モノクロマギア   作:オンドゥル大使

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第十三話 己の覚悟と共に

 

 

「プラムに出会う前はさ、オレはずっと家の一室で育てられたんだ。でも、どんな家かは知らなかった。もしかしたら、すげぇ貧乏だったのかもしれねぇし、裕福だったのかもしれない。食事の時とか二時間に一回の世話の時以外は、誰も来なかった。親の顔だってまともに見たことねぇよ。マイナスは感染しないんだけどな、どうにもうつるもんだと思われていたらしくてさ。顔を黒い布で覆った奴らが入れ替わり立ち代り来るんだ。どいつが母親で父親なのかなんてまるで分からなかった。部屋の天井には穴が空いててな。雨の時とかは、布のシートみたいなので塞がれたけど、そこから月がよく見えたんだ。でも、一度だって手を伸ばすことはできなかった。それでオレは一生外には出られないんだって、子供心に分かっちまったよ。月はすぐ傍に感じるくらい綺麗に見えているのに、オレには見ることくらいしかできねぇ。いつか掴もうだとか、あの場所に行きたいなんて欲求はなかったんだ。足も利かなかったから。脱落者の烙印を押されていたんだよ。人生を楽しめる奴らが一定量決まっているとしたら、オレはそこから零れ落ちた人間なんだって思った。楽しめる奴らに混ぜてもらうことなんて一生ありえないんだって。心底、嫌だったよ。動けない自分や、そんな風に悲観的にしか考えられない自分も。なんつーかさ、明日を迎えられる気分って言うのがなかったんだよ。目が覚めたら今までのことは夢で、手も足も自由に動けるし両親も自分のことを愛してくれる、なんてことよりも、目を閉じてそのまま自分が終わってしまうかもしれないことのほうが怖かった。でも、同時にそういうものに救いを求めてもいたんだ。死だけが、オレに安らぎを与えてくれるってな」

 

「お姉ちゃんは、死にたかったの?」

 

 エイミの発した言葉は、重く沈殿した。普通の十三歳ならば、まだ言葉の意味も実感では分かっていないはずの年頃だ。いや、大人だって分かっていないのかもしれない。それをエイミは母親の姿を通して身近に感じているのだ。誤魔化しは利かないな、と思ってタルトは頷いた。

 

「ああ。だから、あの日の火事はオレの願いが通じたんだと思ったよ」

 

「火事、って?」

 

「原因は分からねぇ。その日、火事があってオレの家は全焼した。誰も助けに来なかった。うつるかもしれないマイナスなんて、この際殺してしまえばいいというのが総意だったんだろうな。あの日は妙に月が綺麗で、でもその美しさが逆にオレを突き放しているみたいに見えたんだ。無慈悲で、冷酷な眼差しに思えた。ああ、遂に月にも見放されたな、って思ったよ。オレは死を覚悟した。だけど、そこにプラムが現れたんだ」

 

「プラムって、あの白いお姉ちゃん?」

 

「そうだよ。お迎えだって思ったぜ、あいつが現れた時には。あいつはオレに選ばせたんだ。ここで死を受け入れるか、それとも運命に抗う険しい道を選ぶかって」

 

 詩的だよな、とタルトは笑った。眼差しが、出会った日のことを思って遠くに投げられる。あの時、出会わなければどうなっていたのだろうか。きっと、今頃炭になっていただろう。葬儀も行われたかどうか定かではない。

 

「お姉ちゃんは、険しい道を選んだ」

 

「抗ってみたかったんだ。今まで諦念することしかしてこなかったオレに、まだやれることがあるんだったら、って。オレはプラムと契約した。プラムの魔力供給を得て、自由に動ける身体を手に入れる代わりに、オレはプラムと旅をすることになったんだ。魔術師を狩る旅さ。おとぎ話みたいに聞こえるかもしれねぇけど、マジだぜ」

 

「……まだ、ちょっと分からない」

 

 だろうな、とタルトは返した。まだ魔術師を狩る本当の目的を話していない。だが、それをエイミに話すつもりはなかった。そうなれば巻き込んでしまうことになる。

 

「オレはさ、だぶらせていたんだよ。お前らの境遇とオレの境遇を。生まれつきのマイナスと、後天的な魔力制御能力の欠如は違うけれど、でもあの母親を見た時、オレはお前らを助けたいって思ったんだ。でも、分かっているんだ。オレ一人じゃ何もできねぇって。だから、あんな物言いしかできなかった。救いたいのに、それは本当の意味でオレの力じゃねぇ。プラムに救われたオレのように、オレも誰かのそういう存在になれたらってずっと思っていた。でも、もう駄目だな。プラムも消えちまった。どこに行ったのか、まるで分からねぇ。オレには魔力を探ったりする能力がないからよ。こんな時、オレはどうしようもなく無力だ。情けねぇよ、本当に」

 

 あの時、〝私〟を捨てて〝オレ〟になって自分は変わったのだと思った。もう誰の助けも必要のない、完成された人間になったのだと思い込んでいた。だが、それはとんだ思い上がりだったのだ。ずっとプラムに助けられているのに、見て見ぬ振りを続けていただけだ。そのしわ寄せが、ここに来ている。プラムの言葉が思い出される。もし、誰も面倒を見てくれなかったらどうするのか。風任せ、などという適当な言葉で返したが、本当に誰も助けてくれなかったら、自分は腐敗するようなあの日々へと逆戻りすることになる。後悔したところで、もう遅いのだ。

 

「お姉ちゃんは、もう……」

 

 そこから先の言葉をエイミが濁す。幼いながらも分かっているのだろう。タルトが応じる。

 

「ああ。戦えない。そればかりか、動くことすら儘ならねぇ。プラムのいる場所さえ分かりゃ、何とかなるんだが、それも絶望的だろうな」

 

 相手の魔術師の根城が分かれば、プラムも恐らくそこにいるのだろう。だが、殺されていれば意味がない。殺されれば、自分は永久に身体を動かすことができないばかりか、メイアとエイミの母子も呪い殺されてしまう。奥歯を食いしばって力を入れようとするも、精神論でどうにかなるものではないようで、指一本動かせない。精神論で動くなら、とうの昔に動いている。

 

「プラムお姉ちゃん、悪いやつに攫われちゃったの?」

 

「多分な。民宿で殺すなんて真似をしたら今頃大騒ぎのはずだ。それに死んだら魔力感知が鈍いオレでもさすがに分かるぜ。場所を改めて殺す可能性は充分にあるけどな」

 

「どうするの?」

 

「助けて、相手の魔術師をぶっ倒す。って言いたいところだが、この状態じゃどうしようもねぇ。お前、オレを持てるか?」

 

「え、うん」

 

「じゃあ、連れて行って欲しいんだ。オレらが泊まっていた部屋まで。部屋で襲われたんなら、何か、これからの手がかりがあるかもしれねぇ」

 

 エイミは頷いて、医師を呼んだ。中年の男の医師だった。医師は動かすことを渋ったが、エイミが必死に説得してくれたおかげで、折れてくれた。医師に負ぶさってタルトは部屋へと辿り着いた。エイミも一緒である。部屋の前には既に民宿で働く従業員が数人いた。一人はバールやのこぎりの入った工具箱を持っている。タルトが医師の背中からひょっこりと頭を出して、大声を発した。

 

「おい、てめーら! そこで何やっている!」

 

 医師が耳元で発せられた声に顔をしかめる。従業員の一人がこちらへと近づいてきた。医師は足を止めて尋ねた。

 

「そこで、何を?」

 

「いや。さっき隣の部屋からうるさいって苦情が来たものですから、部屋に言いに行ったのですが、どうも扉が壊れているらしくて開かないのです。それで無理やり開こうということになりまして」

 

 扉、という言葉を聞いた瞬間、タルトが「あっ」と声を上げた。それに気づいた医師と従業員がタルトの顔を覗き見る。タルトはばつが悪そうに顔を背けた。あの時、プラムの態度に苛立って勢いよく閉めた時に壊れたのだろう。自分の仕業だとは言えずに、タルトは押し黙った。エイミがタルトへと視線を向ける。タルトが睨み返すと、エイミは顔を伏せた。

 

「開かないんですか?」

 

「もうじき開きますよ。背負っていらっしゃるのは――」

 

「その部屋に泊まっていた客だ」

 

 タルトが従業員の声を遮って答える。従業員は少しまごついた。大方、少女一人が宿泊客だとは思わなかったのだろう。タルトは嫌味を言おうとして、やめた。手も足も動かない状態で言っても惨めなだけだ。数人の男の従業員がバールをドアの隙間に突っ込んで、力で無理やり開いた。その途端、タルトは漂ってきたにおいに顔をしかめた。黴臭い。嗅いだことのあるにおいだ。アレンの家と同じものであると気づき、タルトは自分を背負っている医師へと言った。

 

「急いでくれ。プラムがヤバイ」

 

 医師は足早に部屋の前に立ち、従業員たちの合間を縫って開かれたドアから中へと入った。エイミもその後に続く。洗面所へと向かう床の前に、赤い紋様が刻まれていた。医師が足で踏み潰したのを見て、タルトが声を上げる。

 

「オッチャン、足元! 踏んでるぜ、それ」

 

 医師が後ずさって、床を見つめる。タルトも全形を視界に捉えた。円と菱形と三日月で構成された魔法陣だ。移動用の魔法陣であることは、タルトにも分かった。誰の血なのかは一見しただけでは判別できないが、恐らくプラムのものだろう。近くにプラムが提げていた旅行鞄が落ちている。

 

「……プラム。まさか、怪我をして」

 

 医師にベッドのある部屋へと身体を向けるように命じる。円形のテーブルの下に中身のぶちまけられたグラスが落ちていた。従業員の一人がそれに触れて持ち上げようとすると、従業員は突然、グラスを取り落とした。

 

 見ると、指先が割れて血が滲んでいる。タルトはそこである推論に至った。敵の魔術師は移動用の陣を使って、この部屋へと移動してきた。移動に必要なのは、恐らくは血である。だが、そう都合よく相手が怪我をして血を流すとは思えない。だとすれば、最初からグラスに細工がしてあったのか。プラムに血を流させて、この場所へと移動するために。そう考えると、グラスを持ってきた給仕係の挙動の不審さも頷ける。あれはもう既に操られていたのだ。

 

「なるほどな。読めてきたぜ。でも……」

 

 一つだけ、分からないことがあった。その疑問に言葉を濁す。どうして敵は自分たちがこの民宿のこの部屋に泊まっていることを知っていたのだろう。使い魔を破壊したのはアレンの家だから、それ以前のことは知りようがないはずだ。それ以降のことも、分かるはずがない。考えて、タルトは一つの答えを導き出した。

 

「協力者がいる、ってことか。この部屋を知っている奴、となれば、オレがのしたあのオッチャンらのうちの誰か……」

 

 確実な方法で考えるならば、髭面の男だろうか。あの男がタルトを外へと誘い出したのだ。だが、あの男は操られていた。いや、昨晩から操られていたとすればそこから監視の目をつけられていたことになる。ならば使い魔が倒されることも予定調和のうちだったのか。タルトとプラムを分散させるために、男たちを使ったのは昨夜から考えられていたことなのか。思考すればするほど、迷宮に陥ってゆく感触にタルトは首を横に振った。

 

「駄目だ。オレの頭じゃ答えが出ねぇや。とりあえず、オッチャン」

 

 医師が肩越しにタルトを見やる。タルトは頷いて、顎をしゃくった。

 

「オレをその鞄の近くに下ろしてくれ。あ、鞄には触るなよ。多分、鍵がかかってる」

 

 医師は理解していないようだったが、タルトに促されるままその身体を旅行鞄の近くへとゆっくりと下ろした。エイミがタルトの身体を受け取り、

 

「お姉ちゃん、どの辺?」

 

「オレの手とか身体の一部が触れればいい。とりあえず近くに下ろしてくれ」

 

 エイミがタルトの身体を少し持ち上げてから、引っ張った。タルトは手足をだらんとさせて、エイミに体重を預けているにもかかわらず、エイミは重そうな素振りを見せない。

 

 ――それほど軽いんだな、オレ。

 

 自嘲しようとして果たせずに、俯いた。タルトは従業員たちの挙動に目を配る。従業員たちはバスルームへと入って行ったようだった。そこから「これは、ひどい」という声が漏れ聞こえる。プラムの死体ではありませんように、と祈りながらタルトは旅行鞄のすぐ脇へと寝かされた。タルトの手が旅行鞄に触れる。すると、朱色の光が一瞬走り、旅行鞄の内側でかちりと鍵の開く音がした。それを聞いたエイミが「お姉ちゃん、これ」と口にする。タルトは頷いた。

 

「オレかプラムの生体信号が鍵になっている。プラムは多分、直前で鞄に鍵をかけたんだろう。敵に触れられないようにな。もう触っても大丈夫だ。開けてくれ」

 

 エイミは旅行鞄を開いた。中に入っていたのは、二人の着替えや金銭、それに魔術の解析に用いる道具の数々だった。エイミが服の一つを持ってめくると、その下の空間が捩れていた。エイミは目をぱちくりとさせて、両目を擦り、もう一度服をめくる。旅行鞄の底に当たる部分がなく、赤と青と黄色の絵の具を混ぜて、ぐしゃぐしゃに塗り潰したような空間があった。タルトが言葉を発する。

 

「その鞄に底はないんだ。そういう魔術がかかっている。間違って鞄の中に飛び込んだりするなよ。永遠に鞄の中の空間を彷徨うことになるからな」

 

「お姉ちゃんたちがやったの?」

 

「オレにはできねぇし、多分プラムでも無理だ。そういう鞄が売っていて、オレらは勝手に使っているだけ。本来はどういう目的で使われていたのかは分からねぇけど、オレらはただ単に便利な荷物入れとして使っている。それだけだよ」

 

 エイミが再び旅行鞄の中を覗き込む。落ちんぞ、とタルトは警告した。

 

「その魔力が捩れた空間から物を取り出せるのはプラムだけだ。そのプラムだって知っているものしか取り出せねぇ。オレには取り出せないのに、プラムが鍵をかけたってことは、だ」

 

「どういうことなの?」

 

 エイミがタルトの顔を見下ろす。タルトは眉を少し上げて、「見下ろすんじゃねぇよ」と不機嫌そうに言った。エイミが「ごめんなさい」と顔を背ける。

 

「まぁ、今の状況じゃしゃあねぇけど。つまりは、今見えているものだけで、敵に対する何らかの手がかりは得られるってことだ。今、鞄の内側で見えているもんは?」

 

「えっと、着替えと、お金の入ったお財布と、あとよく分からないのが、何個か」

 

「そのよく分かんないのを説明してくれ。オレのほうからじゃよく見えねぇ」

 

「えっと、その……」

 

 エイミが戸惑っていると、医師が助け舟を出した。

 

「ビーカーみたいなものが二つと、あとは試験管が三本あるな。袋が三枚、折り畳まれている。いや、一枚だけ折り畳まれていない奴があるな。中に入っているのは、触っていいのか?」

 

「ああ、頼む」

 

 タルトが頷くと、医師は折り畳まれていない袋を一枚、取り出した。開いて中を覗き込む。

 

「何か入っている。これは種か?」

 

「オッチャン、ナイスだ。するってーと、多分、ここで使うのはまずその袋だな。オッチャン、オレに見える位置に持ってきてくれ」

 

 医師が袋をエイミへと手渡してタルトの視界に入る場所へと持ってくる。革製の、何の変哲もない袋だ。口の部分が紐で絞れるようになっている。タルトは眉間に皺を寄せて袋を睨んだ。何かあるはずだ。プラムが鍵をかけたのだから、敵に知られてはならない何かが。首を必死に持ち上げようとするが、拳一個分も上がらない。タルトは中を見るのは諦めてエイミへと尋ねた。

 

「何が入っている? 主観でいい。どんな種が入っているのか教えてくれ」

 

「えっと、何か黒くて細長い種が入ってる。形はスイカみたいな感じかな」

 

 スイカの種のようなもの。それを聞いた瞬間、タルトの脳裏にプラムとの会話が過ぎった。確か、イチランソウという極北の花から一つまみしか取れないものが、スイカの種に似ていると言っていなかったか。そして、その種は魔術痕の解析ができると。

 

 タルトは、それだ、と声を出した。エイミが驚いて肩をびくりと震わせる。タルトはすぐさま言った。

 

「おい、ガキ。近くにある魔法陣、分かるよな? それに種を引っ付けてみてくれ。オレの読みが正しければ」

 

 それが敵へと通じる道になる。そうタルトは口にした。医師とエイミは信じられない面持ちで、顔を見合わせた。タルトは必死に叫ぶ。

 

「早く! 時間がねぇんだ。プラムがやられたら、オレはもう駄目なんだ。戦えない。母親やお前を助けることもできねぇ。だから、頼む! オレを信じてくれ!」

 

 タルトの言葉にエイミは逡巡するように袋の中の種を見つめてから、タルトの顔へと目を向け、強く頷いた。エイミはタルトの横を駆けていき、血の魔法陣の上に立った。タルトは必死に首を持ち上げて、喉が裂けんばかりに叫んだ。

 

「種をぶちまけろ!」

 

 エイミは袋の中の種を魔法陣へとばら撒いた。袋をぎゅっと抱いて、目を瞑る。

 

 しかし、何も起こらなかった。血の魔法陣が輝くことも、種が魔術痕に反応する様子もない。

 

 ――読み違えたか?

 

 タルトの心へと氷のような冷たいものが差し込む。使い方を誤ってしまったのか。メイアとエイミを助けることはおろか、プラムを助け出して旅を続けることもできないのか。エイミが不安そうな眼をタルトへと向ける。タルトは持ち上げていた首を下ろして、息をついた。

 

「……失敗だ。方法が間違っていた」

 

 目を閉じて奥歯を強く噛み締める。無力とはこれほどまでに胸を締め付けるものなのか。重いものがわだかまり、呼吸さえできない。思考は取り返しのつかないことをしたと言う一事で塗り潰されてゆく。視界が滲んだ。泣くまい、と決めたはずなのに。救うと定めたことに、手すら届かず指の一本も動かせずに終わるなんて。タルトは喚くように叫んだ。

 

「ちっくしょう! 動け、手! 動けよ、足!」

 

 身体に力を込めようとしても、それは神経に信号となる前に消えてゆく。どうすることもできない。朽ちるしかない。医師が何も言えずに、顔を背けた。エイミは今にも泣き出しそうな顔をしている。そんな顔をするなよ、と言いたいがタルト自身も今はエイミの顔も誰の顔もまともに見られる気がしなかった。エイミが「ごめんなさい」と喘ぎながら、タルトの隣へと戻ろうとした。その時、エイミは足がもつれたのか、その場に転んだ。それが引き金となったように、堰を切ったようにエイミは泣き出した。医師がそれを宥めようと立ち上がりかける。

 

 瞬間、視界の隅で何かがぼうと赤く光った。タルトが首を持ち上げて、エイミのほうを見やる。また、脈打つように光った。タルトが口を開いた。

 

「……魔法陣が」

 

 光っている、と口にする前に、陣を構成する円が一際強く光る。続いて内側の菱形が瞬き、最後に三日月の紋様が輝いた。魔力がないタルトでも分かる。魔法陣が復活したのだ。

 

「しかし、どうして」

 

 その問いを発するタルトの目へと飛び込んできたのは、エイミの膝頭に滲んだ血だった。タルトはそこでようやく理解した。

 

「そうか。魔法陣を再起動させる鍵も血だったのか」

 

 魔術の行使には発動条件というものがある。一定の条件化の下でしか、発動できない魔術はそれだけ高い効力を持っている。一瞬で距離を移動できる移動魔術に制限を加えれば、相手が使用済みの魔法陣から追撃してくる心配もない。その上、発動条件を自分しか知らないのならば魔術痕を悟らせることもない。

 

 魔力を失った魔法陣はただの紋様に過ぎないからだ。発動条件を満たせば、それは再び魔力を湛える。今、移動用の魔法陣はエイミの血によって魔術発動の条件を得た。

 

 中央にばら撒かれた種が小刻みに震えている。魔力に反応しているのだ。種は魔法陣に込められていた魔術の波長を読み取り、種の内部へとそれは魔術痕として記憶される。赤い光が潮のように引いてゆく。魔法陣から魔力が失せようとしているのである。あちら側から強制解除しようというのか。

 

 それとも魔法陣の効力自体が薄れているのか。今まさに、魔法陣が消えようとしたその時、種が音を立てて割れた。発芽した草木が、蔦となり魔法陣に一瞬にして絡みつく。内側から徐々に消えかけていた円が、菱形が、三日月の紋様が蔦に触れた箇所から固定化されてゆく。医師は目を見開いてそれを見つめていた。

 

 エイミも魔法陣から離れてタルトの隣でそれを見ている。二人とも自分の目が信じられないとでも言いたげだった。タルトもそうだ。まさか、このような形で敵の魔術を捕捉するとは思いもよらなかった。蔦が完全に絡みつき、消えかけた魔法陣を床に留める。消えていた魔法陣を繋ぐ線が蔦によって再構築され、円と菱形と三日月が再び赤い光を湛えてその場に佇んでいた。タルトはまだ驚愕から抜け切れていない医師へと命じた。

 

「オッチャン。オレを起こしてくれ。そんでもって、背負って魔法陣の中央に立って欲しい。今ならば多分繋がっている」

 

 医師はタルトへと目を向けた。冗談だろう、とその眼差しが告げる。タルトは真っ直ぐな瞳を返した。伊達や酔狂ではない。プラムを取り戻し、メイアとエイミを救う。その強い意志を湛えた眼に、医師は黙ってタルトの身体を起こした。まだ、まるで力が入らない。この状態で向かっても、何もできないかもしれない。だが、この場で何もしないという選択よりは随分とマシだ。

 

 ――それに、もうあの日々には。

 

 胸中に口にする。全てを諦めていた毎日には戻りたくない。ねだるのではない。自分から未来を勝ち取りにゆく。そのためならば安息はなくてもいい。医師がタルトを背負おうとすると、エイミがタルトへと振り返って言った。

 

「エイミも行く」

 

「駄目だ。ここで待ってろ」

 

 オッチャン頼む、とタルトは医師に囁く。エイミは医師の真ん前に立って、袋を片手に強く握ったまま叫んだ。

 

「エイミだって、プラムお姉ちゃん、助けたいもん!」

 

「足手まといだって言ってんだよ。ガキ連れて行っても、オレは守れねぇ」

 

「エイミ、自分のことは自分でするから」

 

「殺されるかもしんねぇんだぞ」

 

 タルトは語気を強めた。エイミが声を詰まらせて、口をへの字にして俯く。言いたいことがあるのは分かる。自分だって足手まといだ。誰かの補助があっても歩くことすらできない。こんな状態では敵の魔術師を倒すことなどかなわないかもしれない。

 

 ――それでも、動かないで後悔したくない。

 

 タルトは医師に歩き出すように言った。エイミの横を通り抜ける瞬間、エイミは医師の足に身体ごとぶつかった。医師がよろめく。タルトは医師の背中から振り落とされそうになりながら、足元のエイミへと喚いた。

 

「いい加減にしやがれ! ガキの遊びじゃねぇって言ってんだ!」

 

 その言葉へとエイミは顔を上げて負けないほどの大きな声で喚き返した。

 

「エイミだって、遊んでいるわけじゃないもん!」

 

 予想していなかった声に、タルトは黙した。医師も何も言わずにエイミを見下ろしている。エイミは医師の足から離れて、袋で涙を拭いながら何度も嗚咽を漏らした。

 

「……遊んでいるわけじゃ、ないもん。エイミだって、どうしたらいのか分かんないよ。でも、悪いやつをやっつけるんでしょ? その悪いやつが、エイミやお母さんをあんな風にしたんでしょ? だったら、エイミだって許せないよ。お母さんはすごく苦しかったし、エイミも苦しかった。お父さんも毎日大変そうだった。だから、許せない」

 

 タルトは言葉を返そうとして、それは発する前に霧散した。ガキの理屈だとか、小さい世界の話だとか、いくらでも言いようはあっただろう。だが、それでも突き放す言葉を選べなかったのは、エイミの苦しみの一端でも理解できたからだ。それはまるで指に突き刺さった細かいガラスの破片のように、じんわりと傷に沁みる言葉だった。

 

 かつての自分も許せなかった。両親を憎みさえしていた。だが、それ以上に自分が憎かった。何もできずに、ただその場にいるだけで大勢の人たちを不安にさせてしまう、自分という存在が。

エイミは、自分という存在に踏ん切りをつけたいのだ。

 

 エイミもまた、自分と同じ苦しみを身に沁みて感じている。望んだわけではないのに、幼い身には重過ぎる十字架を背負わされている。ここで助けに行くために行動しなければ、エイミはいつまでも弱い自分を引きずることになってしまう。それはかつての自分にプラムの救いがなかったようなものだった。自分は、誰かを救うと決めたのではなかったか。それは単に身体の苦しみから救うのではない。心の底の苦しみを取り除くことこそが、真の救いなのではないか。

タルトは目を閉じた。静かに呟く。

 

「オッチャン、オレをガキに背負わせてくれ」

 

 医師が肩越しに振り返った。本気か、と問いかけている。タルトは朱色の瞳を開いて、強く頷いた。

 

「こうなりゃ、仕方がねぇよ。ガキ。自分の身は自分で守れ。オレが守ってやれる保障はねぇ。それよりも、オレが足手まといになっちまうかもしれねぇ。今のオレにはてめーと同じくらいのガキを倒すほどの戦闘能力もない。それでも、行くか?」

 

 包み隠す必要はない。自分の弱さも全て話した。エイミは袖で涙を拭って、首肯した。タルトは医師に、「頼む」と言った。

 

「オレらを信じてくれ。無茶なお願いをしていることは重々承知だ。だけど、行かなきゃなんねぇんだ」

 

 医師はタルトの目を見つめた。濁りのない、純粋な宝石のような朱色の瞳が今は決意の光を湛えている。それを確認した医師は、一言だけ口にした。

 

「死ぬんじゃないぞ」

 

 タルトは「当たり前だ」と返す。医師はエイミへとタルトを背負わせた。エイミがしっかりとタルトの身体を掴む。思ったよりもある力強さに、タルトは冗談めかしたように「おいおい」と言った。

 

「ガキのくせに気負うんじゃねぇよ。……そういや、お前いくつだっけ?」

 

「十三歳だよ」

 

 そこでタルトは目を見開いて驚き、察したように、「ああ」と口にした。

 

「そうか。オレと一歳しか違わねぇんだな」

 

 エイミは肩越しに笑いかけた。タルトもそれに笑みを返した。先程の喚き合いを聞いた従業員たちが壁に隠れてこそこそと見ている。医師が従業員たちから隠すように立って、振り返った。

 

「行きなさい」

 

「ああ。行ってくるぜ」

 

 エイミはタルトを背負って、魔法陣の中へと入った。赤い光が二人を包み込み、一瞬の間にその姿を消し去っていた。

 

 魔法陣を構築していた蔦が音を立てて切れる。赤い光が消え失せ、静寂が部屋に降り立った。医師が魔法陣へと歩み寄り、その上に足を乗せる。最早、魔法陣はただの血で描かれた紋様と化していた。

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