灰冠と香路の年代記   作:MOZIO

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第六章 四本の矢

サルグァ草原では、死者を土へ埋めない。

 

少なくとも、大汗の一族はそうだった。

 

天穹の下を馬で生きた者を、暗い地中へ閉じ込めてはならない。

 

遺体は白い布で包み、最も愛した馬の鞍へ載せ、氏族の祖霊が眠る丘まで運ぶ。そこで香木と乾燥した馬糞を積み、炎へ返す。

 

煙は空へ昇り、肉体は灰となり、魂は天穹を駆ける。

 

残った骨は砕き、四方の風へ撒く。

 

東へ。

 

西へ。

 

南へ。

 

北へ。

 

大汗は死してなお、草原のすべてを見渡すのだと伝えられていた。

 

だが灰暦八百七十二年の春、サルグァ草原汗国第九代大汗トグリル・カガンの葬送では、誰も空を見ていなかった。

 

人々が見ていたのは、遺体の周囲に立つ四人だった。

 

大汗の長男、バトゥル。

 

大汗の末娘、サラン。

 

大汗の弟の子、アルスラン。

 

そして、第二夫人が産んだ末子テムル。

 

四人の後継者。

 

四本の矢。

 

古い草原の教えでは、一本の矢は容易に折れる。

 

四本を束ねれば折れない。

 

大汗トグリルは、生前、子供たちと甥へ何度もそう教えた。

 

だが大汗は、自分の死後、誰が四本を束ねるのかを定めなかった。

 

それとも、定める前に死んだのか。

 

あるいは、定めた言葉が消されたのか。

 

それを知る者はいなかった。

 

---

 

## 一

 

火が大汗の白布へ移ったとき、バトゥル・カガンは泣かなかった。

 

正確には、泣くことを許さなかった。

 

草原の男が父を失って泣くことは恥ではない。

 

だが大汗の長男が、三百の氏族長と一万の騎兵が見守る前で涙を流せば、誰かが弱さと呼ぶ。

 

草原では、人間の感情そのものより、それを他人が何と呼ぶかが重要だった。

 

バトゥルは両手を腰の帯へ置き、燃え上がる父の遺体を見つめた。

 

黒髪は左右に編み、頬には狼の爪を表す三本の刺青。

 

父と同じ刺青。

 

父が十二歳の彼へ、自ら針を入れたものだった。

 

痛みに耐えられず目を閉じたバトゥルへ、父は言った。

 

痛いときは目を開けろ。

 

目を閉じても、痛みは消えない。

 

見えなくなるだけだ。

 

バトゥルは炎から目を逸らさなかった。

 

父の顔が焼ける。

 

白い布が縮む。

 

遺体の上に置かれた金の弓が赤く光る。

 

周囲では氏族長たちが低い声で葬送歌を歌っている。

 

風が煙を西へ流した。

 

老いた巫者が叫ぶ。

 

「大汗の魂は西へ向かった!」

 

群衆がざわめく。

 

西は吉か。

 

凶か。

 

サルグァでは解釈が氏族ごとに違う。

 

西は日が死ぬ方角であり、祖霊の国を示すとする者。

 

西は豊かな定住国と戦利品を示すとする者。

 

大汗の魂が、西への遠征を命じている。

 

すでにそう語る戦士がいた。

 

バトゥルは巫者を見た。

 

白い鹿皮をまとった老人。

 

テムルの母方氏族と近い。

 

偶然、風が西へ吹いたのか。

 

あるいは、最初から西へ煙が流れやすいよう火の位置を決めたのか。

 

父の葬儀すら、すでに継承争いの一部となっている。

 

「兄上」

 

隣に立つサランが小声で呼んだ。

 

「何だ」

 

「右手を緩めて」

 

バトゥルは自分の右手を見る。

 

帯を強く握りすぎ、指の関節が白くなっていた。

 

「誰も見ていない」

 

「全員が見ている」

 

「だから言ったの」

 

サランは前を向いたまま答えた。

 

彼女は草原の王女でありながら、隊商都市カラクの総督でもある。

 

黒髪を一つに束ね、遊牧民の革衣の上にカディーラ産の青い絹を重ねている。

 

その姿を、古い氏族長たちは好まない。

 

草原と都市。

 

馬乳酒と香辛料。

 

天幕と石壁。

 

どちらにも完全には属さない服装。

 

サラン本人も、どちらにも完全には属していなかった。

 

「父上が死んで何日だ」

 

バトゥルが尋ねた。

 

「九日」

 

「商人たちは、もう小麦を値上げした」

 

「三日前に」

 

「大汗の死を悼むより早い」

 

「商人は泣いても価格を下げない」

 

「お前は商人を庇う」

 

「事実を言っただけ」

 

「カラクの倉庫に、どれだけ穀物がある」

 

サランの横顔がわずかに硬くなる。

 

「葬儀で聞くこと?」

 

「葬儀だから聞く。父上が生きている間は、倉庫を数える必要がなかった」

 

「三か月分」

 

「汗国全体の?」

 

「カラクと周辺駐屯軍の」

 

「少ない」

 

「草原全体を石造りの倉庫で養えると思っているの?」

 

「お前は都市化すれば飢えないと言った」

 

「都市化すれば、毎年の略奪へ頼らずに済むと言った。天候が悪くても小麦が空から降るとは言っていない」

 

二人の声は静かだった。

 

だが、周囲に立つ近臣は聞いている。

 

兄妹の対立。

 

伝統と改革。

 

氏族と官僚。

 

その小さなやり取りさえ、葬儀後には各陣営へ都合よく語られる。

 

バトゥルは口を閉じた。

 

炎の向こうに、残る二人の候補がいる。

 

アルスラン。

 

大汗の弟の息子。

 

四十二歳。

 

若い頃から西方遠征を率い、ヴェリグラード諸公国から銀、毛皮、奴隷を持ち帰った。戦士たちからの人気は高い。

 

現在は南方啓句派へ改宗し、カディーラ教主から祝福を受けている。

 

草原の古い天穹信仰を捨てたと批判される一方、南方商人と都市民から支持されていた。

 

テムル。

 

大汗の末子。

 

二十一歳。

 

勇敢。

 

無謀。

 

父に最も愛されたと、自分では信じている。

 

母方の白鹿氏族は、巫者と北方牧草地を支配する大氏族だった。

 

四人の中で、形式上もっとも正統なのはバトゥル。

 

だがサルグァの大汗位は、長子相続ではない。

 

大汗一族の中から、氏族長会議――大クリルタイが選ぶ。

 

馬を出す氏族。

 

羊を出す氏族。

 

弓を出す氏族。

 

交易路を守る氏族。

 

それぞれが票ではなく、支持する戦士の数を示す。

 

議論で決まることもある。

 

贈り物で決まることもある。

 

最後には剣で決まることもある。

 

「葬送の火が消えるまで、誰も汗を名乗らない」

 

父の遺言として、老宰相が伝えていた。

 

火はまだ燃えている。

 

それでも、四人の周囲にはすでに汗と呼ぶ者がいた。

 

バトゥルの背後で、赤狼氏族の長が囁く。

 

「大汗の長男こそ、次の大汗です」

 

サランの側では、都市書記官が彼女を「女主」と呼ぶ。

 

アルスランの軍は「神に選ばれた征服者」と歌う。

 

テムルの若い戦士たちは「父の最後の矢」と叫ぶ。

 

一本の矢は、すでに四本へ分かれていた。

 

---

 

## 二

 

オルジェイは、葬儀の輪から遠く離れた丘に立っていた。

 

従属部族出身の騎兵は、大汗一族の近くへ立つことを許されない。

 

彼の一族、青隼氏族は二十年前にサルグァへ敗れた。

 

父は戦死。

 

母と妹はサルグァの氏族へ分配された。

 

オルジェイ自身は族長の息子であったため殺されず、人質として大汗の天幕へ送られた。

 

当時六歳。

 

言葉も、歌も、祈りも、髪の結び方も変えさせられた。

 

故郷の名を口にすれば鞭打たれた。

 

それでも完全には忘れなかった。

 

首に下げた小さな鳥羽飾り。

 

青隼氏族の印。

 

普段は衣の下へ隠している。

 

大汗トグリルは、オルジェイを息子のように扱ったわけではない。

 

だが優秀な人質として教育した。

 

馬。

 

弓。

 

追跡。

 

地図。

 

複数の部族語。

 

敵地へ入り、敵の匂いを覚える技術。

 

大汗に忠実な猟犬を作ろうとした。

 

成功した部分もある。

 

オルジェイは大汗の軍で戦い、仲間を得た。

 

サルグァ騎兵として誇りも持つ。

 

同時に、故郷を滅ぼした者への憎しみも消えていない。

 

一人の身体に二つの忠誠がある。

 

どちらかを選べと言われるまで、人は矛盾を抱えたまま生きられる。

 

だが大汗の死は、その時を近づけていた。

 

「オルジェイ」

 

後ろから呼ばれた。

 

振り返る。

 

バトゥルの近臣、赤狼氏族の若い将アラタイ。

 

幼い頃から共に訓練した男。

 

一度、戦場でオルジェイの命を救った。

 

別の戦場では、オルジェイが彼を背負って退却した。

 

兄弟に近い。

 

血はつながっていない。

 

サルグァでは、血より戦場の借りの方が重い場合もある。

 

「長子殿がお呼びだ」

 

「まだ汗ではない」

 

「だから長子殿と言った」

 

アラタイは周囲を確認し、声を落とした。

 

「馬を盗んだ者の痕跡が見つかった」

 

「どの馬だ」

 

「白鹿氏族の三十頭」

 

葬儀前夜。

 

テムルを支持する白鹿氏族の馬が、夜営地から奪われた。

 

番人二人が殺された。

 

馬は三十頭。

 

大氏族にとって致命的な数ではない。

 

だが葬儀中の盗難は侮辱だった。

 

しかも死者の一人は、白鹿氏族長の甥。

 

報復を求める声が上がっている。

 

「痕跡はどこへ」

 

「東の乾谷」

 

「雨が降れば消える」

 

「今夜から降る」

 

「だから私を?」

 

「お前以上の追跡者はいない」

 

オルジェイは丘の下を見る。

 

大汗の遺体が炎に包まれている。

 

「葬儀中に離れてよいのか」

 

「盗人は葬儀を待たない」

 

「誰の命令だ」

 

「バトゥル殿」

 

「白鹿氏族は了承したか」

 

アラタイは答えない。

 

「していないな」

 

「知らせれば、テムルの戦士が先に動く」

 

「自分たちで犯人を決め、報復する」

 

「だから我々が先に見つける」

 

「バトゥル殿が都合のよい犯人を?」

 

アラタイの目が厳しくなる。

 

「言葉に気をつけろ」

 

「お前だから聞いている」

 

二人は見つめ合った。

 

「バトゥル殿は戦争を望んでいない」

 

アラタイが言う。

 

「氏族間の戦争は」

 

「では、何の戦争を望む」

 

「汗国を再び一つにする戦争だ」

 

外敵。

 

西方。

 

ヴェリグラード。

 

アウレリア。

 

あるいはアルサク。

 

草原の氏族は、内部で争うより外へ向けた方がまとまる。

 

古くから使われてきた方法。

 

だが外の民にとって、サルグァの統一は襲撃を意味する。

 

「馬を追う」

 

オルジェイは言った。

 

「ただし見つけたものは、全部報告する」

 

「当然だ」

 

当然という言葉ほど、現実で守られないものはない。

 

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## 三

 

盗まれた馬の足跡は、最初の半日だけ東へ向かっていた。

 

オルジェイ、アラタイ、六人の騎兵。

 

八騎。

 

予備馬を含め十六頭。

 

彼らは葬儀の輪を離れ、乾いた谷へ入った。

 

春の草原は緑に見える。

 

だが土の下はまだ冷たい。

 

北の山には雪。

 

南からは乾いた風。

 

馬の蹄跡を読むにはよい季節だった。

 

「三十頭ではない」

 

オルジェイが地面を調べる。

 

「どういう意味だ」

 

アラタイが馬から降りる。

 

「最初は三十。ここで二つに分かれた」

 

「何頭ずつ」

 

「二十四と六」

 

「六頭を別へ?」

 

「追跡を分けるためか、証拠を運ばせるため」

 

オルジェイは二十四頭の痕を選んだ。

 

「大きい方を追う」

 

「六頭に盗人が乗っている可能性は」

 

「二十四頭の方に、人間の馬が三頭混じる」

 

「分かるのか」

 

「蹄鉄がある」

 

サルグァの放牧馬は、通常、蹄鉄をつけない。

 

長距離交易路や石道を歩く馬だけ。

 

蹄鉄の跡は三頭。

 

そのうち一頭は、右後脚の外側が深い。

 

乗り手が重いか、荷物を積んでいる。

 

足跡は北東へ曲がった。

 

青隼氏族の旧領へ近づく。

 

オルジェイの胸に嫌な感覚が生まれた。

 

「誰かが、お前の故郷へ向かっている」

 

アラタイも地図で気づく。

 

「青隼に罪を着せるためか」

 

「まだ分からない」

 

「従属部族が大汗の死へ乗じて反乱。あり得る話だ」

 

「あり得るように見せやすい」

 

「違いは」

 

「証拠だ」

 

夕方、彼らは最初の死体を見つけた。

 

男一人。

 

喉を切られている。

 

サルグァ式の革鎧。

 

胸に青隼氏族の鳥羽印。

 

オルジェイは馬から降り、男の顔を見た。

 

知らない。

 

青隼の生き残りは多くない。

 

少なくとも、成人男性の顔ならほぼ知っている。

 

「同胞か」

 

アラタイが尋ねる。

 

「違う」

 

「印がある」

 

「新しい」

 

鳥羽飾りを外す。

 

羽根が鮮やかすぎる。

 

青隼の印は、幼鳥の羽を煙で青黒く染める。

 

これは成鳥の羽へ青い染料を塗ったもの。

 

都市で作られた偽物。

 

「顔は」

 

「サルグァ人だ」

 

耳の形。

 

髪の切り方。

 

歯。

 

北方氏族に多い特徴。

 

「誰かが青隼に見せた」

 

オルジェイは死体の手を見る。

 

弓指に硬い皮。

 

騎兵。

 

腕に白鹿氏族の古い刺青を削った痕がある。

 

「白鹿だ」

 

アラタイが息を呑む。

 

白鹿氏族の兵を殺し、青隼の印をつけた。

 

白鹿氏族がこの死体を見つければ、青隼の反乱と判断する。

 

青隼はバトゥルの直轄管理下。

 

テムル派は、バトゥルが従属部族を使って馬を奪ったと非難する。

 

「死体を運ぶ」

 

アラタイが言う。

 

「葬儀場へ戻る」

 

「馬は」

 

「この証拠で十分だ」

 

「不十分だ」

 

「何が」

 

「誰が殺したか分からない」

 

「青隼ではないと証明できる」

 

「バトゥル殿にだけは」

 

「ほかに何が必要だ」

 

「馬を見つける」

 

オルジェイは死体の腰袋を調べた。

 

乾燥肉。

 

火打石。

 

銀貨。

 

その中に、見慣れない金貨が一枚。

 

セレスタ海洋都市同盟の海鳥金貨。

 

草原にも流通している。

 

珍しくはあるが、決定的ではない。

 

さらに、小さな灰色の蝋片。

 

紋章なし。

 

オルジェイは指で潰さず、布へ包んだ。

 

「これは」

 

アラタイが見る。

 

「分からない」

 

本当は、以前見たことがあった。

 

三年前。

 

ヴェリグラード国境の密使。

 

大汗の命令で、ある商人隊を護衛した。

 

商人は名を名乗らず、書状へ灰色の蝋を使った。

 

大汗の天幕へ直接入った。

 

オルジェイは護衛であり、内容を知らない。

 

ただ、その商人が去った翌月、敵対氏族が突然多額の銀貨を得て、大汗へ降伏した。

 

灰色の蝋。

 

偶然か。

 

「進む」

 

オルジェイは言った。

 

「日が落ちる」

 

「だから追う。夜営すれば、馬を移される」

 

八騎は北東へ走った。

 

死体は予備馬へ括りつける。

 

風が強くなった。

 

雨雲が西から近づく。

 

足跡が消える前に、追いつかなければならない。

 

---

 

## 四

 

大汗の葬送火が消えた夜、サランは石造りの隊商宿で四つの帳簿を開いていた。

 

氏族長たちは天幕で酒宴をしている。

 

父の死を悼み、次の大汗について語り、互いの忠誠を売り買いしている。

 

サランも招かれた。

 

断った。

 

女が酒宴へ出れば、酔った氏族長から侮辱を受ける。

 

怒れば感情的な女。

 

笑って流せば弱い女。

 

男と同じだけ酒を飲めば淫ら。

 

飲まなければ草原の習慣を軽視している。

 

どの行動も、彼女を大汗にふさわしくないと示す材料になる。

 

なら、最初から帳簿の前にいた方がよい。

 

彼女の武器は酒杯ではなく、数字だった。

 

一冊目。

 

カラク隊商都市の穀物備蓄。

 

二冊目。

 

南方から到着予定の隊商。

 

三冊目。

 

各氏族の軍馬と羊の数。

 

四冊目。

 

父の死後に動いた銀貨。

 

「白鹿氏族へ、二千枚」

 

サランが読む。

 

書記官のボルチュが頷く。

 

「名義は北方毛皮商会からの馬購入代金です」

 

「馬を売った記録は」

 

「ありません」

 

「赤狼氏族へ千五百」

 

「鉄鏃の購入契約」

 

「届いた?」

 

「確認できません」

 

「アルスラン叔父上の南方軍へ、三千」

 

「カディーラ商人からの宗教寄進」

 

「テムルの若い戦士団へ、千」

 

「匿名の贈与」

 

「私の都市守備隊には?」

 

「ありません」

 

サランは笑った。

 

「私は人気がないらしい」

 

「殿下の会計は公開されています」

 

「だから金を送りにくい」

 

「不名誉ではありません」

 

「継承争いでは、清廉さは資金にならない」

 

帳簿の金は、すべて別の名義。

 

だが時期が同じ。

 

父が死ぬ前後の二週間。

 

誰かが四つの陣営へ金を流している。

 

均等ではない。

 

それぞれに必要な形で。

 

白鹿には馬。

 

赤狼には武器。

 

アルスランには宗教寄進。

 

テムルには若者の忠誠を買う銀。

 

サランへ金がないのは、彼女が拒否すると考えたからか。

 

あるいは別の方法で取り込まれているか。

 

「カラクの新しい城壁工事」

 

サランが言った。

 

「融資元は」

 

ボルチュの目が動いた。

 

「セレスタのヴェルディ銀行です」

 

「契約を」

 

書記官が差し出す。

 

融資額。

 

利子。

 

担保。

 

隊商税。

 

倉庫収入。

 

非常時の穀物優先購入権。

 

契約は三年前。

 

父の許可がある。

 

サラン自身も署名している。

 

都市を守るために必要だった。

 

同時に、戦争が起きて穀物価格が上がれば、銀行はカラクの備蓄を優先的に買える。

 

「私にも、すでに金が入っている」

 

サランが言った。

 

「合法的な融資です」

 

「ほかの三人も、そう言うでしょう」

 

ボルチュは黙った。

 

「四つの陣営すべてへ金を出す」

 

サランは地図を見る。

 

「誰が勝っても、借りが残る」

 

「商人の通常の方法です」

 

「通常なら、同時に馬を盗み、死体へ偽の氏族印をつけない」

 

書記官が顔を上げる。

 

「その報告は」

 

「オルジェイから、まだ届いていない」

 

「ではなぜ」

 

「白鹿氏族の三十頭だけが盗まれた。少なすぎる」

 

「少なすぎる?」

 

「馬が目的なら、夜営地外の放牧群を狙う。三百頭取れた。三十頭だけなら、利益ではなく侮辱が目的」

 

「氏族間抗争を」

 

「葬儀中に起こす」

 

サランは四つの陣営へ伸びる銀の線を指でなぞった。

 

「誰かが四本の矢を束ねようとしているのではない」

 

「折ろうとしている?」

 

「一度ばらばらにしてから、自分が望む方向へ射る」

 

扉が叩かれた。

 

護衛が入る。

 

「アルスラン殿がお見えです」

 

「一人?」

 

「護衛三人」

 

「通して」

 

アルスランは黒い毛皮外套の下に、南方風の長衣を着ていた。

 

髭には白いものが混じる。

 

背が高く、戦士らしい体格。

 

胸元には啓句派の銀月章。

 

「葬儀の夜に帳簿か」

 

彼は言った。

 

「叔父上は酒宴を抜けて何を」

 

「女主の考えを聞きに」

 

「その呼び方は嫌味ですか」

 

「半分は敬意だ」

 

「残り半分は」

 

「警戒」

 

アルスランは椅子へ座る。

 

護衛は外へ。

 

ボルチュも下がらせる。

 

「兄上を支持するのか」

 

叔父が尋ねた。

 

「兄上が大汗になれば、都市の自治を削ります」

 

「お前が大汗になれば、氏族が反乱する」

 

「叔父上なら」

 

「古い信仰の氏族が、異教徒の汗と呼ぶ」

 

「テムルは若すぎる」

 

「だから、誰も決められない」

 

「叔父上は何を望んでいるのです」

 

「内戦を避けたい」

 

「全員がそう言う」

 

「お前もか」

 

「私は内戦より改革が遅れることを恐れています」

 

アルスランが笑う。

 

「正直だ」

 

「叔父上は?」

 

「草原がヴェリグラードとアルサクに切り分けられることを恐れている」

 

サルグァが分裂すれば、周辺国が介入する。

 

ヴェリグラード諸公国は北西の河川交易路を奪う。

 

アルサクは南西の牧草地を取る。

 

カディーラ商人は隊商都市を支配する。

 

ノルハイム船団が北の毛皮交易へ入る。

 

内戦は国内問題では終わらない。

 

「バトゥルを大汗に」

 

サランが言う。

 

「叔父上が軍を支え、私が都市と財政を管理する。テムルには北方軍を任せる」

 

「お前の兄が受け入れるか」

 

「受け入れさせます」

 

「どうやって」

 

「氏族長会議で条件にする」

 

アルスランは首を振った。

 

「バトゥルは、条件付きの大汗を大汗と思わない」

 

「だから叔父上が必要です」

 

「私に剣を突きつけさせる?」

 

「叔父上が大汗を望んでいないなら」

 

アルスランの目が冷える。

 

「望んでいないとは言っていない」

 

部屋の空気が張る。

 

「では、叔父上が」

 

「私が大汗になれば、南方との交易を安定させられる。啓句派の都市民も従う。戦士も私の遠征歴を知っている」

 

「古い氏族は反乱します」

 

「お前が抑えろ」

 

「私を宰相に?」

 

「共同統治だ」

 

「叔父上も、条件付きの大汗では」

 

アルスランは笑った。

 

「私は条件を利用する。お前の兄は条件を侮辱と感じる」

 

否定できない。

 

「四本の矢の教えを覚えているか」

 

叔父が尋ねる。

 

「父上は何度も」

 

「一本ずつなら折れる。束ねれば折れない」

 

「ですが、束ねる手が必要です」

 

「お前は自分が手だと思っている」

 

「叔父上も」

 

二人は同時に黙った。

 

「白鹿氏族の馬」

 

アルスランが話題を変える。

 

「テムルは青隼が奪ったと考えている」

 

「証拠は」

 

「鳥羽印を見た者がいる」

 

「誰が」

 

「白鹿の斥候」

 

「死体を見つけた?」

 

「そう聞いた」

 

「バトゥル兄上の追跡隊が先に出ています」

 

アルスランの眉が動く。

 

「誰を」

 

「オルジェイ」

 

「青隼の人質に、青隼の罪を調べさせるか」

 

「だから適任です」

 

「だからこそ疑われる」

 

すべての選択が疑いを生む。

 

「叔父上」

 

サランは四冊目の帳簿を示した。

 

「この二週間、四陣営へ外から金が流れています」

 

アルスランは目を通す。

 

「私の宗教寄進もか」

 

「出所を」

 

「カディーラの聖地救援商会」

 

「実体は」

 

「教主国の商人だ」

 

「確認しましたか」

 

叔父は答えない。

 

「白鹿の馬代、赤狼の武器、テムルの贈与。全部、別の名義」

 

「何を疑う」

 

「誰かが継承争いを買っています」

 

「氏族長は昔から買われる」

 

「今回は全員です」

 

「私も、お前も」

 

「はい」

 

アルスランは帳簿を閉じた。

 

「なら、その誰かを利用すればよい」

 

「危険です」

 

「金を出す者は、金を受け取る者を操れると思う。受け取った側が約束を守るとは限らない」

 

「契約には担保があります」

 

「草原の汗に、都市の契約が通じるか」

 

「だから商人は軍を雇うのです」

 

アルスランは立ち上がった。

 

「明日の大クリルタイで、私は自分の名を候補から下ろさない」

 

「内戦になります」

 

「私が下りれば、バトゥルとテムルが争う。お前が下りれば、都市が離反する。四本あるから均衡が保たれている」

 

「一本が折れれば」

 

「残る三本が互いを刺す」

 

叔父は扉へ向かう。

 

「サラン。金の出所を調べろ。だが、見つけてもすぐ切るな」

 

「なぜ」

 

「糸をたどれば、手まで届く」

 

「その間に首へ巻きつきます」

 

「首を絞められたふりをして、相手を近づける」

 

戦士の考え。

 

危険だが、正しい部分もある。

 

「叔父上」

 

サランが呼び止める。

 

「父上の死を疑っていますか」

 

アルスランは振り返らなかった。

 

「病だと聞いた」

 

「医師は?」

 

「死んだ」

 

「いつ」

 

「父上の三日前」

 

「事故?」

 

「毒蛇に噛まれたと」

 

草原の春に毒蛇はまだ少ない。

 

「偶然が多すぎる」

 

サランが言う。

 

「王位の周りでは、偶然が増える」

 

アルスランは部屋を出た。

 

---

 

## 五

 

雨が降り始めた。

 

オルジェイたちは夜の草原を走る。

 

足跡が一つずつ薄くなる。

 

月は雲の向こう。

 

松明は使えない。

 

遠くから見える。

 

馬の耳と、風の匂いだけを頼りに進む。

 

やがて、馬の糞を見つけた。

 

まだ温かい。

 

「近い」

 

オルジェイが言う。

 

前方に低い丘。

 

丘の向こうから、馬の鼻息。

 

一行は降りる。

 

馬を引き、音を立てずに近づく。

 

谷間に盗まれた馬がいた。

 

二十四頭。

 

足を縄でつながれ、動けない。

 

見張りは四人。

 

外套をかぶる。

 

焚火は小さい。

 

「生け捕り」

 

オルジェイが指示する。

 

アラタイが頷く。

 

二組に分かれる。

 

雨音が近づく足音を隠す。

 

最初の見張りへ飛びかかる。

 

口を塞ぎ、喉へ刃を当てる。

 

二人目が気づく。

 

弓を取る前に、アラタイの拳が顎へ入る。

 

三人目は剣を抜いた。

 

サルグァ式ではない。

 

片刃の短剣。

 

セレスタの船員が使う形。

 

四人目が逃げる。

 

騎兵が追う。

 

矢を放つ。

 

脚へ刺さる。

 

男が倒れた。

 

短い戦い。

 

死者なし。

 

見張り四人を縛る。

 

顔を確認する。

 

二人はサルグァ人。

 

一人はヴェリグラード系。

 

一人はセレスタか、蒼環海沿岸の男。

 

「雇われた者だ」

 

アラタイが言う。

 

「誰に」

 

サルグァ人の一人は歯を食いしばる。

 

オルジェイは火のそばの荷物を調べた。

 

青隼氏族の旗。

 

赤狼氏族の矢。

 

白鹿氏族の祈祷骨。

 

アルスラン軍の銀月章。

 

四陣営の証拠。

 

「まただ」

 

アラタイが呟く。

 

「誰へ見つけさせるつもりだった」

 

「全員へ」

 

オルジェイは馬の鞍袋を開く。

 

中に書状。

 

宛先なし。

 

《白鹿の血には赤狼の血を》

 

別の袋。

 

《青隼は自由を求める》

 

さらに。

 

《神を捨てたアルスランを殺せ》

 

《女に従う都市を焼け》

 

四方向へ撒く扇動文。

 

すべて異なる筆跡に見える。

 

だが紙は同じ。

 

薄く、丈夫。

 

セレスタ製。

 

灰色の蝋。

 

「誰に雇われた」

 

アラタイが捕虜へ近づく。

 

答えない。

 

「一人ずつ指を切るか」

 

「待て」

 

オルジェイはセレスタ系の男を見る。

 

恐怖。

 

だが、死を覚悟した顔ではない。

 

本当の工作員ではなく、金で雇われた。

 

「報酬は」

 

男の目が動く。

 

「銀貨か」

 

沈黙。

 

「金貨か」

 

わずかに。

 

「半分は先払い。残りは、馬が見つかったあと」

 

男の喉が動く。

 

「残りを受け取る場所は」

 

答えない。

 

オルジェイは男の腰袋から海鳥金貨を出した。

 

「お前だけ金貨だ。ほかは銀貨」

 

サルグァ人の捕虜たちが男を見る。

 

報酬が違う。

 

雇い主は、彼らにも互いを疑わせている。

 

「お前がまとめ役だと思われている」

 

オルジェイが言う。

 

「違う」

 

初めて男が話した。

 

西方共通語。

 

「誰がまとめ役だ」

 

「知らない」

 

「残りの金を」

 

「カラクで」

 

「どこ」

 

「黒羊亭」

 

「相手は」

 

「灰色の帳面を持つ男」

 

黒帳商会。

 

名前は言っていない。

 

だがオルジェイは、隊商商人から噂を聞いている。

 

国を持たない商会。

 

信用と情報を売る。

 

「目的は氏族戦争か」

 

「馬を運べと言われただけだ」

 

「死体へ印をつけた」

 

「すでに死んでいた」

 

「誰が殺した」

 

「知らない」

 

「ほかの六頭は」

 

男の顔色が変わった。

 

知っている。

 

「どこだ」

 

「西へ」

 

「何を積んでいる」

 

「何も」

 

嘘。

 

「右後脚の深い蹄跡。荷物が重い」

 

捕虜は視線を逸らす。

 

アラタイが短剣を抜く。

 

「答えろ」

 

「書状だ!」

 

「どこへ」

 

「ヴェリグラード国境!」

 

「誰に」

 

「イリヤ公の敵へ!」

 

オルジェイとアラタイが顔を見合わせる。

 

ヴェリグラード諸公国。

 

北部公イリヤは、幼い頃をサルグァの人質として過ごした。

 

草原との妥協を唱える。

 

そのため、西方派の諸公から裏切り者と呼ばれている。

 

「書状の内容は」

 

「サルグァが内戦になれば、朝貢を停止せよ。イリヤ公を大汗の犬として処刑せよ、と」

 

「差出人は」

 

「バトゥル殿の印」

 

アラタイが男の胸ぐらを掴む。

 

「偽造か」

 

「俺は知らない!」

 

「印はどこから」

 

「灰帳の男が持っていた!」

 

灰色の帳面。

 

灰色の蝋。

 

バトゥルの印。

 

誰かがサルグァの内戦と、ヴェリグラードの内乱を同時に起こそうとしている。

 

「六頭を追う」

 

オルジェイが言った。

 

「二十四頭は?」

 

アラタイが尋ねる。

 

「二人で葬儀場へ戻せ。捕虜も二人」

 

「残りは」

 

「私たちが連れる」

 

「雨で足跡が消える」

 

「だから今すぐ」

 

捕虜のセレスタ人が言った。

 

「間に合わない」

 

「なぜ」

 

「六頭は昨日の夕方に分かれた」

 

一日。

 

すでに国境へ近い。

 

「先回りする道がある」

 

オルジェイは地図を思い出す。

 

青隼の旧道。

 

正規の隊商路ではない。

 

故郷の狩人だけが知る谷。

 

「お前の故郷を通る」

 

アラタイが気づく。

 

「そうだ」

 

「青隼がいるかもしれない」

 

「いる」

 

「反乱していたら」

 

「そのときは、私が話す」

 

「お前を裏切り者と呼ぶ」

 

「すでに呼ばれている」

 

オルジェイは首の鳥羽飾りへ触れた。

 

サルグァでは青隼の人質。

 

青隼ではサルグァの犬。

 

どちらへ行っても、完全な味方ではない。

 

だが両方を知る者にしか止められないものもある。

 

「行くぞ」

 

彼らは雨の中へ走り出した。

 

---

 

## 六

 

大クリルタイは、葬儀から二日後に始まった。

 

白い丘を囲み、三百の氏族旗が立つ。

 

中央に、空の大汗椅子。

 

木と銀で作られた折り畳み椅子。

 

定住国の王座と違い、馬へ積んで運べる。

 

草原の王権は一つの場所へ固定されない。

 

それでも、その椅子を誰が所有するかをめぐり、人は殺し合う。

 

老宰相が最初に天穹へ馬乳酒を撒いた。

 

「トグリル・カガンの魂が、我らの上にある」

 

氏族長たちが唱和する。

 

「我らの上に」

 

「大汗は後継者を指名しなかった」

 

ざわめき。

 

バトゥルが老宰相を見る。

 

生前、父が何か話していたのではないか。

 

宰相は否定した。

 

「ゆえに古き法に従い、氏族が選ぶ」

 

最初にバトゥルが前へ出た。

 

「私は長男として、父の弓と狼旗を継ぐ」

 

単純な言葉。

 

氏族戦士には分かりやすい。

 

「草原の法を守る。氏族の自由を守る。都市の石壁が馬の道を塞ぐことを許さない。外国の宗教が祖霊を侮辱することを許さない」

 

アルスラン派が反発する。

 

都市代表も。

 

「だが、交易を否定しない。必要な法は残す」

 

サランが兄を見る。

 

彼女への譲歩か。

 

事前には聞いていない。

 

「サランには、隊商都市の管理を続けさせる」

 

氏族長たちがざわめく。

 

「アルスラン叔父には、西方軍の指揮を」

 

アルスランは表情を変えない。

 

「テムルには北方氏族の守護を」

 

テムルが鼻で笑う。

 

兄は四人の役割を提示した。

 

自分を大汗としたうえでの共同統治。

 

サランが叔父へ提案した形と似ている。

 

誰かから聞いたか。

 

あるいは兄も同じ結論へ至ったか。

 

「ただし」

 

バトゥルの声が強くなる。

 

「最終決定は大汗が下す。四本の矢は束ねられる。だが、矢を射る手は一つだ」

 

伝統派から歓声。

 

次にアルスラン。

 

「長子であることを尊重する」

 

最初の言葉で、バトゥル派がわずかに緩む。

 

「だが、我らが選ぶのは父の息子ではない。すべての氏族の父となる者だ」

 

南方商人。

 

改宗氏族。

 

西方遠征軍。

 

彼らが声を上げる。

 

「草原は変わった。都市を焼けば、翌年の鉄がなくなる。商人を殺せば、冬の塩がなくなる。祖霊を敬うことと、啓句派の神へ祈ることは両立する」

 

古い巫者が叫ぶ。

 

「天穹は一つだ!」

 

「だから名が違っても、同じ空を見上げられる」

 

アルスランは返した。

 

巧い。

 

宗教対立を正面から否定せず、包み込む。

 

「私は氏族と都市、古き神と新しき神を結ぶ」

 

次にサラン。

 

女性が大汗候補として中央へ立つこと自体に、嘲笑する者がいた。

 

彼女は無視した。

 

「私は父の娘です」

 

小さな声。

 

だが静まり返った草原では届く。

 

「兄たちより多く戦ったとは言いません。叔父上より多く土地を征服したとも言いません」

 

戦功を競えば負ける。

 

「私は、我々が何頭の馬を持ち、何袋の小麦を必要とし、どの道が雪で閉ざされ、どの商人が我々へ金を貸しているかを知っています」

 

氏族長の一部が退屈そうな顔をする。

 

「父が大汗でいられたのは、弓が強かったからだけではない。冬に羊が死んだ氏族へ別の氏族から分け、戦利品を配り、敵へ金を払い、味方へ人質を返したからです」

 

「女の仕事だ!」

 

誰かが叫ぶ。

 

「だから男たちは知らないのでしょう」

 

笑いが起きる。

 

侮辱した側だけでなく、周囲からも。

 

サランは続けた。

 

「大汗とは、最も多く殺す者ではない。誰を殺さずに済ませるかを決める者です」

 

伝統派は不満。

 

都市民は賛同。

 

「私は氏族会議を残す。都市の帳簿を公開する。交易税の一部を、各氏族へ人口と軍役に応じて配る。大汗の財政も公開する」

 

今度は全派閥がざわつく。

 

大汗の財政。

 

秘密。

 

贈り物。

 

賄賂。

 

公開を嫌う氏族長は多い。

 

「商人の女だ」

 

赤狼氏族長が吐き捨てる。

 

「商人は少なくとも、利子を数字で書きます」

 

サランが答える。

 

「氏族長は忠誠という名で、もっと高く取る」

 

最後はテムル。

 

若い戦士たちの歓声。

 

彼は演説ではなく、馬で中央へ入った。

 

本来は禁じられている。

 

大汗の椅子の周囲へ、候補は徒歩で入る。

 

だが規則破りそのものが、若者には魅力になる。

 

「兄は古い!」

 

テムルは叫んだ。

 

「叔父は南方の神へ膝をついた! 姉は銀貨を数えている!」

 

笑いと歓声。

 

「父は何をした! 敵を恐れず、西へ、南へ、北へ戦った! 我々は貧しくなったのではない。戦わなくなったから、戦利品が減った!」

 

単純。

 

危険。

 

それゆえ強い。

 

「大汗を選ぶのに帳簿はいらない! 馬へ乗れ! 最初に敵の王宮へ旗を立てた者が大汗だ!」

 

若い戦士たちが弓を掲げる。

 

テムルは候補者たちへ向けて四本の矢を取り出した。

 

一本目を折る。

 

二本目。

 

三本目。

 

四本目。

 

すべて一本ずつ。

 

「四本を束ねれば折れないと父は言った!」

 

矢をまとめる。

 

膝へ当てる。

 

折れない。

 

歓声。

 

「だが束ねた矢は射られない!」

 

彼は束をほどき、四本を同時に弓へつがえようとした。

 

無理がある。

 

それでも一本だけを選び、空へ射る。

 

「飛ぶ矢は一本だ!」

 

若者たちが叫ぶ。

 

「テムル!」

 

「テムル・カガン!」

 

まだ選ばれていない。

 

それでも汗の称号。

 

白鹿氏族の巫者が前へ出る。

 

「天穹は、父の最後の息を受けた子を選んだ!」

 

テムルが父の臨終に立ち会ったという主張。

 

バトゥルの顔が変わる。

 

「父上の最後の言葉は」

 

テムルが言う。

 

「西へ進め、だった」

 

氏族長たちがざわめく。

 

煙が西へ流れた。

 

遺言も西。

 

一致。

 

「嘘だ」

 

バトゥルが言った。

 

「兄上はその場にいなかった」

 

「医師と宰相は」

 

「医師は死んだ。宰相は、遺言はないと言った」

 

老宰相へ視線が集まる。

 

老人の顔が青ざめる。

 

「私は、聞いておりません」

 

「父上と二人だった時間がある」

 

テムルが言う。

 

「そのときだ」

 

証明できない。

 

否定もできない。

 

「西へ進めとは、どこへ」

 

アルスランが尋ねる。

 

「ヴェリグラード」

 

テムルは答えた。

 

「朝貢を減らし、大汗の死を喜んでいる。イリヤ公は弱い。諸公は争っている。今攻めれば、銀と小麦を取れる」

 

西への戦争。

 

氏族をまとめる。

 

戦利品。

 

飢饉対策。

 

若者の支持。

 

合理的な部分がある。

 

だからこそ危険だった。

 

サランが立つ。

 

「ヴェリグラードへ侵攻すれば、交易路が止まる」

 

「奪えばよい」

 

「小麦畑を焼いて、何を食べるの」

 

「焼かなければよい」

 

「彼らが自分で焼く。過去の戦争でも」

 

「なら、もっと奥へ行く」

 

「どこまで?」

 

「海までだ!」

 

歓声。

 

夢は距離を知らない。

 

大クリルタイは初日から割れた。

 

四人の演説。

 

氏族の交渉。

 

贈り物。

 

婚姻提案。

 

軍馬。

 

銀貨。

 

誰も過半の支持を得ない。

 

日没前、白鹿氏族の斥候が駆け込んだ。

 

「馬が見つかりました!」

 

テムルが立ち上がる。

 

「どこで」

 

「青隼の旧領! 死者に青隼の印!」

 

群衆が爆発する。

 

「反乱だ!」

 

「バトゥルの人質部族だ!」

 

「兄上が馬を盗ませた!」

 

テムルが叫ぶ。

 

バトゥル派が武器へ手を伸ばす。

 

「嘘だ!」

 

「なら、なぜオルジェイを先に送った!」

 

「犯人を調べるためだ!」

 

「証拠を消すためだ!」

 

氏族長の護衛が前へ出る。

 

弓。

 

剣。

 

わずかな動きで戦闘になる。

 

サランが中央へ走った。

 

「止まりなさい!」

 

聞こえない。

 

アルスランが自分の兵へ盾を下げさせる。

 

「最初に矢を放った者を、私が殺す!」

 

その声は戦士へ届いた。

 

一瞬の停止。

 

老宰相が杖を地面へ叩く。

 

「葬送地で血を流すな!」

 

白鹿氏族長がテムルへ言う。

 

「報復を!」

 

「青隼を討つ!」

 

若い戦士が叫ぶ。

 

バトゥルが馬へ乗る。

 

「私が調べる」

 

「犯人が自分を調べるか!」

 

テムルが剣を抜く。

 

バトゥルの護衛も。

 

四本の矢が、互いへ向いた。

 

そのとき、遠くから角笛が鳴った。

 

三度。

 

赤狼氏族の合図。

 

東の丘に騎馬の列。

 

二十四頭の馬。

 

捕虜。

 

死体。

 

先頭は、オルジェイの部下だった。

 

「馬を確保!」

 

伝令が叫ぶ。

 

「青隼の仕業ではありません!」

 

群衆が揺れる。

 

「死体は白鹿氏族の兵!」

 

「青隼の印は偽物!」

 

白鹿氏族長が死体へ駆け寄る。

 

刺青を確認。

 

顔。

 

「ドルゲン」

 

甥の名を呼ぶ。

 

怒りが別の形へ変わる。

 

「誰が殺した!」

 

「捕虜がいます!」

 

セレスタ人。

 

サルグァ人。

 

ヴェリグラード人。

 

混成。

 

複数陣営の偽の証拠。

 

テムルは剣を下げない。

 

「バトゥルが用意した芝居だ!」

 

「では捕虜を、四陣営で尋問すればよい」

 

サランが言う。

 

「帳簿も書状も、全員の前で確認する」

 

「姉上の書記が数字を変える」

 

「叔父上の書記も、兄上の書記も、あなたの巫者も立ち会わせる」

 

テムルは答えられない。

 

バトゥルが弟を見る。

 

「剣を収めろ」

 

「命令するな」

 

「大汗候補としてではない。兄として言う」

 

「兄なら、父上の遺言を認めろ」

 

「嘘を認める兄はいない」

 

再び緊張。

 

アルスランが間へ立つ。

 

「今日は終わりだ」

 

「誰が決める」

 

テムルが言う。

 

「私だ」

 

叔父の声には、戦場を率いた者の重さがあった。

 

「異論があるなら、まず私を斬れ」

 

テムルは叔父を見た。

 

剣を下げる。

 

完全に従ったわけではない。

 

いま斬るには、アルスランの支持が大きすぎる。

 

大クリルタイ初日は、汗を選ばず終わった。

 

だが血も流れなかった。

 

少なくとも、その場では。

 

---

 

## 七

 

オルジェイたちは、青隼の旧領へ入った。

 

故郷。

 

記憶より狭かった。

 

幼い頃は果てしなく見えた谷。

 

川。

 

白い岩。

 

春に青い花が咲く斜面。

 

天幕は残っている。

 

だが数は少ない。

 

サルグァへ従属した後、青隼氏族の多くは別の土地へ移された。

 

残った者は家畜を減らされ、毎年人質を出している。

 

谷の入口で、弓を持つ騎兵に囲まれた。

 

十騎。

 

二十。

 

岩陰からさらに。

 

「名を」

 

老いた男が前へ出る。

 

オルジェイは知っている。

 

母の兄。

 

叔父のサグル。

 

二十年前より小さく見える。

 

白髪。

 

左目を失っている。

 

「オルジェイ」

 

「その名はサルグァがつけた」

 

叔父の声は冷たい。

 

「生まれたときの名は」

 

「エルケ」

 

忘れていない。

 

口にしたのは二十年ぶり。

 

胸の奥で、何かが割れた。

 

「サルグァの犬が、何をしに来た」

 

「書状を運ぶ六頭を追っている」

 

「我々に罪を着せる書状か」

 

「知っているのか」

 

叔父が笑う。

 

「昨日、灰色の外套の男が来た」

 

「何を」

 

「バトゥルが大汗になれば、青隼の男を全員西の戦争へ送り、女と子供を別氏族へ分けると」

 

「嘘だ」

 

「お前はバトゥルの心を知るのか」

 

「そのような命令はない」

 

「今は」

 

叔父は一枚の書状を投げる。

 

バトゥルの印。

 

青隼氏族の移住命令。

 

馬五百頭を供出。

 

若者百人を軍へ。

 

拒否すれば反乱として討伐。

 

偽造。

 

おそらく。

 

だが印は精巧。

 

「誰から」

 

「灰色の男」

 

「どこへ」

 

「北へ」

 

「六頭と一緒か」

 

「別れた」

 

「書状を受け取っただけ?」

 

「銀も」

 

叔父は隠さない。

 

「反乱のため?」

 

アラタイが怒る。

 

青隼の騎兵が弓を構える。

 

オルジェイが手を上げる。

 

「叔父上。何を約束した」

 

「バトゥルが死ねば、青隼へ土地を返す」

 

「誰が」

 

「テムル」

 

「本人に会った?」

 

「使者が」

 

「印は」

 

「ある」

 

別の偽造。

 

灰色の男は、青隼へバトゥルへの恐怖を与え、テムルの名で反乱を約束した。

 

青隼が動けば、バトゥルはテムルを疑う。

 

テムルは青隼討伐を掲げ、バトゥルの支配地へ入る。

 

氏族戦争。

 

「六頭の書状はヴェリグラードへ向かっている」

 

オルジェイが言う。

 

「サルグァの印で諸公を煽る。西でも戦争を起こす」

 

「我々に関係ない」

 

叔父が答える。

 

「サルグァが内戦になれば、青隼は自由になる」

 

「周囲の氏族が先に略奪へ来る」

 

「戦う」

 

「女と子供は」

 

「自由には血が必要だ」

 

「誰の血だ」

 

叔父の顔が強張る。

 

「お前は、我々の血を忘れた」

 

「忘れていない」

 

「ならサルグァの男を殺せ」

 

叔父はアラタイを指す。

 

「ここで殺せば、お前をエルケとして迎える」

 

アラタイは剣へ手を伸ばさない。

 

オルジェイを見る。

 

判断を任せている。

 

幼い頃からの仲間。

 

故郷を滅ぼした側の男。

 

叔父。

 

同胞。

 

二つの忠誠。

 

選べと言われる日が来た。

 

「殺さない」

 

オルジェイは答えた。

 

青隼の騎兵がざわめく。

 

叔父の目に失望。

 

「なら、やはり犬だ」

 

「アラタイを殺しても、父は戻らない」

 

「父を殺した氏族の男だ」

 

「こいつは当時七歳だった」

 

「サルグァの血だ」

 

「血で罪が伝わるなら、青隼も過去に殺したすべての氏族から討たれる」

 

「理屈を覚えたな」

 

「生きるために」

 

オルジェイは鳥羽飾りを首から外した。

 

叔父へ見せる。

 

「捨てていない」

 

「なら、こちらへ来い」

 

「サルグァへ戻る」

 

「なぜ」

 

「青隼を守るため」

 

叔父が笑う。

 

「我々を支配する汗国を?」

 

「汗国が崩れれば、最初に小さな氏族が食われる」

 

「奴隷のまま生きろと」

 

「違う。大クリルタイへ証拠を持って行く。青隼への命令が偽造だと認めさせる。移住と供出を停止させる」

 

「バトゥルに頼む?」

 

「四人全員の前で」

 

「信じると思うか」

 

「信じさせる」

 

「できなければ」

 

「戻る」

 

「いつ」

 

「三日」

 

「遅れたら、我々は動く」

 

「誰を攻める」

 

叔父は答えない。

 

すでに計画がある。

 

バトゥル派の放牧地。

 

あるいは白鹿。

 

灰色の男が選んだ標的。

 

「六頭の道を教えてください」

 

叔父はしばらく黙った。

 

「北の岩道。夜明けに出た」

 

「間に合う」

 

「一頭は脚を傷めていた」

 

「右後脚?」

 

「そうだ」

 

オルジェイはアラタイを見る。

 

追跡していた重い蹄跡。

 

「叔父上」

 

出発前に呼ぶ。

 

「灰色の男の顔は」

 

「見ていない」

 

「声」

 

「南方語を話した。だが草原の訛りがあった」

 

「何を持っていた」

 

「灰色の帳面」

 

やはり。

 

「名は」

 

「《四矢の友》と」

 

四本の矢。

 

父の教え。

 

候補者四人。

 

その名を使う者が、四人を争わせている。

 

オルジェイは馬へ乗った。

 

「三日です」

 

叔父が言う。

 

「三日で何が変わる」

 

「分かりません」

 

「なら、なぜ待つ」

 

「私が戻るからです」

 

叔父は何も答えなかった。

 

信じてはいない。

 

だが三日を与えた。

 

完全な信用ではない。

 

血縁の残り。

 

あるいは、反乱準備に必要な時間と同じだけだっただけかもしれない。

 

---

 

## 八

 

六頭の馬は、ヴェリグラード国境から半日の場所で見つかった。

 

正確には、五頭。

 

一頭は倒れ、喉を切られていた。

 

右後脚を傷めた馬。

 

荷物はほかへ移されている。

 

足跡は雪解け川を渡っている。

 

対岸はヴェリグラード領。

 

国境標はない。

 

草原と森林が混じる土地。

 

どちらの王も完全には支配していない。

 

「越えるか」

 

アラタイが尋ねる。

 

「書状を止める」

 

「国境侵犯だ」

 

「書状が届けば戦争になる」

 

「捕まれば」

 

「サルグァの間者として処刑」

 

「それでも?」

 

オルジェイは川へ馬を入れた。

 

水は冷たい。

 

腹まで。

 

流れが強い。

 

対岸へ上がる。

 

足跡。

 

五頭。

 

乗り手は三人。

 

荷物。

 

さらに進む。

 

森の中で、煙。

 

小さな修道院跡。

 

廃墟。

 

馬がつながれている。

 

オルジェイたちは囲む。

 

中から話し声。

 

ヴェリグラード語。

 

「イリヤ公が死ねば、北部諸公は立つ」

 

「書状だけで?」

 

「大汗印がある。サルグァの侵攻計画も」

 

「本物か」

 

「誰が確かめる。皆が信じたい」

 

扉を蹴破る。

 

三人。

 

一人はヴェリグラード人。

 

一人はサルグァ人。

 

最後は灰色の外套。

 

顔を布で隠す。

 

男が書状を火へ投げる。

 

オルジェイが飛び込む。

 

火から羊皮紙を掴む。

 

端が燃える。

 

アラタイがヴェリグラード人と組み合う。

 

残る騎兵がサルグァ人を押さえる。

 

灰色の男は窓から逃げた。

 

オルジェイが追う。

 

森。

 

男は馬へ乗る。

 

オルジェイも。

 

枝が顔へ当たる。

 

距離は近い。

 

男の乗り方は草原式。

 

膝。

 

手綱を緩く持つ。

 

サルグァで訓練された。

 

オルジェイは弓を取る。

 

生け捕り。

 

馬の脚を狙う。

 

矢。

 

後脚へ刺さる。

 

馬が倒れる。

 

男が投げ出される。

 

すぐ起き、短剣を抜く。

 

オルジェイは馬から降りる。

 

「顔を見せろ」

 

男は答えない。

 

斬りかかる。

 

速い。

 

軍人。

 

オルジェイが受ける。

 

短剣と曲刀。

 

男は左利き。

 

紙片の不自然な文字。

 

左手で書いたのではない。

 

本当に左利きだったのか。

 

それとも、右利きに見せるため。

 

斬撃。

 

オルジェイの肩を浅く切る。

 

男は倒木を越え、森の奥へ。

 

オルジェイが追う。

 

男が突然止まり、何かを投げる。

 

灰。

 

目に入る。

 

視界が白くなる。

 

男の足音。

 

オルジェイは耳で方向を読む。

 

左。

 

剣を振る。

 

手応え。

 

呻き。

 

視界が戻る。

 

男の脇腹が切れている。

 

だが倒れない。

 

「誰に仕えている」

 

オルジェイが尋ねる。

 

「お前と同じだ」

 

初めて声。

 

草原語。

 

「誰にも仕えていない」

 

「なら、なぜ」

 

「国は嘘をつく。氏族も。汗も」

 

「お前たちは違うと?」

 

「我々は、嘘に価格をつける」

 

「戦争を売るのか」

 

「戦争は、我々がいなくても起きる」

 

「だから少し早める?」

 

「早く始まれば、早く終わることもある」

 

「死ぬ者へ言え」

 

「死ぬ者は客ではない」

 

男は笑った。

 

顔布の下。

 

「四本の矢を争わせて、誰を勝たせる」

 

「最も高く払う者」

 

「四人全員へ金を出した」

 

「保険だ」

 

「灰の鍵とは」

 

男の目が動く。

 

知っている。

 

「どこで聞いた」

 

「答えろ」

 

「鍵を持つ者は、扉を選べる」

 

「何の扉だ」

 

「戦争の」

 

男が懐へ手を入れる。

 

オルジェイは短剣を取ると思った。

 

違った。

 

小さな壺。

 

地面へ叩く。

 

油。

 

火打石。

 

自分を燃やすつもりだ。

 

オルジェイが飛びかかる。

 

手首を蹴る。

 

火打石が落ちる。

 

男が舌を噛もうとする。

 

顎を掴む。

 

「生きろ」

 

「なぜ」

 

「話すためだ」

 

「話せば殺される」

 

「黙っても殺す」

 

「なら同じだ」

 

「違う。話せば、誰かが助かる」

 

男が笑う。

 

「誰かを助けたいなら、汗国を捨てろ」

 

「なぜ」

 

「四人の誰が勝っても、西へ行く」

 

「誰が決めた」

 

「飢えだ」

 

男はオルジェイの腕へ噛みついた。

 

一瞬の隙。

 

短剣。

 

自分の胸へ。

 

オルジェイが手を伸ばす。

 

遅い。

 

刃が心臓へ入る。

 

男は倒れた。

 

死ぬ直前、声。

 

「灰冠は……一つではない」

 

それだけ。

 

オルジェイは男の懐を調べた。

 

灰色の帳面。

 

小さい。

 

頁の多くは暗号。

 

一頁だけ、草原語。

 

《四矢計画》

 

《第一段階――継承候補への資金分配》

 

《第二段階――従属氏族と主要氏族の衝突》

 

《第三段階――ヴェリグラード朝貢停止》

 

《第四段階――西征》

 

最後。

 

《目的――北方穀物路の遮断および蒼環海価格調整》

 

汗国の王位争い。

 

氏族の誇り。

 

父の遺言。

 

宗教。

 

自由。

 

すべてが、小麦価格を動かすための手順として書かれている。

 

オルジェイは吐き気を覚えた。

 

草原の戦士たちは、自分たちの誇りで戦うと信じる。

 

実際には、遠い市場の価格を上げるため、矢を射たせようとする者がいる。

 

だが帳面は、すべてを説明していない。

 

計画があるから戦争が起こるのではない。

 

すでにある対立へ、銀と偽の証拠を加えただけ。

 

火のない場所に火をつけたのではない。

 

乾いた草へ、小さな火種を置いた。

 

「書状は」

 

アラタイが追いつく。

 

オルジェイは焦げた羊皮紙を見せる。

 

バトゥルの印。

 

ヴェリグラード侵攻計画。

 

兵力配置。

 

氏族名。

 

内容の半分は本物に近い。

 

サルグァ軍の情報を知る者が作った。

 

「これは大クリルタイへ」

 

アラタイが言う。

 

「四人全員に見せる」

 

「バトゥル殿の印がある」

 

「偽造だ」

 

「証明できるか」

 

「帳面がある」

 

「帳面も、誰かが用意した偽物と疑われる」

 

正しい。

 

証拠が多いほど、偽装と思われることもある。

 

「それでも持ち帰る」

 

オルジェイは言った。

 

「叔父へ三日と約束した」

 

「間に合うか」

 

「馬を替える」

 

「眠らず?」

 

「戦争が始まれば、もっと眠れない」

 

---

 

## 九

 

大クリルタイ二日目の夜、最初の血が流れた。

 

白鹿氏族の若者五人が、赤狼氏族の天幕へ入り、馬盗難への関与を認めろと迫った。

 

酒が入っていた。

 

赤狼側も。

 

言葉。

 

侮辱。

 

拳。

 

短剣。

 

白鹿の若者一人が腹を刺され、死亡。

 

赤狼の男二人が負傷。

 

両氏族は武装した。

 

バトゥルとテムルの使者が止める。

 

だが、それぞれが自派を守るために兵を出したため、さらに相手を刺激した。

 

夜明け前。

 

赤狼の馬群から二十頭が消えた。

 

白鹿の報復と見られた。

 

実際に誰が盗んだかは分からない。

 

最初の三十頭は陰謀。

 

次の二十頭は、本当の報復かもしれない。

 

誰かが始めた偽の争いが、本物へ変わり始めていた。

 

三日目の朝。

 

テムルは北方氏族を集め、大汗の椅子を別の丘へ移そうとした。

 

「父の遺言に従い、西征を決める新たなクリルタイを開く」

 

実質的な分裂。

 

バトゥル派が止める。

 

サランは双方の天幕を行き来する。

 

アルスランは軍を中央へ置き、衝突を防ぐ。

 

だが均衡は崩れかけている。

 

「テムルを拘束すべきだ」

 

バトゥルの天幕で、赤狼氏族長が言った。

 

「今ならできる」

 

「捕らえれば白鹿が立つ」

 

バトゥルが答える。

 

「立つ前に族長も」

 

「父の葬送地で氏族長を殺すか」

 

「大汗になるためだ」

 

「私は氏族を半分殺して汗になるつもりはない」

 

「半分殺さなければ、残る半分に殺されます」

 

バトゥルは男を睨んだ。

 

「お前の甥が白鹿の若者を刺した」

 

「正当防衛です」

 

「酒宴へ武器を持ち込んだ」

 

「白鹿も」

 

「甥を引き渡せ」

 

氏族長の顔が変わる。

 

「我が氏族の者を、白鹿へ?」

 

「四陣営の裁きへ」

 

「我々を裏切るのか」

 

「法を守る」

 

「大汗は味方を守る!」

 

「大汗は、味方が間違えたとき止める」

 

サランと似た言葉。

 

父から学んだのかもしれない。

 

氏族長は怒りを隠さず退出した。

 

「離反します」

 

アラタイの父である老将が言う。

 

「させろ」

 

「赤狼なしで兄上は大汗になれない」

 

「甥一人を庇うため、汗国を割る氏族なら、いずれ離反する」

 

「正しい判断です」

 

老将が言う。

 

「だが、正しい判断で負けることもあります」

 

バトゥルは疲れた顔で椅子へ座った。

 

「サランはどこだ」

 

「テムルの天幕」

 

「アルスラン叔父は」

 

「中央軍」

 

「オルジェイは」

 

「まだ戻りません」

 

「死んだか」

 

「分かりません」

 

バトゥルは父の金の弓を見る。

 

葬送火から回収された。

 

熱で少し歪んでいる。

 

大汗の象徴。

 

使える武器ではない。

 

王権の多くは、実際には使えない道具なのかもしれない。

 

見る者へ意味を与えるためだけにある。

 

「父上なら」

 

バトゥルが呟く。

 

「どうしたでしょう」

 

老将は答えた。

 

「勝ったあと、自分の判断が正しかったと言うでしょう」

 

バトゥルは苦笑した。

 

父も迷った。

 

だが勝者の迷いは、年代記から消える。

 

残るのは決断だけ。

 

「テムルの天幕へ行く」

 

「危険です」

 

「護衛十人」

 

「捕らえられます」

 

「弟が兄を人質にすれば、もう汗にはなれない」

 

「殺すかもしれない」

 

「そのとき、私には関係ない」

 

「我々にはあります」

 

バトゥルは立つ。

 

「だから止めろ」

 

---

 

## 十

 

テムルの天幕では、サランが弟へ一枚の契約書を見せていた。

 

「何だ、これは」

 

「あなたの若者団へ銀貨を出した商会」

 

「寄進だ」

 

「利子がある寄進?」

 

テムルは文字を読むのが得意ではない。

 

書記に読ませる。

 

隊商税の一部。

 

西征時の戦利品優先購入権。

 

捕虜取引権。

 

「側近が勝手に」

 

「皆そう言う」

 

「姉上も銀行から借りている」

 

「だから契約を公開している」

 

「都市を守るためだろう。私も戦士を養うためだ」

 

「なら、なぜ出所を隠した」

 

「商人の名前などどうでもいい」

 

「商人はあなたの名前を必要としている」

 

テムルは契約書を投げた。

 

「戦争に勝てば払える」

 

「戦争を始めさせるために貸した金だとしたら」

 

「勝てば同じだ」

 

「違う!」

 

サランの声が強くなる。

 

「自分で選んだ戦争と、誰かに選ばされた戦争は違う」

 

「父上は西へ行けと言った」

 

「本当に?」

 

テムルが立ち上がる。

 

「姉上まで疑うのか」

 

「誰も聞いていない」

 

「父上は私を信じた」

 

「だから後継者の指名を、二人きりのときに?」

 

弟の顔に傷ついた表情。

 

一瞬だけ。

 

すぐ怒りへ変える。

 

「父上は兄上を見限っていた」

 

「なら、なぜ氏族長の前で言わなかった」

 

「時間がなかった」

 

「医師が死んだあと、父上の薬を誰が」

 

テムルの動きが止まる。

 

「母上の侍医だ」

 

「どこにいる」

 

「北へ帰った」

 

「いつ」

 

「父上が死んだ翌日」

 

サランは知らなかった。

 

「名前は」

 

「オチル」

 

「白鹿氏族?」

 

「そうだ」

 

「呼び戻して」

 

「なぜ」

 

「父上の死因を確認する」

 

テムルが短剣へ手を置く。

 

「姉上は、母上が父上を殺したと言うのか」

 

「誰も殺したとは言っていない」

 

「同じだ!」

 

外で騒ぎ。

 

バトゥルが来た。

 

護衛十人。

 

テムルの兵が囲む。

 

「兄上を入れて」

 

サランが命じる。

 

「ここは私の天幕だ」

 

テムルが言う。

 

「なら、自分で命じて」

 

弟は不満そうに許可する。

 

バトゥルが入る。

 

兄弟姉妹三人。

 

幼い頃、同じ天幕で眠った。

 

吹雪の夜、父が遠征中で、サランが弟たちへ昔話を読んだ。

 

バトゥルが外の馬を確認し、テムルが怖くないふりをした。

 

その三人が、いま互いの護衛に囲まれている。

 

「赤狼の男を引き渡す」

 

バトゥルが言った。

 

「白鹿の若者を殺した者」

 

テムルが驚く。

 

「本当に?」

 

「四陣営で裁く」

 

「白鹿へ渡せ」

 

「私刑は認めない」

 

「甘い」

 

「白鹿の馬盗難も、青隼ではない」

 

「兄上の追跡隊の報告だ」

 

「捕虜を全員で尋問する」

 

サランが契約書を拾う。

 

「外から四陣営へ金が入っている」

 

バトゥルが妹を見る。

 

「証拠は」

 

「帳簿」

 

「私の陣営にも?」

 

「赤狼へ武器代」

 

兄は黙る。

 

「知っていた?」

 

「知らない」

 

「皆同じ」

 

テムルが笑う。

 

「姉上は、自分だけ賢いと思っている」

 

「私も借りている」

 

「なら全員だ」

 

「だから、全員が利用されている可能性を考えて」

 

外で角笛。

 

一度。

 

二度。

 

三度。

 

アラタイの合図。

 

バトゥルが入口へ向かう。

 

伝令が飛び込む。

 

「オルジェイが戻りました!」

 

「生きているか」

 

「はい。書状と帳面を!」

 

三人は天幕を出た。

 

大クリルタイの中央へ。

 

雨と泥にまみれたオルジェイ。

 

肩に傷。

 

目の下に隈。

 

馬から降りると、膝が崩れかける。

 

それでも灰色の帳面を掲げた。

 

「四陣営の代表を」

 

彼は言った。

 

「全氏族の前で話します」

 

「ここで」

 

バトゥルが答える。

 

アルスランも来る。

 

テムル。

 

サラン。

 

老宰相。

 

氏族長たち。

 

オルジェイは帳面を開いた。

 

四矢計画。

 

資金分配。

 

氏族衝突。

 

ヴェリグラード朝貢停止。

 

西征。

 

北方穀物路遮断。

 

一行ずつ読む。

 

群衆の反応は、驚きだけではない。

 

怒り。

 

否定。

 

嘲笑。

 

「偽物だ!」

 

赤狼氏族長が叫ぶ。

 

「誰が用意した」

 

「灰色の外套の男」

 

「名は」

 

「不明」

 

「死んだのか」

 

「自害しました」

 

「都合がよい!」

 

テムルの側近が叫ぶ。

 

「バトゥル派の人質が、バトゥルに都合のよい帳面を!」

 

オルジェイはバトゥル印の偽造書状も出した。

 

「ヴェリグラードへ送られるところでした」

 

バトゥルが読む。

 

自軍の配置。

 

氏族名。

 

本物に近い。

 

「情報はどこから漏れた」

 

老将が問う。

 

「大汗の軍務帳簿へ触れられる者」

 

「誰だ」

 

候補者全員の側近。

 

宰相。

 

書記。

 

各氏族の軍務官。

 

多すぎる。

 

「青隼へも、偽の命令が届いた」

 

オルジェイが続ける。

 

「バトゥル殿の名で移住と供出。テムル殿の名で反乱支援」

 

青隼の使者が書状を示す。

 

テムルが印を見る。

 

「私の印だ」

 

「本物?」

 

サランが尋ねる。

 

弟は答えない。

 

印章は側近が管理している。

 

複製。

 

盗用。

 

正式文書に押した印を切り取り、別へ貼る方法もある。

 

「父上の死も計画に?」

 

テムルが尋ねる。

 

オルジェイは帳面をめくる。

 

記載はない。

 

だが最後の数頁が切り取られている。

 

「分かりません」

 

「なら、西へ進めという遺言は」

 

「私は聞いていません」

 

「お前に聞いていない!」

 

テムルが怒鳴る。

 

「弟よ」

 

アルスランが言う。

 

「遺言が真実でも、誰かが利用していることは変わらない」

 

「叔父上も私を疑う?」

 

「自分以外の全員を疑え。自分も含めて」

 

四人が帳面を囲む。

 

四本の矢。

 

計画の名。

 

自分たち自身が、他人の帳簿の項目になっている。

 

サランが言う。

 

「候補を一人に決める前に、四人の共同会議を作る」

 

バトゥルが反発する。

 

「大汗を空位のままに?」

 

「三十日」

 

「長すぎる」

 

「十日」

 

アルスランが言う。

 

「その間、すべての氏族は兵を元の牧地へ戻す。外征禁止。朝貢国への使者は四人の共同印」

 

テムルが首を振る。

 

「父上の遺言は」

 

「十日後に議論する」

 

「その間にヴェリグラードが備える」

 

「備えさせろ」

 

バトゥルが弟へ言う。

 

「西へ行くとしても、誰かの計画どおりには動かない」

 

テムルは兄を見る。

 

「西へ行く可能性を認める?」

 

「大汗が決める」

 

「誰が大汗か」

 

「十日後に決める」

 

サランが条件を加える。

 

「四陣営の帳簿と印章管理を共同監査。外部からの資金を申告。未申告の金は没収」

 

氏族長たちが大きく反発する。

 

「我々の財産だ!」

 

「商人の支配だ!」

 

「大汗候補への贈り物を調べるのか!」

 

「調べます」

 

サランが言う。

 

「嫌なら、その金を出した者のために戦ってください」

 

アルスランが続く。

 

「南方からの寄進も公開する」

 

自分の陣営を先に差し出す。

 

バトゥルも言う。

 

「赤狼の武器契約を出す」

 

視線がテムルへ。

 

弟は追い込まれる。

 

「若者団の贈与も」

 

しぶしぶ。

 

四人が自分たちの帳簿を開く。

 

氏族長も拒否しにくい。

 

老宰相が宣言する。

 

「十日の休戦」

 

一つずつ氏族長が同意する。

 

全員ではない。

 

赤狼の一部。

 

白鹿の強硬派。

 

北方の若者団。

 

不満。

 

それでも大半が。

 

大クリルタイは大汗を選ばなかった。

 

代わりに、四人による暫定会議を作った。

 

《四矢評議会》。

 

陰謀者が争わせるために使った名を、逆に共同統治の名へ変えた。

 

勝利ではない。

 

十日の猶予。

 

サン・ルシアンで戦争が保留されたように、草原でも保留された。

 

だが、すでに遅い場所があった。

 

ヴェリグラード諸公国へ、別の書状が届いていた。

 

オルジェイが止めたものとは異なる経路。

 

バトゥルの印。

 

西征計画。

 

イリヤ公がサルグァと密約したという証拠。

 

同じ夜、ヴェリグラード南部の公がイリヤ公の使者を拘束した。

 

朝貢停止を宣言。

 

国境砦のサルグァ徴税官を殺した。

 

四矢評議会が外征を禁じたその日に、国境ではすでにサルグァ人の血が流れていた。

 

戦争は、決定を待たない。

 

命令が届くより、噂の方が速い。

 

---

 

## 十一

 

四矢評議会の最初の会議は、大汗の空の椅子を囲んで行われた。

 

誰も座らない。

 

座れば、自分が大汗を僭称したと見られる。

 

四人は毛皮の敷物へ同じ高さで座った。

 

バトゥル。

 

サラン。

 

アルスラン。

 

テムル。

 

オルジェイは中央に立つ。

 

身分上は騎兵。

 

だが証拠を持ち帰ったため、発言を認められた。

 

「青隼の要求は」

 

サランが尋ねる。

 

「移住命令の撤回。馬供出の停止。人質の一部返還」

 

バトゥルが眉を寄せる。

 

「人質を返せば、反乱を防げない」

 

「偽の命令で反乱寸前です」

 

「だからこそ、忠誠を確認する必要がある」

 

「忠誠を示すために、家族を差し出せと?」

 

テムルが言う。

 

「兄上は青隼を信用しない。なのに、自分の印の偽造を調べさせた」

 

「オルジェイを信用した」

 

「一人だけ」

 

アルスランが手を上げる。

 

「半分返す」

 

「中途半端です」

 

サランが言う。

 

「だからよい」

 

叔父は答える。

 

「完全に返せば、ほかの従属氏族も要求する。返さなければ青隼が反乱する。半分返し、残る半分を四人の共同保護下へ」

 

「人質であることは変わらない」

 

オルジェイが言う。

 

四人が彼を見る。

 

騎兵が王族へ反論。

 

だが今は必要な証人。

 

「では、代案を」

 

バトゥルが言った。

 

「青隼から兵を出す代わり、人質を全員返す」

 

「西征の兵?」

 

「国境警備」

 

「彼らを武装させるのか」

 

テムルが笑う。

 

「兄上らしくない」

 

「忠誠を証明する機会を与える」

 

「拒否すれば」

 

「人質は残す」

 

サランが考える。

 

「兵の指揮官は」

 

「オルジェイ」

 

本人が驚く。

 

「私が?」

 

「青隼とサルグァ、両方を知る」

 

「どちらからも信用されていません」

 

「だから四人全員の命令で動く」

 

アルスランが頷く。

 

「よい」

 

テムルは不満そう。

 

だが反対すれば、青隼へ約束したという偽書状を本物と疑われる。

 

「受ける」

 

オルジェイが言った。

 

「ただし、青隼軍を従属部族だけで構成しない。赤狼、白鹿、都市騎兵からも同数」

 

「互いに監視させる?」

 

サランが尋ねる。

 

「互いに守らせる」

 

同じ意味。

 

言葉が違う。

 

「誰から国境を守る」

 

テムルが言う。

 

その答えが届いたのは、直後だった。

 

伝令。

 

血まみれ。

 

馬から落ちる。

 

「ヴェリグラード……国境砦が」

 

「何があった」

 

バトゥルが立つ。

 

「朝貢拒否。徴税官十九名が殺害。砦を占領」

 

天幕が静まる。

 

「誰の公国」

 

アルスランが尋ねる。

 

「ドロゴミル公」

 

イリヤ公の敵対者。

 

西方派。

 

「イリヤ公は」

 

「サルグァとの密約を疑われ、都市へ軟禁」

 

オルジェイが歯を食いしばる。

 

書状が届いた。

 

止められなかった経路。

 

「軍を出す」

 

テムルが言う。

 

「休戦中です」

 

サランが答える。

 

「外征禁止」

 

「攻撃された!」

 

「国境防衛は外征ではない」

 

バトゥルが言う。

 

兄の目に、戦士の光。

 

父の長男。

 

ここで弱く見せれば、氏族が離れる。

 

「徴税官を殺した者を討つ」

 

「どの規模で」

 

アルスランが問う。

 

「一万騎」

 

「多すぎる」

 

サランが反対。

 

「砦奪還に一万?」

 

「見せる必要がある」

 

「誰に」

 

「ヴェリグラード全体へ」

 

「それが計画の第四段階です」

 

サランは灰色の帳面を叩く。

 

「西征」

 

「だから攻撃されても黙るのか」

 

テムルが叫ぶ。

 

「相手は、我々が計画どおり動くと読んでいる」

 

「読ませればよい。その上で勝つ」

 

「勝ったあと、小麦路は止まる」

 

「すでに止められた!」

 

兄弟の声が上がる。

 

アルスランが地図へ手を置く。

 

「三千騎」

 

「少ない」

 

バトゥルが言う。

 

「砦奪還のみ。川を越えない。イリヤ公へ使者。ドロゴミル公以外の諸公と交渉」

 

「指揮は」

 

「私が」

 

アルスラン。

 

戦歴。

 

ヴェリグラードの言葉も分かる。

 

だが彼が勝てば、大汗候補として支持が増す。

 

バトゥルもテムルも警戒する。

 

「四軍から七百五十ずつ」

 

サランが言う。

 

「共同軍。旗は大汗旗ではなく四矢旗」

 

「指揮命令が遅れる」

 

アルスランが反対。

 

「軍事指揮は叔父上。補給と交渉は私。バトゥル兄上とテムルは本営へ残り、氏族休戦を守る」

 

兄と弟が同時に不満。

 

だが二人を共に出せば、戦場で競争する。

 

一方だけなら、残った側が本営を奪うと疑う。

 

「オルジェイは」

 

バトゥルが尋ねる。

 

「青隼混成隊を率い、先行偵察」

 

サランが答える。

 

再び国境へ。

 

故郷と汗国の間。

 

「受けます」

 

オルジェイは言った。

 

選択肢はない。

 

あるいは、初めて自分で両方を選んだのかもしれない。

 

四矢評議会は、西方へ三千騎を送ると決めた。

 

侵攻ではない。

 

砦奪還。

 

報復ではない。

 

国境回復。

 

戦争ではない。

 

限定行動。

 

人は戦争を避けたいとき、別の名をつける。

 

だが、矢で射られる者にとって、名は関係ない。

 

---

 

## 十二

 

出陣前夜。

 

オルジェイは大汗の葬送地へ一人で行った。

 

火は消えている。

 

灰。

 

焦げた木。

 

溶けた金の跡。

 

父ではない。

 

だが、自分の人生を決めた男の死。

 

大汗トグリル。

 

征服者。

 

支配者。

 

教育者。

 

敵。

 

恩人。

 

一つの名で呼べない。

 

オルジェイは灰の前へ膝をついた。

 

祈らない。

 

天穹信仰の言葉も。

 

青隼の祖霊歌も。

 

何を言えばよいか分からない。

 

後ろで足音。

 

サラン。

 

「一人?」

 

「護衛は離れています」

 

「危険です」

 

「あなたが?」

 

「私を信用しているのですか」

 

「していない」

 

サランは隣へ座る。

 

「だから来た」

 

父の灰を見る。

 

「父上の死因を調べます」

 

「テムル殿の母方侍医」

 

「逃げた」

 

「どこへ」

 

「北方。ノルハイムへ向かう隊商に入ったらしい」

 

「追いますか」

 

「人を出した」

 

「灰色の帳面と関係が」

 

「分からない」

 

二人の前を風が通る。

 

灰が少し舞う。

 

「四本の矢」

 

オルジェイが言う。

 

「陰謀者は、なぜその名を使ったのでしょう」

 

「我々を知っているから」

 

「大汗の教えを」

 

「宮廷にいた者。あるいは、父上から直接聞いた者」

 

「内部に」

 

「一人ではないでしょう」

 

サランは帳面の写しを見せる。

 

「暗号の一部を解きました」

 

数字。

 

交易記号。

 

国名。

 

《紫帳》

 

《白冠》

 

《緑月》

 

《灰鍵》

 

《四矢》

 

オルシャの契約書と同じ記号。

 

二人はマリアムを知らない。

 

それでも同じ網へ触れている。

 

「紫帳はアウレリアの秘密財政組織だと、商人から報告があります」

 

サランが言う。

 

「白冠は聖座か、西方王国」

 

「緑月は」

 

「カディーラかナフル。あるいは南方全体を示す記号」

 

「灰鍵は」

 

「不明」

 

「四矢は我々」

 

「そうです」

 

各国の内部組織。

 

一つの巨大な組織なのか。

 

複数の組織をつなぐ市場なのか。

 

「戦争を市場としている」

 

オルジェイは灰色の男の言葉を伝えた。

 

「死ぬ者は客ではない」

 

サランは目を閉じる。

 

「商人らしい」

 

「商人だけではない」

 

「分かっています」

 

「兄上へすべて話しますか」

 

「四人へ話す」

 

「テムル殿は、自分の父の遺言を疑う話を受け入れない」

 

「受け入れさせる必要はない」

 

「では」

 

「知っているという事実を、ほかの三人にも知らせる。誰かが裏切れば、残りが分かる」

 

「信用ではなく監視」

 

「それでも、何もしないよりよい」

 

サランは立つ。

 

「父上は、四本を束ねれば折れないと言った」

 

「ですが束ねる手が」

 

「今は、互いの手を互いに縛る」

 

「動きにくい」

 

「好き勝手に動くよりは」

 

オルジェイも立った。

 

「明日、西へ」

 

「計画どおりに」

 

「違います」

 

「何が」

 

「相手は我々が十万騎で西へ行くことを望んだ。行くのは三千」

 

「それでも西へ射られる矢です」

 

オルジェイは答えられなかった。

 

計画を知っても、完全には避けられない。

 

敵が朝貢官を殺せば、応じる必要がある。

 

応じなければ弱さ。

 

応じれば計画。

 

相手は、どちらを選んでも利益を得る形を作る。

 

「第三の道を探します」

 

彼は言った。

 

「あると思う?」

 

「なければ作る」

 

「どうやって」

 

「分かりません」

 

サランがわずかに笑った。

 

「正直ですね」

 

「役人ではないので」

 

「役人も正直なときはあります」

 

「処刑される前だけ?」

 

「昇進させられる前も」

 

二人は葬送地を離れた。

 

父の灰は、風で少しずつ四方へ散っていく。

 

西へ流れる灰。

 

だが西だけではない。

 

北。

 

南。

 

東。

 

巫者は西へ向かったと叫んだ。

 

実際には、風は絶えず方向を変えていた。

 

人間は、自分が見たい瞬間だけを選び、それを神意と呼ぶ。

 

---

 

翌朝、四矢評議会の共同軍三千騎が西へ出発した。

 

旗には四本の矢。

 

一本ずつ異なる色。

 

赤はバトゥル。

 

青はサラン。

 

黒はアルスラン。

 

白はテムル。

 

四本を一つの輪が囲む。

 

団結の象徴。

 

同時に、互いを縛る印。

 

先頭はオルジェイの混成偵察隊。

 

青隼。

 

赤狼。

 

白鹿。

 

都市騎兵。

 

昨日まで互いを疑っていた者たち。

 

今日から、同じ敵を探す。

 

誰が本当の敵かは分からない。

 

ヴェリグラードの砦兵。

 

偽の書状を送った者。

 

灰色の帳面を持つ商人。

 

あるいは、隣を走る騎兵。

 

草原の蹄音は、遠くまで響いた。

 

大地が震える。

 

三千騎。

 

大軍ではない。

 

だが国境の村にとっては、空を覆うほどの数だった。

 

ヴェリグラード側の見張りは、土煙を見て鐘を鳴らした。

 

サルグァ軍来襲。

 

村人は家畜を森へ追い、井戸を埋め、穀物倉庫へ火を放つ準備をした。

 

軍が奪う前に、自分で焼く。

 

過去の戦争で学んだ方法。

 

サルグァ軍は小麦を確保するため進んでいる。

 

ヴェリグラードの農民は、奪われないため小麦を焼く。

 

どちらも合理的。

 

その結果、双方が飢える。

 

灰色の帳面に書かれた第四段階。

 

北方穀物路の遮断。

 

計画した者は、戦場へ来ない。

 

馬にも乗らない。

 

矢も射ない。

 

ただ遠い都市で、小麦の価格が上がるのを待つ。

 

同じ日。

 

セレスタ海洋都市同盟では、北方穀物先物の価格が一割上がった。

 

ヴァルネリアのサン・ルシアンでは、アルベリクがその報告を受け取った。

 

アウレリアでは、テオドラがナフル小麦船団の出港延期を知った。

 

ナフルでは、ナディアが北方輸入分を飢饉計画から削除した。

 

オルシャでは、マリアムが十三番目の鐘へ登り始めた。

 

彼らはまだ互いの名を知らない。

 

それでも、草原の三十頭の馬が、全員の食卓からパンを一切れずつ奪おうとしていた。

 

後世の年代記は、サルグァとヴェリグラードの戦争が、徴税官十九名の殺害によって始まったと記す。

 

別の年代記は、大汗の死が始まりだとする。

 

草原の歌は、テムルが父の遺言を受けた夜を始まりと歌う。

 

青隼氏族は、偽の移住命令が届いた日を忘れない。

 

だがオルジェイは、その後も生涯、三十頭の馬を思い出した。

 

少なすぎる馬。

 

利益のためではなく、誇りを傷つけるために盗まれた馬。

 

世界を戦争へ動かすには、十万の軍勢は必要ない。

 

三十頭の馬。

 

二人の死者。

 

一枚の偽造書状。

 

そして、自分が侮辱されたと信じる人間がいればよい。

 

四本の矢は、まだ束ねられている。

 

だが、その一本一本には、すでに別の方向へ引く糸が結ばれていた。

 

誰かが遠くから糸を引いている。

 

強く。

 

ゆっくりと。

 

矢が折れるまで。

 

あるいは、世界の心臓へ放たれるまで。

 

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