モノクロマギア   作:オンドゥル大使

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第十五話 抗いの只中で

 

 赤い光に包まれた瞬間、重力が反転し、頭が上下どちらを向いているのか分からなくなった。

 

 次いで襲ってきたのは浮遊感だ。手足は動かないのに、感覚だけは一丁前にあるものだから、恐怖というものはより増加する。エイミから振り落とされて、離れ離れになってしまわないかということや、もしかするとこの移動魔術自体が罠で、移動時に身体が磨り潰されてしわまないだろうか、などという嫌な予感ばかりが脳裏を過ぎった。だが、それらが杞憂だということは足をしっかりと掴んでくれているエイミの手の温度で感じさせてくれた。

 

 確かな熱を持った人の手。心のある人間だけが持つ温かみが、不安で凍りつきそうだったタルトの心を和らげる。その温もりに、全てを任せようと緊張した顔の筋肉を緩めかけて、突然首筋に差し込んだ冷たい風にびくりと肩を震わせた。

 

 だが、肩まで神経は伝達せずに、タルトは顔だけを硬直させてエイミと共にその場に重なって倒れた。エイミがタルトの下で「イタタ……」と顔を上げる。タルトは仰向けに倒れていた。どうやら移動魔術の影響で、少しバランスを崩したらしい。身体を起こそうとするエイミへとタルトは声を差し挟んだ。

 

「待て。ここは……」

 

 エイミがタルトの下で身体を縮めさせて、亀のように首だけを右往左往させる。どこなのか、分かりかねてエイミは尋ねた。

 

「どこなの?」

 

「多分、敵のアジトだ。オレたちは遂に踏み込んだってわけさ」

 

 タルトの眼には低い天井が映っていた。パイプが織物のように天井と壁へと縦横無尽に重なっている。排気口が低い唸りを上げていた。怪物の声のように聞こえたのか、エイミがタルトの下で小刻みに震える。タルトは声をかけた。

 

「怖がるな。敵の喉元なんだ。危ないのは事実だが、同時にオレたちはそのいけすかねぇ喉笛を掻っ切れるだけの位置にいるってわけさ。まぁ、とりあえず」

 

 起こしてくれ、とタルトはエイミへと頼んだ。エイミはまだ怖がっているのか、くりくりした大きな目を不安そうにきょろきょろさせつつ、タルトを背負い直した。タルトは首を巡らせる。闇に慣れてきた目で周囲の様子が分かってきた。部屋全体を覆うように、紫色の布が所々にあった。一方の壁から、反対側の壁へと布が渡されている。その上には大小様々な水晶玉が転がっていた。床にもあり、幾つかは紫色に輝いている。エイミが怖がっていたのはこれか、と合点したタルトは背後へと目を向けようとして、エイミへと言った。

 

「振り返ってくれ。オレの首は百八十度も回らないからな」

 

 エイミがその声に従って、振り返る。

瞬間、息を呑んだのが分かった。タルトも目を見開いて、神経に信号が伝達しないにもかかわらず全身の血管が収縮し、総毛立つのを感じた。思わず悲鳴を上げそうになる。タルトがそれを寸前で飲み込むと、代わりのようにエイミが叫んだ。

 

 部屋の隅にあるベッドの上に見えたのは、まず丸太のような足だ。それが前に突き出している時点で、人間ではないと断定した。次に細かい毛が無数に生えている割れた顎が視界に入る。四分割された顎だった。その上で光るのは二列ずつで八つ並んだ眼だ。紫色の光を複数放つ視線に、タルトとエイミは雁字搦めにされたように動けなくなっていた。がさがさと長い前足がベッドの上のシーツを踏み、後ろの六本の足がそれに追随するように動く。

 

 エイミの悲鳴を聞いて意味を理解したかのように、鋏のような構造の口を開いて威嚇した。それには思わずタルトも縮み上がったほどだ。

そこにいたのは巨大な蜘蛛だった。タルトとエイミの身長を足しても、まだ有り余る大きさである。今朝に見た蜘蛛の使い魔とはまるで次元が違った。エイミが一歩、後ずさる。蜘蛛は二列八つの眼で、二人を凝視した。

 

 舐めまわすような視線に、タルトはその奥に元凶の魔術師がいることを察知した。だが、今朝のようなことはできない。今はプラムの魔力の供給もなく、櫂を出せる状態ではない。タルトには分かる。まだ、プラムの魔力供給圏外なのだと。この領域に留まっている限り、自分たちは死を待つしかない。それにしても、とタルトは思う。移動魔術で飛んできたのならば、ここは敵の本拠地ではないのか。周囲へと目を配るが、プラムの髪の毛一本落ちていない。まさか、もう既に別の場所に移動したのか。大いにあり得る話だった。

 

 蜘蛛がまた前足を蠢かせて近づく。エイミがまた悲鳴を上げそうになるのを感じて、タルトは耳元で囁いた。

 

「落ち着け。まだ様子見をしている。すぐに殺すつもりなら、移動魔術でここに来た時点で殺しているはずだ」

 

「でも、でも……」

 

 エイミは歯の根が合わないようでガチガチとさせながら肩越しにタルトを見やった。目の端にはもう涙が浮かんでいる。タルトは強く言った。

 

「いいから。落ち着けよ。オレらが取り乱すと、あれを操っている奴が調子づく。そうなれば、余興か何かで殺されかねない。いくらオレが軽いからって、自由に動き回れるほどじゃないはずだ。それを悟らせちゃ、ならねぇ。先に動いたほうが、相手を嘗めてる。そういうことになって、確実に標的にされる」

 

「もう、されているんじゃないの」

 

「違う。逆に考えろ。あいつはただ巨大なだけだ。使い魔に知恵は必要ない。脳に当たる部分がないんだ。操っているのは確実に魔術師、つまりオレらの敵だ。そいつに油断や隙を見せることが、屈服することだと考えろ。オレたちのなすべきことは、一つ。ただ、相手を恐れないことだ。そうすれば、あの恐ろしい巨大蜘蛛越しにいる、しょぼい三流魔術師は恐れをなす。いいか? オレたちが奴を怯えさせるんだ」

 

 精神論だ。エイミのような魔術師の考えの分からない人間からしてみれば、単純に形が不気味で威圧的であればそれは恐怖へと繋がる。だが、恐怖してはならないのだ。

 

 プラムから聞いたことがある。魔術師が相手を殺せると判断するのは、相手が恐れた瞬間だ。恐怖こそが、どんな鋭利な刃で戦うよりも、恐ろしい兵器を使うよりも確実に相手の命を奪うことのできるものなのだ。それは相手の内側から生じる。魔術師はその感情を刺激するだけの材料を作ってやればいい。だから、霧を出す魔術や幽霊のような声だけの存在を召喚する魔術などが枯れずに残っているのだ。恐怖という、最大の弱点を引き出すために。目の前の蜘蛛もその一つに過ぎない。だから、敵を怯えさせればいい。

 

 ――ただ。この状況では。

 

 タルトは歯噛みした。皮膚から伝わってくるエイミの震え。圧倒的不利にあるのはこちら側だ。自分は動けないし、エイミも戦える力はない。

 

「どうしてだ。移動魔術でここまで来たのに、プラムがいないんじゃ」

 

 無力だ。出かけた言葉を寸前で飲み込むが、エイミには分かっているだろう。プラムがいるのならば、タルトはすぐに動けるはずだった。だが、いくら力を込めても神経に意識を通しても指一本動かせない。

 

 蜘蛛が口を開いて、何かを飛ばした。粘液のようなものだった。それがエイミの顔にかかる。エイミは手で粘液に触れた。紫色に光る水晶玉の光で、その色が分かる。それは人の血の色だった。

 

 瞬間、弾かれたようにエイミは叫び遂に蜘蛛に背を向けた。タルトが、「おい! 逃げんな!」と叱責しても、その声はエイミにはまるで聞こえていないかのようだった。続いて、蜘蛛がエイミの背中を追って動き出した。蜘蛛が降りる直前、ベッドが僅かに軋んだ。

 

 その音で、タルトはやはりこの蜘蛛にはほとんど力がないことを感じ取る。大きさに対して質量が少ない。それはつまり中身まで精巧には作られていないということだ。先程の血のような粘液も、恐らく一回出すくらいが限度だろう。エイミの恐怖心を煽るには、それでも充分だったようだが。急造品か、とタルトは当たりをつける。自分がここに来るのを感じて、蜘蛛を置き土産にして立ち去ったのか、最初から用意されていたのか。

 

 ――どちらにせよ。

 

「……ここで動かないで、どうすんだよ」

 

 苦々しくタルトは呟いた。動けない身体をこの時ほど恨めしく感じたことはない。エイミは走っているが足は遅い。いつ足をもつれさせて転ぶか分かったものではない。対して、蜘蛛は質量のない分、動きは素早かった。壁に身体を近づけると、先端が鉤爪のようになっている足を利用してパイプへと飛び移った。パイプを足場にして、壁伝いに追い詰めようというのである。タルトは振り返って確認する。蜘蛛の質量が乗っかっても、パイプは折れない。

 

 やはり密度は低い。動けるならばフェイズ1でも倒せる可能性は充分にある。だが、プラムがいなければそれさえもかなわない。蜘蛛が壁を走り出す。エイミが短く悲鳴を上げ、走る速度を速めた。だが、それでもこの場所では意味がない。五〇マルティールもない部屋では壁を使って三次元的に攻めてくる敵のほうが有利だ。がさがさと忙しくなく動く足音が背後に迫る。エイミはもう息を切らしていた。もう五歩もしないうちに部屋の端に至る。タルトは叫んだ。

 

「方向転換しろ! 追いつかれているぞ!」

 

 エイミが慌てて足を止めて、身を翻そうとするも蜘蛛のほうが速い。壁伝いに回り込んできた蜘蛛が道を遮った。牙を剥いて威嚇する蜘蛛に気圧されたように、エイミは後ずさった。タルトは首を横に振り、

 

「逃げんな! こいつにはオレたちを殺せるだけの力はねぇ!」

 

 エイミに呼びかけるも、咽び泣くように声を詰まらせて、「でも、でも……」と呻いた。

 

「そんなの分からないじゃない。食べられちゃってからじゃ分からないじゃない! イヤ。もう、こんなの――」

 

「だったら!」

 

 タルトの声がエイミの泣き言を遮った。エイミが肩越しに振り返る。タルトは朱色の瞳に強い意志を宿して言った。

 

「だったら、オレを差し出せ。そうすりゃ、食われねぇって証明もできるし、その間にお前も逃げられる」

 

 タルトの言葉にエイミは戸惑ったように何度か喉の奥から呼吸音と大差ない声を漏らした後、

 

「でも、それじゃお姉ちゃんが」

 

「オレは、戦いに来たんだ。逃げているんじゃ埒が明かねぇし、そんな場合でもねぇ。こいつに立ち向かうのが、オレの役目だ」

 

「でも、そんなこと、できないよ」

 

「やるんだ。やらねぇと、消耗戦を続けるだけだぞ。最悪、あいつがオレを食えたとしても、その隙に逃げられるだけの時間は作れる」

 

 タルトは蜘蛛の背後にある扉を見やった。エイミが、「それでも」と首を横に振る。目の端から涙が零れ落ちて頬を伝った。

 

「……できないよ。無理だよ」

 

「オレとは今日会ったばかりだろ。情なんて感じる必要はねぇ」

 

「でも、お姉ちゃんはお母さんとエイミを助けようとしてくれたじゃない」

 

「オレの自己満足だ。そんなことを気にかけている場合じゃねぇ。来るぞ」

 

 タルトの言葉でエイミは前を向いた。蜘蛛が壁から飛んで二人へと覆い被さろうとしていた。エイミは慌てて身を引く。蜘蛛の前足の鉤爪がタルトの服に引っかかった。タルトとエイミが引き剥がされ、エイミは床に倒れた。身を起こしながら、ハッとして蜘蛛へと目を向けるとタルトが蜘蛛の下敷きになっていた。思わず叫ぶ。

 

「お姉ちゃん!」

 

「今だ、逃げろ!」

 

「置いていけないよ。早く逃げて!」

 

「んなこと言ったって、動けねぇよ。オレはもうお荷物だ。早くしろ」

 

 蜘蛛が前足二本を用いて器用にタルトを持ち上げた。後ろ足六本で反り返って立ち上がる。それは人がちょうど飲み物を飲む時に首を反らせる様に似ていた。タルトが蜘蛛の顔を見下ろす。紫色の眼がタルトの視線を返していた。その奥に、タルトはどす黒い魔術師の姿を見た。そう遠くない場所にいる。だが、それでも届かない。舌打ちが漏れる。どうしてこんなにも無力に生まれついてしまったのか。蜘蛛が口を開く。底が見えない。奈落へと通じているかのようだった。

 

「食うのか?」

 

 虚勢か、それとも防衛本能か。引きつった笑いがタルトの頬に浮かぶ。瞬間、蜘蛛の口が裂けた。バナナの皮のように裂けた皮膚がそのまま巨大な顎へと変化する。タルトの身体が蜘蛛の前足ごと、無辺の闇を湛える口の中へと投げ込まれた。

 

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