灰冠と香路の年代記   作:MOZIO

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第五章 十三枚の椅子

王領都市サン・ルシアンの大聖堂には、十三枚の椅子が用意されていた。

 

一枚は国王のため。

 

四枚は諸侯のため。

 

四枚は聖職者のため。

 

四枚は都市のため。

 

王国法では、三身会議に出席できる人数は十三人と決められているわけではない。

 

実際には、諸侯も司教も都市代表も数十人が集まり、従者、書記、護衛、請願人、商人、密使を含めれば、千人近い人間がサン・ルシアンへ押し寄せていた。

 

それでも議場中央の円卓には、十三枚の椅子しか置かれなかった。

 

会議で発言し、王国の名で決定を下す者を示すためだった。

 

国王が一人。

 

残る十二人は、王国を形作る三つの身分を代表する。

 

祈る者。

 

戦う者。

 

働く者。

 

古い教会法は、人間社会をその三つへ分けた。

 

だが、実際の世界はそれほど単純ではない。

 

祈る者が土地を持ち、兵を雇う。

 

戦う者が商船へ金を出す。

 

働く者が武器を作り、戦争へ融資する。

 

農民は祈り、戦い、働く。

 

それでも椅子は三種類に分けられた。

 

人間は世界を理解するため、まず世界を簡単にする。

 

そして、簡単にした世界へ現実を押し込めようとする。

 

押し込められなかったものは、異端、反逆、無秩序という名で外へ捨てられる。

 

灰暦八百七十二年、春の終わり。

 

ヴァルネリア王国の運命は、十三枚の椅子の周囲へ集められようとしていた。

 

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## 一

 

サン・ルシアンは、戦争のために造られた都市ではなかった。

 

緩やかな丘陵の間を流れるリュス川。

 

聖ルシアン大聖堂。

 

古い王宮。

 

葡萄酒倉庫。

 

毛織物市場。

 

巡礼宿。

 

城壁はあるが低く、堀も浅い。

 

歴代の王は、戦場から離れたこの都市で戴冠前の清めを受け、諸侯との婚姻や和平を祝った。

 

争いを始めるのではなく、終わらせる場所。

 

少なくとも、年代記にはそう書かれている。

 

アルベリク・フォン・ライナーがサン・ルシアンの東門へ到着したとき、城壁上には王国旗と三身会議旗が並んでいた。

 

王国旗は青地に銀百合。

 

三身会議旗は、祈りを表す金の燭台、騎士を表す赤い剣、都市を表す黒い槌を一つの輪が囲んでいる。

 

街道の両側には、諸侯の兵が野営していた。

 

王命により、会議出席者は一人につき護衛二十人までと定められている。

 

だが、少し離れた村や修道院に私兵を置けば、人数には含まれない。

 

国王軍は都市の北。

 

ヴァルネ公爵家の兵は南。

 

西部諸侯は葡萄畑。

 

自由都市の民兵は河岸。

 

互いに攻撃するつもりはないと主張しながら、全員が攻撃された場合の陣形を整えていた。

 

アルベリクは護衛十二騎だけを連れてきた。

 

ライナー城の包囲軍は、副官ハンスへ預けている。

 

城への攻撃は止めたまま。

 

だが包囲は解いていない。

 

父も武装解除していない。

 

王国と家の間に引かれた線は、そのまま残っている。

 

東門の検問所で、王国兵がアルベリクの書状を確認した。

 

「武器を預かります」

 

門衛隊長が言った。

 

「会議区域への武器持ち込みは禁止です」

 

アルベリクは剣を外した。

 

腰が軽くなる。

 

軍人にとって、武器を手放す感覚は奇妙だった。

 

身分の一部を預けるように感じる。

 

「短剣も」

 

隊長が言う。

 

「食事用です」

 

「食事用でも人は殺せます」

 

正しい。

 

アルベリクは短剣も渡した。

 

護衛兵たちも武器を外す。

 

門を通る前、隊長がアルベリクへ近づいた。

 

「参謀殿」

 

「何だ」

 

「軍務卿から、到着後ただちに王宮へ出頭せよとのことです」

 

「会議前に?」

 

「はい」

 

国王か。

 

軍務卿か。

 

アルベリクは頷いた。

 

都市内部は、巡礼祭のように混雑していた。

 

ただし人々の表情に祭りの明るさはない。

 

宿屋は満員。

 

馬小屋も満員。

 

市場には通常より多くの商品が並んでいるが、価格は高い。

 

小麦。

 

塩。

 

干し肉。

 

油。

 

蹄鉄。

 

包帯。

 

平和会議が開かれる都市で、戦争用品が売れている。

 

路地の壁には、異なる主張の紙が貼られていた。

 

《国王陛下とともに、一つの法、一つの秤、一つの王国を》

 

その上に、別の紙。

 

《古き契約なくして王冠なし》

 

さらに、その横。

 

《王も諸侯もパンを作らない》

 

最後の文言だけ、印刷ではなく炭で書かれていた。

 

誰が書いたのか。

 

都市職人。

 

説教師。

 

飢えた農民。

 

あるいは、混乱を望む者。

 

アルベリクは馬を進めた。

 

大聖堂前広場には、すでに請願人が集まっている。

 

夫を軍へ取られた女。

 

税の減免を求める農民。

 

盗賊騎士に土地を奪われた修道院。

 

王国軍に馬を徴発された宿屋。

 

反乱諸侯の兵に息子を連れ去られた父親。

 

誰もが、自分の苦しみこそ会議で最初に扱われるべきだと考えている。

 

実際には、ほとんどが議場へ届かない。

 

請願書は書記が分類し、役所へ送られ、さらに重要度を判断される。

 

戦争。

 

税。

 

宗教。

 

外交。

 

そのどれにも当てはまらない生活の問題は、後回しになる。

 

後回しにされた問題は、ある日、暴動や反乱という大きな分類へ姿を変えて戻ってくる。

 

「参謀殿」

 

護衛の一人が声を落とした。

 

「見られています」

 

アルベリクも気づいていた。

 

市場の軒下。

 

灰色の外套の男。

 

こちらを見ている。

 

アルベリクが顔を向けると、男は人混みへ消えた。

 

諸侯の密偵か。

 

王国の監視役か。

 

軍人の姿を覚えたい商人か。

 

この街では、誰もが誰かを見張っている。

 

王国軍の参謀であり、包囲された辺境伯の息子。

 

アルベリクは、見る者によって意味が変わる存在だった。

 

王党派には、忠誠を試される貴族。

 

諸侯派には、家を裏切った息子。

 

職人には、徴発を命じる軍人。

 

農民には、村から小麦を奪う軍の一員。

 

本人の意図とは関係なく、人は他者の物語の中で役を与えられる。

 

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## 二

 

マティアス・コルヴァンは、都市代表団の馬車でサン・ルシアンへ来た。

 

馬車といっても、貴族が使う箱型の豪華なものではない。

 

毛織物組合、鍛冶組合、革職人組合の代表六人が、商品運搬用の幌車に押し込まれていた。

 

道中、彼らはほとんど口を利かなかった。

 

王都で軍需供出の合意をまとめたあと、マティアスは王立軍需委員会の市民代表に任命された。

 

同時に、王都職人組合から三身会議の都市側補佐人へ選ばれた。

 

国王と組合。

 

両方の名で会議へ入る。

 

どちらからも完全には信用されない立場だった。

 

「王の役人殿」

 

鍛冶組合代表のベルトランが皮肉を言った。

 

サン・ルシアンへ入る直前だった。

 

「宿は王宮か」

 

「組合宿舎だ」

 

「銀の皿で食うのかと思った」

 

「委員会の給金はまだ一枚も受け取っていない」

 

「受け取れば同じだ」

 

マティアスは返事をしなかった。

 

同じ議論を道中で何度もした。

 

王の委員になれば、職人の声を届けられる。

 

王の委員になった時点で、王の政策を受け入れたことになる。

 

どちらも正しい。

 

「ベルトラン」

 

革職人組合の老女マルグリットが言った。

 

「彼を犬と呼ぶなら、噛みつかせたい相手を先に決めな」

 

「王に噛みつける犬か?」

 

「飼い主の足を噛む犬もいる」

 

マティアスは溜息をついた。

 

「私は犬ではない」

 

「議場へ入れば分かる」

 

マルグリットが笑う。

 

「貴族は我々を金袋と思っている。王は税台帳と思っている。司教は寄進者と思っている。人間として扱われるより犬の方がましかもしれない」

 

城門を通ると、都市の騒がしさが押し寄せた。

 

マティアスはまず市場を見た。

 

職人の習慣だった。

 

土地へ入れば、何がいくらで売られているかを見る。

 

小麦一升、王都より一割安い。

 

パン一斤、ほぼ同じ。

 

塩、高い。

 

羊毛、安い。

 

葡萄酒、平年並み。

 

サン・ルシアン周辺は小麦の収穫地に近い。

 

それでも価格が上がっている。

 

商人は会議のために集まった兵と従者が買うと見込み、値を上げた。

 

あるいは、今後さらに不足すると考えて売り惜しんでいる。

 

「倉庫を見たい」

 

マティアスは言った。

 

「宿が先だ」

 

ベルトランが答える。

 

「組合代表の会合がある」

 

「市場の小麦が少ない」

 

「会議に人が集まったからだ」

 

「それだけなら、もっと荷車が来る」

 

マティアスは市場の端を見る。

 

普段なら穀物荷車が並ぶ場所。

 

空いている。

 

一台もない。

 

「街道が止まっているのか」

 

マルグリットが尋ねる。

 

「南部は開いたはずだ」

 

「東部の包囲軍が買っているのかもしれない」

 

「王領倉庫に入れている可能性も」

 

マティアスは近くの粉屋へ声をかけた。

 

「小麦はいつ来た」

 

粉屋は警戒した顔をする。

 

「買うのか」

 

「王都職人組合だ」

 

組合印を見せる。

 

粉屋は少し安心した。

 

「三日前から来ていない」

 

「どこで止まっている」

 

「知らん。西街道から来るはずの荷が全部消えた」

 

「商人は」

 

「倉庫にある分を出さない」

 

「理由は」

 

「会議が終われば戦争になると」

 

マティアスは都市の城壁を見た。

 

大軍を養う備蓄はない。

 

市場が止まれば、数日で不足する。

 

会議参加者たちは、自分たちが話し合っている間、都市が食べ続けることを忘れている。

 

王も諸侯も、会議を開くために人を集める。

 

集められた人間は食べる。

 

食べるために小麦を奪い合う。

 

和平のための会議が、その都市で飢えを作る。

 

「代表会合へ行く」

 

マティアスは言った。

 

「それから王領倉庫を調べる」

 

「権限があるのか」

 

ベルトランが尋ねる。

 

「委員会の札がある」

 

「王の犬の首輪も役に立つな」

 

マティアスは男を見た。

 

「もう一度言ったら、犬らしく噛むぞ」

 

マルグリットが声を上げて笑った。

 

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## 三

 

王宮の小会議室で、軍務卿シャルル・ド・モントレーはアルベリクへ二枚の命令書を見せた。

 

一枚目は公文書。

 

二枚目は封蝋のない私的指示。

 

「三身会議が成立しなかった場合」

 

軍務卿は言った。

 

「東部方面軍は、反乱諸侯への攻撃を即時開始する」

 

「会議の終了を待たず?」

 

「国王陛下が交渉決裂と判断した時点で」

 

「判断は誰が陛下へ伝えるのです」

 

「私だ」

 

アルベリクは軍務卿を見た。

 

五十代半ば。

 

黒髪に白いものが混じる。

 

痩せた顔。

 

王国統一を信じている。

 

私欲だけの男ではない。

 

だからこそ危険だった。

 

「陛下は、本当に攻撃を望んでいるのですか」

 

「王が望むかどうかは問題ではない」

 

「王命を扱う軍務卿の言葉とは思えません」

 

「王は王国を守るためにいる。個人の感情で必要な命令を拒むなら、我々が必要性を示す」

 

「王を補佐するのと、王に代わって決めるのは違います」

 

「戦場で、王の返事を待っている間に敵が動けばどうする」

 

「ここは戦場ではない」

 

「すでに戦場だ」

 

軍務卿は窓の外を指した。

 

「北に王国軍。南に公爵軍。西に反乱諸侯。大聖堂には敵対派閥。剣が抜かれていないだけだ」

 

「だからこそ、命令を急ぐべきではない」

 

「お前は父親の城を囲んでいる」

 

突然の言葉だった。

 

「私情が判断を鈍らせているのではないか」

 

アルベリクは表情を変えなかった。

 

「父が反乱しているため、私は攻撃を慎重にしていると?」

 

「逆もある。私情を否定するため、必要以上に冷酷になる者もいる」

 

否定できない。

 

アルベリク自身、何度も考えた。

 

ほかの城なら攻撃していたか。

 

父の城だから延期したのか。

 

あるいは父の城だから、延期を正当化するため余計に厳しい条件をつけたのか。

 

人は自分の動機を完全には理解できない。

 

「二枚目を」

 

軍務卿が言った。

 

アルベリクは私的指示を読む。

 

三身会議中に反乱の証拠が確認された場合、次の三名を拘束せよ。

 

オルテーズ伯。

 

バルシュ伯。

 

そして、エレノア・ド・ヴァルネ公爵夫人。

 

アルベリクは紙から目を上げた。

 

「王の姉を逮捕するのですか」

 

「反乱計画への署名が確認された場合だ」

 

「誰が確認する」

 

「国王情報局」

 

「証拠は」

 

「すでに一部を得ている」

 

「見せてください」

 

「機密だ」

 

「逮捕を実行する者が証拠を見られない?」

 

「命令に必要なのは権限だ。納得ではない」

 

「私は実行できません」

 

軍務卿の目が冷たくなる。

 

「拒否か」

 

「王命であれば従います。あなたの私的指示では」

 

「これは陛下の意思だ」

 

「署名がありません」

 

「公にできないためだ」

 

「なら、私も公に実行できません」

 

「アルベリク」

 

軍務卿は初めて名だけを呼んだ。

 

「王国が崩れれば、お前の理屈も記録も何も残らない」

 

「王国を守るため、法を壊すのですか」

 

「法は王国が存在して初めて意味を持つ」

 

「それを言えば、何でもできます」

 

「必要なら」

 

「必要かどうかを誰が決める」

 

「責任を負える者だ」

 

「失敗したとき、あなたは責任を負うのですか」

 

「首を差し出す」

 

「処刑されることは、死んだ人間への償いになりません」

 

軍務卿は黙った。

 

彼も同じことを知っている。

 

責任を取るという言葉は、しばしば後から使われる。

 

命令を出す前に必要なのは、自分が死ぬ覚悟ではなく、他人を死なせない慎重さだ。

 

「命令書を返します」

 

アルベリクは私的指示を机へ置いた。

 

「公文書には従います」

 

「公爵夫人が会議場で反乱を宣言したら」

 

「その場で王へ判断を求めます」

 

「遅い」

 

「王が同じ部屋にいます」

 

軍務卿は彼を見つめた。

 

「お前は父親と同じだ」

 

「何が」

 

「王国を信じるが、王を信じない」

 

アルベリクは答えた。

 

「あなたは王を信じていると言いながら、王に決めさせない」

 

二人の間に沈黙が落ちた。

 

扉が叩かれる。

 

侍従が入る。

 

「国王陛下がお呼びです」

 

軍務卿が眉を寄せる。

 

「私もか」

 

「アルベリク殿だけを」

 

アルベリクは命令書を置いたまま部屋を出た。

 

背後で軍務卿が何も言わなかったことが、怒鳴られるより重かった。

 

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## 四

 

国王アドリアン二世は、王宮の礼拝堂にいた。

 

王冠をかぶっていない。

 

青い上着と黒い長靴。

 

腰に剣もない。

 

祭壇の前ではなく、窓際の長椅子へ座っている。

 

王らしくない姿だった。

 

「来たか」

 

「お呼びと伺いました」

 

アルベリクは片膝をついた。

 

「立て。ここでは儀礼はいい」

 

立ち上がる。

 

国王はしばらく窓の外を見ていた。

 

南の野営地。

 

ヴァルネ公爵家の紫旗が見える。

 

「父親の城を攻めなかったそうだな」

 

「包囲は続けています」

 

「軍務卿は命令違反だと言っている」

 

「攻撃開始時期は現地指揮官の判断です」

 

「法の隙間を使ったか」

 

「法の範囲です」

 

国王がわずかに笑う。

 

「姉上も同じことを言う」

 

「公爵夫人と私を同じ派閥と疑っておられますか」

 

「疑うべきか」

 

「違います」

 

「では、父親のためか」

 

「王国のためです」

 

「その言葉を聞き飽きた」

 

アドリアンは立ち上がった。

 

「軍務卿も姉上も司教も商人も、全員が王国のためと言う。王国のために税を取れ。王国のために税を拒め。王国のために兵を集めろ。王国のために兵を解散しろ」

 

「陛下も使います」

 

「ああ」

 

国王は認めた。

 

「だから、自分が言うたびに疑う」

 

祭壇の蝋燭が揺れた。

 

「お前の父は、どんな男だ」

 

「辺境伯です」

 

「身分を聞いていない」

 

アルベリクは答えに迷った。

 

父を、他人へ説明したことはほとんどない。

 

「古い人です」

 

「頑固か」

 

「はい」

 

「領民を虐げる?」

 

「必要以上には」

 

「必要な虐げがあるのか」

 

「領主として税を取り、兵役を求めます」

 

「お前はそれを制度へ置き換えたい」

 

「個人の善悪に依存しない形に」

 

「父親より王の役人の方がましだと」

 

「常にではありません」

 

「ならなぜ改革を支持する」

 

「間違った役人を交代できます。領主は血統だけで残る」

 

国王は窓辺へ戻った。

 

「王も血統だ」

 

「だから、王にも法が必要です」

 

アルベリクは言った。

 

言った直後、礼拝堂が冷えたように感じた。

 

王へ向かって、法が必要だと。

 

処罰されても不思議ではない。

 

アドリアンは怒らなかった。

 

「姉上と同じだな」

 

「公爵夫人は封建契約を守ろうとしている。私は統一法を支持しています」

 

「方法は違う。だが私を止めるものが必要だと考える点は同じだ」

 

「陛下ご自身も、必要だと?」

 

国王はすぐに答えなかった。

 

「必要だ」

 

その声は小さかった。

 

「だが、私を止める者たちが、自分たちの利益を法と呼ぶのが問題だ」

 

「陛下も、自分の利益を王国と呼ぶ危険があります」

 

「それを言うために呼んだわけではない」

 

「申し訳ありません」

 

「謝るな。正しい」

 

国王は机から一枚の紙を取った。

 

軍務卿が見せた私的指示ではない。

 

三身会議で提示する王の提案。

 

「読め」

 

アルベリクは目を通す。

 

土地台帳の統一は継続。

 

度量衡統一も継続。

 

諸侯の私兵は完全解体ではなく、王国予備軍として登録。

 

地方裁判権は残すが、死刑判決には王国巡回判事の承認を必要とする。

 

臨時税は三身会議の承認制を維持。

 

ただし、外敵侵攻時は国王が一年間だけ緊急税を課せる。

 

王権と諸侯権の間を取った案。

 

「これなら公爵夫人は受けると思うか」

 

「多くは受けるでしょう」

 

「多くは?」

 

「私兵登録と巡回判事へ反発する者がいます」

 

「姉上は」

 

「受ける可能性が高い」

 

「なぜ分かる」

 

「公爵夫人は、王権を壊したいのではなく、予測できる王権を望んでいます」

 

「お前は姉上を理解しているようだ」

 

「書簡を一度交わしただけです」

 

「人を一度で読むのか」

 

「読めません。行動原理を推測します」

 

国王は提案書を取り戻した。

 

「軍務卿は、この案では弱すぎると言う」

 

「軍務卿は、会議が失敗する可能性を高く見積もっています」

 

「お前は」

 

「成功させなければ、戦争になります」

 

「答えになっていない」

 

「成功の可能性は半分以下です」

 

「正直だな」

 

「成功させる方法はあります」

 

「何だ」

 

「穀物です」

 

国王の目が細くなる。

 

「説明しろ」

 

「この都市の市場から小麦が消えています。会議が三日以上続けば、住民と兵の間で衝突が起きる」

 

「王領倉庫がある」

 

「実量を確認しましたか」

 

国王の顔が変わった。

 

「何か知っているのか」

 

「まだです。ただ、市場へ荷が来ない。商人が隠しているだけなら倉庫にある。王領倉庫にもなければ、誰かが会議前に移した」

 

「会議を飢えさせるため?」

 

「あるいは、暴動を起こすため」

 

国王は侍従を呼んだ。

 

「穀物長官を」

 

「陛下」

 

「何だ」

 

「調査は都市代表にもさせるべきです」

 

「なぜ」

 

「王側だけで調べれば、諸侯は数字を信じません」

 

「誰を」

 

「マティアス・コルヴァン」

 

「軍需委員会の職人か」

 

「はい」

 

「信用できるのか」

 

アルベリクは考えた。

 

「王よりパンを信用する男です」

 

アドリアンは少し笑った。

 

「なら、適任かもしれない」

 

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## 五

 

エレノア・ド・ヴァルネは、大聖堂の控室で弟を待っていた。

 

会議開会前、国王と主要諸侯による非公式会談が予定されている。

 

大広間へ入る前に、妥協できる範囲を確認するため。

 

同時に、互いの顔色を見るため。

 

控室にはエレノアのほか、バルシュ伯、オルテーズ伯、ラヴァル司教がいた。

 

三人とも苛立っている。

 

「王は我々を待たせている」

 

オルテーズ伯が言った。

 

「わざとだ」

 

「王宮で穀物問題が起きたと」

 

ラヴァル司教が答える。

 

「それも芝居だろう」

 

「何でも陰謀に見えるなら、会議へ来た意味がありません」

 

エレノアは窓の外を見ていた。

 

南の野営地。

 

公爵家の兵。

 

彼らには、武器を抜くなと厳命している。

 

だが王国軍が動けば防御しろとも命じた。

 

平和を望みながら、戦争へ備える。

 

矛盾ではない。

 

備えがなければ、相手は攻撃しやすくなる。

 

備えがあれば、相手は攻撃の準備と受け取る。

 

安全のための行動が、相手の恐怖を増やす。

 

国家間でも、兄弟間でも同じだった。

 

「公爵夫人」

 

バルシュ伯が低い声で言う。

 

「今日、王が我々を逮捕するという噂があります」

 

「誰から」

 

「確かな筋だ」

 

「名を出せない筋は、確かとは呼びません」

 

「王国情報局が令状を準備している」

 

オルテーズ伯が腰の剣を探すような動作をした。

 

武器は預けている。

 

「だから会議区域へ兵を入れるべきだった」

 

「入れれば、王国軍も入れる」

 

「すでにいる」

 

「大聖堂内にはいません」

 

「見えないだけだ」

 

エレノアは二人を見た。

 

「王が逮捕を命じた場合、抵抗しないでください」

 

「何だと」

 

「抵抗すれば反乱の証明になる」

 

「捕らえられ、処刑されろと?」

 

「法廷へ出る」

 

オルテーズ伯が笑った。

 

「王の法廷へ?」

 

「王だけの法廷ではありません。諸侯裁判権を要求します」

 

「認めなければ」

 

「そのとき、王が法を破ったことを全員が知る」

 

「知ったあと、我々は首がない」

 

「生き延びることだけを求めるなら、今日ここへ来るべきではなかった」

 

エレノアの声が冷たくなる。

 

「剣を抜けば、あなたの領地だけでなく、私の領地も、王都も、東部も戦場になる」

 

「王が先に法を破る」

 

「相手が先なら、自分の行為はすべて正しいのですか」

 

伯は黙る。

 

扉が開いた。

 

国王アドリアンが入る。

 

王冠。

 

青い王衣。

 

軍務卿と財務卿。

 

姉弟の目が合う。

 

公の場では、王と公爵夫人。

 

血縁は衣服の下へ隠される。

 

全員が礼をする。

 

「待たせた」

 

アドリアンが言った。

 

「都市の穀物備蓄に問題が見つかった」

 

「どの程度」

 

エレノアが尋ねる。

 

「まだ不明だ」

 

「会議を延期しますか」

 

「いや」

 

「民衆が飢えても?」

 

「調査を始めた。必要なら王領備蓄を開く」

 

オルテーズ伯が鼻を鳴らす。

 

「王領備蓄が本当にあれば」

 

軍務卿が一歩出る。

 

「伯爵。発言に気をつけられよ」

 

「気をつけるべきは倉庫番だ」

 

国王が手を上げる。

 

「穀物の話はあとだ。まず、私から提案がある」

 

アドリアンが羊皮紙を卓へ置いた。

 

エレノアは読む。

 

予想より譲歩している。

 

土地台帳。

 

度量衡。

 

私兵登録。

 

巡回判事。

 

緊急税。

 

受け入れられない内容ではない。

 

だが、一つ不足している。

 

「国王による緊急税へ、期限はあります」

 

エレノアが言った。

 

「だが、外敵侵攻と判断する者が国王だけです」

 

「侵攻は事実で分かる」

 

「聖地の事件を外敵の脅威と呼び、現在の特別税を課しています」

 

「オルシャで西方信徒が殺され、穀物船が燃えた」

 

「ヴァルネリアが攻撃されたのではありません」

 

ラヴァル司教が口を挟む。

 

「信仰共同体への攻撃は、我々への攻撃です」

 

「なら教会が税を払うべきです」

 

エレノアが返す。

 

司教の顔が強張る。

 

国王が言う。

 

「緊急税の発動後、四十日以内に三身会議の追認を求める」

 

「会議を招集しなければ」

 

「自動的に失効」

 

「税の徴収分は」

 

「国庫へ入る」

 

「失効した場合、返還を」

 

財務卿が驚く。

 

「不可能です」

 

「不可能なら、王は軽々しく発動できない」

 

アドリアンは姉を見る。

 

「返還に応じる。ただし、軍事費として支出済みの分を除く」

 

「すべて軍事費にできます」

 

「監査権を三身会議へ与える」

 

軍務卿が国王を見る。

 

聞いていなかったらしい。

 

「陛下」

 

「決めた」

 

エレノアは弟の顔を見た。

 

譲歩。

 

本気か。

 

時間を稼ぐ罠か。

 

疑えば何も進まない。

 

信じれば利用される。

 

「私兵登録について」

 

バルシュ伯が言う。

 

「登録された兵の指揮権は誰にある」

 

「平時は領主」

 

国王が答える。

 

「王国戦時は国王」

 

「戦時の定義は」

 

「三身会議承認。ただし侵攻を受けた地域では、国王が即時動員できる」

 

「王国全体へ広げる場合は」

 

「会議の承認」

 

バルシュ伯は黙った。

 

受け入れられる可能性がある。

 

オルテーズ伯だけが不満そうだった。

 

彼は妥協を求めていない。

 

戦争による債務帳消しと領土拡大を望んでいる。

 

エレノアはそれを知っている。

 

国王も知っているだろう。

 

「三身会議で正式に審議します」

 

エレノアは言った。

 

「ただし一つ条件があります」

 

「何だ」

 

「東部諸侯への攻撃停止を、会議終了まで保証してください」

 

軍務卿が反対する。

 

「反乱軍へ準備時間を与える」

 

「すでに包囲されています」

 

「ほかの諸侯が軍を集める」

 

「王国軍も集めています」

 

「姉上」

 

国王が声を低くした。

 

「武装解除命令は有効だ」

 

「会議中に攻撃すれば、これは交渉ではなく降伏勧告です」

 

姉弟が見つめ合う。

 

「三日」

 

アドリアンが言った。

 

「会議開始から三日間、攻撃を停止する」

 

「会議が続けば」

 

「四日目に再度判断する」

 

「攻撃開始は三身会議へ報告を」

 

「軍事判断を議会へ委ねられない」

 

「報告です。許可ではありません」

 

「認める」

 

軍務卿の顔がさらに険しくなる。

 

会談は妥協へ進んでいる。

 

彼にとって、それは弱体化に見える。

 

エレノアは、軍務卿が最も危険な位置にいると感じた。

 

悪人だからではない。

 

王国を救う方法が一つしかないと信じているからだ。

 

一つの方法しか見えない者は、それを妨げるすべてを敵と呼ぶ。

 

「では、大広間へ」

 

国王が言った。

 

そのとき、大聖堂の鐘が鳴った。

 

開会の合図。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

十三度ではない。

 

三身会議を示す三度。

 

それでもエレノアは、遠いオルシャの鐘を思った。

 

誰かが鐘の数へ意味を与える。

 

今日の三度は、平和の始まりか。

 

戦争の合図か。

 

まだ誰にも分からない。

 

---

 

## 六

 

十三枚の椅子が埋まった。

 

中央の高椅子に国王アドリアン二世。

 

その右側に諸侯四人。

 

エレノア・ド・ヴァルネ。

 

バルシュ伯。

 

オルテーズ伯。

 

王党派のモンフェラ侯。

 

左側に聖職者四人。

 

ラヴァル司教。

 

サン・ルシアン大司教。

 

北部修道院連盟の修道院長。

 

聖座ルミナ使節ベルナール枢機卿。

 

向かい側に都市代表四人。

 

王都商人評議会代表。

 

ローアン自由市長。

 

南部港湾都市代表。

 

職人組合代表として選ばれた老織物商アベル・マレ。

 

マティアスはその背後の補佐席にいた。

 

アルベリクは王側書記団の後ろ。

 

発言権はない。

 

だが、軍事問題について質問された場合に答える。

 

大広間の周囲には、数百人の傍聴者。

 

諸侯。

 

騎士。

 

司祭。

 

都市役人。

 

組合員。

 

外国使節。

 

誰も武器を持っていないはずだった。

 

入口で厳重に検査されている。

 

それでもアルベリクは、室内を見回した。

 

窓。

 

回廊。

 

聖歌隊席。

 

天井梁。

 

祭壇裏の扉。

 

人間は武器がなければ、椅子でも燭台でも人を殺す。

 

安全とは武器の有無ではなく、殺す意思と機会の距離だった。

 

大司教の祈りから会議が始まる。

 

唯一なる灯火よ。

 

王へ知恵を。

 

諸侯へ忠誠を。

 

聖職者へ慈悲を。

 

都市へ節度を。

 

民へ忍耐を。

 

アルベリクは最後の言葉に引っかかった。

 

権力者へ知恵と慈悲を求める。

 

民衆には忍耐を求める。

 

古い祈り。

 

誰も疑問を持たない。

 

祈りが終わる。

 

国王が立った。

 

「ヴァルネリア王国の臣民へ」

 

声が広間へ響く。

 

「我々は、剣を抜くためではなく、剣を鞘へ残すために集まった」

 

傍聴席で小さなざわめき。

 

「王国は一つでなければならない。だが一つであることは、すべてが同じであることではない」

 

アルベリクは国王の横顔を見た。

 

準備された文章か。

 

本人の言葉か。

 

「地方の法、都市の自治、教会の権利、諸侯の契約。それらは王国を弱くするだけのものではない。王冠が届かない場所で秩序を守ってきた」

 

軍務卿の表情が動かない。

 

「同時に、異なる秤、異なる税、異なる軍役が、王国民を互いに分けている。商人は国境ごとに関税を払い、農民は領主ごとに異なる義務を負い、兵士は王ではなく家の旗のために戦う」

 

諸侯側から不満の声。

 

国王は続ける。

 

「私は王権を強めたい」

 

広間が静かになる。

 

隠さない言葉だった。

 

「王が欲深いからではない、と言えば嘘になる。権力を持つ者は、さらに持ちたくなる。私も例外ではない」

 

今度は大きなざわめき。

 

王が自分の欲を認める。

 

演説として異例。

 

「だからこそ、王を縛る法も必要だ」

 

エレノアが弟を見る。

 

国王は提案書を掲げた。

 

「王国法を統一する。同時に、緊急税と動員には期限と監査を置く。諸侯軍を王国予備軍へ登録するが、平時の指揮権は領主へ残す。地方裁判権を認めるが、死刑には王国判事の確認を求める」

 

「王の譲歩に見せた支配だ!」

 

傍聴席から声が上がる。

 

オルテーズ伯の支持者。

 

大司教が静粛を求める。

 

国王は座った。

 

次にエレノアが立つ。

 

「国王陛下の言葉を評価します」

 

諸侯席の一部が驚く。

 

「王権は必要です。国境を守り、貨幣を保ち、街道を安全にするために」

 

エレノアは諸侯たちへ向き直る。

 

「我々諸侯も、自分の権利を民の自由と混同してはなりません」

 

オルテーズ伯が睨む。

 

「領主の裁判権が守られても、農民が不当に裁かれるなら、それは王国法の勝利ではありません」

 

今度は都市側から賛同の声。

 

「しかし、王が法を定め、王が裁き、王が税を取り、王が軍を動かし、そのすべてを王自身が正しいと判断するなら、王国は一人の人間の過ちへ従属する」

 

国王と姉。

 

対立。

 

同時に、互いを完全には否定していない。

 

会議は始まった。

 

土地台帳。

 

度量衡。

 

軍役。

 

裁判権。

 

税。

 

一つずつ審議される。

 

聖職者は教会領の免税を守ろうとする。

 

都市は関税統一を求める。

 

諸侯は軍事権を守る。

 

国王は統一行政を求める。

 

正午までに、一つの条項も決まらなかった。

 

それでも怒鳴り合いだけではない。

 

文言を変える。

 

期限を加える。

 

監査人の選出方法を議論する。

 

妥協の形が少しずつ見え始める。

 

アルベリクは、成功の可能性を半分以下と見積もったことを思い出した。

 

少し上方修正してもよいかもしれない。

 

そのとき、マティアスが都市代表アベルへ紙を渡した。

 

老商人が読み、国王へ発言を求める。

 

「陛下。議題へ入る前に、都市の穀物問題を」

 

財務卿が反対する。

 

「現在調査中です」

 

「会議の参加者が食べる穀物です。会議と無関係ではない」

 

「王領倉庫を確認している」

 

マティアスが補佐席から声を上げた。

 

「確認しました」

 

発言権のない者の割り込み。

 

広間がざわつく。

 

国王が手で制した。

 

「続けろ」

 

マティアスは立った。

 

「王領倉庫の帳簿では、小麦八千樽」

 

「実量は」

 

国王が尋ねる。

 

「二千百四十樽」

 

財務卿が立ち上がる。

 

「あり得ない!」

 

「倉庫番と都市組合員で数えました」

 

「帳簿の記録は」

 

「六日前、王都軍需局の命令で五千樽を移送」

 

軍務卿が顔を上げる。

 

「そのような命令は出していない」

 

「印章は軍務局です」

 

「偽造だ」

 

マティアスは紙を掲げる。

 

「印章が偽物かは分かりません。だが小麦は消えた」

 

「移送先は」

 

エレノアが尋ねる。

 

「西街道の聖オルバン修道院」

 

北部修道院長が言う。

 

「その修道院は閉鎖中です。昨年の疫病で」

 

広間の空気が変わる。

 

存在しない受取人。

 

偽造命令。

 

消えた五千樽。

 

「残る八百六十樽は」

 

マティアスが続ける。

 

「帳簿上、腐敗による廃棄。ですが廃棄記録に立ち会った役人の一人は、三年前に死んでいます」

 

誰かが意図的に備蓄を抜いている。

 

会議都市を飢えさせるためか。

 

売るためか。

 

軍へ渡すためか。

 

「倉庫番を拘束しろ」

 

国王が命じる。

 

「すでに消えています」

 

アルベリクは室内を見回した。

 

これはオルシャと同じ構造かもしれない。

 

穀物を消す。

 

価格を上げる。

 

群衆を怒らせる。

 

宗派ではなく身分を対立させる。

 

誰かが、会議の失敗を望んでいる。

 

「都市の備蓄で何日持つ」

 

国王が尋ねる。

 

「現在の人口なら四日」

 

マティアスが答える。

 

「配給制限で六日」

 

「会議は三日で終える」

 

オルテーズ伯が笑う。

 

「王が三日で我々を屈服させればな」

 

「伯爵」

 

エレノアが睨む。

 

「小麦が消えたことを楽しんでいるのですか」

 

「王の管理能力が証明された」

 

「あなたの兵も食べられなくなる」

 

「領地から持ってきた」

 

「何日分」

 

伯は答えない。

 

アルベリクは気づいた。

 

オルテーズ伯の護衛は、都市外に三百人以上いる。

 

規定を超える兵。

 

彼らの食糧も必要。

 

伯が備蓄消失を知っていたなら。

 

あるいは、利用するつもりなら。

 

軍務卿の私的指示。

 

逮捕対象。

 

証拠があると言っていた。

 

アルベリクは軍務卿を見る。

 

男はオルテーズ伯ではなく、聖歌隊席を見ていた。

 

何かに気づいている。

 

アルベリクも視線を上げる。

 

回廊の奥。

 

灰色の修道服を着た人物。

 

聖職者にしては姿勢が低い。

 

両手が見えない。

 

先ほど市場で見た灰色の外套の男と同じ体格。

 

アルベリクは立ち上がった。

 

「陛下、伏せてください!」

 

声と同時に、聖歌隊席で弦が鳴った。

 

短い音。

 

弩。

 

矢が飛ぶ。

 

国王ではなかった。

 

エレノアへ向かっていた。

 

アルベリクは円卓を蹴った。

 

卓がずれ、エレノアの椅子へぶつかる。

 

彼女が倒れる。

 

矢は背後の柱へ刺さった。

 

広間が爆発したように騒がしくなる。

 

護衛。

 

傍聴者。

 

叫び。

 

逃げる者。

 

犯人は二本目を装填しない。

 

回廊から身を翻し、裏へ逃げる。

 

「扉を閉じろ!」

 

アルベリクが叫ぶ。

 

王国兵が動く。

 

だが同時に、諸侯側の従者も動いた。

 

「王が公爵夫人を殺そうとした!」

 

誰かが叫んだ。

 

「罠だ!」

 

別の声。

 

「王国兵が武器を隠している!」

 

混乱の中で、誰が最初に叫んだのか分からない。

 

だが言葉は広がる。

 

エレノアが床から起きる。

 

「静まりなさい!」

 

声は届かない。

 

オルテーズ伯が椅子を振り上げ、王国兵を牽制する。

 

軍務卿が国王の前へ立つ。

 

聖職者は祭壇側へ逃げる。

 

都市代表は卓の下へ。

 

マティアスは、倒れた老織物商アベルを引き起こしていた。

 

「出口へ!」

 

誰かが大扉を開けようとする。

 

王国兵が閉じる。

 

「我々を閉じ込める気だ!」

 

群衆が扉へ押し寄せる。

 

このままでは踏み潰される。

 

「扉を開けろ!」

 

マティアスが叫ぶ。

 

「犯人が逃げる!」

 

兵士が答える。

 

「ここで百人死ぬよりましだ!」

 

アルベリクも同じ判断をした。

 

「東扉だけ開けろ! 一列で出せ! 諸侯と王族は残す!」

 

兵士たちが迷う。

 

正式な指揮権は軍務卿。

 

「従え!」

 

国王が命じた。

 

東扉が開く。

 

人々が殺到する。

 

マティアスと組合員が腕を組み、流れを二つに分ける。

 

「走るな!」

 

「押すな!」

 

「子供を先に!」

 

傍聴者の中に、請願人の子供まで入っていた。

 

誰が許可した。

 

今は関係ない。

 

一人ずつ外へ出す。

 

その間に、アルベリクは柱へ刺さった矢を確認した。

 

短く、黒い羽根。

 

軍用弩の矢ではない。

 

狩猟用。

 

鏃に何か塗られている。

 

毒か。

 

矢はエレノアを外した。

 

だが本当に外れたのか。

 

国王ではなく公爵夫人を狙った。

 

諸侯は王の暗殺命令と考える。

 

王党派は、諸侯内部の自作自演と考える。

 

会議を壊すには最適。

 

「追跡隊を」

 

軍務卿が命じる。

 

アルベリクが言う。

 

「生け捕りにしてください」

 

「当然だ」

 

「あなたの兵だけで追わせない」

 

軍務卿の目が鋭くなる。

 

「今、この場で私を疑うのか」

 

「全員を疑っています」

 

「参謀殿」

 

エレノアが立っていた。

 

髪が乱れ、右腕を卓で打ったらしく押さえている。

 

「私の護衛も追跡へ加えます」

 

「認められない」

 

軍務卿が即座に答える。

 

「なら、王国兵だけで犯人を殺し、口を閉ざすのではないかと皆が疑う」

 

「公爵家兵が犯人を逃がす可能性もある」

 

「だから都市民兵も入れる」

 

マティアスが近づいた。

 

息を切らしている。

 

「三者で追えばいい」

 

「お前に決める権利はない」

 

軍務卿が言う。

 

「権利の話をしている間に逃げます」

 

国王が判断した。

 

「王国兵十。公爵家兵十。都市民兵十。アルベリクが指揮しろ」

 

「陛下」

 

軍務卿が反対する。

 

「決めた」

 

アルベリクは礼をする。

 

「犯人を追います」

 

「待って」

 

エレノアが呼び止めた。

 

柱の矢を見る。

 

「私を狙ったと思いますか」

 

「軌道上は」

 

「国王ではなく」

 

「はい」

 

「なぜ」

 

「公爵夫人が死ねば、諸侯は王を疑う。王が死ねば、諸侯が疑われる。どちらでも会議は壊れます」

 

「では、私である必要はない」

 

「あります」

 

アルベリクは答えた。

 

「陛下が死ねば王国全体が王位継承へ移り、犯人の目的が読めなくなる。公爵夫人が死ねば、諸侯を一つの反乱へまとめやすい」

 

エレノアの顔が冷える。

 

「私は生きている方が、反乱を抑えると?」

 

「はい」

 

「敵は私をよく理解している」

 

「そう見えます」

 

アルベリクは聖歌隊席へ向かった。

 

その途中、十三枚の椅子を見る。

 

一枚が倒れていた。

 

エレノアの椅子。

 

背板に、小さな灰色の蝋がついている。

 

矢ではない。

 

椅子の裏に、紙片が貼られていた。

 

アルベリクは手袋をはめ、剥がす。

 

一行。

 

《十三枚目が空けば、十二枚は剣になる》

 

十三枚目。

 

国王の椅子か。

 

エレノアか。

 

あるいは、誰が欠けても同じという意味か。

 

「何が」

 

マティアスが尋ねる。

 

紙を見せる。

 

職人の顔が歪む。

 

「詩人気取りの人殺しだ」

 

「印刷か」

 

「手書きだ。だが文字の形が不自然だ」

 

「どういう意味だ」

 

「右利きの字を、左手で書いている」

 

「分かるのか」

 

「職人組合では帳簿の署名を見る。偽造を避けるためだ」

 

アルベリクは紙を折った。

 

「一緒に来てください」

 

「追跡へ?」

 

「文字と紙を見てほしい」

 

「私は軍人ではない」

 

「だから必要です」

 

マティアスは大広間を見る。

 

老織物商。

 

組合員。

 

混乱した人々。

 

「一時間だけだ」

 

「十分です」

 

二人は聖歌隊席へ上がった。

 

---

 

## 七

 

犯人は、大聖堂裏の鐘楼通路から逃げていた。

 

窓枠に泥。

 

床に灰色の糸。

 

修道服の切れ端。

 

鐘楼の階段を下り、地下納骨堂へ入った可能性。

 

三者混成の追跡隊が続く。

 

王国兵。

 

公爵家兵。

 

都市民兵。

 

互いに警戒し、犯人より隣の兵を見ている。

 

アルベリクは隊列を組み替えた。

 

各組を三人。

 

三勢力から一人ずつ。

 

裏切れば、残る二人が見る。

 

信用ではなく監視による協力。

 

地下通路は暗い。

 

松明。

 

古い墓碑。

 

聖職者の棺。

 

サン・ルシアン大聖堂の地下は、過去の王と司教の遺骨で満ちている。

 

生者は、死者の上で会議をしていた。

 

「足跡」

 

都市民兵が言った。

 

泥の跡。

 

一人。

 

急いでいる。

 

やがて二つに分かれた。

 

「増えた?」

 

公爵家兵がしゃがむ。

 

一方は大きい。

 

一方は小さい。

 

「途中で合流した」

 

アルベリクが言う。

 

「犯人は一人ではない」

 

通路の先で物音。

 

追跡隊が走る。

 

扉。

 

開ける。

 

小さな納骨室。

 

中に人が倒れていた。

 

灰色の修道服。

 

顔を布で覆っている。

 

弩はない。

 

アルベリクが近づく。

 

脈はない。

 

喉へ細い針。

 

毒。

 

「犯人か」

 

兵士が尋ねる。

 

マティアスが衣服を見る。

 

「修道服は新しい」

 

「新しい?」

 

「布がほとんど擦れていない。染めも均一すぎる。修道士が日常で着たものではない」

 

アルベリクは男の手を見る。

 

指。

 

弩を使う者なら、弦を引く指に傷がある。

 

ない。

 

「身代わりだ」

 

「殺されて置かれた?」

 

「あるいは、最初から死ぬ役」

 

顔布を外す。

 

若い男。

 

見覚えがない。

 

口の中を調べる。

 

舌が切られている。

 

いつ切られたのか。

 

古い傷。

 

話せない人間。

 

身元を隠し、捕まっても証言できない。

 

胸元に聖冠派の小さな印。

 

腰には諸侯同盟の色布。

 

靴は都市民兵式。

 

すべての勢力を示す物が一人の身体へつけられている。

 

オルシャと同じ。

 

三宗派の証拠。

 

こちらでは三身分の証拠。

 

「誰かが同じ方法を使っている」

 

アルベリクが呟く。

 

「オルシャと?」

 

マティアスが尋ねる。

 

「現場に複数勢力の証拠を残す」

 

「この男が弩を撃っていないなら、本当の犯人は」

 

「小さい足跡の方」

 

通路はさらに奥へ続く。

 

追う。

 

地下水路の出口。

 

鉄格子が開けられている。

 

外はリュス川。

 

舟が一艘、岸から離れていた。

 

二人乗っている。

 

一人が櫂。

 

もう一人が灰色の外套を脱ぎ、川へ投げる。

 

弩を撃った者。

 

「弓!」

 

兵士が叫ぶ。

 

武器持ち込みは禁止だったが、追跡隊には入口で武器が返されている。

 

都市民兵が弓を構える。

 

アルベリクが止めた。

 

「撃つな!」

 

「逃げます!」

 

「殺せば証言が取れない」

 

「舟を」

 

岸に繋がれた小舟がある。

 

六人ずつ乗る。

 

追う。

 

川の流れは速くない。

 

だが逃亡者の舟は軽い。

 

距離が広がる。

 

マティアスは岸に残った。

 

軍人ではない。

 

代わりに、捨てられた灰色の外套を拾う。

 

布を見る。

 

縫い目。

 

染料。

 

内側の印。

 

工房の符号。

 

布製品には、作った者しか理解しない印が残る。

 

糸の撚り。

 

縫い方。

 

裁断。

 

彼は袖口を裏返した。

 

黒い糸で、数字が縫い込まれている。

 

《Ⅳ―Ⅶ―XIII》

 

四。

 

七。

 

十三。

 

国の番号か。

 

日付か。

 

注文番号か。

 

その下に、小さな海鳥の形。

 

セレスタの仕立工房が使う記号に似ている。

 

「マティアス殿!」

 

岸から兵士が呼ぶ。

 

「何か見つけたか」

 

「作った場所が分かるかもしれない!」

 

舟上のアルベリクが振り返る。

 

その瞬間、逃亡者の舟から火が上がった。

 

油。

 

自分たちの舟へ火を放った。

 

一人が川へ飛び込む。

 

もう一人は飛ばない。

 

炎の中に残る。

 

アルベリクたちは近づけない。

 

舟が燃え、沈み始める。

 

川へ飛び込んだ者は見えない。

 

潜った。

 

岸の葦。

 

逃げたか。

 

溺れたか。

 

炎の舟から、焦げた人影が川へ落ちた。

 

証拠を残さない。

 

捕まらない。

 

オルシャの穀物船。

 

紫宮の帳簿。

 

サン・ルシアンの暗殺者。

 

火。

 

すべてを灰にする。

 

「岸を封鎖しろ!」

 

アルベリクが命じる。

 

だが川は都市の外へ続いている。

 

完全には止められない。

 

逃亡者は地形を知っていた。

 

計画されている。

 

追跡は失敗した。

 

生きた犯人は得られない。

 

死体一つ。

 

布一枚。

 

紙片。

 

そして、会議を壊すには十分な疑い。

 

---

 

## 八

 

暗殺未遂の知らせは、追跡隊が戻る前に都市全体へ広がった。

 

最初の噂。

 

国王が姉を殺そうとした。

 

次の噂。

 

エレノアが自分を狙わせ、王を失脚させようとした。

 

次。

 

聖座使節が、妥協を阻止するため射手を雇った。

 

次。

 

職人組合が王侯を一度に殺す計画だった。

 

次。

 

射手の矢には南方の毒が塗られていた。

 

次。

 

アルサクの間者。

 

セレスタの商人。

 

刻印民。

 

異端説教師。

 

人々は、自分が以前から疑っていた相手を犯人へ選んだ。

 

王国北側の兵営では、諸侯軍の仕業だという声。

 

南側では、王国軍の陰謀。

 

市内では、両方の芝居。

 

夕刻までに、三件の小競り合いが起きた。

 

王国兵と公爵家兵。

 

都市民兵とオルテーズ伯の従者。

 

聖座巡礼者と改革派職人。

 

死者はまだいない。

 

だが負傷者が出た。

 

剣は一度抜けば、次は抜きやすくなる。

 

大聖堂の小会議室で、十三人が再び集まった。

 

今度は円卓ではない。

 

互いに離れ、壁際へ立つ。

 

倒れた椅子は片づけられていない。

 

エレノアの椅子だけが横倒し。

 

「会議は中止すべきです」

 

ベルナール枢機卿が言った。

 

「安全が確保されていない」

 

「中止すれば、犯人の目的が達成される」

 

国王が答える。

 

「公爵夫人の命が狙われたのです」

 

「だから続ける」

 

エレノアが言った。

 

「私が逃げれば、王の仕業だと認めたように見える」

 

オルテーズ伯が怒鳴る。

 

「王の仕業でない証拠は!」

 

「あなたの仕業でない証拠もない」

 

モンフェラ侯が返す。

 

「何だと!」

 

二人が近づく。

 

武器はない。

 

それでも殴り合いになりそうだった。

 

「止まりなさい!」

 

エレノアが命じる。

 

「敵が望んでいるのは、まさにそれです」

 

「敵とは誰だ」

 

バルシュ伯が尋ねる。

 

「分からない」

 

「分からない相手を理由に、王を信じろと?」

 

「私も王を完全には信じていません」

 

弟の前で言う。

 

アドリアンは怒らない。

 

「だが、今日、私を狙わせるなら、もっと巧くやるでしょう」

 

一瞬、広間が静かになる。

 

国王が姉を見る。

 

「姉上は私を褒めているのか」

 

「暗殺者としては」

 

「光栄だ」

 

姉弟の間に、ごく短い笑いが生まれた。

 

すぐ消える。

 

アルベリクが調査結果を報告する。

 

射手と思われる男は逃亡。

 

地下で見つかった死体は別人。

 

複数勢力の印を所持。

 

紙片には灰色の蝋。

 

外套はセレスタ製の可能性。

 

矢の毒は調査中。

 

「セレスタ商人か」

 

オルテーズ伯が言う。

 

「布がセレスタ製だから、着ていた者もセレスタ人とは限りません」

 

マティアスが答える。

 

「お前は誰だ」

 

「王都職人組合のマティアス・コルヴァン」

 

「発言権はない」

 

「布について聞かれたので答えた」

 

「職人が伯爵へ」

 

「布は身分を見ません」

 

伯の顔が赤くなる。

 

国王が制した。

 

「外套の印は」

 

マティアスが机へ置く。

 

《Ⅳ―Ⅶ―XIII》

 

「第四、七、十三」

 

エレノアが呟く。

 

「四月七日、十三番目?」

 

「地図上の番号かもしれない」

 

アルベリクが言う。

 

「セレスタの注文管理番号の可能性もあります」

 

マティアスが続ける。

 

「工房印を知る者へ照会します」

 

「灰色の蝋」

 

ラヴァル司教が紙片を見る。

 

「異端教団で使うものか」

 

「灰衣修道会は灰色を使います」

 

ベルナール枢機卿が言う。

 

「彼らは蝋印を使いません」

 

ラヴァル司教が反論する。

 

「灰を示す組織」

 

アルベリクはオルシャの市場報告を思う。

 

灰の鍵。

 

情報はまだ断片。

 

公にすべき段階ではない。

 

「会議継続へ投票を」

 

国王が言った。

 

十三人。

 

国王も一票。

 

継続か。

 

中止か。

 

聖職者の二人が中止。

 

オルテーズ伯も中止。

 

都市代表の一人も、安全確保まで延期を求める。

 

残る者は継続。

 

七対六。

 

わずか一票。

 

会議は続く。

 

その一票を投じたのは、王都商人評議会代表だった。

 

彼は継続理由をこう述べた。

 

「会議が中止されれば、明朝から市場が崩れる」

 

信念ではない。

 

価格。

 

だが、平和を支える理由は高潔である必要はない。

 

戦争より利益が出ると考える者が多ければ、平和は続く。

 

問題は、戦争の方が儲かる者たちが動き始めていることだった。

 

「次に穀物」

 

国王が言った。

 

「備蓄を開く。市民と会議参加者へ配給する」

 

財務卿が反対する。

 

「王都からの補給が届くまで、軍の備蓄を守る必要があります」

 

「兵を先に食わせ、都市を飢えさせれば暴動になる」

 

「暴動は兵で抑えます」

 

マティアスが声を上げた。

 

「兵も食っている民衆へ、槍を向けるのか」

 

財務卿が睨む。

 

「補佐人は黙れ」

 

「今日、暗殺者が一人。明日、パンがなくなれば暗殺者が千人になる」

 

大げさではない。

 

国王が決断する。

 

「王領備蓄を開く。会議参加者の私兵にも同量を配る。ただし、各陣営が保有する食糧を申告させる」

 

「私有財産だ」

 

オルテーズ伯が反発する。

 

「王領備蓄を受け取るなら申告しろ」

 

国王の声が強くなる。

 

「隠している者へ、民の小麦は渡さない」

 

エレノアが言う。

 

「公爵軍の備蓄を申告します」

 

バルシュ伯も続く。

 

都市代表も。

 

聖職者は修道院倉庫を申告する。

 

オルテーズ伯だけが最後まで黙った。

 

「伯爵」

 

エレノアが呼ぶ。

 

「三日分です」

 

「兵数は」

 

「二十人」

 

嘘。

 

都市外に三百以上。

 

誰もが知っている。

 

「確認を」

 

国王が命じる。

 

伯が立ち上がる。

 

「私を疑うのか!」

 

「全員を確認する」

 

「王の兵から先にしろ!」

 

「よい」

 

国王は答えた。

 

「王国軍備蓄を最初に公開する」

 

伯は言葉を失った。

 

王が自分から帳簿を開く。

 

そのあと拒否すれば、伯だけが疑われる。

 

「分かりました」

 

しぶしぶ応じる。

 

会議は継続した。

 

暗殺未遂の直後。

 

互いを疑いながら。

 

それでも、小麦の数を数え、税の期限を議論し、軍の指揮権の文言を修正する。

 

英雄的ではない。

 

美しくもない。

 

だが国家を戦争から遠ざけるのは、多くの場合、このような退屈で疑い深い作業だった。

 

---

 

## 九

 

夜。

 

大聖堂の十三枚の椅子は、そのまま残されていた。

 

警備兵が周囲に立つ。

 

倒れたエレノアの椅子だけ、まだ床にある。

 

国王アドリアンは一人で大広間へ戻った。

 

正確には、一人ではない。

 

アルベリクが呼ばれている。

 

「椅子を起こせ」

 

国王が言った。

 

アルベリクはエレノアの椅子を起こした。

 

背板の傷。

 

矢は当たっていない。

 

卓がぶつかった跡。

 

「姉上は」

 

「右腕の打撲だけです」

 

「お前が助けた」

 

「偶然、射手に気づきました」

 

「偶然で人は救われる」

 

「偶然で死ぬこともあります」

 

国王は自分の椅子へ座った。

 

王冠はない。

 

十三枚のうち、一枚だけ少し高い。

 

「軍務卿が、お前を解任するよう求めている」

 

「理由は」

 

「命令拒否。越権。公爵夫人との不適切な接触」

 

「返書を一度交わしました」

 

「知っている」

 

「陛下は」

 

「解任しない」

 

アルベリクは礼をした。

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言うな。お前を置く方が役に立つと判断しただけだ」

 

「十分です」

 

国王は倒れていた椅子を見る。

 

「射手は本当に姉上を殺すつもりだったと思うか」

 

「はい」

 

「外す可能性を考えていない?」

 

「毒が塗られていたなら、浅い傷でもよい。狙いは正確でした」

 

「お前が卓を動かさなければ」

 

「命中していました」

 

国王は目を閉じた。

 

「姉上が死ねば、諸侯は立つ」

 

「多くは」

 

「私が命じていなくても」

 

「はい」

 

「王とは便利な犯人だな」

 

アルベリクは答えなかった。

 

「軍務卿を疑っているか」

 

国王が尋ねる。

 

「疑っています」

 

「私の前で言うか」

 

「陛下が尋ねました」

 

「姉上は」

 

「疑っています」

 

「オルテーズ伯」

 

「疑っています」

 

「聖座」

 

「疑っています」

 

「商人」

 

「疑っています」

 

国王が苦笑する。

 

「全員か」

 

「私自身も」

 

「自分を?」

 

「判断を誤っている可能性を」

 

アドリアンは長く息を吐いた。

 

「それができる者は少ない」

 

「できているとは限りません」

 

大聖堂の外から、夜間配給の鐘が聞こえた。

 

穀物倉庫を開いた。

 

市民が並んでいる。

 

兵士と都市民が同じ列へ並ぶよう、マティアスが提案した。

 

身分別に分ければ、一方が多く受け取ったという疑いが生まれる。

 

同じ秤。

 

同じ一斤。

 

王の改革が掲げる理念が、初めて実際のパンへ使われている。

 

「会議は成功するか」

 

国王が尋ねる。

 

アルベリクは考えた。

 

暗殺。

 

備蓄消失。

 

諸侯の兵。

 

軍務卿の強硬策。

 

それでも会議は続いている。

 

「今日の朝より、可能性は下がりました」

 

「正直だな」

 

「しかし、失敗した場合の代価を全員が見ました」

 

「だから妥協する?」

 

「恐怖は人を戦争へ向かわせます。同時に、戦争を避けさせることもあります」

 

「どちらになる」

 

「明日の小麦次第です」

 

国王が笑った。

 

「王国の運命がパンに決まるか」

 

「多くの王国がそうです」

 

「歴史家は書かない」

 

「英雄の剣の方が、パン一斤より美しいのでしょう」

 

「お前は年代記を書くべきだった」

 

「死者の名は記録しています」

 

国王はアルベリクを見る。

 

「何人分だ」

 

「千八百七十二人」

 

「すべて覚えている?」

 

「帳面を見れば」

 

「帳面が燃えたら」

 

アブドゥル・ラーマンが遠いナフルでナディアへ言ったのと同じ問いだった。

 

アルベリクは知らない。

 

それでも答えに迷う。

 

「一部は覚えています」

 

「残りは」

 

「消えます」

 

「王国も同じだ」

 

アドリアンは十三枚の椅子を見る。

 

「記録がなければ、誰が何を約束したか消える。法がなければ、善い王の死後にすべて戻る」

 

「だから統一を」

 

「そうだ」

 

「ですが、統一法を王が燃やすこともできます」

 

「だから姉上が必要か」

 

「公爵夫人だけではありません」

 

「都市も、教会も、諸侯も?」

 

「互いに嫌っている方がよい場合もあります」

 

国王は笑った。

 

「ニケフォロス将軍のようなことを言う」

 

「誰です」

 

「アウレリアの将軍だ。報告で読んだ」

 

遠い帝国。

 

皇帝の死。

 

紫帳。

 

情報は少しずつ西へ届いている。

 

「陛下」

 

アルベリクは言った。

 

「オルシャの事件、アウレリアの秘密帳簿、今回の穀物消失。つながっている可能性があります」

 

「根拠は」

 

「同じ方法です。複数勢力の証拠を残し、互いを疑わせる。穀物を消し、価格と怒りを上げる。犯人は死ぬか、焼かれる」

 

「一つの組織が」

 

「断定できません」

 

「目的は戦争か」

 

「戦争そのものというより、戦争による利益」

 

「商人か」

 

「商人だけでは、軍務局の印章も、大聖堂の内部も使えません」

 

「王宮内部にいる?」

 

「各国と各身分の内部に協力者がいる」

 

国王は椅子の肘掛けを握った。

 

「国そのものを敵に回す組織か」

 

「国を敵にしていないのかもしれません」

 

「どういう意味だ」

 

「王国が勝っても、諸侯が勝ってもよい。会議が続いても、戦争になってもよい。どの結果からも利益を得る形を作っている」

 

「勝敗に賭けるのではなく、揺れることへ賭ける」

 

「はい」

 

国王は黙った。

 

「明日、会議へ出すか」

 

「まだ早いです」

 

「隠すのか」

 

「証拠が弱い。陛下が見えない敵を理由に権限を求めれば、諸侯は陰謀を作ったと考える」

 

「実際、権限が必要だ」

 

「だから疑われます」

 

「面倒だな」

 

「法とは、権力者にとって面倒なものです」

 

国王がアルベリクを睨む。

 

「お前は、王への敬意が足りない」

 

「王国への敬意はあります」

 

「軍務卿の言ったとおりか」

 

「何を」

 

「お前は父と同じだ」

 

国王は立ち上がった。

 

「今日は休め。明日、穀物調査と議場警備を任せる」

 

「両方を?」

 

「嫌か」

 

「無能な者へ任せるよりは」

 

アドリアンが笑った。

 

「それも報告で読んだ」

 

アルベリクは礼をし、大広間を出た。

 

十三枚の椅子が残る。

 

国王が一人になったあと、暗い聖歌隊席から、かすかな音がした。

 

アドリアンは振り返る。

 

誰もいない。

 

兵士を呼ぼうとした。

 

足元に紙が落ちている。

 

いつからあったのか。

 

灰色の蝋。

 

国王は拾った。

 

《王冠を守りたければ、十三枚目を自ら倒せ》

 

十三枚目。

 

自分か。

 

姉か。

 

三身会議そのものか。

 

紙の裏には、さらに一行。

 

《明日の鐘が六度鳴る前に》

 

国王は紙を握りつぶした。

 

衛兵を呼ぶ。

 

だが、知らせる前に考えた。

 

誰へ見せる。

 

軍務卿。

 

アルベリク。

 

姉。

 

見せれば、また疑いが増える。

 

隠せば、何か起きたとき自分の責任になる。

 

王はすべてを知り、正しく判断する存在だと、人々は思いたがる。

 

実際の王は、真偽の分からない脅迫状一枚を前に、誰へ相談すべきか迷う一人の男だった。

 

アドリアンは紙を開き直した。

 

灰色の蝋。

 

明日の鐘が六度。

 

そのとき、配給所の方角から騒ぎが聞こえた。

 

兵士の笛。

 

人々の叫び。

 

国王は窓へ走った。

 

広場の一角で火が上がっている。

 

穀物ではない。

 

配給札を保管していた都市役所。

 

炎の中から紙が舞う。

 

配給札。

 

誰が食糧を受け取れるかを証明する紙。

 

燃えれば、明日の配給は混乱する。

 

群衆は、王が配給を止めたと思う。

 

兵は、民衆が倉庫を襲うと考える。

 

六度の鐘を待つまでもない。

 

次の攻撃は、すでに始まっていた。

 

---

 

## 十

 

火災は夜半までに消し止められた。

 

配給札の半分が焼けた。

 

役所の書記二人が死亡。

 

一人は煙。

 

一人は背中を刺されていた。

 

放火。

 

事故ではない。

 

犯人は見つからない。

 

マティアスは焼け残った札を数えた。

 

アルベリクは警備配置を変えた。

 

エレノアは公爵家の小麦を都市へ供出すると発表した。

 

国王も王国軍備蓄を追加で開いた。

 

聖職者は修道院のパン窯を稼働させた。

 

互いに疑いながら、全員が同じ行動を取った。

 

敵が混乱を望むなら、混乱を起こさせない。

 

それだけが共通した。

 

だが、配給札がなくなった者は何千人もいる。

 

翌朝、名前を確認して新しい札を出す。

 

時間がかかる。

 

人々は待てるか。

 

空腹は、法の手続きを待たない。

 

夜明け前、サン・ルシアンの大聖堂鐘楼には、兵士が配置された。

 

鐘を鳴らすのは、定められた時刻だけ。

 

勝手に鳴らさせない。

 

オルシャの十三度の鐘を知る者は少ない。

 

それでもアルベリクは、鐘楼を最優先で守らせた。

 

脅迫状の存在を、国王はまだ彼へ見せていない。

 

二人は別々の理由で、同じ場所を警戒していた。

 

午前の礼拝。

 

一度目。

 

市場開始。

 

二度目。

 

会議召集。

 

三度目。

 

鐘は規則どおり鳴る。

 

四度目は正午の予定。

 

だが三度目の余韻が消えた直後、鐘楼兵の一人が倒れた。

 

首へ針。

 

オルシャの襲撃者。

 

紫宮の仮面兵。

 

地下納骨堂の身代わり。

 

同じような細い針。

 

もう一人の兵士が鐘楼へ入る。

 

灰色の外套を見た。

 

追う。

 

外套の人物は鐘の裏へ消える。

 

兵士が近づく。

 

そこに人はいなかった。

 

代わりに、鐘の内側へ油壺が括りつけられていた。

 

導火紐。

 

燃えている。

 

兵士は紐を掴み、踏み消そうとした。

 

遅い。

 

油壺ではなかった。

 

内部に詰められていたのは、火薬ではない。

 

細かな鉄片と、強く圧縮した樹脂。

 

炎が樹脂へ届き、破裂する。

 

大砲のような爆発ではない。

 

だが鐘楼の狭い空間では十分だった。

 

兵士が壁へ叩きつけられる。

 

鐘を吊るす木枠が割れる。

 

巨大な青銅鐘が傾く。

 

四度目の鐘が、予定より早く鳴った。

 

鈍く、歪んだ音。

 

都市中の人々が顔を上げる。

 

五度目。

 

木枠がさらに裂ける。

 

鐘が揺れ、勝手に鳴る。

 

六度目。

 

脅迫状に記された数。

 

その直後、鐘が支えを失った。

 

巨大な青銅の塊が、鐘楼内部を落下する。

 

床を破る。

 

下の祈祷室。

 

さらにその下。

 

大聖堂の議場へ。

 

十三枚の椅子の真上。

 

開会前だった。

 

まだ誰も座っていない。

 

鐘は円卓を押し潰し、石床へめり込んだ。

 

轟音。

 

粉塵。

 

木片。

 

十三枚の椅子は砕けた。

 

王の椅子も。

 

諸侯も。

 

聖職者も。

 

都市も。

 

誰一人座る前に。

 

集まった者たちは入口で立ち尽くした。

 

もし開会が予定よりわずかに早ければ。

 

十三人全員が死んでいた。

 

国王。

 

エレノア。

 

司教。

 

諸侯。

 

都市代表。

 

王国の中心が一度に消えていた。

 

粉塵の向こうで、巨大な鐘が横たわっている。

 

表面に亀裂。

 

鐘の内側には、灰色の蝋で文字が書かれていた。

 

《椅子がなくとも、王国は残るか》

 

誰も答えられなかった。

 

国王アドリアンは壊れた自分の椅子を見た。

 

エレノアは弟を見た。

 

軍務卿は護衛へ命令を出した。

 

アルベリクは鐘楼の構造を考えた。

 

マティアスは砕けた椅子の木材へ触れた。

 

三身会議は、座る場所を失った。

 

それでも国王は言った。

 

「外へ出る」

 

「会議を中止なさるのですか」

 

大司教が尋ねる。

 

「違う」

 

アドリアンは大聖堂前広場を指した。

 

「広場で続ける」

 

「警備できません」

 

軍務卿が反対する。

 

「壁と屋根が我々を殺しかけた」

 

国王は答えた。

 

「なら、民衆の見える場所で話す」

 

「暗殺者にも見える」

 

「すでに見られている」

 

エレノアが弟の隣へ立つ。

 

「椅子は」

 

「必要ない」

 

国王が言う。

 

「全員、立って話す」

 

十三枚の椅子は壊れた。

 

王と諸侯と聖職者と都市代表は、大聖堂前の石段へ並んだ。

 

広場には配給を待つ市民。

 

兵士。

 

職人。

 

農民。

 

巡礼者。

 

誰もが、破壊された鐘の音を聞いて集まっていた。

 

国王は王冠をかぶっている。

 

だが高い椅子には座っていない。

 

姉と同じ高さ。

 

司教と同じ高さ。

 

商人と同じ高さ。

 

完全な平等ではない。

 

兵も法も王のもの。

 

身分は消えない。

 

それでも、同じ石段に立っている。

 

「三身会議を続ける」

 

アドリアンが宣言した。

 

群衆がざわめく。

 

「我々を殺そうとした者は、王国が一人か十三人で支えられていると思っている」

 

国王は広場を見渡す。

 

「違う」

 

マティアスは群衆の中に、パン屋の女、荷運び人、織工を見た。

 

アルベリクは王国兵と公爵家兵が並んで立つのを見る。

 

エレノアは、息子ジュリアンが護衛の後ろでこちらを見ているのに気づく。

 

「王国は、ここにいるすべての者によって支えられている」

 

美しい言葉。

 

半分は演説。

 

半分は真実。

 

「だから、我々だけで決めない」

 

国王は言った。

 

諸侯が驚く。

 

「緊急税、軍役登録、土地台帳、裁判改革について、三身会議の代表だけでなく、各都市、各地方、各教会から監査人を出す」

 

軍務卿が国王を見る。

 

予定にない。

 

エレノアも。

 

「監査記録を公開する」

 

さらに大きなざわめき。

 

王国行政の帳簿を、身分代表へ見せる。

 

王権にとって大きな譲歩。

 

同時に、諸侯と教会の帳簿も公開させることになる。

 

「王領だけですか」

 

エレノアが尋ねる。

 

国王は姉を見る。

 

「すべてだ」

 

「公爵領も?」

 

「教会領も、都市倉庫も」

 

ベルナール枢機卿が反発する。

 

「教会財産は聖座の管轄です」

 

「王国の飢餓に関わる穀物は、王国民の問題だ」

 

「宗教権への侵害です」

 

「なら、民衆の前で説明してください」

 

国王は広場を示した。

 

人々が見ている。

 

教会が倉庫を開かない理由。

 

諸侯が兵を隠す理由。

 

王が税を取る理由。

 

すべてを人前で説明する。

 

権力者が最も嫌う状況だった。

 

エレノアが言う。

 

「ヴァルネ公爵領は監査を受け入れます」

 

一人が受け入れれば、ほかも拒否しにくい。

 

都市代表も。

 

修道院長も。

 

バルシュ伯も。

 

最後に国王軍務局。

 

軍務卿は長く黙った。

 

「受け入れます」

 

声は硬い。

 

オルテーズ伯だけが拒否した。

 

「これは会議ではない! 群衆の脅しだ!」

 

「伯爵」

 

エレノアが言った。

 

「あなたは何を隠しているのです」

 

「侮辱だ!」

 

「なら帳簿を」

 

伯は周囲を見た。

 

味方を探す。

 

誰も動かない。

 

「私はこの茶番から離脱する」

 

石段を降りる。

 

支持者が続く。

 

国王兵が止めようとする。

 

アドリアンが手を上げた。

 

「行かせろ」

 

「陛下」

 

軍務卿が反対する。

 

「離脱は反乱宣言です」

 

「まだだ」

 

「兵のもとへ戻れば」

 

「監視しろ。攻撃はするな」

 

オルテーズ伯は広場を去った。

 

その背中を、アルベリクは見ていた。

 

伯は会議を壊したい。

 

しかし暗殺未遂へ関わっているかは分からない。

 

離脱したことで、次の攻撃の中心になる可能性がある。

 

あるいは、敵が利用する。

 

十三枚の椅子は壊れた。

 

一人の代表は去った。

 

それでも会議は続いた。

 

午後。

 

夕刻。

 

夜。

 

石段の上で。

 

人々の前で。

 

税の期限。

 

監査人。

 

軍役。

 

土地台帳。

 

一つずつ決める。

 

完全な合意ではない。

 

多くが暫定。

 

曖昧。

 

後で争いになる文言もある。

 

それでも、王国軍と諸侯軍は攻撃を開始しなかった。

 

ライナー城の包囲も継続するが、会議終了まで攻撃停止。

 

王領穀物倉庫は開かれた。

 

公爵家と修道院も備蓄を出した。

 

都市職人は配給札を作り直した。

 

戦争を望む者たちにとって、失敗だった。

 

だが、完全な失敗ではない。

 

オルテーズ伯は離脱した。

 

軍務卿は王の譲歩に不満を抱いた。

 

聖座使節は教会権への侵害を記録した。

 

諸侯は王の監査を恐れた。

 

国王は姉を完全には信用しない。

 

エレノアも弟を信用しない。

 

小麦五千樽は消えたまま。

 

暗殺者も逃げた。

 

鐘楼を破壊した者も不明。

 

会議は生き残った。

 

傷ついたまま。

 

翌朝、サン・ルシアン協約の第一案が書かれた。

 

後世の歴史家は、それを王国改革の始まりと呼ぶ者もいる。

 

内戦を半年遅らせただけだと評価する者もいる。

 

どちらも正しい。

 

平和は、戦争が完全に消えた状態ではない。

 

戦争を今日ではなく明日へ送り、明日になったらさらに次の日へ送る作業でもある。

 

その間に、人間が別の道を見つけられるか。

 

あるいは、さらに大きな剣を用意するか。

 

誰にも分からない。

 

サン・ルシアンの鐘は壊れた。

 

十三枚の椅子も砕けた。

 

それでも人々は立ったまま話し続けた。

 

その夜、アルベリクは戦死者帳とは別の帳面を開いた。

 

最初の頁に記す。

 

《サン・ルシアン会議》

 

《死者、書記官二名。鐘楼兵一名。身元不明者一名》

 

《戦争、回避》

 

次の行で筆が止まる。

 

回避。

 

本当にそうか。

 

遠ざけただけか。

 

彼は書き直した。

 

《戦争、保留》

 

そして、その下に小さく加えた。

 

《十三枚の椅子は失われた》

 

《だが、十三人は生きている》

 

正確には、オルテーズ伯が去ったため十二人。

 

だが彼も生きている。

 

生きている限り、選択は続く。

 

善い選択も。

 

悪い選択も。

 

世界を救う選択も。

 

燃やす選択も。

 

同じ夜、都市西門から一騎の使者が走り去った。

 

オルテーズ伯の紋章を持たない馬。

 

騎手は灰色の外套。

 

懐には、サン・ルシアン協約の草案が入っていた。

 

届け先はセレスタ。

 

文書の余白には、暗号で一行。

 

《第一の王冠、破砕に失敗》

 

《ただし亀裂は維持》

 

そして最後に。

 

《次は草原を動かす》

 

騎手は西ではなく、北東へ進路を変えた。

 

天幕平原。

 

大汗の死後、四人の後継者が争う土地。

 

そこでは、王冠ではなく狼の旗が風に鳴っている。

 

サン・ルシアンで戦争が保留された同じ夜。

 

草原では、最初の氏族が別の氏族の馬を奪った。

 

わずか三十頭。

 

人の死者は二人。

 

大国の年代記には記録されない、小さな略奪。

 

だが、その三十頭の馬が、やがて十万騎を西へ動かす最初の理由になる。

 

灰冠戦争は、一つの場所で止められても、別の場所で始まる。

 

世界は広い。

 

そして、火をつける者たちは、すでに次の薪を選んでいた。

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