えることをためらった。

 

「負傷しています」

 

     *

 

 使者は礼拝堂の長椅子に横たわっていた。

 

 鎖帷子は脱がされ、血に染まった上衣が床へ置かれている。

 

 城付きの修道士が、左脇腹の傷に布を当てていた。

 

 男の顔は土気色で、唇は乾いてひび割れている。

 

 アルベリクが近づくと、使者は目を開けた。

 

「ライナー卿」

 

「そのままでよい」

 

 起き上がろうとした男を制し、アルベリクは傍らに膝をついた。

 

「どこで襲われた」

 

「エーレン帝国領内です。ライン東岸の森で」

 

「賊か」

 

「違います」

 

 使者は浅く息を吸った。

 

 傷が痛むのか、顔が歪んだ。

 

「軍人でした」

 

「どこの軍だ」

 

「紋章はありません。馬は東方の小型馬。弓を使いました」

 

「サルグァ兵か」

 

「分かりません」

 

 使者は首を振った。

 

「ですが、草原の者に似せた別の兵かもしれません。顔を布で隠していました。エーレン語で命令する声を聞きました」

 

 アルベリクは黙った。

 

 エーレン語を話す草原兵は珍しくない。

 

 国境交易に携わる者ならば、複数の言語を使う。

 

 逆に、サルグァ風の装備を身につけたエーレン人という可能性もある。

 

 戦争が始まる前、最初に死ぬのは真実だ。

 

 誰が誰を襲ったのか。

 

 なぜ襲ったのか。

 

 現場を離れるたびに事実は形を変え、都へ届くころには、政治家が望む物語になっている。

 

「供は」

 

「六人いました」

 

「他の者は」

 

 使者は答えなかった。

 

 それだけで十分だった。

 

「書状は無事か」

 

 男は震える手を胸元へ入れた。

 

 修道士が手伝い、革袋を取り出す。

 

 袋には切り傷が入り、血が染み込んでいた。

 

「敵はこれを探していました」

 

「読んだ形跡は」

 

「ございません。封印も無事です」

 

 アルベリクは袋を受け取った。

 

 グスタフ・エーレンベルクの黒鷲印が押されている。

 

 老将軍はヴァルネリア王国軍の総司令官であり、アルベリクが軍学校にいたころの教官でもあった。

 

 防衛戦において、彼に並ぶ者はいない。

 

 要塞と野戦陣地を組み合わせ、敵に血を流させながら後退する。

 

 派手な勝利を好まず、兵を生きて帰すことを第一とする。

 

 ただし、そのために見捨てる土地と人間を選ぶこともためらわない。

 

 アルベリクが父以外で、最も強い影響を受けた男だった。

 

 封印を割り、書状を開いた。

 

 文面は短かった。

 

 アルベリクへ。

 

 王命を受けたなら、可能な限り早くケルンへ来い。

 

 公式の集結地はケルンだが、主戦場はそこではない。

 

 エーレン皇帝の諸侯会議は失敗する。

 

 東方の要塞群は、我々が聞かされているほど強固ではない。

 

 そしてサルグァ軍十二万という報告は、おそらく誤りだ。

 

 実数は、それより多い。

 

 誰も信用するな。

 

 この書状を運ぶ者が到着しなかった場合、国境街道はすでに敵の手にあると判断せよ。

 

 最後に、震えた筆跡で一文だけ付け加えられていた。

 

 戦争は東から来るとは限らない。

 

 アルベリクは書状をもう一度読んだ。

 

「将軍はどこにいる」

 

「ケルンへ向かわれています」

 

 使者が答えた。

 

「護衛は」

 

「騎士二百。ほかに先行した工兵隊が三百」

 

「五百だけか」

 

「軍を集めれば、敵に動きを読まれると」

 

 グスタフらしい判断だった。

 

 だが同時に、危険でもある。

 

 総司令官がわずかな護衛で他国領を進んでいる。

 

 襲撃者がこの書状の存在を知っていたのなら、使者だけでなく、グスタフ自身も狙われている可能性がある。

 

「襲撃はいつだ」

 

「三日前です」

 

「ここまで三日で?」

 

「馬を二頭潰しました」

 

 使者はかすかに笑った。

 

「三頭目は、城門の前で死にました」

 

 アルベリクは男の手を握った。

 

 指は冷たかった。

 

「よく届けてくれた」

 

「将軍から、もう一つ」

 

「何だ」

 

 使者の目が、アルベリクを捉えた。

 

「口頭で伝えよと」

 

 息を吸うたび、胸が小さく震えている。

 

「東へ急げ。しかし、急いでいると悟られるな」

 

 アルベリクは、その言葉の意味を考えた。

 

 軍を早く動かせ。

 

 だが敵には、こちらが危機を認識していることを知らせるな。

 

 表向きは王命どおり、二十日後の集結を目指す。

 

 実際には、それより早く前線へ到達する。

 

 四千五百の兵を一度に動かせば、街道は埋まり、各国の密偵に把握される。

 

 分散して進ませる必要がある。

 

 補給隊。

 

 工兵隊。

 

 騎兵。

 

 徴募兵。

 

 それぞれに異なる経路と出発日を与え、国境付近で再集結させる。

 

 だが徴募したばかりの兵に、複雑な行軍は難しい。

 

 一隊でも道を誤れば、全体の計画が崩れる。

 

「分かった」

 

 アルベリクは答えた。

 

 使者は目を閉じた。

 

 緊張が切れたのか、身体から力が抜けた。

 

「眠れ」

 

「まだ……報告が」

 

「もう十分だ」

 

「襲撃者の一人を、斬りました」

 

 男は目を閉じたまま言った。

 

「死体を調べたか」

 

「時間がありませんでした。ですが、首から下げていたものを取りました」

 

 使者は再び胸元を探ろうとした。

 

 修道士が止めたが、男は首を振った。

 

「革袋の底に」

 

 アルベリクは袋を逆さにした。

 

 折り畳まれた書状とともに、小さな銀製の飾りが掌へ落ちた。

 

 鳥をかたどった徽章だった。

 

 二つの頭を持つ鷲。

 

 神聖エーレン帝国の紋章に似ている。

 

 だが、鷲の胸には十字ではなく、細い剣が刻まれていた。

 

「見たことがあるか」

 

 従騎士ヨナスが訊いた。

 

「ない」

 

 アルベリクは答えた。

 

 表面を指でなぞる。

 

 新しい傷がついていたが、銀そのものは古い。長年使われ、何度も磨かれている。

 

 即席の偽装品ではない。

 

「敵の所属が分かるかもしれません」

 

 ヨナスは言った。

 

「あるいは、我々にそう思わせるために持たされていた」

 

 アルベリクは銀の鷲を握った。

 

 掌の中で、二つの頭が皮膚へ食い込んだ。

 

 敵がサルグァであれば、話は単純だった。

 

 草原軍が西へ進み、街道を偵察し、使者を襲う。

 

 だがグスタフは、戦争が東から来るとは限らないと書いた。

 

 エーレン帝国内部。

 

 アウレリア。

 

 ヴァルネリア。

 

 諸侯。

 

 聖座。

 

 セレスタの商人。

 

 戦争を望む者は一人ではない。

 

 望む理由も一つではない。

 

「このことは、父上にも伝えるな」

 

 アルベリクは低く言った。

 

 ヨナスが驚いた。

 

「辺境伯閣下にも?」

 

「まだだ」

 

「しかし、軍の編成には――」

 

「父上は敵ではない」

 

 アルベリクは使者を見下ろした。

 

「だからこそ、父上が知らなければ、父上から情報が漏れることもない」

 

 その理屈を口にしたとき、自分の中で何かが冷たくなった。

 

 父を信用しないのではない。

 

 信用しているから情報を隠す。

 

 軍人の論理だった。

 

 そして軍人の論理は、家族という言葉を少しずつ意味のないものに変えていく。

 

「ヨナス」

 

「はい」

 

「徴募名簿の作成を始めろ。だが、四千五百ではない」

 

「何人です」

 

「六千だ」

 

 ヨナスは息を止めた。

 

「王命を超えています」

 

「四千五百を前線へ送り、千五百を後備とする。負傷、逃亡、病気を考えれば、すぐに不足する」

 

「領内の負担が」

 

「分かっている」

 

 アルベリクは目を閉じた使者の顔を見た。

 

 この男には六人の仲間がいた。

 

 名も知らない六人。

 

 すでに森の中で死んでいる。

 

 戦争の記録には、使者一行襲撃、死者六名とだけ書かれるかもしれない。

 

 だが六人には、それぞれ家族がいる。

 

 人生がある。

 

 恐怖があった。

 

 最後に見たものがあった。

 

 アルベリクは死者の名を記録する習慣を持っていた。

 

 名を数字に変えないためだった。

 

 だが軍が大きくなればなるほど、数字は増える。

 

 いつか記録すること自体が、死者を数へ変える作業になるのではないか。

 

「それから」

 

 アルベリクは続けた。

 

「明朝、工兵百と騎兵二百を先発させる。名目は街道と橋の調査だ」

 

「実際の目的は」

 

「グスタフ将軍の捜索と、襲撃地点の確認」

 

「指揮官は」

 

「ヘルマンに任せる」

 

 老斥候は黙って頷いた。

 

「若殿は」

 

「本隊を編成する」

 

 アルベリクは銀の鷲を懐へ入れた。

 

「十日で出る」

 

「王命では二十日以内です」

 

「だから十日で出る」

 

 礼拝堂の小窓から、昼の光が差し込んでいる。

 

 空気中の埃が、光の中を漂っていた。

 

 祭壇の聖人像は、慈悲深い表情で彼らを見下ろしている。

 

 アルベリクは聖人像から視線を逸らした。

 

「残された十日で、兵を集める。麦を刈る。馬を買う。荷車を揃える。家族に別れを告げさせる」

 

「間に合いますか」

 

 ヨナスの問いに、アルベリクはすぐ答えなかった。

 

 間に合わせるしかない。

 

 そう言うのは簡単だった。

 

 その言葉の裏では、農民が夜通し麦を刈り、鍛冶師が眠らず蹄鉄を打ち、徴募兵が妻子との最後の時間を奪われる。

 

 指揮官が時間を縮めれば、その不足分を埋めるのは、常に名もない者たちだった。

 

「間に合わせる」

 

 結局、アルベリクは言った。

 

     *

 

 同じころ、神聖エーレン帝国の帝都マインツには、諸侯が集まり始めていた。

 

 城門の外には、各家の旗を掲げた騎士団が列を作っている。

 

 赤。

 

 青。

 

 黒。

 

 金。

 

 獅子、鷲、鹿、狼、聖杯、鍵。

 

 帝国の多様性を示す紋章の群れは、同時に、帝国が決して一つではないことを示していた。

 

 宿屋は満室となり、広場には即席の露店が並んだ。

 

 酒商人は樽の値を二倍にした。

 

 娼館は地方から女を集めた。

 

 写本職人たちは、会議の予想議題を記した小冊子を売り始めた。

 

 戦争の影が迫っていても、都市は商機を逃さない。

 

 人間は恐怖を抱いたまま、酒を飲み、女を買い、賭けをする。

 

 皇帝マティアス四世は、宮殿の高窓から諸侯の行列を見下ろしていた。

 

「何人来た」

 

 宰相が手元の名簿を確認した。

 

「選帝侯七名のうち六名。大諸侯は二十一名。司教領から十四名。自由都市の代表は二十六名です」

 

「来ていない選帝侯は」

 

「ザクセン公です」

 

「理由は」

 

「病気と」

 

「嘘だな」

 

「おそらく」

 

 マティアスは窓辺から離れた。

 

「誰と会っている」

 

「確認中です」

 

「確認するまでもない。改革派だ」

 

 宰相は返事を控えた。

 

 皇帝の推測には根拠がある。

 

 しかし、根拠のある疑念ほど危険なものはない。

 

 一度信じれば、すべての事実が疑念を補強する材料に見えてくる。

 

「陛下」

 

 侍従が入室した。

 

「アウレリア帝国の使節団が到着しました」

 

「呼んでいない」

 

「諸侯会議に出席するためではなく、陛下への謁見を求めています」

 

「断れ」

 

「使節団の代表は、皇帝アレクシオス九世の従兄、ニケフォロス公です」

 

 マティアスの目が細くなった。

 

 皇族を送るということは、形式上は最大級の敬意である。

 

 同時に、人質に取られない自信があるという示威でもあった。

 

「何人連れている」

 

「騎士五十、随員百二十」

 

「軍隊ではないが、使節団にしては多い」

 

「皇族の護衛としては、異例ではありません」

 

「すべての異例は、前例になるために起こる」

 

 マティアスは椅子へ座った。

 

 胸の奥に、鈍い痛みがあった。

 

 今朝から続いている。

 

 侍医を呼べば休めと言われる。

 

 だが休めば、その間に諸侯は密談し、使節は金を配り、敵は国境を越える。

 

「会おう」

 

「本日中に?」

 

「今すぐだ」

 

「諸侯との事前協議がございます」

 

「待たせろ」

 

「どちらを」

 

 マティアスは乾いた笑いを浮かべた。

 

「全員だ」

 

 皇帝とは、多くの者を待たせることのできる人間である。

 

 若いころ、彼はそう教えられた。

 

 待たせる時間が長いほど、相手は皇帝の権力を意識する。

 

 だが今のマティアスには、自分の残された時間を削ってまで他人を待たせる意味が分からなかった。

 

「ニケフォロス公を小謁見室へ」

 

「承知しました」

 

 侍従が退室する。

 

 マティアスは宰相を呼び止めた。

 

「サルグァ軍の位置は」

 

「先遣隊が西へ進んでおります。本隊はまだサライ周辺にあるとの報告です」

 

「いつの報告だ」

 

「六日前です」

 

「ならば、今は何の役にも立たぬ」

 

 馬で進む軍に対し、情報は常に遅れる。

 

 六日前にサライにいた軍が、今日もそこにいる保証はない。

 

 十二万の騎兵。

 

 あるいは、それ以上。

 

 マティアスは地図を見た。

 

 サライから帝国東部国境まで、通常の軍ならば一か月以上かかる。

 

 しかし、予備馬を複数持つサルグァ騎兵は、一日に通常軍の倍を進む。

 

 補給を現地調達に頼れば、さらに速い。

 

「東部の街道を封鎖せよ」

 

「交易が止まります」

 

「止めろ」

 

「セレスタ商人と帝国自由都市が反発します」

 

「反発させておけ」

 

「諸侯会議の直前です」

 

「だからこそだ」

 

 マティアスは指輪を回した。

 

「皇帝が命令できるうちに、命令しておく」

 

 宰相は老皇帝を見た。

 

 その言葉の意味を問わなかった。

 

 マティアスは、自分の身体が長くもたないと知っている。

 

 そして宰相も知っている。

 

 口に出さないことだけが、二人に残された礼儀だった。

 

     *

 

 アウレリア使節団代表ニケフォロス公は、白い衣に紫の外套をまとっていた。

 

 年齢は三十歳ほど。

 

 整えられた黒い髭と、穏やかな微笑。

 

 その姿には、東方宮廷の洗練が凝縮されていた。

 

 マティアスは会った瞬間、この男を嫌った。

 

 自分が老い、汗をかき、胸の痛みを隠している一方で、ニケフォロスは長旅の直後とは思えないほど涼しげだった。

 

「西方の偉大なる皇帝陛下に、我が主アレクシオス九世より敬意を」

 

 ニケフォロスは深く頭を下げた。

 

 膝はつかなかった。

 

 二つの帝国は、どちらが真の帝国であるかをめぐり、何百年も争っている。

 

 一方の皇帝が他方へ膝をつけば、それだけで歴史的事件になる。

 

「敬意を示すために、百七十人も連れてきたのか」

 

 マティアスは言った。

 

「道中の安全に懸念がございました」

 

「我が帝国の治安を疑うと」

 

「陛下の使者が、帝国内で襲撃されたという噂を耳にしましたので」

 

 マティアスの指が止まった。

 

 その報告を受けたのは今朝だった。

 

 襲撃されたのはヴァルネリアの使者であり、正確にはエーレン帝国の使者ではない。

 

 詳細を知る者は限られている。

 

「耳の早いことだ」

 

「我が国では、よく聞く者が長生きいたします」

 

「話しすぎる者は?」

 

「時と場所によります」

 

 二人はしばらく見つめ合った。

 

 若いころのマティアスならば、相手の言葉遊びを楽しんだかもしれない。

 

 今は時間の浪費としか思えなかった。

 

「用件を言え」

 

「国境に関する誤解を解くためです」

 

「誤解などない。互いに兵を集めている」

 

「我々は防衛のためです」

 

「皆そう言う」

 

「陛下も」

 

「余もだ」

 

 ニケフォロスの微笑が少し深くなった。

 

「ならば、双方とも平和を望んでいるという点では一致しております」

 

「平和を望む軍隊が二つ向き合えば、戦争になる」

 

「軍を退けばよろしい」

 

「どちらが先に」

 

「年長者が寛容を示されては」

 

 侍従たちが息を殺した。

 

 マティアスは怒らなかった。

 

 怒るには疲れすぎていた。

 

「アレクシオスは、お前にどこまで話した」

 

「陛下?」

 

「若い皇帝は何を恐れている。余か。バヤンか。自分の母親か」

 

 初めて、ニケフォロスの微笑が消えた。

 

 わずかな変化だった。

 

 だがマティアスは見逃さなかった。

 

「我が皇帝は何者も恐れません」

 

「それはよくない」

 

 マティアスは背をもたれた。

 

「恐れぬ皇帝は、恐れを知らぬのではない。自分が何を恐れているのか分かっていないだけだ」

 

「陛下は、何を恐れておられますか」

 

 無礼な問いだった。

 

 侍従長が一歩動いた。

 

 マティアスは手で止めた。

 

「余が死んだあと、帝国が余なしでも続いていくことだ」

 

 ニケフォロスは目を細めた。

 

 予想外の答えだったのだろう。

 

「滅びることではなく?」

 

「滅びれば、余の責任になる。続けば、余は必要なかったことになる」

 

 マティアスは自嘲した。

 

「皇帝とは、実に面倒な生き物だ」

 

 胸の痛みが強くなった。

 

 呼吸を浅くする。

 

 表情には出さない。

 

「アレクシオスへ伝えろ。余は東方との戦争を望んでいない」

 

「そのお言葉を、書面でいただけますか」

 

「断る」

 

「なぜです」

 

「書面は約束になる。言葉は意思だ」

 

「意思は変わります」

 

「約束も破られる」

 

 マティアスは立ち上がった。

 

 胸の痛みが肩へ広がる。

 

 視界の端が暗くなった。

 

 それでも立ち続けた。

 

「バヤンが西へ来る。アウレリアも、我が帝国も、単独では止められぬ」

 

「十二万という数字を信じておられるのですか」

 

「お前たちは信じていないのか」

 

「大軍には大量の食料が必要です。草原軍が十二万を維持したまま西進することは不可能です」

 

「不可能な軍を率いる男が皇帝を名乗った」

 

 マティアスは言った。

 

「不可能だと笑う前に、その男が何を可能にしたのか考えろ」

 

 ニケフォロスは返事をしなかった。

 

「共同で使者を送る」

 

 マティアスは続けた。

 

「エーレン、アウレリア、ヴェリグラードの三国で、バヤンに進軍停止を求める」

 

「拒否すれば」

 

「そのとき考える」

 

「考えている間に国境を越えます」

 

「では、お前の若い皇帝に考えさせろ。余の頭は、帝国一つで手一杯だ」

 

 ニケフォロスは再び頭を下げた。

 

「陛下のお言葉をお伝えします」

 

 彼が退室しようとしたとき、マティアスは呼び止めた。

 

「ニケフォロス公」

 

「はい」

 

「この帝都へ来る途中、ライン東岸の森を通ったか」

 

「いいえ。南の街道を使いました」

 

「なぜだ」

 

「東岸の街道は危険だと、宿場で忠告を受けました」

 

「誰に」

 

「名も知らぬ商人です」

 

「どこの商人だ」

 

「セレスタ人でした」

 

 ニケフォロスは一礼し、今度こそ去った。

 

 扉が閉まる。

 

 マティアスは立ったまま、しばらく動かなかった。

 

「陛下」

 

 侍従長が近づいた。

 

「医師を」

 

「いらぬ」

 

「お顔の色が」

 

「聞いたか」

 

「何をでしょう」

 

「セレスタ商人が、襲撃より先に街道の危険を知っていた」

 

 胸を押さえながら、マティアスは笑った。

 

「戦争は東から来ると思っていた」

 

 窓の外では、諸侯の旗が夏の風にはためいている。

 

「だが金は、いつでも海から来る」

 

     *

 

 その夜。

 

 ライナー辺境伯領の村々では、徴募官が家々の戸を叩いた。

 

 広場に集められた男たちの名が読み上げられる。

 

 泣く者。

 

 怒鳴る者。

 

 黙って頷く者。

 

 逃げようとして、家族に止められる者。

 

 自ら一歩前へ出る者。

 

 礼拝堂の前で、ハンナは二人の息子と並んでいた。

 

 上の息子は二十四歳。

 

 下は十六歳。

 

 徴募官が名簿を読み上げる。

 

「マルクス・ハンゼン」

 

 上の息子が目を閉じた。

 

 妻がその腕を掴んだ。

 

「エリアス・ハンゼン」

 

 下の息子の身体が震えた。

 

 ハンナは徴募官を見た。

 

「二人ともですか」

 

「割り当てだ」

 

「同じ家から二人も?」

 

「男手のある家だ」

 

「主人は脚が悪いのです。この子たちがいなければ、収穫が」

 

「軍には四千五百が必要だ」

 

「うちの息子は数字ではありません」

 

 徴募官は疲れた顔をしていた。

 

 同じ言葉を、すでに何十回も聞いていた。

 

「明後日の朝、城下へ集合だ」

 

 それだけを言い、次の名を読み上げた。

 

 ハンナは二人の息子を抱き寄せた。

 

 上の息子は母を支えた。

 

 下の息子は、声を殺して泣いていた。

 

 村の外では、熟した麦が風に揺れている。

 

 刈り入れまで、あと十日。

 

 出立まで、あと二日。

 

 世界に残された平和の日数と、ライナー領の男たちに残された日数は、同じではなかった。

 

     *

 

 東方の草原では、サルグァ軍の先遣隊が川を越えていた。

 

 夜の渡河だった。

 

 松明は使わない。

 

 月明かりだけを頼りに、騎兵たちは馬を水へ入れた。

 

 川幅は広く、中央では馬の背まで水が達する。

 

 流れに足を取られた一頭が倒れ、騎手が水中へ投げ出された。

 

 男は助けを求めた。

 

 だが隊列は止まらなかった。

 

 数千頭の馬が川へ入り、蹄が水面を砕く。

 

 声はすぐに濁流と馬の息遣いに呑み込まれた。

 

 対岸には、小さな国境監視所があった。

 

 ヴェリグラード諸公国の旗が掲げられている。

 

 兵士は十二人。

 

 彼らは、川の向こうから近づいてくる黒い影を見た。

 

 最初は、夜霧だと思った。

 

 次に、野生馬の群れだと思った。

 

 最後に騎兵だと気づいたときには、角笛を吹く時間しか残されていなかった。

 

 短い警報音が、夜の川辺に響いた。

 

 最初の矢が、角笛を吹いた兵士の喉を貫いた。

 

 男は音を止めることもできず、角笛を握ったまま倒れた。

 

 監視所の扉が閉められる。

 

 内側から閂が下ろされた。

 

 サルグァ騎兵は扉を破ろうとはしなかった。

 

 周囲に枯れ草と薪を積み、火矢を放った。

 

 乾いた屋根は、瞬く間に燃え上がった。

 

「降伏する!」

 

 中から誰かが叫んだ。

 

 だが、扉を開ければ矢が飛んでくるかもしれない。

 

 開けなければ焼け死ぬ。

 

 監視所の兵士たちは、互いの顔を見た。

 

 指揮官は二十歳だった。

 

 父親の口利きで任官し、この国境へ来てまだ三か月しか経っていない。

 

 実戦経験はない。

 

 訓練では、降伏の仕方を教えられていなかった。

 

 扉を開けるべきか。

 

 旗を捨てるべきか。

 

 武器を置いて出れば助かるのか。

 

 決断を求める十一人の目が、自分へ向けられている。

 

 煙が天井から降りてきた。

 

「武器を捨てろ」

 

 若い指揮官は言った。

 

「扉を開ける」

 

 閂が外される。

 

 扉が内側へ開いた。

 

 熱と煙の中から、兵士たちが両手を上げて出てきた。

 

 サルグァ騎兵は矢を射なかった。

 

 指揮官は安堵した。

 

 助かった。

 

 そう思った。

 

 騎兵の一人が馬を進め、彼の前で止まった。

 

 顔の半分を黒い布で覆っている。

 

「この川の名は」

 

 訛りの強いヴェリグラード語で訊いた。

 

「ドロヴァ川です」

 

「この先の城は」

 

「ベルジナ砦」

 

「兵は何人」

 

 指揮官は答えなかった。

 

 騎兵が腰の剣へ手を伸ばす。

 

「二百」

 

 若い指揮官は言った。

 

「騎兵は」

 

「三十ほど」

 

「援軍は」

 

「分かりません」

 

 騎兵は頷いた。

 

 後方へ何かを命じた。

 

 サルグァ語だった。

 

 捕虜たちには理解できない。

 

 数人の騎兵が馬を下り、兵士たちの手を革紐で縛り始めた。

 

「我々をどうする」

 

 指揮官が訊いた。

 

 黒い布の騎兵は、燃える監視所を見た。

 

「道を聞く」

 

「道は教えた」

 

「すべての道だ」

 

 捕虜たちは一列につながれた。

 

 そのうちの一人が抵抗した。

 

 家へ帰してくれと叫んだ。

 

 騎兵は剣を抜き、男の首へ振り下ろした。

 

 一度では切れなかった。

 

 二度目で骨が断たれた。

 

 残された兵士たちは黙った。

 

 若い指揮官は、地面に転がった部下の顔を見た。

 

 目が開いたままだった。

 

 その男には、国境近くの村に婚約者がいた。

 

 秋には結婚すると話していた。

 

 指揮官は、彼女の名を思い出そうとした。

 

 思い出せなかった。

 

 サルグァ騎兵の隊長は、西の暗闇を見た。

 

「夜明け前に砦へ着く」

 

 彼は命じた。

 

「角笛を吹かせるな」

 

 騎兵たちが動き始める。

 

 燃え落ちる監視所の旗が、火の中へ倒れた。

 

 その瞬間、ヴェリグラード諸公国の東部国境は破られた。

 

 宣戦布告はなかった。

 

 使者も来なかった。

 

 都では、まだ誰も知らない。

 

 皇帝も、諸侯も、将軍も知らない。

 

 知っていたのは、革紐につながれた十一人の捕虜と、川辺に残された首のない死体だけだった。

 

 灰暦八百七十二年、夏。

 

 三人の皇帝が互いの出方を探っている間に、名もない兵士が最初の国境を越えた。

 

 十日間の平和は、三日目の夜に終わった。

書き溜めていた分のストックがほぼ尽きてきましたので… 更新頻度についてアンケートをさせていただきたいと思います。 以降の更新頻度はどの程度がよいでしょうか?

  • 死ぬ気でがんばれ
  • 可能な範囲でがんばれ
  • そんなに急ぐこたーないぞ
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