白い少女がドアの前で崩れ落ちる。
アトラクはそれを見下ろしていた。視界の中に映る少女から魔力の波長が薄れてゆく。だが完全に消えたわけではない。ならばショック死した恐れはないということだ。魔術師は眠っている時も魔力が消えることはない。纏っている魔力が完全に途切れるのは死ぬときだけである。痛みで気絶したのか、体力の限界で意識が落ちたのだろう。それでも視界の中で少女の姿がだぶって見えるということは相当な魔力の持ち主だということだ。
「厄介だ。しかし、使いようはある」
アトラクは呟き、少女の右手の人差し指から垂れている糸を手に取った。引っ張ると少女の指先から糸が引き出される。血の糸であり、アトラクにとっては貴重な魔術行使のための道具だった。アトラクは〝傷〟を媒介にして魔術を形成する。
小さな、例えば虫に噛まれた程度の傷口でもアトラクにとっては充分な経路となりえるのだ。
本来身体にないはずのイレギュラーな部分に対してもアトラクの魔術は有効となる。傷に関する魔術ならば自分の右に出る者はいないとアトラクは自負していた。少しでも手傷を負わせ、そこに魔力を送り込めば、どんな膨大な魔力の持ち主だろうとアトラクの敵ではない。いや、膨大であればあるほどにアトラクの魔術は有利に働く。傷を負わせれば、そこから体内の魔力量を狂わせて自壊させるくらいはできる。
通常、魔術師同士の戦いでは手傷を負わせて逃がすなどということは愚の骨頂だったが、アトラクの場合においてはむしろ逃がしても一撃さえ与えれば問題はない。一撃を与えられなくとも、一度戦った相手が傷を負えば、その傷を道標にして追撃することもできる。
まさに無敵、とアトラクはほくそ笑んだ。傷を負わない生物などいない。どんな瞬間であれ、生物に傷はある。外的要因による傷ならば、心でも身体でもどんな状態であっても魔術をかけられるアトラクの魔術は傷つきやすい相手にとっては破るのが難しい魔術であった。
糸を手の中に一定の長さを手繰り寄せる。ちょうど手首から腕までの長さと同程度の糸を掌で絡み合わせて、アトラクは拳を握った。すると、手の内側で糸が溶けて血となり、沸騰し始める。それはすぐにかさぶたになったかと思うと、爪の先ほどの大きさに収縮し、形状を粘度細工のように激しく変動させた。かさぶたから数本の足が生え、中間でねじれる。一瞬の間に、かさぶたは小さな赤い蜘蛛になっていた。
少女の血から作られた使い魔だ。当然、魔術痕がその内側に記録されており、アトラクは少女の魔術を使い魔越しに見つめた。紫色の瞳を開き、使い魔の内部へと意識を接続する。
少女の魔術は整然と敷き詰められた水色の六角形だった。六角形は自然界では強固でなおかつ完全を示す形。少女の魔術は若いながらほとんど完成していることが窺える。遺伝子のように無駄がなく並んだ六角形の配列の中で、不自然に空いている場所を見つけた。その場所だけが朱色に塗り潰され、形も不定形で合っていない。ほう、と感心した声を漏らす。
「これが、こいつらの秘密というわけか」
アトラクは使い魔越しに、朱色の箇所へと手を伸ばした。
背後から触れられた感覚がタルトの背筋を伝った。ぞわっと総毛立つ感覚に、タルトは思わず叫んでいた。
「変なトコ触るんじゃねぇ!」
その声と共に、正面から向かってきた男の脇腹へと回し蹴りを打ち込んだ。男が呻き、その身体から力が抜ける。すかさず左拳を固めて、顔を殴り飛ばした。男が倒れるが、その仲間たちはまるで気にしていないように、タルトへとじりじりと迫る。
先程、急に襲ってきた妙な感覚に背後を見やるが何もいない。分かっている。今の感覚は魔術の干渉を受けたときに感じる波だ。それが起こるということはプラムに何かあったのか。だが、プラムがそう簡単に他の魔術師にやられるとは思えない。ならばプラム本人がやったのか。それにしては無遠慮で、プラムが嫌う「無作法」な触り方だった。
男たちが手に工具を握りながら、おぼつかない足取りでタルトへと近寄る。
――こいつら、いつまで。
タルトは舌打ちをして、周囲に目を配った。男たちを何度倒しても、起き上がって向かってくる。亡者の相手をしているかのようだった。男たちのうち一人はタルトが殴ったせいで顔が腫れ上がっている。よく見れば全員、目も虚ろだった。普通の状態ではない。鈍いタルトでもようやく気づいた。
歯が抜けて口から血の泡を飛ばしながら、一人がタルトに向けて駆けて来る。タルトは身構えて、身体を少し沈めた。捻りこむように放った拳が男の顎へと打ち込まれる。男は仰け反ったが、それでも倒れなかった。タルトは「いい加減に――」と足を引きつけて叫んだ。
「目ぇ覚ませ、てめぇら!」
真っ直ぐに腹へと蹴りが食い込んだ。直撃のはずだ。力加減を間違えれば背骨を砕いてしまうほどの手ごたえはある。だが、男は倒れるどころかタルトの足を掴んで引っ張った。男が自分ごとタルトの姿勢を崩そうとする。タルトは咄嗟にもう片足で地面を蹴った。
「こんの!」
身体を空中で回転させて足を振りほどかせる。男は背中から無防備に倒れた。その男へと、仲間たちが工具を振り下ろす。間一髪で振りほどいた勢いをそのままに後ずさったタルトには、それが真正面に見えた。恐らく、男がタルトの身体を引き込むことを予期して、他の仲間たちが襲う算段だったのだろう。無防備な男へと仲間たちが容赦なく何度も工具を打ち下ろす。間断ない暴力に、タルトは思わず叫んでいた。
「やめろよ、お前ら! 仲間じゃねぇのかよ!」
その声にようやく気づいたように、男たちがタルトへと目を向けた。工具で殴られた男の顔は醜く崩れていた。元の形は見る影もなくなっている。覚えず視線を逸らした。それを隙と見たのか、一人が雄叫びを上げながらタルトへと襲いかかった。タルトは応戦しながら、「ちっくしょう!」と吐き捨てた。
「何なんだよ、お前ら! どうかしてるのか?」
男の首の裏へと手刀を打ち込む。通常ならば昏倒させるほどの攻撃でも、男は怯まなかった。それどころか伸ばした手を掴んで、無理やり引き寄せようとする。
「こいつもかよ。やらせるわけねぇだろう、がっ!」
鋭く吐いた呼気と共にタルトは砲弾のような掌底を男の鳩尾へと食らわせた。衝撃が貫通して、男の背後の空気さえも震わせる。男の心拍が掌越しに伝わる。心臓も内臓も動いている。だが、まるで眠っている時のように活動が鈍い。
――眠っている?
タルトは男を突き飛ばし、構えを取りながら訊いた。
「もしかして、誰かに操られているのか?」
答える道理はない。操られているのならばなおさらだ。男たちは獲物を前にした獣のような呻り声を上げる。おぼつかない足取りも、虚ろな瞳も眠っていて操られているのなら頷ける。だが誰が、何のために。それだけがタルトの中で不明瞭だった。足止めか。だが、自分を足止めして得する者などいるのか。その時、先程の妙な感覚が脳裏に過ぎった。
「……まさか、プラムを」
そのために自分は誘い出されたというのか。だがプラムがそう簡単にやられるとは思えない。男たちの頭で自分たちを分散させるなんてことを考えつくとは思えない。だとすれば裏で糸を引いている人間がいる。それも普通の人間ではない。屈強な男たちを手駒にできる人間で自分たちを敵視している者といえばタルトにも思い当たった。
アレンの家族を呪っていた魔術師だ。だが、それにしては手が回るのが早すぎる。魔術師は直接対決を控え、体勢が磐石になってから動くものだ。力量を測らずに動くことはしない。魔術師には感情的な人間はほとんどいないために、恨みの線で動くことはありえない。使い魔程度を殺されたぐらいでは眉一つ動かさないはずだ。それでも動いたということは、答えは一つしかない。
「オレらの正体がばれている、のか?」
タルトの言葉を裏付けるように、また体内に指を差し込まれるような気分の悪い感覚が襲った。心の動揺につけ入るかのように、自分の内部を探っている。タルトは思わず膝を折り、両手で肩を抱いた。
「……くそっ。気持ち、わりぃ」
爪が食い込むまで肩を強く掴んで、タルトは目を閉じた。考えたくはないが、相手の魔術師はプラムへと魔術を用いて強制介入したに違いない。プラムしか知らないはずの感覚器で自分に侵入できるのが何よりの証拠だ。
相手は自分すらも支配下に置こうとしている。タルトは奥歯を噛んで、自分の中に入ろうとする感覚を探し出す。あちらから介入できるのならば、こちらから排除できないはずがない。タルトは精密な魔術操作が苦手だったが、それでも今はやるしかなかった。身体から力を抜き、内部へと研ぎ澄ました目を向ける。血液の一滴に至るまで自分というものを感知する。相手は身体の主導権を奪おうとしているのだから、当然、神経の隅々まで感覚の手を伸ばしている。ならば神経から逆探知すれば、相手の居所が知れるはずだ。細く長い息を吐き出す。
――落ち着け。
自分に言い聞かせる。いつもプラムがやっているようにやればいい。何が起きても冷静に、集中力を欠くことがないように。自分の中へと目を向ける。目を凝らせば視えるはずだ。相手の影が。足跡でもいい。中に入ろうとしているのなら分かるはず。
その時、タルトは身体を持ち上げられたことに気づいた。現実の身体が、いつの間にか回りこんでいた男の一人に抱えられている。後ろから組み付かれているせいで身動きが取れない。無防備なタルトの顔へと、前に立った男が拳を振るう。痛みと屈辱にタルトは現実へと意識を戻しかけたが、頭を振った。
――まだだ。
再び自身の中へと潜行する。必ず見つけられる。身体の主導権はまだタルトにある。ならばこれから奪いに来るはずだ。その瞬間を逃してはならない。
また拳が顔に振るわれる。痛みと鉄の味が口中に広がった。口の中を切ったらしい。男は今まで散々抵抗していたタルトが急に無抵抗になったことに戸惑いながらも楽しんでいるようだった。徐々にいたぶろうというのだろう。今度は腹へと鋭い突きが放たれる。呻きと共に、肺に溜まっていた空気が口から出た。それでもまだ自身の内側へと目を向け続ける。
――もうすぐ。
男が上方へと腕を振りかぶるのが気配で分かる。握られているものは恐らく工具だろう。避けなければやられる。だが、ここで逃げれば相手の正体が永遠に分からなくなるばかりか、身体までも奪われてしまう。タルトは現実に意識を戻さなかった。空気の鳴動と共に、工具が振るい落とされるのが鋭敏になった知覚を揺すぶる。戻れ、と叫ぶ理性に、タルトは、否と返した。
その時、タルトの意識の海の表層に浮かび上がった影があった。紫色の蜘蛛の形をしている。タルトは意識の眼でそれを捉えた。
「今だ!」
意識の中で叫んだ声が現実の声と重なりタルトは目を開いた。自身の内側に侵入しようとしていた蜘蛛を蹴り飛ばすと同時に、爪先を伸ばして蹴り上げた。打ち下ろされようとしていた工具が男の手から外れ、男の拳は何もない空を切る。
それに目の前の男が疑問を挟む前に、タルトは上げた踵を男の脳天に向けて振り下ろした。男が潰された小動物のような醜い呻き声を上げる。タルトは後ろの髭面の男へと動揺が走ったのを見逃さずに、肘鉄を食らわせた。髭面の男の拘束が緩んだ隙をついて、腕を引き剥がしタルトは地面を蹴った。髭面の男の肩に置いた手を支点として宙返りを決め、背後へと降り立つ。振り返られる前に、今度はタルトが髭面の男の首へと腕を回して力の限り絞めた。ぐえ、と両生類のような呻きが漏れる。
「言え! お前らを操っているのは誰だ!」
髭面の男が酸素を求めるかのごとく口をパクパクとさせて、震える手を彷徨わせる。タルトはさらに力を加えた。すると、何かが男の背中から首筋へと這い出てきた。それは一匹の蜘蛛だった。タルトが片腕でしっかりと男の首筋を絞めながら、もう片手で蜘蛛を摘み指先で潰した。すると、髭面の男は急に力を抜いた。タルトが覚えず腕の力を緩める。
「ウソ。もしかして死んだ?」
だらんとして髭面の男はその場に倒れ伏した。タルトがドキドキしながら首筋に指を当てる。脈はまだある。生きていることにとりあえず安堵の息をついて、タルトは周囲を見渡した。他の男たちも糸が切れたように地面に倒れていた。なるほど、と汚れた指先を見ながら口にする。
「こいつが操っていたのか」
指には紫色の血がついていた。使い魔と同じ色だ。敵は魔術師と考えて間違いはないだろう。
「自分で手を下さずに手下を従えるってわけか。汚い野郎だ」
吐き捨てるように口にしてから、タルトは汚らわしそうに手を払った。口の中に鉄の味が充満している。唾を吐いた。少し血で赤みがかっていた。周囲に転がる男たちに目を向けながら、
「こいつらはこのままにしておくか。それよりも」
タルトは踵を返した。先程、意識の中に入り込んできた敵を倒した時に感じた。このままではプラムが危ない。いや、既に危機に瀕している可能性が高い。タルトは急いでプラムの下へ向かおうとして、走り出した。
だが、その足は途中でもつれてタルトは前につんのめった。普段ならば転ばないし、転びそうになっても手で受け止める。しかし、この時のタルトにはどちらもできなかった。地面へと顔を思い切りぶつける。砂利が口の中に入って、切った傷口に沁みた。
「いってー。どうなっているんだ」
立ち上がるために手で身体を持ち上げようとするも、その手には力がまるで入らなかった。腕が石膏で固められたように動かない。
「この感じ。まさか――」
その言葉が形になる前に、タルトは全身から力が抜けていくのを感じた。