第九章 閉ざされた軍務局
王国の扉には、二種類ある。
外敵を防ぐための扉。
そして、味方を締め出すための扉。
灰暦八百七十二年、夏の第二日。
ヴァルネリア王都の王立軍務局は、後者の扉を閉ざした。
正面の青銅門には横木が渡され、狭間には弩兵が立った。
軍務局前広場へ通じる三本の通りは、軍務卿直属の兵によって封鎖された。
屋上には青地に銀剣の軍務旗。
その下に、国王アドリアン二世の青百合旗も掲げられている。
反乱者は、王の旗を下ろさなかった。
むしろ、王への忠誠を主張するために掲げた。
門の外へ貼り出された布告には、こう記されていた。
《軍務局は国王陛下と王国統一法への忠誠を保持する》
《サン・ルシアン協約に基づく監査命令は、反乱諸侯および外国金融勢力の干渉を受けて成立した疑いがある》
《真正なる王命が確認されるまで、軍事機密の引き渡しを拒否する》
《軍務局へ武力を用いる者こそ、王国への反逆者である》
王命に従わないために、王へ忠誠を誓う。
矛盾しているように見える。
だが軍務卿シャルル・ド・モントレーにとっては、矛盾ではなかった。
王が誤った命令を出したなら、その命令を拒むことこそ王を守る。
王が敵に欺かれているなら、敵から王権を守る者が真の臣下。
王国を守るためなら、王本人へ逆らうことも忠誠に含まれる。
危険な理屈だった。
同時に、王国の歴史を作ってきた理屈でもあった。
---
## 一
アルベリク・フォン・ライナーは、軍務局正面広場の中央で馬を止めた。
王国親衛軍百二十。
王都民兵二百。
都市職人組合の監査人三十。
軍務局を包囲するには少ない。
交渉へ来た人数としては多すぎる。
門の上から弩が向けられている。
アルベリクは兜を脱いだ。
敵意がないことを示すためではない。
狙撃手に顔を見せるためだった。
軍務局の兵の多くは彼を知っている。
東部方面軍作戦参謀。
ライナー辺境伯の息子。
サン・ルシアンで公爵夫人を救った男。
命令を拒んだ男。
見る者によって、忠臣にも裏切り者にもなる。
「軍務卿へ伝えろ!」
アルベリクが叫ぶ。
「国王陛下の監査令を持参した!」
門上の士官が答えた。
「署名は真正か!」
「陛下が御前で署名された!」
「証人は!」
「国王書記局長、財務卿、三身会議代表七名!」
「反乱諸侯の証人は認めない!」
「王の署名より証人を選ぶのか!」
返答が途切れた。
軍務局側も、自分たちの論理がどこへ向かうか理解している。
王命が真正であるかを臣下が審査する。
それを許せば、すべての命令が拒否できる。
だが一度門を閉じた以上、簡単には開けられない。
開けば、自分たちが反乱したと認めることになる。
「参謀殿」
隣でマティアス・コルヴァンが言った。
職人組合の上着。
武器は持っていない。
代わりに帳簿鞄。
「門の兵、昨日より増えています」
「分かるのか」
「炊事煙が三本増えた」
軍務局の中庭。
煙突。
兵が泊まり込んでいる。
「外から入った?」
「夜中に裏門から荷車が七台」
「穀物か」
「五台は車輪の沈み方が重かった。二台は軽い」
「重い方は食糧。軽い方は人か、武器」
「逆かもしれません」
マティアスは門を見る。
「空の荷車を重く見せることもできます」
アルベリクは彼を見た。
「軍人になれます」
「嫌です」
「即答ですね」
「軍人は、分からないことを命令で埋める」
「職人は?」
「測り直す」
「戦場では測り直している間に死にます」
「だから嫌です」
広場の左右。
王都民が遠巻きに見ている。
商人。
職人。
下働き。
兵士の家族。
軍務局の中に夫や息子がいる者も多い。
王国軍同士が戦えば、王都は内戦の最初の戦場になる。
窓は閉められ、露店は消えた。
だが人々は去らない。
何が起きるか見届けたい。
あるいは、どちらが勝つか見てから味方を決めたい。
「アルベリク!」
門上に軍務卿シャルルが現れた。
兜なし。
黒い軍衣。
肩には王国軍総監の銀鎖。
「一人で入れ!」
「監査人も」
「一人だ!」
「人質にするつもりですか」
「お前一人を人質にして、何になる」
「父の城へ送れば役に立つかもしれません」
軍務卿の口元が動く。
笑いではない。
「相変わらず、口だけは動く」
「門を閉ざすよりは」
広場の兵士がざわめく。
アルベリクは親衛隊長へ命じた。
「私が戻るまで、攻撃するな」
「戻られなければ」
「攻撃するな」
「参謀殿」
「軍務卿が私を殺せば、攻撃を待っているということです」
「では、なおさら」
「待っている相手へ、望んだものを与えるな」
マティアスが言った。
「私も行きます」
「一人と」
「私は軍人ではありません」
「詭弁です」
「軍務卿が軍事機密を理由に監査を拒むなら、何が機密で何が会計かを分ける者が必要です」
「殺されます」
「門の外でも戦闘になれば同じです」
アルベリクは考えた。
マティアスは必要。
同時に、王都職人組合の代表を危険へ入れることになる。
本人が選んだ。
それでも命令するのはアルベリク。
「私の後ろから離れないでください」
「盾にする?」
「軍人は防具が厚い」
「私は帳簿が厚い」
二人は門へ進んだ。
小扉が開く。
武器を預ける。
アルベリクは剣。
短剣。
隠し針。
すべて。
マティアスは帳簿鞄を調べられた。
「筆も武器になります」
軍務局兵が言う。
「帳簿へ嘘を書くなら」
マティアスが答える。
「筆を預けろ」
「帳簿を見るのに必要です」
「記憶しろ」
「軍務局は記憶で会計しているのか」
兵士の顔が赤くなる。
アルベリクが止める。
「筆は一本だけ」
軍務局側は、しぶしぶ認めた。
小扉が閉じる。
外から味方が見えなくなる。
味方。
その言葉が、もう不確かだった。
---
## 二
軍務局の内部は、通常どおりに動いていた。
書記が書類を運ぶ。
伝令が走る。
地図室では軍官が駒を動かす。
厨房から煮豆の臭い。
兵舎では武具の手入れ。
門を閉ざした組織ほど、内部では日常を保とうとする。
日常が続いていれば、自分たちは反乱者ではなく、正規の役所だと思える。
廊下の壁には、歴代国王の肖像。
アドリアン二世の肖像もある。
若い王。
戴冠式。
青百合の王冠。
その下を、王命へ従わない兵士が歩く。
「兵は何人です」
マティアスが小声で尋ねる。
「見える範囲で四百」
「昨日の常駐は」
「二百五十」
「増援百五十」
「少なくとも」
「裏門から入った二台が人なら」
「もっと多い」
二人は最上階の軍務卿室へ通された。
シャルル・ド・モントレーは机の前に立っていた。
周囲に副官三人。
地図局長。
軍需局長。
王国情報局次長。
全員、アルベリクが知る顔。
反乱者の顔ではない。
何年も同じ軍で働いた者たち。
命令書へ署名し、戦死報告を読み、補給不足を議論した人々。
「職人を連れてくるとは」
軍務卿がマティアスを見る。
「王都職人組合監査人です」
「王国軍の機密へ、毛織物屋を?」
「私は時計職人です」
マティアスが答える。
「似たようなものだ」
「軍務局の時計は遅れているようです」
「何が」
「王命に」
副官が前へ出かける。
シャルルが手で止めた。
「座れ」
椅子は二つ。
アルベリクとマティアス。
軍務卿は座らない。
上下関係を示す配置。
二人も座らなかった。
「交渉に来たのではないのか」
「監査令の執行です」
アルベリクが答える。
「命令書を」
渡す。
軍務卿は読み、王の署名を指でなぞった。
「本物に見える」
「本物です」
「見えると言った」
「陛下の御前で」
「王は一人だったか」
「何を疑っているのです」
「脅迫」
「誰が」
「公爵夫人。都市代表。灰冠会議。あるいは、そのすべて」
「陛下はサン・ルシアン協約を自ら提案した」
「王は暗殺未遂の直後だった。姉を失う恐怖。群衆。小麦不足。正常な判断ではない」
アルベリクは軍務卿を見る。
「王の判断能力を否定するのですか」
「守ろうとしている」
「王が自分の判断を取り戻したと、誰が決める」
「私だ」
部屋が静かになる。
言ってしまった。
軍務卿自身も、その重さを理解した。
「軍務卿が王を審査する」
アルベリクが言う。
「一時的にだ」
「一時の終わりは」
「脅威が除かれたとき」
「誰が判断する」
答えは同じ。
シャルル。
アルベリクは机へ命令書を置いた。
「それは摂政です」
「違う」
「名を変えても」
「私は王位を望まない」
「王位を望まなくても、王の決定権を奪えます」
軍務卿の顔に怒り。
「お前は、何も知らない」
「何を」
シャルルは地図局長へ合図した。
壁の大地図が開かれる。
ヴァルネリア西岸。
アルビオン海王国。
海峡。
赤い駒。
艦隊。
「アルビオン艦隊が出港準備に入った」
アルベリクが地図へ近づく。
「情報源は」
「王国情報局」
「艦数」
「大型帆船二十八。輸送船四十以上」
「目的地は」
「不明」
「出港していない」
「準備だけで十分だ」
アルビオン海王国。
海峡の向こう。
強力な海軍。
ヴァルネリア沿岸の港へ古くから権利を主張する。
国内が内戦になれば介入する可能性。
「三身会議との内戦を避けたから、侵攻理由は減りました」
「逆だ」
軍務卿が言う。
「王が諸侯へ譲歩し、軍務局の帳簿を公開しようとしている。アルビオンは我々の動員能力を知る」
「公開対象は国内監査人です」
「都市代表の中に、アルビオン商人と取引する者が何人いる」
「だから全員を敵と?」
「敵は一人でなくてよい。銀貨一枚で書類を写す書記がいれば足りる」
正しい。
監査は情報漏洩の危険を増やす。
だが秘密は横領と陰謀を隠す。
どちらも真実。
「監査範囲を分けます」
マティアスが言った。
「戦略配置、動員計画、暗号は除く。見るのは支出、契約、在庫」
「在庫を見れば動員規模が分かる」
「数量を秘匿して、帳簿の一致だけ確認する方法もある」
「職人の工房ではない」
「工房の方が、材料一つ足りなくても商品が止まります」
「軍は国が止まる」
「だから確認する」
軍務卿はマティアスを見た。
「お前は、軍の責任を負えるのか」
「負えません」
即答。
「なら口を出すな」
「責任を負えない者が見ても分かる形にするのが監査です」
「戦争を知らない」
「軍務局が小麦五千樽を消した理由は、戦争を知らない私にも関係があります。王都のパンです」
シャルルの目が変わる。
「五千樽は消えていない」
「どこに」
沈黙。
「軍事機密ですか」
マティアスが尋ねる。
「そうだ」
「小麦の場所が?」
「備蓄地点だ」
「帳簿では閉鎖中の聖オルバン修道院へ移送」
「偽装だ」
「軍務局が偽装した?」
「敵へ備蓄場所を知られないため」
「国王にも?」
「陛下は知っている」
「陛下は知らなかった」
アルベリクが言う。
軍務卿の眉が動いた。
「確認したのか」
「御前で」
「王は忘れている」
「記録は」
「口頭命令だ」
「いつ」
「昨年秋」
「陛下は、どの言葉で」
軍務卿が答えない。
アルベリクは気づいた。
王の命令ではない。
あるいは、軍務卿が王の曖昧な言葉を命令として解釈した。
「どこにあるのです」
「言えない」
「王へだけ」
「ここへ呼べ」
「門を閉じた軍務局へ?」
「王が本当に自由なら来られる」
「兵を伴えば」
「入れない」
「一人なら人質にできる」
「王を人質にはしない!」
シャルルの声が初めて大きくなる。
感情。
本気。
彼は王を傷つけるつもりはない。
だから安全ではない。
善意で王の自由を奪う者は、自分を犯罪者と思わない。
「五千樽は、どこです」
アルベリクが繰り返した。
軍務卿は長く黙った。
「沿岸の秘密倉庫」
「アルビオン対策?」
「三か所へ分散」
「兵も」
「沿岸予備隊を編成している」
「王命なしで?」
「緊急防衛権限だ」
「兵数」
「四千」
アルベリクは息を止めた。
四千。
軍務局直属。
諸侯登録外。
国王親衛軍の指揮系統外。
「私兵です」
「王国軍だ」
「王が存在を知らない王国軍」
「知っていた!」
「口頭命令で?」
軍務卿が机を叩いた。
「二年前、陛下は言われた! 海峡の盾を作れと!」
「比喩です」
「命令だ!」
「予算承認は」
「紫帳ではない! 王国防衛基金だ!」
机から別の帳簿。
灰色の革。
マティアスが受け取る。
融資。
複数商会。
沿岸砦修復。
兵の給金。
穀物。
船。
合計。
王国正規予算の三分の一に近い。
「債権者は」
マティアスが頁をめくる。
「白冠救国基金。海燕共同事業体。北海慈善組合……」
アルベリクの背中が冷える。
灰冠関連で見つかった名義。
聖ロシュ湾の旧軍艦を所有した海燕共同事業体。
「灰冠会議です」
アルベリクが言った。
軍務卿の顔が固まる。
「何を」
「海燕共同事業体は、オルシャを襲った艦隊の所有名義です」
「証拠は」
「オルシャ共同宣言に添付された船舶記録」
「偽造だ」
「すべてを偽造で終わらせるのですか」
「我々の基金は三年前からある!」
「灰冠会議の分裂と同じ時期です」
シャルルは帳簿を奪い返した。
「債権者が誰であろうと、兵は王国を守る」
「借金の条件は」
マティアスが尋ねる。
「何だ」
「返済できなければ」
「沿岸関税の一部」
「それだけ?」
「軍港使用権」
「期間」
「十五年」
「外国商会へ軍港を?」
「融資者はヴァルネリア法人だ」
「実体は灰冠」
「後から分かった名で、過去の判断を裁くな!」
軍務卿の怒りには、恐怖が混じっていた。
自分が王国を守るため作った盾が、敵の金で作られていた。
認めれば、人生の仕事が崩れる。
「監査を受け入れてください」
アルベリクが言った。
「債権契約を確認する。兵の指揮権を国王へ戻す。五千樽を正規帳簿へ」
「その間にアルビオンが来る」
「沿岸予備隊は解散しない」
「都市監査人へ見せれば漏れる」
「限定監査」
「信じられない」
「私もあなたを信じられない」
二人は互いを見る。
以前なら、軍務卿の命令へ従った。
尊敬もしていた。
いまも、彼が王国を売ろうとしたとは思わない。
だから余計に難しい。
悪意ある裏切り者なら、逮捕すればよい。
善意で危険なことをした者は、罪と功績が分かれない。
「アルベリク」
シャルルが声を落とした。
「お前に沿岸軍を預ける」
「何を」
「私の代わりに指揮しろ」
副官たちが驚く。
「門を開け、陛下へ軍を返す。その条件として、お前が沿岸防衛総監になる」
「取引ですか」
「王国を守るためだ」
「なぜ私を」
「灰冠に買われていないと分かる」
「父が反乱中です」
「だから金に困っている。だが受け取らなかった」
「調べた?」
「軍務局は、お前の口座も手紙も見ている」
マティアスが眉を寄せる。
「立派な忠誠です」
シャルルは無視した。
「アルビオン艦隊が動けば、王都の会議など意味がない。沿岸へ行け」
「あなたは」
「監査を受ける」
「拘束も」
「受け入れる」
副官が叫ぶ。
「軍務卿!」
シャルルが手を上げる。
「ただし、王が私へ直接命じること」
「陛下をここへ入れろと」
「中庭でよい。双方の兵を百歩離す。私は一人で出る」
アルベリクは考えた。
門を開ける道。
同時に、罠の可能性。
軍務卿を狙う者。
王を狙う者。
灰冠は対立を作った。
和解を狙う瞬間こそ、再び攻撃する。
「条件を陛下へ伝えます」
「今日の日没まで」
「なぜ期限を」
「アルビオン艦隊が今朝、港を出た」
「確認は」
「灰冠の情報ではない。沿岸灯台からの信号だ」
「進路は」
「東」
ヴァルネリア方向。
本物の脅威。
軍務卿が作った秘密軍も、完全な妄想ではなかった。
敵は嘘だけを使わない。
真実を混ぜる。
正しい恐怖。
誤った手段。
それが最も強い。
---
## 三
アルベリクとマティアスが軍務局を出たとき、広場の空気はさらに緊張していた。
親衛軍の後方に、王国近衛騎士が到着している。
先頭に国王アドリアン。
王冠はない。
軽い鎧。
姉エレノアも。
公爵家兵は連れていない。
護衛十騎。
「陛下」
アルベリクが片膝をつく。
「中は」
国王が尋ねる。
「軍務卿は、陛下との直接対話を求めています」
「門を開けるか」
「中庭へ一人で出ると」
「罠です」
近衛隊長が言う。
「可能性はあります」
アルベリクは答えた。
「だが軍務卿本人が仕掛けるとは考えにくい」
「部下が?」
エレノアが尋ねる。
「灰冠の協力者が内部にいる可能性があります」
マティアスが灰色の帳簿の内容を説明する。
沿岸秘密軍。
小麦五千樽。
海燕共同事業体。
軍港使用権。
アドリアンの顔が変わる。
「私は命じていない」
「海峡の盾を作れと仰ったそうです」
「二年前の軍議で?」
「はい」
国王は額へ手を当てた。
「沿岸砦を修復し、警戒船を増やせという意味だ」
「軍務卿は四千の軍を作りました」
「四千」
エレノアが低く繰り返す。
「王国法外の兵」
「軍務卿は王国軍と考えています」
「弟」
エレノアが国王を見る。
「あなたの曖昧な命令が原因です」
近衛隊長が不快な顔。
王へ責任を問う。
だがアドリアンは否定しなかった。
「そうだ」
短く答える。
「私が強い王を演じ、軍務卿が聞きたい命令を聞いた」
「陛下だけの責任では」
アルベリクが言う。
「分けても減らない」
国王は門を見る。
「中庭へ入る」
「危険です」
「王が直接命じろと」
「外で会えます」
「彼は出ない」
「出させます」
「どうやって」
「兵糧を止める。水路を閉じる。時間をかける」
「アルビオン艦隊が動いている」
「だからこそ、陛下を失えません」
アドリアンがアルベリクへ近づく。
「軍務卿が私を殺すと思うか」
「思いません」
「なら」
「彼以外が殺します」
王は黙る。
サン・ルシアン。
鐘楼。
暗殺。
灰冠は和解を壊すため、最適な瞬間を選ぶ。
「私が先に入ります」
エレノアが言った。
「姉上?」
「軍務卿の要求は国王との対話。だが彼が本当に弟を守りたいなら、私を人質にする理由はない」
「反乱諸侯の首魁と考えています」
「だから殺せば、軍務局が反乱側を排除したと支持する者がいる」
「なおさら」
「弟が死ぬよりはよい」
「よくない」
アドリアンの声が強くなる。
姉弟が見つめ合う。
「私は国王です」
「だから代わりがいない」
「姉上にも代わりはいない」
「公爵位は息子が継ぐ」
「人間の話をしている!」
広場の兵が聞いている。
王と姉。
公の場。
アドリアンは声を抑えた。
「一緒に入る」
「陛下」
アルベリクが反対する。
「軍務卿の条件は一人です」
「王が条件を変える」
「門を閉じている者は」
「それでもだ」
マティアスが言った。
「中庭ではなく、門の間にしてください」
全員が彼を見る。
「外門と内門の間。双方から見える。軍務局側は内門の上、親衛軍は外から。誰かが弩を撃てば、どちらからか分かる」
「挟まれる」
近衛隊長が言う。
「だから中央に盾壁を置かない。国王と軍務卿だけ。周囲を空ける」
「暗殺者が屋上に」
「屋上の兵を双方十人ずつで交代確認」
「軍務局が許すか」
「許さなければ対話する気がない」
マティアスは軍人ではない。
だから軍の名誉より、作業の手順を見る。
どの位置。
誰が確認。
何を記録。
和平も、時計の修理と同じように扱う。
部品を外し、噛み合う場所を確かめる。
「採用する」
アドリアンが言った。
「交渉を」
アルベリクは再び門へ向かった。
---
## 四
軍務局側は、門間交渉を受け入れた。
条件。
双方の兵は弩を下ろす。
屋上確認隊は混成。
門間には国王アドリアン、軍務卿シャルル、立会人としてエレノアとアルベリク。
マティアスは記録係。
軍務局側の記録係一名。
開始は正午鐘の直後。
王都中へ触れが出された。
軍務局と王が交渉する。
民衆はさらに集まる。
屋根。
窓。
路地。
王の安全を願う者。
軍務卿を支持する兵士の家族。
暴動を期待する盗賊。
灰冠の協力者がいるかもしれない。
正午鐘。
一度。
小扉が開く。
最初に軍務局側確認隊。
親衛軍側も。
屋上。
窓。
鐘楼。
倉庫。
弩兵は弦を外す。
完全ではない。
隠し弩。
短弓。
投石。
毒針。
すべてを確認できない。
安全は、最後には誰かが攻撃しないという賭けになる。
外門が開く。
アドリアン。
エレノア。
アルベリク。
マティアス。
内門が開く。
シャルル。
軍務局書記。
門間。
石壁。
上には兵。
前後に鉄扉。
王と軍務卿が向き合う。
シャルルは片膝をついた。
「国王陛下」
「忠臣が門を閉じるのか」
アドリアンが言う。
「陛下をお守りするためです」
「私から?」
「陛下を欺く者から」
「誰が私を欺いた」
「サン・ルシアンの群衆。諸侯。灰冠会議」
「私自身は」
「恐怖と疲労の中におられました」
「それでも私が王だ」
「はい」
「なら命令する。門を開けろ」
シャルルは顔を上げる。
「沿岸軍を守ってください」
「知らない軍を、どう守れと」
「陛下のために作りました」
「私の言葉を、自分の望む命令へ変えた」
「必要でした」
「必要なら、私へ説明すべきだった」
「財務卿が反対する。諸侯が情報を漏らす。三身会議は半年議論する。その間にアルビオンが来る」
「来た」
国王は言った。
「だから、お前の恐怖は正しかった」
シャルルの表情が揺れる。
「では」
「手段が正しかったとは言わない」
「陛下」
「お前は、正しい敵を見つけ、間違った王国を作った」
沿岸秘密軍。
秘密倉庫。
秘密債務。
王の知らない王国。
「四千の兵を、正規軍へ編入する」
アドリアンが続ける。
「給金と家族を保護する。指揮官は再任審査。債務は公開監査。軍港使用権は凍結」
「債権者が契約違反を」
「灰冠関連なら争う」
「違えば」
「返す」
「財源は」
「三身会議へ求める」
シャルルが苦く笑う。
「議論している間に艦隊が来ます」
「緊急予算は協約で認められた」
「追認が必要」
「四十日後だ」
「否決されれば」
「私が責任を負う」
「王は首を差し出せない」
「王冠を失う」
「国が失われたあとでは遅い」
「お前も同じことを言った」
アドリアンは一歩近づく。
「責任を負うとは、失敗後に死ぬことではない。失敗の可能性を他人へ見せることだ」
軍務卿は黙る。
「帳簿を開け」
「軍事機密は」
「限定監査」
「監査人が漏らせば」
「処罰する。だが漏れるかもしれないことを理由に、永遠に隠すことは許さない」
「沿岸軍の指揮は」
「アルベリクへ」
シャルルが彼を見る。
提案どおり。
「本人は」
「受けるか」
王が尋ねる。
アルベリクは答える前に考えた。
父の城。
東部方面軍。
沿岸。
アルビオン。
軍務卿の秘密軍。
受ければ、シャルルの遺産を継ぐ。
拒めば、別の者が指揮する。
「受けます」
「条件は」
シャルルが尋ねる。
アルベリクが条件を持つと分かっている。
「沿岸軍の兵籍を公開。徴募経路を確認。諸侯領から違法に集めた兵は帰還権を与える。債権者の命令を受けた士官は停職」
「戦力が半分になる」
「知らずに敵へ従う四千より、確認した二千の方がよい」
「アルビオンは待たない」
「陛下の正規軍を追加します」
アドリアンが言う。
「姉上」
エレノアを見る。
「ヴァルネ公爵領から沿岸防衛へ兵を出せますか」
公爵夫人はすぐ答えない。
弟への協力。
諸侯から王党派と見られる。
公爵領の兵を海岸へ出せば、領地防衛が薄くなる。
「千五百」
「公爵夫人」
アルベリクが驚く。
「ただし、王国軍へ完全編入はしません。共同指揮」
シャルルが反発する。
「私兵を国境へ?」
「あなたの秘密軍より、旗が見えるだけましです」
軍務卿は言葉を失う。
「アルベリクを総指揮。王国軍と公爵軍から副官一名ずつ。兵站監査は都市代表」
エレノアが提案する。
「都市が軍へ」
「小麦を出すのは都市と農民です」
アドリアンが頷く。
「認める」
軍務卿は四人を見る。
自分が望んだ強い統一軍ではない。
王。
諸侯。
都市。
互いに監視する軍。
動きは遅い。
命令は複雑。
だが一人が国を私物化しにくい。
「陛下」
シャルルが言った。
「私は拘束されますか」
「監査終了まで軍務卿職を停止する」
「牢へ」
「自宅軟禁」
「甘いと非難されます」
「死刑にすれば口を閉じるためと言われる」
シャルルがアルベリクを見る。
以前、彼自身がミハイルへ同じことを言った。
生かして尋問しろ。
「王は変わられた」
軍務卿が言う。
「誰のせいだ」
アドリアンが答えた。
「お前たち全員だ」
「門を開けます」
シャルルは片膝をついた。
「王命に従います」
門上の兵がざわめく。
命令を伝えるため、軍務局書記が内門へ向かう。
その瞬間だった。
屋上から音。
弦。
アルベリクが反応する。
どちらの屋上か。
軍務局側。
だが混成確認隊がいる。
短い矢が飛ぶ。
国王ではない。
シャルルへ。
アルベリクは軍務卿を押した。
矢は肩へ刺さる。
アルベリクの肩ではない。
マティアス。
彼が記録板を掲げ、軌道へ入っていた。
木板を貫通。
左腕へ。
「伏せろ!」
アルベリクが叫ぶ。
第二の矢。
エレノアが国王を壁へ押す。
シャルルが内門側を見る。
「撃つな!」
双方の兵が弩を構える。
誰が敵か分からない。
一人が撃てば、全員が始める。
「弩を下ろせ!」
アドリアンが叫ぶ。
「撃った者だけを捕らえろ!」
屋上で争い。
軍務局兵と親衛兵の混成確認隊。
灰色の外套ではない。
王国軍の制服。
男が短弩を捨て、屋上の縁へ走る。
捕らえられる前に飛ぶ。
下は石畳。
死ぬ。
だが途中の旗綱を掴んだ。
身体を振り、外壁側へ。
用意していた縄。
降下。
広場の群衆へ。
親衛兵が追う。
人々が逃げる。
男は軍務局制服を脱ぐ。
下に職人服。
群衆へ紛れる。
「門を閉じるな!」
アルベリクが叫ぶ。
軍務局側が反射的に内門を閉めようとする。
閉じれば交渉は破綻。
「開けたままにしろ!」
シャルルも命じた。
軍務卿と参謀。
同じ命令。
兵士が止まる。
マティアスは床へ座り込んでいた。
矢が左前腕を貫いている。
血。
「医師!」
アルベリクが膝をつく。
「板を上げた?」
「記録が穴だらけになります」
「腕もです」
「腕は二本ある」
「帳簿は書き直せます」
「交渉は?」
マティアスが国王と軍務卿を見る。
「続けろ」
声が震えている。
「撃った奴は、閉じさせたかった」
正しい。
狙いはシャルル。
軍務卿が王との交渉中に殺されれば、軍務局兵は王の罠と考える。
門を閉じる。
戦闘。
逆に王が傷つけば、親衛軍が突入。
どちらでもよい。
「治療へ」
アルベリクが兵へ命じる。
マティアスが記録板を離さない。
矢が板と腕をつないでいる。
医師が板を割る。
木片。
血。
「軍務卿」
アドリアンが言った。
騒ぎの中。
「門を開けろ」
シャルルは屋上を見た。
自分の制服を着た暗殺者。
内部へ入り込んでいた。
誰の部下か。
軍務局。
灰冠。
両方か。
「開門!」
軍務卿が叫ぶ。
「全門を開けろ!」
青銅門の横木が外される。
重い音。
正面門が動く。
軍務局前広場から、人々が見る。
閉ざされていた扉が開く。
親衛軍は突入しない。
軍務局兵も弩を下ろす。
王が門の中央に立つ。
隣に軍務卿。
姉。
アルベリク。
負傷したマティアスが運ばれていく。
「軍務局は王命へ服する!」
シャルルが広場へ宣言した。
「監査を受け入れる!」
軍務局兵の一部が安堵。
一部が失望。
一部が怒る。
全員が従うとは限らない。
だが門は開いた。
物理的な扉が開けば、兵士にとって命令の意味が変わる。
籠城は終わった。
少なくとも王都では。
---
## 五
暗殺者の死体は見つからなかった。
広場で職人服へ着替えたあと、群衆へ消えた。
残された軍務局制服。
短弩。
矢。
制服の裏側に洗濯印。
軍務局第三宿舎。
該当する兵士は三日前から病欠。
自宅で死んでいた。
喉を切られ、制服を奪われた。
暗殺者は軍務局内部へ正規の通行証で入った。
通行証の署名は王国情報局次長。
交渉の部屋にいた男。
次長は逃亡。
執務室の金庫は空。
家族も消えている。
灰冠に協力したのか。
脅迫されたのか。
家族ごと逃がされたのか。
分からない。
「この署名です」
アルベリクは軍務局監査室で書類を見た。
王国情報局次長ルネ・ヴァラン。
軍務卿が信頼していた情報官。
アルビオン艦隊出港の報告も、彼の経路。
「出港情報自体は本物です」
沿岸伝令が言う。
「灯台信号を確認」
「艦数は」
「大型艦十五。輸送船十二」
軍務卿が示した二十八と四十より少ない。
脅威は実在。
規模は誇張。
情報局次長が数字を増やした。
軍務卿の恐怖を強め、門を閉じさせるため。
「アルビオンの目的は」
「南方航路演習との布告」
「ヴァルネリア方面へ進んでいる?」
「艦隊は東へ。海峡中央で南東へ変針した可能性」
侵攻とは断定できない。
だが沿岸防衛を解くこともできない。
「灰冠は、アルビオンにも侵攻情報を流しているでしょう」
エレノアが言う。
「我々が沿岸軍を集めれば、相手は本物だと考える」
安全保障の罠。
動かなければ危険。
動けば相手を動かす。
「使者を」
アドリアンが命じる。
「アルビオン王へ、艦隊の目的を照会。こちらの沿岸軍は防衛配置であり、海峡を越えないと伝える」
シャルルが反対する。
自宅軟禁へ移される前、最後の軍議。
「弱さを見せます」
「何も言わず兵を集めれば、攻撃準備に見える」
「本当の侵攻なら、情報を与える」
「配置詳細は出さない」
「使者が捕らえられれば」
「もう敵だと分かる」
軍務卿は黙る。
王の判断。
以前なら、反対して秘密に進めた。
今は命令へ従う。
それが正しいかは、まだ分からない。
「沿岸軍へ出発します」
アルベリクが言った。
「今夜」
エレノアが尋ねる。
「ライナー城は」
父。
包囲。
東部方面軍。
副官ハンス。
「包囲は維持。攻撃停止を延長します」
「軍務卿の事件で、父君は王国が弱ったと判断するかもしれない」
「分かっています」
「城から出れば」
「ハンスが対処します」
エレノアは彼を見た。
「すべてを自分で持てない」
「はい」
「本当に分かっている?」
「分かっていません」
正直な答え。
アルベリクは父の城を部下へ任せ、海へ行く。
家族との戦いから逃げるように見える。
同時に、王国全体を守るため必要。
人間の動機は一つではない。
「沿岸へ、ジュリアンを同行させます」
エレノアが言った。
「公爵家兵の副指揮官として」
「公子を?」
「二十歳です。戦場へ出る年齢」
「公爵夫人の後継者です」
「だからです」
エレノアは息子を政治の外へ置けない。
安全な場所へ隠せば、諸侯は弱い後継者と見る。
戦場へ出せば死ぬ。
「私情で特別扱いしません」
アルベリクが言う。
「してください」
意外な言葉。
「何を」
「公爵家の後継者としてではなく、経験の少ない将として扱って。危険な英雄役を与えないでください」
「本人が望めば」
「止めて」
「命令に必要なら」
「そのときは」
エレノアは一瞬、母親の顔になった。
すぐ公爵夫人へ戻る。
「王国の将として命じてください」
自分の息子を守りたい。
同時に特権で守れば、ほかの兵士の母親へ説明できない。
「承知しました」
アルベリクは答えた。
守れるとは言わない。
---
## 六
マティアスの腕から矢を抜くのに、一刻かかった。
矢尻に返し。
板を貫き、骨の横へ入っている。
医師は腕を切る可能性もあると言った。
結果的に骨は無事。
筋を一部傷つけた。
左手の指。
一本ずつ動かす。
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
動く。
痛い。
「時計を作れますか」
マティアスが尋ねた。
医師が呆れる。
「死にかけた直後に」
「死んでいません」
「半年は細かい作業を避けろ」
「半年?」
「早くて三か月」
マティアスの顔が、矢を受けたときより青くなる。
時計職人。
左手で部品を支え、右手で工具。
手が動かなければ仕事ができない。
軍務委員会の給金はある。
だが職人であることを失う。
一時的でも。
「帳簿は」
「右手で書ける」
「時計は両手です」
「命がある」
「命だけあっても」
言いかける。
医師が彼を見る。
「腕を失った兵士の前で同じことを言うな」
マティアスは黙った。
自分より重い傷。
だから自分の苦しみが消えるわけではない。
だが比べてしまう。
扉が開く。
アンドロニコス・パレオス。
アウレリアのパン職人ではない。
同じ名ではない。
王都職人組合の若い時計工、ピエール。
マティアスの弟子。
顔が怒っている。
「親方」
「工房は」
「何してるんですか!」
「見てのとおり」
「矢を受けるのは時計職人の仕事ですか!」
「記録板が高かった」
「馬鹿ですか」
「親方に」
「馬鹿です!」
ピエールは泣きそうな顔。
「工房は誰が」
「僕が」
「注文は」
「三件遅れます」
「王宮時計は」
「止まってません」
「軍務局の壁時計は」
「止めてやりました」
「なぜ」
「時間を守らない役所に時計はいらない」
マティアスは笑った。
痛みが腕へ響く。
「ピエール」
「何です」
「工房を頼む」
弟子の顔が固まる。
「戻らないみたいに言わないでください」
「しばらく左手が使えない」
「僕が支えます」
「一つの部品を二人で持つのか」
「できます」
「遅い」
「親方が軍務委員会へ行くよりは早い」
正しい。
「それと」
ピエールが鞄から一枚の紙を出す。
「聖オルバン修道院の小麦を運んだ荷車職人が見つかりました」
「どこへ運んだ」
「沿岸の三か所。ですが、そのうち一つは倉庫ではない」
「何です」
「船です」
「船?」
「小麦八百樽を、夜に沖の大型船へ積んだ」
「どこの」
「アルビオン商船の印。でも船名はセレスタ登録」
灰冠の船。
「いつ」
「一か月前」
「軍務卿は知っている?」
「荷車職人は、軍務局の命令書を見たと」
「署名は」
「情報局次長ルネ・ヴァラン」
小麦五千樽のうち、八百が灰冠へ流れた。
軍務卿は三か所にあると思っている。
実際には一部が消えた。
沿岸秘密軍の兵糧を減らす。
王都の市場も不足させる。
二つの危機を同時に。
「アルベリクへ」
マティアスが起きようとする。
医師が押さえる。
「寝ろ!」
「伝令を」
「私が出す」
ピエールが言う。
「詳しい場所は」
「荷車職人を連れてきました」
「どこ」
「廊下」
「弟子」
マティアスは彼を見る。
「よくやった」
ピエールの怒った顔が少し緩む。
「親方」
「何です」
「今度、矢が飛んだら避けてください」
「記録板が」
「帳簿より親方の方が書き直しにくい」
マティアスは返事をしなかった。
褒められたときより、困った顔をした。
---
## 七
沿岸秘密軍の第一倉庫は、空だった。
王都から西へ二日の街道。
海岸近くの塩採掘場。
地下坑道。
帳簿上、小麦千六百樽。
武器三千人分。
実際に残っていたのは、小麦三百樽。
錆びた槍。
壊れた弩。
守備兵五十。
指揮官は、軍務局の命令で先週、物資を第二倉庫へ移したと主張した。
命令書。
署名。
ルネ・ヴァラン。
第二倉庫へ伝令。
返答。
受け取っていない。
物資が消えた。
四千の秘密軍は、存在しても戦えない。
武器と小麦が別の場所へ。
「灰冠は軍を作らせ、同時に中身を抜いた」
アルベリクが言った。
沿岸へ向かう途中の宿営地。
王国軍。
公爵家兵。
都市補給隊。
ジュリアン・ド・ヴァルネもいる。
母に似た顔。
父より細身。
二十歳。
鎧が新しい。
本人は古く見せるため泥をつけている。
「なぜ軍を作らせたのです」
ジュリアンが尋ねる。
「軍がなければ、抜くものもない」
「借金を作る」
アルベリクが答える。
「兵を集める。諸侯と王を疑わせる。アルビオンへ脅威を見せる。最後に物資を消せば、王国は軍を持ちながら戦えない」
「侵攻を招く」
「あるいは、侵攻への恐怖で国内を割る」
ジュリアンは地図を見る。
「アルビオン艦隊が本当に攻めてきたら」
「沿岸軍の実数を確認するまで、正面戦闘は避けます」
「港を捨てる?」
「守れる港だけ守る」
「民衆は」
「避難」
「倉庫は」
「運べる物を運ぶ。残りは焼く」
ジュリアンの顔が変わる。
「自分で?」
「敵へ渡せば、さらに進む」
「沿岸民の冬の食糧です」
「だから決める前に、敵の進路を確認する」
「攻撃されてからでは遅い」
軍務卿と同じ言葉。
アルベリクは公子を見る。
「あなたなら」
「全港へ兵を」
「何人」
「沿岸軍四千と、公爵軍千五百。王国正規軍を加え」
「沿岸は三百里です」
「主要港だけ」
「主要港を守れば、敵は小港へ上陸する」
「小港を捨てる?」
「あなたが今、私へ問うたことです」
ジュリアンが黙る。
指揮官の仕事は、勇敢に戦うことではない。
守れない場所を決めること。
「母上は、あなたを冷たい人だと言っていました」
「公爵夫人が?」
「褒めていました」
「公爵夫人らしい」
「本当に、数字だけで村を捨てるのですか」
アルベリクは考えた。
「数字だけでは決めません」
「では」
「街道。避難時間。港の深さ。井戸。倉庫。住民数。敵の目的。数字にできるものを集める」
「最後は」
「私が決めます」
「間違えたら」
「人が死ぬ」
「あなたは」
「記録する」
ジュリアンが不快そうに眉を寄せる。
「記録すれば許されると?」
「許されません」
「ではなぜ」
「忘れれば、次も同じように決めるからです」
公子は返事をしなかった。
しばらく地図を見る。
「私に何を命じます」
「沿岸軍の兵籍確認」
「戦闘指揮ではなく?」
「経験の少ない将として扱えと、母上から」
ジュリアンの顔が赤くなる。
「母上が」
「はい」
「私は戦えます」
「知りません」
「剣術大会で」
「大会では隣の兵が逃げません」
「実戦経験がないだけで」
「だから兵籍確認を。兵がどこから来て、家族がどこにいて、誰へ給金を受けているか知る。戦場で命じる前に」
「書記の仕事です」
「指揮官の仕事です」
ジュリアンは不満そうだった。
だが断らない。
「承知しました」
「それと」
「何です」
「泥をつけた鎧は洗ってください」
公子が固まる。
「なぜ」
「新しい鎧を古く見せる者は、経験がないと自分で知らせています」
周囲の士官が笑いを堪える。
ジュリアンは耳まで赤くした。
「洗います」
「素直ですね」
「母上より、ましなところです」
アルベリクは初めて少し笑った。
---
## 八
王都では、軍務卿シャルルが自宅軟禁へ移された。
屋敷の外に親衛兵。
中には家族。
妻。
娘。
古い従者。
息子は東部軍で戦死している。
その死が、シャルルを強い王国へ執着させた理由の一つだった。
アドリアンは、軟禁初日の夜に一人で訪れた。
近衛兵は玄関まで。
軍務卿は書斎にいる。
軍衣ではない。
灰色の家庭着。
肩の銀鎖もない。
一日で老いたように見えた。
「陛下」
立とうとする。
「座れ」
王も向かいへ。
机に酒。
二つの杯。
シャルルが注ぐ。
毒見はない。
国王は飲んだ。
「不用心です」
軍務卿が言う。
「お前が毒を入れるなら、門の中でやった」
「部下が入れたかもしれない」
「飲んだあとで言うな」
シャルルも飲む。
「アルビオン艦隊は」
「南東へ進んでいる。侵攻か演習か、まだ不明」
「沿岸軍は」
「中身を抜かれていた」
軍務卿の手が止まる。
「どれほど」
「第一倉庫の八割。小麦の一部は灰冠船へ」
「ヴァラン」
「逃亡」
シャルルは杯を置く。
「私は、あの男を二十年知っている」
「二十年あれば、裏切る理由も増える」
「家族を救ったこともある」
「だから脅されたかもしれない」
「私が灰冠へ金を流した」
「知らずに」
「兵を作り、借金を作り、軍港を渡した」
「まだ渡していない」
「契約した」
王は黙る。
「処刑してください」
シャルルが言った。
「簡単だな」
「王国へ示せます」
「何を」
「裏切りは罰される」
「お前を殺せば、帳簿の残りを誰が説明する」
「副官が」
「副官も知らない秘密がある」
「あります」
「なら話せ」
「処刑後に公開する書類を」
「また秘密か」
アドリアンの声に怒り。
シャルルは机の引き出しから鍵を出す。
「王宮地下の第六保管庫」
「何が」
「アルビオン王家との秘密協定」
「いつの」
「先王時代」
アドリアンの父。
「内容は」
「ヴァルネリア王国で王位継承争い、または大規模諸侯反乱が起きた場合、アルビオンが秩序回復のため介入できる」
「代償は」
「西岸三港の租借」
王の顔から血の気が引く。
「父上が?」
「署名されています」
「知っていたのか」
「軍務卿就任時に」
「なぜ言わなかった!」
「陛下が即位直後だった。アルビオンとの関係を壊せない」
「今は」
「三身会議。軍務局封鎖。彼らは介入条件が成立したと主張できる」
アルビオン艦隊。
侵攻ではなく、条約履行。
父王の署名。
正当性。
「秘密軍は、そのためか」
「はい」
シャルルは王を見る。
「陛下が知らなければ、アルビオンへ協定無効を主張できる。王の命令で軍を作れば、協定違反と見られる。だから私が」
「自分だけで背負った?」
「そう思っていました」
「実際は灰冠へ利用された」
「はい」
軍務卿の声が初めて弱くなる。
「父上はなぜ署名を」
「先王の弟君が反乱を準備していた。アルビオンの支援を取りつけるため」
「その反乱は起きなかった」
「協定があったからかもしれない」
過去の平和。
代償が未来へ残った。
「第六保管庫の鍵を」
アドリアンが手を出す。
シャルルは渡す。
「公開しますか」
「三身会議へ」
「アルビオンが知れば」
「向こうは原本を持っている」
「民衆は先王を売国王と」
「事実なら」
「陛下の王位も、外国軍の保証で成立したと疑われる」
「疑わせろ」
国王は鍵を握る。
「隠して、また別の軍務卿が秘密軍を作るよりは」
シャルルは王を見る。
「本当に変わられた」
「お前のせいだと言った」
「私は、陛下を弱くしたのかもしれない」
「違う」
アドリアンは酒を飲む。
「一人で強くあることを諦めただけだ」
「王がそれを言えば、臣下は不安になります」
「王が何でも知っていると嘘をつく方が安心か」
「多くは」
「だから灰冠が生まれる」
秘密を管理できると信じる者。
王より賢く戦争を制御できると信じる者。
シャルルも、その入口に立っていた。
「処刑はしない」
アドリアンが言った。
「陛下」
「監査へ協力しろ。その後、裁判」
「死刑になるでしょう」
「裁判が決める」
「王が決めない?」
「決めない」
シャルルは笑った。
「面倒な国になりました」
「これからもっとなる」
---
## 九
王宮地下第六保管庫から、三つの文書が見つかった。
一つ。
アルビオン介入協定。
一つ。
先王と聖座ルミナの秘密書簡。
諸侯反乱時、教皇が国王側へ宗教的正統性を与える代わり、教会税免除を永続化する。
一つ。
セレスタ銀行から先王への融資契約。
担保は西岸関税。
三つとも、現在の危機へつながっている。
アルビオン。
聖座。
セレスタ。
灰冠会議が一から作ったのではない。
王たちが過去に結んだ秘密を集め、互いへ向けて使った。
アドリアンは三身会議代表を招集した。
エレノア。
都市代表。
聖職者。
諸侯。
文書を公開。
会議は怒号となった。
「先王は王国を売った!」
「現在の王が責任を!」
「教会免税は正当な権利だ!」
「外国軍の介入協定を破棄せよ!」
「破棄を宣言すれば、アルビオンが攻める!」
「すでに艦隊がいる!」
王冠。
過去。
父の罪。
息子の責任。
アドリアンは壇上で聞いた。
反論しない。
すべて出させる。
最後に言う。
「協定の存在を、アルビオンへ正式に確認する」
「認めれば」
エレノアが尋ねる。
「無効を通告する」
「相手は受け入れない」
「なら、三港を守る」
「戦争です」
「協定を隠したまま、軍を集めても同じだ」
「勝てますか」
オルテーズ伯の不在席。
代わりにバルシュ伯が問う。
「分からない」
国王が答えた。
会議が静まる。
王が勝利を約束しない。
「アルビオン海軍は我々より強い。沿岸軍は弱体化。諸侯軍は統一されていない。勝てると断言する者は嘘をついている」
「では降伏を」
「しない」
「なぜ」
「まだ攻撃されていないからだ」
国王は地図を示す。
「使者を送る。協定無効と相互不侵攻を提案。三港の代わりに交易税減免を期限付きで提示する」
「土地を金で守る?」
都市代表が言う。
「戦争より安いなら」
「誇りは」
「港が焼けたあと、誇りを食べる者はいない」
諸侯の一部が不満。
だが民衆傍聴席は静か。
パン。
港。
戦争。
分かりやすい。
「同時に沿岸を守る」
国王が続ける。
「交渉だけでは弱い。軍だけでは脅威に見える。両方を行う」
遅い。
複雑。
矛盾。
それでも一つだけを選ばない。
三身会議は、アルビオン交渉案を承認した。
十一対二。
反対は聖座使節と西岸諸侯一名。
王国は戦争を回避しようとしながら、戦争準備を始めた。
---
## 十
沿岸へ向かうアルベリクのもとへ、二通の書状が同じ日に届いた。
一通は父から。
ライナー辺境伯。
《王国が軍務局を失ったと聞く》
《王冠は自らの剣を折った》
《いま包囲を解けば、お前を息子として迎える》
《解かねば、王の犬として扱う》
家族。
脅し。
誘い。
父も灰冠の情報を受けている。
軍務局事件が、王国崩壊として伝えられた。
正確ではない。
完全な嘘でもない。
もう一通。
副官ハンス。
《ライナー城内で兵糧不足》
《領民の一部が脱出を求める》
《辺境伯は拒否》
《城内に灰色外套の使者が入ったとの証言》
灰冠が父へ接触。
何を提案した。
王国軍が沿岸へ移れば、包囲が弱まる。
反乱継続の資金。
アルビオンとの連携。
「戻りますか」
ジュリアンが尋ねる。
夜営地。
海まで一日。
「戻りません」
「父君が灰冠と」
「ハンスへ使者を捕らえろと」
「間に合わなければ」
「分かりません」
アルベリクは父の書状を火へ入れなかった。
折り、帳面へ。
「父上を捨てるのですか」
ジュリアンが尋ねる。
若い。
遠慮なく聞く。
「父の城より、沿岸が重要です」
「答えになっていません」
「では」
アルベリクは公子を見る。
「父を救うため戻れば、沿岸の村を捨てる。沿岸へ行けば、父を灰冠へ渡すかもしれない」
「どちらを」
「沿岸」
「なぜ」
「影響を受ける人数が多い」
ジュリアンの顔に嫌悪。
予想した答え。
「母上が、あなたを冷たいと」
「褒めていた?」
「今は分かりません」
「私も」
アルベリクは海の方角を見る。
潮の匂い。
まだ見えない。
「ただし、父を捨てたと自分へ言わないようにしています」
「どういう意味です」
「王国のため。人数。任務。正しい言葉を並べれば、痛みを感じずに済む」
「では本当は」
「戻りたい」
初めて口にした。
父。
城。
幼い頃に剣を教わった庭。
母の墓。
兄たち。
「戻りたいが、戻らない」
ジュリアンは何も言わなかった。
しばらくして。
「私が同じなら、戻るかもしれません」
「そのときは、兵を預けません」
「冷たい」
「はい」
「でも」
公子は焚火を見る。
「戻りたいと言うとは思いませんでした」
アルベリクは書状帳を閉じた。
「誰にも言わないでください」
「記録しない?」
「戦死者帳ではないので」
---
## 十一
夜明け前、沿岸灯台から三つの信号が上がった。
青。
白。
赤。
艦隊接近。
所属不明。
戦闘準備。
アルベリクは全軍を起こした。
王国軍二千。
公爵軍千五百。
確認済み沿岸軍千八百。
合計五千三百。
残る秘密軍は、兵籍不明、物資不足、命令不達。
港は三つ。
守れるのは一つ。
地図。
風。
潮。
アルビオン艦隊が向かう可能性。
「西港です」
沿岸航海官が言う。
「介入協定の対象港」
「最も守りが固い」
アルベリクが答える。
「だから協定を根拠に正面から来るなら」
「旗を掲げる」
「所属不明信号です」
「霧で見えないのかもしれません」
「灰色艦隊の残党か」
「可能性」
「アルビオンが旗を隠した?」
「攻撃前に正体を曖昧にするため」
どれもあり得る。
「三港へ分ければ」
ジュリアンが言う。
「各個撃破される」
「一港へ集めれば、ほかを取られる」
「はい」
同じ問い。
どこを捨てる。
アルベリクは決めた。
「中央港へ主力三千。西港へ千五百。東港は避難と倉庫焼却準備、守備八百」
「東港を捨てる?」
公爵家副官が尋ねる。
「港の水深が浅い。大型艦は入れない。上陸しても街道が狭い」
「住民は」
「丘陵へ避難」
「拒否すれば」
「強制はしない」
「敵へ協力する者が」
「残る権利と結果を知らせる」
「倉庫を焼くのに?」
「敵が入った場合のみ」
各指揮官が散る。
ジュリアンは兵籍確認任務から、東港避難隊の副指揮へ。
「戦闘ではない」
本人が言う。
「戦闘より難しい」
「民衆を逃がすだけです」
「家と商品を捨てろと、武器を持って説得する」
公子の顔が変わる。
「命令ですか」
「はい」
「拒否した者を殺す?」
「殺さない」
「では従わない」
「だから説得する」
ジュリアンは剣より困難な任務を与えられた。
「承知しました」
泥を落とした新しい鎧。
今度は隠さない。
---
## 十二
霧の中から現れた艦隊は、アルビオン海軍ではなかった。
少なくとも、公式には。
先頭艦に旗がない。
二隻目も。
三隻目。
その後ろ。
十五隻。
艦形はアルビオン式。
高い船首楼。
深い喫水。
強力な長弓兵を載せられる甲板。
だが船腹の王家紋章は黒く塗られている。
灰色艦隊。
あるいは、アルビオンが否認できる私掠艦隊。
「旗を要求」
アルベリクが命じる。
中央港の信号塔。
三度。
所属を示せ。
返答。
一発の火矢。
港外の海へ落ちる。
敵意。
同時に、別の小舟が白旗を掲げて近づく。
矛盾。
「使者船です」
「射るな」
小舟から一人。
アルビオン語の書状。
《ヴァルネリア王国は、先王協定に違反し、大規模諸侯反乱および王都軍事反乱を発生させた》
《西岸三港の暫定保護を開始する》
《抵抗しなければ、住民と財産を保護する》
署名。
アルビオン海王国西方艦隊副提督。
王国の正式印はない。
副提督個人の軍印。
「介入です」
ジュリアン不在のため、公爵家副官が言う。
「アルビオン軍」
「旗を掲げていない」
「否認するため」
「灰冠会議の偽造かもしれない」
「艦は本物です」
「副提督が灰冠と契約した可能性」
再び、国と内部を分ける問題。
「使者へ伝えろ」
アルベリクが言う。
「先王協定は現国王および三身会議により無効確認中。王国は内戦状態にない。軍務局は王命へ服した。三港への上陸は侵略と見なす」
「時間を」
公爵家副官が言う。
「王都の返答を待つと?」
「はい」
「何日」
「三日」
敵は三日を使う。
オルシャでも。
青隼でも。
人は三日で軍を動かし、噂を広げ、証拠を消す。
「一日」
アルベリクが言った。
「明日日没まで、港外に留まれ。その間、双方の代表が協定原本を照合する」
「受けるでしょうか」
「受けなければ、協定ではなく侵攻」
使者は戻る。
艦隊は動かない。
霧。
長い時間。
兵士は壁上で待つ。
矢。
石。
油。
海岸の民衆は避難。
商人は倉庫を閉める。
一刻後。
敵艦に旗が上がる。
アルビオン海王国旗ではない。
白地に灰色の冠。
灰冠。
堂々と。
隠れない。
次に、アルビオン海軍旗。
二つ並ぶ。
国家と灰冠。
同じ船に。
「見せつけている」
副官が言う。
「アルビオン内部の一部が、灰冠と公に組んだ」
「王の命令か」
「不明」
「重要ですか」
副官が尋ねる。
アルベリクは海を見る。
「船上の兵には」
攻撃されれば、どの王が命じたかに関係なく戦う必要がある。
だが戦後の敵が変わる。
アルビオンという国全体か。
副提督と灰冠の派閥か。
「まだ射つな」
「旗を上げました」
「旗は攻撃ではない」
「相手は我々の港を要求」
「要求も攻撃ではない」
「弱く見られます」
軍務卿と同じ言葉。
「見せるために人を殺しません」
アルベリクは答えた。
そのとき、東港方向から煙が上がった。
黒。
倉庫火災。
敵艦隊の一部は中央港へ来ていない。
霧の中で分かれ、東港へ。
「東が攻撃された!」
伝令。
「上陸兵約五百! 倉庫へ放火!」
アルベリクの判断。
東港へ八百。
避難。
倉庫焼却準備。
敵はそこを狙った。
捨てた場所。
「主力を動かしますか」
副官が尋ねる。
中央港前に十五隻。
動けば上陸。
動かなければ東港が落ちる。
敵は選択を与える。
どちらを選んでも傷つく。
「中央港は維持」
アルベリクが言った。
「東へ騎兵五百。公爵軍から」
「少ない」
「街道が狭い。大軍は詰まる」
「ジュリアン公子が」
「分かっています」
エレノアの息子。
経験の少ない将。
避難任務。
上陸戦へ巻き込まれた。
「援軍指揮は私が」
公爵家副官が言う。
「中央港の副指揮は」
「王国軍から置く」
「公子を」
「救うためではありません」
「分かっています」
嘘。
半分。
公爵家兵の士気。
後継者。
東港の住民。
すべて。
「行け」
騎兵が出る。
アルベリクは中央港に残る。
また。
父の城。
ジュリアン。
戻りたい場所へ戻らない。
人数。
任務。
合理。
「敵艦隊、前進!」
見張りが叫ぶ。
東港攻撃と同時。
中央港へも。
交渉中。
一日の猶予を返答せず。
灰冠旗とアルビオン旗。
弓兵が甲板へ。
大型弩。
石弾。
「盾!」
港壁に盾列。
「射程へ入るまで待て!」
兵士の息。
汗。
恐怖。
海上の船が大きくなる。
アルベリクは帳面を開く。
まだ死んでいない兵士たち。
名前は空白。
これから書かれる。
「参謀殿」
王国軍副官が言う。
「これは戦争ですか」
正式な宣戦布告はない。
アルビオン王の印もない。
灰冠の契約艦隊。
副提督の私兵。
介入協定。
「分かりません」
アルベリクは答えた。
「では、何として戦います」
「港への攻撃です」
「敵国は」
「目の前の船」
単純にする。
戦場では必要。
だが戦場の外では、単純にしてはいけない。
「第一射、用意」
敵艦が射程へ。
アルベリクは手を上げた。
下ろせば、ヴァルネリア王国とアルビオン海王国の戦争が始まったと、後世に書かれるかもしれない。
あるいは、灰冠派閥との局地戦。
どの名になるかは勝者が決める。
矢を受ける兵士には関係ない。
敵艦から最初の矢。
高く。
弧。
港壁へ。
一人の兵士が盾を上げる。
矢は盾を貫き、肩へ。
倒れる。
血。
「撃て!」
アルベリクが手を下ろした。
ヴァルネリアの弩が一斉に鳴った。
夏の海へ、黒い矢が飛ぶ。
第二部最初の戦い。
王冠たちの夏は、交渉の返答ではなく、旗を二つ掲げた船の第一射によって始まった。