【日時】2004年 7月某日 14:30
【場所】時計塔・地下大図書館 深層部(大禁書庫)
時計塔の地下深く。
一般の魔術師はおろか、上位の階位を持つ者であっても、確固たる許可と厳重な手続きを経なければ立ち入ることを許されない「神秘の墓場」。何世紀にもわたって蓄積された魔術の歴史、禁忌の理論、そして封印指定を受けた者たちの研究記録が眠る巨大な静寂の空間――地下大図書館・深層部。
カチリ、と。
光源の乏しい石造りの通路に、微細な歯車の駆動音が響いた。
竜胆茜は、一切の足音を立てることなく、埃っぽい書架の間を歩いていた。
彼の左手――ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトの莫大な富と魔術基盤によって錬成された『黄金とサファイアの小指』が、茜の L4《環境並列演算網》と連動して微弱な魔力パルスを放っている。
(――第十二結界、霊子スキャンの走査波長を解析。L5《干渉痕消去(インターフェアレンス・クリア)》および《確率偽装》を同期。自身の存在確率を『空間に漂う魔力的なノイズ』へとダウングレードし、認証システムをバイパスする)
茜の瞳の奥で、青白い数式が滝のように流れては消えていく。
図書館の深層を守るための幾重もの防衛結界。本来であれば、触れた瞬間に警報が鳴り響き、法政科の執行者たちが殺到するはずの致命的なトラップ群を、茜は「最初からそこにいなかった」という論理のすり替えによって、水面を滑るように透過していた。
魔術の解除(ディスペル)ではない。世界から見た『竜胆茜』という存在の解像度を極限まで下げることで、システム側に「何も通っていない」と誤認させ続けているのだ。
(……ロード・エルメロイⅡ世のトラウマを抉った、アトラスの残したバグまみれのログ。僕のシステムに突きつけられた、無視できない脆弱性)
茜は、天井まで届く巨大なマホガニーの書架を見上げながら、脳内の演算領域(デスクトップ)にあの文字列を展開した。
『【――貴方のバ■は、世界に■ってあまりにも■しい。時計塔の■籠は、もは■貴方の■成を■■るには狭すぎるで■■う】』
『【――【1994年 ■■月■■日。第■■聖■■争。第七演算室】』
解凍と同時に自己消去された、不完全なテキストデータ。
茜はこの『第■■聖■■争』という文字列の正体を知らない。彼の脳内データベースには該当する単語が存在せず、1994年という年代と極東の儀式を結びつけるだけの歴史的知識を、彼は持ち合わせていなかったからだ。
(……だからこそ、この深層データベースに直接アクセス(ハッキング)をかける。1994年、極東、大規模魔術儀式。これらの検索条件(クエリ)で、欠落した文字列を補完する)
茜は立ち止まり、黄金の小指を書架の傍らにある古い魔力端末(クリスタル)へと接触させた。
アトラスの錬金術師、エル=ナハトがこの情報を僕の内に潜ませた理由は不明だ。だが、数ヶ月前に極東から来たあの「不正アクセス(Ping)」と、この「1994年のログ」の因果混線(ノイズデータ)がリンクしていることだけは感覚的にも記録された因果ログ的にも理解できた。
(……検索開始。該当するレコードを抽出――)
茜が、時計塔の深層記録へと意識をダイブさせようとした、まさにその時だった。
――空間の、エントロピーが変異した。
(……ッ!?)
茜の全身の産毛が総毛立ち、呼吸が物理的に停止した。
魔力的な殺気ではない。エル=ナハトがカフェ・テラスで放ったような、物理法則を強制的に塗り替える「決定論の重圧」でもない。
ただ、自分が立っているこの図書館の「世界としての前提」が、コンマ数秒のうちに『全く別の何かにすり替わった』ような、圧倒的で致命的な違和感。
『――致命的エラー。L3《確定未来の選別》、演算領域がオーバーフローを起こしました。強制シャットダウンを実行します』
ピーーッ、というけたたましい警告音が茜の脳内で鳴り響く。
未来が見えないのではない。数秒先の未来の分岐が「無限に存在しすぎて、計算機(ハードウェア)の処理能力を完全に超えた」のだ。
右に避ける未来、左に避ける未来、立ち尽くす未来。そのすべてが同時に成立し、テレビの砂嵐のように重なり合って、茜の観測機能を物理的に破壊しようとしていた。
「――おや。こんな埃っぽい場所で、面白い迷い子に会うとはな」
背後から、声がした。
老人の声だった。だが、その声には年齢という概念を感じさせない、果てしない深淵と、どこか悪戯を企む少年のような響きが混ざっていた。
茜は、自身の L2《自己因果の最適化(セルフ・バイパス)》を最大出力で維持したまま、氷のように冷え切った身体をゆっくりと反転させた。
逃げる準備ではない。相手が何者であれ、システムが「生存確率の計算不能」と弾き出している以上、不用意な動きは即座に致命的なバグに直結すると理解したからだ。
そこに立っていたのは、豪奢な杖をついた、一人の老人だった。
仕立ての良い古風な衣服。長く白い髭。そして、何よりも特徴的なのは、その双眸だった。
紅玉(ルビー)のように赤く、万華鏡のように無限の事象と世界を映し出しているかのような、恐るべき瞳。
(――解析、開始。……エラー。対象の構造情報の取得に失敗。エラーコード:次元不一致。対象の存在確率が、この単一宇宙(ユニバース)の枠組みに収まっていません)
茜の起源『解析』が、完全なる敗北を告げた。
エル=ナハトの決定論は「過程がない」から解析できなかった。
だが、眼の前のこの老人は違う。「過程が無限に存在し、今この瞬間にも並行して分岐し続けている」からこそ、茜の卓越した演算力をもってしても、その情報量を処理(パース)しきれないのだ。
「……貴方は、誰ですか」
茜は、額に冷たい汗を滲ませながら、極限の冷静さを装って問うた。
老人は、茜の全身を興味深げに眺め回し、特にその左手の「黄金の小指」を見て、愉快そうに喉を鳴らした。
「名乗るほどの大層な者ではない。ただの、散歩好きの爺だ。……だが、君のことは少しばかり知っている。竜胆茜くん」
老人は杖をコツリと床に突き、ゆっくりと茜に近づいてきた。
その一歩ごとに、図書館の空間が揺らぐ。灼熱の街、氷の城、白紙の大地、未来の都市、誰もいない荒野……並行世界の風景が、ノイズとなって重なっては消えていく。世界そのものが、この老人の歩み一つで軋みを上げている。
「昨日の朝。カフェ・テラスで、君がやってのけた『デバッグ』とやら。……あれは、実に面白かった」
老人の言葉に、茜の心臓が警鐘を鳴らす。
完璧に隠蔽したはずの戦闘。法制科すらも決定的な証拠を掴めず、エルメロイⅡ世が胃を壊してまで隠し通そうとしたあの事象を、この老人は「観測」していたというのか。
「アトラスの連中が放った『絶対の終端』という一つの決定を、君は物理的な機構で空間をロックし、さらにその軌道を捻じ曲げて『永遠に到達しないパラドックス』へとすり替えた。……君はあの瞬間、ごく局所的とはいえ、この世界の物理法則と因果律を書き換えたのだよ。並行世界の運営に携わる者として、見過ごせないほどの美しいバグだ」
「……防衛のための、一時的なシステム干渉です。世界そのものをどうこうする意図はありません」
茜は淡々と返答しながら、脳内で必死にこの老人の「正体」の検索(クエリ)を回し続けていた。
空間の歪み。無限の分岐。並行世界への干渉。そして、この圧倒的で常軌を逸した「魔法」の気配。
時計塔の最深部で、これほどの事象を息を吸うように引き起こす存在など、歴史上ただ一人しかいない。実物を見るのは初めてだが、その名は時計塔で学ぶ魔術師であれば、知識の最上位レイヤーに登録されている。
(……第二魔法の体現者。キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグ……!)
「そう警戒するな。別に、君を罰しに来たわけではない。むしろ、君のような面白い『エラー』を私は歓迎している」
ゼルレッチと推測される老人は、茜の警戒を笑い飛ばすように肩をすくめた。
「未来を観測し、最善のルートを選択し続ける君のシステム。そして『最初から完成されているべきだ』という黄金の哲学。……それは、ある意味で私が見ている『万華鏡』の一つの到達点でもある。だがね、竜胆くん」
老人の赤い瞳が、スッと細められた。
その瞬間、無限に分岐していた空間のノイズがピタリと止まり、絶対的な静寂と圧力が茜の精神を押し潰した。
「……『完成』という閉じたループは、いずれ宇宙(世界)そのものを拒絶する。君が自分だけの完璧な OS を組み上げ、すべてのエラーを排除し続けたその先にあるのは、真の究極か、あるいは究極の『停滞』だ。……君の中にアトラスと同じ『破滅の論理』の匂いを嗅ぎ取ったからこそ、私はこうして君の前に姿を現した」
「……僕の目的は、平穏です。破滅など計算していません」
茜は黄金の小指を握り締め、システムの震えを力ずくで抑え込みながら答えた。
「平穏、か。それは結構。だが、君のシステムはすでにアップデートされ、アトラスの決定論を取り込んでしまった。もう、後戻りはできない」
ゼルレッチは再び杖を突き、背を向けた。
「せいぜい、万華鏡の輝きを曇らせないような、面白い計算結果を見せてくれ。観測者くん」
老人が一歩を踏み出すと、その姿は蜃気楼のように揺らぎ、ノイズと共に完全に空間から消失――しようとした、まさにそのコンマ数秒の『揺らぎ(ラグ)』。
「――待ってください」
茜の極低温の音声が、空間の消失プロセスに割り込んだ。
魔法使いの転移を止めることなど、いかなる魔術師にも不可能だ。だが、茜は相手を物理的に引き留めたわけではない。純粋な『問い(クエリ)』という情報によって、老人の興味をわずかに引き留めたのだ。
ゼルレッチの姿が、ノイズの向こう側でピタリと止まる。
「……ほう? 並行世界への跳躍(シフト)に声をかけてくるとは。何か言い残したことでもあるのか」
「貴方に言い残す感情はありません。ですが、貴方は僕のシステムが抱えている『欠落した変数』を知っている可能性がある。ならば、それを抽出(ダウンロード)する試みを放棄するのは非論理的です」
茜は、限界を超えて明滅する L3 の熱を力ずくで押さえ込みながら、無機質な瞳で魔法使いを真っ直ぐに見据えた。
「アトラスの錬金術師が、僕のシステム内にバグまみれのログを残していきました。『1994年』という年号と、『第■■聖■■争』という欠損した文字列。……僕は、この単語の正体を知りません」
茜の言葉に、ゼルレッチは肩越しに振り返り、面白そうに眉を上げた。
「……ほう。アトラスの連中が、君にそんな撒き餌をね」
「数ヶ月前、僕の L4《環境並列演算網》に対し、極東の『冬木』という極小の霊脈から、世界規模の異常な接続要求(Ping)がありました。僕はそれを未定義のスパムとして切断(ブロック)しましたが……アトラスの残した『1994年』のログと、あの時僕に干渉してきた極東の『システム』は繋がっている」
茜は、自身の立てた仮説――数ヶ月前の干渉と、今回のログの関連性――を、目の前の「並行世界の管理者」へとぶつけた。
「教えてください。1994年の極東で、一体『何(システム)』が起動したのですか。エルメロイⅡ世のバイタルを致命的に狂わせ、アトラス院がログとして残し、そして……貴方すらも『観測』している、その事象の正体を」
茜は全く意図していなかった。
彼にとってこの質問は、ただ「目の前に答えを知っていそうな情報源(データベース)がいるから検索をかけた」という、純粋な論理的行動に過ぎなかった。
自分が数ヶ月前に繋がったシステムが「何」であったのか、その真実を知らないがゆえの、完璧な論理による完璧な誤謬。
だが。
問われたゼルレッチにとって、それはあまりにも滑稽で、あまりにも運命的で、極上の皮肉に満ちた『バグ』だった。
「……く、クックック……! アッハハハハハハハ!!」
突如として、地下大図書館の静寂を打ち破るような、豪快な哄笑が響き渡った。
空間の歪みがさらに激しくなり、周囲の巨大な書架が地震のようにガタガタと震え始める。
「――傑作だ! いや、本当に君というバグは恐ろしいな、竜胆茜くん! まさか、君がそれの正体を知らないまま、この私に……『儀式』の正体を問うとはな!」
ゼルレッチは杖をつきながら、腹を抱えて笑い転げた。
茜は眉一つ動かさず、「僕の質問のどの部分に、それほどのユーモアが内包されていたのか理解不能です」と冷徹に返す。
「分からないだろう。だが、私にとってはこれ以上ない極上の喜劇だ。……いいだろう。君のその無自覚な指摘に免じて、欠落した文字列を教えてやろう」
老人は笑いを収め、その万華鏡の瞳で茜を射抜いた。
先ほどの好々爺のような空気は消え去り、そこにあるのは、魔道という果てしない歴史の頂点に君臨する『魔法使い』としての、圧倒的な神格の気配だった。
「『聖杯戦争』だ。……極東の冬木で行われる、万能の願望機(釜)を巡る魔術師たちの殺し合いの儀式。アトラスが指定した1994年に行われたのは、その四回目……『第四次聖杯戦争』だよ」
「……聖杯戦争。万能の願望機を巡るシステム。なるほど」
茜の脳内で、新たな情報が高速で処理され、欠落していた文字列がカチリと音を立てて埋まっていく。
「だがね、竜胆くん。そのシステムは、極東の魔術師たちだけの力で完成したわけではないのだよ。……その巨大な大聖杯の本体を、錬成し、システムとしての完成を見届けた大立会人(アーキテクト)が、かつて存在した」
老人は、ニヤリと悪魔のような笑みを浮かべ、自身を指差した。
「――それが、他ならぬこの私だよ」
「……ッ」
茜の呼吸が、ほんの一瞬、完全に停止した。
『完全記録(パーフェクト・アムネジア)』が、今与えられた情報を過去のすべての魔術的知識と照合し、一つの絶対的な事実を弾き出す。
(……この老人が、極東の儀式のシステム構築者(アーキテクト)。つまり僕は今、数ヶ月前に僕へ不正アクセスを仕掛けてきたシステムの創造主その人に対して、「あのシステムは何ですか」と尋ねたのか……)
「理解したかね? だから傑作だと言ったのだ。……君は、自身に勝手にアクセスしてきた『迷惑なプログラム』の制作者(プログラマ)に向かって、直接質問を叩きつけたようなものなのだからな」
ゼルレッチは愉快そうに髭を撫でた。
もちろん、魔法使いは茜の「勘違い」に気づいている。茜が数ヶ月前に繋がったのは現実の大聖杯などではなく、アトラスの錬金術師が構築した、まったくの別物であるという真実を。
だが、性格の悪い魔法使いが、わざわざその事実を丁寧に訂正してやる義理などない。茜が勝手に「自分がブロックしたのは本物の聖杯戦争だ」と誤認し、真顔でクレームをつけているその滑稽な論理のすれ違いこそが、彼にとっては極上の娯楽だったのだ。
「……制作者であるなら、あのシステムにアクセスブロック(拒否権)を正式に実装しておくべきでしたね。極めて非効率で、迷惑な仕様(スパム)です。右手に令呪などというバグを刻まれかけました」
茜は、相手が魔法使いであろうと関係なく、システムエンジニアとしての冷徹な苦言を呈した。
「はっはっは! 違いない! だが、あの釜はすでに私の手を離れ、極東の地で独自の『泥』を啜って変質してしまった。……1994年の第四次聖杯戦争。君に干渉してきたアトラスの連中が、あの時の事象をどう演算しているのか。そして、それを観測したロード・エルメロイが、恐怖するのか」
老人の姿が、今度こそ本当に、光の粒子と次元のノイズに溶け込み始めた。
「……その答えは、君自身の『解析』で導き出したまえ。君の完成された黄金の論理が、過去の極東の事象とどう交わるのか……今後、赤い宝石との繋がりの結果何を獲るのか。……楽しみにしている、観測者くん。」
フッ、と。
魔法使いの気配が、いくつかの不明点を残し完全に世界から切り離された。
残されたのは、静寂に包まれた埃っぽい図書館と、限界を超えて稼働し続ける茜の冷却ファンのような荒い呼吸だけだった。
(……変数は、揃った)
茜は額の汗を拭い、左手の黄金の小指を静かに握りしめた。
アトラス院の残したログ『1994年 第四次聖杯戦争』。
数ヶ月前に繋がった『極東の儀式(システム)』。
そして、そのシステムの構築に関わった『第二魔法使い』からの直接の回答。
茜の中で、点と点が、論理の糸で完全に、ただし根本的な部分で勘違いをしたまま結びついた。
ロード・エルメロイⅡ世が恐れる過去。アトラス院がログを残した理由。
それは、1994年の冬木という場所で、魔術の歴史すらも歪めるような『巨大なバグ(エラー)』が発生したからに他ならない。
(……先生は『忘れろ』と言った。だが、僕のシステム(日常)にこれほどの特大の不確定要素(スパム)がぶら下がっている状態を放置することは、論理的に許容できない)
時計塔での「平穏な三流学生」という偽装パッチは、もはや完全に破綻した。
竜胆茜という孤独なプロセッサは、自らの『完成』を証明するため、そして日常を脅かすエラーを完全にデバッグするため、静かに図書館の深層を後にした。
自身の足元に、アトラスの錬金術師が仕掛けた「仮想領域への罠」が口を開けて待っていることなど、この時の彼はまだ知る由もなかった。