灰冠と香路の年代記   作:MOZIO

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第二部 王冠たちの夏
第九章 閉ざされた軍務局


王国の扉には、二種類ある。

 

外敵を防ぐための扉。

 

そして、味方を締め出すための扉。

 

灰暦八百七十二年、夏の第二日。

 

ヴァルネリア王都の王立軍務局は、後者の扉を閉ざした。

 

正面の青銅門には横木が渡され、狭間には弩兵が立った。

 

軍務局前広場へ通じる三本の通りは、軍務卿直属の兵によって封鎖された。

 

屋上には青地に銀剣の軍務旗。

 

その下に、国王アドリアン二世の青百合旗も掲げられている。

 

反乱者は、王の旗を下ろさなかった。

 

むしろ、王への忠誠を主張するために掲げた。

 

門の外へ貼り出された布告には、こう記されていた。

 

《軍務局は国王陛下と王国統一法への忠誠を保持する》

 

《サン・ルシアン協約に基づく監査命令は、反乱諸侯および外国金融勢力の干渉を受けて成立した疑いがある》

 

《真正なる王命が確認されるまで、軍事機密の引き渡しを拒否する》

 

《軍務局へ武力を用いる者こそ、王国への反逆者である》

 

王命に従わないために、王へ忠誠を誓う。

 

矛盾しているように見える。

 

だが軍務卿シャルル・ド・モントレーにとっては、矛盾ではなかった。

 

王が誤った命令を出したなら、その命令を拒むことこそ王を守る。

 

王が敵に欺かれているなら、敵から王権を守る者が真の臣下。

 

王国を守るためなら、王本人へ逆らうことも忠誠に含まれる。

 

危険な理屈だった。

 

同時に、王国の歴史を作ってきた理屈でもあった。

 

---

 

## 一

 

アルベリク・フォン・ライナーは、軍務局正面広場の中央で馬を止めた。

 

王国親衛軍百二十。

 

王都民兵二百。

 

都市職人組合の監査人三十。

 

軍務局を包囲するには少ない。

 

交渉へ来た人数としては多すぎる。

 

門の上から弩が向けられている。

 

アルベリクは兜を脱いだ。

 

敵意がないことを示すためではない。

 

狙撃手に顔を見せるためだった。

 

軍務局の兵の多くは彼を知っている。

 

東部方面軍作戦参謀。

 

ライナー辺境伯の息子。

 

サン・ルシアンで公爵夫人を救った男。

 

命令を拒んだ男。

 

見る者によって、忠臣にも裏切り者にもなる。

 

「軍務卿へ伝えろ!」

 

アルベリクが叫ぶ。

 

「国王陛下の監査令を持参した!」

 

門上の士官が答えた。

 

「署名は真正か!」

 

「陛下が御前で署名された!」

 

「証人は!」

 

「国王書記局長、財務卿、三身会議代表七名!」

 

「反乱諸侯の証人は認めない!」

 

「王の署名より証人を選ぶのか!」

 

返答が途切れた。

 

軍務局側も、自分たちの論理がどこへ向かうか理解している。

 

王命が真正であるかを臣下が審査する。

 

それを許せば、すべての命令が拒否できる。

 

だが一度門を閉じた以上、簡単には開けられない。

 

開けば、自分たちが反乱したと認めることになる。

 

「参謀殿」

 

隣でマティアス・コルヴァンが言った。

 

職人組合の上着。

 

武器は持っていない。

 

代わりに帳簿鞄。

 

「門の兵、昨日より増えています」

 

「分かるのか」

 

「炊事煙が三本増えた」

 

軍務局の中庭。

 

煙突。

 

兵が泊まり込んでいる。

 

「外から入った?」

 

「夜中に裏門から荷車が七台」

 

「穀物か」

 

「五台は車輪の沈み方が重かった。二台は軽い」

 

「重い方は食糧。軽い方は人か、武器」

 

「逆かもしれません」

 

マティアスは門を見る。

 

「空の荷車を重く見せることもできます」

 

アルベリクは彼を見た。

 

「軍人になれます」

 

「嫌です」

 

「即答ですね」

 

「軍人は、分からないことを命令で埋める」

 

「職人は?」

 

「測り直す」

 

「戦場では測り直している間に死にます」

 

「だから嫌です」

 

広場の左右。

 

王都民が遠巻きに見ている。

 

商人。

 

職人。

 

下働き。

 

兵士の家族。

 

軍務局の中に夫や息子がいる者も多い。

 

王国軍同士が戦えば、王都は内戦の最初の戦場になる。

 

窓は閉められ、露店は消えた。

 

だが人々は去らない。

 

何が起きるか見届けたい。

 

あるいは、どちらが勝つか見てから味方を決めたい。

 

「アルベリク!」

 

門上に軍務卿シャルルが現れた。

 

兜なし。

 

黒い軍衣。

 

肩には王国軍総監の銀鎖。

 

「一人で入れ!」

 

「監査人も」

 

「一人だ!」

 

「人質にするつもりですか」

 

「お前一人を人質にして、何になる」

 

「父の城へ送れば役に立つかもしれません」

 

軍務卿の口元が動く。

 

笑いではない。

 

「相変わらず、口だけは動く」

 

「門を閉ざすよりは」

 

広場の兵士がざわめく。

 

アルベリクは親衛隊長へ命じた。

 

「私が戻るまで、攻撃するな」

 

「戻られなければ」

 

「攻撃するな」

 

「参謀殿」

 

「軍務卿が私を殺せば、攻撃を待っているということです」

 

「では、なおさら」

 

「待っている相手へ、望んだものを与えるな」

 

マティアスが言った。

 

「私も行きます」

 

「一人と」

 

「私は軍人ではありません」

 

「詭弁です」

 

「軍務卿が軍事機密を理由に監査を拒むなら、何が機密で何が会計かを分ける者が必要です」

 

「殺されます」

 

「門の外でも戦闘になれば同じです」

 

アルベリクは考えた。

 

マティアスは必要。

 

同時に、王都職人組合の代表を危険へ入れることになる。

 

本人が選んだ。

 

それでも命令するのはアルベリク。

 

「私の後ろから離れないでください」

 

「盾にする?」

 

「軍人は防具が厚い」

 

「私は帳簿が厚い」

 

二人は門へ進んだ。

 

小扉が開く。

 

武器を預ける。

 

アルベリクは剣。

 

短剣。

 

隠し針。

 

すべて。

 

マティアスは帳簿鞄を調べられた。

 

「筆も武器になります」

 

軍務局兵が言う。

 

「帳簿へ嘘を書くなら」

 

マティアスが答える。

 

「筆を預けろ」

 

「帳簿を見るのに必要です」

 

「記憶しろ」

 

「軍務局は記憶で会計しているのか」

 

兵士の顔が赤くなる。

 

アルベリクが止める。

 

「筆は一本だけ」

 

軍務局側は、しぶしぶ認めた。

 

小扉が閉じる。

 

外から味方が見えなくなる。

 

味方。

 

その言葉が、もう不確かだった。

 

---

 

## 二

 

軍務局の内部は、通常どおりに動いていた。

 

書記が書類を運ぶ。

 

伝令が走る。

 

地図室では軍官が駒を動かす。

 

厨房から煮豆の臭い。

 

兵舎では武具の手入れ。

 

門を閉ざした組織ほど、内部では日常を保とうとする。

 

日常が続いていれば、自分たちは反乱者ではなく、正規の役所だと思える。

 

廊下の壁には、歴代国王の肖像。

 

アドリアン二世の肖像もある。

 

若い王。

 

戴冠式。

 

青百合の王冠。

 

その下を、王命へ従わない兵士が歩く。

 

「兵は何人です」

 

マティアスが小声で尋ねる。

 

「見える範囲で四百」

 

「昨日の常駐は」

 

「二百五十」

 

「増援百五十」

 

「少なくとも」

 

「裏門から入った二台が人なら」

 

「もっと多い」

 

二人は最上階の軍務卿室へ通された。

 

シャルル・ド・モントレーは机の前に立っていた。

 

周囲に副官三人。

 

地図局長。

 

軍需局長。

 

王国情報局次長。

 

全員、アルベリクが知る顔。

 

反乱者の顔ではない。

 

何年も同じ軍で働いた者たち。

 

命令書へ署名し、戦死報告を読み、補給不足を議論した人々。

 

「職人を連れてくるとは」

 

軍務卿がマティアスを見る。

 

「王都職人組合監査人です」

 

「王国軍の機密へ、毛織物屋を?」

 

「私は時計職人です」

 

マティアスが答える。

 

「似たようなものだ」

 

「軍務局の時計は遅れているようです」

 

「何が」

 

「王命に」

 

副官が前へ出かける。

 

シャルルが手で止めた。

 

「座れ」

 

椅子は二つ。

 

アルベリクとマティアス。

 

軍務卿は座らない。

 

上下関係を示す配置。

 

二人も座らなかった。

 

「交渉に来たのではないのか」

 

「監査令の執行です」

 

アルベリクが答える。

 

「命令書を」

 

渡す。

 

軍務卿は読み、王の署名を指でなぞった。

 

「本物に見える」

 

「本物です」

 

「見えると言った」

 

「陛下の御前で」

 

「王は一人だったか」

 

「何を疑っているのです」

 

「脅迫」

 

「誰が」

 

「公爵夫人。都市代表。灰冠会議。あるいは、そのすべて」

 

「陛下はサン・ルシアン協約を自ら提案した」

 

「王は暗殺未遂の直後だった。姉を失う恐怖。群衆。小麦不足。正常な判断ではない」

 

アルベリクは軍務卿を見る。

 

「王の判断能力を否定するのですか」

 

「守ろうとしている」

 

「王が自分の判断を取り戻したと、誰が決める」

 

「私だ」

 

部屋が静かになる。

 

言ってしまった。

 

軍務卿自身も、その重さを理解した。

 

「軍務卿が王を審査する」

 

アルベリクが言う。

 

「一時的にだ」

 

「一時の終わりは」

 

「脅威が除かれたとき」

 

「誰が判断する」

 

答えは同じ。

 

シャルル。

 

アルベリクは机へ命令書を置いた。

 

「それは摂政です」

 

「違う」

 

「名を変えても」

 

「私は王位を望まない」

 

「王位を望まなくても、王の決定権を奪えます」

 

軍務卿の顔に怒り。

 

「お前は、何も知らない」

 

「何を」

 

シャルルは地図局長へ合図した。

 

壁の大地図が開かれる。

 

ヴァルネリア西岸。

 

アルビオン海王国。

 

海峡。

 

赤い駒。

 

艦隊。

 

「アルビオン艦隊が出港準備に入った」

 

アルベリクが地図へ近づく。

 

「情報源は」

 

「王国情報局」

 

「艦数」

 

「大型帆船二十八。輸送船四十以上」

 

「目的地は」

 

「不明」

 

「出港していない」

 

「準備だけで十分だ」

 

アルビオン海王国。

 

海峡の向こう。

 

強力な海軍。

 

ヴァルネリア沿岸の港へ古くから権利を主張する。

 

国内が内戦になれば介入する可能性。

 

「三身会議との内戦を避けたから、侵攻理由は減りました」

 

「逆だ」

 

軍務卿が言う。

 

「王が諸侯へ譲歩し、軍務局の帳簿を公開しようとしている。アルビオンは我々の動員能力を知る」

 

「公開対象は国内監査人です」

 

「都市代表の中に、アルビオン商人と取引する者が何人いる」

 

「だから全員を敵と?」

 

「敵は一人でなくてよい。銀貨一枚で書類を写す書記がいれば足りる」

 

正しい。

 

監査は情報漏洩の危険を増やす。

 

だが秘密は横領と陰謀を隠す。

 

どちらも真実。

 

「監査範囲を分けます」

 

マティアスが言った。

 

「戦略配置、動員計画、暗号は除く。見るのは支出、契約、在庫」

 

「在庫を見れば動員規模が分かる」

 

「数量を秘匿して、帳簿の一致だけ確認する方法もある」

 

「職人の工房ではない」

 

「工房の方が、材料一つ足りなくても商品が止まります」

 

「軍は国が止まる」

 

「だから確認する」

 

軍務卿はマティアスを見た。

 

「お前は、軍の責任を負えるのか」

 

「負えません」

 

即答。

 

「なら口を出すな」

 

「責任を負えない者が見ても分かる形にするのが監査です」

 

「戦争を知らない」

 

「軍務局が小麦五千樽を消した理由は、戦争を知らない私にも関係があります。王都のパンです」

 

シャルルの目が変わる。

 

「五千樽は消えていない」

 

「どこに」

 

沈黙。

 

「軍事機密ですか」

 

マティアスが尋ねる。

 

「そうだ」

 

「小麦の場所が?」

 

「備蓄地点だ」

 

「帳簿では閉鎖中の聖オルバン修道院へ移送」

 

「偽装だ」

 

「軍務局が偽装した?」

 

「敵へ備蓄場所を知られないため」

 

「国王にも?」

 

「陛下は知っている」

 

「陛下は知らなかった」

 

アルベリクが言う。

 

軍務卿の眉が動いた。

 

「確認したのか」

 

「御前で」

 

「王は忘れている」

 

「記録は」

 

「口頭命令だ」

 

「いつ」

 

「昨年秋」

 

「陛下は、どの言葉で」

 

軍務卿が答えない。

 

アルベリクは気づいた。

 

王の命令ではない。

 

あるいは、軍務卿が王の曖昧な言葉を命令として解釈した。

 

「どこにあるのです」

 

「言えない」

 

「王へだけ」

 

「ここへ呼べ」

 

「門を閉じた軍務局へ?」

 

「王が本当に自由なら来られる」

 

「兵を伴えば」

 

「入れない」

 

「一人なら人質にできる」

 

「王を人質にはしない!」

 

シャルルの声が初めて大きくなる。

 

感情。

 

本気。

 

彼は王を傷つけるつもりはない。

 

だから安全ではない。

 

善意で王の自由を奪う者は、自分を犯罪者と思わない。

 

「五千樽は、どこです」

 

アルベリクが繰り返した。

 

軍務卿は長く黙った。

 

「沿岸の秘密倉庫」

 

「アルビオン対策?」

 

「三か所へ分散」

 

「兵も」

 

「沿岸予備隊を編成している」

 

「王命なしで?」

 

「緊急防衛権限だ」

 

「兵数」

 

「四千」

 

アルベリクは息を止めた。

 

四千。

 

軍務局直属。

 

諸侯登録外。

 

国王親衛軍の指揮系統外。

 

「私兵です」

 

「王国軍だ」

 

「王が存在を知らない王国軍」

 

「知っていた!」

 

「口頭命令で?」

 

軍務卿が机を叩いた。

 

「二年前、陛下は言われた! 海峡の盾を作れと!」

 

「比喩です」

 

「命令だ!」

 

「予算承認は」

 

「紫帳ではない! 王国防衛基金だ!」

 

机から別の帳簿。

 

灰色の革。

 

マティアスが受け取る。

 

融資。

 

複数商会。

 

沿岸砦修復。

 

兵の給金。

 

穀物。

 

船。

 

合計。

 

王国正規予算の三分の一に近い。

 

「債権者は」

 

マティアスが頁をめくる。

 

「白冠救国基金。海燕共同事業体。北海慈善組合……」

 

アルベリクの背中が冷える。

 

灰冠関連で見つかった名義。

 

聖ロシュ湾の旧軍艦を所有した海燕共同事業体。

 

「灰冠会議です」

 

アルベリクが言った。

 

軍務卿の顔が固まる。

 

「何を」

 

「海燕共同事業体は、オルシャを襲った艦隊の所有名義です」

 

「証拠は」

 

「オルシャ共同宣言に添付された船舶記録」

 

「偽造だ」

 

「すべてを偽造で終わらせるのですか」

 

「我々の基金は三年前からある!」

 

「灰冠会議の分裂と同じ時期です」

 

シャルルは帳簿を奪い返した。

 

「債権者が誰であろうと、兵は王国を守る」

 

「借金の条件は」

 

マティアスが尋ねる。

 

「何だ」

 

「返済できなければ」

 

「沿岸関税の一部」

 

「それだけ?」

 

「軍港使用権」

 

「期間」

 

「十五年」

 

「外国商会へ軍港を?」

 

「融資者はヴァルネリア法人だ」

 

「実体は灰冠」

 

「後から分かった名で、過去の判断を裁くな!」

 

軍務卿の怒りには、恐怖が混じっていた。

 

自分が王国を守るため作った盾が、敵の金で作られていた。

 

認めれば、人生の仕事が崩れる。

 

「監査を受け入れてください」

 

アルベリクが言った。

 

「債権契約を確認する。兵の指揮権を国王へ戻す。五千樽を正規帳簿へ」

 

「その間にアルビオンが来る」

 

「沿岸予備隊は解散しない」

 

「都市監査人へ見せれば漏れる」

 

「限定監査」

 

「信じられない」

 

「私もあなたを信じられない」

 

二人は互いを見る。

 

以前なら、軍務卿の命令へ従った。

 

尊敬もしていた。

 

いまも、彼が王国を売ろうとしたとは思わない。

 

だから余計に難しい。

 

悪意ある裏切り者なら、逮捕すればよい。

 

善意で危険なことをした者は、罪と功績が分かれない。

 

「アルベリク」

 

シャルルが声を落とした。

 

「お前に沿岸軍を預ける」

 

「何を」

 

「私の代わりに指揮しろ」

 

副官たちが驚く。

 

「門を開け、陛下へ軍を返す。その条件として、お前が沿岸防衛総監になる」

 

「取引ですか」

 

「王国を守るためだ」

 

「なぜ私を」

 

「灰冠に買われていないと分かる」

 

「父が反乱中です」

 

「だから金に困っている。だが受け取らなかった」

 

「調べた?」

 

「軍務局は、お前の口座も手紙も見ている」

 

マティアスが眉を寄せる。

 

「立派な忠誠です」

 

シャルルは無視した。

 

「アルビオン艦隊が動けば、王都の会議など意味がない。沿岸へ行け」

 

「あなたは」

 

「監査を受ける」

 

「拘束も」

 

「受け入れる」

 

副官が叫ぶ。

 

「軍務卿!」

 

シャルルが手を上げる。

 

「ただし、王が私へ直接命じること」

 

「陛下をここへ入れろと」

 

「中庭でよい。双方の兵を百歩離す。私は一人で出る」

 

アルベリクは考えた。

 

門を開ける道。

 

同時に、罠の可能性。

 

軍務卿を狙う者。

 

王を狙う者。

 

灰冠は対立を作った。

 

和解を狙う瞬間こそ、再び攻撃する。

 

「条件を陛下へ伝えます」

 

「今日の日没まで」

 

「なぜ期限を」

 

「アルビオン艦隊が今朝、港を出た」

 

「確認は」

 

「灰冠の情報ではない。沿岸灯台からの信号だ」

 

「進路は」

 

「東」

 

ヴァルネリア方向。

 

本物の脅威。

 

軍務卿が作った秘密軍も、完全な妄想ではなかった。

 

敵は嘘だけを使わない。

 

真実を混ぜる。

 

正しい恐怖。

 

誤った手段。

 

それが最も強い。

 

---

 

## 三

 

アルベリクとマティアスが軍務局を出たとき、広場の空気はさらに緊張していた。

 

親衛軍の後方に、王国近衛騎士が到着している。

 

先頭に国王アドリアン。

 

王冠はない。

 

軽い鎧。

 

姉エレノアも。

 

公爵家兵は連れていない。

 

護衛十騎。

 

「陛下」

 

アルベリクが片膝をつく。

 

「中は」

 

国王が尋ねる。

 

「軍務卿は、陛下との直接対話を求めています」

 

「門を開けるか」

 

「中庭へ一人で出ると」

 

「罠です」

 

近衛隊長が言う。

 

「可能性はあります」

 

アルベリクは答えた。

 

「だが軍務卿本人が仕掛けるとは考えにくい」

 

「部下が?」

 

エレノアが尋ねる。

 

「灰冠の協力者が内部にいる可能性があります」

 

マティアスが灰色の帳簿の内容を説明する。

 

沿岸秘密軍。

 

小麦五千樽。

 

海燕共同事業体。

 

軍港使用権。

 

アドリアンの顔が変わる。

 

「私は命じていない」

 

「海峡の盾を作れと仰ったそうです」

 

「二年前の軍議で?」

 

「はい」

 

国王は額へ手を当てた。

 

「沿岸砦を修復し、警戒船を増やせという意味だ」

 

「軍務卿は四千の軍を作りました」

 

「四千」

 

エレノアが低く繰り返す。

 

「王国法外の兵」

 

「軍務卿は王国軍と考えています」

 

「弟」

 

エレノアが国王を見る。

 

「あなたの曖昧な命令が原因です」

 

近衛隊長が不快な顔。

 

王へ責任を問う。

 

だがアドリアンは否定しなかった。

 

「そうだ」

 

短く答える。

 

「私が強い王を演じ、軍務卿が聞きたい命令を聞いた」

 

「陛下だけの責任では」

 

アルベリクが言う。

 

「分けても減らない」

 

国王は門を見る。

 

「中庭へ入る」

 

「危険です」

 

「王が直接命じろと」

 

「外で会えます」

 

「彼は出ない」

 

「出させます」

 

「どうやって」

 

「兵糧を止める。水路を閉じる。時間をかける」

 

「アルビオン艦隊が動いている」

 

「だからこそ、陛下を失えません」

 

アドリアンがアルベリクへ近づく。

 

「軍務卿が私を殺すと思うか」

 

「思いません」

 

「なら」

 

「彼以外が殺します」

 

王は黙る。

 

サン・ルシアン。

 

鐘楼。

 

暗殺。

 

灰冠は和解を壊すため、最適な瞬間を選ぶ。

 

「私が先に入ります」

 

エレノアが言った。

 

「姉上?」

 

「軍務卿の要求は国王との対話。だが彼が本当に弟を守りたいなら、私を人質にする理由はない」

 

「反乱諸侯の首魁と考えています」

 

「だから殺せば、軍務局が反乱側を排除したと支持する者がいる」

 

「なおさら」

 

「弟が死ぬよりはよい」

 

「よくない」

 

アドリアンの声が強くなる。

 

姉弟が見つめ合う。

 

「私は国王です」

 

「だから代わりがいない」

 

「姉上にも代わりはいない」

 

「公爵位は息子が継ぐ」

 

「人間の話をしている!」

 

広場の兵が聞いている。

 

王と姉。

 

公の場。

 

アドリアンは声を抑えた。

 

「一緒に入る」

 

「陛下」

 

アルベリクが反対する。

 

「軍務卿の条件は一人です」

 

「王が条件を変える」

 

「門を閉じている者は」

 

「それでもだ」

 

マティアスが言った。

 

「中庭ではなく、門の間にしてください」

 

全員が彼を見る。

 

「外門と内門の間。双方から見える。軍務局側は内門の上、親衛軍は外から。誰かが弩を撃てば、どちらからか分かる」

 

「挟まれる」

 

近衛隊長が言う。

 

「だから中央に盾壁を置かない。国王と軍務卿だけ。周囲を空ける」

 

「暗殺者が屋上に」

 

「屋上の兵を双方十人ずつで交代確認」

 

「軍務局が許すか」

 

「許さなければ対話する気がない」

 

マティアスは軍人ではない。

 

だから軍の名誉より、作業の手順を見る。

 

どの位置。

 

誰が確認。

 

何を記録。

 

和平も、時計の修理と同じように扱う。

 

部品を外し、噛み合う場所を確かめる。

 

「採用する」

 

アドリアンが言った。

 

「交渉を」

 

アルベリクは再び門へ向かった。

 

---

 

## 四

 

軍務局側は、門間交渉を受け入れた。

 

条件。

 

双方の兵は弩を下ろす。

 

屋上確認隊は混成。

 

門間には国王アドリアン、軍務卿シャルル、立会人としてエレノアとアルベリク。

 

マティアスは記録係。

 

軍務局側の記録係一名。

 

開始は正午鐘の直後。

 

王都中へ触れが出された。

 

軍務局と王が交渉する。

 

民衆はさらに集まる。

 

屋根。

 

窓。

 

路地。

 

王の安全を願う者。

 

軍務卿を支持する兵士の家族。

 

暴動を期待する盗賊。

 

灰冠の協力者がいるかもしれない。

 

正午鐘。

 

一度。

 

小扉が開く。

 

最初に軍務局側確認隊。

 

親衛軍側も。

 

屋上。

 

窓。

 

鐘楼。

 

倉庫。

 

弩兵は弦を外す。

 

完全ではない。

 

隠し弩。

 

短弓。

 

投石。

 

毒針。

 

すべてを確認できない。

 

安全は、最後には誰かが攻撃しないという賭けになる。

 

外門が開く。

 

アドリアン。

 

エレノア。

 

アルベリク。

 

マティアス。

 

内門が開く。

 

シャルル。

 

軍務局書記。

 

門間。

 

石壁。

 

上には兵。

 

前後に鉄扉。

 

王と軍務卿が向き合う。

 

シャルルは片膝をついた。

 

「国王陛下」

 

「忠臣が門を閉じるのか」

 

アドリアンが言う。

 

「陛下をお守りするためです」

 

「私から?」

 

「陛下を欺く者から」

 

「誰が私を欺いた」

 

「サン・ルシアンの群衆。諸侯。灰冠会議」

 

「私自身は」

 

「恐怖と疲労の中におられました」

 

「それでも私が王だ」

 

「はい」

 

「なら命令する。門を開けろ」

 

シャルルは顔を上げる。

 

「沿岸軍を守ってください」

 

「知らない軍を、どう守れと」

 

「陛下のために作りました」

 

「私の言葉を、自分の望む命令へ変えた」

 

「必要でした」

 

「必要なら、私へ説明すべきだった」

 

「財務卿が反対する。諸侯が情報を漏らす。三身会議は半年議論する。その間にアルビオンが来る」

 

「来た」

 

国王は言った。

 

「だから、お前の恐怖は正しかった」

 

シャルルの表情が揺れる。

 

「では」

 

「手段が正しかったとは言わない」

 

「陛下」

 

「お前は、正しい敵を見つけ、間違った王国を作った」

 

沿岸秘密軍。

 

秘密倉庫。

 

秘密債務。

 

王の知らない王国。

 

「四千の兵を、正規軍へ編入する」

 

アドリアンが続ける。

 

「給金と家族を保護する。指揮官は再任審査。債務は公開監査。軍港使用権は凍結」

 

「債権者が契約違反を」

 

「灰冠関連なら争う」

 

「違えば」

 

「返す」

 

「財源は」

 

「三身会議へ求める」

 

シャルルが苦く笑う。

 

「議論している間に艦隊が来ます」

 

「緊急予算は協約で認められた」

 

「追認が必要」

 

「四十日後だ」

 

「否決されれば」

 

「私が責任を負う」

 

「王は首を差し出せない」

 

「王冠を失う」

 

「国が失われたあとでは遅い」

 

「お前も同じことを言った」

 

アドリアンは一歩近づく。

 

「責任を負うとは、失敗後に死ぬことではない。失敗の可能性を他人へ見せることだ」

 

軍務卿は黙る。

 

「帳簿を開け」

 

「軍事機密は」

 

「限定監査」

 

「監査人が漏らせば」

 

「処罰する。だが漏れるかもしれないことを理由に、永遠に隠すことは許さない」

 

「沿岸軍の指揮は」

 

「アルベリクへ」

 

シャルルが彼を見る。

 

提案どおり。

 

「本人は」

 

「受けるか」

 

王が尋ねる。

 

アルベリクは答える前に考えた。

 

父の城。

 

東部方面軍。

 

沿岸。

 

アルビオン。

 

軍務卿の秘密軍。

 

受ければ、シャルルの遺産を継ぐ。

 

拒めば、別の者が指揮する。

 

「受けます」

 

「条件は」

 

シャルルが尋ねる。

 

アルベリクが条件を持つと分かっている。

 

「沿岸軍の兵籍を公開。徴募経路を確認。諸侯領から違法に集めた兵は帰還権を与える。債権者の命令を受けた士官は停職」

 

「戦力が半分になる」

 

「知らずに敵へ従う四千より、確認した二千の方がよい」

 

「アルビオンは待たない」

 

「陛下の正規軍を追加します」

 

アドリアンが言う。

 

「姉上」

 

エレノアを見る。

 

「ヴァルネ公爵領から沿岸防衛へ兵を出せますか」

 

公爵夫人はすぐ答えない。

 

弟への協力。

 

諸侯から王党派と見られる。

 

公爵領の兵を海岸へ出せば、領地防衛が薄くなる。

 

「千五百」

 

「公爵夫人」

 

アルベリクが驚く。

 

「ただし、王国軍へ完全編入はしません。共同指揮」

 

シャルルが反発する。

 

「私兵を国境へ?」

 

「あなたの秘密軍より、旗が見えるだけましです」

 

軍務卿は言葉を失う。

 

「アルベリクを総指揮。王国軍と公爵軍から副官一名ずつ。兵站監査は都市代表」

 

エレノアが提案する。

 

「都市が軍へ」

 

「小麦を出すのは都市と農民です」

 

アドリアンが頷く。

 

「認める」

 

軍務卿は四人を見る。

 

自分が望んだ強い統一軍ではない。

 

王。

 

諸侯。

 

都市。

 

互いに監視する軍。

 

動きは遅い。

 

命令は複雑。

 

だが一人が国を私物化しにくい。

 

「陛下」

 

シャルルが言った。

 

「私は拘束されますか」

 

「監査終了まで軍務卿職を停止する」

 

「牢へ」

 

「自宅軟禁」

 

「甘いと非難されます」

 

「死刑にすれば口を閉じるためと言われる」

 

シャルルがアルベリクを見る。

 

以前、彼自身がミハイルへ同じことを言った。

 

生かして尋問しろ。

 

「王は変わられた」

 

軍務卿が言う。

 

「誰のせいだ」

 

アドリアンが答えた。

 

「お前たち全員だ」

 

「門を開けます」

 

シャルルは片膝をついた。

 

「王命に従います」

 

門上の兵がざわめく。

 

命令を伝えるため、軍務局書記が内門へ向かう。

 

その瞬間だった。

 

屋上から音。

 

弦。

 

アルベリクが反応する。

 

どちらの屋上か。

 

軍務局側。

 

だが混成確認隊がいる。

 

短い矢が飛ぶ。

 

国王ではない。

 

シャルルへ。

 

アルベリクは軍務卿を押した。

 

矢は肩へ刺さる。

 

アルベリクの肩ではない。

 

マティアス。

 

彼が記録板を掲げ、軌道へ入っていた。

 

木板を貫通。

 

左腕へ。

 

「伏せろ!」

 

アルベリクが叫ぶ。

 

第二の矢。

 

エレノアが国王を壁へ押す。

 

シャルルが内門側を見る。

 

「撃つな!」

 

双方の兵が弩を構える。

 

誰が敵か分からない。

 

一人が撃てば、全員が始める。

 

「弩を下ろせ!」

 

アドリアンが叫ぶ。

 

「撃った者だけを捕らえろ!」

 

屋上で争い。

 

軍務局兵と親衛兵の混成確認隊。

 

灰色の外套ではない。

 

王国軍の制服。

 

男が短弩を捨て、屋上の縁へ走る。

 

捕らえられる前に飛ぶ。

 

下は石畳。

 

死ぬ。

 

だが途中の旗綱を掴んだ。

 

身体を振り、外壁側へ。

 

用意していた縄。

 

降下。

 

広場の群衆へ。

 

親衛兵が追う。

 

人々が逃げる。

 

男は軍務局制服を脱ぐ。

 

下に職人服。

 

群衆へ紛れる。

 

「門を閉じるな!」

 

アルベリクが叫ぶ。

 

軍務局側が反射的に内門を閉めようとする。

 

閉じれば交渉は破綻。

 

「開けたままにしろ!」

 

シャルルも命じた。

 

軍務卿と参謀。

 

同じ命令。

 

兵士が止まる。

 

マティアスは床へ座り込んでいた。

 

矢が左前腕を貫いている。

 

血。

 

「医師!」

 

アルベリクが膝をつく。

 

「板を上げた?」

 

「記録が穴だらけになります」

 

「腕もです」

 

「腕は二本ある」

 

「帳簿は書き直せます」

 

「交渉は?」

 

マティアスが国王と軍務卿を見る。

 

「続けろ」

 

声が震えている。

 

「撃った奴は、閉じさせたかった」

 

正しい。

 

狙いはシャルル。

 

軍務卿が王との交渉中に殺されれば、軍務局兵は王の罠と考える。

 

門を閉じる。

 

戦闘。

 

逆に王が傷つけば、親衛軍が突入。

 

どちらでもよい。

 

「治療へ」

 

アルベリクが兵へ命じる。

 

マティアスが記録板を離さない。

 

矢が板と腕をつないでいる。

 

医師が板を割る。

 

木片。

 

血。

 

「軍務卿」

 

アドリアンが言った。

 

騒ぎの中。

 

「門を開けろ」

 

シャルルは屋上を見た。

 

自分の制服を着た暗殺者。

 

内部へ入り込んでいた。

 

誰の部下か。

 

軍務局。

 

灰冠。

 

両方か。

 

「開門!」

 

軍務卿が叫ぶ。

 

「全門を開けろ!」

 

青銅門の横木が外される。

 

重い音。

 

正面門が動く。

 

軍務局前広場から、人々が見る。

 

閉ざされていた扉が開く。

 

親衛軍は突入しない。

 

軍務局兵も弩を下ろす。

 

王が門の中央に立つ。

 

隣に軍務卿。

 

姉。

 

アルベリク。

 

負傷したマティアスが運ばれていく。

 

「軍務局は王命へ服する!」

 

シャルルが広場へ宣言した。

 

「監査を受け入れる!」

 

軍務局兵の一部が安堵。

 

一部が失望。

 

一部が怒る。

 

全員が従うとは限らない。

 

だが門は開いた。

 

物理的な扉が開けば、兵士にとって命令の意味が変わる。

 

籠城は終わった。

 

少なくとも王都では。

 

---

 

## 五

 

暗殺者の死体は見つからなかった。

 

広場で職人服へ着替えたあと、群衆へ消えた。

 

残された軍務局制服。

 

短弩。

 

矢。

 

制服の裏側に洗濯印。

 

軍務局第三宿舎。

 

該当する兵士は三日前から病欠。

 

自宅で死んでいた。

 

喉を切られ、制服を奪われた。

 

暗殺者は軍務局内部へ正規の通行証で入った。

 

通行証の署名は王国情報局次長。

 

交渉の部屋にいた男。

 

次長は逃亡。

 

執務室の金庫は空。

 

家族も消えている。

 

灰冠に協力したのか。

 

脅迫されたのか。

 

家族ごと逃がされたのか。

 

分からない。

 

「この署名です」

 

アルベリクは軍務局監査室で書類を見た。

 

王国情報局次長ルネ・ヴァラン。

 

軍務卿が信頼していた情報官。

 

アルビオン艦隊出港の報告も、彼の経路。

 

「出港情報自体は本物です」

 

沿岸伝令が言う。

 

「灯台信号を確認」

 

「艦数は」

 

「大型艦十五。輸送船十二」

 

軍務卿が示した二十八と四十より少ない。

 

脅威は実在。

 

規模は誇張。

 

情報局次長が数字を増やした。

 

軍務卿の恐怖を強め、門を閉じさせるため。

 

「アルビオンの目的は」

 

「南方航路演習との布告」

 

「ヴァルネリア方面へ進んでいる?」

 

「艦隊は東へ。海峡中央で南東へ変針した可能性」

 

侵攻とは断定できない。

 

だが沿岸防衛を解くこともできない。

 

「灰冠は、アルビオンにも侵攻情報を流しているでしょう」

 

エレノアが言う。

 

「我々が沿岸軍を集めれば、相手は本物だと考える」

 

安全保障の罠。

 

動かなければ危険。

 

動けば相手を動かす。

 

「使者を」

 

アドリアンが命じる。

 

「アルビオン王へ、艦隊の目的を照会。こちらの沿岸軍は防衛配置であり、海峡を越えないと伝える」

 

シャルルが反対する。

 

自宅軟禁へ移される前、最後の軍議。

 

「弱さを見せます」

 

「何も言わず兵を集めれば、攻撃準備に見える」

 

「本当の侵攻なら、情報を与える」

 

「配置詳細は出さない」

 

「使者が捕らえられれば」

 

「もう敵だと分かる」

 

軍務卿は黙る。

 

王の判断。

 

以前なら、反対して秘密に進めた。

 

今は命令へ従う。

 

それが正しいかは、まだ分からない。

 

「沿岸軍へ出発します」

 

アルベリクが言った。

 

「今夜」

 

エレノアが尋ねる。

 

「ライナー城は」

 

父。

 

包囲。

 

東部方面軍。

 

副官ハンス。

 

「包囲は維持。攻撃停止を延長します」

 

「軍務卿の事件で、父君は王国が弱ったと判断するかもしれない」

 

「分かっています」

 

「城から出れば」

 

「ハンスが対処します」

 

エレノアは彼を見た。

 

「すべてを自分で持てない」

 

「はい」

 

「本当に分かっている?」

 

「分かっていません」

 

正直な答え。

 

アルベリクは父の城を部下へ任せ、海へ行く。

 

家族との戦いから逃げるように見える。

 

同時に、王国全体を守るため必要。

 

人間の動機は一つではない。

 

「沿岸へ、ジュリアンを同行させます」

 

エレノアが言った。

 

「公爵家兵の副指揮官として」

 

「公子を?」

 

「二十歳です。戦場へ出る年齢」

 

「公爵夫人の後継者です」

 

「だからです」

 

エレノアは息子を政治の外へ置けない。

 

安全な場所へ隠せば、諸侯は弱い後継者と見る。

 

戦場へ出せば死ぬ。

 

「私情で特別扱いしません」

 

アルベリクが言う。

 

「してください」

 

意外な言葉。

 

「何を」

 

「公爵家の後継者としてではなく、経験の少ない将として扱って。危険な英雄役を与えないでください」

 

「本人が望めば」

 

「止めて」

 

「命令に必要なら」

 

「そのときは」

 

エレノアは一瞬、母親の顔になった。

 

すぐ公爵夫人へ戻る。

 

「王国の将として命じてください」

 

自分の息子を守りたい。

 

同時に特権で守れば、ほかの兵士の母親へ説明できない。

 

「承知しました」

 

アルベリクは答えた。

 

守れるとは言わない。

 

---

 

## 六

 

マティアスの腕から矢を抜くのに、一刻かかった。

 

矢尻に返し。

 

板を貫き、骨の横へ入っている。

 

医師は腕を切る可能性もあると言った。

 

結果的に骨は無事。

 

筋を一部傷つけた。

 

左手の指。

 

一本ずつ動かす。

 

親指。

 

人差し指。

 

中指。

 

薬指。

 

小指。

 

動く。

 

痛い。

 

「時計を作れますか」

 

マティアスが尋ねた。

 

医師が呆れる。

 

「死にかけた直後に」

 

「死んでいません」

 

「半年は細かい作業を避けろ」

 

「半年?」

 

「早くて三か月」

 

マティアスの顔が、矢を受けたときより青くなる。

 

時計職人。

 

左手で部品を支え、右手で工具。

 

手が動かなければ仕事ができない。

 

軍務委員会の給金はある。

 

だが職人であることを失う。

 

一時的でも。

 

「帳簿は」

 

「右手で書ける」

 

「時計は両手です」

 

「命がある」

 

「命だけあっても」

 

言いかける。

 

医師が彼を見る。

 

「腕を失った兵士の前で同じことを言うな」

 

マティアスは黙った。

 

自分より重い傷。

 

だから自分の苦しみが消えるわけではない。

 

だが比べてしまう。

 

扉が開く。

 

アンドロニコス・パレオス。

 

アウレリアのパン職人ではない。

 

同じ名ではない。

 

王都職人組合の若い時計工、ピエール。

 

マティアスの弟子。

 

顔が怒っている。

 

「親方」

 

「工房は」

 

「何してるんですか!」

 

「見てのとおり」

 

「矢を受けるのは時計職人の仕事ですか!」

 

「記録板が高かった」

 

「馬鹿ですか」

 

「親方に」

 

「馬鹿です!」

 

ピエールは泣きそうな顔。

 

「工房は誰が」

 

「僕が」

 

「注文は」

 

「三件遅れます」

 

「王宮時計は」

 

「止まってません」

 

「軍務局の壁時計は」

 

「止めてやりました」

 

「なぜ」

 

「時間を守らない役所に時計はいらない」

 

マティアスは笑った。

 

痛みが腕へ響く。

 

「ピエール」

 

「何です」

 

「工房を頼む」

 

弟子の顔が固まる。

 

「戻らないみたいに言わないでください」

 

「しばらく左手が使えない」

 

「僕が支えます」

 

「一つの部品を二人で持つのか」

 

「できます」

 

「遅い」

 

「親方が軍務委員会へ行くよりは早い」

 

正しい。

 

「それと」

 

ピエールが鞄から一枚の紙を出す。

 

「聖オルバン修道院の小麦を運んだ荷車職人が見つかりました」

 

「どこへ運んだ」

 

「沿岸の三か所。ですが、そのうち一つは倉庫ではない」

 

「何です」

 

「船です」

 

「船?」

 

「小麦八百樽を、夜に沖の大型船へ積んだ」

 

「どこの」

 

「アルビオン商船の印。でも船名はセレスタ登録」

 

灰冠の船。

 

「いつ」

 

「一か月前」

 

「軍務卿は知っている?」

 

「荷車職人は、軍務局の命令書を見たと」

 

「署名は」

 

「情報局次長ルネ・ヴァラン」

 

小麦五千樽のうち、八百が灰冠へ流れた。

 

軍務卿は三か所にあると思っている。

 

実際には一部が消えた。

 

沿岸秘密軍の兵糧を減らす。

 

王都の市場も不足させる。

 

二つの危機を同時に。

 

「アルベリクへ」

 

マティアスが起きようとする。

 

医師が押さえる。

 

「寝ろ!」

 

「伝令を」

 

「私が出す」

 

ピエールが言う。

 

「詳しい場所は」

 

「荷車職人を連れてきました」

 

「どこ」

 

「廊下」

 

「弟子」

 

マティアスは彼を見る。

 

「よくやった」

 

ピエールの怒った顔が少し緩む。

 

「親方」

 

「何です」

 

「今度、矢が飛んだら避けてください」

 

「記録板が」

 

「帳簿より親方の方が書き直しにくい」

 

マティアスは返事をしなかった。

 

褒められたときより、困った顔をした。

 

---

 

## 七

 

沿岸秘密軍の第一倉庫は、空だった。

 

王都から西へ二日の街道。

 

海岸近くの塩採掘場。

 

地下坑道。

 

帳簿上、小麦千六百樽。

 

武器三千人分。

 

実際に残っていたのは、小麦三百樽。

 

錆びた槍。

 

壊れた弩。

 

守備兵五十。

 

指揮官は、軍務局の命令で先週、物資を第二倉庫へ移したと主張した。

 

命令書。

 

署名。

 

ルネ・ヴァラン。

 

第二倉庫へ伝令。

 

返答。

 

受け取っていない。

 

物資が消えた。

 

四千の秘密軍は、存在しても戦えない。

 

武器と小麦が別の場所へ。

 

「灰冠は軍を作らせ、同時に中身を抜いた」

 

アルベリクが言った。

 

沿岸へ向かう途中の宿営地。

 

王国軍。

 

公爵家兵。

 

都市補給隊。

 

ジュリアン・ド・ヴァルネもいる。

 

母に似た顔。

 

父より細身。

 

二十歳。

 

鎧が新しい。

 

本人は古く見せるため泥をつけている。

 

「なぜ軍を作らせたのです」

 

ジュリアンが尋ねる。

 

「軍がなければ、抜くものもない」

 

「借金を作る」

 

アルベリクが答える。

 

「兵を集める。諸侯と王を疑わせる。アルビオンへ脅威を見せる。最後に物資を消せば、王国は軍を持ちながら戦えない」

 

「侵攻を招く」

 

「あるいは、侵攻への恐怖で国内を割る」

 

ジュリアンは地図を見る。

 

「アルビオン艦隊が本当に攻めてきたら」

 

「沿岸軍の実数を確認するまで、正面戦闘は避けます」

 

「港を捨てる?」

 

「守れる港だけ守る」

 

「民衆は」

 

「避難」

 

「倉庫は」

 

「運べる物を運ぶ。残りは焼く」

 

ジュリアンの顔が変わる。

 

「自分で?」

 

「敵へ渡せば、さらに進む」

 

「沿岸民の冬の食糧です」

 

「だから決める前に、敵の進路を確認する」

 

「攻撃されてからでは遅い」

 

軍務卿と同じ言葉。

 

アルベリクは公子を見る。

 

「あなたなら」

 

「全港へ兵を」

 

「何人」

 

「沿岸軍四千と、公爵軍千五百。王国正規軍を加え」

 

「沿岸は三百里です」

 

「主要港だけ」

 

「主要港を守れば、敵は小港へ上陸する」

 

「小港を捨てる?」

 

「あなたが今、私へ問うたことです」

 

ジュリアンが黙る。

 

指揮官の仕事は、勇敢に戦うことではない。

 

守れない場所を決めること。

 

「母上は、あなたを冷たい人だと言っていました」

 

「公爵夫人が?」

 

「褒めていました」

 

「公爵夫人らしい」

 

「本当に、数字だけで村を捨てるのですか」

 

アルベリクは考えた。

 

「数字だけでは決めません」

 

「では」

 

「街道。避難時間。港の深さ。井戸。倉庫。住民数。敵の目的。数字にできるものを集める」

 

「最後は」

 

「私が決めます」

 

「間違えたら」

 

「人が死ぬ」

 

「あなたは」

 

「記録する」

 

ジュリアンが不快そうに眉を寄せる。

 

「記録すれば許されると?」

 

「許されません」

 

「ではなぜ」

 

「忘れれば、次も同じように決めるからです」

 

公子は返事をしなかった。

 

しばらく地図を見る。

 

「私に何を命じます」

 

「沿岸軍の兵籍確認」

 

「戦闘指揮ではなく?」

 

「経験の少ない将として扱えと、母上から」

 

ジュリアンの顔が赤くなる。

 

「母上が」

 

「はい」

 

「私は戦えます」

 

「知りません」

 

「剣術大会で」

 

「大会では隣の兵が逃げません」

 

「実戦経験がないだけで」

 

「だから兵籍確認を。兵がどこから来て、家族がどこにいて、誰へ給金を受けているか知る。戦場で命じる前に」

 

「書記の仕事です」

 

「指揮官の仕事です」

 

ジュリアンは不満そうだった。

 

だが断らない。

 

「承知しました」

 

「それと」

 

「何です」

 

「泥をつけた鎧は洗ってください」

 

公子が固まる。

 

「なぜ」

 

「新しい鎧を古く見せる者は、経験がないと自分で知らせています」

 

周囲の士官が笑いを堪える。

 

ジュリアンは耳まで赤くした。

 

「洗います」

 

「素直ですね」

 

「母上より、ましなところです」

 

アルベリクは初めて少し笑った。

 

---

 

## 八

 

王都では、軍務卿シャルルが自宅軟禁へ移された。

 

屋敷の外に親衛兵。

 

中には家族。

 

妻。

 

娘。

 

古い従者。

 

息子は東部軍で戦死している。

 

その死が、シャルルを強い王国へ執着させた理由の一つだった。

 

アドリアンは、軟禁初日の夜に一人で訪れた。

 

近衛兵は玄関まで。

 

軍務卿は書斎にいる。

 

軍衣ではない。

 

灰色の家庭着。

 

肩の銀鎖もない。

 

一日で老いたように見えた。

 

「陛下」

 

立とうとする。

 

「座れ」

 

王も向かいへ。

 

机に酒。

 

二つの杯。

 

シャルルが注ぐ。

 

毒見はない。

 

国王は飲んだ。

 

「不用心です」

 

軍務卿が言う。

 

「お前が毒を入れるなら、門の中でやった」

 

「部下が入れたかもしれない」

 

「飲んだあとで言うな」

 

シャルルも飲む。

 

「アルビオン艦隊は」

 

「南東へ進んでいる。侵攻か演習か、まだ不明」

 

「沿岸軍は」

 

「中身を抜かれていた」

 

軍務卿の手が止まる。

 

「どれほど」

 

「第一倉庫の八割。小麦の一部は灰冠船へ」

 

「ヴァラン」

 

「逃亡」

 

シャルルは杯を置く。

 

「私は、あの男を二十年知っている」

 

「二十年あれば、裏切る理由も増える」

 

「家族を救ったこともある」

 

「だから脅されたかもしれない」

 

「私が灰冠へ金を流した」

 

「知らずに」

 

「兵を作り、借金を作り、軍港を渡した」

 

「まだ渡していない」

 

「契約した」

 

王は黙る。

 

「処刑してください」

 

シャルルが言った。

 

「簡単だな」

 

「王国へ示せます」

 

「何を」

 

「裏切りは罰される」

 

「お前を殺せば、帳簿の残りを誰が説明する」

 

「副官が」

 

「副官も知らない秘密がある」

 

「あります」

 

「なら話せ」

 

「処刑後に公開する書類を」

 

「また秘密か」

 

アドリアンの声に怒り。

 

シャルルは机の引き出しから鍵を出す。

 

「王宮地下の第六保管庫」

 

「何が」

 

「アルビオン王家との秘密協定」

 

「いつの」

 

「先王時代」

 

アドリアンの父。

 

「内容は」

 

「ヴァルネリア王国で王位継承争い、または大規模諸侯反乱が起きた場合、アルビオンが秩序回復のため介入できる」

 

「代償は」

 

「西岸三港の租借」

 

王の顔から血の気が引く。

 

「父上が?」

 

「署名されています」

 

「知っていたのか」

 

「軍務卿就任時に」

 

「なぜ言わなかった!」

 

「陛下が即位直後だった。アルビオンとの関係を壊せない」

 

「今は」

 

「三身会議。軍務局封鎖。彼らは介入条件が成立したと主張できる」

 

アルビオン艦隊。

 

侵攻ではなく、条約履行。

 

父王の署名。

 

正当性。

 

「秘密軍は、そのためか」

 

「はい」

 

シャルルは王を見る。

 

「陛下が知らなければ、アルビオンへ協定無効を主張できる。王の命令で軍を作れば、協定違反と見られる。だから私が」

 

「自分だけで背負った?」

 

「そう思っていました」

 

「実際は灰冠へ利用された」

 

「はい」

 

軍務卿の声が初めて弱くなる。

 

「父上はなぜ署名を」

 

「先王の弟君が反乱を準備していた。アルビオンの支援を取りつけるため」

 

「その反乱は起きなかった」

 

「協定があったからかもしれない」

 

過去の平和。

 

代償が未来へ残った。

 

「第六保管庫の鍵を」

 

アドリアンが手を出す。

 

シャルルは渡す。

 

「公開しますか」

 

「三身会議へ」

 

「アルビオンが知れば」

 

「向こうは原本を持っている」

 

「民衆は先王を売国王と」

 

「事実なら」

 

「陛下の王位も、外国軍の保証で成立したと疑われる」

 

「疑わせろ」

 

国王は鍵を握る。

 

「隠して、また別の軍務卿が秘密軍を作るよりは」

 

シャルルは王を見る。

 

「本当に変わられた」

 

「お前のせいだと言った」

 

「私は、陛下を弱くしたのかもしれない」

 

「違う」

 

アドリアンは酒を飲む。

 

「一人で強くあることを諦めただけだ」

 

「王がそれを言えば、臣下は不安になります」

 

「王が何でも知っていると嘘をつく方が安心か」

 

「多くは」

 

「だから灰冠が生まれる」

 

秘密を管理できると信じる者。

 

王より賢く戦争を制御できると信じる者。

 

シャルルも、その入口に立っていた。

 

「処刑はしない」

 

アドリアンが言った。

 

「陛下」

 

「監査へ協力しろ。その後、裁判」

 

「死刑になるでしょう」

 

「裁判が決める」

 

「王が決めない?」

 

「決めない」

 

シャルルは笑った。

 

「面倒な国になりました」

 

「これからもっとなる」

 

---

 

## 九

 

王宮地下第六保管庫から、三つの文書が見つかった。

 

一つ。

 

アルビオン介入協定。

 

一つ。

 

先王と聖座ルミナの秘密書簡。

 

諸侯反乱時、教皇が国王側へ宗教的正統性を与える代わり、教会税免除を永続化する。

 

一つ。

 

セレスタ銀行から先王への融資契約。

 

担保は西岸関税。

 

三つとも、現在の危機へつながっている。

 

アルビオン。

 

聖座。

 

セレスタ。

 

灰冠会議が一から作ったのではない。

 

王たちが過去に結んだ秘密を集め、互いへ向けて使った。

 

アドリアンは三身会議代表を招集した。

 

エレノア。

 

都市代表。

 

聖職者。

 

諸侯。

 

文書を公開。

 

会議は怒号となった。

 

「先王は王国を売った!」

 

「現在の王が責任を!」

 

「教会免税は正当な権利だ!」

 

「外国軍の介入協定を破棄せよ!」

 

「破棄を宣言すれば、アルビオンが攻める!」

 

「すでに艦隊がいる!」

 

王冠。

 

過去。

 

父の罪。

 

息子の責任。

 

アドリアンは壇上で聞いた。

 

反論しない。

 

すべて出させる。

 

最後に言う。

 

「協定の存在を、アルビオンへ正式に確認する」

 

「認めれば」

 

エレノアが尋ねる。

 

「無効を通告する」

 

「相手は受け入れない」

 

「なら、三港を守る」

 

「戦争です」

 

「協定を隠したまま、軍を集めても同じだ」

 

「勝てますか」

 

オルテーズ伯の不在席。

 

代わりにバルシュ伯が問う。

 

「分からない」

 

国王が答えた。

 

会議が静まる。

 

王が勝利を約束しない。

 

「アルビオン海軍は我々より強い。沿岸軍は弱体化。諸侯軍は統一されていない。勝てると断言する者は嘘をついている」

 

「では降伏を」

 

「しない」

 

「なぜ」

 

「まだ攻撃されていないからだ」

 

国王は地図を示す。

 

「使者を送る。協定無効と相互不侵攻を提案。三港の代わりに交易税減免を期限付きで提示する」

 

「土地を金で守る?」

 

都市代表が言う。

 

「戦争より安いなら」

 

「誇りは」

 

「港が焼けたあと、誇りを食べる者はいない」

 

諸侯の一部が不満。

 

だが民衆傍聴席は静か。

 

パン。

 

港。

 

戦争。

 

分かりやすい。

 

「同時に沿岸を守る」

 

国王が続ける。

 

「交渉だけでは弱い。軍だけでは脅威に見える。両方を行う」

 

遅い。

 

複雑。

 

矛盾。

 

それでも一つだけを選ばない。

 

三身会議は、アルビオン交渉案を承認した。

 

十一対二。

 

反対は聖座使節と西岸諸侯一名。

 

王国は戦争を回避しようとしながら、戦争準備を始めた。

 

---

 

## 十

 

沿岸へ向かうアルベリクのもとへ、二通の書状が同じ日に届いた。

 

一通は父から。

 

ライナー辺境伯。

 

《王国が軍務局を失ったと聞く》

 

《王冠は自らの剣を折った》

 

《いま包囲を解けば、お前を息子として迎える》

 

《解かねば、王の犬として扱う》

 

家族。

 

脅し。

 

誘い。

 

父も灰冠の情報を受けている。

 

軍務局事件が、王国崩壊として伝えられた。

 

正確ではない。

 

完全な嘘でもない。

 

もう一通。

 

副官ハンス。

 

《ライナー城内で兵糧不足》

 

《領民の一部が脱出を求める》

 

《辺境伯は拒否》

 

《城内に灰色外套の使者が入ったとの証言》

 

灰冠が父へ接触。

 

何を提案した。

 

王国軍が沿岸へ移れば、包囲が弱まる。

 

反乱継続の資金。

 

アルビオンとの連携。

 

「戻りますか」

 

ジュリアンが尋ねる。

 

夜営地。

 

海まで一日。

 

「戻りません」

 

「父君が灰冠と」

 

「ハンスへ使者を捕らえろと」

 

「間に合わなければ」

 

「分かりません」

 

アルベリクは父の書状を火へ入れなかった。

 

折り、帳面へ。

 

「父上を捨てるのですか」

 

ジュリアンが尋ねる。

 

若い。

 

遠慮なく聞く。

 

「父の城より、沿岸が重要です」

 

「答えになっていません」

 

「では」

 

アルベリクは公子を見る。

 

「父を救うため戻れば、沿岸の村を捨てる。沿岸へ行けば、父を灰冠へ渡すかもしれない」

 

「どちらを」

 

「沿岸」

 

「なぜ」

 

「影響を受ける人数が多い」

 

ジュリアンの顔に嫌悪。

 

予想した答え。

 

「母上が、あなたを冷たいと」

 

「褒めていた?」

 

「今は分かりません」

 

「私も」

 

アルベリクは海の方角を見る。

 

潮の匂い。

 

まだ見えない。

 

「ただし、父を捨てたと自分へ言わないようにしています」

 

「どういう意味です」

 

「王国のため。人数。任務。正しい言葉を並べれば、痛みを感じずに済む」

 

「では本当は」

 

「戻りたい」

 

初めて口にした。

 

父。

 

城。

 

幼い頃に剣を教わった庭。

 

母の墓。

 

兄たち。

 

「戻りたいが、戻らない」

 

ジュリアンは何も言わなかった。

 

しばらくして。

 

「私が同じなら、戻るかもしれません」

 

「そのときは、兵を預けません」

 

「冷たい」

 

「はい」

 

「でも」

 

公子は焚火を見る。

 

「戻りたいと言うとは思いませんでした」

 

アルベリクは書状帳を閉じた。

 

「誰にも言わないでください」

 

「記録しない?」

 

「戦死者帳ではないので」

 

---

 

## 十一

 

夜明け前、沿岸灯台から三つの信号が上がった。

 

青。

 

白。

 

赤。

 

艦隊接近。

 

所属不明。

 

戦闘準備。

 

アルベリクは全軍を起こした。

 

王国軍二千。

 

公爵軍千五百。

 

確認済み沿岸軍千八百。

 

合計五千三百。

 

残る秘密軍は、兵籍不明、物資不足、命令不達。

 

港は三つ。

 

守れるのは一つ。

 

地図。

 

風。

 

潮。

 

アルビオン艦隊が向かう可能性。

 

「西港です」

 

沿岸航海官が言う。

 

「介入協定の対象港」

 

「最も守りが固い」

 

アルベリクが答える。

 

「だから協定を根拠に正面から来るなら」

 

「旗を掲げる」

 

「所属不明信号です」

 

「霧で見えないのかもしれません」

 

「灰色艦隊の残党か」

 

「可能性」

 

「アルビオンが旗を隠した?」

 

「攻撃前に正体を曖昧にするため」

 

どれもあり得る。

 

「三港へ分ければ」

 

ジュリアンが言う。

 

「各個撃破される」

 

「一港へ集めれば、ほかを取られる」

 

「はい」

 

同じ問い。

 

どこを捨てる。

 

アルベリクは決めた。

 

「中央港へ主力三千。西港へ千五百。東港は避難と倉庫焼却準備、守備八百」

 

「東港を捨てる?」

 

公爵家副官が尋ねる。

 

「港の水深が浅い。大型艦は入れない。上陸しても街道が狭い」

 

「住民は」

 

「丘陵へ避難」

 

「拒否すれば」

 

「強制はしない」

 

「敵へ協力する者が」

 

「残る権利と結果を知らせる」

 

「倉庫を焼くのに?」

 

「敵が入った場合のみ」

 

各指揮官が散る。

 

ジュリアンは兵籍確認任務から、東港避難隊の副指揮へ。

 

「戦闘ではない」

 

本人が言う。

 

「戦闘より難しい」

 

「民衆を逃がすだけです」

 

「家と商品を捨てろと、武器を持って説得する」

 

公子の顔が変わる。

 

「命令ですか」

 

「はい」

 

「拒否した者を殺す?」

 

「殺さない」

 

「では従わない」

 

「だから説得する」

 

ジュリアンは剣より困難な任務を与えられた。

 

「承知しました」

 

泥を落とした新しい鎧。

 

今度は隠さない。

 

---

 

## 十二

 

霧の中から現れた艦隊は、アルビオン海軍ではなかった。

 

少なくとも、公式には。

 

先頭艦に旗がない。

 

二隻目も。

 

三隻目。

 

その後ろ。

 

十五隻。

 

艦形はアルビオン式。

 

高い船首楼。

 

深い喫水。

 

強力な長弓兵を載せられる甲板。

 

だが船腹の王家紋章は黒く塗られている。

 

灰色艦隊。

 

あるいは、アルビオンが否認できる私掠艦隊。

 

「旗を要求」

 

アルベリクが命じる。

 

中央港の信号塔。

 

三度。

 

所属を示せ。

 

返答。

 

一発の火矢。

 

港外の海へ落ちる。

 

敵意。

 

同時に、別の小舟が白旗を掲げて近づく。

 

矛盾。

 

「使者船です」

 

「射るな」

 

小舟から一人。

 

アルビオン語の書状。

 

《ヴァルネリア王国は、先王協定に違反し、大規模諸侯反乱および王都軍事反乱を発生させた》

 

《西岸三港の暫定保護を開始する》

 

《抵抗しなければ、住民と財産を保護する》

 

署名。

 

アルビオン海王国西方艦隊副提督。

 

王国の正式印はない。

 

副提督個人の軍印。

 

「介入です」

 

ジュリアン不在のため、公爵家副官が言う。

 

「アルビオン軍」

 

「旗を掲げていない」

 

「否認するため」

 

「灰冠会議の偽造かもしれない」

 

「艦は本物です」

 

「副提督が灰冠と契約した可能性」

 

再び、国と内部を分ける問題。

 

「使者へ伝えろ」

 

アルベリクが言う。

 

「先王協定は現国王および三身会議により無効確認中。王国は内戦状態にない。軍務局は王命へ服した。三港への上陸は侵略と見なす」

 

「時間を」

 

公爵家副官が言う。

 

「王都の返答を待つと?」

 

「はい」

 

「何日」

 

「三日」

 

敵は三日を使う。

 

オルシャでも。

 

青隼でも。

 

人は三日で軍を動かし、噂を広げ、証拠を消す。

 

「一日」

 

アルベリクが言った。

 

「明日日没まで、港外に留まれ。その間、双方の代表が協定原本を照合する」

 

「受けるでしょうか」

 

「受けなければ、協定ではなく侵攻」

 

使者は戻る。

 

艦隊は動かない。

 

霧。

 

長い時間。

 

兵士は壁上で待つ。

 

矢。

 

石。

 

油。

 

海岸の民衆は避難。

 

商人は倉庫を閉める。

 

一刻後。

 

敵艦に旗が上がる。

 

アルビオン海王国旗ではない。

 

白地に灰色の冠。

 

灰冠。

 

堂々と。

 

隠れない。

 

次に、アルビオン海軍旗。

 

二つ並ぶ。

 

国家と灰冠。

 

同じ船に。

 

「見せつけている」

 

副官が言う。

 

「アルビオン内部の一部が、灰冠と公に組んだ」

 

「王の命令か」

 

「不明」

 

「重要ですか」

 

副官が尋ねる。

 

アルベリクは海を見る。

 

「船上の兵には」

 

攻撃されれば、どの王が命じたかに関係なく戦う必要がある。

 

だが戦後の敵が変わる。

 

アルビオンという国全体か。

 

副提督と灰冠の派閥か。

 

「まだ射つな」

 

「旗を上げました」

 

「旗は攻撃ではない」

 

「相手は我々の港を要求」

 

「要求も攻撃ではない」

 

「弱く見られます」

 

軍務卿と同じ言葉。

 

「見せるために人を殺しません」

 

アルベリクは答えた。

 

そのとき、東港方向から煙が上がった。

 

黒。

 

倉庫火災。

 

敵艦隊の一部は中央港へ来ていない。

 

霧の中で分かれ、東港へ。

 

「東が攻撃された!」

 

伝令。

 

「上陸兵約五百! 倉庫へ放火!」

 

アルベリクの判断。

 

東港へ八百。

 

避難。

 

倉庫焼却準備。

 

敵はそこを狙った。

 

捨てた場所。

 

「主力を動かしますか」

 

副官が尋ねる。

 

中央港前に十五隻。

 

動けば上陸。

 

動かなければ東港が落ちる。

 

敵は選択を与える。

 

どちらを選んでも傷つく。

 

「中央港は維持」

 

アルベリクが言った。

 

「東へ騎兵五百。公爵軍から」

 

「少ない」

 

「街道が狭い。大軍は詰まる」

 

「ジュリアン公子が」

 

「分かっています」

 

エレノアの息子。

 

経験の少ない将。

 

避難任務。

 

上陸戦へ巻き込まれた。

 

「援軍指揮は私が」

 

公爵家副官が言う。

 

「中央港の副指揮は」

 

「王国軍から置く」

 

「公子を」

 

「救うためではありません」

 

「分かっています」

 

嘘。

 

半分。

 

公爵家兵の士気。

 

後継者。

 

東港の住民。

 

すべて。

 

「行け」

 

騎兵が出る。

 

アルベリクは中央港に残る。

 

また。

 

父の城。

 

ジュリアン。

 

戻りたい場所へ戻らない。

 

人数。

 

任務。

 

合理。

 

「敵艦隊、前進!」

 

見張りが叫ぶ。

 

東港攻撃と同時。

 

中央港へも。

 

交渉中。

 

一日の猶予を返答せず。

 

灰冠旗とアルビオン旗。

 

弓兵が甲板へ。

 

大型弩。

 

石弾。

 

「盾!」

 

港壁に盾列。

 

「射程へ入るまで待て!」

 

兵士の息。

 

汗。

 

恐怖。

 

海上の船が大きくなる。

 

アルベリクは帳面を開く。

 

まだ死んでいない兵士たち。

 

名前は空白。

 

これから書かれる。

 

「参謀殿」

 

王国軍副官が言う。

 

「これは戦争ですか」

 

正式な宣戦布告はない。

 

アルビオン王の印もない。

 

灰冠の契約艦隊。

 

副提督の私兵。

 

介入協定。

 

「分かりません」

 

アルベリクは答えた。

 

「では、何として戦います」

 

「港への攻撃です」

 

「敵国は」

 

「目の前の船」

 

単純にする。

 

戦場では必要。

 

だが戦場の外では、単純にしてはいけない。

 

「第一射、用意」

 

敵艦が射程へ。

 

アルベリクは手を上げた。

 

下ろせば、ヴァルネリア王国とアルビオン海王国の戦争が始まったと、後世に書かれるかもしれない。

 

あるいは、灰冠派閥との局地戦。

 

どの名になるかは勝者が決める。

 

矢を受ける兵士には関係ない。

 

敵艦から最初の矢。

 

高く。

 

弧。

 

港壁へ。

 

一人の兵士が盾を上げる。

 

矢は盾を貫き、肩へ。

 

倒れる。

 

血。

 

「撃て!」

 

アルベリクが手を下ろした。

 

ヴァルネリアの弩が一斉に鳴った。

 

夏の海へ、黒い矢が飛ぶ。

 

第二部最初の戦い。

 

王冠たちの夏は、交渉の返答ではなく、旗を二つ掲げた船の第一射によって始まった。

 

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