第十二話 マイナスからの抗い
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ぷつりと意識が途切れる。
視界は闇の中に沈み、伸ばした手さえ見えない。いや、手を伸ばすことなどかなわなかった。全身に錘がつけられているかのように重い。拘束されているわけではないようだが、動けないのならば同じことだった。指の末端まで神経を飛ばすこともできない。脳から発せられた信号は、指に届くまでに消失してしまう。腕も足も動かない。どうにもならず、呻こうとした時、突然視界が開けた。
空は見えない。赤い闇が周囲を覆っていた。喉が焼け付くように痛い。轟、と炎が獣のように呻る。抜け落ちた天井から下弦の月だけが無関心を装う人間の瞳のように自分を見下ろしている。天に手が届けば、あの目を毟り取ってやるのに。そう思って肩に力を込めようとしても、それは作用する前に霧散した。周囲に目をやる。部屋の隅でぬいぐるみが炎に焼かれている。一度もこの手に抱いたことのない、ぬいぐるみが焼け爛れて炭になってゆくのは、自身の末路に思えた。誰の愛も知らないぬいぐるみたち。必要とされなかったぬいぐるみたち。フェルトが焼け落ち、目の形に加工された黒い石が落ち窪んだ。顔の半分と共に溶けてぬいぐるみの頬を伝う。泣いているように見えた。
泣くまい、と思う。愛を知らずとも、必要とされなくとも泣くまい。それは敗北だからだ。自身の存在がなくなることへの恐怖に押し潰されることや、何も知らずにぐずぐずに溶けて骨になって、誰とも知れぬ身になってまともに埋葬されないことにも、感傷を浮かべてはならない。もとよりこの身体に未練はない。炎が一瞬で跡形もなく焼いてくれるというのならば、それを喜んで受け入れよう。地獄の痛みを伴ったとしても、それはこんな身体に生まれついてしまった自分への罰なのだ。贖罪だと思えば、何も怖くはない。死にゆくのは当然のさだめ。助かったとしても、どこにも居場所がなければ同じことだ。ならば、ここで塵になったほうがいい。自分が死んでも誰も悲しまないだろう。だったら、そのほうがいい。消えて初めて生きた意味になるというのならば、それを望む。
目を閉じる。再び世界は闇の中に消える。天井を構成する木材が落ちて、激しい音を立てて床に燃え移る。目を閉じていても赤い光が、網膜に染み込んでくる。せめて、最期くらいは闇の中で消えてしまいたい。
そう思った直後、違う色が瞼の向こうで輝いたのを感じた。
水色の光だ。
赤を裏返したようなその光に、目を開くと炎を背にして少女が立っていた。ショートカットの銀髪が火の粉の混じった風になびく。白磁のような肌は黒く焼け焦げている周囲と対比して浮き立って見えた。水色の瞳が哀れむでもなく、無感情に見つめている。空に浮かぶ月のようだった。白い服を着て月と炎を背負って立つ姿に神秘を感じて思わず尋ねた。
「迎えに来てくれたの?」
銀髪の少女は答えない。水色の光は少女の足元から上っているようだった。その周囲だけ炎が消えている。少女の瞳の中に自分が映り込んでいる。ベッドに横たわり、痩せ細って死を待つだけの存在である自分を見つめ、小さな唇で少女は言葉を紡いだ。
「私は、あなたを迎えに来たわけではございません」
「じゃあ、何のために。私なんか、いてもいなくても同じなのに」
その言葉に少女は暫時、沈黙を挟んだ。否定するわけでも、肯定するわけでもない。真っ直ぐな視線だけを向けている。その眼差しの意味するものを読み取ろうと見つめていると、天井の老朽化した梁が炎に焼かれて崩れ少女へと降ってきた。危ない、という言葉を発する前に、木材は少女の頭上でバラバラに砕けた。水色の光に包まれて、何かの圧力が突然かかったように押し潰されて消えたのだ。驚愕に目を見開いてそれを見ていると、少女は小さく、「何に」と口にした。
「何に対して、あなたがそれほどまでに劣等感を覚えているのかは分かりかねます。あなたの過去を私は断片的にしか知りませんから。ですけれど、あなたを必要として心配に思ってくれている人がいるから、あなたの前に私は立っているのです」
「心配? 私のことなんて誰も見てくれていないのに。面倒だって皆思っているくせに。一体誰が――」
「少なくとも。ここにいる私は、あなたのことを必要としております」
遮って放たれた言葉に、驚くよりも戸惑った。突然現れて必要としているなんて、一体何者なのか。それよりも、その言葉の真偽を疑った。
「どうして、私なんかを」
「抗う力がおありだからです」
「抗う? 何に、対して?」
「運命にです。既に定められた道筋を捻じ曲げ、自身の力で進む心の強さ」
炎が勢いを増す。全てを飲み込む赤い怪物のような炎は、それでも少女の水色の境界には入ってこようとしない。少女だけがこの空間で特別だった。
「私に、そんなものは……」
「あります。ただ、それを見失っているだけ。それがあなたと、私ならばできる」
少女が左手を空中に差し出した。中指を真っ直ぐ向ける。その指に答えを迫られている気がした。少女が口を開く。
「この境遇を脱したいのならば、選んでください。たとえ死よりも恐ろしい道が待ち受けていても、その運命を捻じ曲げる力と共に、歩むか。それとも目の前に差し出された死に甘んじるか」
選択は委ねます、と少女は言った。
このままでは遠からず死を迎える。それはもう確定された事象のように思えていた。たとえ炎がこの身を焼かずとも、運命を司る神に決められているものだと。だが、それに抗い道を選ぶ力が自分に残っているのならば。その道が少女の形を取って示されているのならば――。
乾燥しきった唇が痛い。それでも口を開き、言葉をゆっくりと紡いだ。
「……私は。私は、自分で歩む道を選ぶ」
「――そう仰られることを、待っていましたわ」
少女の中指から一条の光が発せられ、首筋へと絡みついた。少女の背後の空間に後光のように二重の円が広がり、円と円との隙間を細かな文字が血液のように流動する。空間へと水色の線が引かれ、籠のように絡み合い、六つの頂点を持つ星型の紋章を描き出す。中央で交差している線を上書きするように、文字が浮かび上がった。それは「MAGIA」と読めた。その上へと線が一本引かれる。
「……それ、は?」
壮絶な光景に目を奪われながら訊くと、少女は僅かに笑みを浮かべた。
「私の魔術の大前提ですわ。『魔術』を『否定』する『魔術』という矛盾。その矛盾を抱えながら生きること、それが即ち私でしてよ」
「あなたは、一体――」
「プラム。それが私の名です。さぁ」
プラムと名乗った少女が左手を揺らす。その動きに連動して、中指から首に繋がっている光へと色が与えられた。赤い糸だった。いつか聞いた東方で広まっているという運命を司る赤い糸の伝説が頭の中に浮かび上がる。その運命を否定する、それがプラムの言っていたこと。
「契約はなされました。それにしても、皮肉ですわね。赤い糸になるなんて。運命から逃れようというのに」
浮かんだ含み笑いをすぐさま打ち消し、プラムは炎とは相反する氷のように冷たい瞳を向けて、尋ねた。
「あなたの名前を教えてくださる?」
その言葉に静かに返した。
「――タルト」
恐らくは、両親から与えられた唯一意味のあるものだった。
「いい名前ですわね」
プラムはそう言って微笑んだ。
海底から引き上げられる感覚に似たものが内側から起こり、タルトは目を覚ました。視界には木目調の天井が広がっている。どこなのだろう、と浮かんだ最初の疑問を払拭するような声が間近で弾けた。
「あ、お姉ちゃん起きた」
その声に目を向けると、赤い頭巾を被った少女がいた。頭巾からセミロングの髪が僅かに覗き、紫色になった顔の半分が見えた。エイミだった。
「オレ、は……」
身体を起き上がらせようとするが、手にも足にも力が入らなかった。そっか、と悟ったように呟いてから、タルトは首をエイミへと向けた。首から上だけしか動かなかった。
「ここ、どこだ?」
「宿にある医務室だよ。お姉ちゃん、そこの道で倒れていたから」
エイミが窓の外を指差す。それでようやく思い出してきた。足が絡まって転んだと思うと、突然身体の自由が利かなくなったのだ。その後、意識が遠くなったところまでは覚えている。タルトは周囲を見渡した。ベッドが三つ並んでおり、エイミは木でできた丸椅子に腰掛けていた。奥には診療机がある。タルトはエイミに尋ねた。
「どうして、民宿の前を」
「お薬と食べ物を買ってきた帰りだったの。お姉ちゃんが倒れていて、でも家まで連れて行くのは荷物もあるから大変だったし、ここに置いてもらったの」
エイミの足元には買い物籠に入れられた食料と紙の包みがあった。薬草でも入っているのだろう。タルトは「ああ、母親の」と言って、エイミを見てから乾いた笑い声を上げた。エイミが少し顔を強張らせる。
「怖がらせちまって悪い。でも、あまりの情けなさに笑えてきてな。オレ、朝に突き放すようなことを言っておいてこれだもんなぁ。カッコつかねぇよ」
タルトはエイミから顔を背けた。エイミは膝の上に置いた両手をぎゅっと握って、タルトへと尋ねた。
「お姉ちゃん、どうしてあんなところで倒れていたの? エイミが行った時、ちょうど人が集まり始めていたんだよ。お父さんと同じお仕事している人たちがあの辺に倒れていて。あの場所で、何があったの?」
「ちょっとしたいざこざだよ。ガキが気にすることじゃねぇ。さっさと帰りな。母親に薬やらなきゃいけねぇんだろ」
「でも、お姉ちゃん」
「何だよ」
タルトがエイミへと目を向ける。エイミは気後れしたように目を逸らしたが、それでも尋ねた。
「さっきお医者さんが言っていたよ。全く生理反応が見られないとか、何か。まるで、筋肉がないみたいだって。お姉ちゃん、エイミが運んできた時もすごく軽かったよ。どういうことなの?」
エイミの言葉にタルトは苦い顔をしてから、目を伏せて沈黙した。エイミがすぐさま「ごめんなさい」と謝る。
「余計な心配だったよね。ごめんなさい。エイミ、帰るね。バイバイ、お姉ちゃん」
エイミが立ち上がって買い物籠を持ち上げようとした時、タルトが静かに口を開いた。
「待てよ」
エイミの動きが止まる。タルトはエイミの目を真っ直ぐに見つめて顎をしゃくった。
「そこ、座れ」
エイミは促されるまま椅子に座りなおした。タルトは天井に視線を固定して、「どっから話すかな」と口にした。まぁ、と言って迷いを打ち消し、
「どっから話しても同じか。じゃあ、さっきの疑問から。オレの体重が軽いのも、生理現象がまるでないのも、筋肉がないように思えるのにも理由があってな」
「理由って、聞いていいの?」
エイミが顔を不安で曇らせる。タルトは、「そっか」と呟いた。エイミもまた、理由を聞かれたくないことがあるのだ。理由を尋ねることがどれほど人の心を抉るものなのか知っている。どうして、なんていう問いは時に刃となりうるのだ。当人にもどうしてだか分からないことはあるし、どうしようもないことがある。そんなことばかりに囲まれているのが現実なのだ。エイミは呪いを受けた時、まだ十歳だった。様々な迫害や、差別に傷ついたはずである。普通ならば、まだ何も考えずに誰かと遊べる時期なのに、頭巾で顔を隠して買い物をしている。そこに苦しみがないはずがない。胸を締め付ける苦味が過ぎり、タルトは少し沈黙を挟んでから、ああ、と口にした。
「いいよ。多分、それ言わなきゃ始まらないからさ」
「……じゃあ。お姉ちゃんは、どうして体重があんなに軽かったの?」
「魔力の話、朝にしたろ?」
「うん」
「人の体重っていうのは魔力が介在しているんだ。純粋に人間の体重だけなら、実はそんなに重たくはねぇ。血液の中や皮膚の下に魔力があって、筋肉を動かすことですら魔力が必要になる。だから、人の身体は魔力で満ちていてそれを反映しているのが体重だ。例えば体重三〇マルベイルの子供でも、そのうち一五マルベイルは魔力の重さなんだ。お前は、何マルベイルある?」
「多分、二八マルベイルぐらい」
「だったら、そのうち一四マルベイルぐらいが魔力の重さだ。オレと同い年ぐらいの平均体重が四〇マルベイルだろうから、二〇マルベイルが魔力抜きの重さになる」
「どういうこと?」
エイミが首を傾げた。何を言わんとしているのかが分からないのだろう。魔術の知識がなければ大人でも飲み込みにくい説明だ。
「つまり、体重の半分は魔力だっていうことだよ」
噛み砕いて説明すればそういうことになる。そんでもって、とタルトは言葉を継いだ。
「オレには、その魔力がない」
エイミがその言葉の意味するところを分かりかねているようだった。エイミが「嘘、だって」と口にする。タルトは「嘘だって言うんなら、そうしたいよ」と言った。
「でも、本当なんだ。生まれつき魔力がない。身体の中には全くと言っていいほど、魔力の欠片も存在しない。だから、オレの体重は軽いんだ。多分、実際に量ったら二〇マルベイルもねぇよ。魔術用語ではオレみたいな身体の人間のことを“マイナス”って呼ぶらしい」
「でも、お姉ちゃん、朝に魔法みたいなの使ったいたじゃない。あれは何なの?」
「魔法じゃなくて、魔術な。あれは、プラムがいないと駄目なんだ。プラムが空っぽのオレの身体を介して魔道具を形成しているんだ。だからあれは、正しくはプラムの魔術だよ。オレというフィルターを通っているだけさ。と言っても、空っぽだからフィルターにもならないけどな」
「だから、お姉ちゃんたちは二人でいたの?」
「ああ。それが理由だ。オレはプラムから離れられない。二〇〇マルティール圏内を越えると、オレの身体に込められていたプラムの魔力が消えちまう。それがフェイズ1だ。プラムがオレの身体の動きを補助してくれているんだよ。おかげでオレは常人よりも動けるし、力も強い。でも、プラムがいなけりゃ、指一本も動かすことができねぇ。動くのは首から上だけさ」
笑おうとして果たせず、タルトは感情の灯らない瞳を天井に向けた。本当に、情けなかった。これでも自分一人で救おうと思っていたのだから、とんだ傲慢だ。引き離されてしまえば、こうも簡単に終わってしまうと言うのに。「聞きたくなけりゃ、聞かなくていいけど」と前置きしてから、タルトは話し始めた。