サルグァ草原では、死者を土へ埋めない。
少なくとも、大汗の一族はそうだった。
天穹の下を馬で生きた者を、暗い地中へ閉じ込めてはならない。
遺体は白い布で包み、最も愛した馬の鞍へ載せ、氏族の祖霊が眠る丘まで運ぶ。そこで香木と乾燥した馬糞を積み、炎へ返す。
煙は空へ昇り、肉体は灰となり、魂は天穹を駆ける。
残った骨は砕き、四方の風へ撒く。
東へ。
西へ。
南へ。
北へ。
大汗は死してなお、草原のすべてを見渡すのだと伝えられていた。
だが灰暦八百七十二年の春、サルグァ草原汗国第九代大汗トグリル・カガンの葬送では、誰も空を見ていなかった。
人々が見ていたのは、遺体の周囲に立つ四人だった。
大汗の長男、バトゥル。
大汗の末娘、サラン。
大汗の弟の子、アルスラン。
そして、第二夫人が産んだ末子テムル。
四人の後継者。
四本の矢。
古い草原の教えでは、一本の矢は容易に折れる。
四本を束ねれば折れない。
大汗トグリルは、生前、子供たちと甥へ何度もそう教えた。
だが大汗は、自分の死後、誰が四本を束ねるのかを定めなかった。
それとも、定める前に死んだのか。
あるいは、定めた言葉が消されたのか。
それを知る者はいなかった。
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## 一
火が大汗の白布へ移ったとき、バトゥル・カガンは泣かなかった。
正確には、泣くことを許さなかった。
草原の男が父を失って泣くことは恥ではない。
だが大汗の長男が、三百の氏族長と一万の騎兵が見守る前で涙を流せば、誰かが弱さと呼ぶ。
草原では、人間の感情そのものより、それを他人が何と呼ぶかが重要だった。
バトゥルは両手を腰の帯へ置き、燃え上がる父の遺体を見つめた。
黒髪は左右に編み、頬には狼の爪を表す三本の刺青。
父と同じ刺青。
父が十二歳の彼へ、自ら針を入れたものだった。
痛みに耐えられず目を閉じたバトゥルへ、父は言った。
痛いときは目を開けろ。
目を閉じても、痛みは消えない。
見えなくなるだけだ。
バトゥルは炎から目を逸らさなかった。
父の顔が焼ける。
白い布が縮む。
遺体の上に置かれた金の弓が赤く光る。
周囲では氏族長たちが低い声で葬送歌を歌っている。
風が煙を西へ流した。
老いた巫者が叫ぶ。
「大汗の魂は西へ向かった!」
群衆がざわめく。
西は吉か。
凶か。
サルグァでは解釈が氏族ごとに違う。
西は日が死ぬ方角であり、祖霊の国を示すとする者。
西は豊かな定住国と戦利品を示すとする者。
大汗の魂が、西への遠征を命じている。
すでにそう語る戦士がいた。
バトゥルは巫者を見た。
白い鹿皮をまとった老人。
テムルの母方氏族と近い。
偶然、風が西へ吹いたのか。
あるいは、最初から西へ煙が流れやすいよう火の位置を決めたのか。
父の葬儀すら、すでに継承争いの一部となっている。
「兄上」
隣に立つサランが小声で呼んだ。
「何だ」
「右手を緩めて」
バトゥルは自分の右手を見る。
帯を強く握りすぎ、指の関節が白くなっていた。
「誰も見ていない」
「全員が見ている」
「だから言ったの」
サランは前を向いたまま答えた。
彼女は草原の王女でありながら、隊商都市カラクの総督でもある。
黒髪を一つに束ね、遊牧民の革衣の上にカディーラ産の青い絹を重ねている。
その姿を、古い氏族長たちは好まない。
草原と都市。
馬乳酒と香辛料。
天幕と石壁。
どちらにも完全には属さない服装。
サラン本人も、どちらにも完全には属していなかった。
「父上が死んで何日だ」
バトゥルが尋ねた。
「九日」
「商人たちは、もう小麦を値上げした」
「三日前に」
「大汗の死を悼むより早い」
「商人は泣いても価格を下げない」
「お前は商人を庇う」
「事実を言っただけ」
「カラクの倉庫に、どれだけ穀物がある」
サランの横顔がわずかに硬くなる。
「葬儀で聞くこと?」
「葬儀だから聞く。父上が生きている間は、倉庫を数える必要がなかった」
「三か月分」
「汗国全体の?」
「カラクと周辺駐屯軍の」
「少ない」
「草原全体を石造りの倉庫で養えると思っているの?」
「お前は都市化すれば飢えないと言った」
「都市化すれば、毎年の略奪へ頼らずに済むと言った。天候が悪くても小麦が空から降るとは言っていない」
二人の声は静かだった。
だが、周囲に立つ近臣は聞いている。
兄妹の対立。
伝統と改革。
氏族と官僚。
その小さなやり取りさえ、葬儀後には各陣営へ都合よく語られる。
バトゥルは口を閉じた。
炎の向こうに、残る二人の候補がいる。
アルスラン。
大汗の弟の息子。
四十二歳。
若い頃から西方遠征を率い、ヴェリグラード諸公国から銀、毛皮、奴隷を持ち帰った。戦士たちからの人気は高い。
現在は南方啓句派へ改宗し、カディーラ教主から祝福を受けている。
草原の古い天穹信仰を捨てたと批判される一方、南方商人と都市民から支持されていた。
テムル。
大汗の末子。
二十一歳。
勇敢。
無謀。
父に最も愛されたと、自分では信じている。
母方の白鹿氏族は、巫者と北方牧草地を支配する大氏族だった。
四人の中で、形式上もっとも正統なのはバトゥル。
だがサルグァの大汗位は、長子相続ではない。
大汗一族の中から、氏族長会議――大クリルタイが選ぶ。
馬を出す氏族。
羊を出す氏族。
弓を出す氏族。
交易路を守る氏族。
それぞれが票ではなく、支持する戦士の数を示す。
議論で決まることもある。
贈り物で決まることもある。
最後には剣で決まることもある。
「葬送の火が消えるまで、誰も汗を名乗らない」
父の遺言として、老宰相が伝えていた。
火はまだ燃えている。
それでも、四人の周囲にはすでに汗と呼ぶ者がいた。
バトゥルの背後で、赤狼氏族の長が囁く。
「大汗の長男こそ、次の大汗です」
サランの側では、都市書記官が彼女を「女主」と呼ぶ。
アルスランの軍は「神に選ばれた征服者」と歌う。
テムルの若い戦士たちは「父の最後の矢」と叫ぶ。
一本の矢は、すでに四本へ分かれていた。
---
## 二
オルジェイは、葬儀の輪から遠く離れた丘に立っていた。
従属部族出身の騎兵は、大汗一族の近くへ立つことを許されない。
彼の一族、青隼氏族は二十年前にサルグァへ敗れた。
父は戦死。
母と妹はサルグァの氏族へ分配された。
オルジェイ自身は族長の息子であったため殺されず、人質として大汗の天幕へ送られた。
当時六歳。
言葉も、歌も、祈りも、髪の結び方も変えさせられた。
故郷の名を口にすれば鞭打たれた。
それでも完全には忘れなかった。
首に下げた小さな鳥羽飾り。
青隼氏族の印。
普段は衣の下へ隠している。
大汗トグリルは、オルジェイを息子のように扱ったわけではない。
だが優秀な人質として教育した。
馬。
弓。
追跡。
地図。
複数の部族語。
敵地へ入り、敵の匂いを覚える技術。
大汗に忠実な猟犬を作ろうとした。
成功した部分もある。
オルジェイは大汗の軍で戦い、仲間を得た。
サルグァ騎兵として誇りも持つ。
同時に、故郷を滅ぼした者への憎しみも消えていない。
一人の身体に二つの忠誠がある。
どちらかを選べと言われるまで、人は矛盾を抱えたまま生きられる。
だが大汗の死は、その時を近づけていた。
「オルジェイ」
後ろから呼ばれた。
振り返る。
バトゥルの近臣、赤狼氏族の若い将アラタイ。
幼い頃から共に訓練した男。
一度、戦場でオルジェイの命を救った。
別の戦場では、オルジェイが彼を背負って退却した。
兄弟に近い。
血はつながっていない。
サルグァでは、血より戦場の借りの方が重い場合もある。
「長子殿がお呼びだ」
「まだ汗ではない」
「だから長子殿と言った」
アラタイは周囲を確認し、声を落とした。
「馬を盗んだ者の痕跡が見つかった」
「どの馬だ」
「白鹿氏族の三十頭」
葬儀前夜。
テムルを支持する白鹿氏族の馬が、夜営地から奪われた。
番人二人が殺された。
馬は三十頭。
大氏族にとって致命的な数ではない。
だが葬儀中の盗難は侮辱だった。
しかも死者の一人は、白鹿氏族長の甥。
報復を求める声が上がっている。
「痕跡はどこへ」
「東の乾谷」
「雨が降れば消える」
「今夜から降る」
「だから私を?」
「お前以上の追跡者はいない」
オルジェイは丘の下を見る。
大汗の遺体が炎に包まれている。
「葬儀中に離れてよいのか」
「盗人は葬儀を待たない」
「誰の命令だ」
「バトゥル殿」
「白鹿氏族は了承したか」
アラタイは答えない。
「していないな」
「知らせれば、テムルの戦士が先に動く」
「自分たちで犯人を決め、報復する」
「だから我々が先に見つける」
「バトゥル殿が都合のよい犯人を?」
アラタイの目が厳しくなる。
「言葉に気をつけろ」
「お前だから聞いている」
二人は見つめ合った。
「バトゥル殿は戦争を望んでいない」
アラタイが言う。
「氏族間の戦争は」
「では、何の戦争を望む」
「汗国を再び一つにする戦争だ」
外敵。
西方。
ヴェリグラード。
アウレリア。
あるいはアルサク。
草原の氏族は、内部で争うより外へ向けた方がまとまる。
古くから使われてきた方法。
だが外の民にとって、サルグァの統一は襲撃を意味する。
「馬を追う」
オルジェイは言った。
「ただし見つけたものは、全部報告する」
「当然だ」
当然という言葉ほど、現実で守られないものはない。
---
## 三
盗まれた馬の足跡は、最初の半日だけ東へ向かっていた。
オルジェイ、アラタイ、六人の騎兵。
八騎。
予備馬を含め十六頭。
彼らは葬儀の輪を離れ、乾いた谷へ入った。
春の草原は緑に見える。
だが土の下はまだ冷たい。
北の山には雪。
南からは乾いた風。
馬の蹄跡を読むにはよい季節だった。
「三十頭ではない」
オルジェイが地面を調べる。
「どういう意味だ」
アラタイが馬から降りる。
「最初は三十。ここで二つに分かれた」
「何頭ずつ」
「二十四と六」
「六頭を別へ?」
「追跡を分けるためか、証拠を運ばせるため」
オルジェイは二十四頭の痕を選んだ。
「大きい方を追う」
「六頭に盗人が乗っている可能性は」
「二十四頭の方に、人間の馬が三頭混じる」
「分かるのか」
「蹄鉄がある」
サルグァの放牧馬は、通常、蹄鉄をつけない。
長距離交易路や石道を歩く馬だけ。
蹄鉄の跡は三頭。
そのうち一頭は、右後脚の外側が深い。
乗り手が重いか、荷物を積んでいる。
足跡は北東へ曲がった。
青隼氏族の旧領へ近づく。
オルジェイの胸に嫌な感覚が生まれた。
「誰かが、お前の故郷へ向かっている」
アラタイも地図で気づく。
「青隼に罪を着せるためか」
「まだ分からない」
「従属部族が大汗の死へ乗じて反乱。あり得る話だ」
「あり得るように見せやすい」
「違いは」
「証拠だ」
夕方、彼らは最初の死体を見つけた。
男一人。
喉を切られている。
サルグァ式の革鎧。
胸に青隼氏族の鳥羽印。
オルジェイは馬から降り、男の顔を見た。
知らない。
青隼の生き残りは多くない。
少なくとも、成人男性の顔ならほぼ知っている。
「同胞か」
アラタイが尋ねる。
「違う」
「印がある」
「新しい」
鳥羽飾りを外す。
羽根が鮮やかすぎる。
青隼の印は、幼鳥の羽を煙で青黒く染める。
これは成鳥の羽へ青い染料を塗ったもの。
都市で作られた偽物。
「顔は」
「サルグァ人だ」
耳の形。
髪の切り方。
歯。
北方氏族に多い特徴。
「誰かが青隼に見せた」
オルジェイは死体の手を見る。
弓指に硬い皮。
騎兵。
腕に白鹿氏族の古い刺青を削った痕がある。
「白鹿だ」
アラタイが息を呑む。
白鹿氏族の兵を殺し、青隼の印をつけた。
白鹿氏族がこの死体を見つければ、青隼の反乱と判断する。
青隼はバトゥルの直轄管理下。
テムル派は、バトゥルが従属部族を使って馬を奪ったと非難する。
「死体を運ぶ」
アラタイが言う。
「葬儀場へ戻る」
「馬は」
「この証拠で十分だ」
「不十分だ」
「何が」
「誰が殺したか分からない」
「青隼ではないと証明できる」
「バトゥル殿にだけは」
「ほかに何が必要だ」
「馬を見つける」
オルジェイは死体の腰袋を調べた。
乾燥肉。
火打石。
銀貨。
その中に、見慣れない金貨が一枚。
セレスタ海洋都市同盟の海鳥金貨。
草原にも流通している。
珍しくはあるが、決定的ではない。
さらに、小さな灰色の蝋片。
紋章なし。
オルジェイは指で潰さず、布へ包んだ。
「これは」
アラタイが見る。
「分からない」
本当は、以前見たことがあった。
三年前。
ヴェリグラード国境の密使。
大汗の命令で、ある商人隊を護衛した。
商人は名を名乗らず、書状へ灰色の蝋を使った。
大汗の天幕へ直接入った。
オルジェイは護衛であり、内容を知らない。
ただ、その商人が去った翌月、敵対氏族が突然多額の銀貨を得て、大汗へ降伏した。
灰色の蝋。
偶然か。
「進む」
オルジェイは言った。
「日が落ちる」
「だから追う。夜営すれば、馬を移される」
八騎は北東へ走った。
死体は予備馬へ括りつける。
風が強くなった。
雨雲が西から近づく。
足跡が消える前に、追いつかなければならない。
---
## 四
大汗の葬送火が消えた夜、サランは石造りの隊商宿で四つの帳簿を開いていた。
氏族長たちは天幕で酒宴をしている。
父の死を悼み、次の大汗について語り、互いの忠誠を売り買いしている。
サランも招かれた。
断った。
女が酒宴へ出れば、酔った氏族長から侮辱を受ける。
怒れば感情的な女。
笑って流せば弱い女。
男と同じだけ酒を飲めば淫ら。
飲まなければ草原の習慣を軽視している。
どの行動も、彼女を大汗にふさわしくないと示す材料になる。
なら、最初から帳簿の前にいた方がよい。
彼女の武器は酒杯ではなく、数字だった。
一冊目。
カラク隊商都市の穀物備蓄。
二冊目。
南方から到着予定の隊商。
三冊目。
各氏族の軍馬と羊の数。
四冊目。
父の死後に動いた銀貨。
「白鹿氏族へ、二千枚」
サランが読む。
書記官のボルチュが頷く。
「名義は北方毛皮商会からの馬購入代金です」
「馬を売った記録は」
「ありません」
「赤狼氏族へ千五百」
「鉄鏃の購入契約」
「届いた?」
「確認できません」
「アルスラン叔父上の南方軍へ、三千」
「カディーラ商人からの宗教寄進」
「テムルの若い戦士団へ、千」
「匿名の贈与」
「私の都市守備隊には?」
「ありません」
サランは笑った。
「私は人気がないらしい」
「殿下の会計は公開されています」
「だから金を送りにくい」
「不名誉ではありません」
「継承争いでは、清廉さは資金にならない」
帳簿の金は、すべて別の名義。
だが時期が同じ。
父が死ぬ前後の二週間。
誰かが四つの陣営へ金を流している。
均等ではない。
それぞれに必要な形で。
白鹿には馬。
赤狼には武器。
アルスランには宗教寄進。
テムルには若者の忠誠を買う銀。
サランへ金がないのは、彼女が拒否すると考えたからか。
あるいは別の方法で取り込まれているか。
「カラクの新しい城壁工事」
サランが言った。
「融資元は」
ボルチュの目が動いた。
「セレスタのヴェルディ銀行です」
「契約を」
書記官が差し出す。
融資額。
利子。
担保。
隊商税。
倉庫収入。
非常時の穀物優先購入権。
契約は三年前。
父の許可がある。
サラン自身も署名している。
都市を守るために必要だった。
同時に、戦争が起きて穀物価格が上がれば、銀行はカラクの備蓄を優先的に買える。
「私にも、すでに金が入っている」
サランが言った。
「合法的な融資です」
「ほかの三人も、そう言うでしょう」
ボルチュは黙った。
「四つの陣営すべてへ金を出す」
サランは地図を見る。
「誰が勝っても、借りが残る」
「商人の通常の方法です」
「通常なら、同時に馬を盗み、死体へ偽の氏族印をつけない」
書記官が顔を上げる。
「その報告は」
「オルジェイから、まだ届いていない」
「ではなぜ」
「白鹿氏族の三十頭だけが盗まれた。少なすぎる」
「少なすぎる?」
「馬が目的なら、夜営地外の放牧群を狙う。三百頭取れた。三十頭だけなら、利益ではなく侮辱が目的」
「氏族間抗争を」
「葬儀中に起こす」
サランは四つの陣営へ伸びる銀の線を指でなぞった。
「誰かが四本の矢を束ねようとしているのではない」
「折ろうとしている?」
「一度ばらばらにしてから、自分が望む方向へ射る」
扉が叩かれた。
護衛が入る。
「アルスラン殿がお見えです」
「一人?」
「護衛三人」
「通して」
アルスランは黒い毛皮外套の下に、南方風の長衣を着ていた。
髭には白いものが混じる。
背が高く、戦士らしい体格。
胸元には啓句派の銀月章。
「葬儀の夜に帳簿か」
彼は言った。
「叔父上は酒宴を抜けて何を」
「女主の考えを聞きに」
「その呼び方は嫌味ですか」
「半分は敬意だ」
「残り半分は」
「警戒」
アルスランは椅子へ座る。
護衛は外へ。
ボルチュも下がらせる。
「兄上を支持するのか」
叔父が尋ねた。
「兄上が大汗になれば、都市の自治を削ります」
「お前が大汗になれば、氏族が反乱する」
「叔父上なら」
「古い信仰の氏族が、異教徒の汗と呼ぶ」
「テムルは若すぎる」
「だから、誰も決められない」
「叔父上は何を望んでいるのです」
「内戦を避けたい」
「全員がそう言う」
「お前もか」
「私は内戦より改革が遅れることを恐れています」
アルスランが笑う。
「正直だ」
「叔父上は?」
「草原がヴェリグラードとアルサクに切り分けられることを恐れている」
サルグァが分裂すれば、周辺国が介入する。
ヴェリグラード諸公国は北西の河川交易路を奪う。
アルサクは南西の牧草地を取る。
カディーラ商人は隊商都市を支配する。
ノルハイム船団が北の毛皮交易へ入る。
内戦は国内問題では終わらない。
「バトゥルを大汗に」
サランが言う。
「叔父上が軍を支え、私が都市と財政を管理する。テムルには北方軍を任せる」
「お前の兄が受け入れるか」
「受け入れさせます」
「どうやって」
「氏族長会議で条件にする」
アルスランは首を振った。
「バトゥルは、条件付きの大汗を大汗と思わない」
「だから叔父上が必要です」
「私に剣を突きつけさせる?」
「叔父上が大汗を望んでいないなら」
アルスランの目が冷える。
「望んでいないとは言っていない」
部屋の空気が張る。
「では、叔父上が」
「私が大汗になれば、南方との交易を安定させられる。啓句派の都市民も従う。戦士も私の遠征歴を知っている」
「古い氏族は反乱します」
「お前が抑えろ」
「私を宰相に?」
「共同統治だ」
「叔父上も、条件付きの大汗では」
アルスランは笑った。
「私は条件を利用する。お前の兄は条件を侮辱と感じる」
否定できない。
「四本の矢の教えを覚えているか」
叔父が尋ねる。
「父上は何度も」
「一本ずつなら折れる。束ねれば折れない」
「ですが、束ねる手が必要です」
「お前は自分が手だと思っている」
「叔父上も」
二人は同時に黙った。
「白鹿氏族の馬」
アルスランが話題を変える。
「テムルは青隼が奪ったと考えている」
「証拠は」
「鳥羽印を見た者がいる」
「誰が」
「白鹿の斥候」
「死体を見つけた?」
「そう聞いた」
「バトゥル兄上の追跡隊が先に出ています」
アルスランの眉が動く。
「誰を」
「オルジェイ」
「青隼の人質に、青隼の罪を調べさせるか」
「だから適任です」
「だからこそ疑われる」
すべての選択が疑いを生む。
「叔父上」
サランは四冊目の帳簿を示した。
「この二週間、四陣営へ外から金が流れています」
アルスランは目を通す。
「私の宗教寄進もか」
「出所を」
「カディーラの聖地救援商会」
「実体は」
「教主国の商人だ」
「確認しましたか」
叔父は答えない。
「白鹿の馬代、赤狼の武器、テムルの贈与。全部、別の名義」
「何を疑う」
「誰かが継承争いを買っています」
「氏族長は昔から買われる」
「今回は全員です」
「私も、お前も」
「はい」
アルスランは帳簿を閉じた。
「なら、その誰かを利用すればよい」
「危険です」
「金を出す者は、金を受け取る者を操れると思う。受け取った側が約束を守るとは限らない」
「契約には担保があります」
「草原の汗に、都市の契約が通じるか」
「だから商人は軍を雇うのです」
アルスランは立ち上がった。
「明日の大クリルタイで、私は自分の名を候補から下ろさない」
「内戦になります」
「私が下りれば、バトゥルとテムルが争う。お前が下りれば、都市が離反する。四本あるから均衡が保たれている」
「一本が折れれば」
「残る三本が互いを刺す」
叔父は扉へ向かう。
「サラン。金の出所を調べろ。だが、見つけてもすぐ切るな」
「なぜ」
「糸をたどれば、手まで届く」
「その間に首へ巻きつきます」
「首を絞められたふりをして、相手を近づける」
戦士の考え。
危険だが、正しい部分もある。
「叔父上」
サランが呼び止める。
「父上の死を疑っていますか」
アルスランは振り返らなかった。
「病だと聞いた」
「医師は?」
「死んだ」
「いつ」
「父上の三日前」
「事故?」
「毒蛇に噛まれたと」
草原の春に毒蛇はまだ少ない。
「偶然が多すぎる」
サランが言う。
「王位の周りでは、偶然が増える」
アルスランは部屋を出た。
---
## 五
雨が降り始めた。
オルジェイたちは夜の草原を走る。
足跡が一つずつ薄くなる。
月は雲の向こう。
松明は使えない。
遠くから見える。
馬の耳と、風の匂いだけを頼りに進む。
やがて、馬の糞を見つけた。
まだ温かい。
「近い」
オルジェイが言う。
前方に低い丘。
丘の向こうから、馬の鼻息。
一行は降りる。
馬を引き、音を立てずに近づく。
谷間に盗まれた馬がいた。
二十四頭。
足を縄でつながれ、動けない。
見張りは四人。
外套をかぶる。
焚火は小さい。
「生け捕り」
オルジェイが指示する。
アラタイが頷く。
二組に分かれる。
雨音が近づく足音を隠す。
最初の見張りへ飛びかかる。
口を塞ぎ、喉へ刃を当てる。
二人目が気づく。
弓を取る前に、アラタイの拳が顎へ入る。
三人目は剣を抜いた。
サルグァ式ではない。
片刃の短剣。
セレスタの船員が使う形。
四人目が逃げる。
騎兵が追う。
矢を放つ。
脚へ刺さる。
男が倒れた。
短い戦い。
死者なし。
見張り四人を縛る。
顔を確認する。
二人はサルグァ人。
一人はヴェリグラード系。
一人はセレスタか、蒼環海沿岸の男。
「雇われた者だ」
アラタイが言う。
「誰に」
サルグァ人の一人は歯を食いしばる。
オルジェイは火のそばの荷物を調べた。
青隼氏族の旗。
赤狼氏族の矢。
白鹿氏族の祈祷骨。
アルスラン軍の銀月章。
四陣営の証拠。
「まただ」
アラタイが呟く。
「誰へ見つけさせるつもりだった」
「全員へ」
オルジェイは馬の鞍袋を開く。
中に書状。
宛先なし。
《白鹿の血には赤狼の血を》
別の袋。
《青隼は自由を求める》
さらに。
《神を捨てたアルスランを殺せ》
《女に従う都市を焼け》
四方向へ撒く扇動文。
すべて異なる筆跡に見える。
だが紙は同じ。
薄く、丈夫。
セレスタ製。
灰色の蝋。
「誰に雇われた」
アラタイが捕虜へ近づく。
答えない。
「一人ずつ指を切るか」
「待て」
オルジェイはセレスタ系の男を見る。
恐怖。
だが、死を覚悟した顔ではない。
本当の工作員ではなく、金で雇われた。
「報酬は」
男の目が動く。
「銀貨か」
沈黙。
「金貨か」
わずかに。
「半分は先払い。残りは、馬が見つかったあと」
男の喉が動く。
「残りを受け取る場所は」
答えない。
オルジェイは男の腰袋から海鳥金貨を出した。
「お前だけ金貨だ。ほかは銀貨」
サルグァ人の捕虜たちが男を見る。
報酬が違う。
雇い主は、彼らにも互いを疑わせている。
「お前がまとめ役だと思われている」
オルジェイが言う。
「違う」
初めて男が話した。
西方共通語。
「誰がまとめ役だ」
「知らない」
「残りの金を」
「カラクで」
「どこ」
「黒羊亭」
「相手は」
「灰色の帳面を持つ男」
黒帳商会。
名前は言っていない。
だがオルジェイは、隊商商人から噂を聞いている。
国を持たない商会。
信用と情報を売る。
「目的は氏族戦争か」
「馬を運べと言われただけだ」
「死体へ印をつけた」
「すでに死んでいた」
「誰が殺した」
「知らない」
「ほかの六頭は」
男の顔色が変わった。
知っている。
「どこだ」
「西へ」
「何を積んでいる」
「何も」
嘘。
「右後脚の深い蹄跡。荷物が重い」
捕虜は視線を逸らす。
アラタイが短剣を抜く。
「答えろ」
「書状だ!」
「どこへ」
「ヴェリグラード国境!」
「誰に」
「イリヤ公の敵へ!」
オルジェイとアラタイが顔を見合わせる。
ヴェリグラード諸公国。
北部公イリヤは、幼い頃をサルグァの人質として過ごした。
草原との妥協を唱える。
そのため、西方派の諸公から裏切り者と呼ばれている。
「書状の内容は」
「サルグァが内戦になれば、朝貢を停止せよ。イリヤ公を大汗の犬として処刑せよ、と」
「差出人は」
「バトゥル殿の印」
アラタイが男の胸ぐらを掴む。
「偽造か」
「俺は知らない!」
「印はどこから」
「灰帳の男が持っていた!」
灰色の帳面。
灰色の蝋。
バトゥルの印。
誰かがサルグァの内戦と、ヴェリグラードの内乱を同時に起こそうとしている。
「六頭を追う」
オルジェイが言った。
「二十四頭は?」
アラタイが尋ねる。
「二人で葬儀場へ戻せ。捕虜も二人」
「残りは」
「私たちが連れる」
「雨で足跡が消える」
「だから今すぐ」
捕虜のセレスタ人が言った。
「間に合わない」
「なぜ」
「六頭は昨日の夕方に分かれた」
一日。
すでに国境へ近い。
「先回りする道がある」
オルジェイは地図を思い出す。
青隼の旧道。
正規の隊商路ではない。
故郷の狩人だけが知る谷。
「お前の故郷を通る」
アラタイが気づく。
「そうだ」
「青隼がいるかもしれない」
「いる」
「反乱していたら」
「そのときは、私が話す」
「お前を裏切り者と呼ぶ」
「すでに呼ばれている」
オルジェイは首の鳥羽飾りへ触れた。
サルグァでは青隼の人質。
青隼ではサルグァの犬。
どちらへ行っても、完全な味方ではない。
だが両方を知る者にしか止められないものもある。
「行くぞ」
彼らは雨の中へ走り出した。
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## 六
大クリルタイは、葬儀から二日後に始まった。
白い丘を囲み、三百の氏族旗が立つ。
中央に、空の大汗椅子。
木と銀で作られた折り畳み椅子。
定住国の王座と違い、馬へ積んで運べる。
草原の王権は一つの場所へ固定されない。
それでも、その椅子を誰が所有するかをめぐり、人は殺し合う。
老宰相が最初に天穹へ馬乳酒を撒いた。
「トグリル・カガンの魂が、我らの上にある」
氏族長たちが唱和する。
「我らの上に」
「大汗は後継者を指名しなかった」
ざわめき。
バトゥルが老宰相を見る。
生前、父が何か話していたのではないか。
宰相は否定した。
「ゆえに古き法に従い、氏族が選ぶ」
最初にバトゥルが前へ出た。
「私は長男として、父の弓と狼旗を継ぐ」
単純な言葉。
氏族戦士には分かりやすい。
「草原の法を守る。氏族の自由を守る。都市の石壁が馬の道を塞ぐことを許さない。外国の宗教が祖霊を侮辱することを許さない」
アルスラン派が反発する。
都市代表も。
「だが、交易を否定しない。必要な法は残す」
サランが兄を見る。
彼女への譲歩か。
事前には聞いていない。
「サランには、隊商都市の管理を続けさせる」
氏族長たちがざわめく。
「アルスラン叔父には、西方軍の指揮を」
アルスランは表情を変えない。
「テムルには北方氏族の守護を」
テムルが鼻で笑う。
兄は四人の役割を提示した。
自分を大汗としたうえでの共同統治。
サランが叔父へ提案した形と似ている。
誰かから聞いたか。
あるいは兄も同じ結論へ至ったか。
「ただし」
バトゥルの声が強くなる。
「最終決定は大汗が下す。四本の矢は束ねられる。だが、矢を射る手は一つだ」
伝統派から歓声。
次にアルスラン。
「長子であることを尊重する」
最初の言葉で、バトゥル派がわずかに緩む。
「だが、我らが選ぶのは父の息子ではない。すべての氏族の父となる者だ」
南方商人。
改宗氏族。
西方遠征軍。
彼らが声を上げる。
「草原は変わった。都市を焼けば、翌年の鉄がなくなる。商人を殺せば、冬の塩がなくなる。祖霊を敬うことと、啓句派の神へ祈ることは両立する」
古い巫者が叫ぶ。
「天穹は一つだ!」
「だから名が違っても、同じ空を見上げられる」
アルスランは返した。
巧い。
宗教対立を正面から否定せず、包み込む。
「私は氏族と都市、古き神と新しき神を結ぶ」
次にサラン。
女性が大汗候補として中央へ立つこと自体に、嘲笑する者がいた。
彼女は無視した。
「私は父の娘です」
小さな声。
だが静まり返った草原では届く。
「兄たちより多く戦ったとは言いません。叔父上より多く土地を征服したとも言いません」
戦功を競えば負ける。
「私は、我々が何頭の馬を持ち、何袋の小麦を必要とし、どの道が雪で閉ざされ、どの商人が我々へ金を貸しているかを知っています」
氏族長の一部が退屈そうな顔をする。
「父が大汗でいられたのは、弓が強かったからだけではない。冬に羊が死んだ氏族へ別の氏族から分け、戦利品を配り、敵へ金を払い、味方へ人質を返したからです」
「女の仕事だ!」
誰かが叫ぶ。
「だから男たちは知らないのでしょう」
笑いが起きる。
侮辱した側だけでなく、周囲からも。
サランは続けた。
「大汗とは、最も多く殺す者ではない。誰を殺さずに済ませるかを決める者です」
伝統派は不満。
都市民は賛同。
「私は氏族会議を残す。都市の帳簿を公開する。交易税の一部を、各氏族へ人口と軍役に応じて配る。大汗の財政も公開する」
今度は全派閥がざわつく。
大汗の財政。
秘密。
贈り物。
賄賂。
公開を嫌う氏族長は多い。
「商人の女だ」
赤狼氏族長が吐き捨てる。
「商人は少なくとも、利子を数字で書きます」
サランが答える。
「氏族長は忠誠という名で、もっと高く取る」
最後はテムル。
若い戦士たちの歓声。
彼は演説ではなく、馬で中央へ入った。
本来は禁じられている。
大汗の椅子の周囲へ、候補は徒歩で入る。
だが規則破りそのものが、若者には魅力になる。
「兄は古い!」
テムルは叫んだ。
「叔父は南方の神へ膝をついた! 姉は銀貨を数えている!」
笑いと歓声。
「父は何をした! 敵を恐れず、西へ、南へ、北へ戦った! 我々は貧しくなったのではない。戦わなくなったから、戦利品が減った!」
単純。
危険。
それゆえ強い。
「大汗を選ぶのに帳簿はいらない! 馬へ乗れ! 最初に敵の王宮へ旗を立てた者が大汗だ!」
若い戦士たちが弓を掲げる。
テムルは候補者たちへ向けて四本の矢を取り出した。
一本目を折る。
二本目。
三本目。
四本目。
すべて一本ずつ。
「四本を束ねれば折れないと父は言った!」
矢をまとめる。
膝へ当てる。
折れない。
歓声。
「だが束ねた矢は射られない!」
彼は束をほどき、四本を同時に弓へつがえようとした。
無理がある。
それでも一本だけを選び、空へ射る。
「飛ぶ矢は一本だ!」
若者たちが叫ぶ。
「テムル!」
「テムル・カガン!」
まだ選ばれていない。
それでも汗の称号。
白鹿氏族の巫者が前へ出る。
「天穹は、父の最後の息を受けた子を選んだ!」
テムルが父の臨終に立ち会ったという主張。
バトゥルの顔が変わる。
「父上の最後の言葉は」
テムルが言う。
「西へ進め、だった」
氏族長たちがざわめく。
煙が西へ流れた。
遺言も西。
一致。
「嘘だ」
バトゥルが言った。
「兄上はその場にいなかった」
「医師と宰相は」
「医師は死んだ。宰相は、遺言はないと言った」
老宰相へ視線が集まる。
老人の顔が青ざめる。
「私は、聞いておりません」
「父上と二人だった時間がある」
テムルが言う。
「そのときだ」
証明できない。
否定もできない。
「西へ進めとは、どこへ」
アルスランが尋ねる。
「ヴェリグラード」
テムルは答えた。
「朝貢を減らし、大汗の死を喜んでいる。イリヤ公は弱い。諸公は争っている。今攻めれば、銀と小麦を取れる」
西への戦争。
氏族をまとめる。
戦利品。
飢饉対策。
若者の支持。
合理的な部分がある。
だからこそ危険だった。
サランが立つ。
「ヴェリグラードへ侵攻すれば、交易路が止まる」
「奪えばよい」
「小麦畑を焼いて、何を食べるの」
「焼かなければよい」
「彼らが自分で焼く。過去の戦争でも」
「なら、もっと奥へ行く」
「どこまで?」
「海までだ!」
歓声。
夢は距離を知らない。
大クリルタイは初日から割れた。
四人の演説。
氏族の交渉。
贈り物。
婚姻提案。
軍馬。
銀貨。
誰も過半の支持を得ない。
日没前、白鹿氏族の斥候が駆け込んだ。
「馬が見つかりました!」
テムルが立ち上がる。
「どこで」
「青隼の旧領! 死者に青隼の印!」
群衆が爆発する。
「反乱だ!」
「バトゥルの人質部族だ!」
「兄上が馬を盗ませた!」
テムルが叫ぶ。
バトゥル派が武器へ手を伸ばす。
「嘘だ!」
「なら、なぜオルジェイを先に送った!」
「犯人を調べるためだ!」
「証拠を消すためだ!」
氏族長の護衛が前へ出る。
弓。
剣。
わずかな動きで戦闘になる。
サランが中央へ走った。
「止まりなさい!」
聞こえない。
アルスランが自分の兵へ盾を下げさせる。
「最初に矢を放った者を、私が殺す!」
その声は戦士へ届いた。
一瞬の停止。
老宰相が杖を地面へ叩く。
「葬送地で血を流すな!」
白鹿氏族長がテムルへ言う。
「報復を!」
「青隼を討つ!」
若い戦士が叫ぶ。
バトゥルが馬へ乗る。
「私が調べる」
「犯人が自分を調べるか!」
テムルが剣を抜く。
バトゥルの護衛も。
四本の矢が、互いへ向いた。
そのとき、遠くから角笛が鳴った。
三度。
赤狼氏族の合図。
東の丘に騎馬の列。
二十四頭の馬。
捕虜。
死体。
先頭は、オルジェイの部下だった。
「馬を確保!」
伝令が叫ぶ。
「青隼の仕業ではありません!」
群衆が揺れる。
「死体は白鹿氏族の兵!」
「青隼の印は偽物!」
白鹿氏族長が死体へ駆け寄る。
刺青を確認。
顔。
「ドルゲン」
甥の名を呼ぶ。
怒りが別の形へ変わる。
「誰が殺した!」
「捕虜がいます!」
セレスタ人。
サルグァ人。
ヴェリグラード人。
混成。
複数陣営の偽の証拠。
テムルは剣を下げない。
「バトゥルが用意した芝居だ!」
「では捕虜を、四陣営で尋問すればよい」
サランが言う。
「帳簿も書状も、全員の前で確認する」
「姉上の書記が数字を変える」
「叔父上の書記も、兄上の書記も、あなたの巫者も立ち会わせる」
テムルは答えられない。
バトゥルが弟を見る。
「剣を収めろ」
「命令するな」
「大汗候補としてではない。兄として言う」
「兄なら、父上の遺言を認めろ」
「嘘を認める兄はいない」
再び緊張。
アルスランが間へ立つ。
「今日は終わりだ」
「誰が決める」
テムルが言う。
「私だ」
叔父の声には、戦場を率いた者の重さがあった。
「異論があるなら、まず私を斬れ」
テムルは叔父を見た。
剣を下げる。
完全に従ったわけではない。
いま斬るには、アルスランの支持が大きすぎる。
大クリルタイ初日は、汗を選ばず終わった。
だが血も流れなかった。
少なくとも、その場では。
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## 七
オルジェイたちは、青隼の旧領へ入った。
故郷。
記憶より狭かった。
幼い頃は果てしなく見えた谷。
川。
白い岩。
春に青い花が咲く斜面。
天幕は残っている。
だが数は少ない。
サルグァへ従属した後、青隼氏族の多くは別の土地へ移された。
残った者は家畜を減らされ、毎年人質を出している。
谷の入口で、弓を持つ騎兵に囲まれた。
十騎。
二十。
岩陰からさらに。
「名を」
老いた男が前へ出る。
オルジェイは知っている。
母の兄。
叔父のサグル。
二十年前より小さく見える。
白髪。
左目を失っている。
「オルジェイ」
「その名はサルグァがつけた」
叔父の声は冷たい。
「生まれたときの名は」
「エルケ」
忘れていない。
口にしたのは二十年ぶり。
胸の奥で、何かが割れた。
「サルグァの犬が、何をしに来た」
「書状を運ぶ六頭を追っている」
「我々に罪を着せる書状か」
「知っているのか」
叔父が笑う。
「昨日、灰色の外套の男が来た」
「何を」
「バトゥルが大汗になれば、青隼の男を全員西の戦争へ送り、女と子供を別氏族へ分けると」
「嘘だ」
「お前はバトゥルの心を知るのか」
「そのような命令はない」
「今は」
叔父は一枚の書状を投げる。
バトゥルの印。
青隼氏族の移住命令。
馬五百頭を供出。
若者百人を軍へ。
拒否すれば反乱として討伐。
偽造。
おそらく。
だが印は精巧。
「誰から」
「灰色の男」
「どこへ」
「北へ」
「六頭と一緒か」
「別れた」
「書状を受け取っただけ?」
「銀も」
叔父は隠さない。
「反乱のため?」
アラタイが怒る。
青隼の騎兵が弓を構える。
オルジェイが手を上げる。
「叔父上。何を約束した」
「バトゥルが死ねば、青隼へ土地を返す」
「誰が」
「テムル」
「本人に会った?」
「使者が」
「印は」
「ある」
別の偽造。
灰色の男は、青隼へバトゥルへの恐怖を与え、テムルの名で反乱を約束した。
青隼が動けば、バトゥルはテムルを疑う。
テムルは青隼討伐を掲げ、バトゥルの支配地へ入る。
氏族戦争。
「六頭の書状はヴェリグラードへ向かっている」
オルジェイが言う。
「サルグァの印で諸公を煽る。西でも戦争を起こす」
「我々に関係ない」
叔父が答える。
「サルグァが内戦になれば、青隼は自由になる」
「周囲の氏族が先に略奪へ来る」
「戦う」
「女と子供は」
「自由には血が必要だ」
「誰の血だ」
叔父の顔が強張る。
「お前は、我々の血を忘れた」
「忘れていない」
「ならサルグァの男を殺せ」
叔父はアラタイを指す。
「ここで殺せば、お前をエルケとして迎える」
アラタイは剣へ手を伸ばさない。
オルジェイを見る。
判断を任せている。
幼い頃からの仲間。
故郷を滅ぼした側の男。
叔父。
同胞。
二つの忠誠。
選べと言われる日が来た。
「殺さない」
オルジェイは答えた。
青隼の騎兵がざわめく。
叔父の目に失望。
「なら、やはり犬だ」
「アラタイを殺しても、父は戻らない」
「父を殺した氏族の男だ」
「こいつは当時七歳だった」
「サルグァの血だ」
「血で罪が伝わるなら、青隼も過去に殺したすべての氏族から討たれる」
「理屈を覚えたな」
「生きるために」
オルジェイは鳥羽飾りを首から外した。
叔父へ見せる。
「捨てていない」
「なら、こちらへ来い」
「サルグァへ戻る」
「なぜ」
「青隼を守るため」
叔父が笑う。
「我々を支配する汗国を?」
「汗国が崩れれば、最初に小さな氏族が食われる」
「奴隷のまま生きろと」
「違う。大クリルタイへ証拠を持って行く。青隼への命令が偽造だと認めさせる。移住と供出を停止させる」
「バトゥルに頼む?」
「四人全員の前で」
「信じると思うか」
「信じさせる」
「できなければ」
「戻る」
「いつ」
「三日」
「遅れたら、我々は動く」
「誰を攻める」
叔父は答えない。
すでに計画がある。
バトゥル派の放牧地。
あるいは白鹿。
灰色の男が選んだ標的。
「六頭の道を教えてください」
叔父はしばらく黙った。
「北の岩道。夜明けに出た」
「間に合う」
「一頭は脚を傷めていた」
「右後脚?」
「そうだ」
オルジェイはアラタイを見る。
追跡していた重い蹄跡。
「叔父上」
出発前に呼ぶ。
「灰色の男の顔は」
「見ていない」
「声」
「南方語を話した。だが草原の訛りがあった」
「何を持っていた」
「灰色の帳面」
やはり。
「名は」
「《四矢の友》と」
四本の矢。
父の教え。
候補者四人。
その名を使う者が、四人を争わせている。
オルジェイは馬へ乗った。
「三日です」
叔父が言う。
「三日で何が変わる」
「分かりません」
「なら、なぜ待つ」
「私が戻るからです」
叔父は何も答えなかった。
信じてはいない。
だが三日を与えた。
完全な信用ではない。
血縁の残り。
あるいは、反乱準備に必要な時間と同じだけだっただけかもしれない。
---
## 八
六頭の馬は、ヴェリグラード国境から半日の場所で見つかった。
正確には、五頭。
一頭は倒れ、喉を切られていた。
右後脚を傷めた馬。
荷物はほかへ移されている。
足跡は雪解け川を渡っている。
対岸はヴェリグラード領。
国境標はない。
草原と森林が混じる土地。
どちらの王も完全には支配していない。
「越えるか」
アラタイが尋ねる。
「書状を止める」
「国境侵犯だ」
「書状が届けば戦争になる」
「捕まれば」
「サルグァの間者として処刑」
「それでも?」
オルジェイは川へ馬を入れた。
水は冷たい。
腹まで。
流れが強い。
対岸へ上がる。
足跡。
五頭。
乗り手は三人。
荷物。
さらに進む。
森の中で、煙。
小さな修道院跡。
廃墟。
馬がつながれている。
オルジェイたちは囲む。
中から話し声。
ヴェリグラード語。
「イリヤ公が死ねば、北部諸公は立つ」
「書状だけで?」
「大汗印がある。サルグァの侵攻計画も」
「本物か」
「誰が確かめる。皆が信じたい」
扉を蹴破る。
三人。
一人はヴェリグラード人。
一人はサルグァ人。
最後は灰色の外套。
顔を布で隠す。
男が書状を火へ投げる。
オルジェイが飛び込む。
火から羊皮紙を掴む。
端が燃える。
アラタイがヴェリグラード人と組み合う。
残る騎兵がサルグァ人を押さえる。
灰色の男は窓から逃げた。
オルジェイが追う。
森。
男は馬へ乗る。
オルジェイも。
枝が顔へ当たる。
距離は近い。
男の乗り方は草原式。
膝。
手綱を緩く持つ。
サルグァで訓練された。
オルジェイは弓を取る。
生け捕り。
馬の脚を狙う。
矢。
後脚へ刺さる。
馬が倒れる。
男が投げ出される。
すぐ起き、短剣を抜く。
オルジェイは馬から降りる。
「顔を見せろ」
男は答えない。
斬りかかる。
速い。
軍人。
オルジェイが受ける。
短剣と曲刀。
男は左利き。
紙片の不自然な文字。
左手で書いたのではない。
本当に左利きだったのか。
それとも、右利きに見せるため。
斬撃。
オルジェイの肩を浅く切る。
男は倒木を越え、森の奥へ。
オルジェイが追う。
男が突然止まり、何かを投げる。
灰。
目に入る。
視界が白くなる。
男の足音。
オルジェイは耳で方向を読む。
左。
剣を振る。
手応え。
呻き。
視界が戻る。
男の脇腹が切れている。
だが倒れない。
「誰に仕えている」
オルジェイが尋ねる。
「お前と同じだ」
初めて声。
草原語。
「誰にも仕えていない」
「なら、なぜ」
「国は嘘をつく。氏族も。汗も」
「お前たちは違うと?」
「我々は、嘘に価格をつける」
「戦争を売るのか」
「戦争は、我々がいなくても起きる」
「だから少し早める?」
「早く始まれば、早く終わることもある」
「死ぬ者へ言え」
「死ぬ者は客ではない」
男は笑った。
顔布の下。
「四本の矢を争わせて、誰を勝たせる」
「最も高く払う者」
「四人全員へ金を出した」
「保険だ」
「灰の鍵とは」
男の目が動く。
知っている。
「どこで聞いた」
「答えろ」
「鍵を持つ者は、扉を選べる」
「何の扉だ」
「戦争の」
男が懐へ手を入れる。
オルジェイは短剣を取ると思った。
違った。
小さな壺。
地面へ叩く。
油。
火打石。
自分を燃やすつもりだ。
オルジェイが飛びかかる。
手首を蹴る。
火打石が落ちる。
男が舌を噛もうとする。
顎を掴む。
「生きろ」
「なぜ」
「話すためだ」
「話せば殺される」
「黙っても殺す」
「なら同じだ」
「違う。話せば、誰かが助かる」
男が笑う。
「誰かを助けたいなら、汗国を捨てろ」
「なぜ」
「四人の誰が勝っても、西へ行く」
「誰が決めた」
「飢えだ」
男はオルジェイの腕へ噛みついた。
一瞬の隙。
短剣。
自分の胸へ。
オルジェイが手を伸ばす。
遅い。
刃が心臓へ入る。
男は倒れた。
死ぬ直前、声。
「灰冠は……一つではない」
それだけ。
オルジェイは男の懐を調べた。
灰色の帳面。
小さい。
頁の多くは暗号。
一頁だけ、草原語。
《四矢計画》
《第一段階――継承候補への資金分配》
《第二段階――従属氏族と主要氏族の衝突》
《第三段階――ヴェリグラード朝貢停止》
《第四段階――西征》
最後。
《目的――北方穀物路の遮断および蒼環海価格調整》
汗国の王位争い。
氏族の誇り。
父の遺言。
宗教。
自由。
すべてが、小麦価格を動かすための手順として書かれている。
オルジェイは吐き気を覚えた。
草原の戦士たちは、自分たちの誇りで戦うと信じる。
実際には、遠い市場の価格を上げるため、矢を射たせようとする者がいる。
だが帳面は、すべてを説明していない。
計画があるから戦争が起こるのではない。
すでにある対立へ、銀と偽の証拠を加えただけ。
火のない場所に火をつけたのではない。
乾いた草へ、小さな火種を置いた。
「書状は」
アラタイが追いつく。
オルジェイは焦げた羊皮紙を見せる。
バトゥルの印。
ヴェリグラード侵攻計画。
兵力配置。
氏族名。
内容の半分は本物に近い。
サルグァ軍の情報を知る者が作った。
「これは大クリルタイへ」
アラタイが言う。
「四人全員に見せる」
「バトゥル殿の印がある」
「偽造だ」
「証明できるか」
「帳面がある」
「帳面も、誰かが用意した偽物と疑われる」
正しい。
証拠が多いほど、偽装と思われることもある。
「それでも持ち帰る」
オルジェイは言った。
「叔父へ三日と約束した」
「間に合うか」
「馬を替える」
「眠らず?」
「戦争が始まれば、もっと眠れない」
---
## 九
大クリルタイ二日目の夜、最初の血が流れた。
白鹿氏族の若者五人が、赤狼氏族の天幕へ入り、馬盗難への関与を認めろと迫った。
酒が入っていた。
赤狼側も。
言葉。
侮辱。
拳。
短剣。
白鹿の若者一人が腹を刺され、死亡。
赤狼の男二人が負傷。
両氏族は武装した。
バトゥルとテムルの使者が止める。
だが、それぞれが自派を守るために兵を出したため、さらに相手を刺激した。
夜明け前。
赤狼の馬群から二十頭が消えた。
白鹿の報復と見られた。
実際に誰が盗んだかは分からない。
最初の三十頭は陰謀。
次の二十頭は、本当の報復かもしれない。
誰かが始めた偽の争いが、本物へ変わり始めていた。
三日目の朝。
テムルは北方氏族を集め、大汗の椅子を別の丘へ移そうとした。
「父の遺言に従い、西征を決める新たなクリルタイを開く」
実質的な分裂。
バトゥル派が止める。
サランは双方の天幕を行き来する。
アルスランは軍を中央へ置き、衝突を防ぐ。
だが均衡は崩れかけている。
「テムルを拘束すべきだ」
バトゥルの天幕で、赤狼氏族長が言った。
「今ならできる」
「捕らえれば白鹿が立つ」
バトゥルが答える。
「立つ前に族長も」
「父の葬送地で氏族長を殺すか」
「大汗になるためだ」
「私は氏族を半分殺して汗になるつもりはない」
「半分殺さなければ、残る半分に殺されます」
バトゥルは男を睨んだ。
「お前の甥が白鹿の若者を刺した」
「正当防衛です」
「酒宴へ武器を持ち込んだ」
「白鹿も」
「甥を引き渡せ」
氏族長の顔が変わる。
「我が氏族の者を、白鹿へ?」
「四陣営の裁きへ」
「我々を裏切るのか」
「法を守る」
「大汗は味方を守る!」
「大汗は、味方が間違えたとき止める」
サランと似た言葉。
父から学んだのかもしれない。
氏族長は怒りを隠さず退出した。
「離反します」
アラタイの父である老将が言う。
「させろ」
「赤狼なしで兄上は大汗になれない」
「甥一人を庇うため、汗国を割る氏族なら、いずれ離反する」
「正しい判断です」
老将が言う。
「だが、正しい判断で負けることもあります」
バトゥルは疲れた顔で椅子へ座った。
「サランはどこだ」
「テムルの天幕」
「アルスラン叔父は」
「中央軍」
「オルジェイは」
「まだ戻りません」
「死んだか」
「分かりません」
バトゥルは父の金の弓を見る。
葬送火から回収された。
熱で少し歪んでいる。
大汗の象徴。
使える武器ではない。
王権の多くは、実際には使えない道具なのかもしれない。
見る者へ意味を与えるためだけにある。
「父上なら」
バトゥルが呟く。
「どうしたでしょう」
老将は答えた。
「勝ったあと、自分の判断が正しかったと言うでしょう」
バトゥルは苦笑した。
父も迷った。
だが勝者の迷いは、年代記から消える。
残るのは決断だけ。
「テムルの天幕へ行く」
「危険です」
「護衛十人」
「捕らえられます」
「弟が兄を人質にすれば、もう汗にはなれない」
「殺すかもしれない」
「そのとき、私には関係ない」
「我々にはあります」
バトゥルは立つ。
「だから止めろ」
---
## 十
テムルの天幕では、サランが弟へ一枚の契約書を見せていた。
「何だ、これは」
「あなたの若者団へ銀貨を出した商会」
「寄進だ」
「利子がある寄進?」
テムルは文字を読むのが得意ではない。
書記に読ませる。
隊商税の一部。
西征時の戦利品優先購入権。
捕虜取引権。
「側近が勝手に」
「皆そう言う」
「姉上も銀行から借りている」
「だから契約を公開している」
「都市を守るためだろう。私も戦士を養うためだ」
「なら、なぜ出所を隠した」
「商人の名前などどうでもいい」
「商人はあなたの名前を必要としている」
テムルは契約書を投げた。
「戦争に勝てば払える」
「戦争を始めさせるために貸した金だとしたら」
「勝てば同じだ」
「違う!」
サランの声が強くなる。
「自分で選んだ戦争と、誰かに選ばされた戦争は違う」
「父上は西へ行けと言った」
「本当に?」
テムルが立ち上がる。
「姉上まで疑うのか」
「誰も聞いていない」
「父上は私を信じた」
「だから後継者の指名を、二人きりのときに?」
弟の顔に傷ついた表情。
一瞬だけ。
すぐ怒りへ変える。
「父上は兄上を見限っていた」
「なら、なぜ氏族長の前で言わなかった」
「時間がなかった」
「医師が死んだあと、父上の薬を誰が」
テムルの動きが止まる。
「母上の侍医だ」
「どこにいる」
「北へ帰った」
「いつ」
「父上が死んだ翌日」
サランは知らなかった。
「名前は」
「オチル」
「白鹿氏族?」
「そうだ」
「呼び戻して」
「なぜ」
「父上の死因を確認する」
テムルが短剣へ手を置く。
「姉上は、母上が父上を殺したと言うのか」
「誰も殺したとは言っていない」
「同じだ!」
外で騒ぎ。
バトゥルが来た。
護衛十人。
テムルの兵が囲む。
「兄上を入れて」
サランが命じる。
「ここは私の天幕だ」
テムルが言う。
「なら、自分で命じて」
弟は不満そうに許可する。
バトゥルが入る。
兄弟姉妹三人。
幼い頃、同じ天幕で眠った。
吹雪の夜、父が遠征中で、サランが弟たちへ昔話を読んだ。
バトゥルが外の馬を確認し、テムルが怖くないふりをした。
その三人が、いま互いの護衛に囲まれている。
「赤狼の男を引き渡す」
バトゥルが言った。
「白鹿の若者を殺した者」
テムルが驚く。
「本当に?」
「四陣営で裁く」
「白鹿へ渡せ」
「私刑は認めない」
「甘い」
「白鹿の馬盗難も、青隼ではない」
「兄上の追跡隊の報告だ」
「捕虜を全員で尋問する」
サランが契約書を拾う。
「外から四陣営へ金が入っている」
バトゥルが妹を見る。
「証拠は」
「帳簿」
「私の陣営にも?」
「赤狼へ武器代」
兄は黙る。
「知っていた?」
「知らない」
「皆同じ」
テムルが笑う。
「姉上は、自分だけ賢いと思っている」
「私も借りている」
「なら全員だ」
「だから、全員が利用されている可能性を考えて」
外で角笛。
一度。
二度。
三度。
アラタイの合図。
バトゥルが入口へ向かう。
伝令が飛び込む。
「オルジェイが戻りました!」
「生きているか」
「はい。書状と帳面を!」
三人は天幕を出た。
大クリルタイの中央へ。
雨と泥にまみれたオルジェイ。
肩に傷。
目の下に隈。
馬から降りると、膝が崩れかける。
それでも灰色の帳面を掲げた。
「四陣営の代表を」
彼は言った。
「全氏族の前で話します」
「ここで」
バトゥルが答える。
アルスランも来る。
テムル。
サラン。
老宰相。
氏族長たち。
オルジェイは帳面を開いた。
四矢計画。
資金分配。
氏族衝突。
ヴェリグラード朝貢停止。
西征。
北方穀物路遮断。
一行ずつ読む。
群衆の反応は、驚きだけではない。
怒り。
否定。
嘲笑。
「偽物だ!」
赤狼氏族長が叫ぶ。
「誰が用意した」
「灰色の外套の男」
「名は」
「不明」
「死んだのか」
「自害しました」
「都合がよい!」
テムルの側近が叫ぶ。
「バトゥル派の人質が、バトゥルに都合のよい帳面を!」
オルジェイはバトゥル印の偽造書状も出した。
「ヴェリグラードへ送られるところでした」
バトゥルが読む。
自軍の配置。
氏族名。
本物に近い。
「情報はどこから漏れた」
老将が問う。
「大汗の軍務帳簿へ触れられる者」
「誰だ」
候補者全員の側近。
宰相。
書記。
各氏族の軍務官。
多すぎる。
「青隼へも、偽の命令が届いた」
オルジェイが続ける。
「バトゥル殿の名で移住と供出。テムル殿の名で反乱支援」
青隼の使者が書状を示す。
テムルが印を見る。
「私の印だ」
「本物?」
サランが尋ねる。
弟は答えない。
印章は側近が管理している。
複製。
盗用。
正式文書に押した印を切り取り、別へ貼る方法もある。
「父上の死も計画に?」
テムルが尋ねる。
オルジェイは帳面をめくる。
記載はない。
だが最後の数頁が切り取られている。
「分かりません」
「なら、西へ進めという遺言は」
「私は聞いていません」
「お前に聞いていない!」
テムルが怒鳴る。
「弟よ」
アルスランが言う。
「遺言が真実でも、誰かが利用していることは変わらない」
「叔父上も私を疑う?」
「自分以外の全員を疑え。自分も含めて」
四人が帳面を囲む。
四本の矢。
計画の名。
自分たち自身が、他人の帳簿の項目になっている。
サランが言う。
「候補を一人に決める前に、四人の共同会議を作る」
バトゥルが反発する。
「大汗を空位のままに?」
「三十日」
「長すぎる」
「十日」
アルスランが言う。
「その間、すべての氏族は兵を元の牧地へ戻す。外征禁止。朝貢国への使者は四人の共同印」
テムルが首を振る。
「父上の遺言は」
「十日後に議論する」
「その間にヴェリグラードが備える」
「備えさせろ」
バトゥルが弟へ言う。
「西へ行くとしても、誰かの計画どおりには動かない」
テムルは兄を見る。
「西へ行く可能性を認める?」
「大汗が決める」
「誰が大汗か」
「十日後に決める」
サランが条件を加える。
「四陣営の帳簿と印章管理を共同監査。外部からの資金を申告。未申告の金は没収」
氏族長たちが大きく反発する。
「我々の財産だ!」
「商人の支配だ!」
「大汗候補への贈り物を調べるのか!」
「調べます」
サランが言う。
「嫌なら、その金を出した者のために戦ってください」
アルスランが続く。
「南方からの寄進も公開する」
自分の陣営を先に差し出す。
バトゥルも言う。
「赤狼の武器契約を出す」
視線がテムルへ。
弟は追い込まれる。
「若者団の贈与も」
しぶしぶ。
四人が自分たちの帳簿を開く。
氏族長も拒否しにくい。
老宰相が宣言する。
「十日の休戦」
一つずつ氏族長が同意する。
全員ではない。
赤狼の一部。
白鹿の強硬派。
北方の若者団。
不満。
それでも大半が。
大クリルタイは大汗を選ばなかった。
代わりに、四人による暫定会議を作った。
《四矢評議会》。
陰謀者が争わせるために使った名を、逆に共同統治の名へ変えた。
勝利ではない。
十日の猶予。
サン・ルシアンで戦争が保留されたように、草原でも保留された。
だが、すでに遅い場所があった。
ヴェリグラード諸公国へ、別の書状が届いていた。
オルジェイが止めたものとは異なる経路。
バトゥルの印。
西征計画。
イリヤ公がサルグァと密約したという証拠。
同じ夜、ヴェリグラード南部の公がイリヤ公の使者を拘束した。
朝貢停止を宣言。
国境砦のサルグァ徴税官を殺した。
四矢評議会が外征を禁じたその日に、国境ではすでにサルグァ人の血が流れていた。
戦争は、決定を待たない。
命令が届くより、噂の方が速い。
---
## 十一
四矢評議会の最初の会議は、大汗の空の椅子を囲んで行われた。
誰も座らない。
座れば、自分が大汗を僭称したと見られる。
四人は毛皮の敷物へ同じ高さで座った。
バトゥル。
サラン。
アルスラン。
テムル。
オルジェイは中央に立つ。
身分上は騎兵。
だが証拠を持ち帰ったため、発言を認められた。
「青隼の要求は」
サランが尋ねる。
「移住命令の撤回。馬供出の停止。人質の一部返還」
バトゥルが眉を寄せる。
「人質を返せば、反乱を防げない」
「偽の命令で反乱寸前です」
「だからこそ、忠誠を確認する必要がある」
「忠誠を示すために、家族を差し出せと?」
テムルが言う。
「兄上は青隼を信用しない。なのに、自分の印の偽造を調べさせた」
「オルジェイを信用した」
「一人だけ」
アルスランが手を上げる。
「半分返す」
「中途半端です」
サランが言う。
「だからよい」
叔父は答える。
「完全に返せば、ほかの従属氏族も要求する。返さなければ青隼が反乱する。半分返し、残る半分を四人の共同保護下へ」
「人質であることは変わらない」
オルジェイが言う。
四人が彼を見る。
騎兵が王族へ反論。
だが今は必要な証人。
「では、代案を」
バトゥルが言った。
「青隼から兵を出す代わり、人質を全員返す」
「西征の兵?」
「国境警備」
「彼らを武装させるのか」
テムルが笑う。
「兄上らしくない」
「忠誠を証明する機会を与える」
「拒否すれば」
「人質は残す」
サランが考える。
「兵の指揮官は」
「オルジェイ」
本人が驚く。
「私が?」
「青隼とサルグァ、両方を知る」
「どちらからも信用されていません」
「だから四人全員の命令で動く」
アルスランが頷く。
「よい」
テムルは不満そう。
だが反対すれば、青隼へ約束したという偽書状を本物と疑われる。
「受ける」
オルジェイが言った。
「ただし、青隼軍を従属部族だけで構成しない。赤狼、白鹿、都市騎兵からも同数」
「互いに監視させる?」
サランが尋ねる。
「互いに守らせる」
同じ意味。
言葉が違う。
「誰から国境を守る」
テムルが言う。
その答えが届いたのは、直後だった。
伝令。
血まみれ。
馬から落ちる。
「ヴェリグラード……国境砦が」
「何があった」
バトゥルが立つ。
「朝貢拒否。徴税官十九名が殺害。砦を占領」
天幕が静まる。
「誰の公国」
アルスランが尋ねる。
「ドロゴミル公」
イリヤ公の敵対者。
西方派。
「イリヤ公は」
「サルグァとの密約を疑われ、都市へ軟禁」
オルジェイが歯を食いしばる。
書状が届いた。
止められなかった経路。
「軍を出す」
テムルが言う。
「休戦中です」
サランが答える。
「外征禁止」
「攻撃された!」
「国境防衛は外征ではない」
バトゥルが言う。
兄の目に、戦士の光。
父の長男。
ここで弱く見せれば、氏族が離れる。
「徴税官を殺した者を討つ」
「どの規模で」
アルスランが問う。
「一万騎」
「多すぎる」
サランが反対。
「砦奪還に一万?」
「見せる必要がある」
「誰に」
「ヴェリグラード全体へ」
「それが計画の第四段階です」
サランは灰色の帳面を叩く。
「西征」
「だから攻撃されても黙るのか」
テムルが叫ぶ。
「相手は、我々が計画どおり動くと読んでいる」
「読ませればよい。その上で勝つ」
「勝ったあと、小麦路は止まる」
「すでに止められた!」
兄弟の声が上がる。
アルスランが地図へ手を置く。
「三千騎」
「少ない」
バトゥルが言う。
「砦奪還のみ。川を越えない。イリヤ公へ使者。ドロゴミル公以外の諸公と交渉」
「指揮は」
「私が」
アルスラン。
戦歴。
ヴェリグラードの言葉も分かる。
だが彼が勝てば、大汗候補として支持が増す。
バトゥルもテムルも警戒する。
「四軍から七百五十ずつ」
サランが言う。
「共同軍。旗は大汗旗ではなく四矢旗」
「指揮命令が遅れる」
アルスランが反対。
「軍事指揮は叔父上。補給と交渉は私。バトゥル兄上とテムルは本営へ残り、氏族休戦を守る」
兄と弟が同時に不満。
だが二人を共に出せば、戦場で競争する。
一方だけなら、残った側が本営を奪うと疑う。
「オルジェイは」
バトゥルが尋ねる。
「青隼混成隊を率い、先行偵察」
サランが答える。
再び国境へ。
故郷と汗国の間。
「受けます」
オルジェイは言った。
選択肢はない。
あるいは、初めて自分で両方を選んだのかもしれない。
四矢評議会は、西方へ三千騎を送ると決めた。
侵攻ではない。
砦奪還。
報復ではない。
国境回復。
戦争ではない。
限定行動。
人は戦争を避けたいとき、別の名をつける。
だが、矢で射られる者にとって、名は関係ない。
---
## 十二
出陣前夜。
オルジェイは大汗の葬送地へ一人で行った。
火は消えている。
灰。
焦げた木。
溶けた金の跡。
父ではない。
だが、自分の人生を決めた男の死。
大汗トグリル。
征服者。
支配者。
教育者。
敵。
恩人。
一つの名で呼べない。
オルジェイは灰の前へ膝をついた。
祈らない。
天穹信仰の言葉も。
青隼の祖霊歌も。
何を言えばよいか分からない。
後ろで足音。
サラン。
「一人?」
「護衛は離れています」
「危険です」
「あなたが?」
「私を信用しているのですか」
「していない」
サランは隣へ座る。
「だから来た」
父の灰を見る。
「父上の死因を調べます」
「テムル殿の母方侍医」
「逃げた」
「どこへ」
「北方。ノルハイムへ向かう隊商に入ったらしい」
「追いますか」
「人を出した」
「灰色の帳面と関係が」
「分からない」
二人の前を風が通る。
灰が少し舞う。
「四本の矢」
オルジェイが言う。
「陰謀者は、なぜその名を使ったのでしょう」
「我々を知っているから」
「大汗の教えを」
「宮廷にいた者。あるいは、父上から直接聞いた者」
「内部に」
「一人ではないでしょう」
サランは帳面の写しを見せる。
「暗号の一部を解きました」
数字。
交易記号。
国名。
《紫帳》
《白冠》
《緑月》
《灰鍵》
《四矢》
オルシャの契約書と同じ記号。
二人はマリアムを知らない。
それでも同じ網へ触れている。
「紫帳はアウレリアの秘密財政組織だと、商人から報告があります」
サランが言う。
「白冠は聖座か、西方王国」
「緑月は」
「カディーラかナフル。あるいは南方全体を示す記号」
「灰鍵は」
「不明」
「四矢は我々」
「そうです」
各国の内部組織。
一つの巨大な組織なのか。
複数の組織をつなぐ市場なのか。
「戦争を市場としている」
オルジェイは灰色の男の言葉を伝えた。
「死ぬ者は客ではない」
サランは目を閉じる。
「商人らしい」
「商人だけではない」
「分かっています」
「兄上へすべて話しますか」
「四人へ話す」
「テムル殿は、自分の父の遺言を疑う話を受け入れない」
「受け入れさせる必要はない」
「では」
「知っているという事実を、ほかの三人にも知らせる。誰かが裏切れば、残りが分かる」
「信用ではなく監視」
「それでも、何もしないよりよい」
サランは立つ。
「父上は、四本を束ねれば折れないと言った」
「ですが束ねる手が」
「今は、互いの手を互いに縛る」
「動きにくい」
「好き勝手に動くよりは」
オルジェイも立った。
「明日、西へ」
「計画どおりに」
「違います」
「何が」
「相手は我々が十万騎で西へ行くことを望んだ。行くのは三千」
「それでも西へ射られる矢です」
オルジェイは答えられなかった。
計画を知っても、完全には避けられない。
敵が朝貢官を殺せば、応じる必要がある。
応じなければ弱さ。
応じれば計画。
相手は、どちらを選んでも利益を得る形を作る。
「第三の道を探します」
彼は言った。
「あると思う?」
「なければ作る」
「どうやって」
「分かりません」
サランがわずかに笑った。
「正直ですね」
「役人ではないので」
「役人も正直なときはあります」
「処刑される前だけ?」
「昇進させられる前も」
二人は葬送地を離れた。
父の灰は、風で少しずつ四方へ散っていく。
西へ流れる灰。
だが西だけではない。
北。
南。
東。
巫者は西へ向かったと叫んだ。
実際には、風は絶えず方向を変えていた。
人間は、自分が見たい瞬間だけを選び、それを神意と呼ぶ。
---
翌朝、四矢評議会の共同軍三千騎が西へ出発した。
旗には四本の矢。
一本ずつ異なる色。
赤はバトゥル。
青はサラン。
黒はアルスラン。
白はテムル。
四本を一つの輪が囲む。
団結の象徴。
同時に、互いを縛る印。
先頭はオルジェイの混成偵察隊。
青隼。
赤狼。
白鹿。
都市騎兵。
昨日まで互いを疑っていた者たち。
今日から、同じ敵を探す。
誰が本当の敵かは分からない。
ヴェリグラードの砦兵。
偽の書状を送った者。
灰色の帳面を持つ商人。
あるいは、隣を走る騎兵。
草原の蹄音は、遠くまで響いた。
大地が震える。
三千騎。
大軍ではない。
だが国境の村にとっては、空を覆うほどの数だった。
ヴェリグラード側の見張りは、土煙を見て鐘を鳴らした。
サルグァ軍来襲。
村人は家畜を森へ追い、井戸を埋め、穀物倉庫へ火を放つ準備をした。
軍が奪う前に、自分で焼く。
過去の戦争で学んだ方法。
サルグァ軍は小麦を確保するため進んでいる。
ヴェリグラードの農民は、奪われないため小麦を焼く。
どちらも合理的。
その結果、双方が飢える。
灰色の帳面に書かれた第四段階。
北方穀物路の遮断。
計画した者は、戦場へ来ない。
馬にも乗らない。
矢も射ない。
ただ遠い都市で、小麦の価格が上がるのを待つ。
同じ日。
セレスタ海洋都市同盟では、北方穀物先物の価格が一割上がった。
ヴァルネリアのサン・ルシアンでは、アルベリクがその報告を受け取った。
アウレリアでは、テオドラがナフル小麦船団の出港延期を知った。
ナフルでは、ナディアが北方輸入分を飢饉計画から削除した。
オルシャでは、マリアムが十三番目の鐘へ登り始めた。
彼らはまだ互いの名を知らない。
それでも、草原の三十頭の馬が、全員の食卓からパンを一切れずつ奪おうとしていた。
後世の年代記は、サルグァとヴェリグラードの戦争が、徴税官十九名の殺害によって始まったと記す。
別の年代記は、大汗の死が始まりだとする。
草原の歌は、テムルが父の遺言を受けた夜を始まりと歌う。
青隼氏族は、偽の移住命令が届いた日を忘れない。
だがオルジェイは、その後も生涯、三十頭の馬を思い出した。
少なすぎる馬。
利益のためではなく、誇りを傷つけるために盗まれた馬。
世界を戦争へ動かすには、十万の軍勢は必要ない。
三十頭の馬。
二人の死者。
一枚の偽造書状。
そして、自分が侮辱されたと信じる人間がいればよい。
四本の矢は、まだ束ねられている。
だが、その一本一本には、すでに別の方向へ引く糸が結ばれていた。
誰かが遠くから糸を引いている。
強く。
ゆっくりと。
矢が折れるまで。
あるいは、世界の心臓へ放たれるまで。